以前にも書いたかもしれないけれど、
映画の「パッション」を見た人の感想で、
「復活を保証されているのだから
受難といってもそんなに苦しくはないのでは?」
という文を読んだとき、
たとえ『大丈夫だ、死なない』と言われても
肉を深く抉るような鞭で打たれたり
磔にされたら、その瞬間くじけてしまうのが人間だと思った。
ジーザスは、そういう弱き人間だからこそ
試練が課せられ、堪え、受け入れることにこそ意味があるのだと思う。
非キリスト教徒の勝手な考えですが。
本日見た金田さんのジーザスは、まさに「人間」だった。
熱い血が通い、
深く苦しみ迷い、
死への恐怖、拒絶もある。
それらをすべて背負いながら
一歩ずつ進んでいく人間。
やなぴーは、かなり解脱していて
(っつうのはジーザスに対して適切な表現ではないと思うけど)
まだ少し残っている「人間の部分」で悩んでいた。
その点、金田さんのジーザスは
絶命する、その瞬間まで人間だった。
どちらが良い悪い、ということではなく、
どちらが好き嫌い、ということもなく、
これはこれで、いいと思った。
金田さんのジーザスは、最初から最後までブレない。
彼は変わらないために
民衆の心変わりがすごくよくわかる。
「我らの心は天国へ」で群衆を見ている彼の目は
とても慈悲深く、
群衆も、ただただ、彼にすがっている。
それなのに、「ホサナ」のあたりでは
群衆は自分たちの欲望を押しつけはじめ
ジーザスは期待に応えたいと思いつつも
とまどいを見せ始める。
そして、ついには民衆は彼を見捨てる。
彼は、うなだれる。
人の心の大きなうねりがよく見えました。
「ゲッセマネ」の苦しみも、よく伝わってきます。
「死ぬこと」というのはたんに精神論だけではなく
肉体への苦痛にも耐えなければならない、
そのあたりの苦悩も伝わってきました。
*金田ジーザスはなぜだかヒゲ有り。
でも、絵画とかはヒゲがあるよね。
スンラさんのユダは、
苦しみすぎてない、とでも言えばいいのかな。
カーテンコールで魂は抜けていなかったし。
金田ジーザスとの距離がほどよく、
苦しみつつ、裏切る、その流れがクリアでした。
「最後の晩餐」の「思った通りに・・・」では
ユダの顔を正面から見ていて金田ジーザス。
それは、自分とユダが対等であると認めているからでは?
と思いました。
どちらかが一方的に寄りかかり、
どちらかが押しもどそうとするのではなく、
同じ場所に立っている二人でした。
高木さんのマリアは
以前のような「女性特有の湿り気」が消えていました。
ジーザスに対し、まず弟子である。
そこに、なぜか知らない感情が生まれる。
以前は、普通に、「男性」に対する「女性」でした。
金田さんと高木さんの演技が噛み合ってきたのかも。
男性が女性をオアシスと思い、
女性が男性を尊敬する。
さじ加減がうまくいかないと
たんなる恋愛関係にしか見えないところを
そういう感情とは違う絆が見えました。
その気持ちを大切にしたいからこそ
「わからない」と歌うマリア。
なんだか、雄々しかった。
最後の磔の場面、マリアやペテロがいなかったのは
気のせいかな?
カーテンコールはたくさん。
金田さんもスンラさんも、
アンサンブルの皆さんも、
ニコニコ。
やりきった!という気持ちが伝わってきました。
さすが千秋楽、熱かったわ。
最後は、微妙にユダ〆でした。
昨年の10月初旬に神栖で見たときは、
もうーねーーー、
どうしようかと思ったけどねーーー。
「有料公開稽古」を続けたかいはあったねー。
あの時に、こんな感動を味わえるようになるとは
まったく思いませんでした。