夢七雑録

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32.藤稲荷に詣でし道くさ

2009-05-20 21:58:58 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政七年九月十二日(1824年11月2日)。落合の七曲りに虫の音を聞きに行こうと、同僚に誘われてから、すでに15年も経つ。年を取るのはあまりに早く、もう一時も無駄には出来ない。若い頃は寸暇を惜しんで働いたが、老いてからは、今の楽しみに心を傾け、人生の最後をより良いものしたいと思っている。移り住んだ先の障子や襖も放置したままで、もうすぐ冬なのにと家内が言うのも、今は知らぬふりを決め込んでいる。今日のような麗らかな日は、家に居る気分になれない。これも老後の心を豊かにする為と思い、落合に出かけることにした、と嘉陵は書いている。途中、老中水野忠成の高田の下屋敷を見に行くが、水稲荷(旧地は新宿区西早稲田1)の東側に、人目につかない隠れ家のような屋敷があって、竹の垣根を回らし、ひっそりと門を建ててあるだけだったという。このあと嘉陵は、高田馬場(馬場跡。新宿区西早稲田3)に出て、落合の藤稲荷に向っている。

 嘉陵が藤稲荷に来たのは40年も前のことだが、今も昔の面影が残っていて、もの寂しい雰囲気であった。ここには、別当の姿は無く、40歳ほどの女と女童が、明日の月見の準備か、臼を挽いていたという。江戸名所図会の「藤森稲荷社」を見ると、田圃から少し上がった所に社があり、山の上には祠が見える。前は一面の田圃で、後ろは山が続いている。嘉陵も、近辺に住人が居るのだろうか、風雨の強い日にはどんなに侘しい思いであろうか、と書いている。現在の藤稲荷(東山藤稲荷神社。新宿区下落合2。写真)は、山の下に社は無く、山上に鎮座する社だけになっている。その背後は、おとめ山公園で、僅かながら湧水もあり蛍を養殖している。実は、落合の辺りは、蛍の名所として知られたところだったのだが、虫の音を聞きに来る人も居たのかもしれない。

 ここから西に行くと薬王院(新宿区下落合4)に出る。門を入ると右に鐘楼と宝塔があり、向いに客殿、左に庫裏があった。嘉陵は、坊の垣根に沿って、けもの道を上がっている。上は広い畑で、向こうに四家町から上板橋に行く道(旧清戸道。現在の目白通り)があったが、その先は鼠山であろうと記している。御府内沿革図書附図では、現目白通り北側の長崎村の一角(豊島区目白4)が鼠山と表記されている。嘉陵が文化十三年に書いた略図でも、椎名町を通る道(現目白通り)の北側に鼠山を記している。しかし、文化十二年に書いた略図では、道の南側に、鼠山二万坪と書かれている。鼠山はもともと、付近一帯をさす漠とした地名だったのかも知れない。結局、この辺は眺めが良いわけでもなく、道もはっきりしなかったので、嘉陵は、もと来た道へと戻っている。家へ帰る途中、牛込あたりに来ると、月が隈なく照っていたと記し、歌を詠んでいる。

 ところで、薬王院の垣根に沿った道について、嘉陵は、これも七曲りかと書いているが、本来は、氷川神社(新宿区下落合2)の近くから上る道を、七曲りの道と呼んでいた。嘉陵は、藤稲荷で七曲りの場所を聞いているのだが、要領を得ない返事であったため、本来の七曲りの道を見落としたのかも知れない。現在の薬王院は、牡丹の寺として知られ、花時には訪れる人も少なくない。寺の東側には野鳥の森公園の横を通る道があり、西側には石段の道がある。嘉陵が七曲りの道の一つと思って上った道の、今の姿かも知れない。

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