真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”津田左右吉を”禁固参月ニ処ス”

2021年12月13日 | 国際政治

 下記は、「現代史資料 42 思想統制」(みすず書房)から、”津田左右吉外一名に対する出版法違反事件”の裁判の予審終結決定に関する部分の一部を抜萃したものです。
 予審終結決定理由を読めば、津田左右吉の著書から、津田左右吉のいろいろな記紀に関する考察部分を長々とそのまま引用し、その内容の正否については、全く論ぜず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”ものであるとの理由だけで、「出版法違反」としていることがわかります。古事記や日本書紀の解釈、また、神話に関する学術的な論述は全くないのです。

 津田の研究は、天照大神が、”皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うた”という神代史を問題とし、”皇室の尊厳”ということ自体の根拠を問うものであるにもかかわらず、その内容に立ち入らず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”として、「出版法違反」で、”禁固参月ニ処ス”というのですから、当時の日本の指導層は、”お話しにならない”非論理的な考え方をする国であったことを示しているように思います。

 そういう意味で、滝川教授を休職処分にした行政、また、美濃部達吉の天皇機関説を、”神聖なる我が国体に悖(モト)り、その本義を愆(アヤマ)るの甚しきものにして厳に之を芟除(サンジョ)せざるべからず。”として、国体明徴声明を発表した政府、それを許した議会、さらに、津田左右吉に禁固刑を下した司法も、日本の戦争に加担したと言っても言い過ぎではないように思います。
 そんな非論理的な考え方では、ただ一途に、統帥権の独立を主張し、帷幄上奏によって、暴走する軍を止めることはできないと考えられるからです。

 溯れば、それは、史実ではなく神話に基づいて、”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”とか”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”などと定めた大日本国憲法の神話的国体観、さらに溯れば、幕末の藤田東湖や会沢正志斎、吉田松陰等の思想を受け継いだ薩長を中心とする尊王攘夷急進派の神国思想が、そうした非論理的な考え方を日本に定着させ、日本の歩みを決定づけたように思います。だから私は、明治維新が、日本の敗戦への歩みの始まりであったように思うのです。
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        四十 津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件予審終結決定(東京刑事地方裁判所1941.3)

昭和十五年予第48号被告人 津田左右吉殿
    予審終結決定
本籍地並住居 東京市麹町区麹町五丁目七番地二
                    無   職     
                    津 田 左右吉 69歳
本籍  同市神田区神保町二丁目三番地二
住居  同市小石川区小日向水道町九十二番地
                    出 版 業
                    岩 波 茂 雄 61歳
右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付予審終結決定ヲ為スコト左ノ如シ
   主  文 
 本件ヲ東京刑事地方裁判所ノ公判ニ付ス
   理  由 
被告人津田左右吉ハ明治二十四年七月早稲田大学ノ前身ナル東京専門学校政治科ヲ卒業シタル後、文学博士白鳥庫吉ニ師事シテ史学ヲ専攻シ、前橋、千葉等ノ各地ニ於テ中等学校ノ教員ヲ為シ、明治四十一年頃南満州鉄道株式会社ガ満州及ビ朝鮮ノ地理歴史研究室ヲ設置スルヤ、同博士指導ノ下ニ之ガ研究員トナリ、大正二年頃同研究室ガ東京帝国大学ニ承継セラルルニ及ビ同大学文学部嘱託トシテ昭和十四年十二月ニ辞職スル迄引続キ其ノ研究ニ従事シタルガ、其ノ間大正六年頃早稲田大学文学部講師トナリ、次デ大正七年中同大学教授ニ任ゼラレテ専ラ其ノ職務ニ従ヒ、爾来久シキニ亘リ東洋史、国史、支那哲学等ノ講座ヲ担任シ、且昭和十四年十月下旬ヨリ同年十二月上旬迄東京帝国大学法学部講師ヲ兼ネ、尚大正十一年中文学博士ノ学位ヲ授与セラレテ今日ニ及ビタルモノ

被告人岩波茂雄ハ明治四十二年七月東京帝国大学文科大学哲学科選科ヲ卒業シ、一時中等学校ニ奉職シタル後大正二年頃書籍店ヲ開業シ、大正三、四年頃出版業ヲ開始シ東京神田区一ツ橋二丁目三番地ニ於テ岩波書店ナル商号ヲ以テ引続キ斯業ヲ営ミ来レルモノナルトコロ

第一、被告人津田左右吉ハ夙ニ明治維新史ノ研究ニ志シ、其ノ思想的意義ト思想的由来トヲ探求スル為国学者ノ著述等ニ親シミ、古事記及ビ日本書紀ニ関スル注釈書等ヲ渉猟シテ漸次我上代史ノ研鑽ニ努メ、次デ満州朝鮮ノ地理歴史研究ニ従事スルニ及ビ我上代史ハ朝鮮及ビ支那ノ史籍トノ関連ニ於テ研究セラレザルベカラザルモノト為シ上代史ニ於ケル最古ノ史料タル古事記及ビ日本書紀等ノ考究ヲ続ケタル結果、古事記及ビ之ニ相応スル部分ノ日本書紀ハ所謂帝紀(帝皇日継即チ皇室ノ御系譜)及ビ旧辞(若クハ本辞、即チ上代ノコトニ擬セラレタル種々ノ物語)ヲ専ラ其ノ資料トシテ編纂セラレ、此ノ帝紀旧辞ハ、モト朝廷ニ於テ編述セラレタルモノニシテ、其ノ最初ノ編述ハホボ、継体天皇乃至、欽明天皇ノ御宇頃、即チ六世紀ノコトナルガ、其ノ時帝紀ノ材料トシテハ、応神天皇以後ニ付テハホボ信用スベキ記録ヲ存シタルモ旧辞ニ於テハ確実ナル史料殆ド之無カリシヲ以テ編述当時ノ政治上社会上ノ状態、五世紀以後ニ起コリタル歴史的事件ノ朧気(オボロゲ)ナル言ヒ伝ヘ、又ハ民間説話等ヲ主ナル材料トシ、編者ノ構想ヲ以テ、之ヲ潤色、結合、按排シテ、古キ時代ノ事実ラシク叙述セルモノニシテ、旧辞ノ編者ノ意図ハ全体トシテハ皇室ノ起源ヲ説明シ、其ノ権威ガ漸次我民族ノ全部ニ及ビ、朝鮮半島ノ一部ニモ及ビタルコトヲ歴史的物語ノ形ヲ以テ示サントセルモノニシテ、又一々ノ物語トシテハ「ヤマト」ニ都ノアルコトヲ始トシ「クマソ」「エミシ」新羅等ニ関スル当時ノ政治上ノ状態ニ於テ重要ナル事柄ニ付、夫々其ノ由来ヲ説明セルモノナルガ、此ノ帝紀旧辞ハ最初ノ編述ノ後朝廷ニ於テモ幾度カ増補変改ヲ加ヘラレ、又私人ノ間ニ於テモサマザマナ時代ニサマザマノ人ニヨリテ局部的ノ添刪(テンザン)行ハレ、従テ七世紀ノ中頃ニハ此ノ帝紀旧辞ニ種々ノ異本存シ、所説区々タリシガ、斯ル数多ノ異本中ノ或帝紀ト旧辞トガ古事記ノ原本ト為リタルモノニシテ、又帝紀ト旧辞ノ種々ノ異本ガ書紀ノ上代ノ部分(古事記ニ物語ノアル時代)ノ重要ナル材料トナリ、書紀ニハ其ノ外、遙カ後世ニ至リテ作ラレタル話及ビ百済ノ史籍ヨリ写シ取ラレタル記事並編纂者ノ脳裡ニテ構造シタルコト等ヲ加ヘ之等ヲ年代記的ニ排列セラレタルモノナルガ故ニ、古事記及ビ日本書紀ノ上代ニ関スル記載ノ大半ハ其ノ記述ノ儘ガ歴史的事件ノ記録タルモノニ非ズトノ独自ノ見解ヲ樹テ大正二年頃以来其ノ著「神代史の新しい研究」等二依リ右ノ如キ見解ヲ表明シ来リタルガ、
 昭和十四年三月頃ヨリ同年十二月迄ノ間自ラ著作者トシテ被告人岩波茂雄ヲシテ「古事記及日本書紀の研究」ト題スル書籍四百五十部、「神代史の研究」ト題スル書籍約二百部、「日本上代史研究」ト題スル書籍約百五十部、「上代日本の社会及び思想」ト題スル書籍約二百部ヲ発行セシメ此等ノ著作物ニ依リ右見解ニ基ク講説を縷述(ルジュツ)シ居ルモノニシテ
一、「古事記及日本書紀ノ研究」ニ於テハ叙上ノ見解ヲ詳説シ、古事記及日本書紀ノ上代ノ部ニ於ケル主要記事ニ逐次批判検討ヲ加ヘタル上
(一)「古事記及日本書紀とに見える物語(神武天皇ノ御偉業)は、其のもとになったものから二つの方向に発展し若しくは二様に変改せられたものであると、いふことが推測せられる。しかし此の原の話に於ても、それが事実を語ってゐるものであるとは考へられぬ。第一大和川やクサカ江の水で大軍を進めることが出来たとも思はれぬ。またヤマトに攻め込むにクマヌを迂回するといふことも、甚だむづかしい話であって、そんな方面からの攻撃に対しては、ヤマトに根拠を有するものの防禦力は、西面に於けるよりも幾層か強大であるべき筈である。もっとも、これには神力の加護があったといふ話であるが、神の話は固より人間界のことでは無い。(中略)ヤマト征服がナガスネヒコの防禦で始まり、其の敗亡で終つてゐて、ヤマトの勢力は即ちナガスネヒコの勢力と見なすものであるにも拘わらず、所々のタケルや土蜘蛛は彼に服属してゐたものらしくは見えず、物語の上ではヤマトに何等の統一が無いやうになってゐるのは、不徹底の話であって、事実譚としては疑はしいことである。のみならず、此の物語は例の地名説話で充たされてゐる。(中略)ところが、かういふ神異の神や地名説話や歌物語やを取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語は内容の少ない輪郭だけになる。さうして、其の輪郭の主要なる線を形づくるクマヌ迂回のことが、前に述べたやうな性質のものである、(中略)また書紀には、御即位の記事に、天皇を ハツクニシラス天皇ト称してあるが、崇神天皇をやはり ハツクニシラス天皇としてあるのも、注意を要する。既に、神武天皇がゐらせられる以上、崇神天皇を斯う称することには、説明が無くてはならぬ。或はここにも物語の発達の歴史があるかも知れぬ。(中略)それのみでない。此の物語の根本思想たる東征其のことの話にも、幾多の疑問がある。第一、天皇はムヒカから出発あらせられたといふのであるが、これは一体どういふことであらうか。(中略)単に皇室の発祥地がムヒカであるといふことに対しても、第二章に述べた如く後世までクマソとして知られ逆賊の占拠地として見られ、長い間国家組織には加はつてゐなかつた今日の日向、大隈、薩摩地方、またかういふ未開地、物質の供給も不十分で文化の発達もひどく遅れてゐる僻陬(ヘキスウ)の地、所謂ソシシの空国が、どうして、皇室の発祥地であり得たか、といふ疑問があるのである。(中略)其の上、ムヒカから一足飛びにヤマトの征討となつて、其の中間地方の経略が全然物語に現はれてゐないのは、どういふものであらうか。懸軍万里ともいふべき遠征が、如何にして行はれたであらうか。また、皇室の発祥地であつたムヒカがどうしてクマソの根拠地となつたであらうか。ここにもまた重大な疑問が無くてはならぬ。ムヒカに関する 神武天皇の巻の物語を歴史として見る時には、此等の困難なる問題に明解を与へねばなるまい。(中略)それから、総論の第二節に述べた如く、三世紀以前に於ては、ツクシ地方は幾多の小独立国に分れてゐて、今の中国以東との間に政治的関係の無かつたことが推測せられるが、記紀の東征物語が此の事実と適合するかどうかも重大な問題である。」(438頁乃至453頁)
「或は物語の上に現はれる 皇室の御祖先の御歴代に於て、神代と人代とをどこかで区劃しなければならぬヤマト奠都(テント)の物語は茲に於いてか生じたのである。即ち思想の上に於いて、ヤマトの朝廷によつて国家が統一せられてゐる現在の政治的状態の始まつた時を定めそれを人代の始と見なしたのである。さうして、それが思想上の話であるといふのは、もしヤマト奠都が歴史的事実であり、其の前に都のあつた何処かゝら遷されたことであるとするならば、それは後にヤマトからヤマシロに遷され、京都から東京に遷された場合と同様、其の前も後も連続した一つの歴史即ち人間界のことゝして人の記憶に遺り、人の思想に存在した筈であつて、従つて、それを神代と人代との境界とし、劃然たる区別を其の前後につけようといふ考が起るまい、といふことから明らかに推知せられよう。のみならず、かういふ一つのことによつて神代と人代とが明かなる限界線を劃せられてゐる点に、其の区劃が人為のものであり、頭の中で作られたものであること、従つて人代といふ観念もまた神代同様、思想の上で形づくられたものであることが、知られる。と同時に、又た此の物語そのものが、やはり何人かによって考察せられたものであることがわかるので、物語そのものからいふと、これは恰も、神功皇后の物語が韓地経略の由来を説いたものであるやうに、ヤマトの 朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。歴史的事実としての記録とは考へ難い。」(466頁467頁)
「此の物語(景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親政)は、果たして事実として見るべきものであらうか。それについて第一に考ふべきことは、前に述べた如く地理上の錯誤の多いことである。此の物語が事実の記録として信じがたいことの一つである。(中略)第二に、此の物語を構成する種々の説話は、主として地名を説明する為に作られたものである。(中略)第三には、人名に地名をそのまゝ用ゐたもののあることである。(中略)なほ第四には、多くの兵を動かさば百姓の害であるといふので、鋒刃(ホウジン)の威を仮らずしてクマソを平らげようとせられたといふ話、クマソの酋長の二女を陽に龍し、姉の方のイチフカヤの計を用いて酋長を殺させて置きながら、其の女の不幸を悪んで之を誅せられたといふ話が、支那の思想であることを考へねばならぬ。また第五には、ヒムカでヤマトを憶うて詠ませられたといふ歌が、古事記ではヤマトタケルの命のイセでの詠として載せられ、而もそれが決して一首の歌として見るべきものでないことを、注意しなければならぬ。(中略)かう考へて来れば、此の物語を構成する種々の説話は、決して事実の記録で無いことが知られよう。」(256頁乃至262頁)
「さて此の物語(日本武尊ノ熊襲征討ニ関スル物語)の女装云々は固よりお噺である。ヤマトの朝廷から遠路わざわざ皇子を派遣せられるといふ物語の精神から見ても、クマソは大なる勢力を西方に有つてゐたものとして、物語の記者の頭にも映じたに違いない。さういふ大勢力が、こんな児戯に類することで打ち破られるものではあるまい。」(中略)「一体斯ういふ英雄の説話は、其の基礎にはよし多人数の力によつて行はれた大い歴史的事実があるにしても、其の事実を其のままに一人の行為として語つたものでは無く、事実に基づきながら、其れから離れた概念を一人の英雄の行動に託して作つたのが、普通である。だから、かういふ話が出来るのである。それから、クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、お噺であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語の直ぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同様のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者といふ意味でありそれがヤマト朝廷の物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでも無からう。(皇子の御本名はヲウスの命とある。)さうして此のクマソタケル、イヅモタケルは上に述べたやうな地名を其のまゝに人名とした一例であつて、実在の人物の名とは考へられない。実在の人物ならば、こんな名がある筈は無いから、これは物語を組立てる必要上、それぞれの土地の勢力を擬人し、或は土地から思ひついて人間を作つたのである。さうしてそれは、よし実際にそこに何かの勢力があつた場合にしても、時と処とを隔てゝ、即ち後世になつて、又たヤマトの朝廷に於て、物語を製作者の頭から生まれたこととしなければならぬ。だから此の物語もまた、決して其のままに歴史的事実として見ることは出来ないものである。」(220頁乃至222頁)「ヤマトタケルの命のクマソ征討も、物語に現はれてゐるところは事実では無いが、しかし朝廷に服従しなかったクマソといふ勢力があり、或時代に多少の兵力を以てそれを平定せられたことは事実らしい。ヤマトタケルの命の物語は、それを一英雄の行動として作った話であらう。」(224頁乃至225頁)
「此の物語(日本武尊ノ東国御経略)は歴史的事実かどうかといふに、其の内容はやはり事実として認め難いことが多い。地名説話はもとよりのこと、民間説話めいた白鳥の物語が、何れも事実らしくないことはいふまでも無からう。また特に注意すべきは種々の宗教的分子を含んだ説話であるが、これも歴史的事実とは認められない。(中略)だから此の物語は、例の東国経略といふ漠然たる概念を基礎にして、それから作つた話をヤマトタケルの命のに結びつけたのであつて、それは多分クマソ征討の物語と対立せしめるためであり、さうしてそれは東方、特にアヅマ方面が、クマソの汎称によつて代表せられてゐるツクシの南部とほゞ同じやうにヤマトの朝廷には視られてゐたからであらう。」(332頁乃至325頁)
「此の物語(神功皇后ノ新羅御親征)に於いていくらかは歴史的事実の面影が見られるとして、それは如何にして此の物語となつて現はれたのであらうかといふに、古事記の物語に事実と認むべきこと無くして、全体の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが全然物語に見えてゐないこと、事実としては最初の戦役の後絶えず交戦があつたらしいのに、それが応神朝以後の物語に全く現はれてゐないこと、などを考へると、これは事実の記録または伝説口碑から出たもので無く、よほど後になつて、恐らく新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい。」(170頁)
「神武天皇から、仲哀天王までの物語を大観すると、国家経略の順序が甚だ整然としている。第一にヤマト奠都の話があり、次に崇神垂仁両朝の内地の綏撫があり、次に景行朝のクマソ及び東国に対する経略となり、それから成夢朝にかけて 皇族の地方分遣、国県の区劃制定とが行はれ、最後の仲哀朝に至つて外国征討が行はれる。近きより遠きに、内より外に及ぼされた径路が、一絲乱れずといふ状態である。これも事実の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさはしいことの一つである。(この点から見ても、書紀が垂仁朝に加羅の服属物語を結びつけたのは、後人の潤色であることが知られる。)此等の点を、上に詳説した一々の物語の批判に参照して見れば、記紀の仲哀天皇(及び 神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう。(中略)さうして国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての、記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑は無からう。」(474頁、476頁)
「神武天皇から仲哀天皇までの物語に人間の行動と見なし難いことが多いのは、一つは之がためである。さうして、それがほゞ仲哀天皇までゞあるのは、帝紀旧辞の編述せられた時に、御系譜だけでもほゞ知り得られたのは、応神天皇より後のことであって、それより前については記録も無く、其の頃の歴史的事実が殆んど全く伝へられてゐなかつた」(468頁、469頁)
「なほ帝紀によって書かれたと見なすべき部分の記紀の記載から考えると、四世紀の後半より前のことについては、帝紀編纂の際に其の材料のあつたやうな形跡が少しも見えない。たゞ文字の学ばれるやうになつた事情と総論第五節に述べたやうな記載の内容とを互いに参照して見ると、応神天皇ごろから後の御歴代については、御系譜に関する記録もおひおひ作られるやうになつて来たらしく、よし精密には後に伝はらぬまでも、大体のことは帝紀編纂の時にも知られてゐたと推測せられる。」(482頁)
「帝紀に於ては、材料の有無の点から見ても、応神天皇以後と、仲哀天皇以前とではほゞ区劃がつけられるけれども、旧辞では、両方ともに作り物語であるから、此の点では、それ程に特色がはっきりしない。ただ総論第五節に述べたやうな物語の内容の上からの区別をすることができるのみである。記紀によって伝へられている帝紀旧辞の性質は、ほゞ斯ういふものであるから、それによつて、我々の民族全体を包括する国家が如何なる事情、如何なる径路によつて形成せられたか、といふことを明瞭に知ることは出来ない。ヤマト朝廷の勢力の発展の状態についても、歴史的事実がそれによつて知られるのでは無いのである。実をいふと帝紀旧辞の編纂の時に於いて既にそれがわからなくなつてゐたのである。それ故にこそその編者は、其の欠陥を補ひ其の空虚を充たすために、種々の人の名をつくり、又た上記の如き方法によつて種々の物語を作り、それを古い時代に当てはめたのである。ツクシ地方の経略は四世紀の前半でなくてはならぬから、比較的新しい事実であるに拘はらず、其の事蹟がまるで伝つてゐないのを見ても、上代に関する伝説の如何に乏しかつたかゞ推測せられる。」(492頁、493頁)
「要するに記紀を其の語るがまゝに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のことゝして、考へられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て、皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺し始められた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふものでは無い。さうしてそれは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考を以て幾度も潤色せられ或は変改せられて、記紀の記載となつたのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることは出来ない。(中略)古事記及びそれに応ずる部分の書紀の記載は歴史ではなく無くして物語である。」(502頁乃至504頁)
等ト記述シ畏クモ 神武天皇ノ建国ノ御偉業ヲ初メ 景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親征、日本武尊ノ熊襲御討伐及ビ東国御経路並 神功皇后ノ新羅御征討等上代ニ於ケル 皇室ノ御事績ヲ以テ悉ク史実トシテハ認メ難キモノト為シ奉ルノミナラズ仲哀天皇以前ノ御歴代ノ 天皇ニ対シ奉リ其ノ御存在ヲモ否定シ奉ルモノト解スルノ外ナキ講説ヲ敢テシ奉リ
(二)
「天皇が神であらせられるといふ此の思想が上代において一般に存在したことは、天皇に『現人神』又は『現つ神』といふ呼称のあるのでも知られる。(中略)この思想は極めて古い時代からの因襲であったらしいので、それは君主の神とせられることが遠い過去に於いては世界の多くの民族の通例であつたことからも、類推せられる。君主の起源に関する種々の学説について今茲に論ずる遑(イトマ)は無いが、それが呪術若くは祭祀を行ふもの、又はそれから発達したものであることの認められる実例は甚だ多い。神とせられるのも、そこに由来がある。(中略)皇室の有せれらる宗教的地位の起源も亦たそこにあるとしなければならぬ。ところで、その神とせられるのが呪術や祭祀を行ふこと即ち巫祝(フシュク)の務めに由来があるとするならば、君主は一方に神でありながら、他方ではやはり巫祝でもあるのが当然である。
 天皇が大祓(オオハラエ)などの呪術を行はせられ 神功皇后や崇神天皇の物語に見えるやうなに、或は神人の媒介者たる、或は神を祭る地位に在らせられるのは、この故である。」(456頁乃至458頁)ト記述シテ、畏クモ現人神ニ在マス 天皇の御地位ヲ以テ巫祝ニ由来セルモノノ如キ講説ヲ敢テシ奉リ
(三)
「「神代」といふのは「上代」といふことゝは全然別箇の概念である(中略)民族の或は人類の連続せる歴史的発達の径路に於いて、何処に人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を遡つて上代にゆく時、いつまで行つても人の代は依然たる人の代であつて神の代にはならぬ。神代が観念上の存在であつて歴史上の存在で無いことは、これだけ考へても容易に了解せられよう。(中略)神代史が 皇室の御祖先としての日神を中心として語られ、日神及び其の御子孫が神代の統治者とせられ、神代にはたらいてゐるものはそれと其の従属者とに限られてゐることを思ふと、神代とは皇祖神の代といふ意義であることが知られよう。
何ゆえに皇祖が神であり、其の代が特に『神代』と称せられるかといふと、それは天皇が神であらせられるところから来てゐるので『現人神』にて坐す  天皇の『現人』たる要素を観念の上に於いて分離した純粋の『神』を、現実には見ることが出来ずして観念の上にのみ表象し得る遠い過去の 皇祖に於いて認め、それを神とし、その代を神代と称したのである。(中略)だから神代其のものには、例へば人間界を超越した神人間生活を支配する神の住む世といふやうな特殊の宗教的意義はなく、若し其処に何等かの宗教的意義があるとすれば、それは唯神としての 天皇の地位の反映のみである。皇祖神たる日神の宗教的意義も亦たたゞ現在の 天皇が有せられる神性の象徴たる点にのみ存するのである。さうして天皇の本質が政治的君主であらせられる点にあるとすれば、神代の中心観念がやはり政治的のものであることはいふまでも無い。」(462頁乃至465頁)
ト記述シ畏クモ 皇祖天照大神ハ神代史作者ノ観念上ニ作為シタル神ニ在マス旨ノ講説ヲ敢テシ奉リ

以テ孰レモ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前掲四種ノ出版物ヲ各著作シ 
第二、被告人岩波茂雄ハ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前記「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」及び「上代日本の社会及び思想」ノ各発行者トシテ前記期間内夫々数回ニ亘リ前記店舗ヨリ前記各部数ヲ発行シ
夫々之ガ出版ヲ為シタルモノナリ
 被告人両名ノ叙上ノ各所為ハ夫々出版法第二十六条ニ該当スル犯罪ニシテ之ヲ公判ニ付スルニ足ル嫌疑アルヲ以テ刑事訴訟法第三百十二条ニヨリ主文ノ如ク決定ス
     昭和十六年三月二十七日
      東京刑事地方裁判所
                       予 審 判 事    中 村 光 三

津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件第一審判決(東京刑事地方裁判所 1942・5)

 右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付、当裁判所ハ検事神保泰一関与ノ上、審理ヲ遂ゲ、判決ヲ為スコト左ノ如シ。
     主  文
被告人津田左右吉ヲ禁固参月ニ処ス。
被告人岩波茂雄ヲ禁固弐月ニ処ス。
被告人両名ニ対シ本裁判確定ノ日ヨリ弐年間右刑ノ執行ヲ猶予ス。
 ・・・ 

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