真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

アパルトヘイト関連諸法と人種差別と台湾有事

2023年06月12日 | 国際・政治

 下記は、「アフリカの21世紀 第3巻 アフリカの政治と国際関係」小田英郎編(勁草書房)から「第四章 人種主義からの解放」の一部を抜萃したものですが、南アフリカの人種差別法であるアパルトヘイトが具体的にどのようなものであったのかということ、またその考え方が抱える矛盾や、次第に高揚する国際的な非難、さらに激昂するアフリカ人の反アパルトヘイト運動よって維持できなくなっていった経緯などがわかりす。
 だから現在、あからさまな人種差別法はなくなったようですが、それは人種差別がなくなったということではないと思います。特に、アメリカの対外政策や外交政策のなかに、私は今も、反共主義と結びついた人種差別が存在するのではないかと思います。

 最近何度か、中国の「秘密警察」に関する記事や報道を目にし、耳にしました。
 それによると、中国の公安局が、海外に「秘密警察」の拠点として、「海外派出所」の設置を進めているということです。そしてそれは、「外交関係に関するウィーン条約」に違反しているということです。「外交関係に関するウィーン条約」は、他国内において在外公館以外に許可なく政府関連施設を設置することを禁じており、「海外派出所」は国際条約違反だというわけです。
 確かに、その「秘密警察」が存在し、日々スパイ活動のみならず、反体制派の取り締まり、さらに、その活動に関わって、脅迫やテロまでやっているとすれば、きちんと対処すべき問題だとは思います。
 しかしそれが、ウクライナ戦争が続いており、台湾有事が心配されている現在、アメリカの連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation, 略称FBI)の調査結果として発表されたということが、私は気になります。
 ロシアや中国を悪者とする、イメージ作りの一環ではないかと思うのです。

 中国の「秘密警察」の存在を問題にするのであれば、当然、それを遥かに超えるアメリカの中央情報局(Central Intelligence Agency 略称CIA)の所業も問題としなければならないと思います。
 先日、アメリカのバーンズ CIA長官が、”中国の習近平国家主席が、2027年までに台湾侵攻の準備を行うよう軍に指示していることを把握している”との見方を示しましたが、CIAによる台湾有事に関わる工作が進んでいることを示しているのではないかと思います。
 だから戦争に発展したウクライナの問題に、CIAが無関係であったということはあり得ないと思います。
 ラテンアメリカ諸国の軍部などによるクーデターをふり返れば、反米的な政権や社会主義的政権の国家におけるクーデターの多くが、アメリカのCIAによる工作と支援のもとになされたことがわかります。また、ウィキペディア(Wikipedia)には、CIAが主導し関与したとされる多くの作戦や事件も取り上げられています。だからCIAは、今も世界中でスパイ活動や工作をやっているのだと思います。
 ウクライナの政権転覆も、アメリカのCIAの介入なしにはあり得なかったと思います。
 それは、CIAの日本や朝鮮における活動、すなわち、日本や朝鮮を反共国家とするために、さまざまな工作をくり返した事実からも推測できることだと思います。
 そうしたアメリカのCIAによる工作には全く目を向けず、今、客観的根拠の乏しい中国の「秘密警察」を論じることに、私は違和感を感じるのです。

 今大事なことは、国際組織がウクライナ戦争に至る経緯をふり返り、ウクライナ側だけではなく、ロシア側の主張もきちんと聞いて、主張が対立する部分については必要な調査を実施し、停戦の話を進めることだと思います。両方の主張に耳を傾ければ、何が問題かということがわかり、調査すべきこともわかって、客観的事実に基づいた停戦が可能になるのではないかと思います。 

 私は、なぜ副大統領時代にくりかえしウクライナを訪れていたバイデン大統領や、ウクライナに入り込んでいたバイデン大統領の息子のハンター・バイデンの行動内容や目的を問わないのか、さらに、米国務省のビクトリア・ヌーランド(オバマ大統領上級補佐官)が講演で、”我々は、ウクライナの繁栄、安全、民主主義を保障するために50億ドル以上を投資してきた”と述べたというのに、その使い道を問わないのか、と思うのです。その背後には、間違いなくCIAの日常的な活動やさまざまな工作があったのではないかと思います。
 ヌーランドが、電話でやり取りした録音がリークされ、ウクライナに傀儡政権を樹立するべく画策していたことが明らかにされているのに、なぜ、それさえ不問に付されているのか、と思います。
 わたしから見れば、ウクライナに対するアメリカの介入は、アメリカが中南米などでくり返してきた介入と同じです。

 ウクライナ戦争で悪者にされているロシアが、過去に、自らの覇権や利益のために、他国のクーデターに関わり、アメリカのように他国の政権転覆をくり返してきたでしょうか。また、中国が、自らの覇権や利益のために、他国のクーデターに関わり、アメリカのように他国の政権転覆を繰り返してきたでしょうか。
 今、中国の「秘密警察」が、ウクライ戦争の停戦や台湾有事回避の問題を差し置いて論じなければならないほど、重大な問題でしょうか。今、中国の「秘密警察」を問題にしなければならない理由は何でしょうか。 

 私は、現在の世界政治は、アメリカの覇権や利益のために作り上げられたイメージ、すなわちロシアや中国を悪者とするイメージで動いているように思います。
 そして、そうしたイメージは、アメリカが一方的に流す、反共主義を背景とした中国・ロシア敵視の日々の報道によって作り上げられていると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第四章 人種主義からの解放
                        ── 南アフリカ共和国とナミビア

    Ⅰ 南アフリカ共和国のアパルトヘイトと反アパルトヘイト運動の展開

 ニ 国民党政権のアパルトヘイト政策
 1948年の総選挙において初めて単独政権を樹立した国民党は、以上に述べたようなアフリカーナー
の主体性というものを全面に押し出して誕生した政党であった。言葉を換えて言うならば、国民党はまさにアフリカーナー・ナショナリズムが生みだした政党であった。同党は政権の座に就くと同時にアパルトヘイト政策、すなわち白人と黒人の全面的な分離政策を積極的に推進したのである。そしてこれは周知のように、居住地域、教育、移動、職種にはじまって婚姻、公共施設(公園のベンチ、公衆トイレ、鉄道の車両、海水浴場など)に至る政治・経済・社会のあらゆる分野における人種的分離を固定化するものであった。
 ところでアパルトヘイトという言葉はアフリカーンズ語で「分離」を意味する。そしてこの言葉が国民党のイデオロギーおよびそれにもとづく政策全体を指してはじめて用いられたのは、1943年3月26日付けの国民党系新聞『ディ・ブルヘル』紙の社説においてであると言われているが、一般的には1948年の総選挙に際して、国民党が選挙スローガンとしてこの言葉は知られるようになった。同総選挙において国民党は、例えば対立政党である統一党に投票すれば人種的平等が実現し、白人の特権が奪われるばかりでなく「コーヒー色の人種」つまり白人と黒人の混血が大量に発生するであろうといった具合にいわゆる「国禍(ブラック・ペリル)」に訴えて少数白人の危機意識をあおり政権の座に就いた。他方有権者(白人)の大半は支配人種としての地位に固執すると同時に少数派としての孤立感を抱いていたために、白人優越主義というイデオロギーを堅持して白人の支配的地位を力で維持しようとする政府を望んでいたのである。したがって、純潔な白人種の保全そして別個の民族社会としての土着民の保護のために、白人種と様々なアフリカ人民族(すなわちコーサ、ズールー、ソト等の諸部族)のあいだで国土は公平に分割されるべきであり、アフリカ人保留地はアフリカ人にとって真の故郷となるべきである、というアパルトヘイトのイデオロギーは、白人有権者の希求に合致するものであった。
 かくして国民党は、諸権利の剥奪、選択の自由の制限、そして不平等の制度化を目指す人種差別法案を次々に成立させて非白人に押し付けていった。なおこうした内容の人種差別法は先に述べたように国民党政権成立以前にも存在したが、両者の間にはその程度が違うだけでなく、質的にもある程度違っているという。すなわちブルーケスは次のように述べている。「1948年の人々は自分達の父親の偏見を合理化し、アパルトヘイトを道徳的原理だと言い始めたのである。種族保存の教義は、宗教上の教説的な色合いを濃くした。白人の人種的同一性を確保しておくのは、……道徳の至上命令となったのである。現代のアパルトヘイトは、このようにかつての分離や<隔離>以上のなにものかなのである」それでは以上の議論を踏まえてアパルトヘイト諸法を重点的に列挙してみたい。
 社会的側面における代表的なアパルトヘイト法は以下の通りである。
 雑婚禁止法(1949年)および背徳法……異人種間の婚姻と性的交渉を禁止。
 人口登録法(1950年)……人種別の住民登録。これによって白人、カラード、アフリカ人の区別を明確化した(同法成立以前は、膚の白いカラードなどは白人として扱われたりしていたが、以後一つの人種的範疇としてのカラードの存在が明確化された)。
 原住民パスの廃止および文書統一に関する法(通称パス法、1952年)……すべてのアフリカ人は、照合手帳をつねに携行することが義務づけられ、これによって全国的な規模でアフリカ人の移動を統制し、かつ白人都市へのアフリカ人の流入を規制した。
 集団地域法(1950年)および公共施設分離法(1953年)……都心からのカラード、インド人、そしてアフリカ人の排除、スポーツ、海水浴場、公衆トイレといった公共施設の人種別の使用など人種にもとづく社会的・物理的分離。
 アフリカ人教育に関するものとしてはバンツー教育修正法(1953年)があり、同法にもとづいてこれまでキリスト教伝道団によって行われていたアフリカ人の教育が廃止され、政府の政策に即したアフリカ人教育を実施するためにすべて公立化された。
 アフリカ人の地方行政についてはバンツー職権法(1951年)およびバンツー自治促進法(1959年)を挙げることができよう。両法は基本的にはアフリカ人保留地における伝統的なアフリカ首長の権限を強化して、政府の傀儡とするところにその目的があった。
 ところで南アあるいは少なくとも南アの大都市において日本人は、「名誉白人」の称号を与えられ白人並みの待遇を与えられていることは周知の通りである。しかしこうした日本人に対する処遇は決して法制化されたものではない。小田英郎教授によればこれは、1961年4月のヤン・デ・クラーク内務相の議会答弁のなかで集団地域法との関連においては日本人は白人の一員と見なされ、扱われると述べたことに由来しているが、「名誉白人」という言葉自体は、もともとジャーナリズム用語であって、正式のものではない、という。
 ところでアフリカ人と白人の分離であるアパルトヘイトを徹底するならば、その論理的な帰結として白人国家としての南アからアフリカ人を分離するところに行き着かざるを得ないであろう。そして事実、国民党政権は50年代末以降こうした方向へと向かっていった。すなわち白人政権は、アフリカ人の各部族(例えばズールー族、コーサ族など)ごとに10ケ所のバンツースタン(のちにホームランドと呼ばれる)という居住地を設定し、そして各地域ごとに自治権を与えて白人社会から分離しようとしたのである。これがいわゆる「分離発展政策」である。こうした政策は70年代に入るとさらに徹底され、ホームランドには独立が与えられることになり、かくして1976年にはトランスカイ、77年にはボプタツワナ、79年ヴェンダ、そして81年にはシスカイがそれぞれ南ア政府の手によって独立させられたのである。しかしホームランドは、面積も狭くまた地味に乏しいためアフリカ人全人口を徹底吸収できない状態にある。かくして余剰人口は隣接する白人国家、すなわち南アへ出稼ぎに行かざるを得ないのであり、他方南アはこれによってアフリカ人を低賃金労働力として確保することができるわけである。さらに南ア人口の圧倒的多数を占めるアフリカ人を外国人として切り離してしまえば、南アで第2位の人口を有する白人が統治権を独占しても少数支配という汚名を逃れることができる。これが国民党政権の主観的な理論であった。
 しかしながらアフリカ人を切り捨てようとするこうした政策を国際社会が容認するわけはなく、今日に至るまでホームランドの独立を承認した国は南ア以外には存在しない。また都市に居住するアフリカ人をいかに処遇するのか、これが白人当局にとって大きな問題となった。アフリカ人に白人の居住地域である都市への居住を認めることは、分離発展政策の本来の主旨からいえば矛盾を孕むものである。しかしながら低賃金労働力としてアフリカ人を確保するためには都市への居住を認めざるをえない。かくして国民党政権はこうした矛盾を解消するとともに、次第に高揚する国際的な非難と激昂するアフリカ人の反アパルトヘイト運動に対処するために、70年代後半以降アパルトヘイトの「改革」に着手したのであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする