天保二年九月六日(1831年10月11日)、隅田村に遊び、正福寺(写真。墨田区隅田2)を訪ねる。嘉陵は、文化十三年(1816)と文政十年(1827)にも正福寺を訪ねているが、紀行文中に、“もとこしは三十余年を経れば”、とあるので、それ以前にも正福寺を訪れたことがあったのだろう。今回、来て見ると、木立の下にあった古碑は墓所入口に移されており、あった筈の五重の石塔婆は何処にも見当たらない。昔は、毛氈を敷いたようだった高麗芝も今は無く、松は半ば枯れ、坊の後ろにあった茶亭は跡形も無かった。嘉陵は、時の移ろいを感じつつ、客殿の弘法大師像を拝んで、寺を出ている。
嘉陵は渡辺周助から、「隅田村の百姓源右衛門の屋敷から、旗揚八幡宮と彫付けた石が出て来たので、中川飛騨守に訴えたが、いまだに音沙汰が無い」という話を聞いたことがあったが、今まで訪ねることはしなかった。今は源右衛門の子、五郎兵衛が後を継いでいて、古碑の文字が剥落していたのを、読み易く直したため偽物の様になり、評判も良くないので隠しているという事であったが、今回は、それでもと、五郎兵衛の家を訪ねている。しかし、そっけない応対であったので、掘り出した場所を教えてもらって、その場を辞した。
そのあと、若宮八幡宮(荒川放水路工事に伴い隅田川神社(墨田区堤通2)に合祀)を参詣する。赤く塗った鳥居があり、社は板葺きで南に面していた。境内には楠の古木があったが、あとはみな松であった。別当は善福寺といい、客殿には弘法大師が祀られていた。食事の用意をしている嫗が居たが、僧の姿は見えなかった。嘉陵は、この辺の松と御殿山の松とを比べて、土壌によって違いがあるのだろうと述べている。また、堀の内妙法寺の杉が伐採され、江戸で売られていた事を取り上げて、杉は60年経つと役に立つが、自分は役に立っていない。我、杉に恥じると言うべきか、と書いている。
嘉陵は渡辺周助から、「隅田村の百姓源右衛門の屋敷から、旗揚八幡宮と彫付けた石が出て来たので、中川飛騨守に訴えたが、いまだに音沙汰が無い」という話を聞いたことがあったが、今まで訪ねることはしなかった。今は源右衛門の子、五郎兵衛が後を継いでいて、古碑の文字が剥落していたのを、読み易く直したため偽物の様になり、評判も良くないので隠しているという事であったが、今回は、それでもと、五郎兵衛の家を訪ねている。しかし、そっけない応対であったので、掘り出した場所を教えてもらって、その場を辞した。
そのあと、若宮八幡宮(荒川放水路工事に伴い隅田川神社(墨田区堤通2)に合祀)を参詣する。赤く塗った鳥居があり、社は板葺きで南に面していた。境内には楠の古木があったが、あとはみな松であった。別当は善福寺といい、客殿には弘法大師が祀られていた。食事の用意をしている嫗が居たが、僧の姿は見えなかった。嘉陵は、この辺の松と御殿山の松とを比べて、土壌によって違いがあるのだろうと述べている。また、堀の内妙法寺の杉が伐採され、江戸で売られていた事を取り上げて、杉は60年経つと役に立つが、自分は役に立っていない。我、杉に恥じると言うべきか、と書いている。