夢七雑録

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千川上水花めぐり(1)

2010-04-11 12:34:51 | 千川上水

 西武池袋線の東長崎駅に、「千川上水を探訪する」というパネルがあり、千川上水についての説明と昔の写真とが展示されている。駅の近くを千川上水が通っていた事に因んだものらしい。そこで、千川上水について少し調べてみた上で、千川上水の跡をたどってみる事にした。時は4月。桜など花を見ながらの散策という事になる故、タイトルは、「千川上水花めぐり」とした。

 初めに、千川上水についての概略を記しておく。千川上水は、元禄9年(1696)に将軍綱吉の命令で、玉川上水から分水して作られた水路で、設計は河村瑞賢が担当したともいわれている。工事を請け負ったのは播磨屋徳兵衛、和泉屋多兵衛と加藤屋善九郎、中島屋与一郎である。工費は幕府の見積費用を超過したが、私財を投じて無事完成し、その功により千川の姓を拝領する。善九郎と与一郎も千川を名乗るが、水元役として千川上水に関わり続けたのは、徳兵衛と多兵衛の家だけである。工事は、玉川上水の分水口から巣鴨の元枡までの、距離にして約22km、高低差40mほどを素掘りとし、西巣鴨の元枡からは木樋により、白山御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺と、柳沢屋敷(六義園)などの屋敷及び駒込から浅草に至る地域に上水を供給するものであった。
 
 千川上水の上水(飲用水)としての利用は、享保7年(1722)に休止となり、天明元年(1781)に再開されるが、天明6年(1786)に再度休止となる。明治13年(1880)、千川水道株式会社により上水は再興されるが、明治40年(1907)には会社閉鎖により、上水としての利用は終了する。一方、農業用水としての利用は、宝永4年(1707)に始まり、上水としての利用が休止された期間も農業用水としては継続的に利用されている。また、江戸後期から明治にかけて、水車への使用や工業用水としての利用も行われるようになった。しかし、戦後は需要が減少し、昭和46年をもって千川上水の水利用は終止する。一方、玉川上水については、淀橋浄水場の廃止により、小平監視所下流の水路はその役割を終えていたが、清流復活の要望が強かったため、昭和61年から処理水が流されるようになる。千川上水についても、平成2年、玉川上水から分水して、処理水による清流が復活することになった。

 玉川上水から千川上水への江戸時代の分水口は、「上水記」の図面によると、新橋と保谷橋の中間にあった。現在でいうと、新橋と大橋の間で分水していたことになる。千川上水への分水は、享保17年(1732)以降は、地下に埋めた木樋すなわち埋樋により行われるようになる。江戸時代、千川上水の上流の各所でも、玉川上水からの分水は行われてきたが、明治3年(1870)になると、玉川上水からの直接分水が禁止され、上流の小川村での分水を共同利用することになる。しかし、千川上水の下流まで水が行き渡らない事態に陥った為、翌年、千川上水については、元の分水口から500mほど上流の玉川上水から直接分水する事が許される。さらに、明治13年(1880)には、千川水道株式会社により、分水口がもう一か所増設される。二つの分水口の位置は、現・曙橋の上流部に当たる。現在は、これらの分水口は廃止され、境橋の下流から分水されている。

 現在の千川上水は、境橋近くに始まり伊勢橋までは概ね開渠で、流れを見ながら歩くことが出来る。しかし、伊勢橋から先はごく一部を除いて暗渠になっていて、知らなければ千川上水の存在さえ気付かないかも知れない。今回は、現在の千川上水跡をたどるとともに、明治16年頃に書かれた「千川上水路図」を参考に、当時の千川上水路についても考えてみることにした。なお、「千川上水路図」は、玉川上水から千川上水への分水口から、巣鴨の元枡までの千川上水の水路を、連続して描いた絵図であり、縮尺は5000分の1程度で比較的正確とされるが、実測したものではないので実際の距離や方位とは、ずれがあり、そのまま現在の地図と対応させるには難がある。また、水路図以外は省略されており、周辺の状況が分からないこともあるので、「迅速測図」のような当時の地図も参考にすることとした。

 それでは、千川上水の分水口から巣鴨の元枡まで、交差する鉄道線路も存在せず、流域の大半が田園地帯だった明治16年頃の風景を想像しながら、現在の千川上水の跡をたどってみることにしよう。


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