夢七雑録

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東海七福神

2012-01-08 10:56:00 | 七福神めぐり

 東海七福神は、旧東海道品川宿近辺の社寺をめぐるもので、旧東海道散歩を兼ねて歩けば、見どころの多いコースにもなる。コースは、品川神社(大黒天)~養願寺(布袋尊)~一心寺(寿老人)~荏原神社(恵比寿神)~品川寺ホンセンジ(毘沙門天)~天祖諏訪神社(福禄寿)~磐井神社(弁財天)である。

 品川駅の高輪口を起点に、第一京浜に沿って南に向かう。江戸時代なら海岸沿いの景色の良い道であったのだろうが、今は交通量の多い国道沿いゆえ、歩くのは煩わしくもある。それも少しの辛抱で、間もなく八つ山橋に出る。八つ山は谷山とも書き、品川宿の入口近くの小山だったが、お台場を築くために削られ、今は跡形もない。

 八つ山橋を渡って京浜急行の踏切を過ぎると、旧東海道が江戸時代の道幅のままで現れる。この道は、八つ山口から鈴が森口までの3.8kmの間、そのままの幅で続いており、江戸時代のことを思い浮かべながら歩くには好もしい道である。

 以前、品川宿を散歩したとき、問答河岸の標柱があり、近くに説明板のようなものがあったが、汚れていて読めなかった事がある。その内容だが、品川宿の入口にあった荷揚げ場が、三代将軍家光と沢庵禅師の問答に因んで、問答河岸と呼ばれていたという事であったらしい。この標柱の少し先に、相模屋という旅籠があったという。品川宿は北から順に、徒歩新宿、北品川宿、南品川宿で構成されていたが、このうちの徒歩新宿(かちしんじゅく)は、徒歩人足を出すことを条件に新たに設けられた宿場で、相模屋があったのは、この徒歩新宿である。相模屋は旅籠とはいえ実際は妓楼で、外壁が土蔵のようであったため土蔵相模と呼ばれていた。相模屋は、水戸の浪士や勤皇の志士も利用したとされ、幕末の歴史の舞台ともなった場所である。広重の名所江戸百景の中に「月の岬」と題する風景版画があるが、この版画も相模屋を描いたものという。広重は八つ山が月の岬と考えていたようだが、通説では、月の岬は三田の聖坂の上にあったとされ、江戸名所図会でも聖坂の上としている。

 旧東海道の途中から左に坂を下って北品川橋に行く。橋の近辺は船溜まりになっていて、古いものと新しいものが混在する面白い風景が見られる。現在の目黒川の下流は直線的に流れているが、昔は品川橋の下流から大きく北に曲がっていて、その河口に当たるのが、この船溜まりの辺りであったらしい。川の東側には洲崎と呼ばれる岬が北にのびていて、突端に洲崎弁天が祭られていた。広重の名所江戸百景の中の「品川すさき」に描かれているのは、この洲崎弁天である。この弁天社を継いだのが、現在の利田神社で、その境内には、陸に上がった迷い鯨の供養塚、鯨塚がある。

 ペリーの来航により脅威を感じた江戸幕府は湾内各所に台場を築いたが、その一つである御殿山下台場は、洲崎の東側に陸続きで築かれていた。現在、その記念碑が台場小学校の前に設置されている。この記念碑には、明治時代に設置された品川灯台のミニチュアが置かれているが、江戸時代の台場には、むろん、大砲が据え付けられていた。なお、台場小学校の周辺道路を地図で見ると、五角形の台場の形になっている。

 旧東海道から、善福寺と法禅寺の間を抜けて品川神社に行く道は、江戸時代からの道でもある。江戸時代、品川神社は、北品川の鎮守でもあったので、北の天王社と呼ばれていた。現在は、東海七福神の一、大黒天を祭る神社でもある。石段の左手には富士塚があるが、明治になって築かれたものという。

 品川神社から国道を渡り京急の下をくぐる。その先、正徳寺の手前の細い道を入る。行き止まりになりそうな道だが、江戸時代からの道で、そのまま進めば養願寺の境内に出る。この寺は虚空蔵菩薩を祭るほか、東海七福神の一、布袋尊を祭っている。

 養願寺の向かいにあるのが、東海七福神の一、寿老人を祭る一心寺である。この寺は幕末に地元の人の寄進により建てられた、比較的新しい寺である。一心寺で参拝を済ませ、また旧東海道を歩く。この辺りからは北品川宿となる。先に進むと左手に聖跡公園がある。本陣の跡という。さらに進むと、目黒川に架かる品川橋に出る。この橋は、北品川と南品川の境界にあったので、昔は境橋あるいは中橋と呼ばれていた。

 品川橋の手前を右に行くと荏原神社に出る。東海七福神の一、恵比寿神を祭る神社である。この神社は、江戸時代、貴船社とも呼ばれていたが、南品川の鎮守であったため、南の天王で通っていた。昔の目黒川は、北に蛇行して荏原神社の北側を流れていた。つまり、この神社は目黒川の南側、南品川側にあったのだが、川が直線的な水路に改修された結果、今では目黒川の北側に位置することとなった。

 旧東海道をさらに進むと右側に天妙国寺がある。南品川宿はこの辺までで、ここから先は門前町になる。この先、青物横丁駅に通じるプラタナスの並木という道路に出る。江戸時代、この道は池上道と呼ばれ、池上本門寺への参詣道であったが、古代の東海道の道筋とも考えられている。この道路を渡った少し先に、江戸六地蔵の一つを祭る品川寺がある。品川寺は、東海七福神の一、毘沙門天を祭っている。

 品川寺の隣にある海雲寺は荒神様で知られ、千躰荒神祭は参詣客で混雑する。その隣にあった海晏寺は、広い敷地を有し紅葉の名所でもあったが、鉄道と国道に分断されて、今の敷地は国道の西側だけになっている。ここから先も、旧東海道は歩きやすい道が続き、やがて、立会川に出る。橋を渡って右に行くと、東海七福神の一、福禄寿を祭る天祖諏訪神社に出る。立会川の北側の諏訪神社と南側の神明社を合祀した神社という。先に進むと鈴が森の刑場跡があり、その先で旧東海道は国道と合流する。江戸時代の東海道は、現在の国道の道筋に相当するが、当時は海岸沿いの道であった。

 国道沿いに歩いて大森海岸駅の先にある磐井神社に行く。この神社は東海七福神の弁財天を祭っており、今回の七福神めぐりでは最後の場所となる。江戸時代の磐井神社は鈴森八幡宮と称していたが、総社磐井神社とも称していたという。平安時代に編纂された延喜式の神名帳には、武蔵国荏原郡に磐井神社の名が記されており、現在の磐井神社がこれに該当すると考えられている。ところで、古代の東海道は現在の大森駅の西側を通っていたとする説があり、大森駅西口の前を通る八景坂の下は、昔、海だったという伝承もある。これが事実だとすると、古代の東海道は現在の磐井神社の社地からやや離れた台地上を通っていたことになり、かつ、現在の磐井神社の近辺は海だった可能性がある。平安時代の磐井神社が、島の上に鎮座していたかどうかは分からないが、鈴ケ森の地は笠島と呼ばれていたので、ひょっとすると、鈴ケ森の場所は笠の形をした浮洲のような島だったかも知れない。万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」という歌において、荒藺を八景坂の南にあった新井宿とする説があるが、鈴ケ森が笠島だったとすると、この歌とも符合する。ただし、歌枕の地である笠島は、宮城県の名取市とするのが通説のようなので、あまり当てにならない話ではあるが。

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