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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の加害証言

2015年03月02日 | 国際・政治

 「再現 南京戦」(草思社)の著者、東中野修道氏は、そのエピローグの「当時の人々は南京大虐殺を思ってもいなかった」と題した部分で、支那派遣軍報道班、馬淵逸雄中佐の『報道戦線』(昭16)の、下記の文章を取り上げている。

《南京には外人記者が2,3居残って、市中を巡回した形跡があつた。彼等は攻略日本軍の行動を観察して、アラ、欠点を探索し第三国の対日輿論を悪化せしめんとするスパイ的存在であるので、之が行動を完封したのであるが、それにも況(マ)して悪影響の種子を蒔(マ)いたのは、米国宣教師達の悪質デマ通信であつた。恰(アタ)かも入城した日本軍が鬼畜の行動を為(ナ)したかの如(ゴト)き通信をなし、世界の対日感情を悪化せしめた》(72頁)

 東中野修道氏は、これが真実だお考えのようである。そして、「その当時、日本軍将兵も、英・米・独の外交官たちも、南京の欧米人たちの国際委員会も、南京市民も、国民党政府も、上海その他の外国人記者たちも、南京の日本軍の不法殺害を指摘したことはなかった」と書いている。


 陳光秀さんや陳光秀さん、郭立言さんのような中国側の被害者証言(450「南京事件 陳光秀さんの証言」、451「南京事件 郭立言さんの証言」参照)、および、それらに符合する下記のような日本側の加害証言には、目もくれず、また、繰り返し南京金陵大学などから、日本大使館に届けられた抗議や要望の文書、南京安全区国際委員会のメンバーが、アメリカ大使館に宛てた窮状を訴える書簡(445「南京安全区 NO1」および446「南京安全区 NO2」参照)なども、強姦などを中心とする不法行為に関するものであるためか、すべて無視されているようである。それで南京事件の解明ができるものなのか、と思う。

 また、海外で報道された数々の南京に関する記事は、国民党中央宣伝部が日本を陥れるために工作したものであるという。だとすれば、パナイ号(バネー号)事件やレディーバード号事件の記事(432「南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件」参照)は、どのように理解すればよいのであろうか、と思う。
 日本軍による厳しい報道統制下において、日本軍報道班の中佐の文章が真実で、当時南京に留まった外国人記者のみならず、南京戦のずっと前から南京にいた大学教授や宣教師までが、国民党のスパイとして、国民党中央宣伝部の宣伝工作に関わったというような主張が、国際的に通用するであろうか。

 下記のような、元日本兵の具体的な加害証言を、謙虚に受け止めるべきではないか、と思う。下記は『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)からの抜粋である。
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                第3部 証言

        3 陥落後も続く集団虐殺

捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした

                                         朝倉正男
                                     1915年3月生まれ
                        南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                      2000年12月取材
●──貨車に詰め込んだ敗残兵を揚子江に突き落とす
 私は昭和10年兵です。現役のときから同じ中隊でした。支那事件で8月、部隊に応急動員で召集がありましてな、現役のままで応召しました。北支の天津や保定とかいろいろな所を歩きました。

 中支では、一日に十里くらい歩きましてさ、そこに食料はないし、現地調達やね。橋や何やみんな落ちてるさかいに輜重隊が来ない。戦争は勝ち戦やから、背嚢は背負わんと奉公袋と水筒と歩兵銃だけ持ってどんどん進むんですわ。軽機関銃は重たいので交替で持ちました。夜到着すると食料探しての中を探して外米や肉類をとるんですわ。兵隊はまず食べることでしたな。

 紫金山の戦いでは、二大隊の各部隊が一緒に攻めました。3日間ぐらいは紫金山で戦っていましたが、山の中は食べ物も何もないので、食料は麓で炊いてから飯盒で運んでくれました。亡くなった同年兵の始末もあって木を拾ってきて焼きましたな。骨を拾って持って紫金山から降りました。紫金山の下りでは道に地雷が埋めてあって工兵隊が探って除去しました。それがすむまで動けませんでしたな。

 紫金山から下りると敗残兵がいっぱいおってな。揚子江の近くまで行った広いところで、汽車がいっぱいありましてん。そこにあった空の貨車に捕まえた敗残兵をどんどん詰め込んで、こんなことを言うていいもんかどうか。ここらは坂になっていてな、みんなでちょっと押すと貨車が動いたんで、「こいつら、河に流したれ」て言うて、みんなで押して揚子江へビシャと放り込んだんや。

 貨車のあるところの手前では、工兵隊が濠の中に人を入れて、その周りを銃を持った兵隊が見張っているさかい逃げるちゅうわけにいかん。その上を戦車でゴーとひいているのを見ました。自分らは貨車のほうで(敗残兵を貨車に詰め込む)仕事をしてるからじっとは見てなかったけどな。

●──陥落してから2日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぽんと銃でやってしまうこともあった。その時、私の分隊は、敗残兵を30人くらい捕まえたな。男ばかり若いのから中年くらいやねえ。それを集めて倉庫みたいなところに入れました。女は女で倉庫というか宿舎みたいなところに別に集めて入れて処分や。それはよくやりましたが、そやけど逃がした者もおるんでな。それが後から戦争のなにで〔裁判で証言するので〕やったことがわかってくるのやろな。倉庫に入れた者を銃で撃ってから、後で火をつけた。その辺の家が壊れてるから木やごみなんか取ってきてそれに火をつけて放り込んだんや。中はそれは騒ぐ。死なんさかい〔死なないから〕、わー助けてくれ言うような喧しい声が聞こえた。叫んでいる中で日本語の助けてという声が聞こえた。

 徴発は、危ないのでそう遠い所へ行けないんで、城外の河のあたりでやりました。「行く時は一人では絶対に行くな」と小隊長に言われていたので、2人以上で行ったな。まあ食わんなしゃあないからな。始めのうちだけで、落ち着いてくると後方から大行李も来て、食料もくれるからな。

 憲兵隊は見なかったな。クーニャン徴発はあったし、分隊内では好きな人がおって一人か二人はおって、女探しに出かけていった。長いことたつと女の人がやって来るしな。そういう所にいく人はおるおる。みんな珍しがっていきましたな。朝鮮とか中国人の女の人が多かったな。

 揚子江にはよく行った。死体が浮いとったり、岸に流れ着いているのを見たなあ。ごみみたいに寄せられていた。死体は慣れっこになっていて驚くどころやなかった。そら最初はやらしいわなあ、と思ったけどなあ。

 城内は警備をしたので、難民区をぐるぐる回ったりしていた。そういうところに敗残兵とか怪しい者がおらへんかなあと思って入って行くやろ。だけど、男はおらん。すると、女ばかり固まっている建物もあった。なんぼ女がいてもそんな所は危なくて遊べんわなあ。後からみつからんようにせんとなあ。
 南京大虐殺は、ありました。強姦もありましたで。

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               第3部 証言

        3 陥落後も続く集団虐殺

銃殺は城外のあちこちで見た

                                     榊 正夫
                                  1916年10月生まれ
                       南京戦当時 第16師団野砲兵第二十二聯隊
                                     2000年6月取材
 昭和11年兵です。南京、徐州戦まで野砲隊にいたな。私は野砲隊では二番砲手で、二番砲手の仕事は照準を合わして大砲を撃つ、つまり照準の担当者だった。二番砲手は分隊長の命令によってやらなければならないし、砲手では一番難しい仕事でした。つまり照準をしてこっちが「よし」と言うと中隊長が「撃て」と命令する。野砲の射程距離は大体8千メートルぐらいで、実行距離は4千だと思う。

●──南京攻略で初めて零キロ射撃
 福知山の部隊と一緒で、南京入城の前から中山門撃ち込んだな。「二番砲手、前へ出ろ」と言われたので前に出て、その時に初めて零キロ射撃をしたんや。零キロ射撃というのは百メートル手前の空中で砲が破裂してしまう。そこから1センチの弾がダーと散らかって落ちていく。それを零キロ射撃と言うんですわ。その時は三十八聯隊の一個中隊を野砲隊が護衛する時に使った。南京陥落の2、3日前だと思う。それで支那兵は沈没した。支那兵が逃げていくのが向こうの方でぼんやりと見えたわ。

 紫金山の下にいて、山に敵がいるというので山に向かって砲を撃った。そこで初めて大砲を撃ったね。すると支那兵がうろうろ逃げていくのが見えた。逃げる様子はあっちに行くわこっちに行くわ、といった感じやった。

 大砲は一分間に一発撃ったら上等です。城門は福知山〔歩兵第二十聯隊〕が入って中から開けてくれてた。土嚢も全部片付けてあった。私らは南京陥落の2、3日後に入ったので、その時は死体もポツポツとあるだけやった。城内に入ると南京政府には16師団の司令部が駐屯していて、私ら野砲隊はその近くの支那の部隊の跡地に駐屯した。広い講堂に入った。駐屯場所は司令部から歩いて行ける距離だった。駐屯している間は歩兵と違って忙しかった。馬の手入れとか大砲の整理とかをやってたし、訓練もあったからな。

●──城内で徴発をしたし 捕虜の銃殺もあったな
 徴発は城内だけやった。日用品が何もないので、学校とか会社に入って机とか椅子とか何でも盗ってきたな。向こうは逃げる時に全部置いて逃げたので、会社なんかは全部開きっぱなし。日常的なものだけ盗った。私らはあんまり徴発には関係してないんだが、歩兵隊とか輜重隊がよくそんなことをしたと聞いている。そして逆に支那の便衣隊にやられた人もようけいいたらしい。強姦もしたと聞いたことがある。私らは使役で城外の河の方に糧秣を運びに行ってました。

 中山門を出るとすぐ横に公園か広場があって、そこで捕虜を銃殺しているのを目撃しました。それは南京に入ってから一週間後だった。捕虜はどこかの戦地から捕まえてきたと思う。私は4、5人連れてきてポンポンと撃ってたのを見た。それはどこの部隊やったかは分からんが、銃殺は城外のあっちこっちでやってるのを見たな。それは紫金山か南京攻略戦で捕まえて来た捕虜だと思う。大体どこの部隊も捕虜を捕まえたからな。各聯隊皆やった。私らも怪しい者がいれば捕まえたね。当時私ら野砲隊は銃を持っていた。歩兵より短い三八式の銃です。みんなたりましたわ。

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