「はぁ‥」

聡美と太一の元を離れトイレに向かった雪は、頭を抱えながら一人廊下を歩いていた。
先ほど彼から向けられた視線が頭を離れない‥。

こんなことをしていては試験に差し障る。
一人で振り回されてバカを見て‥こんな状態でどうやって彼に勝つと言うんだろう‥。

そう思いながら雪がふと顔を上げると、前方から彼が歩いて来るのが見えた。
ロングコートを羽織り、セーターにジーンズという出で立ちの長身の彼。

伏目がちに歩く彼の頬に、長い睫毛の影が落ちる。
彼は雪の方へは視線を流さぬまま、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。

雪は何も考えられぬまま、その場で足を止め一人狼狽した。
自分に何か用があるのだろうか。用があるならば、なぜ自分の方を見ないのか‥。

だんだんと彼との距離が近くなる。
雪は彼の顔がそれ以上見れず、動揺の最中に視線を下に逸らした。嫌な汗が頬を伝う。

地面を見ている雪の視線の先に、彼の高級そうな靴がある。
大きな歩幅で、スピードを緩めずその靴はこちらに向かって来る。

雪はたじろいだ。視線をキョロキョロと彷徨わせながら、一人心の中で考える。
な、何を話せば‥まだほんの数日しか経ってないのに‥

胸の中のわだかまりはまだ随分固く、心の整理も依然として出来ていなかった。
当惑する雪だったが、次の瞬間目線の先の靴が、突然くるっと方向を変えた。

雪が呆気に取られて目線で追ったその背中は、自販機の前にあった。
彼は雪の方を向くことなく、何か飲み物を買っている。


雪はあんぐりと口を開けた。
そしてだんだんと怒りが湧いてきて、そのまま彼に構わずトイレへと歩いて行った。
何でいつも墓穴を掘るのは私の方かなぁ?!
あっちから先に話し掛けるまで黙ってるぞ私は!非があるのはあっちなんだし‥!

用を済ませて手を洗う間も、雪の心は荒れていた。
いつも振り回されるのは自分だという思いと、飄々とした態度の彼に腹が立つ。

しかしひとしきり感情が高ぶり終わると、急に疲労感が襲って来た。
馬鹿みたい‥と雪は一人呟きながら、溜息を吐いてトイレから出る。


そして出入口から出た雪が目にしたものは、予想外の光景だった。
壁の前に彼がいる。彼はじっと、彼女を待っていたのだ。

雪は複雑な思いを抱えながら、その場に立ち尽くした。
彼は彼女に向かって歩いて来る。
そして目の前に彼が来た時、雪はビクッと身を竦めた。

淳はポケットから手を出すと、手のひらに握っていた缶コーヒーを差し出した。
雪はその場で身動ぎも出来ぬまま、差し出された缶コーヒーに視線を落とす。

彼は何も言わなかった。
ただ無言のまま、缶コーヒーを差し出している。

突然の彼との遭遇とその行動に、雪は小さく溜息を吐いた。
紡ぐ言葉など、何も見つからない。

雪は彼から目を逸らすと、
「今コーヒー飲んだとこで‥」と口にして、彼から少し身体を離した。

突然、目の前から彼が消えた。
淳は彼女に向かって手を伸ばすと、背後から雪のことを抱き締める。
「!!」

一瞬、何が起きたのか分からなかった。
気がつけば自身が、彼の中に埋まっていた。

そして状況を理解出来るようになるまでの間、淳は強く雪のことを抱き締め続けていた。
頭を前に倒し、彼女の髪に顔を埋める。
ようやく状況の把握が出来て来た雪の身体は硬直し、次第に顔が赤くなって行く。
「あ‥」

掠れた声が口をついて出る。雪は小さく抵抗しながら、
「ちょっ‥ちょっと待って‥」と言うのが精一杯だった。

雪はアセアセと周りを見回した。人が来るんじゃないかとハラハラする。
すると、不意に凭れ掛かるように彼女を抱き締めていた彼が、そっと彼女の肩にその手を置いた。

少し彼女の服を掴むように指を折り、彼女の髪に埋めていた顔を上げる。

ゆっくりとした動作だった。
雪はそのままの姿勢で、目線だけ上に上げて彼の顔を見る。
彼の瞳が、超至近距離で彼女の瞳を見つめている。

その距離、僅か数センチ。
彼女の色素の薄い瞳と、彼の深く蒼がかった瞳が、無言で相対する。

淳は再び身を屈め、より深く雪に寄りかかった。
雪は目を見開いたまま、じっと彼の行動に身を任せている。


背を向けた彼女に追い縋るような、真っ直ぐ立っている彼女を引き留めるような、
そんな姿勢は二人の象徴だった。
彼は久々に出向いた大学で、いつも通りのノイズと見せかけの笑顔で溢れたその世界で、
唯一の理解者さえも背を向けるその現実を感じているのだ。

深い孤独。
誰も居ない暗い闇に取り残された彼の、無言のSOS‥。

抱き締める腕の強さに、甘えるように凭れ掛かるその仕草に、雪は言葉にならない彼の闇を知る。

淳は雪の手に自分の手を這わせると、ゆっくりとその手を上に向けた。
そしてその彼女の手に、そっと缶コーヒーを握らせる。

やがて淳は雪の肩に手を置くと、彼女を立たせてスッと身を離した。
先ほどの時間など、まるで無かったかのように。

そしてそのまま雪に背を向け、振り返ることなく彼は行ってしまった。
雪は缶コーヒーを手にしたまま、無言でその背中をじっと見つめている。

全身から、未だ彼の香りがする。
彼の手に握られていた缶コーヒーは、すっかりぬるくなってしまっている。

雪は今の状況と自分の気持ちを持て余しながら、ただその場で立ち尽くしていた。
心の中がざわざわと騒ぎ始めるのを、もう止められそうには無かった‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<無言のSOS>でした。
先輩が買った缶コーヒーはこれかな?

以前3部1話でも先輩飲んでましたね。

差し出された缶コーヒーは、彼の雪に対する気持ちの象徴でしょうね。
要らないといわれても押し付けるように手渡し、去って行く先輩の後ろ姿に哀愁が漂います‥。
次回は<波乱を呼ぶグラフィティー>です。
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聡美と太一の元を離れトイレに向かった雪は、頭を抱えながら一人廊下を歩いていた。
先ほど彼から向けられた視線が頭を離れない‥。

こんなことをしていては試験に差し障る。
一人で振り回されてバカを見て‥こんな状態でどうやって彼に勝つと言うんだろう‥。

そう思いながら雪がふと顔を上げると、前方から彼が歩いて来るのが見えた。
ロングコートを羽織り、セーターにジーンズという出で立ちの長身の彼。

伏目がちに歩く彼の頬に、長い睫毛の影が落ちる。
彼は雪の方へは視線を流さぬまま、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。

雪は何も考えられぬまま、その場で足を止め一人狼狽した。
自分に何か用があるのだろうか。用があるならば、なぜ自分の方を見ないのか‥。

だんだんと彼との距離が近くなる。
雪は彼の顔がそれ以上見れず、動揺の最中に視線を下に逸らした。嫌な汗が頬を伝う。

地面を見ている雪の視線の先に、彼の高級そうな靴がある。
大きな歩幅で、スピードを緩めずその靴はこちらに向かって来る。

雪はたじろいだ。視線をキョロキョロと彷徨わせながら、一人心の中で考える。
な、何を話せば‥まだほんの数日しか経ってないのに‥

胸の中のわだかまりはまだ随分固く、心の整理も依然として出来ていなかった。
当惑する雪だったが、次の瞬間目線の先の靴が、突然くるっと方向を変えた。

雪が呆気に取られて目線で追ったその背中は、自販機の前にあった。
彼は雪の方を向くことなく、何か飲み物を買っている。


雪はあんぐりと口を開けた。
そしてだんだんと怒りが湧いてきて、そのまま彼に構わずトイレへと歩いて行った。
何でいつも墓穴を掘るのは私の方かなぁ?!
あっちから先に話し掛けるまで黙ってるぞ私は!非があるのはあっちなんだし‥!

用を済ませて手を洗う間も、雪の心は荒れていた。
いつも振り回されるのは自分だという思いと、飄々とした態度の彼に腹が立つ。

しかしひとしきり感情が高ぶり終わると、急に疲労感が襲って来た。
馬鹿みたい‥と雪は一人呟きながら、溜息を吐いてトイレから出る。


そして出入口から出た雪が目にしたものは、予想外の光景だった。
壁の前に彼がいる。彼はじっと、彼女を待っていたのだ。

雪は複雑な思いを抱えながら、その場に立ち尽くした。
彼は彼女に向かって歩いて来る。
そして目の前に彼が来た時、雪はビクッと身を竦めた。

淳はポケットから手を出すと、手のひらに握っていた缶コーヒーを差し出した。
雪はその場で身動ぎも出来ぬまま、差し出された缶コーヒーに視線を落とす。

彼は何も言わなかった。
ただ無言のまま、缶コーヒーを差し出している。

突然の彼との遭遇とその行動に、雪は小さく溜息を吐いた。
紡ぐ言葉など、何も見つからない。

雪は彼から目を逸らすと、
「今コーヒー飲んだとこで‥」と口にして、彼から少し身体を離した。

突然、目の前から彼が消えた。
淳は彼女に向かって手を伸ばすと、背後から雪のことを抱き締める。
「!!」

一瞬、何が起きたのか分からなかった。
気がつけば自身が、彼の中に埋まっていた。

そして状況を理解出来るようになるまでの間、淳は強く雪のことを抱き締め続けていた。
頭を前に倒し、彼女の髪に顔を埋める。
ようやく状況の把握が出来て来た雪の身体は硬直し、次第に顔が赤くなって行く。
「あ‥」

掠れた声が口をついて出る。雪は小さく抵抗しながら、
「ちょっ‥ちょっと待って‥」と言うのが精一杯だった。

雪はアセアセと周りを見回した。人が来るんじゃないかとハラハラする。
すると、不意に凭れ掛かるように彼女を抱き締めていた彼が、そっと彼女の肩にその手を置いた。

少し彼女の服を掴むように指を折り、彼女の髪に埋めていた顔を上げる。

ゆっくりとした動作だった。
雪はそのままの姿勢で、目線だけ上に上げて彼の顔を見る。
彼の瞳が、超至近距離で彼女の瞳を見つめている。

その距離、僅か数センチ。
彼女の色素の薄い瞳と、彼の深く蒼がかった瞳が、無言で相対する。

淳は再び身を屈め、より深く雪に寄りかかった。
雪は目を見開いたまま、じっと彼の行動に身を任せている。


背を向けた彼女に追い縋るような、真っ直ぐ立っている彼女を引き留めるような、
そんな姿勢は二人の象徴だった。
彼は久々に出向いた大学で、いつも通りのノイズと見せかけの笑顔で溢れたその世界で、
唯一の理解者さえも背を向けるその現実を感じているのだ。

深い孤独。
誰も居ない暗い闇に取り残された彼の、無言のSOS‥。

抱き締める腕の強さに、甘えるように凭れ掛かるその仕草に、雪は言葉にならない彼の闇を知る。


淳は雪の手に自分の手を這わせると、ゆっくりとその手を上に向けた。
そしてその彼女の手に、そっと缶コーヒーを握らせる。

やがて淳は雪の肩に手を置くと、彼女を立たせてスッと身を離した。
先ほどの時間など、まるで無かったかのように。

そしてそのまま雪に背を向け、振り返ることなく彼は行ってしまった。
雪は缶コーヒーを手にしたまま、無言でその背中をじっと見つめている。

全身から、未だ彼の香りがする。
彼の手に握られていた缶コーヒーは、すっかりぬるくなってしまっている。

雪は今の状況と自分の気持ちを持て余しながら、ただその場で立ち尽くしていた。
心の中がざわざわと騒ぎ始めるのを、もう止められそうには無かった‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<無言のSOS>でした。
先輩が買った缶コーヒーはこれかな?

以前3部1話でも先輩飲んでましたね。

差し出された缶コーヒーは、彼の雪に対する気持ちの象徴でしょうね。
要らないといわれても押し付けるように手渡し、去って行く先輩の後ろ姿に哀愁が漂います‥。
次回は<波乱を呼ぶグラフィティー>です。
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