下記は、「鎮魂 特別攻撃隊の遺書」原勝洋編著・靖国神社協力(KKベストセラーズ)から、四人の遺書を抜粋したものです。4の大西瀧次郎以外は、いずれもニ十歳代の若い将校のものですが、その文章から、父母に深く感謝し、子や妹を思いやる心優しい若者であったことが分かります。そうした礼儀正しさや優しさは、他の将校の遺書でも同じように感じられました。また、彼らの多くが、飛び立つ前に、詩を書き、歌を詠み、達筆な書を残しています。そんな優秀で優しい彼らが、従容とし死に就いたのはなぜなのか、を考えることは、我々日本人には大事なことだと思います。
彼らの思いは、”帝國勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。”とか、”お前が大きくなって、父に会ひたい時は九段へいらっしゃい。”とか、”大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国の為散って逝く、私を孝行者と云ってください。”というような記述で、察することが出来ます。
彼らの思いは、すでに触れたように「大日本帝国憲法」、「教育勅語」、「軍人勅諭」、「国体の本義」、「戦陣訓」、「臣民の道」などの教義・教説を通じ、また、御真影や奉安殿拝礼、神社参拝、宮城遙拝、祝祭日の行事など、日常生活のあらゆる側面で徹底的に注入された「神話的国体観」に基づいていたのだ、と私は思います。日々の報道や軍国美談などからも、彼らは影響を受けただろうと思います。
だから、特攻による自らの「死」を、何の抗議も、抵抗もせず、”靖国の神”となることを信じて受け入れたのだと思います。当時の将校には、天皇を現津神(現人神)とする神話的国体観に疑問を抱く余地などなかったのではないか、とも思います。
”大君の御楯となりて天翔る 希望遥かに明けの空征く”とか、”いさぎよく散るこそ武士の道と知れ 恵みを受けし君が御為に”という歌を詠んで飛び立った将校などの遺書もありましたが、みな神話的国体観を学んで、「海ゆかば」に歌われているような心をもって、飛び立ったことは間違いないと思います。
当然、当時の日本人も、大日本帝国の戦争の意味を、神話的国体観を離れて問い直し、他国の主張を考えるというようなことはしなかったと思います。それは、国際連盟におけるリットン報告書の採択で、44か国中42か国が賛成(日本反対、シャム棄権)したにもかかわらず、日本は、自らの方針を変えることなく、国際連盟を脱退して突き進み、一般国民もそれを歓迎したことでわかります。東京朝日新聞も、『連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一』と報じているのです。国際連盟脱退を非難したり、批判したりする姿勢はなかったのです。
日本がそんな強引な姿勢を貫いたのも、皇軍兵士をはじめ、当時の日本人がみんな、”深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期”し、戦うことを当然のことと受け止めていたからではないかと思います。
だから、日本の戦争は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(天皇の「人間宣言」)に基づくものであったことを、私たち日本人は素直に認め、近隣諸国との関係改善に努めるべきだと思うのです。
また、ポツダム宣言の、”吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”の指摘は、決して不当なものではなかったと思います。
国際社会の寛大な対応で、主権を回復することができた日本が、再び戦前の日本を取り戻そうとしたり、戦争の”過ち”を認めようとしなかったり、戦時中の主張と変わらない考え方で、外交を進めたりすることは、許されないことだろうと思います。「国家神道」は、戦後の民主化政策の一つである「政教分離」によって、国家と切り離されました。にもかかわらず、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す”とか”建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す”というような綱領をもってスタートし、今なお”「戦後日本の歪められた精神を一刻も早く回復するため」悲願である憲法改正の運動に尽力するというような組織(神政連)が存在します。
そしてその「神政連」とつながる「神道政治連盟国会議員懇談会」(会長・安倍晋三)まで組織されています。そうした組織に結集する政治家に、日本の政治を委ねていては、中国や韓国をはじめとする近隣諸国との関係改善や、国際社会の信頼回復はできないと思います。
日本人は、日本を「神国」とし、”皇国を四方に君臨”させようとして戦った戦争が、神話的国体観に基づく”架空ナル観念”によるものであり、”過ち”であったことを、きちんと受け止めなければならないと思うのです。
アメリカが、日本を追い込んだので、戦争が避けられなかったとか、日本は、欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指して戦ったというような言い訳は、たとえそういう側面があったとしても、国際社会では通用せず、日本の戦争を正当化できるような話ではないと思います。特別攻撃隊の遺書が、そのことを示していると思います。
4の大西瀧次郎は、フィリピン・レイテ島に進攻してきた米軍の大部隊に対し、初めて特攻出撃を命じた軍人で、「特攻の父」とも呼ばれたといいます。
飛行機に爆弾を抱いて敵艦に体当りする、日本海軍の「神風特別攻撃隊」は、戦況が日本に決定的に不利となった時、日米両軍の決戦場となったフィリピンで、大西瀧治郎中将の命により編成されたということです。
だから、”終戦の大詔を拝した夜”、大勢の部下を追って、下記4の遺書を残し、”腹を一文字にかき切って自刃した。”といいます。彼の自刃も、神話的国体観に基づく”架空ナル観念”にとらわれていたことを物語っているように、私は思います。
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第2章 特攻隊員の偉勲と遺書
海軍中佐
關行男命(愛媛県出身 大正十年生まれ 二十三歳 海軍兵学校第七十期 敷島隊)
父上様、母上様
西条の母上(注:実母)には幼時よりご苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。
今回帝國勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親(注:満里子夫人のご両親)に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ゆる事も出来ず征く事を、お許し下さいませ。
本日帝國の為、身を以って母艦に體当りを行ひ君恩に報ずる覚悟です。
皆様御體大切に。
※
満里子(注:妻)殿
何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対しては誠に済まぬと思って居る。
何も云はずとも、武人の妻の覚悟は充分出来て居る事と思ふ。御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。
恵美ちゃん坊主も元気でやれ。
※
教え子へ(第四十二期飛行学生へ)
教え子は散れ山櫻此の如くに
2---ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍大尉
植村眞久(東京都出身 大正八年生まれ 二十五歳 立教大学 海軍第十三期飛行予科予備学生
第一神風特別攻撃隊大和隊)
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるようにと思って、お父様が考へたのです。
私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても、決して悲しんではなりません。
お前が大きくなって、父に会ひたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されてゐた。またお前の叔父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
お前が大きくなって私の事を考え始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
昭和十九年月吉日
植村素子へ
追伸、素子が生まれた時おもちやにしていたお人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると 困りますから教へて上げます。
3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍少尉
高瀬丁命(北海道出身 大正十五年生まれ ニ十歳 丙種飛行予科練習生第十二期 神風第九建武隊)
御恵み深き父母上様、聖戦に参加せんとして愛機に搭乗する前に書します。この世に生を享けて十幾星霜、夏の日も冬の日も慈しみ励まし日本男子にお育て下さいました。──
父母上様、何一つとして御恩に報いませんでしたが、大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国の為散って逝く、私を孝行者と云ってください。── 決してお嘆きくださいますな。私は幸福でした。── 私は最後の最後まで御訓育に背きませんでした。そして晴々とした気持ちで祖先の御前に行けます。唯一つ残念なのは御高恩に報いられなかった事のみです。──
父母上様、父母上様よ、お姿を心に秘めて御名を心で叫びながら散ります。父母上様さやうなら、さやうなら。
高瀬丁
父母上様へ
二伸
一、吾に金銭貸借なし
一、吾に婦女子関係なし
一、吾に罪なし
※
妹よ
兄は、今死場所を得て、武人の本懐と勇んで征く。
妹よ、此の兄死すとも嘆くなかれ。五体はなくとも魂はいつもお前たちのもと、悠久の大義に生きてゐる。嘆かず頑張ってくれ。
妹よ、お前たちは、帝国海鷲の妹なるぞ、兄の死に方に恥ぢないやう、何事にも頑張ってくれ。父母上を頼んだぞ。兄が残す言葉は、父母に孝、君に忠を尽くせのみだ。
妹よ、たのむぞ。
兄は勇んで死んでゆく。
妹よ、体を大切に。永く永く幸福に暮らしてくれ。
お前達の面影を偲びつつ征く。
出撃の日
4 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍中将
大西瀧次郎命
遺書
特攻隊の英霊に曰(ノタマワ)す。善く戦ひたり、深謝す。最后の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。 然れどもその信念は遂に達成し得ざるに到れり。吾れ死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝さんと す。
次に一般青壮年に告ぐ。
吾が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に添ひ奉り、自重忍苦する誡めとならば幸なり。
穏忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
諸子は國宝なり。平時に処し猶克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽されよ。