夢七雑録

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錦糸町雑記・昭和から平成へ

2010-02-17 20:58:05 | あの町この町
(3)戦前の錦糸町 
 大正12年に発生した関東大震災の復興計画の一つとして、昭和3年に、総武本線の北側に錦糸公園が開園する。神田から製菓業者が集団で駅北側に移住してきたのも同じ頃である。昭和12年、汽車製造会社の工場が移転した跡を小林一三が買い取って江東楽天地を開き、翌年にかけて、映画館、劇場、仲見世、遊園地などが建設される。さらに、昭和15年には、水沢観世音の別院として江東観世音が構内に建立されている。

(4)戦後の錦糸町
 昭和20年の東京大空襲で錦糸町も被害を受けたが復興し、江東劇場での宝塚歌劇団の公演や美空ひばりショーなどの興業が大当たりする。昭和31年、天然温泉が誕生。昭和37年には駅ビルが誕生する。当時は、大丸や高島屋がテナントとして参加し、大食堂もあって、デパートの雰囲気であったという。昭和47年、総武線快速の東京―錦糸町駅間が地下線として開通し、駅ビルも全面改装されテルミナと名を変えて現在に至っている。錦糸町での場外馬券の発売は昭和25年頃に始まるが、昭和42年にはダービービルが建設され、昭和50年にはその分館も建設されている(ウインズ錦糸町)。一方、江東楽天地は昭和36年に東京楽天地と改称。昭和61年には楽天地ビルが完成し、錦糸町西武(西友の系列。現在はLIVIN)をキーテナントに、映画館、天然温泉、飲食店などが入ることになった。

 
 錦糸町は駅の南側から発展したが、京葉道路が通っていることもあって、南側が表玄関である状態は平成になっても変わらず、駅の北側は、昔懐かしい雰囲気の町のままで、菓子や玩具を扱う店も残っていた。その状況が変わったのは、駅北口地区の再開発が行われた後である。


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錦糸町雑記・昔の錦糸町

2010-02-14 08:25:36 | あの町この町
(1)江戸時代の錦糸町

 明暦三年(1657)、江戸の大半を焼失した振袖火事のあと、幕府は本所深川地域の開発に着手するが、現在の錦糸町界隈は、こうして出来た地域の東端にあたる。北を上にした江戸の絵図で、東(右側)には天神川(横十間川)、西(左側)には横川(大横川。現在は埋め立てられて親水公園になっている)が描かれている。また、南(下側)には竪川(現在は埋め立てられ、頭上を高速道路が走っている)、北(上側)には俗に錦糸堀と呼ばれていた南割下水(現在は埋め立てられ錦糸町駅北側の道路・北斎通りになっている)が描かれている。なお、錦糸堀の名の起こりは、岸堀がなまったものとか、琴糸を作っていたからとか、朝日夕日が照り返したからとかいう説があるが、確かなことは分からない。

 横川には、北に北中之橋、南に北辻橋(撞木橋)、南辻橋が架かる。竪川には西側から、新辻橋、四つ目橋が架かる。四つ目橋を通る南北の道は四つ目通りである。天神川の南側には旅所橋が架かっている。この地域の大半は武家地で、その間に田畑が散在している。竪川沿いは柳原町と記されているが、神田柳原から移された町という。このほか、竪川沿いには茅場町や松代町があり、また、田中稲荷社(田螺稲荷)の社地もあった。
 
 (2)明治の頃の錦糸町
 明治になると武家地は没収され、竪川沿いの柳原町、茅場町、松代町は北側に拡張されて民家も建てられるようになる。一方、南割下水の近くは田畑が広がるのみであったが、やがて、南割下水の南側が、通称の錦糸堀に因んで錦糸町となり、総武鉄道による鉄道敷設が始められるようになる。当時の錦糸町に商家は無く、大半の土地を総武鉄道が所有していたという。明治27年、現在より両国寄りの場所に「本所停車場」が開業。駅の敷地北側には船による貨物を取り扱うため、大横川に通じる堀割も造られる。ただ、当時は駅周辺に何もなかったようで、その様子を正岡子規は次のように詠んでいる。

「汽車道の この頃出来し 枯れ野かな」


 後に正岡子規門下の歌人となる伊藤左千夫は、明治22年に茅場町三丁目(現在の錦糸町駅南口の付近)にて三頭の乳牛を飼い、牛乳業を始めている。この事を記念した石碑が、以前は、錦糸町駅南口の生垣で仕切られた場所に置かれていたが(写真)、現在は場所を移動して、次のような歌が刻まれた石碑だけが置かれている。

 「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」
  
 明治29年、現在の東京楽天地のビルの辺りに、国内最初の鉄道車両工場である平岡車両工場が設立される。経営者は、平岡熙(ひろし)。この工場は、明治34年に、政府の汽車製造会社の工場に併合されるが、平岡は莫大な利益を手にすることになる。平岡は趣味人であったが、特にベースボールには関心が強く、明治13年に日本最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成している。このチームには、正岡子規も参加していたという。

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