真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”津田左右吉を、”禁固参月ニ処ス” NO2

2021年12月25日 | 国際・政治

 ”津田左右吉外一名に対する出版法違反事件”は、昭和十五年六月二十六日から、昭和十六年ニ月十八日まで、東京刑事地方裁判所において、二十九回にわたって予審が行われ、”本件ヲ東京刑事地方裁判所ノ公判ニ付ス”との決定で予審が終結し、その公判は、昭和十六年十一月一日から、翌年十七年一月十五日の結審まで、二十一回にわたって審理がつづいたといいます。津田はきちんと説明すればわかってもらえると考え、必死に努力したのでしょう、上申書4冊のほかに、自らの著書を中心に、膨大な参考資料を法廷に提出し、その説明は”委曲”を尽くしたものであったということです。
 にもかかわらず、東京刑事地方裁判所は、「国体の本義」などを根拠として、”畏クモ神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル構説ヲ敢テ”したという理由で、津田に禁固三月、岩波に禁固二月、二年間執行猶予を宣告したのです。

 この裁判所の宣告が有効であるためには、”神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付”それが歴史的事実であることを証明する必要があると思うのですが、そういうことを問題としない空気が当時の日本には存在したのだと思います。
 例えば、「原理日本」臨時増刊号蓑田胸喜の「津田左右吉氏の大逆思想」と題する文章が掲載されたといいます。その中に下記のようにあります。
かくの如き津田氏の神代上代史捏造論、即ち抹殺論は、その所論の正否に拘わらず、掛けまくも畏き極みであるが、記紀の『作者』と申しまつりて『皇室』に対し奉りて極悪の不敬行為を敢てしたるものなるは勿論、皇祖、皇宗より仲哀天皇に及ぶまでの御歴代の御存在を否認しまつらむとしたものである。『天皇機関説』は猶ほ、天皇の存在は認めまつゝてゐるもので、統治権の主体に在しますことを否認しまつゝたのであるけれども、岡田内閣より『全く我が尊厳なる国体の本義に背反するもの』と断ぜられた。(略)いまこの津田氏の所論に至っては、日本国体の淵源成立、神代上代の史実を根本的に否認することによって、皇祖 皇宗を始め奉り十四代の、天皇の御存在を、それ故にまた神宮皇陵の御義をも併せて抹殺しまつらむとするものであるから、これ国史上全く類例なき思想的大逆である”(「現代史資料 (42) 思想統制」[みすず書房]
 まさに、”その所論の正否に拘わらず”許せないという強い思いを読み取ることができると思います。学問的に、その正当性を問い、争う意志は感じられません。
 そして、”「現日本万悪の禍源」を禊祓(ミソギハラエ)せよとの神意を畏みまつりて、内務、文部、・司法当局は速かに厳重処分すべく、全国同志の立つべきはいまである”というのですから、裁判所もそうした雰囲気に逆らう判決を下すことはできなかったのではないかと思います。
 そこに神道と国家の結びついた日本、言い換えれば、”カルト国家”日本の過ちがあったと思います。
 そうした合理的で、科学的な思考を受けつけない国体観に基づいて、日本が戦争を続けたわけですから、日本は、天皇のいわゆる「御聖断」がなければ、戦争をやめることもできなかったのだと思います。
 軍部の暴走を許すことになった帷幄上奏統帥権独立の問題も、こうした神道と国家を結びつけた国体観と切り離して考えることはできず、敗戦後のGHQによる「神道指令」や「政教分離」の政策は、日本の民主化に欠かせないものであったと思います。
 でも、戦後の日本では、いまだに、GHQの民主化政策をよしとせず、アジア太平洋戦争の過ちを認めようとしない人たちが存在し、日本国憲法を改正して、戦前の日本を復活させようとしているように思います。


 下記は「古事記及び日本書紀の研究 建国の事情と万世一系の思想」津田左右吉(毎日ワンズ)から、「総論」の「一 研究の目的及び方法」の一部を抜萃したものですが、どんな問題についても、きちんとした方法論に基づいて、さまざまな角度から考察し、結論を引き出していることがわかると思います。
 そして、”民族の、あるいは人類の、連続せる歴史的発達の径路において、どこに人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を遡って上代に行くとき、いつまで行っても人の代は依然たる人の代であって、神の代にはならぬ。神代が観念上の存在であって歴史上の存在でないことは、これだけ考えても容易に了解せられよう。”という結論に至っているのです。
 だから、戦前の日本が、天皇を「現人神」あるいは「現御神」としつつ、戦争を続けたことと合わせて、津田左右吉や美濃部達吉を裁いた司法のあやまちも、しっかり記憶に留めるべきではないかと思います。 
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                       総論
一 研究の目的及び方法
 『古事記』と『日本書紀』とは、種々の方面に向かって種々の研究の材料をわれわれに供給する。わが国の上代の政治史はもちろん、社会制度や風俗習慣や宗教及び道徳に関する思想や、ひと口にいうと、内外両面におけるわが上代の民族生活とその発達のありさまとを考えるには、ぜひともこの二書を綿密に調べなければならぬ。しかし、そういう研究に入らない前に、まず吟味しておくべきことは、記紀の記載(『日本書紀』においては主として『古事記』と相照応する時代の部分)は一体どういう性質のものか、それは歴史であるかどうか、もし歴史だとすれば、それはどこまで事実の記載として信用すべきものか、もしまた歴史でないとすれば、それは何であるか、あるいはまたそれに表わされていおる風俗や思想はいつの時代のこととして見るべきものか、という問題である。この点を明らかにしてかからなければ、記紀の記載を基礎にしての考察は甚だ空疎なものになってしまう。
 何故にこんな問題が起きるかというに、記紀、とくにその神代の部は、その記載が普通の意義でいう歴史としては取り扱いがたいもの、実在の人間の行為または事蹟を記録したものとしては信用しがたいものだからである。われわれの日常経験から見れば、人の行為や事蹟としては不合理な物語が多いからである。なお神代ならぬ上代の部分にも、同じ性質の記事や物語が含まれているのみならず、一見したところでは別に不思議とも感じられないことながら、細かく考えると甚だ不合理な事実らしからぬ記載が少なくない。これは一々例証など挙げるまでもなく、周知のことである。
 ところが、そういうものがいつのまにか歴史的事実の記載と認むべき記事に移ってゆき、あるいはまた事実らしいことと絡み合っている。だから記紀の記載については、どれだけが事実でありあれだけが事実でないかの限界を定め、事実の記載と認むべき部分としからざる部分とをふるい分け、そうして事実の記載でない部分にいかなる意味があるか、何故に、またどうしてそういう記載ができているかを究め、それによって記紀の記載の性質と精神と価値とを明らかにしなければならぬ。ひと口にいえば、記紀の記載は批判を要する。そういう批判を厳密に加えた上でなければ、記紀というものは歴史的研究の材料とすることはできない。ところがわが学界では、まだそれが充分に行われていないようである。この書が、もし幾分なりともその欠点を補う用に立つならば、著者のしごとはまったく無駄ではあるまい。
 さて、記紀の批判は、第一に、記紀の本文そのものの研究によってせられねばならぬ。第二には、別の方面から得た確実な知識によってせられねばならぬ。
 第一の方法は、ある記事なりある物語につき、その本文を分析して一々細かくそれを観察し、そうしてあるいはその分析した各部分を交互対照し、または他の記事、他の物語と比較して、その間に矛盾や背反がないかを調べ、もしあるならば、それがいかにして生じたかを考察し、また文章において他の書物に由来のあるものはそれを検索して、それといいあらわされている事柄との関係を明らかにし、あるいはまた記紀の全体にわたって多くの記事、多くの物語を綜合的に観察し、それによって、問題とせられている記事や物語の精神のあるところを看取するのであって、種々の記事なり物語なりの性質と意味と価値とは、これらの方法によって知られるのである。そして同じ時代のこと、または同じ物語が、記紀の二書において種々の違った形をとってあらわれていることが、大いにこの研究を助ける。この両方の記載を比較、対照することによって、あるいは記事の変化し、物語の発展してきた径路が推測せられ、あるいはその間から記事なり物語なりの精神を看取することができるのである。
 また同じ記紀(とくに『日本書紀』)のうちでも、その本文を見れば、大体において歴史として信ずべき部分(すなわち後世の部分)としからざる部分(すなわち上代及び神代の部分)とのあることがわかるが、それはおのずから前者をして後者を判断する一つの標準たらしめるのである。が、これは実は第二の方法であって、たとえばシナや朝鮮半島の文献によって得た確実な歴史上の知識、または明白な考古学上の知識をもとにして、それと関係のある記紀の記載を批判するようなのが、すなわちそれである。そしてこの二つの方法は互いに助け合うべきものであるから、われわれはそれらを併せ用いなければならぬ。
 なおもう少しこのことを敷衍しておこうと思うが、第一の方法においては、まず何よりも本文を、そのことばのまま文字のままに誠実に読み取ることが必要である。はじめから一種の成心(※先入観)をもってそれに臨み、ある特殊の独断的臆見をもってそれを取り扱うようなことは、注意して避けなけらばならぬ。記者の思想はそのことばとその文字によって写されているのであるから、それをありのままに読まなければ、記事や物語の真の意義を知ることができぬ。神が島を生まれたとあるならば、その通りに見るほかははない。神がタカマノハラ(※高天原)に往ったり来たりせられたとあるならば、その通りに天に上ったり天から下りたりせられたことと思わなければならぬ。地下のヨミの国、海底のワダツミの神の宮も、文字のままの地下の国、海底の宮であり、草木がものをいうとあれば、それはその通りに草木がものを言うことであり、ヤマタノオロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏である。埴土(ハニツチ)で船をつくったとあれば、その船はどこまでも土でつくったものでなければならぬ。あるいはまたウガヤフキアヘズの命の母がワニであり、イナヒの命が海に入ってサヒモチの神(※ワニ)になられたとあるならば、それもまた文字通りに、ある神はワニの子で、ある命はワニになられたのであり、ヤマトタケルの命があらぶる神を和平せられたとあるならば、それはどこまでも神に対することであって、人に対することではなく、大小の魚が神功皇后の御船を背負って海を渡ったとあるならば、これもまたやはりその通りのことでなくてはならぬ。
 しかるに世間には今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこか地方のことであると考え、ホニニニギの命のムヒカに降臨せらえれたというのは、その故郷からこの国へわれわれの民族の祖先が移住してきたことであると思うのであり、そういう考えから「天孫降臨」というような名さえつくられている。そうしてその天孫民族に対して「出雲民族」という名もできているが、これは、皇孫降臨に先立ってオオナムチの命が国譲りをせられた、という話しの解釈から来ている。あるいはまた、コシのヤマタヲロチというのは異民族たるエミシ(※蝦夷)を指したものだと説かれている。なお民族や人種の問題とはしないでも、神が島々を生まれた、というのは国土を経営せられたことだといい、タカマノハラもヨミの国もまたワダツミの神の国もどこかの土地のことであり、あらぶる神があるとか草木がものをいうとかいうのは反抗者、賊徒が騒擾することだと説き、イヒナの命が海に入られたというのは海外に行かれたことだと考えられている。けれども、本文には少しもそんな意味はあらわれていず、本文をほしいままに改作して読むからである。
 ところで、何故こんな付会(※こじつけ)説が生じたかというと、それは一つは、記紀の神代の物語や上代の記載はわが国がはじまったときからの話しとせられているために、それをあるいはわれわれの民族の起源や由来を説いたものと速断し、あるいは国家創業の際における政治的経営の物語と憶測したのでもあろう。が、それよりももっと根本的な理由は、これらの物語の内容が非合理な、事実らしからぬことであるからである。徳川時代の学者などは、一種の浅薄なるシナ式合理主義から、事実でないもの、不合理なものは虚偽であり妄誕(モウタン=デタラメ)であって何らの価値のないものと考えていて、そしてまた一種の尚古主義から、荘厳な記紀の記載の如き虚偽や妄誕であるべきはずがないから、それは事実を記したものでなくてはならぬと推断し、したがってその非合理な物語の裏面に合理的な事実が潜み、虚偽、妄誕に似た説話に包まれている真の事実がなければならぬ、と憶測したのである。そしてそれがために、新井白石の如く、非合理な物語を強いて合理的に解釈しようとし、事実と認めがたいものにおいて無理に事実を看取しようとして、甚だしき牽強付会の説をなすに至ったのである。彼が「神は人であり神代は人代である」と考えたのはそれを示すものであって、こういう考え方によって神代を上代の歴史として解釈しようとしたのである。
 これに反して本居宣長の如きは、『古事記』の記載を一々文字通りにそのまま歴史的事実であると考えたのであるが、それとても歴史的事実をそこに認めよとする点において、やはり事実でなければ価値がないという思想をもっていたことが窺われ、また人のこととしては事実らしからぬ非合理的な話であるが神のこととしては事実を語ったものであるという点において、人については白石と同じような意義での合理主義を抱いていたことが知られる。のみならず、宣長が神代の神の多くは人であると考えた点にもまた、白石と同じところがある。
 さて、今日記紀を読む人には、宣長の態度を継承するものはあるまいが、その所説において必ずしも同じでないにせよ、なお彼の先蹤(センショウ)に(意識してあるいはせずして)追従するものが少なくないようである。しからばこういう態度をとる人に、合理的な事実がいかにして非合理の物語としてあらわれているかを聞くと、一つの解釈は、「それは比喩の言をもってことさらにつくり設けたのだ」というのである。白石の考えの一部にはこういう思想があり、彼はその比喩の言から何等かの事実を引き出そうとしたのである。それから今一つの解釈は、事実を語ったものが伝誦の間におのずからかかる色彩を帯びてきた、ひと口にいうと「事実が説話化せられえたのだ」というのであって、今日ではこういう考えももっている人が多いようである。
 しかし、何故に事実をありのままに語らないで、ことさら奇異の言をつくり設けて非合理な物語としたのであるか。神が人でああるならば、何故に「神」といい、「神の代」というのか。これは白石一流の思想では解釈しがたい問題である。また記紀のこういう物語を、事実の説話化せられたものとしてすべて解釈せられるか、たおえば、葦牙(アシカビ)(※葦の若芽)の如く萌えあがるものによって神が生まれたとあり、最初にアメノミナカヌシの神の如きが天に生まれ出でた、というようなことは、、いかなる事実の説話化せられたものであるかというと、それは何とも説かれていない。しかし、それだけは事実の基礎がない、というならば、何故に他の物語に限って事実の説話化せられたものであるというのか、甚だ不徹底な考え方である。そうして比喩であるというにしても、説話化であるというにしても、その比喩、その説話が非合理な形になっているとすれば、少なくとも人にそういう非合理な思想があること、あるいはそういう思想の生ずる心理作用が人に存することを許さねばならぬ。が、それならば、何故に最初から非合理な話を非合理な話として許すことができないのか、こう考えてくると、この種の浅薄なる合理主義が自己矛盾によって自滅しなければならぬことがわかろう。
 しからばわれわれは、こういう非合理な話をいかに考えるべきであるか。それは別に難しいことではない。
 第一には、そこに民間説話の如きものがあることを認めることである。人の思想は文化の発達の程度によって違うのであって、決して一様ではない。上代人の思想と今人の思想との間には大いなる径庭(※隔たり)があって、それには、今日の小児の心理と大人のとの間に差異があるのと似たところがある。民間説話などは、そういう未開人の心理、未開時代の思想によってつくられたものであるから、今日から見れば非合理なことが多いが、しかし未開人においては、それが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうとせられたり、人と同じように取り扱われていたり、人が動物の子であるとせられていたりするのは、今日の人にとっては極めて非合理であるが、未開人においては合理的であったのであるけれどもそれは未開人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも、草や木がものういい鳥や獣が人類を生む事実はあり得ない。ただ未開人がそう思っていたということが事実である。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうしていかなる心理によってそう思われていたかを研究すべきである。しかるにそれを考えずして、草木がものをいうとあるのは民衆の騒擾することだ、というように解釈するのは、未開人の心理を知らないために強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするものであって、未開人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ではあるまい。
 また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習からつくり出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。たとえば、蛇が毎年処女を捕らえに来るという話がある。蛇を神としていた一種の信仰や処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代、または民族から見ると、この話は甚だ理解しがたいが、それが行われていた社会の話として見れば、別に不思議はない。だからわれわれは、歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や生活状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきなのである。ところが、それを理解しないで、蛇とは異民族のことだとか賊軍のことだとかいうのは、まったく見当違いの観察ではあるまいか。
 もちろん、記紀の物語にあらわれているわれわれの民族生活が上記の二条にのべたように未開時代の状態であった、というのではない。ただわれわれの民族とても、極めて幼稚な時代を経過したものであるから、そういう遠い過去につくられ、その時代から伝えられている民間説話などが記紀の物語の書かれた頃にも存在し、そうしてそれに採用せられ編入せられた、と認め得られるのであって、同様の現象は文化の進んだいずれの民族においても見ることができる。のみならず、記紀にあらわれ
ている時代とても、一方には遥かに進んだ思想がありながら、他方にはなお甚だ幼稚な進行などが遺存し、文化の進に伴って新たに発達した風俗がありながら、ずっと未開の時代の儀礼や習慣などが(よしその意味が代わっているにしても)なお行われていたのである。
 次には、人の思想の発達したのちの想像のはたらきによって構成された話が古い物語にも少なくないことを、注意しなければならぬ。普通に「説話」といわれているものには、多かれ少なかれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国とかの話は、その根底に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語となってあらわれるのは、この種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な空想世界がこうしてつくり出されることは、後世とても同様であって、普通に「ロマンス」といわれるものにはすべてこの性質がある。人の内生活において本質的に存在している、いわばロマンチックな精神の表出として、いつの世にもそういう物語がつくられる。それを一々事実を語ったものと見て、タカマノハラは実は海外の某地方のことだ、などと考えるのが無意味であることは、いうまでもなかろう。

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