下記は、NO1およびNO2に引き続き、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や知人宛に送られたもの)など19人の記録から、6人の記録(14~19)のごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)や死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。
下記を読むと、12月16日と17日に多くの中国人捕虜が、歩兵第65連隊の兵士によって殺害されたことが分かる。しかしながら、捕虜に「不従順ノ行為」があったという記述はない。すなわち、「戦闘行為」による殺害ではなかったということであろう。だから、この時の捕虜の殺害を、戦闘行為による殺害として、「南京大虐殺」を否定することなどできないのだと思う。
にもかかわらず、”そうした事実はどうでもいいのだ”と言わんばかりの報道があった。人気俳優アンジェリーナ・ジョリーさんが監督した映画「アンブロークン」を反日映画としてボイコットする運動が起きているというのである。旧日本軍の捕虜虐待を描いた内容が、「日本を貶める」ものであるということらしい。「東京裁判史観を変えない限り、第2のアンジェリーナじゃ現れる」という指摘もあるという。事実を検証することもなく「日本を貶める」などと主張することは、完全な歴史の否定で、歴史修正主義以前の主張ではないかと思う。
また、16日の参院予算委員会で自民党の三原じゅん子参院議員が、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」としたうえで、同理念のもとに経済や税の運用をしていくべきではないかと、質問したという。「八紘一宇」という言葉は、先の大戦期間中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた言葉で、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部によって、公文書におけるこの語の使用が禁止されたことを知ってのことなのか、と考えさせられる。日本の政権中枢には、敗戦後も日本の戦争を正当化しようとする人たちが存在し続けてきただけに、気になるところである。
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14 [大内利己]陣中日記
所属:歩兵第65連隊第9中隊・第3次補充
階級:不明(一等兵か?)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7センチの手帳。縦書き。・・・
12月2日
荻洲部隊両角部隊と編入に成り、我牛渡部隊は江陰に向愈々本朝7時半整列し上海を出発す、8時乗船し其後25里の行軍で目的地に任じ聯隊に加する予想、自分は入院のため一緒に行動出来ぬが一番残念で在つた、自分は井上軍医に引率され第一兵站病院に入院し第1日の生活である。伊佐部隊に入院である、患者は沢山居た、自分は大場病院の第3号病棟の生活である。何と無く心が憂鬱と成り一日も早く全快いたし一線部隊に加入する事を心から神に祈つて居た。
以下主として入院生活の記述なので略
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15 [高橋光夫]陣中日記
所属:歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:縦約12.5センチ×横約8センチの手帳。縦書き。・・・
〔12月〕15日
朝8時に出発、前夜は宿舎にてじん中の真の風景、三方を壁にて月光が輝々と光りまつたく言ふに言ふことのできない風景である。
4時に竜潭に着す、この途中にて支那人2人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方は水郷□月一方は川にて、ニーヤに徴はつ品をおわせて、銃を肩に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜はなにかの工場に宿舎をとる。
〔12月〕16日
前8時半出発にて東流に2時頃に着、夜は分隊は衛兵、寒かりし。
〔12月〕17日
前8時半出発、本田上等兵は銃をなくし午後4時に本隊に入る,聯隊本部の所に一夜をあかすことになる。
〔12月〕18日
午前8時半整列にて各中隊に分類され12時に中隊第十一中隊に入る、第4次22名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
午後にわが聯隊の捕虜2万5千近くの殺したものをかたつけた。
〔12月〕19日
本日も中隊の位置にて分隊に入る、第一小隊 第2分隊、
午前は死体をかたつけるために前日の地に行く、本日又16人程の敗残兵をころした。
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16 [菅野嘉雄]陣中メモ
所属:歩兵第65連隊砲中隊・編成
階級:一等兵
入手経緯本人より
メモの態様:縦約16センチ×横約10センチの手帳。内容は「戦闘詳報」と「陣中日記」に分かれており、「戦闘詳報」は縦書き、「陣中日記」は横書き。・・・
昭和12年 日支事変 陣中日記
12、13
午前8時半出発、大華山山脈鉄路ニ沿ヒ行軍ス、龍潭鎮ヲ通リ棲霞山近クニ山中一村ニ宿営ス、夜ル敵将校斥候3名ヲ捕フ。
〔12、〕14
午前5時出発夜明頃ヨリ敵兵続々ト捕虜トス、幕府山要塞ヲ占領シ午後2時戦斗ヲ中止ス、厰舎ニ捕虜ヲ収容シ其ノ前ニ宿営警戒ス、捕虜数訳1万5千。
〔12、〕15
今日モ引続キ捕虜アリ、総計約弐万トナル。
〔12、〕16
非行便ノ葉書到着ス、谷地ヨリ正午頃兵舎ニ火災アリ、約半数焼失ス、夕方ヨリ捕虜ノ一部ヲ揚子江岸引出銃殺ニ附ス。
〔12、〕17
未曾有ノ盛儀南京入城式ニ参加、1時半式開始。
朝香宮殿下、松井軍司令官閣下ノ閲兵アリ、捕虜残部1万数千ヲ銃殺ニ附ス
〔12、〕18
朝ヨリ小雪ガ降ツタ、銃殺敵兵ノ片付ニ行ク、臭気甚シ。
〔12、〕19
本日モ敵兵ノ片付ニ行ク、自分ハ行カナカツタ。
〔12、〕20
午前10時出発ス、中山碼頭ヨリ乗船、浦口ヨリ約4里ニテ宿営ス。
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17 [近藤栄四郎]出征日誌
所属:山砲兵第19連隊第8中隊・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。
〔12月〕14日
午前4時起床、鞍を置き直ちに出発スル、道路暗くテ而も寒い、前進して午前8時頃敵の降伏兵一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて3千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、南京も目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下ろすのも気持ちが悪くない、南京牧場設営、女を混じへた
敵兵の姿。
〔12月〕15日
出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。
午后、米徴発に行く、幸に南京米が沢山あつたので6本駄馬を持つて取つて来る、支那の工兵の材料集積所らしい。
〔12月〕16日
午前中給需伝票等を整理する、一ケ月振りの整理の為相当手間取る。
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。
夕方2万の捕虜が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に2万の内三分ノ一、7千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終わる、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は14日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、9時半帰る、一生忘るる事の出来ざる光景であった。
〔12月〕17日
今日も一生忘るる事のなき日だ、南京入城式参列、午前9時に出発にて中隊の半数参加す、幸いに参加できて嬉し、午後1時半より開始され沿道整列、松井軍司令官の閲兵あり、其他多数の参謀及幕僚には驚く、夕方徴発しながら帰る。
丁度野戦病院開設しありたるにより家と役場と本地と康と収様へ手紙を出す。
記念スタンプを押捺して来る。
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18 [黒須忠信]陣中日記
所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人より
日記の態様:「支那事変日記帳」と題された、縦17センチ×横約11センチの手帳。縦書き。大部分カタカナ書きのうちに一部平仮名書きとなっているが、原文の通りにした。
12月13日 晴
7時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進航して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后8時某地に到着宿営す。
12月14日 晴◎
午前3時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従つて頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を65にて1千8百名以上捕虜にし其の他沢山の正規兵で合計5千人の敗残兵を拾三師団にて捕虜にした、全部武装解除をしたのも見事なものである、命令我が大隊は幕府山砲台を占領して東外村宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位であつた、捕虜兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、幕府山砲台には日章旗高く掲げられて万歳を唱えられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、×××××氏に面会する事が出来て嬉しかった。
12月15日 晴
南京城外某地ニ我ガ拾三師団ハ休養する事トナツタ、午前馬糧ノ徴発に忙しカツタ、敵首都南京城モ助川部隊(16師団)ガ13日午前10時30分ニ占領シテシマツタノデアル、城内ニモ入城スル事ガ出来タ。
12月16日 晴
午后1時我ガ段列ヨリ20名ハ残兵掃蕩ノ目的ニテ幕府山方面ニ向フ、2、3日前捕虜セシ支那兵ノ一部5千名ヲ揚子江ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス、其ノ后銃剣ニテ思フ存分ニ突刺ス、自分モ此ノ時バカリト憎キ支那兵ヲ30人突刺シタ事デアロウ。
山となつて居ル死人ノ上をアガツテ突刺ス気持ハ鬼ヲモヒシガン勇気ガ出テ力一ぱいニ突刺シタリ、ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル、一人残ラズ殺ス、刀ヲ借リテ首ヲモ切ツテ見タ、コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ、××少尉殿並ニ×××××氏、×××××氏等ニ面会スル事ガ出来タ、皆無事元気デアツタ、帰リシ時ハ午后8時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。
12月17日 晴
本日意義ある南京城入城式ガ挙行サレル事トナリ自分モ其ノ一人トシテ参列スル事光栄ヲ得タ、午前9時出発城内ニ向フ、各師団各隊ノ志気旺盛ナル行軍ニテ正午整列、朝香宮殿下ノ
閲兵が目覚マシク行ワレタ、後ニ市街ノ見物モ出来テ実ニ嬉シカツタ、本日ノ盛歓ハ言葉ニ表ワセナイ位デアツタ。
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19 [目黒福治]陣中日記
所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成
階級:伍長
入手経緯:本人より
日記の態様:縦15センチ×横10センチの手帳。中国兵捕虜から奪ったものだとの本人の証言がある。記述は1937年12月20日で終わっている。縦書き。カタカナ書きのうちにところどころ
ひらがながまじっているが、原文の通りにした。
12月13日 晴天
午前3時起床、4時出発、南京幕府山砲台攻撃ノ為前進ス、途中敵捕虜各所ニ集結、其ノ数約1万3千名トノ事、12、3才ノ子供ヨリ50才位迄ノ雑兵ニテ中ニ婦人2名有リ、残兵尚続々ト投降ス、各隊ニ捕エタル総数約10万トノ事、午後5時南京城壁ヲ眺メテ城外ニ宿営ス。
12月14日 晴天 南京城外
首都南京モ落ツ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬ノ徴発ニ行ク、城内ノ膨大ナルニ一驚ス。
12月15日 晴天 〃
休養。
12月16日 晴天 〃
休養、市内ニ徴発ニ行ク、至ル処支那兵日本兵ノ徴発セル跡ノミ、午後4時山田部隊ニテ捕エタル敵兵約7千ヲ銃殺ス、揚子江岸壁モ一時死人ノ山トナル、実ニ惨タル様ナリキ。
12月17日 晴天 南京城外
午前9時宿営地出発、軍司令官ノ南京入城式、歴史的盛儀ニ参列ス、午後5時敵兵約1万3千名ヲ銃殺ノ使役ニ行ク、2日間ニテ山田部隊2万人近ク銃殺ス、各部隊ノ捕虜ハ全部銃殺スルモノゝ如シ。
12月18日 晴天 南京城外
午前3時頃ヨリ風アリ雨トナル、朝起床シテ見ルト各山々ハ白ク雪ヲ頂キ初雪トナル、南京城内外ニ集結セル部隊数約10ケ師団トノ事ナリ、休養、午後5時残敵1万3千程銃殺ス。
12月19日 晴天 南京城外
休養ノ筈ナル処午前6時起床、昨日銃殺セル敵死体1万数千名ヲ揚子江ニ捨テル、午後1時マデ、午後出発準備、衛兵司令服ム。
12月20日 晴天
午前4時起床6時出発渡河シテ新任ムニ服スベク前進ス。
年夜 下給品
スルメ 羊かん 梨 リンゴ 酒1合5勺
1日下給品
酒 蜜柑 五色おこし 勝栗 コブ 干魚 鯛かん詰 きんとん
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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。また、明らかに誤字と考えられ、正しい文字が示されているものは、正しい文字にしました。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)
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