真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の歴史修正主義と「歴史とは何ぞや」(ベルンハイム)

2021年07月05日 | 国際・政治

 安倍前首相がオリンピック開催に関し、”歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している”と語ったことが報道されました。いわゆるネット右翼と一体となったようなこうした発言が、オリンピック開催に否定的な医療従事者や感染症の専門家に対する脅しに近い主張や、現実の脅しを生み出しているのではないかと思います。
 そして、そうした安倍前首相の言動の影響は、強引なオリンピック開催のみならず、あらゆる領域・分野で深刻な状態にあると、私は思います。
 先だって、大村愛知県知事のリコール署名偽造事件で事務局長らが逮捕されましたが、それらも、安倍前首相をはじめとする自民党政権の、いわゆる従軍「慰安婦」問題に対する姿勢に影響されていると思います。現状は、従軍「慰安婦」問題について話し合ったり、議論しようとすることはもちろん、戦地の実態をふり返ることさえ、脅しの対象になっているように思います。
 「表現の不自由展」で展示された「平和の少女像」は、日本では右翼の抗議が起こる恐れがあるという理由で、公共の場所での展示が難しくなっています。表現の機会を奪う事態が相次ぎ、由々しき事態だと思います。
 でも、「表現の自由」が保障された日本で、堂々と表現の機会を奪うようなことができるのは、安倍前首相をはじめとする自民党政権中枢が、戦後の日本を受け入れず、かつての戦争指導層の思想を受け継いで、歴史を修正しつつあるからだと思います。

 その歴史の修正を代表するような百田尚樹氏の「日本国紀」については、すでに二回取り上げ、”「日本国紀」は「歴史書」すなわち「The History of Japan 」ではなく、百田尚樹氏の思いを込めた受け止め方によって歴史をとらえ、創作された日本の歴史「物語」すなわち「The Historical tale of Japan」であると思うのです。”と、私は結論づけました。
 その「日本国紀」に関連して、『「日本国紀」の副読本』百田尚樹・有本香(産経セレクト)という本が出されていますが、その中で、百田氏と有本氏は、「日本国紀」が、予約段階で、何日間もアマゾンの本全体のランキングトップを記録したことを、誇らし気に語り合っています。影響力の大きさを示しているのではないかと思います。
 すでに、何人かの著書をとり上げてきましたが、日本の知識人の多くも、何かといえば、「自虐史観」や「東京裁判史観」という言葉を口にして、戦後の日本を批判し、歴史の修正に加担していると思います。戦後の日本を否定し、歴史を修正するような本の出版も相次いでいます。

 だから私は、基本的なことを確認すべく、「歴史とは何ぞや」ベルン・ハイム著・坂口昴・小野鉄二訳(岩波文庫)の重要部分を抜萃することにしました。同書の中に、
この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。
とあり、
訳者の「緒言」に、下記のようにあるからです。
”この書の内容価値は、ただにドイツばかりでなく、他の欧米諸国からも、ひろく認められている。およそ初学者の史学に入ろうとするものを導き、かねて一般知識階級の歴史的教養に資する書物で、これほど簡にして要をつくし、親切にして繫縟(ハンジョク)でないものは、いまだ他に見当たらない。ことに理論となく実際となく、いやしくも歴史に関するほとんどすべての方面を網羅し、それらの各部門に入るの道を啓示して、青年学徒をして進路を誤らしめないのは、本書独得の使命として、もっとも推賞に値する。
 翻訳文独特のわかりづらさがありますが、「歴史」に関してきわめて重要なことが書かれていると思います。

 現在、「歴史」が、社会科学(日本では人文科学に分類されることが多いようですが…)の一分野に位置づけされていることや、歴史学の発達過程に関する国際社会の常識を無視するような日本における歴史の修正は、日本の将来を危うくし、若者をトラブルに巻込んで不幸に陥れることになると、私は思います。歴史に関する記述は、きちんと歴史学の基本を踏まえ、客観的な事実に基づいていなければならないと思います。
 再び、日本を野蛮国に転落させるような、ネトウヨの跋扈や神話を史実とするような歴史を許してはならないと思うのです。
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            第一章 史学の本質および職能

              第一節 史観の発達
 ・・・
 歴史的知識とそれに相応する叙述法との発展には、三つの主要階段を分ち得る。これらの階段は本質的にはただいま示した一切の知識の発達における階進に相当するものである。すなわち物語りしあるいは数え上げる階段と、教訓的あるいは実用的階段と、発展的あるいは発生的階段と、この三つがそれである。
一、物語風歴史(erzahlende Gesch.) 
 この階段では、その事に関心を有する範囲で、歴史的素材をその所と時との順序で物語りあるいは数えあぐるをもって満足する。素材に対する関心はさまざまな方向に向けられ得、かつそれに応じて種々の再現の形式が生ずる。もっとも古いのは、顕著数奇な人の運命や冒険に対する美的興味であろう。これに応じてかのなかば伝説的なかば歴史的な歌謡や史詩がある。これは民族史の初めに逢着するもので、たとえばランゴバルドを始めその他のゲルマン部民の移動伝説や国王伝説のごときである。聴く者の知識程度にとっては、よしやそれがホーマーの史詩、ニーベルゲンの伝説、Cid 譚のような作品であっても、歌になった歴史にほかならない。また、名聞欲や重要と思う人物、所行、事件を記憶に存したいという願望が、他の記述を生ぜしめる。アッシリア人やエジプト人のかの最古の歴史はそうしてできたものである。主権者の栄えある功業を数えあげている。東方諸国、ギリシャ、ローマにおいて金石または木材に刻んだ条約、戦勝、法律の記録もまたそうしてできた。かようなものはすでに、一層冷静で実際的な関心と相触れるところがある。ここに実際的関心とは、宗教、祭祀、政治上の目的のため、ある事項を確保しこれを安全に後世に伝えようとすること次の諸表におけるがごときをいう、── 種々の国王表、官吏表、氏族表、中世の諸暦、教会監督、律院庵主表。

 民族が違えば、歴史に対する感じや歴史的素材再現の才能の発達もはなはだ相違する。高度の文明を有するにかかわらず原始的形式の階段に立ち止まり、実に形式さえ不充分に発達させたに止まる国民も多い。たとえばインド人のごときこれである。しかるに他の諸国民は、物語風歴史を発展させ、その形式をいっそう豊富完全にしていっそう高い階段へ移る道を拓いた。ギリシャ人やローマ人は第一にこれである。すでにHerodotos はギリシャ人とペルシア人との戦争を紀元前440年頃に叙述して物語風歴史の模範的な作品を創ったので 、「歴史の父」と称せられたのはもっともなことである。また官吏の表や表のようになった心覚えから、初めはギリシャ人、次にローマ人の間に詳しい年代記や時代記が発展し、着眼や関心がますます事件の内的関連や動機に向けられるようになった。

二、教訓的あるいは実用的歴史(lehrhafte od. Pragmatische Gesch.)
 この見方を最初に意識的、模範的に代表したのは、アテネの人 Thukydides (前460頃─400頃)のペロポネサス戦史である。彼の明言するところによれば、その著作の役立つべき点は、過去の事物について明確な観念を与えること、したがってまた人事の進行にともなって同様にまたは類似して起るかもしれない事物について明確な観念を与えることにある。ゆえに彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、かつすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから、右は可能であるし理由もることだと説いている。これで彼はこの教訓的階段の特性を示すこと特徴的である。「プラグマティッシュ」なる用語はPolybios(前210頃──127頃)から採ったもので、彼はその世界史において同じ立場をとっている。もっとも彼は「実用的歴史」なる用語で自分の立場を言い表してはいず、彼の叙述が国事(・・・ギリシャ文字)に関するかぎりにおいてそう名づけているのである。この階段の歴史認識は、その実用的傾向に従い、事件を決定する心理的衝動すなわち個人が一般に抱く人間的な動機や目的に向けられ、行動する人物の情欲や思慮から一切のものを解釈しようと試みる。実にこの歴史認識の叙述は右の点を強くめだたしていることしばしばで、その特徴は、人物の動機や目的に関する熟考、著作者が現在に対してそれを応用すること、および判断に道徳論や政治論がはいる点にある。かく素材の内的原因や条件を深く究めることによって、まったく本質的な一進歩が起こったにしても、なおこの実用的歴史はわれわれにとっては明白な大欠点をもっている。すなわちこのものは心理的動機の観察に偏し、研究叙述者が人間のこれら動機について有する観照によって直接左右され、また彼の教示する目的に依存するが、この目的はとかく道徳的、政治的、ことに愛国的傾向をとりやすい。また一切を個人の衝動から解釈しようと望むため、ややもすれば偶然かつ主要ならぬ動機を過重するに至り、かくてついに君主や民族の運命さえ一人の奥女中の陰謀に制約されるように思われてくる。しかして実用的歴史は、ある文化民族のうちに個人的意識すなわち主観性が勃興する場合に現れるのが常である。それはまずギリシャに栄えた。すなわち前の階段の既存の形式たる年代記や時代記を利用し、さらに伝記や回想録のような新形式で表された。ついでローマにおいてアウグスツス時代以後とくに行われ、その模範的代表たる Tacitus (後55頃──117頃)の諸著作を出した。その後衰えてゆく古代文化のうちにあっても実用的歴史は勢力を有し、部分的には前述の弱点を示している。中世になっては、一部は物語風、備忘録的歴史という最低階段に沈降し、一部はローマの編史のすでに形成されたものをとり、しかもこれに新しいキリスト教の観照が入り込んでいる。この観照が入り込んだことは、すぐあとで説明しなければならないように、発生的歴史認識の最初の力強い萌芽を意味する。ついで、実用的歴史は、独特の新鮮さを見せて栄える。それはヨーロッパの諸民族が自覚を高めてその国民的特性を完成し始め、母国語を文学上に用いて親しく体験した事柄を直接表白した時代である。個人の権力や勝手気儘が政治上運命において決定的に有力なため、歴史上事件の経過が事実上個人の動機や目的によって制約されるように思われる時代なり所なりには、実用的歴史がきわめて繁昌するものである。まずフランス人にあっては第十三──十七世紀の回想録や回想録風の時代記となり、次に第十四世紀以後イタリア人にあっては小僭主(センシュ=血筋によらず実力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となった者)たちの朝廷と党争で四分五裂の自由国との時代記となり、最後にドイツではとくに第十七、八世紀の小国分立状態の下に、実用的歴史が盛んなのはすなわちそれである。こういう場合には歴史は端的に事件の知識であると定義され、この知識から、政治生活において何が有用かまた有害か、いったい何が善い幸福な暮しに役だつかを学ぶものだと考えられている。しかもこれとならんで、いっそう高く広い歴史把捉に達する先行条件が、次第次第に成立しかつ有力となった。しかしてついに第十八、九世紀の交に当り、右の把捉が出現したのである。

三、発展的あるいは発生的歴史( entwickelnde od. Genetische Gesch)
 この階段において初めて、歴史的知識は真に一個の科学となった。何となればここに初めて、特性的に因果関連する諸事実の特殊な領域としての素材の純粋な認識が目標とされたからである。すなわちそれぞれの歴史現象はどういうふうに生成してその時代にそういうものになったか、またそれがさらにいかに作用したかということを知ろうと思うのである。〔発展〕というのは、かく作用が相関連するという中立的な意味である。
 この階段にこうも遅くなってやっと到達したことは、不思議に思われるかもしれないが、しかし容易に説明されることである。そもそも発展の概念は今日われわれにはかくまで自明と思われるが、人の精神に生得のものではけっしてない。人事を発展の産物として、すなわち内外諸原因が一体になって作用する関連においてこれを把捉するには、精神文化総体がことに高度であることが必要であり、そのためにまず発達していなければならない精神上の先決条件は一に止まらない。まず人の本性の単一なことに関する観照が存しなければならない。何となれば、相関連して発展すると考え得るのは、一体として観られたものに限るからである。いかにも古代でもその文化の頂上にあっては、人類は一体であるという観念が欠けてはいなかった。しかしその観念は充分内面的かつ深刻でなかったため、人類の文化共同体という効果ある表象には到達しなかった。しかるにキリスト教が、神の子としての全人類の連帯という生気ある思想を初めてもたらした。けだし神の子としての人類は、堕落、贖罪、最終世界審判という共通の運命によって結ばれあっていると考えるのである。中世の史観はこの思想を終始顧慮していたから、それが古代の史観にくらべて観念上進歩したことは認めてよい。しかしもちろん観念上傾向においてだけである、というのは、右の宗教的思想は超俗的事物に関心をもつという強力な標準を立てているから、その前へ出ては有為転変の俗界の存在は萎縮して空となりほとんど注意するだけの価値もないものになるからである。実にたとえばローマ人とゲルマン人と、どちらが歴史の舞台を占めようとかまわない、ただ神の国の拡張と栄えとを図るために、帝国が存続さえしてゆけばよいと思われた。それだけに中世が第二の観照に到達するのはなおさら容易ではなかった。この観照は発生的考察法にとって一個の先決条件であるが、古代にも不充分にしかなかったものである。すなわち人間の一切の関係においてつねに継続的変化が行われているというのもこれである。中世の人々がこの事をしばしば看過していたのは、われわれの立場から見れば実にほとんど解し得ないことである。したがって当時の人々は、諸時代やそれぞれの文化が相異なることについて、まったく何ら確乎たる観念がなかった。たとえばフランク人をトロヤ人の後裔と考え〔ドイツの名族〕ウェルフ家〔Welfen、ラテン語ではCatuli〕をローマのカトー家(Catones)より出づとなし、きわめてかけ離れた諸時代の制度や法律をカール大帝のものに帰し、ドイツ国王の帝国僧職叙任権(Investitur)の根拠は古イスラエル王権の権能に発すと考えさえした。かようなことは他にも多くある。第十八世紀にもなおこういう多くの時代錯誤に逢着する。第三に人の種々の関係や活動が、相互の内的因果関連および交互作用の裡に立っているという洞察も、ようやくはなはだ徐々に発達した。この洞察はまた、政治上事件が経済状態や社会状態に影響すること、逆に宗教や芸術、科学が相互に、また国家、社会の他の諸事情と活発な関係があること、国土の気候や地勢が諸民族の性格や生業に影響することを認識するものである。古代でも最大の歴史家は、現実生活を活眼をもって見たから、すくなくとももっとも明白な作用影響はいかにも見誤らなかったが、中世ではこれを見る眼がほとんどまったくなくなり、これらの影響にようやく着眼するのは、近代に残された仕事になった。右の作用影響に注意し、これに基づいて初めて比較言語学、人種学などのような比較科学が可能となったこと、また人類地理学のような知識分科全体および広範な文化史がこうして初めて成立し得たことを考慮すれば、かかる新しい洞察をするようになったことが何を意味するかを、明らかに思い浮かべ得るのである。
 中世が終って以来、人の歴史の広範深刻な把捉に必要な一切の先決条件は、きわめてさまざまな方向から、精神文化および科学の一般的進歩と関連して次第に満たされた。こうして発生的把捉が勃興し来ったのは、第十八世紀の後半以来のことで、第十九世紀以来学界を風靡するようになった。この把捉法は当代の精神的根本観照とはなはだ密接に関連していたため、自然観察の領域へも応用され、いたるところその効果豊かな作用を及ぼして科学的研究を活発ならしめた。これと相伴って作業手段が拡大されて多くの影響を及ぼし、また作業方法(研究法)が発達してきた。これらのものは、のちに詳しく見るであろうように、総観照のそれぞれの階段に依存する。何となれば総観照、関心の需めるところや目標とするところが、本質的に人心を導いて必要な手段、方法に到達させるからで、他面新しい手段、方法の偶然の発遣さえ、その利用を心得ている総観照が現存している場合にかぎり、何らかの結果をもたらすわけである、近ごろ表現派的傾向と関連して、「総合」と個別研究とを対立せしめるがごときは、はなはだしく不合理である。なお参照すべきは、第二章末の文献記録と

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