安重根に射殺された伊藤博文は、韓国統監府初代統監であり、また、日本の初代内閣総理大臣で、そのめざましい活躍が評価され「明治の元勲」と呼ばれる。そして、その肖像が現在でも使用可能な千円札に印刷されていたことは、日本人なら誰でも知っていることである。しかしながら、彼を射殺した安重根が韓国や朝鮮民主主義人民共和国で「義士」「烈士」「志士」などと呼ばれ、愛国者として最大級の評価をされているのは何故であるか。よりよい日韓関係や日朝関係を築くためには、歴史をふり返り、その溝を埋めなければならないと思う。
伊藤博文の出身校は松下村塾であるというが、「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)には、吉田松陰の「魯墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失うべからず。ただ章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし」という言葉が紹介されている。「ロシア・アメリカとの交易において損をした分は、朝鮮・満州・中国の土地を奪って埋め合わせをすればよい」という意味で、伊藤博文、井上馨、山県有朋、寺内正毅など、主として長州閥の有力者の対朝鮮強硬論に受け継がれていった、いわゆる「征韓論」の考え方である。「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)よりの抜粋である。
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第6章 保護という名の侵略
安重根が伊藤を射殺
・・・
伊藤が哈爾浜駅頭で安重根に狙撃されたのは前年(1909年)10月26日午前9時半、3発のピストル弾は僅か30分後には彼の生命を絶った。
安重根は、その場でロシア側に捕らえられ、日本領事館に連行の上、旅順の関東都督府地方法院へ送られて裁判を受けることになったが、彼は伊藤を射殺した理由として次の15項目を挙げ、伊藤殺害は単なる個人的な殺人事件ではなく、自分は韓国の独立戦争を戦う義兵中将であるから、法廷で裁判を受けるのは間違っていると述べた。
伊藤博文の罪状
1、韓国皇后殺害
2、韓国皇帝の退位
3、5ヶ条及び7ヶ条協約締結の強制
4、罪もない韓国人の殺害
5、政権奪取
6、鉄道、鉱山、森林、河川の強奪
7、第1銀行券の強制使用
8、軍隊解散
9、教育妨害
10、韓国人の外国遊学禁止
11、教科書押収と焼却
12、韓国人が日本の保護を受けたいなどという欺瞞的世論工作
13、日本天皇を欺く
14、東洋平和を破壊
15、孝明天皇射殺
安重根は、黄海道海州の生まれ、義兵活動に入ってからは、安応七と名乗っており、逮捕された当時も「応七」と言っているが、彼の列挙した15項目の伊藤に対する糾弾は、最後の「孝明天皇弑殺」を除いて、いずれも伊藤が直接間接に干与している部分で、当時はもとより、第2次大戦で日本の植民地支配が崩壊するまで厳重に秘匿されていた事実をも含んでいて、日本側が懸命に擬装を凝らしたり、厳密に付していた謀略工作を彼は既に見破っていたことを示す。
いや、安重根だけではない。そのころの朝鮮人の多くが日本の陰湿な侵略策を知っており、それに対する抵抗の血を滾らせていたといってよい。
たとえば、閔妃殺害事件である。また、皇帝の退位を強制した事件である。前者は朝鮮人壮士が犯人とされ、三浦梧楼以下の日本人側は事件との関係がウヤムヤに葬られたし、後者も韓国側の自発的措置であるとされていた。
最も重要なのは、一進会その他を使っての世論誘導である。保護条約賛成ー併合賛成など、売国団体あるいは個人を使っての謀略的世論工作は、後の満州国や日米安保条約改定に至るまで、まさに日本歴代の権力がお家芸とするところだが、安重根の慧眼は伊藤の侵略工作を見事に喝破していたのである。
安重根、30歳。彼がそれらの情報をどこから入手したかは不明だが、右に掲げた15項目の指摘は正確である。ただし、15項目目の孝明天皇謀殺については、岩倉具視らにまつわる疑惑として日本国内の一部に流れていたもので、20世紀末の今日でもなお真相は明らかでないが、現代日本国内でさえ知らぬ者が多いのに、当時の安重根がそれを知っていたとは驚きである。……(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
伊藤博文の出身校は松下村塾であるというが、「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)には、吉田松陰の「魯墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失うべからず。ただ章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし」という言葉が紹介されている。「ロシア・アメリカとの交易において損をした分は、朝鮮・満州・中国の土地を奪って埋め合わせをすればよい」という意味で、伊藤博文、井上馨、山県有朋、寺内正毅など、主として長州閥の有力者の対朝鮮強硬論に受け継がれていった、いわゆる「征韓論」の考え方である。「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)よりの抜粋である。
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第6章 保護という名の侵略
安重根が伊藤を射殺
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伊藤が哈爾浜駅頭で安重根に狙撃されたのは前年(1909年)10月26日午前9時半、3発のピストル弾は僅か30分後には彼の生命を絶った。
安重根は、その場でロシア側に捕らえられ、日本領事館に連行の上、旅順の関東都督府地方法院へ送られて裁判を受けることになったが、彼は伊藤を射殺した理由として次の15項目を挙げ、伊藤殺害は単なる個人的な殺人事件ではなく、自分は韓国の独立戦争を戦う義兵中将であるから、法廷で裁判を受けるのは間違っていると述べた。
伊藤博文の罪状
1、韓国皇后殺害
2、韓国皇帝の退位
3、5ヶ条及び7ヶ条協約締結の強制
4、罪もない韓国人の殺害
5、政権奪取
6、鉄道、鉱山、森林、河川の強奪
7、第1銀行券の強制使用
8、軍隊解散
9、教育妨害
10、韓国人の外国遊学禁止
11、教科書押収と焼却
12、韓国人が日本の保護を受けたいなどという欺瞞的世論工作
13、日本天皇を欺く
14、東洋平和を破壊
15、孝明天皇射殺
安重根は、黄海道海州の生まれ、義兵活動に入ってからは、安応七と名乗っており、逮捕された当時も「応七」と言っているが、彼の列挙した15項目の伊藤に対する糾弾は、最後の「孝明天皇弑殺」を除いて、いずれも伊藤が直接間接に干与している部分で、当時はもとより、第2次大戦で日本の植民地支配が崩壊するまで厳重に秘匿されていた事実をも含んでいて、日本側が懸命に擬装を凝らしたり、厳密に付していた謀略工作を彼は既に見破っていたことを示す。
いや、安重根だけではない。そのころの朝鮮人の多くが日本の陰湿な侵略策を知っており、それに対する抵抗の血を滾らせていたといってよい。
たとえば、閔妃殺害事件である。また、皇帝の退位を強制した事件である。前者は朝鮮人壮士が犯人とされ、三浦梧楼以下の日本人側は事件との関係がウヤムヤに葬られたし、後者も韓国側の自発的措置であるとされていた。
最も重要なのは、一進会その他を使っての世論誘導である。保護条約賛成ー併合賛成など、売国団体あるいは個人を使っての謀略的世論工作は、後の満州国や日米安保条約改定に至るまで、まさに日本歴代の権力がお家芸とするところだが、安重根の慧眼は伊藤の侵略工作を見事に喝破していたのである。
安重根、30歳。彼がそれらの情報をどこから入手したかは不明だが、右に掲げた15項目の指摘は正確である。ただし、15項目目の孝明天皇謀殺については、岩倉具視らにまつわる疑惑として日本国内の一部に流れていたもので、20世紀末の今日でもなお真相は明らかでないが、現代日本国内でさえ知らぬ者が多いのに、当時の安重根がそれを知っていたとは驚きである。……(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。