真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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神社参拝の強要と終戦時朝鮮における昇神式

2021年07月21日 | 国際・政治

 1945年(昭和20年)8月15日正午に玉音放送があり、前日に決定されたポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表されて、帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発した直後、朝鮮では神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったといいます。
 その素早さに驚きますが、下記の抜粋文によって、その理由がわかるような気がします。

 朝鮮における神社の昇神と引揚に関する竹島朝鮮神宮権宮司や総督府祭務官高松忠清氏の、下記抜粋文にあるようなことばは、朝鮮における神社信仰が、本来あってはならない強要に基づくもので、朝鮮人の信仰心に基づくものではなかったことを物語っているのだと思います。特に、”神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと”を、自ら昇神の理由の一つに挙げていることは、見逃せません。
 また、”神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった”との説明も、やはり朝鮮における神社信仰に無理があったことを物語っているように思います。

 下記の、
” 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 という文章は、そうした実態を裏づけるものではないかと思います。多くの朝鮮人が、強いられた神社参拝に不満を抱きながら、我慢を続けていた証しなのだろうと思うのです。
 だから、神社の破壊や放火に関して、著者・森田芳夫氏が
神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。
 と認めていることは、重大であり、われわれ日本人が忘れてはならないことの一つだと思います。

 下記は、「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」森田芳夫著(厳南堂書店)の「第三章 終戦時の朝鮮」から「四 神宮・神社の昇神式」を抜粋しました。
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              第三章 終戦時の朝鮮

              四 神宮・神社の昇神式

1 朝鮮における神宮・神社
 終戦によって、朝鮮が混乱におちいったときに、総督府当局がもっとも心を配ったことの一つに、天皇皇后両陛下のお写真と神社がある。朝鮮統治は、その究極の理想として、朝鮮民族の「同化」「皇民化」を掲げた。したがって天皇皇后両陛下のお写真と神社の尊崇は絶対的であり、とくに戦争中の行事に、その儀式が尊重された。終戦の年に、全朝鮮に官幣社2(朝鮮神宮・扶余神宮[扶余神宮は造営中であった])国幣小社8(京城・全州・光州・大邱・龍頭山[釜山]・平壌・江原[春川]・咸興)一般神社69、神祠1062を数えていた(表略)。朝鮮神宮参拝者は、日華事変以後急増して年間二百万名を越え、十七年の参拝者数264万8365名、一日平均の参拝者数は7千名を越えた。
 八月十五日の夜、平壌神社が放火されたのをはじめとし、相ついで各地の神社・神祠が破壊・放火された。さきにあげた総督府の統計によると、八月十六日から八日間に、神祠・奉安殿に対する破壊・放火は136件におよんでいる。これは警察官署に対する襲撃・占拠・接収・要求など149件にほぼ匹敵する数字で、行政官庁に対する暴行件数よりも多い。
 過去に幾度か朝鮮内に起こった民族運動において、学校や警察署に放火されることはあっても、神社が焼かれたことはなかった。終戦とともに神社が焼かれたことは、学校や警察署とは異なって、神社が朝鮮人にとって今後利用価値のない施設であると考えられたからでもあろうが、根本的な原因は神社参拝が朝鮮人にとっては民族弾圧と考えられ、その不満が神社や奉安殿に向けられた点もあったといえよう。しかし、そのことの日本人に与えた精神的衝撃は大きかった。

 2 朝鮮神宮の昇神式
 八月十六日の午前、朝鮮神宮の額賀宮司・竹島権宮司、京城神社の仲宮司は、総督府の本多地方課長のもとに集まり、神宮・神社の件について協議した結果、全朝鮮の神宮・神社の昇神式を行なうことを決定し、その日の午後から十七日にかけて、警務局の電話によって各道庁にその旨を通達した。咸鏡北道(ハムギョンプクド)だけは電話が通じなかった。神祠には、神職もいないので、そのままにしていた。
 昇神式とは、おまつりしている神霊にお帰りを願う儀式で、日本神道はじまって以来の行事である。朝鮮神宮において、行なわれた昇神式について、権宮司竹島栄雄氏の報告の一節を転記する。

   終戦に伴う前後措置に関する報告
 御神儀
  終戦によって生ずべき事態の変化に対処し、御神儀の御措置に関し、左の二方法が考えられたり。
 (一) 神霊の御昇神を奉仕する儀
 (二) 内地奉遷を奉仕するの儀
  而して、(一)の儀に関し、御霊代の措置に関し、左の四つの場合を考えたり。
(1)境内の一角を選びて土中申し上ぐるの儀
(2)海中に沈め奉るの儀
(3)御焼却申し上ぐるの儀
(4)宮中に御返納申し上ぐるの儀
 右の二案につき、二十年八月十五日、社内にて慎重審議をかさね、第一案第四項の儀、すなわち御昇神を乞い奉り、御霊代を宮中に奉遷致すをもって至当との結論を得たるも、ことの重大なるにかんがみ、翌十六日早朝、宮司出て、朝鮮総督の指示を仰ぐこととなし、総督・総監・地方課長・祭務官・宮司協議の結果、第一案第四項により、御措置申し上ぐることに決せり。すなわち、御鎮祭の儀を拝するに、御霊代は、宮中よりの御奉納にかかり、御正殿に御奉安の上、勅使御祭文を奏して、御鎮祭申し上げたるその先例により、これが逆の方途を講ずるをもって至当となしたる所以なり。
 右、祭儀を昭和二十年八月十六日午後五時斎行、宮司以下全員奉仕、朝鮮総督府官房地方課長本多武夫、朝鮮総督代理として、朝鮮総督府祭務官高松忠清を伴いて参列、無事終了、御鎮座二十年にしてここに御神儀の御遷座を乞い奉りたり。而して御霊代は、八月二十四日、京城飛行場発、飛行機にて宮内省式部次長坊城俊良に託し、宮中へ奉遷申し上げたり。
  御神霊御宝物
御鎮祭当初、大正天皇の特別のおぼしめしをもって、明治天皇御佩用太刀(銘正恒)一振を御宝物として御奉納、由来神庫に格納中なありしも、これまた宮中に御返納申し上ぐることとなし、八月十六日、京城飛行場発、飛行機をもって、陸軍中央通信調査部勤務陸軍大尉仙石正文に託し、宮中へ御返納申し上げたり。
 御神宝ならびに御宝物・御祭文・御調度等は、いっさい焼却し奉ることとなし、夜中を待ち、八月十九日より、焼却、八月二十五日をもって完了せり。

 御正殿ならびに儲殿の解体・焼却のことについては、のちにのべる。
 日本人にとって、神社は信仰の中心であり、「日本人のいるところ、かならず神社あり」といわれたものである。神社参拝は、国家・民族を越えた宗教的なものとして朝鮮人にも強要され、朝鮮人側にもごく少数であったが、純真な信者があった。しかるに、戦争が終わり、日本の武力放棄と同時に、神社がまっ先に昇神し、人民に先んじて引揚を行ったのは何故であったろうか。満洲や華中における神社が、居留民の最後に引揚まで奉祀された例とくらべて、考えさせられるが、その点について、当時の竹島朝鮮神宮権宮司は、第一に、暴行に対して神の純潔性を保とうとしたこと、第二に、満州や華中の居留民の神と異なり、朝鮮の主要神社は、官幣社・国幣社として国家的社格を持っていたこと、第三に、神社は宗教であるが、立場は一般宗教と異なり国家神道であったこと、第四に、神社は朝鮮の土地・住民に即した神を祀ったものではなく、日本内地から神霊をお移ししたものであったこと、第五に、天照大神の性格に国魂神としての性格はあったが、祭祀にあたっては、あくまで皇祖神としてお祀りっしていたことをあげ、当時の総督府祭務官高松忠清氏は、
「神の尊厳維持は国家の至上命令であり、その責任はあくまで国家にあった。神職は、官の命により神社を守るものであった。しかも神社を護持する信仰団体が朝鮮民間に結成されていなかったために、昇神式挙行の命を出さざるを得なかった」 
と説明した。

 3 各地の神社の昇神式
 総督府からの指示にもとづき京城神社は八月十六日午後三時に昇神式を行った。元山神社は十六日午後八時、江原神社は十七日午前五時、仁川神社は十七日、大邱神社は十八日夜、金北の裡里・全州・南原・大場・金堤神社は十八日、全南の順天神社は十七日、莞島神社は十八日、黄海道の海州神社は十七日、沙里院神社もそのころ、平南の鎮南浦神社は十七日、平北の江界神社は十九日、江原道の長箭神祠は十八日、それぞれ昇神式を行った。平北の満浦神社は八月十八日に昇神式を行い、神体を焼却した。馬山神社は九月四日、密陽神社は十月五日に昇神式を行った。
 ソ連軍が進攻した羅南では、八月十五日午前三時に、小沢芳邦宮司が羅南護国神社の神体を奉じて、羅南から十二キロ山奥の檜郷洞の山中に避難し、朝夕、戦勝祈願祭を奉仕したが、十八日夜、三洞嶺に深さ五尺の穴を掘り、御神体を収めた。その後、小沢宮司はさらに山奥に避難し、そのまま逃避行がつづいたので、神体を迎える機を失した。
 龍頭山神社(釜山)、仁川神社の神宝は、海中に沈めた。全州神社は、十八日の昇神式の際に、仮の焼却をして神宝を焼いたが、神体を裏の山中に移して奉仕を続け、十一月八日引揚の際に、米軍の許可を得て二等車に神体を奉じて、日本に持ち帰った。
朝鮮人の手によって焼かれたものとして、十五日夜に平壌神社、十六日に定州神社・安岳神社・温井里神祠、十七日に安州神社・朔州神社・寧辺神社・川内里神祠・載寧神祠、十八日に兼二浦神社・宣川神社・博川神社・小鹿島神社、二十一日に龍川神社、二十二日に熙川神社、新幕神社もそのころであった。新幕神社の神体は十七日ごろ氏子総代の手で焼却された。八月末に安東神社(慶尚北道)、九月二日に江界神社、九月七日に海州神社などの焼かれた報告がある。長淵神社は八月二十日ごろ在住民と日本軍の手により焼却し、夢金浦神祠・苔灘神祠は朝鮮人によりこわされた。満浦神社の奉斎殿は、十九日夜朝鮮人によって焼かれた。
 浦項神社は鳥居をたきものにされ社殿をこわされ、慶州神社社殿の鍵をこわされ、放火の形跡があり、通川神祠は焼かれ、枰城神祠は祠殿破壊、恵山神社・南原神社は暴行にあい略奪された。亀城神社は、十七日に住民の手でこわされたが、神体は郵便局長宅に持ち帰られた。清津神社は、ソ連軍の兵火にあい全焼して宮司は焼死した。城津神社はソ連軍の軍用施設になった。以上、暴行放火をうけた報告は、北朝鮮の地に多い。

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