夢七雑録

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東京文化財ウイーク2021・豊島区・その2

2021-11-12 19:24:00 | 東京の文化財

(2)雑司ヶ谷旧宣教師館

鬼子母神前の踏切を渡って左へ、都電沿いに道を北に向かうと弦巻通りに出る。途中に踏切があった筈だが見当たらない。閉鎖されたのだろう。弦巻通りを東に向かう。通りの名は弦巻川が由来だろうが、暗渠化されているので、どこを流れていたかは分からない。児童遊園の先の角を左に入り、急坂を上がると雑司が谷霊園に出る。霊園に沿って右へ行き、保育園の角を右に入って、幼稚園の手前を左に行くと豊島区立雑司が谷旧宣教師館に出る。

雑司が谷旧宣教師館は、アメリカ人宣教師のマッケーレブが明治40年に建てた居宅で、昭和16年まで居住していたという。昭和57年に豊島区がこの建物を取得して、当初の姿に復元するとともに保存修理工事を行い、平成元年に開館。平成11年には旧マッケーレブ邸として、都の有形文化財(建造物)に指定されている。昨年度は大規模修繕のため閉館していたが、工事も終り今年4月から開館している。入館料は無料である。

ホールでスリッパに履き替え中に入る。1階の西側は居間、東側は食堂、南側は教会事務室として使われていた。写真は食堂で、階段の見える東側から南側にかけて広縁になっている。

北側の階段を上がる。向こう側に広縁が見えている。その左側は浴室である。2階は、東側と西側が寝室、南側が書斎として使われていた。

写真は書斎で、左側には暖炉がある。暖炉は1階と2階、合わせて6室に設けられていた。書斎の向こう側には広縁が見えている。

各部屋と展示を見たあと、庭に出て建物を一周する。写真は南側で、1階と2階で形の異なるベイウィンドウ、すなわち出窓になっている。

東側の庭から建物を見る。ガラス窓なので庭から部屋の様子が見える。広縁から庭を眺めるのも良さそうである。建物の周りを一周し、それから宣教師館の外に出る。宣教師館を横目に右へ行き、その先を左に、次の突き当りを右に進み、その先の突き当りを左に行くと、雑司が谷霊園に出る。霊園沿いに右に行けば日出通りに出る。坂の名は小篠(こざさ)坂。昔、この坂を都電が通っていたが、今は首都高が頭上を覆い隠すように通っている。

首都高を潜って日出通りを渡り左に行く。次の交差点で右に入る道は、護国寺の裏手を通って鈴木信太郎記念館に行く近道だが、今回はこの道を通らず、日出通りから分かれて北に向かう道を歩く。実は、この道、豊島区と文京区の境の道なのである。先に進むと左側つまり豊島区側に“鎮守の森”という名の小さな広場があった。鎮守とは言うが、神社があったわけではないらしい。この辺りでは、このような小広場を辻広場と呼び、他にもあるという。

鎮守の森を過ぎて直ぐ右に道を折れ、三つ目の左側の角を左に入る。児童遊園を過ぎて先に進むと、道の角に小さな広場があった。ここも辻広場で太陽広場と呼ばれているらしい。ここを右に行くと、いつの間にか文京区側に入ってしまう。

 

(3)鈴木信太郎記念館

大塚六丁目の交差点に出て、右に行く。少し歩くと開運坂の交差点に出る。押しボタン式信号機のボタンを押し、暫く休んでから渡る。渡った先の道を北に向かって進み、右に曲がるとようやく区境の道となる。道の左側には斜面の崩壊を防ぐ大谷石の擁壁が続くが、その途中に鈴木信太郎記念館の入口がある。この記念館は、旧鈴木家住宅として豊島区の有形文化財(建造物)に指定されている。なお、当ブログでは鈴木信太郎記念館について2018年10月31日にも投稿している。

入口を入って石段を上がると、先ず右側の書斎棟が目を引く。昭和3年の建設で蔵書を火災から守るため鉄筋コンクリート造りになっている。設計は鉄筋コンクリートに詳しい大塚泰。幾何学模様に対し日本瓦の唐破風を組み合わせている。

鈴木家住宅は、茶の間ホール棟を中心に右側の書斎棟と左側の座敷棟からなる。写真は茶の間ホール棟で、粟谷鶉二の設計による昭和21年の建築である。戦後の住宅不足対策として、限りある建築資材で多くの棟数を確保するため、昭和21年に臨時建設制限令が出され、木造住宅の床面積が50㎡(15坪)を超える新築や増改築は原則として禁止されることになった。そのため、茶の間ホール棟も50㎡以下に抑えられている。

茶の間ホール棟の玄関でスリッパに履き替えて書斎棟に行く。天井まで届く本棚に圧倒される。知っている本があるかどうか探そうかと思ったが、すぐにあきらめる。書斎棟には、多くの書物を机に並べて仕事するのに適した机と椅子がある。今はカーテンにより室内は暗くなっているが、仕事をしている時にはカーテンを開けていたかも知れない。

書斎棟には鈴木信太郎自身のデザインによるステンドグラスが、5枚はめ込まれている。黄金色の光の中で、鰐、鳩、鹿、獅子、犬が本を開いている図柄で、マラルメが語った言葉「LE MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU  LIVRE」(世界は一巻の美しい書物に近付くべく出来ている)を5分割したものを組み合わせているということだが、文字はよく分からない。上の写真はその中の1枚で、S.Mというのはステファヌ.マラルメのことだろう。

書斎棟からホールに戻ろうとして段差があるのに気付く。フランス文学の研究者として書斎で過ごす時間が多かったとすると、書斎は職場であり、家人が自由に入れる場所ではなかっただろう。ホールを通り抜け、スリッパも脱いで座敷棟に行く。北葛飾郡富多村の実家には明治20年代に建てられた書院があったが、座敷棟はこれを昭和23年に移築したもので、臨時建設制限令下でも移築は許可されたらしい。次の間から座敷を眺める。以前来た時は床の間に何も無かったが、今回は掛軸が架かっていた。これでこそ床の間である。掛軸は高森碎巌の穐景山水図で複製のようだが、それでも掛軸があった方がいい。

玄関から外に出て座敷棟を眺める。その背後には、昔は無かった筈の高層建築が、鈴木家の住宅を見下ろすように立ち並んでいる。仮に座敷棟に住むことになったとしたら、多少なりとも気になるのかもしれない。

室内から庭を眺める。住居だった頃の庭については、よく分からないが、現在の庭はすっきりした庭になっている。芝生に踏み石が置かれただけで座敷棟の前は和の庭になる。敷地東側の書斎棟の前は芝生が広がる洋の庭で、入口近くのクスノキがシンボルツリーとなって、敷地の南側全体を一つの庭にまとめている、そんな気がする。

記念館内を一通り見てから、外に出て新大塚駅に向かう。途中、記念館の外から書斎棟を眺める。背後には高層建築も見えているが、建物の風格と云う点からすれば格段の差がある。それにしても、個人の住宅の一部として、よくぞ、このような書斎棟を建てたものだと思う。

 

 


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