六所明神(大国魂神社)の門を出て、用水路に沿って歩き、土蔵がある綿屋の前を過ぎて、中河原に出る。ここに、一宮の渡し(府中四谷橋付近)があった。丸木橋三箇所とそだ橋を渡ると渡し場で、馬舟が二艘、渡った先にも丸木橋が三箇所あった。道端に生っていた柿を食べながら、多摩川に沿って西南に歩いて行き、民家の庭を抜け山道を上がると、正蓮寺(松蓮寺)の門に出た。門から石段を上がり、坂道を登ると、盆池があり、水車があり、客殿、坊、庫裏、茶室がある。さらに上がると、歓喜亭があり、清涼台があった。また、新田義貞鎧掛けの松があり、南東にも一亭があった。霞がたなびいていたが、江戸の辺境が見渡せ、不確かながら筑波、日光、赤城が見えた。秩父の諸山、子の権現の山、大山もかすかに見えた、と嘉陵は書いている。嘉陵が訪れた松蓮寺は、明治になって廃寺となるが、現在、その跡地が百草園となり、梅の季節には多くの人が訪れている。
正蓮寺(松蓮寺)は庭が評判になって、当時、文人墨客が多く訪れた場所である。しかし、嘉陵は、あまり良い印象を持たなかったようである。嘉陵は、奇をてらった不自然な庭を好まなかったため、通り抜けの洞穴を掘ったり、山道の両側に塗り池を造るなど、景勝を壊し、無理な工事をしている事が気に入らなかったらしい。そのうえ、坊への一宿を頼んだものの聞き入れられなかった。既に午後4時。嘉陵は仕方なく寺を出て山を下り、八幡宮(百草八幡宮。日野市百草)も麓から拝んだだけで、先を急いでいる。
嘉陵は、青柳不動尊しか泊まるところが無いとし、青柳までは西に僅かばかりと書いているが、これには疑問がある。嘉陵の略図にも青柳という地名が見えるが、その場所は多摩川の北側であり、青柳(国立市青柳)に行くには多摩川を渡らなければならない。松蓮寺から西に行く場合、日野の渡しを渡れば青柳に行けるが、そうするより日野宿に泊まるのが普通だろう。嘉陵が青柳不動と書いているのは、高幡不動のことではなかろうか。
二人は川に沿ったり離れたりしながら進み、馬捨て場を過ぎる。地元の話では2kmほどで着くということだったが、疲れた足には遠く感じたと嘉陵は書いている。高畠不動(高幡山金剛寺。日野市高幡)に着くと、寺には住職と隠居も居て、嘉陵と矩美を喜んで招じ入れてくれた。二人は不動尊の像を拝観し、寺僧の案内で山内を見て回ったあと、隠居や住職から酒食の歓待を受け、風呂にも案内されている。そのあと、長谷川周助という老夫婦も加わって、酒宴が続き、夜遅くまで語り合って、寝に就いたという。
翌日、江戸への帰途について、嘉陵は次のように書いている。帰り道、所々の道端の芝生に座り込んで、幾度となく瓢の酒を傾けた。幡ヶ谷の辺りで日が傾き、新町(角筈新町)の通りまで来ると、月が出た。月は道の左側、屋根の上にあった。道は東に向かっているに違いない・・・。嘉陵たち二人は、半ば酔い、半ば歩いて、満ち足りた気分で江戸に戻ったのだろう。時に嘉陵、数えで74歳。歩いた距離は、片道で40kmはあった。
正蓮寺(松蓮寺)は庭が評判になって、当時、文人墨客が多く訪れた場所である。しかし、嘉陵は、あまり良い印象を持たなかったようである。嘉陵は、奇をてらった不自然な庭を好まなかったため、通り抜けの洞穴を掘ったり、山道の両側に塗り池を造るなど、景勝を壊し、無理な工事をしている事が気に入らなかったらしい。そのうえ、坊への一宿を頼んだものの聞き入れられなかった。既に午後4時。嘉陵は仕方なく寺を出て山を下り、八幡宮(百草八幡宮。日野市百草)も麓から拝んだだけで、先を急いでいる。
嘉陵は、青柳不動尊しか泊まるところが無いとし、青柳までは西に僅かばかりと書いているが、これには疑問がある。嘉陵の略図にも青柳という地名が見えるが、その場所は多摩川の北側であり、青柳(国立市青柳)に行くには多摩川を渡らなければならない。松蓮寺から西に行く場合、日野の渡しを渡れば青柳に行けるが、そうするより日野宿に泊まるのが普通だろう。嘉陵が青柳不動と書いているのは、高幡不動のことではなかろうか。
二人は川に沿ったり離れたりしながら進み、馬捨て場を過ぎる。地元の話では2kmほどで着くということだったが、疲れた足には遠く感じたと嘉陵は書いている。高畠不動(高幡山金剛寺。日野市高幡)に着くと、寺には住職と隠居も居て、嘉陵と矩美を喜んで招じ入れてくれた。二人は不動尊の像を拝観し、寺僧の案内で山内を見て回ったあと、隠居や住職から酒食の歓待を受け、風呂にも案内されている。そのあと、長谷川周助という老夫婦も加わって、酒宴が続き、夜遅くまで語り合って、寝に就いたという。
翌日、江戸への帰途について、嘉陵は次のように書いている。帰り道、所々の道端の芝生に座り込んで、幾度となく瓢の酒を傾けた。幡ヶ谷の辺りで日が傾き、新町(角筈新町)の通りまで来ると、月が出た。月は道の左側、屋根の上にあった。道は東に向かっているに違いない・・・。嘉陵たち二人は、半ば酔い、半ば歩いて、満ち足りた気分で江戸に戻ったのだろう。時に嘉陵、数えで74歳。歩いた距離は、片道で40kmはあった。