東京都の歴史と文化の散歩道のうち、「新宿コース」は、新宿中央公園を起点として赤坂一つ木に至る、9.0kmのコースである。このコースは、新宿超高層街散歩(新宿中央公園~新宿駅)、内藤新宿散歩(新宿駅~四谷大木戸)、外苑散歩(四谷大木戸~四ツ谷駅)、外堀散歩(四ツ谷駅~赤坂一ツ木)のサブコース(ガイド区分)から成っている。
(1)新宿超高層街散歩
新宿中央公園からスタート。公園通りを渡ってハイアット・リージェンシーのある側に移動する。ここから、新宿駅方向に向かって中央通りの左側の歩道を進み、都庁通り、議事堂通りを潜る。東通りの下からはトンネルとなるが、その手前の右側に標識Bがひっそりと立っている。東通りに上がると目の前に京王プラザホテルがある。公園通りから東通りまでの間の超高層ビルが立ち並ぶ一帯は、明治時代に建設された淀橋浄水場の跡地だが、昭和40年に淀橋浄水場が廃止された後、最初に建てられた超高層ビルが京王プラザホテルで、当時は日本一の高さを誇っていた。東通りを渡って工学院大学沿いに南に行き、角を左に曲がって郵便局を過ぎる。駅前を左に新宿大ガードを潜り、新宿駅東口に向かうと、駅前に区指定文化財の馬水槽がある。新宿超高層街散歩のサブコースはここで終わりとなる。
(2)内藤新宿散歩
新宿駅東口から新宿通りを歩くが、何時もながら混雑している。新宿通りは青梅街道に相当する道で、線路によって分断される以前は、西側の青梅街道と直線的につながる道であった。この道を先に進み、伊勢丹の先、新宿三丁目の交差点に出る。この辺りは、追分と呼ばれ、甲州街道と青梅街道の分岐点になっていた。ところで、超高層ビル街から、ここまで歩いて来たわけだが、この区間は、決められたルートを、標識を頼りに歩くのには向いていないように思える。むしろ、気ままに歩く方が良いのではないか。ショッピングやグルメを楽しみながら散策するも良し、地下道を通って速やかに来るも良し、そして、歴史との関わりからすれば、甲州街道を歩いてくるのも、また楽しからずやである。
新宿三丁目の交差点から先の新宿通りは、甲州街道に相当する道である。江戸時代、追分から四谷大木戸の近くまでは、内藤新宿と呼ばれた宿場町で、江戸四宿の一つであったが、今の新宿通りを歩いても宿場町の面影は見られない。新宿通りを進み、明治通りと御苑大通りを過ぎて、その先を左に仲通りに入る。標識Bにより靖国通りを右に折れると、投げ込み寺と呼ばれた成覚寺に出る。その先の角を右折して先に進むと、また、新宿通りに出るが、その手前に案内板が置かれている。案内板には、サブコースのルート図、宿場町の内藤新宿および四谷大木戸についての説明、「江戸名所図会」の四谷内藤新宿の図が載っている。この案内板から少し戻って横道を入ったところに太宗寺があり、江戸時代、街道ごとに置かれていた六地蔵の一つが今も残っている。
新宿通りを先に進むと、右手に水道碑記が立っている。玉川上水の水番所があったのは、この辺りという。玉川上水は、内藤新宿の町の南側を流れていたが、この水路沿いに桜が植えられていた時があり、広重の「名所江戸百景」にも、「玉川堤の花」として取り上げられている。今は玉川上水の流れも見られなくなったが、新宿御苑の北側に玉川上水内藤新宿分水散歩道が作られ、玉川上水の再現とまではいかないまでも、散歩道に沿って流れが造られている。なお、水番所から先は、地中に埋められた木樋や石樋により江戸市中に上水を供給するとともに、余った水は水番所内の吐水門から南に流していた。水道碑記の少し先、四谷四丁目の交差点の辺りが、四谷大木戸のあった場所である。四谷大木戸は、甲州街道の出入りを管理するために設けられ、石垣の間に木戸を設けていたが、その後、木戸は廃止されて自由通行となり、明治になると石垣も取り壊されて、今は碑を残すのみとなる。この交差点を右に渡り、右側の道を入るのが新宿コースのルートで、道の角に標識Bが置かれている。「内藤新宿散歩」はここまでである。
(3)外苑散歩
外苑西通りの一本西側の道を通って閑静な内藤町を歩く。多武峯神社を過ぎた先で、道は左に曲がって外苑西通りに出る。ここを右に折れる。なお、外苑西通りを渡った先には、野口英世記念館があったが、今は閉鎖されている。外苑西通りを先に進むと、歩道右側に石橋の跡があり、その下に水路の跡が見える。玉川上水からの余水を流した水路跡は、新宿御苑側からも見ることが出来るが、その水路の下流と思われる。この水路は、天竜寺の池を水源とする流れと合流して、渋谷川の源流の一つになっていたらしい。新宿御苑の外周に沿って先に進み、JRのガードを潜り、その先の信号で左に道路を渡って、坂を上がっていくと国立競技場に出る。国立競技場に沿って左に行き、坂の上で左に折れると、左手に明治天皇と昭憲皇太后を記念した絵画館が見えてくる。このサブコースは外苑散歩と銘打っているので、外苑内を歩き回ってみたい気もするのだが、今回は所定のルートに従うこととし、絵画館の前を先に進み、にこにこパークの前を左に折れて外苑の外に出る。
JRの上を橋で渡ると、慶大病院前の信号の脇に、案内板が置かれている。その内容はサブコースのルート図と、練兵場から外苑への経緯の説明、山本松谷による練兵場の図から成っている。ここから先は、南元町、若葉、須賀町をたどる四谷寺町散歩となる。その名の通り、多くの寺が点在している地域だが、谷が入り込んで、坂が多く、道も分かりにくい。外苑東通りを左門町の信号で入って須賀神社に行く方が分かりやすいのだが、今回は、歴史と文化の散歩道のルートをたどってみることにする。慶大病院前の信号で外苑東通りを渡り、直進してすぐ左折、次を右折して、ゆるやかな下り坂の道を進む。もとまち公園の前に標識Bがあるが、ここから、JRの線路に向かって急な坂を下り、児童遊園の先のT字路を左に折れる。道の角には標識Bがある。この先は、谷底にあたる道を進み、途中で左に坂を上がって戒行寺に出るのだが、ここが分かりにくい。戒行寺は、鬼平こと長谷川平蔵の墓があった寺だが、墓は現存せず、供養碑のみが寺の中に置かれている。その先、三つ目の角を右に曲がると、細い道の先に須賀神社が見える。神社からは小公園を抜け、男坂の石段を下り、谷底の道を横切って坂を上がると標識Bがあり、新宿通りに出る。ここを右に行けば四ツ谷駅に出る。外苑散歩のサブコースはここまでである。
(4)外堀散歩
四ツ谷駅の付近は四谷御門(四谷見附)があった場所である。四ツ谷駅のホームや線路、それとグランドは、昔、濠だった場所で、現在も昔の地形が残っているので、想像をたくましくすれば、水に満たされた往時の濠の姿を思い浮かべる事が出来るかも知れない。四谷見附橋を渡ってすぐ、右の道に入ると標識Bがある。ここからは、ソフィア通りと言う名の、土手の下道を歩くが、花見の頃に来てみたい道でもある。左側は上智大で、その敷地は尾張徳川家の屋敷跡という。所々に標識Bが置かれている道を進むと、土塁と木戸で構成されていた喰違門の跡地に出る。この門を通っていたであろう道を、右に見送ると、井伊家屋敷跡を敷地としたホテル・ニューオータニに出る。ここを左に、右側の歩道で紀尾井坂を下る。下り終えて右に曲がる角の、植え込みの中に案内板が置かれている。その内容は外堀散歩のルート図、外堀と見附などの説明、付近の絵図である。案内板から先に進むと、左側に清水谷公園がある。その一帯は紀伊徳川家の屋敷跡にあたるが、尾張徳川家の屋敷跡、井伊家の屋敷跡と合わせて、紀尾井坂の名の由来となっている。
先に進み、弁慶橋で弁慶堀を渡る。江戸時代には橋が無かった場所に、明治の中ごろ、古い橋を模して架けた橋という。橋の名は、神田にあった弁慶橋の廃材を使用したからという説もあるが、橋の形は全く異なり、擬宝珠も他の橋のものを転用したものという。現在の橋は、コンクリート製の再建された橋である。赤坂見附の交差点を渡って右へ、青山通りを上がり、一ツ木通りの表示により左の道へ入る。右側の歩道に標識Bがある。この道を先に進んでいくと、赤坂駅に出る。「新宿コース」は、ここ迄である。
(1)新宿超高層街散歩
新宿中央公園からスタート。公園通りを渡ってハイアット・リージェンシーのある側に移動する。ここから、新宿駅方向に向かって中央通りの左側の歩道を進み、都庁通り、議事堂通りを潜る。東通りの下からはトンネルとなるが、その手前の右側に標識Bがひっそりと立っている。東通りに上がると目の前に京王プラザホテルがある。公園通りから東通りまでの間の超高層ビルが立ち並ぶ一帯は、明治時代に建設された淀橋浄水場の跡地だが、昭和40年に淀橋浄水場が廃止された後、最初に建てられた超高層ビルが京王プラザホテルで、当時は日本一の高さを誇っていた。東通りを渡って工学院大学沿いに南に行き、角を左に曲がって郵便局を過ぎる。駅前を左に新宿大ガードを潜り、新宿駅東口に向かうと、駅前に区指定文化財の馬水槽がある。新宿超高層街散歩のサブコースはここで終わりとなる。
(2)内藤新宿散歩
新宿駅東口から新宿通りを歩くが、何時もながら混雑している。新宿通りは青梅街道に相当する道で、線路によって分断される以前は、西側の青梅街道と直線的につながる道であった。この道を先に進み、伊勢丹の先、新宿三丁目の交差点に出る。この辺りは、追分と呼ばれ、甲州街道と青梅街道の分岐点になっていた。ところで、超高層ビル街から、ここまで歩いて来たわけだが、この区間は、決められたルートを、標識を頼りに歩くのには向いていないように思える。むしろ、気ままに歩く方が良いのではないか。ショッピングやグルメを楽しみながら散策するも良し、地下道を通って速やかに来るも良し、そして、歴史との関わりからすれば、甲州街道を歩いてくるのも、また楽しからずやである。
新宿三丁目の交差点から先の新宿通りは、甲州街道に相当する道である。江戸時代、追分から四谷大木戸の近くまでは、内藤新宿と呼ばれた宿場町で、江戸四宿の一つであったが、今の新宿通りを歩いても宿場町の面影は見られない。新宿通りを進み、明治通りと御苑大通りを過ぎて、その先を左に仲通りに入る。標識Bにより靖国通りを右に折れると、投げ込み寺と呼ばれた成覚寺に出る。その先の角を右折して先に進むと、また、新宿通りに出るが、その手前に案内板が置かれている。案内板には、サブコースのルート図、宿場町の内藤新宿および四谷大木戸についての説明、「江戸名所図会」の四谷内藤新宿の図が載っている。この案内板から少し戻って横道を入ったところに太宗寺があり、江戸時代、街道ごとに置かれていた六地蔵の一つが今も残っている。
新宿通りを先に進むと、右手に水道碑記が立っている。玉川上水の水番所があったのは、この辺りという。玉川上水は、内藤新宿の町の南側を流れていたが、この水路沿いに桜が植えられていた時があり、広重の「名所江戸百景」にも、「玉川堤の花」として取り上げられている。今は玉川上水の流れも見られなくなったが、新宿御苑の北側に玉川上水内藤新宿分水散歩道が作られ、玉川上水の再現とまではいかないまでも、散歩道に沿って流れが造られている。なお、水番所から先は、地中に埋められた木樋や石樋により江戸市中に上水を供給するとともに、余った水は水番所内の吐水門から南に流していた。水道碑記の少し先、四谷四丁目の交差点の辺りが、四谷大木戸のあった場所である。四谷大木戸は、甲州街道の出入りを管理するために設けられ、石垣の間に木戸を設けていたが、その後、木戸は廃止されて自由通行となり、明治になると石垣も取り壊されて、今は碑を残すのみとなる。この交差点を右に渡り、右側の道を入るのが新宿コースのルートで、道の角に標識Bが置かれている。「内藤新宿散歩」はここまでである。
(3)外苑散歩
外苑西通りの一本西側の道を通って閑静な内藤町を歩く。多武峯神社を過ぎた先で、道は左に曲がって外苑西通りに出る。ここを右に折れる。なお、外苑西通りを渡った先には、野口英世記念館があったが、今は閉鎖されている。外苑西通りを先に進むと、歩道右側に石橋の跡があり、その下に水路の跡が見える。玉川上水からの余水を流した水路跡は、新宿御苑側からも見ることが出来るが、その水路の下流と思われる。この水路は、天竜寺の池を水源とする流れと合流して、渋谷川の源流の一つになっていたらしい。新宿御苑の外周に沿って先に進み、JRのガードを潜り、その先の信号で左に道路を渡って、坂を上がっていくと国立競技場に出る。国立競技場に沿って左に行き、坂の上で左に折れると、左手に明治天皇と昭憲皇太后を記念した絵画館が見えてくる。このサブコースは外苑散歩と銘打っているので、外苑内を歩き回ってみたい気もするのだが、今回は所定のルートに従うこととし、絵画館の前を先に進み、にこにこパークの前を左に折れて外苑の外に出る。
JRの上を橋で渡ると、慶大病院前の信号の脇に、案内板が置かれている。その内容はサブコースのルート図と、練兵場から外苑への経緯の説明、山本松谷による練兵場の図から成っている。ここから先は、南元町、若葉、須賀町をたどる四谷寺町散歩となる。その名の通り、多くの寺が点在している地域だが、谷が入り込んで、坂が多く、道も分かりにくい。外苑東通りを左門町の信号で入って須賀神社に行く方が分かりやすいのだが、今回は、歴史と文化の散歩道のルートをたどってみることにする。慶大病院前の信号で外苑東通りを渡り、直進してすぐ左折、次を右折して、ゆるやかな下り坂の道を進む。もとまち公園の前に標識Bがあるが、ここから、JRの線路に向かって急な坂を下り、児童遊園の先のT字路を左に折れる。道の角には標識Bがある。この先は、谷底にあたる道を進み、途中で左に坂を上がって戒行寺に出るのだが、ここが分かりにくい。戒行寺は、鬼平こと長谷川平蔵の墓があった寺だが、墓は現存せず、供養碑のみが寺の中に置かれている。その先、三つ目の角を右に曲がると、細い道の先に須賀神社が見える。神社からは小公園を抜け、男坂の石段を下り、谷底の道を横切って坂を上がると標識Bがあり、新宿通りに出る。ここを右に行けば四ツ谷駅に出る。外苑散歩のサブコースはここまでである。
(4)外堀散歩
四ツ谷駅の付近は四谷御門(四谷見附)があった場所である。四ツ谷駅のホームや線路、それとグランドは、昔、濠だった場所で、現在も昔の地形が残っているので、想像をたくましくすれば、水に満たされた往時の濠の姿を思い浮かべる事が出来るかも知れない。四谷見附橋を渡ってすぐ、右の道に入ると標識Bがある。ここからは、ソフィア通りと言う名の、土手の下道を歩くが、花見の頃に来てみたい道でもある。左側は上智大で、その敷地は尾張徳川家の屋敷跡という。所々に標識Bが置かれている道を進むと、土塁と木戸で構成されていた喰違門の跡地に出る。この門を通っていたであろう道を、右に見送ると、井伊家屋敷跡を敷地としたホテル・ニューオータニに出る。ここを左に、右側の歩道で紀尾井坂を下る。下り終えて右に曲がる角の、植え込みの中に案内板が置かれている。その内容は外堀散歩のルート図、外堀と見附などの説明、付近の絵図である。案内板から先に進むと、左側に清水谷公園がある。その一帯は紀伊徳川家の屋敷跡にあたるが、尾張徳川家の屋敷跡、井伊家の屋敷跡と合わせて、紀尾井坂の名の由来となっている。
先に進み、弁慶橋で弁慶堀を渡る。江戸時代には橋が無かった場所に、明治の中ごろ、古い橋を模して架けた橋という。橋の名は、神田にあった弁慶橋の廃材を使用したからという説もあるが、橋の形は全く異なり、擬宝珠も他の橋のものを転用したものという。現在の橋は、コンクリート製の再建された橋である。赤坂見附の交差点を渡って右へ、青山通りを上がり、一ツ木通りの表示により左の道へ入る。右側の歩道に標識Bがある。この道を先に進んでいくと、赤坂駅に出る。「新宿コース」は、ここ迄である。