真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「田中上奏文」、国際連盟における松岡洋右と顧維鈞の論争

2021年09月17日 | 国際・政治

 「田中上奏文」には、
 ”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず。……之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦我が日本帝国の存立上必要事たるなり”
 というような一節があり、日本の中国侵略を裏づける考え方だと思います。でも、この文書が「偽書」であるという説があり、真偽をめぐっては、下記抜粋文が示すように、国際連盟でも議論があったことが分かります。

 でも、私は「偽書」かどうかということだけではなく、こうした考え方が、存在したかどうかということを確認することも重要であると思います。

 そこで思い出すのが、やはり幕末の思想家・佐藤信淵です。
 すでに取り上げたことがありますが、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として、戦前大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(ウダイコンドウヒサク)を読んだといいます。その内容は、明らかに「田中上奏文」に通じるものであると思います。
 「宇内混同大論」の冒頭には、”皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありました。だから私は、それが明治維新によってつくられた「皇国日本」のなかで、「田中上奏文」へと発展したのではないかと思います。
 「宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
ともありました。
 また、”支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。
 とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
 などという記述もありました。

  また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人で「二宮尊徳と一対の人物」であると書いています。
そして
 ”但し、尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
 と評価しています。
 だから私は、神話的国体観の下での領土拡張政策は、明治以来、先の大戦における敗戦に至るまで一貫していたと思うのです。

 また、佐藤信淵とともに、吉田松陰の「幽囚録」の一節を思い出します。
 戦前・戦中、東大における講義はもちろん、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」および、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、「皇国史観の教祖」といわれるような活躍をした歴史家・平泉澄は、「先哲を仰ぐ」(錦正社)という本の中で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などとともに、吉田松陰の名前を上げ、”今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります”と書いていました。

 その「幽囚録」の「自序」に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”と書いています。見逃すことができないのは、外国と対等の関係を追求しようとはしていないことです。特に、領土的拡張について、”蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし”と書いているのです。こうした考え方も
田中上奏文」に通じるものだと思います。

 戦前・戦中、佐藤信淵吉田松陰の思想を学んだ人たちが、皇国日本の戦争の指導者であったと考えられることも忘れてはならない思います。明治維新以来、第十八代内閣総理大臣まで、薩摩・長州以外の総理大臣は、西園寺公望と大隈重信の二人だけなのです。田中義一も長州の出身で、陸軍大学校を卒業した元帝国陸軍軍人です。明治維新というクーデターによって皇国日本をつくった長州を中心とする人たちが、日本の政治を主導し、神話的国体観に基づく領土拡張政策を進めるなかで、「田中上奏文」が出てきたと考えれば、たとえ流布したものが「偽書」であったとしても、「田中上奏文」は、事実上存在したといえるのではないか、と私は思います。

 1906年五月、「満州問題に関する協議会」で、当時、韓国統監府の統監であった伊藤博文は、”児玉参謀総長らは満州における日本の地位を根本的に誤解している。満洲方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物もないのである。……満州は決して我属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我主権のおこなわるる道理はない。満州行政の責任は宜しくこれを清国政府に負担せしめねばならぬ”と陸軍の考え方や方針を批判しているのです(「日本帝国主義の形成」井上清(岩波書店)。

 その伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾で学んでいますが、吉田松陰は”魯墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失うべからず。ただ章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし”(ロシア・アメリカとの交易において損をした分は、朝鮮・満州・中国の土地を奪って埋め合わせをすればよい、という意味)と教えています。そして、それが伊藤博文、井上馨、山県有朋、寺内正毅などの長州閥の有力者に、対朝鮮強硬論として受け継がれ、朝鮮併合後は、満州へと進んでいったのだと思いますが、その伊藤博文が、満洲に対する陸軍の姿勢を批判していることは重大だと思います。当時の中国はもちろん、国際世論を一顧だにしない陸軍の姿勢が受け入れられなかったのではないかと思います。したがって、そういう流れからも、「田中上奏文」の考え方が、軍部や田中義一政権には存在したのだ、と私は思います。それを知る誰かが、「田中上奏文」を書いたのであろうと思うのです。

 だから、「田中上奏文」(田中メモリアル)を何度も報じた『チャイナ・クリティク』誌が、”「田中メモリアル」の真偽について質問も寄せられたが、日本人は”自らの行為によってこの文書に署名した”という一文にも、無視できないものがあると思います。
 
 当時の中華公使・重光葵も、「田中上奏文」について、
 ”日本軍部の極端論者の中には、これに類似した計画を蔵したものがあって、これら無責任なるものの意見書なるものが何人かの手に渡り、この種文書として書き変へられ、宣伝に利用されたもの、と思はれる。要するに田中覚書なるものは、左右両極端分子の合作になったものと見て差支へはない。而して、その後発生した東亜の事態と、これに伴ふ日本の行動とは、恰かも田中覚書を教科書として進められたやうな状態となったので、この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。
 と回想していることも、忘れられてはならないと思います。「田中上奏文」が「偽書」であるかどうかということだけが問題ではないということです。

 さらに言えば、官報號外 昭和21年1月1日 詔書「人間宣言」の
 ”然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
 との一節は、「田中上奏文」の考え方が、存在したといってもあやまりではないことを、物語っているのではないか、と私は思います。
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       「日中歴史認識」服部龍二著(東京大学出版会) 

            第二章 満州事変後の日中宣伝外交

一 満州事変

 『チャイナ・クリティク』誌
 ・・・
 柳条湖事件の直後から中国国民党の中央宣伝部は、「九月十八日は我が国の有史以来最大の国辱記念日である」といった抗日宣伝の標語を作成し、各省各特別市の党部などに伝えた。中央宣伝部は、中央広播無線電台や中央通信社にも宣伝工作を要請して抗日宣伝に動員する。
 柳条湖事件から約一週間には、注目すべき記事が上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク(China Critic)』に発表された。1931年九月二十四日の同誌に、「田中メモリアル」が掲載されたのである。
「田中メモリアル」とは、英語版の「田中上奏文」であった。そこから「田中メモリアル」は、中国で小冊子などに転載されただけでなく、諸外国にも浸透していった。
 英語版「田中メモリアル」の出現はこれが最初ではなく、1929年秋に「田中メモリアル」がアメリカへ流入していたことは、第一章二で論じたとおりである。それでも、『』チャイナ・クリティク』誌の影響は大きかった。
 ・・・
 英語版「田中メモリアル」は、『チャイナ・クリティク』誌から大量に複製されて世界中に流布していった。複製された小冊子の多くは四十二ページから成るものであり、Tanaka Memorial published by the China Critic , Shanghai China, 1931 と表紙に記されている。
 その頒布に一役買ったのが、中華民国拒毒会である。この中華民国拒毒会は上海に置かれた団体であり、唐紹儀(トウショウギ)や施肇基(シチョウキ)、蔡元培(サイゲンバイ)、伍朝枢(ゴチョウスウ)などの政府要人が名誉職に就いていた。YMCAなどとも関係する中華民国拒毒会は、麻薬密輸を告発する書簡に「田中メモリアル」を同封している。中華民国拒毒会の書簡は、「田中メモリアル」を「比類なき日本の帝国主義構想」と訴えた。中華民国拒毒は、その書簡とともに、「田中メモリアル」をアメリカなどの海外にも発送した。
 ・・・
 その後も『チャイナ・クリティク』誌は「田中メモリアル」を何度も報じ、「田中メモリアル」を掲載することで「世界中にセンセーションを起こした」と自賛している。同誌によると、「田中メモリアル」の真偽について質問も寄せられたが、日本人は「自らの行為によってこの文書に署名した」という。つまり、過去数年に及ぶ日本の侵略に鑑みて、「田中メモリアル」が本物であることは明らかだというのである。

 リットン報告書
 ・・・
 リットン報告書は、満州事変における日本軍の軍事行動を合法的な自衛措置とは認めなかったし、満州の独立運動は日本軍によってのみ可能となったものであり、満州の政権は自発的な独立運動で出現したものではないと結論づけた。その半面でリットン報告書は、中国のボイコットが合法的に行われたという中国側の主張を支持しなかった。のみならず、日本が満州に多数の権利を有し、満州とは特殊な関係であることにも配慮しており、原状回復および満州国の存置をいずれも不適切と退けた。
 報告書で解決の原則として掲げられたのは、日中双方の利益の両立、満州における日本の利益の承認、日中間における新条約関係の設定、将来の紛争解決に有効な措置の検討、満州の自治、地方的憲兵隊と不可侵条約による安全保障、日中間における経済的接近の促進、中国の改革に関する国際協力などであった。
 具体的に報告書で提起されたのは、東三省に自治政府を設置して特別憲兵隊を外国人教官の協力の下で組織し、自治政府には外国人顧問を任命することであった。さらに居住権や鉄道など日本の利益にかかわる日中条約、調停や不可侵に関する日中条約、組織的なボイコットの禁止を含む日中通商条約の締結についても発案されていた。

 日中「協力」
 リットン報告書に込められた意図については、ブレークスリ(G.H.Blakeslee)の声に耳を傾けておきたい。ブレークスリはクラーク大学の教授であり、リットン調査団でアメリカ側委員を務めたマッコイの顧問だった。
・・・
 もちろんリットン報告書は、満州事変を日本による自衛権の行使とは見なさなかったし、満州国が中国人によって自発的に建国されたとも認めなかった。それでも、解決策として報告書は、「現状維持でも満州国の承認でもなく」、中国主権のもとで「アメリカにおける州のような自治政府」を創設するように推奨したのであり、「中国の統一を維持しつつも、日本には満州事変前に主張していたものをすべて与える」という意図だったとブレークスリは述べる。
 リットン報告書は日本に必ずしも不利な内容ではなく、調査団の一員としてブレークスリは、交流のあった日本人に好印象を示すところすらあった。そのことは、リットン報告書が日本に宥和的であったことと無関係ではなかろう。だとすれば、日本側の宣伝外交は徒労ではなかったことになる。
 にもかかわらず、ブレークスリが語るように、「中国代表団はリットン報告書を交渉の基礎として受理する意向を示したものの、日本は報告書を非難している」のであった。報告書に不満な日本は国際連盟から脱退していくのだが、その前に連盟で審議が行われた。連盟での審議は、「田中上奏文」論争の頂点となる。

              六 国際連盟──松岡洋右・顧維鈞論争

 松岡・顧維釣(コ・イキン:洋名・ウエリントン・クー)論争
 リットン報告書が日本に宥和的だったにもかかわらず、斎藤内閣はリットン報告書に不満であり、とりわけ満州事変と満州国について誤認が多いと結論づけた。そこで日本は1932年十一月十九日、リットン報告書を批判する意見書を国際連盟に提出した。
 中国国内にも、リットン報告書への不満はあった。一例として、参謀次長の賀耀組(ガヨウソ)による意見書がある。報告書では日中紛争の原因が誤解されており、「日本の朝野では、中国の分裂による漁夫の利を望まない者はなく、そのことは枚挙にいとまがないのであり、『田中上奏文』からも自明である』という。
 リットン報告書は十一月二十一日、国際連盟理事会において審議された。日本の首席代表は、元外交官の松岡洋右衆議院議員である。中国は顔恵慶を首席代表として、顧維鈞と郭泰祺(カクタイキ)も代表を務めた。それ以前から顔は、ニューヨークで刊行された『中国は中日紛争に声明する(China Speaks on the Conflict between China and Japan)』という本の序文で、『歴史的にも感情的にも、数世紀にわたって満州は数百万もの中国人の故郷であった』とアメリカの世論に訴えていた。
 十一月二十一日の国際連盟では、松岡と顧維鈞(コ・イキン)が激論を戦わせる。得意の英語で松岡は、満州事変を自衛権の行使と主張し、満州国の建国は日本の手引きによるものではないものの、日本の政策が極東に安定をもたらしてきたと強調した。つまり松岡は、リットン報告書の見解を批判したのである。
 かつて参与としてリットン調査団を補佐した顧維鈞はこれに反論し、日本軍の行動は自衛権の行使として正当化できないと言い立てた。さらに顧は「東三省支配は世界征服の第一歩にすぎない」と論じて、「田中上奏文」の一節をこう引用した。

 In the future, if we want to control China we must first crush the United States just as in the past we had to fight in the Russo-Japanese war. But in order to conquer China we must first conquer Manchuria and Mongolia. In order to the world,  We must first conquer China. If we succeed in conquering China, the rest of the Asiatic countries and the South Sea countries will fear us and surrender to us.  Then the world will realize that Eastern Asia is ours and will not dare to violate our  
right. This is the plan left to us  by Emperor Meiji,  the success of which is essential to our national existence 

 顧維鈞が読み上げたのは、「田中上奏文」の著名なくだりである。「田中上奏文」を偽書と確信していた松岡は、十一月二十三日の国際連盟理事会で顧に反駁した。
  
 松岡「そのような文書が、天皇に上奏されたことはない。1930年四月、当時の王正廷南京国民政府外交部長は、偽造文書の流通によって生じ悪影響を防ぐために、しかるべき措置を講じると駐華日本公使に約束しているではないか」
 顧維鈞「偽書であるかはともかく、「田中上奏文」に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追及を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである」
 松岡「中国代表は『田中上奏文』の信憑性を確信されているようである。中国代表が文書の存在を次の会議で立証されることを期待したい」

 このように顧維鈞は、「偽書であるかはともかく」と松岡の追及を巧みにかわしながら、「田中上奏文」の内容は日本の政策そのものだと国際連盟理事会に訴えた。これに対して松岡は、「田中上奏文」の証拠を次回に提示するよう求めたのである。
 「田中上奏文」をめぐる松岡と顧維鈞の論争は、1932年十一月二十四日の連盟理事会でも続けられた。まず発言したのは顧であった。 
 
 顧維鈞「この問題についての最善の証明は、今日の満州における全局である。仮にこれが偽書であるとしても、日本人によって偽造されたものである。その点について松岡氏も、近著『動く満蒙』のなかで同意されている」
 松岡「中国代表は、証拠を提出せず拙著に論及された。拙著は日本語で書かれたものだが、おおよそ正確に引用されたようである。したがって、『田中上奏文』を偽書と見なす拙著の記述に、中国代表は賛意を表したといわねばならない」

 このように顧維鈞は、「田中上奏文」の真偽を断言することなく、「最善の証明は、今日の満州における全局である」と切り抜けた。これに松岡は、 顧が事実上「田中上奏文」を偽書と認めたものと判断し、議論を打ち切ったのである。
 「田中上奏文」の真偽論争としては顧に分が悪いものの、松岡がこの問題に固執したため、かえって「田中上奏文」は、国際世論に印象づけられたであろう。

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