夢七雑録

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19.3 小金井府中再遊吟遊(3)

2009-03-26 19:06:54 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 府中から本街道を南に折れて、川沿いに進み、玉川(多摩川)の関戸の渡しを仮橋で渡る。仮橋が架けられるのは九月から三月までの間で、両縁に丸木を渡して、竹を編んだ上に土の方を上にした芝草を敷き詰めてあったという。嘉陵は小山田関跡について話を聞こうと関戸の名主相澤源左衛門を訪ね、霞ヶ関についての話も聞いている。しかし、黄昏時になったため、関跡を訪ねるのはやめにしている。そのあと、関戸村入口にあった横溝八郎ほか多数の戦死者を埋葬した塚を訪れている。嘉陵はここで、予知夢のような体験をしたと書いている。六所(大国魂神社)の南西一帯は、分配河原(分倍河原)とよばれる玉川(多摩川)の川原で、新田義貞の軍勢が鎌倉方の軍勢と戦った古戦場である。鎌倉方の武将、横溝八郎は奮戦したものの討ち死にし、戦いは新田義貞の勝利で終わった。この戦いが契機となって、鎌倉幕府は滅亡への道をたどることになる。横溝八郎の塚は、関戸古戦場跡と記された標柱のある地蔵の祠の裏手(多摩市関戸5)に現存している。また、霞ケ関(小山田関)の木戸柵を示す標識が、現在の熊野神社(多摩市関戸5)内にある。

 嘉陵は井田摂津守是政の墓も訪ねている。その墓は染屋の原の南にある井田左兵衛の畑の中にあった(現在は東京競馬場の中にある)。嘉陵は井田左兵衛から系図を見せてもらうが、それによると井田氏は、畠山重忠の四男重政が三河国井田村に移住して井田と称したことに始まるといい、十五代目が井田次郎四郎摂津守是政、その八代後が井田左兵衛であるという。左兵衛の話では、小田原の北条氏に仕えていた井田摂津守は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、「ぢごじ」に立て篭もったが、落城したため引き払って、この地(現在の是政付近)に蟄居したという。嘉陵は神宮寺山に篭城したという説を取り上げ、神宮寺山とは神護寺(ぢごじ)の事と考えたようである。現在の通説では、北条氏康の次男氏照は、最初、滝山城(八王子市滝山自然公園)を居城としていたが、高尾山近くの深沢山(城山)に八王子城を築いて移り住み居城としていた。豊臣秀吉が小田原城を攻めた時、北条氏照は主だった家臣とともに小田原城に立て篭もり、八王子城は残った家臣が詰めていた。しかし、八王子城は未完成であったのと、城主が不在であったため、前田利家らの軍勢に攻められ、あっけなく落城したという。井田摂津守はこのとき城を脱出したということらしい。嘉陵が聞いたところでは、井田氏はこの地で農業を営んでいたが、世を忍ぶ身であることから、代官などの調べに際して詳しい事実を言わなかったという。現在、井田氏の出自に関しては諸説あって、よく分らないという事である。

 嘉陵は、今回の旅の帰路については記述していない。しかし、関戸で既に黄昏時であったとすると、府中に到着した時点でかなり遅い時間になっていた筈である。それと、小金井、国分寺、関戸を回ってきたとすると、すでに歩いた距離は50kmぐらいにはなっていただろう。それでも敢えて、江戸まで30kmを歩き、夜遅く戻ったのだろうか。仕事上支障が無ければ、府中に泊ることもあったかも知れないし、また、日を改めて関戸に行ったという事も考えられるのだが。