さまよえる天神さん

てくてく てくてく 風景と

加茂3

2020-02-10 | 風土

「スペインの強烈な太陽に灼かれた乾いた裸の台地を見つづけているうち、しきりと青い地中海の波が見たくなった。」

若き日の辻邦夫が、スペインから青い海の先端の岬へと向かったのはヴァレリーの「海辺の墓地」を訪れるためであった。

「突然、町が終って、岬の突端に出た。果たして墓地はそこに大小の墓石を並べて拡がっていた。私が鉄柵を押してなかへ入ると、水平線を離れたばかりの太陽が、白い大理石の墓標をばら色に染め、幻想と幸福にみちた童話の都会を見るようだった。」(辻邦夫『海辺の墓地から』新潮社)

しばらくの間、このヴァレリの墓はスペインの地中海に面した海辺にあるんだと勘違いしていましたが、よく考えるとフランス人じゃあないか、ヴァレリは・・・・。

ヴァレリーなんて、まったく読んだこともありませんが、加茂でなぜか辻のこの海辺の墓地の話を思い出しました。


さて、加茂中学校跡のクラゲの第2駐車場から少し歩いてみます。

海辺の町の細い道が続きます。

古い洋風建築

水族館までは歩いて20分弱ですが今日はいきません。

浄土真宗本願寺派浄禅寺、この高台の寺に詩人の茨木のり子の墓があります。

門前から加茂の町が見渡せます。

母親がこの地方の出身だった詩人は、ご主人と眠る場所に、海の見えるこの地を選びました。荘内日報によると、お寺には茨木のり子のコーナーもあるそうですが、今回は敷地内には入りませんでした。本来は墓前に花でも添えればいいんでしょうが・・・・。

「 ほっそりと 蒼く 国をだきしめて 眉をあげていた 菜ツパ服時代の小さいあたしを 根府川の海よ 」と書いた詩人は、この海辺の町で何を見ていたんでしょう。


さて、帰り道、板塀のポスター、「希望語り合った」、ああ希望?。

「 わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた 」(茨木のり子詩集)

そうポイントは腕をまくっていたこと。
 




加茂2

2020-02-08 | 日記・エッセイ・コラム


今では、すっかりクラゲで全国的にも有名になった加茂、海辺の町の校歌は、鳥海山麓の山村で育った人間にとって、力強く海と共に生きる人の姿を象徴するような感があり、なかなか新鮮ですね。加茂中学校跡地とありますが、中学校はもう廃校になったんでしょうか。

「 銀鱗波間にきらめきおどり  白鴎雲間にはばたくところ  七つの海原波のりこえて 」(加茂中学校歌)


加茂

2020-02-07 | 日記・エッセイ・コラム

正確に言えば鶴岡市加茂から湯の浜へ向かう途中の海岸

白い波の向こう側に鳥海が浮かぶように見えています。

 「青松白砂 海光映えて  北潮沖辺に とどろくあたり  霊峰鳥海 神さび立つを」と、加茂中学校跡地に立つ石碑にはそんな文字が刻まれています。


清川3

2020-02-06 | 日記・エッセイ・コラム

「既にして霧たち登り、山川悉く清らかにして、衆樹の紅葉、また滝の降りきたる景色、絶景といふべし。」『西遊草』岩波文庫
清河八郎が、母を連れた旅から清川に帰ってきた最後の日、最上川の風景をこう記しています。


立谷沢川が最上川と合流する地点、左岸に清川の村、船着き場もありました。


清川2

2020-02-04 | 日記・エッセイ・コラム

今日は立春、いつもなら厳冬なのですが、全く雪がありません。


さて、先日の続き、冬囲いされた清河神社周辺も雪がありません。隣の清河八郎記念館は、12~2月の間は冬期休館みたいです。


立谷沢川がちょうど最上川に流れ込む地、水上交通の要所であった清川には

荘内藩の関所がありました。

「奥の細道」の旅で、松尾芭蕉もここから上陸しました。現在は国道(堤防)を隔てているため、最上川は直接は見えませんね。古くは、源義経も平泉へ逃れる途中ここに立ち寄り一泊、近くの御諸皇子神社には奉納された義経の笛と弁慶の祈願文が残されているそうです。

清河八郎は、多くの著作を残していますが、今私たちが知ることができるのは、『西遊草』や藤沢周平『回天の門』、小山松勝一郎『清河八郎』、丹波一郎主演の映画『暗殺』(篠田正浩)などを通してだけです。資料の電子データ化とか、口語訳とか県のレベルでしてもらいたいものです。

清河八郎の暗殺後5年で薩長を中心した明治維新となります。
                                      
※参考『清河八郎グラフィティ』(旧立川町役場)、企画展示資料より