旧芝離宮恩賜庭園は、江戸時代の初期に、老中・大久保忠朝が芝の下屋敷に造った楽寿園という名の庭園に始まる。この屋敷は後に大久保家の上屋敷となり、堀田家、清水家、紀州徳川家、有栖川宮家へと引き継がれ、そのあと芝離宮となり、大正時代に下賜され旧芝離宮恩賜庭園として公開されて現在に至っている。旧芝離宮恩賜庭園は、潮の干満による景観の変化を取り入れた潮入回遊式泉水庭園の先駆けであったが、現在は残念ながら海水を入れていない。なお、この庭園は江戸時代の大名庭園の作庭技法を伝える優秀な庭園として、国の名勝に指定されている。
浜松町駅の北口から東へ直ぐ、旧芝離宮恩賜庭園の入口がある。入園料は一般150円。入口の近くに藤棚がある。位置的には池の正面に当たるだろうか。藩主が居住する殿舎を建てるには相応しい場所である。ビルの借景がいささか無粋ながら、池(大泉水)と島の眺めは中々のものである。今は花の少ない季節とは言え、スイセンや冬ボタンも園路に彩りを添えている。
芝離宮であった頃、ここは海外の貴賓の接待場所として利用され、洋館や和館が建てられていた。それらの建物も関東大震災で焼失してしまったが、洋館に使われていた大理石の一部や和館の手水鉢が、当時の姿を僅かに伝えている。
入口から右へ池に沿って進むと、玉石を並べた州浜があり、雪見灯篭が置かれている。ここは、干満による水位の変化を生かした造りになっているようだが、今は、その効果は見られない。池に沿って進むと直線的な砂浜となり、築山も見えてくる。大久保家の上屋敷だった頃は、池の西側一帯に家臣の長屋など建物が並んでいたのだが、紀州徳川家の屋敷になると長屋などを設ける必要が無くなり、一帯は鷹場に変わり、池が掘られ、築山が造られる。
池から離れて右手の築山の裾を歩く。大山という、園内で最も高い築山というので登ってみる。さすがに眺めは良く園内全体を見渡せる。ただし、この築山は大久保家の屋敷だった頃には無かったものである。元の道に下り、十月桜やスイセンの花を眺めつつ、大山の南側の裾を進むと馬場跡に出る。
馬場跡を北に向かうと、池に近い場所に四本の石柱が建っている。この石柱は、後北条の老臣・松田憲秀の屋敷の表門の柱だったが、将軍綱吉の御成りに備えて、小田原から運び込んで富士見茶屋の柱として使ったという事らしい。松田憲秀は小田原城が落城した際に不忠の咎で切腹を命じられた人物だが、綱吉も関心があったのだろうか。富士見茶屋には珊瑚珠の簾が掛かっていたという。また、ビードロ茶屋とも呼ばれていたので、障子にガラスを使っていたとも考えられるが、寒天を薄く延ばして板状にした寒天紙を硝子紙とかビードロ紙とか呼ぶので、寒天紙が当時あったとすれば、寒天紙を使用していたのかも知れない。石柱や富士見茶屋については、謎がまだ残っていそうである。
石柱の西側に、大山の山腹を割って造られた渓谷風の石組がある。ここは通り抜ける事が出来て池の畔に出られるのだが、池の方から枯滝の石組を見るのが正しいようである。渓谷風の石組の途中には臥龍橋という橋が架かっていたらしいが、下を通り抜ける事などは想定していなかっただろう。なお、大久保家の屋敷だった頃には、大山も無く、枯滝も無かったことになる。ついでに言うと、旧芝離宮恩賜庭園の地下には鉄道のトンネルが通っていて、その工事の際に枯滝の付近が陥没するという事もあったらしい。
枯滝から池に沿って歩き、西湖を模した堤の道で中島に渡り、蓬莱山の石組を見る。中島から浮島には、干潮の時に飛び石で渡れたようだが、今は渡れなくなっている。中島から八つ橋で渡ると四阿がある。ここは池に沿って右に行く。
少し先で橋を渡り大島に出る。島を横切った先で、鯛の形をした鯛橋という石橋を渡る。大久保家の屋敷だった頃には大島は存在していないので、鯛橋も後世に架けた橋という事になる。石は園内の何処からか転用したのだろうか。鯛橋を渡ると根府川山がある。こちらの石は、大久保家の屋敷だった頃に小田原から運び入れたものなのだろう。
根府川山から池に沿って戻る。幕末、庭園の東南端に砲台が置かれていた筈なのだが、その痕跡は見当たらない。先に進むと唐津山がある。大久保忠朝が唐津藩主だった事に因んだものだろうが、当初からあった築山ではなさそうである。先に進むと九尺台がある。ここから明治天皇が漁の様子を眺めたという事だが、今は園内の池を眺めるだけになっている。
池に沿って進むと取水口がある。今は海水ではなく淡水を入れているという。藤棚に戻れば、庭園を一周した事になるので、改めて池を眺める。手前の小池は紀州徳川家の屋敷だった頃に掘られたものという。その先が大泉水で、昔は潮入りであった池である。大泉水の岸近くの水中に小さな灯篭が見える。大久保家の屋敷だった頃に存在していた浮灯篭を再現したものらしい。大泉水の中に雪つりのある島が見えるが、浮島である。その左手奥が中島となる。浮島には灯篭が置かれていたが、地下に鉄道トンネルを掘る工事の際に池の中に崩れ落ち行方不明になったという事があり、再建したという。この庭園のパンフレットの写真に写っているのが再建した灯篭だが、東日本大震災の時に倒壊してしまったらしく、現在は無い。
以上で、旧芝離宮恩賜庭園めぐりは、ひとまず終わりという事になるが、季節を変えて、また訪ねてみたいと思っている。参考までに、この庭園の変遷を以下にまとめておいた。
唐津藩主であった大久保忠朝は延宝5年(1677)に老中となり、その翌年には佐倉藩に国替えとなるとともに、海を埋め立てて造成した芝の屋敷を拝領する。延宝8年(1680)の「江戸方角安見図」には、桜田門の内に大久保加賀守(忠朝)の上屋敷が記され、ほかに麻布の屋敷(中屋敷)と芝の屋敷(下屋敷)が記されている。また、元禄6年(1693)の「江戸宝鑑図大全」にも、大久保加賀守(忠朝)の上屋敷(上の図)のほか、麻布の中屋敷と芝の下屋敷が記されている。芝の下屋敷には、楽寿園と呼ばれる庭園が造られたが、これが芝離宮庭園のもとになっている。楽寿園の成立は、「楽寿園記」が書かれた日付から、貞享3年(1686)3月以前という事になる。「楽寿園記」によると、芝の屋敷には陸道が斜めに通じ、二重の門があり、屋敷の周囲を垣と長屋で囲んでいた。庭には潮入りの池があって、中島には西湖を模した堤が造られていた。東側には馬場があり、北には弓場があった。庭園の北側には観日荘があり、東南には月波の扁額を掲げた楼閣があったという。月波の楼が池に写る名月を眺める楼だとすると、その位置は東南の角ではなかったかも知れない。
将軍綱吉は大久保忠朝の屋敷に元禄7年(1694)と8年に訪れているが(御成り、臨駕)、その何れかは芝の下屋敷であったと思われる。作庭に当たっては小田原から庭師を呼び寄せたと伝えられているが、忠朝が小田原藩主となった貞享3年1月以降に呼び寄せたとすると、楽寿園が一先ず完成を見た後も、将軍の御成りに備えて小田原から根府川石を運び入れるなどして楽寿園の改修を進めていたと思われる。富士見茶屋も、この時期に建てられたのではなかろうか。忠朝の後、大久保家は忠増、忠方、忠興、忠由、忠顕が跡を継いで小田原藩主となるが、幕府の要職に就かない時期もあり屋敷は変更されている。忠顕が藩主であった頃は、安永8年(1779)の「安永手書江戸大絵図」にも記されている芝の屋敷(上の図)が上屋敷になっていた。「大久保加賀守芝金杉上屋敷之図」によると、藩主及び家族が居住する殿舎が北側にあり、西側には家臣が居住する長屋が立ち並んでいた。文政元年(1718)になると、芝の屋敷は堀田家の屋敷となるが、文政4年(1721)には返上されている。当ブログの“江戸近郊の小さな旅”(嘉陵紀行)の中で「六地蔵もうでの記」と題した文政4年8月11日の紀行文の付記に、芝の御屋敷の潮入りに魚釣りに出かけたという記事があるので、この時期には、嘉陵が仕えていた御三卿・清水家の屋敷になっていたと思われる。天保14年(1843)の天保大絵図では、芝の屋敷には清水殿と記されており、大久保家の屋敷は西側に移されている。弘化3年(1846)になると、芝の屋敷は紀州徳川家の屋敷となる。万延2年(1861)の尾張屋版の切絵図・愛宕下之図でも、芝の屋敷は紀伊殿と記されている。下屋敷であれば、藩主の殿舎や家臣の長屋は必要ないため、その場所に築山が築かれ池が掘られ、庭園は変容する。さらに、幕末になると蔵屋敷へと変貌する。やがて明治。有栖川宮邸を経て芝離宮となり洋館や和館が建てられる。庭園の改修も多少はあったかも知れない。その後、都立庭園として現在に至るが、都内の大名庭園の多くが消滅する中で、この庭園が残ったのは幸いというべきだろう。
<参考資料>「旧芝離宮庭園」「大名庭園・江戸の饗宴」ほか。