松戸を北に行き、上本郷、新作を過ぎると、水戸藩御鷹場のある馬橋に出る。嘉陵はここで、万満寺(松戸市馬橋)を参詣しているが、先を急ぐため、開基も聞かなかった(実は、建長8年(1256)、千葉頼胤が開基)。寺の外に出て坂を上がり、八ケ崎への道を分ける。ここからは現在の水戸街道の道筋となるが、少し行ったところに蘓羽鷹大明神(蘓羽鷹神社。松戸市二ツ木)の祠があった。嘉陵は、何の神を祀っているのか分らぬままに、ここを通り過ぎている(実は、千葉氏の守護神である国常立命を祀っている)。この先、旧街道は現在の水戸街道から分かれて、二つ木から下って上がり、左へ上総内を経て小金宿(松戸市小金)に向う。戸数300戸。松戸に比べて、やや貧しそうに見えたと記す。この宿の中ほどに関東十八檀林(檀林とは仏教の学問所をさす)の一つ仙法山一乗院(東漸寺。松戸市小金)があるが、嘉陵は見るべき程のもの無しと記している。すでに正午。先を急いでいたのだろうか。
小金宿の北側で、北に本土寺へ向かう道と分かれ、旧水戸街道を東に向う。現在、北小金駅近くのサティの西南側に本土寺と水戸道の道標が残されているが、ここが分岐点である。この先、旧水戸街道は下り坂となり、現水戸街道を横切って、根木内の上り坂となる。さらに下って上がると中新宿(柏市)で、ここを過ぎれば向小金(流山市)に出る。嘉陵が書いた略図では、途中に「今川焼あり。食うべし」と記されているが、嘉陵も食べたのだろうか。そろそろ空腹を感じる時間である。嘉陵は、向小金(流山市向小金)の一里塚近くの店で休憩し、店主から小金の牧について話を聞いている。現在、一里塚は失われているが、香取神社(流山市向小金)付近にあったとされ、境内に一里塚の碑が建っている。
店主からは聞いた話では、水戸街道北方の上の牧に、蛇沢、高田台、大田前の牧、南方の下の牧に、日ぐらし山、五助原、平塚、白子の牧、合わせて七つの牧があり、全部で千五六百頭の馬がいて、毎年十一月には馬狩を行っているという事であった。実は享保以降になると、小金の牧は、高田台、上野、中野、下野、印西の五牧に整理されていたが、店主は知っている範囲で話したのだろう。一里塚から先、道はやや下りとなって小金の牧に出るが、水戸街道は、ここから牧を横切っていた。牧の周囲には、放し飼いの馬が逃げ出さないよう、野馬土手が作られていたが、その土手の一部が切られて木戸が設けられ、牧への入口になっていた。現在、牧の木戸はその痕跡すら無く、新木戸の地名を残すのみであるが、その場所は、南柏駅の近く、旧水戸街道の旧日光街道への分岐点付近(柏市今谷上町)とされている。嘉陵は、木戸から牧の中に入り、道の傍らで暫く牧の様子を眺めたり、また、道行く人から話を聞いたりしている。現在、小金の牧は存在しないが、南柏駅西口を出て、現水戸街道を渡った先に、野馬土手(流山市松ケ丘1)が残されている。
小金宿の北側で、北に本土寺へ向かう道と分かれ、旧水戸街道を東に向う。現在、北小金駅近くのサティの西南側に本土寺と水戸道の道標が残されているが、ここが分岐点である。この先、旧水戸街道は下り坂となり、現水戸街道を横切って、根木内の上り坂となる。さらに下って上がると中新宿(柏市)で、ここを過ぎれば向小金(流山市)に出る。嘉陵が書いた略図では、途中に「今川焼あり。食うべし」と記されているが、嘉陵も食べたのだろうか。そろそろ空腹を感じる時間である。嘉陵は、向小金(流山市向小金)の一里塚近くの店で休憩し、店主から小金の牧について話を聞いている。現在、一里塚は失われているが、香取神社(流山市向小金)付近にあったとされ、境内に一里塚の碑が建っている。
店主からは聞いた話では、水戸街道北方の上の牧に、蛇沢、高田台、大田前の牧、南方の下の牧に、日ぐらし山、五助原、平塚、白子の牧、合わせて七つの牧があり、全部で千五六百頭の馬がいて、毎年十一月には馬狩を行っているという事であった。実は享保以降になると、小金の牧は、高田台、上野、中野、下野、印西の五牧に整理されていたが、店主は知っている範囲で話したのだろう。一里塚から先、道はやや下りとなって小金の牧に出るが、水戸街道は、ここから牧を横切っていた。牧の周囲には、放し飼いの馬が逃げ出さないよう、野馬土手が作られていたが、その土手の一部が切られて木戸が設けられ、牧への入口になっていた。現在、牧の木戸はその痕跡すら無く、新木戸の地名を残すのみであるが、その場所は、南柏駅の近く、旧水戸街道の旧日光街道への分岐点付近(柏市今谷上町)とされている。嘉陵は、木戸から牧の中に入り、道の傍らで暫く牧の様子を眺めたり、また、道行く人から話を聞いたりしている。現在、小金の牧は存在しないが、南柏駅西口を出て、現水戸街道を渡った先に、野馬土手(流山市松ケ丘1)が残されている。