東京都の「歴史と文化の散歩道」のうち、「池袋コース」は、池袋駅から神田小川町までの10.4kmのコースで、雑司ヶ谷寺町散歩(池袋駅~護国寺)、音羽の鐘散歩(護国寺~茗荷谷駅)、小石川寺町散歩(茗荷谷駅~菊坂)、本郷文学散歩(菊坂~神田小川町)の四つのサブコース(ガイド区分)から成っている。今回は、「お堀端コース」の終点である神田小川町から、池袋に向かって逆コースで歩いてみる。
(1)本郷文学散歩
「お堀端コース」の神田小川町の標識Bからスタートし、左側の歩道を歩いてお茶の水駅に向かう。途中、標識Bを確認しながら、関東大震災後に再建されたニコライ堂の下を過ぎる。今回は、お茶の水駅で右側の歩道に移り、関東大震災の復興事業で架けられた聖橋を渡って、その先の湯島聖堂に入る。聖堂の建物のほとんどは関東大震災後の再建だが、入徳門だけは、「江戸名所図会」に描かれた当時の姿を今に伝えている。改修工事を終えた入徳門を入り、大成殿を眺め、それから外に出て本郷通りを渡る。コースは直進しているが、ここはやはり、神田明神に寄りたい。
このサブコースのタイトルは文学散歩になっているので、神田明神の参詣の後、野村胡堂の「銭形平次捕物控」に因んだ、銭形平次の碑+がらっ八の碑にも挨拶しておく。 駐車場の上に作られた屋上庭園を抜けると、千代田区の指定有形文化財になっている、神田の家に出る。神田の家は、関東大震災後の復興住宅として、神田鎌倉町に建てられた材木商の店舗兼住宅で、文化財に指定されたあと、現在地に移築されている。
蔵前橋通りを渡って、清水坂を上がる。坂の途中を右に入ると、稲荷の関東総司を王子稲荷と争った妻恋神社があるが、今回は寄らずに先に進み、坂を上がった先の信号で左に折れ、その先の信号で右に入る。この道を進むと湯島天神の西側に出る。春日通りに出ると標識Aがあるが、ここは、「谷中コース」の起点にもなっている。湯島天神は、「谷中コース」の時に参詣することにして、春日通りを左に行く。本来は春日通りを渡って北側の歩道を歩くのが正しいようだが、今回は南側の歩道を歩く。
本郷三丁目の交差点の手前にある、寛永年間創業の和菓子の老舗「藤むら」は、すでに閉店したらしいのだが、その名を惜しむかのように看板だけは健在である。本郷通りを渡り、今も店を開いている「かねやす」に、心の内でエールを送りつつ春日通りを渡ると、左側に本郷薬師の参道が見えてくる。この地にあった真光寺が戦災にあって移転したあと、残された薬師堂が賑わっていた頃の残映を今に伝えようと踏ん張っているようにも見える。本郷通りは、交差点から北にやや下り坂となり、またやや上り坂となる。そのくぼんだ場所に小川が流れていて、別れ橋という橋が架かっていたというが、江戸時代には、その橋も埋まってしまったらしい。この小川は、安永の絵図によると、真光寺の境界に沿って流れたあと、西北に向かって流れていて、その途中からは、小川沿いに道が作られていた。菊坂下道である。
別れ橋跡の少し先を左に入る。菊坂である。江戸時代にも、坂下の菊坂町に下る坂道はあったが、現在のように本郷通りから下る菊坂は明治の中頃になってからという。明治になると菊坂の近辺には、多くの文人が集まってくる。樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治、坪内逍遥、等々。多くの作家が宿泊した菊富士ホテルもこの地にあった。文学散歩としては、旧居跡などを巡るべきかも知れないが、今日のところは、標識Cを確認しながら緩やかな菊坂を下り、樋口一葉が通った質屋の建物を眺めつつ、先に進む。
菊坂の下、交差点の左側には、散歩道の案内板が置かれている。この案内板には、サブコースのルート図と、湯島聖堂および菊坂についての説明があり、また、「本郷三丁目及同四丁目の図」が載っている。この図は、本郷三丁目の交差点を東側から見たもので、交差点を曲線を描いて通過する市電、錯綜する電線、瓦葺の商店が続く町並み、当時の人々の様子など、明治40年頃の情景が描かれている。菊坂下の案内板から左に行くと、白山通りに出る。サブコース「本郷文学散歩」はここで終わりとなる。
(2)小石川寺町散歩
白山通りには、本駒込を源流とする流れと千石からの流れが白山の下で合流して、東大下水(ひがしおおげすい)となって流れていた。この東大下水に、菊坂下道沿いの流れと清水橋方向からの流れが合流していたが、今はその姿を見る事が出来ない。白山通りを渡って先に進むと、こんにゃく閻魔で知られ、小石川七福神の毘沙門天を祭る寺でもある源覚寺に出る。昔、この寺の前には川が流れていて橋が架かっていた。その上流は千川駅近くの弁天池に発する谷端川で、千川上水からの分水を助水として南流し、椎名町駅の南側を回り込んでから北流し、下板橋駅を回りこんで向きを変え、大塚駅付近を過ぎて小石川と名を変え、伝通院と小石川植物園の間の谷を流れて源覚寺の前を通り、下流で東大下水と合流して神田川に流れ込んでいたが、今はすべて暗渠になっている。
源覚寺から北に行き、次の信号を左に入ると、善光寺坂の下に出る。江戸時代、ここから先は伝通院の広大な境内地であった。坂を上がると沢蔵司稲荷があり、その先、道路の真ん中に椋の巨木が聳えているのが目に入る。明らかに交通の邪魔だが、稲荷の魂が宿るとされているため切るに切られず、結局、車道は片側だけになっている。この稲荷、沢蔵司と名乗って伝通院で修業していたという話があり、沢蔵司が食べに行っていたという伝説の蕎麦屋が、今も伝通院前交差点の近くに残っている。
真新しい伝通院の山門の左側に、案内板がある。内容は、サブコース「小石川寺町散歩」のルート図と、伝通院および植物園の説明、江戸名所図会による伝通院の図である。伝通院から、ルート図に従って進み、標識Cにより右に折れ、墓地に沿って坂を下る。下りきったところに、右に入る道があり、標識Bが置かれている。この道をたどり、下りきったところのT字路を左折して先に進むと千川通りに出る。左に行くとすぐ標識Bがある。印刷会社に沿って先に進むと吹上坂の下に出る。その角に案内板が置かれている。
案内板には山本松谷の「東京帝国大学理科大学付属植物園」の図と、白山御殿や植物園についての説明書きがある。この先、桜の名所でもある播磨坂を上がる。左側の歩道を上がると、左手に極楽水の入口がある。中に入ると、この地にあった名水の極楽水をかたどった小庭が造られている。播磨坂をさらに上がると春日通りに出る。サブコースとしては、ここで終点となるが、春日通りを渡って右に、茗荷谷駅まで歩く。
(注)このサブコースは、小石川七福神のコースと一部が重なっている。小石川七福神については、当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。
(3)音羽の鐘散歩
茗荷谷駅から春日通りを先に進むと、左に入る道に、文京区の「緑のウオークラリー」の道標と、歴史と文化の散歩道の標識Bがある。この道に入って先に進むと、新大塚公園があり、標識Bと案内板が置かれている。その内容は、サブコースのルート図、護国寺などの説明、開設されて間もない頃の教育の森・文京区スポーツセンターの写真である。さらに進むと下り坂になり、音羽通りに出るので、ここを右に折れる。
音羽通りを護国寺方面に進み、不忍通りを渡ると、交番の前に案内板が置かれている。内容は、サブコースのルート図、護国寺と音羽通りの説明、広重が描いた「絵本江戸土産」第四編の大塚護国寺音羽町の図(部分)である。ここで、護国寺を参詣し、サブコースのタイトルに因んで護国寺の鐘を見てから次に行く。
不忍通りを西に行き、護国寺西の交差点で右に曲がっていくと、緑色のカタツムリのマークがあり、近くに案内板が置かれている。案内板には、江戸の絵図の上に●印をつけ、史跡や公園の名前を( )の中に記入した図と、護国寺など将軍家に所縁の寺についての説明がある。坂を上がり、その先の信号で道路を渡る。ここでサブコースは終わりとなる。
(4)雑司ヶ谷寺町散歩
雑司ヶ谷霊園の外周の道を西に向かって歩いて行くと児童館がある。ここを左に入ると旧宣教師館に行けるが、今は休館中のようなので先に進む。道が二又になったところで、本来は右の道をとり、清立院を経て都電荒川線に出るのだが、今回は工事中のため左の道をとる。この道を下り、突き当たって右へ行くと都電荒川線の踏切に出る。ここからは、線路に沿って左に行く。鬼子母神前の停留所の踏切を標識Cに従って渡り、先に行くと右側に鬼子母神の参道がある。参道に入ってすぐ、標識Bが置かれている。参道の途中には案内所があり、雑司ヶ谷についての種々の情報を入手できるが、今回はパスして先に進む。参道を突き当って左に曲がると、鬼子母神の入口に出る。その手前に、案内板が置かれており、その内容は、サブコースのルート図、鬼子母神とすすきみみずくについての説明、宮尾しげを画による「豊島風土記」の表紙絵(部分)である。
鬼子母神堂から法明寺に行く。「江戸名所図会」に描かれている二本の道は現存するが、周辺は大きく変わっている。法明寺の下には弦巻川が流れていたが、今は道路になっている。この道路を、標識Cに従って左に行き、二宮尊徳像のある角を右に曲がり、突き当たりの寺の右側の細道を入って法明寺の横に出るのがコースのようだが、わざわざ遠回りする必要もなさそうなので、真っすぐ法明寺に行く方が良いかも知れない。特に桜の開花期にはそうすべきだろう。さて、法明寺の左手に標識Bがあるので、それに従い墓地と法明寺の間の細い道を進むと、東通りに出る。標識Cにより右へ行き、少し広い道を左折すると、標識Bがある。ここからサンシャイン60に向かって進み、グリーン大通りに出る。通りの前に標識Bを確認して、大通りを渡り北進する。高速道路沿いの道は煩わしいが、それも東急ハンズまでで、その角を曲がれば、たちまち雑踏に飲み込まれる。後は人の流れに乗って駅まで行くだけである。
(注)このサブコースは、雑司ヶ谷七福神のコースと一部が重なっている。雑司ヶ谷七福神については当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。
(1)本郷文学散歩
「お堀端コース」の神田小川町の標識Bからスタートし、左側の歩道を歩いてお茶の水駅に向かう。途中、標識Bを確認しながら、関東大震災後に再建されたニコライ堂の下を過ぎる。今回は、お茶の水駅で右側の歩道に移り、関東大震災の復興事業で架けられた聖橋を渡って、その先の湯島聖堂に入る。聖堂の建物のほとんどは関東大震災後の再建だが、入徳門だけは、「江戸名所図会」に描かれた当時の姿を今に伝えている。改修工事を終えた入徳門を入り、大成殿を眺め、それから外に出て本郷通りを渡る。コースは直進しているが、ここはやはり、神田明神に寄りたい。
このサブコースのタイトルは文学散歩になっているので、神田明神の参詣の後、野村胡堂の「銭形平次捕物控」に因んだ、銭形平次の碑+がらっ八の碑にも挨拶しておく。 駐車場の上に作られた屋上庭園を抜けると、千代田区の指定有形文化財になっている、神田の家に出る。神田の家は、関東大震災後の復興住宅として、神田鎌倉町に建てられた材木商の店舗兼住宅で、文化財に指定されたあと、現在地に移築されている。
蔵前橋通りを渡って、清水坂を上がる。坂の途中を右に入ると、稲荷の関東総司を王子稲荷と争った妻恋神社があるが、今回は寄らずに先に進み、坂を上がった先の信号で左に折れ、その先の信号で右に入る。この道を進むと湯島天神の西側に出る。春日通りに出ると標識Aがあるが、ここは、「谷中コース」の起点にもなっている。湯島天神は、「谷中コース」の時に参詣することにして、春日通りを左に行く。本来は春日通りを渡って北側の歩道を歩くのが正しいようだが、今回は南側の歩道を歩く。
本郷三丁目の交差点の手前にある、寛永年間創業の和菓子の老舗「藤むら」は、すでに閉店したらしいのだが、その名を惜しむかのように看板だけは健在である。本郷通りを渡り、今も店を開いている「かねやす」に、心の内でエールを送りつつ春日通りを渡ると、左側に本郷薬師の参道が見えてくる。この地にあった真光寺が戦災にあって移転したあと、残された薬師堂が賑わっていた頃の残映を今に伝えようと踏ん張っているようにも見える。本郷通りは、交差点から北にやや下り坂となり、またやや上り坂となる。そのくぼんだ場所に小川が流れていて、別れ橋という橋が架かっていたというが、江戸時代には、その橋も埋まってしまったらしい。この小川は、安永の絵図によると、真光寺の境界に沿って流れたあと、西北に向かって流れていて、その途中からは、小川沿いに道が作られていた。菊坂下道である。
別れ橋跡の少し先を左に入る。菊坂である。江戸時代にも、坂下の菊坂町に下る坂道はあったが、現在のように本郷通りから下る菊坂は明治の中頃になってからという。明治になると菊坂の近辺には、多くの文人が集まってくる。樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治、坪内逍遥、等々。多くの作家が宿泊した菊富士ホテルもこの地にあった。文学散歩としては、旧居跡などを巡るべきかも知れないが、今日のところは、標識Cを確認しながら緩やかな菊坂を下り、樋口一葉が通った質屋の建物を眺めつつ、先に進む。
菊坂の下、交差点の左側には、散歩道の案内板が置かれている。この案内板には、サブコースのルート図と、湯島聖堂および菊坂についての説明があり、また、「本郷三丁目及同四丁目の図」が載っている。この図は、本郷三丁目の交差点を東側から見たもので、交差点を曲線を描いて通過する市電、錯綜する電線、瓦葺の商店が続く町並み、当時の人々の様子など、明治40年頃の情景が描かれている。菊坂下の案内板から左に行くと、白山通りに出る。サブコース「本郷文学散歩」はここで終わりとなる。
(2)小石川寺町散歩
白山通りには、本駒込を源流とする流れと千石からの流れが白山の下で合流して、東大下水(ひがしおおげすい)となって流れていた。この東大下水に、菊坂下道沿いの流れと清水橋方向からの流れが合流していたが、今はその姿を見る事が出来ない。白山通りを渡って先に進むと、こんにゃく閻魔で知られ、小石川七福神の毘沙門天を祭る寺でもある源覚寺に出る。昔、この寺の前には川が流れていて橋が架かっていた。その上流は千川駅近くの弁天池に発する谷端川で、千川上水からの分水を助水として南流し、椎名町駅の南側を回り込んでから北流し、下板橋駅を回りこんで向きを変え、大塚駅付近を過ぎて小石川と名を変え、伝通院と小石川植物園の間の谷を流れて源覚寺の前を通り、下流で東大下水と合流して神田川に流れ込んでいたが、今はすべて暗渠になっている。
源覚寺から北に行き、次の信号を左に入ると、善光寺坂の下に出る。江戸時代、ここから先は伝通院の広大な境内地であった。坂を上がると沢蔵司稲荷があり、その先、道路の真ん中に椋の巨木が聳えているのが目に入る。明らかに交通の邪魔だが、稲荷の魂が宿るとされているため切るに切られず、結局、車道は片側だけになっている。この稲荷、沢蔵司と名乗って伝通院で修業していたという話があり、沢蔵司が食べに行っていたという伝説の蕎麦屋が、今も伝通院前交差点の近くに残っている。
真新しい伝通院の山門の左側に、案内板がある。内容は、サブコース「小石川寺町散歩」のルート図と、伝通院および植物園の説明、江戸名所図会による伝通院の図である。伝通院から、ルート図に従って進み、標識Cにより右に折れ、墓地に沿って坂を下る。下りきったところに、右に入る道があり、標識Bが置かれている。この道をたどり、下りきったところのT字路を左折して先に進むと千川通りに出る。左に行くとすぐ標識Bがある。印刷会社に沿って先に進むと吹上坂の下に出る。その角に案内板が置かれている。
案内板には山本松谷の「東京帝国大学理科大学付属植物園」の図と、白山御殿や植物園についての説明書きがある。この先、桜の名所でもある播磨坂を上がる。左側の歩道を上がると、左手に極楽水の入口がある。中に入ると、この地にあった名水の極楽水をかたどった小庭が造られている。播磨坂をさらに上がると春日通りに出る。サブコースとしては、ここで終点となるが、春日通りを渡って右に、茗荷谷駅まで歩く。
(注)このサブコースは、小石川七福神のコースと一部が重なっている。小石川七福神については、当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。
(3)音羽の鐘散歩
茗荷谷駅から春日通りを先に進むと、左に入る道に、文京区の「緑のウオークラリー」の道標と、歴史と文化の散歩道の標識Bがある。この道に入って先に進むと、新大塚公園があり、標識Bと案内板が置かれている。その内容は、サブコースのルート図、護国寺などの説明、開設されて間もない頃の教育の森・文京区スポーツセンターの写真である。さらに進むと下り坂になり、音羽通りに出るので、ここを右に折れる。
音羽通りを護国寺方面に進み、不忍通りを渡ると、交番の前に案内板が置かれている。内容は、サブコースのルート図、護国寺と音羽通りの説明、広重が描いた「絵本江戸土産」第四編の大塚護国寺音羽町の図(部分)である。ここで、護国寺を参詣し、サブコースのタイトルに因んで護国寺の鐘を見てから次に行く。
不忍通りを西に行き、護国寺西の交差点で右に曲がっていくと、緑色のカタツムリのマークがあり、近くに案内板が置かれている。案内板には、江戸の絵図の上に●印をつけ、史跡や公園の名前を( )の中に記入した図と、護国寺など将軍家に所縁の寺についての説明がある。坂を上がり、その先の信号で道路を渡る。ここでサブコースは終わりとなる。
(4)雑司ヶ谷寺町散歩
雑司ヶ谷霊園の外周の道を西に向かって歩いて行くと児童館がある。ここを左に入ると旧宣教師館に行けるが、今は休館中のようなので先に進む。道が二又になったところで、本来は右の道をとり、清立院を経て都電荒川線に出るのだが、今回は工事中のため左の道をとる。この道を下り、突き当たって右へ行くと都電荒川線の踏切に出る。ここからは、線路に沿って左に行く。鬼子母神前の停留所の踏切を標識Cに従って渡り、先に行くと右側に鬼子母神の参道がある。参道に入ってすぐ、標識Bが置かれている。参道の途中には案内所があり、雑司ヶ谷についての種々の情報を入手できるが、今回はパスして先に進む。参道を突き当って左に曲がると、鬼子母神の入口に出る。その手前に、案内板が置かれており、その内容は、サブコースのルート図、鬼子母神とすすきみみずくについての説明、宮尾しげを画による「豊島風土記」の表紙絵(部分)である。
鬼子母神堂から法明寺に行く。「江戸名所図会」に描かれている二本の道は現存するが、周辺は大きく変わっている。法明寺の下には弦巻川が流れていたが、今は道路になっている。この道路を、標識Cに従って左に行き、二宮尊徳像のある角を右に曲がり、突き当たりの寺の右側の細道を入って法明寺の横に出るのがコースのようだが、わざわざ遠回りする必要もなさそうなので、真っすぐ法明寺に行く方が良いかも知れない。特に桜の開花期にはそうすべきだろう。さて、法明寺の左手に標識Bがあるので、それに従い墓地と法明寺の間の細い道を進むと、東通りに出る。標識Cにより右へ行き、少し広い道を左折すると、標識Bがある。ここからサンシャイン60に向かって進み、グリーン大通りに出る。通りの前に標識Bを確認して、大通りを渡り北進する。高速道路沿いの道は煩わしいが、それも東急ハンズまでで、その角を曲がれば、たちまち雑踏に飲み込まれる。後は人の流れに乗って駅まで行くだけである。
(注)このサブコースは、雑司ヶ谷七福神のコースと一部が重なっている。雑司ヶ谷七福神については当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」の中に記事がある。