江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した旅を、連載形式で投稿しておりますが、一行はいよいよ北海道へ渡ります。
(80)享保2年6月16日(1717年7月24日)。
三馬屋(三厩)から松前まで海上十二里(注)。東風の時を選び、潮に逆らって船を松前に入れることになるが、容易ならざる渡海である。渡海できなかった巡見使はいなかったとはいえ、天和元年の第3回巡見使の時は、海上波浪のため三艘の船は別々の場所に到着し、その内の一艘は無人島に漂着したという(「新北海道史」)。航海の安全を期すためには、日和を十分見定めて出航する必要があり、結果として、風待ちのため何日も逗留することもあった。この日は、順風待ちのため三馬屋に逗留という事になった。
【注】享保の頃は、松前まで海上十二里としていたが、天明の頃になると、何故か海上七里と称するようになった。これを受けてか、街道細見でも七里としている。これに疑問を抱いた古川古松軒は、地元の人の話も聞いたうえで、十里に少し遠し、と書き記している。
(81)同年6月17日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(82)同年6月18日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(83)同年6月19日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(84)同年6月20日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(85)同年6月21日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(86)同年6月22日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(87)同年6月23日。
この日ようやく、順風すなわち東風となったため、五つ時(午前八時)、津軽藩から提供された馬丸という船に乗り込む。船は供舟を含めて三艘。茶湯料理菓子など色々積み込んでの出航である。タツヒの潮、中の潮、シラカミの潮、三箇所の難所を乗り切り、松前に無事到着。松前藩主が子息を連れて、御見舞いのため宿を訪問している。なお、巡見使の宿舎は、有馬の宿が下村勘解由の屋敷、小笠原の宿が松前主殿の屋敷、高城の宿は次郎兵衛であったと記されている。
【参考】出航から着船までの様子については、「東遊雑記」に詳細な記述があるが、ここでは、宝暦の巡見使随行者の日記により、航海の様子を示しておく。
今朝順風との案内があり、辰の刻(午前八時)出帆。船は長柄二十筋、弓鉄砲で飾り立て立見付御門のごとく、幕を打回して御朱印を守護する構えである。船には、津軽藩から、船奉行その他の役人、医師、船頭、船子楫取数十人が乗り込んでいる。三馬屋の山の上から、御上使の出船を告げる狼煙があがり、これに答えて、松前の方からも、承知の合図に狼煙が上げられる。出航するも、狼煙が幽かにみえるだけで、松前の方は一向に見えない。タツヒの汐、中の汐、シラカミの汐の難所を過ぎ、羊の下刻(午後3時)松前福山に着船。
(88)同年6月24日。
この日一日、松前に滞留。
(80)享保2年6月16日(1717年7月24日)。
三馬屋(三厩)から松前まで海上十二里(注)。東風の時を選び、潮に逆らって船を松前に入れることになるが、容易ならざる渡海である。渡海できなかった巡見使はいなかったとはいえ、天和元年の第3回巡見使の時は、海上波浪のため三艘の船は別々の場所に到着し、その内の一艘は無人島に漂着したという(「新北海道史」)。航海の安全を期すためには、日和を十分見定めて出航する必要があり、結果として、風待ちのため何日も逗留することもあった。この日は、順風待ちのため三馬屋に逗留という事になった。
【注】享保の頃は、松前まで海上十二里としていたが、天明の頃になると、何故か海上七里と称するようになった。これを受けてか、街道細見でも七里としている。これに疑問を抱いた古川古松軒は、地元の人の話も聞いたうえで、十里に少し遠し、と書き記している。
(81)同年6月17日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(82)同年6月18日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(83)同年6月19日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(84)同年6月20日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(85)同年6月21日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(86)同年6月22日。風待ちのため三馬屋に逗留。
(87)同年6月23日。
この日ようやく、順風すなわち東風となったため、五つ時(午前八時)、津軽藩から提供された馬丸という船に乗り込む。船は供舟を含めて三艘。茶湯料理菓子など色々積み込んでの出航である。タツヒの潮、中の潮、シラカミの潮、三箇所の難所を乗り切り、松前に無事到着。松前藩主が子息を連れて、御見舞いのため宿を訪問している。なお、巡見使の宿舎は、有馬の宿が下村勘解由の屋敷、小笠原の宿が松前主殿の屋敷、高城の宿は次郎兵衛であったと記されている。
【参考】出航から着船までの様子については、「東遊雑記」に詳細な記述があるが、ここでは、宝暦の巡見使随行者の日記により、航海の様子を示しておく。
今朝順風との案内があり、辰の刻(午前八時)出帆。船は長柄二十筋、弓鉄砲で飾り立て立見付御門のごとく、幕を打回して御朱印を守護する構えである。船には、津軽藩から、船奉行その他の役人、医師、船頭、船子楫取数十人が乗り込んでいる。三馬屋の山の上から、御上使の出船を告げる狼煙があがり、これに答えて、松前の方からも、承知の合図に狼煙が上げられる。出航するも、狼煙が幽かにみえるだけで、松前の方は一向に見えない。タツヒの汐、中の汐、シラカミの汐の難所を過ぎ、羊の下刻(午後3時)松前福山に着船。
(88)同年6月24日。
この日一日、松前に滞留。