(96)享保2年7月3日(1717年8月9日)。
松前を出立、及部を通り大沢に出る。大沢川では鮭を取ると聴く。炭焼沢から難所の吉岡峠(をんなひ峠とも云う)を越え、松前伊豆守領分の吉岡で休憩する。その先、宮歌に松前八左衛門が蝦夷攻めの際に造営した八幡社を見る。そのあと、白符を通って福島に出て泊まる。行程は五里弱であった。ところで、古川古松軒は東在郷の巡視の途中、羆に襲われた人を追善するための卒塔婆を多く見かけたと書いている。東在郷においても、警固の者が一行に先行して熊を警戒しながら、巡視を続けたのである。
(97)同年7月4日、晴。
福島を出立。福島川の先に蝦夷古館ありと記す。この先、四十八瀬川とも称された福島川沿いに進むが、この日渡った瀬の数は六十三あったという。さらに難所の茶屋峠を越え、市の渡しで休憩。沢際に小屋掛けの休所が設けられていた。ここからは知内川沿いの道となり、谷間に重なり合った山容の七つケ岳を見る。また、知内川に流入する、ちりちり川、はぎちゃり川を見る。この日の行程は六里半、知内に泊まる。
(98)同年7月5日、晴。
知内を出立。知内川、もない川、中の川、いねない川を舟橋(舟を並べて板を掛けた橋)で渡る。木子内(木古内)で、をもう川と、さめ川を渡り、しゃかり(札刈)に出る。ここには蝦夷の家が三軒ありと記す。かうれい川、たしとろ川を渡り、泉沢、かまや、三石を経て、おおとうへつ川、とうへつ川を渡り、茂辺地に出て泊まる。行程は六里半である。
(99)同年7月6日、晴。
茂辺地を出立。茂辺地川を渡る。左手に下国周防守の大館とその家来の小館ありと記す。また、やけ内に下国勘解由建立の天神宮ありとし、都の方になびく松の伝承を記す。そのあと、富川を経て戸切地川を渡り有川に出る。有川からは内浦岳(駒ケ岳)が見えてくる。巡見対象外の蝦夷地内の山ではあるが、その様子について話を聞いている。その先、七座浜(七重浜)から亀田に出る。ここから箱館(函館)は遠くないが、巡見地ではないため立ち寄らない。ただ、箱館には湊があること、河野加賀守の城址があることを聞くにとどまっている。この日は亀田に泊まる。五里半の行程であった。
(100)同年7月7日、晴。
亀田を出立。出湯のある湯川を通る。林太郎左衛門の古館ありと記す。しのり浜から、松前巡見の東端にあたる黒岩に出る。黒岩まで二里半、ここで休憩となり、乙部と同様に蝦夷人が巡見使にお目見えする。クレマミ、ヲニシロ、アカシ、タヤラ、トルモ、シコワシ、ノヤク、ペリシ、クシハイ、大スミ、ハンシャク以上十一人である。終わって、巡見使一行は宿泊地に戻る。宿泊地の記述はないが、亀田であろう。
宝暦と天明の巡見使は、亀田の手前の戸切地に宿泊し、黒岩まで往復している。「東遊雑記」によれば、往復十里の行程で戸切地に帰ったのは四つ(午後十時)頃になったが、深夜になって羆が馬を襲うという騒動が持ち上がったという。疲れているのに、夜も寝る間がなかったというわけだが、実は、宝暦の巡見使も戸切地で宿舎火災という災難に見舞われている(「福島町史」)。
(101)同年7月8日、記述はないが、往路と同じであれば茂辺地泊りである。
(102)同年7月9日、記述はないが、往路と同じであれば知内泊まりである。
(103)同年7月10日、記述はないが、往路と同じであれば福島泊りである。
(104)同年7月11日、松前町に帰り宿泊している。
松前を出立、及部を通り大沢に出る。大沢川では鮭を取ると聴く。炭焼沢から難所の吉岡峠(をんなひ峠とも云う)を越え、松前伊豆守領分の吉岡で休憩する。その先、宮歌に松前八左衛門が蝦夷攻めの際に造営した八幡社を見る。そのあと、白符を通って福島に出て泊まる。行程は五里弱であった。ところで、古川古松軒は東在郷の巡視の途中、羆に襲われた人を追善するための卒塔婆を多く見かけたと書いている。東在郷においても、警固の者が一行に先行して熊を警戒しながら、巡視を続けたのである。
(97)同年7月4日、晴。
福島を出立。福島川の先に蝦夷古館ありと記す。この先、四十八瀬川とも称された福島川沿いに進むが、この日渡った瀬の数は六十三あったという。さらに難所の茶屋峠を越え、市の渡しで休憩。沢際に小屋掛けの休所が設けられていた。ここからは知内川沿いの道となり、谷間に重なり合った山容の七つケ岳を見る。また、知内川に流入する、ちりちり川、はぎちゃり川を見る。この日の行程は六里半、知内に泊まる。
(98)同年7月5日、晴。
知内を出立。知内川、もない川、中の川、いねない川を舟橋(舟を並べて板を掛けた橋)で渡る。木子内(木古内)で、をもう川と、さめ川を渡り、しゃかり(札刈)に出る。ここには蝦夷の家が三軒ありと記す。かうれい川、たしとろ川を渡り、泉沢、かまや、三石を経て、おおとうへつ川、とうへつ川を渡り、茂辺地に出て泊まる。行程は六里半である。
(99)同年7月6日、晴。
茂辺地を出立。茂辺地川を渡る。左手に下国周防守の大館とその家来の小館ありと記す。また、やけ内に下国勘解由建立の天神宮ありとし、都の方になびく松の伝承を記す。そのあと、富川を経て戸切地川を渡り有川に出る。有川からは内浦岳(駒ケ岳)が見えてくる。巡見対象外の蝦夷地内の山ではあるが、その様子について話を聞いている。その先、七座浜(七重浜)から亀田に出る。ここから箱館(函館)は遠くないが、巡見地ではないため立ち寄らない。ただ、箱館には湊があること、河野加賀守の城址があることを聞くにとどまっている。この日は亀田に泊まる。五里半の行程であった。
(100)同年7月7日、晴。
亀田を出立。出湯のある湯川を通る。林太郎左衛門の古館ありと記す。しのり浜から、松前巡見の東端にあたる黒岩に出る。黒岩まで二里半、ここで休憩となり、乙部と同様に蝦夷人が巡見使にお目見えする。クレマミ、ヲニシロ、アカシ、タヤラ、トルモ、シコワシ、ノヤク、ペリシ、クシハイ、大スミ、ハンシャク以上十一人である。終わって、巡見使一行は宿泊地に戻る。宿泊地の記述はないが、亀田であろう。
宝暦と天明の巡見使は、亀田の手前の戸切地に宿泊し、黒岩まで往復している。「東遊雑記」によれば、往復十里の行程で戸切地に帰ったのは四つ(午後十時)頃になったが、深夜になって羆が馬を襲うという騒動が持ち上がったという。疲れているのに、夜も寝る間がなかったというわけだが、実は、宝暦の巡見使も戸切地で宿舎火災という災難に見舞われている(「福島町史」)。
(101)同年7月8日、記述はないが、往路と同じであれば茂辺地泊りである。
(102)同年7月9日、記述はないが、往路と同じであれば知内泊まりである。
(103)同年7月10日、記述はないが、往路と同じであれば福島泊りである。
(104)同年7月11日、松前町に帰り宿泊している。