「在韓米軍 犯罪白書 駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」徐勝+広瀬貴子(青木書店)を読むと、韓国でも沖縄をはじめとする基地周辺での米軍犯罪や騒音問題その他、同じような問題が発生していることがわかります。
そして、戦後の米軍犯罪の起源が朝鮮の分断にあるという認識がなされていることもわかります。
1945年8月15日、朝鮮は、日本の過酷な植民地支配から解放されたということで、その日のうちに、朝鮮人の自由意思による民族国家を樹立すべく、朝鮮建国準備委員会を組織し、活動をはじめています。
でも、朝鮮建国準備委員会が進めた南北朝鮮による「朝鮮人民共和国」の建国は、朝鮮半島南部に駐屯した米軍による軍政によって、潰されてしまいます。
だから朝鮮では、日本の敗戦当初、米軍は「解放軍」と受け止められたようですが、実態は、新たな「占領軍」であったという認識が生まれるのだと思います。
そして、日本と同じように、戦後、朝鮮も米軍犯罪や騒音問題その他に悩まされてきたのです。
だから私は、協力関係を深め、ともに問題解決を目指すべきではないかと思うのです。
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第一章 米軍犯罪
Ⅰ 主要米軍犯罪
1 ケネス二等兵の尹クミ(ユンクミ)氏殺害事件
事件発生日時 1992年10月28日未明
事件発生場所 京畿道東豆川市保山洞 金ソンチョル氏宅の一室
被害者 尹クミ(女 当時26歳、米軍専用クラブ従業員)
加害者 マークル・リー・ケネス三世
(当時20歳、米第二師団ニ五歩兵連隊五大隊二等兵)
事件概要
1992年1月28日、京畿道東豆川市保山洞にある米軍専用クラブ従業員だった尹クミ氏が殺害された。同日午後4時30分頃、家の主人である金ソンチョル氏が遺体を発見したとき、被害者は裸体で子宮にはビール瓶2本、さらにペプシコーラのビンが局部に突きささるように押し込まれていた。
米第二師団に勤務するマークル・リー・ケネス二等兵は尹クミ氏の頭をコーラの瓶で乱打し、血を流して死んでいく女性の子宮にコーラの瓶を押し込み、肛門にカサの柄を突っ込んだのである。体はあざと打撲傷だらけで、正視できない無惨な姿であった。全身に白い合成洗剤の粉がまかれ、口には折ったマッチの軸が噛ませてあった。
事件発生時間は10月28日午前1時頃と推定され、死亡原因はコーラの瓶で殴られたことによる顔面陥没および出血多量と判明した。
結果
事件が発生するや議政府(ウィジョンプ)警察署強力係(強盗・殺人のような重罪を担当する。日本では強行犯捜査係)刑事一部では刑事40名を動員して捜査に当たり、米軍側でも軍捜査隊を出動させて韓・米合同で捜査が始まった。
尹氏の子宮のなかで(死体解剖によって)発見されたビールビンの諮問から、ケネス二等兵は10月30日に米第二師団ゲート前で捕まった。
94年4月14日、ソウル刑事地方法院 417号法廷で開かれた一審裁判において無期懲役が宣告され、94年12月16日、控訴審宣告公判で懲役15年に減刑された。尹氏の遺族が米政府から7100万ウォンの賠償金を受領して、民事手続きが終ったという理由からだ。ケネス二等兵は再び上告したが、94年4月29日、大法院一号法廷で開かれた裁判において棄却され懲役15年に確定した。
米国の公式謝罪と犯罪者である米兵の拘束捜査を要求するデモが続いて行われたが、犯人は(未決の段階では)最後まで拘束されなかった。懲役15年と確定してから94年5月17日になってようやく身柄が韓国側に引き渡され、天安(チョンアン)少年刑務所に収監された。事件発生から1年6ヶ月がたったときのことである。しかし韓米行政協定22条には、大韓民国法院が宣告した拘禁刑に服役している場合にも、米国の要請があれば韓国政府は好意的配慮をするようになっており、ケネス二等兵が米国に送還される可能性がまったくないとはいえない状態だった。
マークル・リー・ケネスのその後
東豆川で尹クミ氏を残忍に殺害した米兵ケネスが刑務所内で騒動を起こした事件が後になって明らかになった。
ケネスとリチャード・ダフ(ダフは殺人未遂犯である。93年12月16日、京畿道坡州(ハジュ)郡に所在するエドワード基地前で、タクシー運転手・韓昌烈(ハンチャンヨル)氏の首を後ろからナイフで刺して、懲役5年の宣告を受けている)は天安刑務所に服役中の囚人である。彼らは共同で謀議し、95年5月5日、10時30分頃に外国人収用舎棟である第5舎で犯行をおこした。その日は子どもの日で休日であった。
米兵たちは、受刑者への食事および手紙の配達が翌日に延ばされた、と刑務官をののしった。ケネスはコーヒーのガラスビンを廊下のアクリル窓に投げつけ、窓を割った。ダフは廊下にあった粉末消火器を刑務官の朴ソムスンと宋チャンホに噴射した。続いてケネスも廊下にあった粉末消火器をつかんで刑務官に向かって噴射した。彼らは公共機関で使用されている器物を破損し、韓国公務員に物を投げつけるなど騒動をおこしたのである。
ケネスとダフは公務執行妨害、公共器物破損の罪名で追加起訴され、96年1月15日に懲役8か月を宣告された。
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2 サロイス兵長の金菊恵(キムググケ)氏への性暴行事件
事件発生日時 1993年5月29日0時
事件発生場所 ソウル市瑞草洞レーベン・ホーフ
被害者 金菊恵(女、当時53歳、レーベン・ホーフ経営者)
加害者 ジョン・ロジャー・サロイス(当時27歳、米第ニ師団所属 兵長)
事件概要
1993年5月29日、ソウル市瑞草(ソチョ)洞で、「レーベン・ホーフ」を経営する金菊恵氏は7,米第二師団所属ジョン・ロジャー・サロイス兵長から殴打と性暴行を受け、脳挫傷などの重傷を負った。事件当時サロイス兵長は殺虫剤の缶とこぶしで被害者が気を失うまで殴るけるの暴行をつづけ、犯行後に逃走した。
事件発生12時間後に発見された金菊恵氏は永東(ヨンドン)セブランス病院に移され脳手術を受けたが、脳へのダメージは大きく、その後遺症の障害を背負って生きていくことになった。
この事件では最初、加害者の性暴行の有無について異論が出された。しかし、事件現場で被害者がパンティとパンティストッキングを脱がされた状態で発見された点、サイロス兵長が真夜中すぎの営業が終わる時間に一人でいる被害者を訪ねて来た点、金氏が強姦されたと証言した点などは性暴行をさらに具体的に立証するものであった。
サイロス兵長は性暴行を一貫して否認していた。事件を担当した韓国の瑞草(ソチョ)警察署刑事課では、「強姦致傷」でサイロスを検察に送致した。しかし担当検事(尹ジョンソク)は証拠がないとして単純暴行容疑で起訴し、裁判で公判検事(趙ヨンソン)は「暴行行為など処罰に関する法律違反」で懲役7年を求刑した。
ところが宣告公判を前にして、被害者の意識が一定程度、回復した。担当検事が永登浦(ヨンドゥンホ)聖母病院に入院していた被害者に会って調査書の作成をしたところ、被害者は自分が性暴行を受けたと陳述した。調査書は裁判部に提出され、性暴行の有無について争論が法廷で本格的に提起された。しかし趙ヨンソン検事は被害者の陳述を黙殺したまま、いかなる補充捜査もせず、被害者を証人として申請しないまま裁判を進めようとした。そこで担当裁判部(ソウル刑事地方院六単独、河ガンホ判事)は職権で被害者を証人として採択した。
法廷で被害者は自分が性暴行を受けたと(気は失ったがその点ははっきりしていると)陳述した。しかし、趙ヨンソン検事は形式的な質問をいくつかしただけで、結審では初めの求刑のまま暴行罪で7年を求刑した。これを見ていた裁判部が「この事件は法により懲役15年まで求刑できる」として、検事の求刑を制止した。あわてた趙ヨンソン検事は、それでは懲役10年に処してください」と求刑量を変えたのである。
宣告公判で、裁判部は「被害者が性暴行を受けたことは認められる。暴行罪を考慮し、懲役10年に処する」と判決した。裁判が終った後、「駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」(以下「運動本部」とする)代表団は、趙ヨンソン検事を訪ねて検察の態度に抗議し、即刻、(検事側から)控訴して強姦罪を追加起訴することを要求した。しかし趙ヨンソン検事は「被害者のいうことをどうして信じるのか」と拒否した。
「運動本部」代表団が裁判部の判決をとりあげながら重ねて抗議すると、「担当する事件が多くて、記録を検討する時間がない」と弁解しながら、結局量刑に満足しており、追加起訴はしない意思を明らかにした。
一方、サイロス兵長は、一審判決を不服として、控訴した。控訴審でも初めは性暴行の有無に関する調査がないまま裁判が進行した。「運動本部」で性暴行の有無を明らかにするようにという趣旨の書簡を裁判部に送った後、公判が再開された。裁判部(控訴五部)は当時の捜査チームの一人である蔡(チェ)ハクシク刑事を証人として採択した。
9月16日、蔡ハクシク刑事に対する証人尋問において重大な事実が明らかになった。担当捜査チーム(蔡ハクシク、朴チャンシク、崔ビョンイル刑事)は事件初期に認知報告書を通して「諸状況から性暴行の嫌疑が濃厚であり、被害者の膣分泌物を採取して国立科学捜査研究所に鑑定依頼した」と報告した。ところがこれは明白なうそであった。捜査記録のどこにもその結果に関する報告はなく、蔡ハクシク刑事も国立科学捜査研究所に依頼しなかったと陳述した。この点を追求する裁判部と検事の質問に対して、蔡ハクシク刑事は、「首を痛めて二か月間休んでいたのでよく思い出せない。わからない」と弁明した。蔡刑事は、国立科学捜査研究所ではなく永東セブランス病院に鑑定依頼したのだが、結果はなんの反応もあらわれなかったと聞いたような気がすると陳述した。しかし医師がだれだったのかはわからないと答えた。反応があらわれなかったという結果が、なぜ報告されなかったのかという裁判部の質問にはついに答えることができなかった。すべてが虚偽であるからだ。
結果
「運動本部」では蔡ハクシクなど担当警察官3名を職務遺棄、公文書偽造などの嫌疑で告発したが、警察は蔡ハクシク刑事にたいしてのみ「公文書偽造」などの嫌疑を認めた。そのうえで、「これまでの警察官としての功労が認められる」として不起訴処分にした。
一方で裁判部は検事の要請で被害者、金菊恵氏を94年10月14日の公判において証人として採択、尋問した。尋問で金氏は性暴行を受けたと陳述したが、検察は追加起訴や控訴状変更もなく控訴棄却を要請した。10月26日に開かれた宣告公判において担当裁判部は、一審判決の強姦罪に対しては証拠不十分を理由に破棄して暴行罪のみにし、原審の懲役10年を破棄して懲役2年6ヶ月を宣告した。
結果的に、韓国警察の故意あるいは過失で決定的な証拠が隠滅され、犯行米兵は非常に軽い処罰ですむことになった。
これは民事関係にも作用し、3900万ウォンの賠償を受けるにとどまった。(被害者の治療費はすでに2000万ウォンを超えたが、治療の継続が必要な状態であり、いまも苦痛を訴えている)。
一方で犯人サイロス兵長は、95年1月、天安刑務所に収監されたがあ、8月15日に金泳三(キムヨンサム)政権の8・15(光復節、日本の植民地支配から解放された記念日)特赦で釈放された。