真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 『ラーベの日記』 No4

2015年12月10日 | 国際・政治

 ラーベを「長」とする南京安全区国際委員会は、安全区に避難してくる多数の難民を保護するために、日夜奮闘しました。ラーベの日記を読めば、それがよくわかります。
 日本軍が南京に迫ってくると、約束通り撤退しない中国軍に対する様々な不満が、『ラーベの日記』には記されるようになります。そして、日ごと、より強い調子で中国軍を非難する姿勢が見られるようになりますが、それは安全区に避難してきた非戦闘員の難民を保護しなければならないと考えていたからだと思います。
 『ラーベの日記』には、たとえば、
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 防衛軍の責任者である唐が軍関係者や軍事施設をすべて撤退させる約束をした。それなのに、安全区の三カ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。私は唐の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」といっておどしてやった。するとこちらの要望どおりすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間がかかるというただし書きがついていた。(12月3日)
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 黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。
「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか。あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役にたてることができたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長の側近の高官ときている。ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか! なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ? 首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
 ・・・
 なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか、貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!
 防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。司令官にむかって、むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。面目を保ちたいのもわかる。だが、南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない! …だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!(12月6日)
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 …唐の魂胆はわかっている。蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」という言葉を使われては具合が悪いのだろう。なにがなんでも、休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。蒋介石や外交部がこわいからな。だから国際委員会、ないしはその代表の私、ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!(12月12日)
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というような文章があるのです。

 ところが、こうした文章をどのように受け止めているのか、「…この委員会を構成する15人の第三国人は、いずれも当時の言葉で言う”敵性国人”で、日本の中国進攻に憎悪と敵意を抱き、中国に軍事援助その他物心両面の支援をしている国の国民…」とか、「彼らの作成した多くの資料は、ほとんど伝聞ないし噂話によるものである」とか、「日本軍の非行に関しては、なんら検証することなく、すべてを事実と認定してこれを記録した」などと主張し、ラーベや難民保護を目的に結成された南京安全区国際委員会の活動を抗日的なものであったとする人たちがいます。
 
 でも、ラーベはドイツ人なのです。そして日本は、南京陥落前に、すでに日独防共協定(1936年)を、その翌年には日独伊防共協定(1937年)を締結しています。それが後に日独伊三国間条約に発展するのです(1940年)。したがって、ラーベを「適性国人」というのは、ちょっと違うのではないかと思います。蒋介石政権を支援する米英と日本の対立関係は深刻になっていましたが、ドイツとの関係は逆に深まりつつあったと思います。
 「日独が真に同盟関係に入るのは、リッペントロップが外相に就任した昭和13年以降である。現にドイツは米、英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置き、第二次上海戦の陣地構築を指導している」というのは、少々事実に反する面があると思うのです。日独防共協定(1936年)締結以降、ドイツと中国の関係は徐々に冷え込んでいったのではないでしょうか。「真に」という言葉をはさんで、日独が敵対関係にあったかのような言い方をするのはいかがなものかと思います。

 ドイツ人であるラーベは、日独が協定締結国であり、敵対関係ではなく、同盟関係といえる状況になっていたから、南京安全区国際委員会の代表を引き受け、ハーケンクロイツをいろいろな場面で利用したのではないでしょうか。また、上海ドイツ総領事館を通じてヒトラーに、非戦闘員の中立区域設置に関する日本政府への働きかけを依頼する電報を打ったり(11月25日)、ヒトラーに「上申書」(1938年6月)を書き送ったりしたのだと思います。

 再び『ラーベの日記』から、日記の一部を抜粋します。
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 19、20日と続いたすさまじい爆撃の間、私は自分で作った防空壕に中国人たちと一緒に潜んでいた。爆弾が落ちても大丈夫というわけではないが、榴散弾の炎や散弾からは守られる。庭には縦横6×3メートルの大きさの帆が広げてある。これにみなでハーケンクロイツの旗を描いたのだ。(9月22日)
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 17時に、国際委員会の会議。南京の非戦闘員のための中立区域設置の件。私は「代表」に選ばれてしまった。辞退したが押し切られた。良いことをするのだ、受けることにしよう。どうか、無事につとまるように。責任重大だ。(11月22日)

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「寧海路5号の新居に、今日、表札とドイツ国旗を取り付けてもらった」(11月28日)
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 これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー総統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!(11月29日)
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 18時 
 日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐひっこめた。(12月19日)
ーーー
 これらの記述は、深まる日独の関係抜きでは理解できないのではないかと思います。

 下記のように言う人もいます。
”…南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
 彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
 「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
 と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
 またラーベは、同じ日に、
 「日本兵たちは、市内をめぐり、10~20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
 と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
 「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
 この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
 また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。”
 
 しかしながら、ラーベが調べたという「背後から撃たれたらしい民間人の死体」が、ほんとうは「中国兵の死体であった」という事実は、いったい誰が確認したのでしょうか。

 また、日本兵が『挑発』した場合に「つねに代価を支払ってきた」という事実を示す根拠はあるでしょうか。南京戦を戦った優に10万を超す(20万ともいわれる)日本兵が、生きていくため毎日のように行った挑発で、「つねに代価を支払ってきた」のであれば、大変な支出になると思われますが、そうした記録や日本兵の証言はどこにあるのでしょうか。多くの挑発の記録に「代価を支払った」記述がなく、また、南京戦を戦った日本兵に「代価を支払った」証言がほとんどないのはなぜでしょうか。「つねに代価を支払ってきた」という根拠を、きちんと示してほしいと思います。

 さらに、
”ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。”
とか
ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
 このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。”

とまで言う人がいます。安全区に避難してくる「非戦闘員」を保護すべく、日夜奮闘した南京安全区国際委員会代表のラーベは、「南京のシンドラー」ともいわれます。それを、金儲けが目的の「武器商人」であるとか、「反日攪乱工作を手伝っていた」というような主張をするのであれば、否定しようのない確実な証拠がなければならないと思います。
 ドイツ・ジーメンス社が南京支局長であったラーベを通じて、中国国民党に武器を売りつけていたという記録があるのでしょうか。また、ラーベが手伝っていたという「反日攪乱工作」とはどういうものだったというのでしょうか。
 『ラーベの日記』の「ヒトラーへの上申書」に添えられた文章には
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 南京電力会社のタービンは我が社の製品です。役所の電話や時計もすべてそうです。中央病院の大きなレントゲン設備、警察や銀行の警報装置も。これらを管理していたのは我が社の中国人技術者でしたので、かれらはおいそれとは避難できませんでした。
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などとあります。もちろん武器取引にかんする記述などは『ラーベの日記』のどこにもありません。

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