下記は、「アメリカ外交とは何か」西崎文子(岩波新書)から、の抜萃ですが、アメリカという国が、昔から謀略がらみの戦争によって、覇権と利益を維持・拡大して来た国であることがよくわかると思います。
スペイン領だったキューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号「爆沈」が、外からの攻撃によるものだという証拠はなかったのに、新聞や議会が、それをスペインの「謀略」であると決めつけ、世論を煽ったため、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ」の大合唱となり、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)に突入していく流れは、その後のアメリカの戦争で、くり返された構図のように思います。
アメリカは自由をもたらす国であり、戦う相手国は、悪魔のごとき国であるとするプロパガンダに基づく戦争が、米西戦争の時から、続いていると思うのです。
だから、アメリカにとって、メイン号爆沈の真の原因は、どうでもよかったのであり、スペインの「謀略」でなければならなかった、といってもよいと思います。
朝鮮戦争では、北朝鮮軍が事実上「国境線」と化していた38度線を越えて、一方的に韓国に侵略戦争を仕掛けたとされ、ベトナム戦争では、北ベトナムの魚雷艇がアメリカ駆逐艦に対する魚雷攻撃を行ったとされ、湾岸戦争では、クウェートにおいて、イラク軍が許されざる残虐行為を行ったとされ、イラク戦争では、危険な国イラクに大量破壊兵器が存在するとされて、アメリカ軍の武力行使が正当化されたと思います。
アメリカの戦争には、いつもこうした「謀略」がらみのプロパガンダがあったと思います。
そういう意味で、15年間のアメリカ滞在経験を持つという、フィリピン独立運動指導者エミリオ・アギナルドの「私は怪物の腹に中に住んだことがあり、その怪物がどのようなものかを知っている」という指摘は、フィリピンを帝国主義支配から解放し「自由の領域」を拡大することを旗印に掲げながら、戦争によって、スペインを駆逐したアメリカという国の、グロテスクな真の姿を巧みに表現しているのではないかと思います。
だから、現在世界中でアメリカ離れが進んでいるのは、中国やロシアの策謀によるというより、むしろ、アメリカが、搾取や収奪を続けてきた結果であるように思います。
そんなアメリカ離れが進む現在もなお、アメリカと同盟関係を続けている国の政権は、極論すれば、アメリカとともに搾取や収奪をする国であり、また、アメリカに対しては、自国の富を惜しげもなく差し出す売国的政権であることを示している、と私は思います。
それは、日本の戦後史をふり返ってみれば、実感できるのではないかと思います。
アメリカの司法介入による米軍駐留合憲判決、戦後三大事件、公職追放解除、レッドパージ、数々の密約、日米地位協定、米軍基地問題などで、日本の政権が、常にアメリカの意向に従っている事実が、そのことを示していると思います。
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第2章 西半球の警察官
2 「帝国主義」をめぐる攻防
20世紀の幕開け
激しい社会変動に見舞われていたにもかかわらず、多くの国民の目から見て、アメリカの20世紀に向けてのスタートは幸先の良いものであった。世紀末の1898年、アメリカはスペインとの戦争で勝利をおさめ、海外に植民地を持つ帝国へと脱皮したからである。新しい世紀が幕を開けた1901年3月、再選を果たした共和党の大統領ウィリアム・マッキンレーは、就任の演説で次のように語り、『自由の領域』のさらなる拡大がアメリカの使命であることを強調した。
……自国での自由を確立したアメリカ国民は、いかなる土地へ行こうとも自由への愛情を持ち続けるのであり、自由を永続させる基盤を他の人々のためにも確保しようとすることによって、われわれ自らの自由が失われてしまうという考えは、恥ずべきものと拒絶すべきである。われわれの制度は拡張する事によって腐敗することはないし、われわれの正義に対する感覚が、遠い海原の熱帯の太陽のもとで衰弱することもない。今後もわが国は、……神への畏敬の念のもとに「与えられた機会を手にとり自由の領域をさらに拡大する」のだ……。
米西戦争の背景
アメリカ「帝国」誕生のきっかけとなった米西戦争は、マイアミから約150キロのところに位置するキューバに端を発するものであった。スペイン支配下のキューバでは、1860年代から70年代にかけて、キューバ人による独立戦争が展開されたが、失敗に終っていた。しかし90年代半ばには、アメリカ帰りのジャーナリスト、ホセ・マルティの率いるゲリラ闘争が再び独立を目指して活動を繰り広げるようになる。スペインはこれに弾圧的な政策で対抗しようとした。なかでも悲惨な結果をもたらしたのは、キューバ人を強制的に収容施設に移住させゲリラを炙り出すという方針であった。衛生状態の劣悪さのために、20万人にも上る人々が、収容所で死亡したと言われている。
このような状況に対し、アメリカの政府と世論とは次第に関心を強めていた。専制的な抑圧者スペインと戦う果敢なキューバというイメージが、アメリカ世論の「正義感」を煽っていく。ちょうどその頃、新聞が普及しはじめ、購読者の争奪戦が繰り広げられていたことも、この問題への人々の興味を高めることになった。煽情的な記事は、販売部数の増加にもつながりやすかったからである。このような世論を追い風としつつ、カリブ海地域に対するアメリカの威信や影響力を誇示したいという膨張主義者たちは、介入への準備を着々と進めていった。1898年2月、キューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が爆沈し、250人の乗組員が死亡した。これこそが、膨張主義者たちが待ち望んでいたものであった。この爆発が外からの攻撃によるものだという証拠はどこにもなかったが、新聞や議会、そして世論はこれをスペインの謀略であると決めつけ、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ」の大合唱が沸き起こる。世論の高まりの中で、外交交渉の成功は望むべくもなかった。キューバ政策の根本的見直しを要求するアメリカとスペインとの折り合いはつかず、4月、ついに議会は宣戦を布告した。
フィリピン政策と「遠大な政策」
開戦から数日後、米西戦争の最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起った。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、愕きもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったからである。
しかし、この戦略は、マッキンレー政権の元で、時間をかけて練り上げられていたものであった。当時の共和党政権の中枢は、大統領や海軍次官セオドア・ローズヴェルトなどをはじめ積極的な海外膨張主義者、とりわけ市場の拡大を目指す人々で占められいた。なかでも彼らが強い関心を払っていたのは中国である。他方、当時の中国は、日本やロシア、そしてヨーロッパの列強によって半植民地化されようとしていた。何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいと考えていたマッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。
「素晴らしい小さな戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか3ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。
帝国主義のアメリカ
しかし、米西戦争での勝利は、同時にアメリカを後戻りの困難な道へ誘うものでもあった。というのも、キューバとフィリピンを帝国主義支配から解放し「自由の領域」を拡大することを旗印に掲げていたアメリカが、実際にはこの二つの国の支配者として立ち現れることになったからである。
すでに述べたように、キューバでは、米西戦争の勃発よりずっと以前から独立への闘いが続けられていた。それは、フィリピンでも同様である。独立運動の指導者エミリオ・アギナルドは、戦争勃発当時、国外追放の身であったが、アメリカ軍の保護下にフィリピンに戻り、スペインに対する戦争に加わった。そしてアメリカは、表向きには、自由の擁護者、そして、このような独立運動の指導者たちを支援する立場を表明したのである。
しかし、戦争が進むにつれて、独立派は強い失望を味わうことになる。アメリカの参戦によって、戦争の性格が、植民地の独立戦争から、スペインとアメリカという大国間の戦争へと変容していったからである。それは、キューバやフィリピンのゲリラたちが従属的な立場へと追いやられることを意味していた。1899年8月中旬、首都マニラが陥落した際に、デューイがそれまで数週間マニラを包囲していたアギナルドの入市を拒み、勝利をアメリカのものとして誇示したのは、その典型的な例であった。「私は怪物の腹に中に住んだことがあり、その怪物がどのようなものかを知っている」。15年間のアメリカ滞在経験を持つマルティの警告は、まさに正鵠を得たものだった。
独立運動の指導者たちにとって、米西戦争の終結は、アメリカとの新たな戦いの幕開けに他ならなかった。そして、フィリピン人を「教育し、高め、文明化するために」植民地として領有し、キューバに「完全な静謐」と「安定した政府」とが確立されるまで軍事占領を続けるというアメリカの政策が、その意図とは逆の結果をもたらしたのは当然だったであろう。1899年2月に勃発したアメリカとフィリピンとの戦争は、多大な犠牲者を出しながら、1902年にはアメリカの勝利に終わる。しかし、アメリカへの依存を深めるエリート層と、アメリカに反発する勢力とに分裂したフィリピン社会に、安定は訪れなかったそれは、キューバでも同じである。次節で詳しくみるが、アメリカに対する根源的な不信と反発とを持ちながら、軍事、政治、経済など、あらゆる面でアメリカへの依存を断ちきれなかったキューバに、安定した政権が樹立される可能性は無きに等しかった。
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