真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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独裁者の末路とゼレンスキー大統領

2023年08月21日 | 国際・政治

 アメリカは約45カ国に、500を超える軍事基地を持っているといいます。日本には、三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保、沖縄など81か所に、米軍専用基地を持っているということです。
 それらの軍事基地は、表向きは「世界平和」のためということですが、内実はアメリカの「覇権と利益」のために存在するのだと思います。それはアメリカが、砂川事件の東京地裁判決「アメリカ軍の駐留は憲法に違反する」(伊達判決)を受け入れず、司法介入によって覆したことでわかるような気がします。
 本来、世界平和のために、アメリカが他国の領土に軍事基地を持つということ自体、おかしなことだと思います。矛盾していると思います。だから、それはアメリカの覇権と利益のためなのだろうということです。そして、その捉え方が間違っていないことは、アメリカの対外政策や外交政策をふり返ればわかると思います。

 アメリカは、あちこちで多くの国の独裁者と手を結び、搾取や収奪をくり返してきました。グアテマラでも、独裁者ポルヘ・ウビコと手を結び、特権的な権利を手にして、利益を得るシステムを構築したために、ウビコの後を継いだアバレロが支持を失ったとき、活路を見出すことができなかったのだと思います。それは、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)の、下記の記述でわかります。

トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった”

 アメリカは、”民主的に選ばれた大統領よりも独裁者”のほうが好きなのだと思います。特権的な権利を得て搾取や収奪をすることが可能であり、また、相手国の人々の反発や抵抗を恐れる必要がないからです。そして、手を結ぶ相手国の独裁者が、国民の反発や抵抗によって、政権を維持することが難しくなったら、その独裁者を見限り、使い捨てにすることができるからです。
 私が見逃すことのできないことは、アメリカと手を結んだ独裁者の末路です。”1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した”とあるように、ウビコも、最終的に自国に留まることができず、アメリカに亡命しているのです。李承晩やマルコスと同じように。

 被害の拡大や増え続ける犠牲者のことを考えれば、ウクライナ戦争は一日も早く停戦すべきだと思いますが、この戦争は、ロシアの孤立化、弱体化を意図するアメリカが主導しているために、停戦の交渉が進まないのだと思います。だから、ウクライナ戦争が、いつ、どのような結末を迎えるかはわかりませんが、私は、ゼレンスキー大統領の末路も、アメリカと手を結んだ独裁者ホルヘ・ウビコと似たようなことになるのではないかと想像します。なぜなら、ウウライナの人々の多くは、ロシアと戦争などやりたくはなかったと思うからです。
 ヤヌコビッチ政権を顚覆し、NATOに加盟して、自らの活路を見出そうとしたのは、アメリカと手を結んだごく一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派オリガルヒなのだろうと想像します。

 ウクライナはかつてソビエト連邦を構成した国です。ロシア人も少なくなく、ロシアからの情報も途絶えることはないだろうと想像します。だから、いつまでも西側諸国のプロパガンダが通用することはないと思います。ウクライナの一般市民は、長く続く戦いの日常を自問し、きっと戦争に至る経緯やウクライナ戦争を主導するアメリカの好戦的な関与を知るようになって、戦争をはじめた政権に対する反発や抵抗を強めていくだろうと思うのです。

 現在、ウクライナと似たような状況にあるのが台湾だと思います。  
 先だって、台湾を訪問した自民党の麻生副総裁は、中国を念頭に「戦う覚悟を持つことが抑止力になる」などと訴えたといいます。アメリカの思いや意図を、アメリカに代わって訴えたのではないかと思いました。
 でも、世論調査では台湾の多くの人々が、現状維持を望んでいるといいます。中国との戦争を覚悟して、台湾の独立を成し遂げようなどと考えているのは、ウウライナの場合と同じように、アメリカと手を結んでいる一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派の富裕層だろうと思います。そうした人たちには、中国を孤立化させ、弱体化させようと意図するアメリカとの関係が深く、いろいろな支援もあるのではないかと思います。

 ユネスコ憲章には、”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない”とありますが、アメリカと一体となっている麻生副総裁は、そういう意味では、すでに中国と戦争をはじめているように感じます。
 アメリカとの同盟関係の強化は、日本の一般国民にとっては、まったくプラスにならないと思います。同盟国に軍拡を求めるバイデン政権の「統合抑止戦略」は、実は、抑止ではなく、緊張を激化させ、中国を挑発して、限定的な軍事衝突をもたらし、その軍事衝突を根拠に、中国を孤立化させ、弱体化させようというアメリカの戦略を正当化する言葉だろうと思います。やっていることは、すべて戦争の準備なので、日本は、憲法を盾に、アメリカと距離を置くべきだと思います。

 下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、「ウビコ独裁の終焉」と「作られた”共産主義の影響”」と題された文章を抜萃しました。
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                   第一部 独裁から”束の間の春”へ

                      独裁者ポルヘ・ウビコ 

 ウビコ独裁の終焉
 強大な独裁者も使い捨てられるものである。アメリカにとって役に立つ男もグアテマラ国民にとっては憎悪の的となっていた。しかもウビコ自身は国民の幅広い層で憎悪が蓄積され、それが迸(ホトバシ)り出るまで気が付かなかった。
 1940年代に入ると、経済危機は一応回避されたが、カリブ諸国では独裁者の支配権力が揺るぎはじめた。ニカラグアのアナスタシオ・ソモサの支配が脅かされ、ドミニカではラファエル・トルヒーヨが困難な局面に立たされていた。キューバのフルヘンシオ・パチスタは選挙で敗北した。
 ウビコ打倒の胎動が始まったのはグアテマラの最高学府サン・カルロス大学のキャンパスからである。1676年ドミニコ会の聖職者によって創設されたこの大学は、中米で最も古い大学で、ラテンアメリカの権威ある最高学府の一つとの評価を得ていた。サン・カルロス大学は常に大衆運動の先駆けであり、世論のバロメーターでもあったので、当然のことながら真っ先に政府の弾圧を受けていた。学生たちは政治問題を避け、アカデミックな研究の自由を求めて議論を重ねていたが、その水面下ではウビコ独裁政権を打倒しようという強い意思が高まっていた。
 アメリカの外交筋でもウビコが三期目の大統領(1943~1949)就任するのはかなり困難であろうと判断していた。(FBI調書「今日のグアテマラ」1942年6月)。
 独裁者打倒のために立ち上がった学生たちに、進歩的大学教授、教師、労働者たちが呼応した。1944年6月なかば、研究会という名目の学生の集会に、教師達が合流してウビコ打倒の決意は固まった。中産階級はウビコを嫌悪し、上流階級ももはやこの傲慢な独裁者を必要としなくなっていた。サン・カルロス大学で学生たちがはじめて明白に政治問題を討論しはじめたとき、独裁政府の態度は優柔不断で、これに参加した数名の学生が短期間拘留されたり、教師たちが職を失った程度で、国民の政府に対する恐怖感は消え失せていった。
 6月30日は、グアテマラの祝日「教師の日」である。この日、教師たちは軍隊に先導されて、重い国旗を掲げ、整然とパレードを行う習わしになっていた。だが、1944年の場合は、その数日前に予行練習が行われたとき、多くの教師たちが参加したものの、突然かれらは練習をボイコットした。間もなく多数の市民が加わり、学生や教師の要求を支持した。しかし、市民たちはこの段階でウビコ辞任までは要求していなかった。
 6月22日、ウビコは憲法で保障された基本的人権の一時停止措置でこの動きを封じ込めようとした。かれの政権化においてこの措置がとられたことがなかったので、この事実だけを見てもウビコの独裁政権がすでに最後の段階に達していたことがわかる。
 6月24日、311名の署名人の署名を集めた憲法停止措置解除の請願書を携えて、2人の勇敢な代表者が大統領府へ赴いた。独裁者に対して、これほどの大胆不敵な行動がとられたことはかつてなかった。同じ日、ウビコ政権下ではじめて群衆が首都に集まり、反政府デモを行った。また。僅かではあったが、はじめてウビコ辞任を要求する声があがった。最初、学生の小さなグループから起こった反政府運動は、知識人、労働者、普通の勤め人を巻き込んでグアテマラ市の市民全体が独裁者に挑戦したのである。
 その後数日間、軍も警察も鳴りをひそめていたが、もう市民は彼らを問題にしなかった。ウビコの権力は衰えて、軍はウビコに忠誠を誓ってはいたが、本気でこの老独裁者を護衛する気がないことをグアテマラ市民は敏感に感じとっていた。
 1944年7月1日、ウビコは自ら辞任した。もし独裁者が戦いを挑み、もう一度国民を抑圧したら勝っていたかもしれない。アメリカもウビコに退陣を要求したりはしなかった。アメリカ国務省は、ウビコから反政府勢力との調停を依頼されたが。駐グアテマラ大使へは斡旋はほどほどにしておくようにと指令した。アメリカはウビコをアナクロニズムと見做し、見切りをつけていた。アメリカにとっては、ウビコに代わるべき、役に立つような後継者が実現すればそれでよかったのである。
 では何故ウビコは辞任したのだろうか。側近の追従ばかりを信じて、国民の信頼を失っていたことに気が付き絶望したのか。アメリカの支持を失って不安を感じた結果なのか。駐グアテマラ・アメリカ大使ログにウビコは「大多数の国民が反対したこと、とりわけ絶対の忠誠を誓っていた多くの著名人の名を、311名の憲法停止措置解除の請願リストの中に見い出したことに憤り、失望した」旨を報告している(Revista de Ia Revolucion 1945年1月))。当時かれは健康状態に不安を感じていたので、しばらく大統領職を辞し、再起を期すつもりだったとも言われているが、ウビコ自身は何も語っていない。

 1944年7月1日。ウビコは辞表を提出した後、副官に命じて彼の後継者となる3人の候補者を選ばせた。選ばれた3人はフェデリコ・ポンセ、エドワルド・ビジャグラン・アリサ、及びブエナベントウーラ・ピネダで、いづれもあまり知名度の高くない将軍達であった。かれらは軍事3人評議会(軍最高幹部3人で構成された国の暫定統治機関)を結成するよう要請された。
 7月4日、この軍事評議会で最も野心家のポンセ将軍が議会を説得してかれの大統領就任を承認させた。ポンセは暫定大統領に就任すると、政党、労働組合の結成を許可し、自由選挙の実施を確約した。しかし、学生や教師たちはポンセを信じなかった。ウビコに挑戦し、独裁者を辞任に追い込んだ大衆は、もう軍事政権を恐れなかった。
 1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した。これがグアテマラ革命、或は10月革命のはじまりである。ウビコはアメリカ政府に彼の資産引き渡しの交渉を執拗に依頼したが、かれの資産はすでにグアテマラ政府に没収されていた。1946年、ウビコは亡命地で没した。

 作られた”共産主義の影響”
 東西冷戦が深刻になってゆくなかで、共産主義の脅威は実態を上回る影をグアテマラ、アメリカ関係に投げ掛けはじめた。当時コスタリカを除く中米四カ国(エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア)では共産党は非合法化され、アメリカは騒ぎ立てるほどの脅威は存在しなかった。1948年、駐グアテマラアメリカ大使はエドウィン・カイルからリチャード・パターソンに替わり対アバレロ政府感情も、好意的で礼儀正しかった善人のカイル大使の時代とは様変わりした。
 それまでアメリカ政府はアバレロ大統領とは概ね良好な関係を保ってきたし、インテリジェンス・レポートなどから判断してもソビエト共産主義の中米に対する影響については杞憂とみていた。しかし、パターソン大使はUFCOの申し立てを全面的に受け入れ、労働法成立の影には共産主義の疑惑ありとした。UFCOはさらに同社の労働組合幹部に左翼先鋭分子がいると報告した。しかし、実情は大部分の労働者は読み書きができず、左翼分子といってもマルクスもレーニンも知らず、理論闘争など不可能な彼らの脅威がどの程度のものであったか疑わしい。しかしながら、労働法は組合活動の大きな後盾となり、大土地所有者やUFCOに打撃を与えたのは事実である。
 アメリカ政府も独裁よりも民主主義の実現を推進してきたが、トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった。
 トルーマン政府は信頼したのは、長くグアテマラに在住する有力なアメリカ人からの情報であった。とりわけUFCOグアテマラ総支配人ウィリアム・テイロン、IRCA社長トーマス・ブラッドショウの2人の民間人と、カイル、パターソン両大使に仕えた外交官ミルトン・ウエルズによる情報は、アメリカのその後の対グアテマラ戦略に微妙な変化をもたらした。
 かれらのかなり偏見に満ちた情報のために、進歩的意見を持つもの、中道的左翼思想を持つものは一括して共産主義者の範疇に入れられ、1949年頃になると、トルーマン政府はグアテマラを共産主義汚染された不愉快なの国と見なすようになった。

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