おとめ山公園(新宿区下落合2-10)は、狩猟禁止を意味する御留山を名の由来としている。江戸時代には鷹狩に関係する場所であったことによる。この地は、大正から昭和にかけては相馬子爵邸であったが、その後、所有者が変わる。昭和40年頃には公務員住宅の建設が計画されたが、地元の自然保護運動がみのって計画は縮小され、昭和44年、池を中心とした区画について新宿区立公園として開園している。おとめ山公園については、当ブログのカテゴリー“神田川支流散歩”の中でも取り上げているが、新宿区が隣接地を取得して拡張整備を行い平成26年に全面開園していることが分かったので、再度、取り上げることにした。
目白駅から西に進み、目白三の交差点を南に入り、交番のある角を西に折れる。南側一帯は明治時代に近衛邸があった所で、大正の頃には分譲地となった場所である。次の角を左に入る道は明治後期からあった道で、おとめ山公園の弁天池に出られるが、今回は直進すると、程なく下り坂となる。坂の上を右前方に入る古くからの道を見送って、坂を下りすぐに上がる。ここは林泉園の池を源流として東流し、南に転じて弁天池に流れ落ちていた丸山の流れの谷に相当している。坂を上がり、次の角でおとめ山通りを左に見送って直進すると、道はやや右に曲がるようになるが、この辺りに相馬家の正門に当たる黒門があった。
先に進んで次の角を左に曲がり相馬坂に向かう。明治44年の落合の地図では相馬坂は存在せず相馬家黒門前の道も途切れているので、相馬邸が建てられた大正時代にこれらの道が整備されたと思われる。先に進むと、左側におとめ山公園の拡張区画の一つ、“みんなの原っぱ”が現れる。広い芝生地には遊具や四阿があり、北東側の入口近くには相馬邸の説明板、南東側には水琴窟が造られている。相馬家の邸宅は北側の住宅地の位置にあり、その南側は芝生の傾斜地になっていたが、昭和40年代にここを平坦な土地に造成して公務員住宅が建てられた。みんなの原っぱは、その跡地という事になる。
みんなの原っぱの南東側から新設の林間デッキを歩く。下にはおとめ山公園の池や流れが木々の間に見え隠れしている。林間デッキの先は“ふれあい広場”で、ここも公園の拡張区画にあたる。広場の片隅には公園開園以前からあったスダジイが残されている。
ふれあい広場を出て、おとめ山通りを渡り、公園の拡張区画である“谷戸のもり”に行く。ここは林泉園の池を源流とする丸山の流れの谷戸に相当している。明治44年の落合の地図にはこの谷戸の西側を南に下る道が書かれているが、現在のおとめ山通りとは位置がずれているようである。大正3年の相馬家庭園設計案では判然としないが、大正から昭和にかけての地図には、相馬邸との記載があるだけで谷戸は空白になっているので、この谷戸も相馬邸の敷地に含まれていたのかも知れない。相馬家はこの邸宅を戦前に手放したようだが、昭和22年の航空写真には既に、現在のおとめ山通りに相当する道らしいものが見える。昭和40年頃、この谷戸を造成して公務員住宅が建てられているので、現在の“谷戸のもり”は、その跡地ということになる。
おとめ山公園は、おとめ山通りによって東西に分断されている。おとめ山通りから門を入って、公園の開園当時からあった弁天池(下の池)の区画に行く。明治44年の落合の地図には北からの丸山の流れと西からの流れが書かれているが、弁天池は書かれていない。記載を省略したのでなければ、相馬家の庭園だった頃に弁天池が造られたことになる。弁天池の北側には四阿があり、池には島がある。この島には弁天の祠があり橋が架かっていたが、既に祠も橋も無くなってしまっている。池には西側からのほか北側からの湧水が今も流れ込んでいるようだが、以前に比べ水量はめっきり減っているようだ。
弁天池の南側にも公務員宿舎が建っていたが、その跡地を今は公園の拡張区画として整備し、“水辺のもり”と名付けている。ここを弁天池からの水が流れ下っていた筈だが、今は公園風の流れとして再現されている。この区画の東側は近衛邸のあった台地で、水辺のもりの借景になっている台地上の竹林が今後も残る事を期待したい。水辺のもりの南側の道は江戸時代からの道で地元では雑司ヶ谷道と呼ばれたいたらしい。この道沿いの水路には丸山の流れが合流していたが、今は水路の痕跡も無い。
おとめ山通りから、公園開園時からあった西側の区画に入る。ここは、落合新聞の発行者だった竹田氏が落合秘境と名付けた頃の雰囲気が今も残っている場所である。管理事務とホタル舎の金網の間を抜け、その先を左に上がると、左側に藤稲荷の社殿が金網越しに見えて来る。江戸名所図会を見ると、社殿から先に山頂の祠まで鳥居が続いていた事が分かるが、大正の頃に相馬邸の敷地に取り込まれてしまったらしい。山頂と思しきところに見晴台が設けられているが、今は何の眺めも得られない。先に進むと四阿があり、おとめ山賛歌の表示板が置かれている。今は何も見えず何も聞こえず、どこか寂しい空地である。
山道を下って湧水地に行く。以前は、離れた場所からそれと分かる水量があったのだが、今は湧水があるのかどうか定かには見えない。流れに沿って下ると、小さな滝があった。漏水かどうかは分からぬが、相応の湧水はあるに違いない。
湧水地からの流れは上の池を経て中の池に流れ込む。公園として整備した時に多少の改変はあったかも知れないが、全体としては相馬家の庭園だった頃の姿を留めているのだろう。この庭園には、その土地に適した樹木を植えて自然を残そうとする設計者の意図が感じられる。わざとらしさは殆ど無い。七曲りに通じる江戸時代の道が残っているのか探してみたが、さすがにその道は分からなかった。
帰りがけ、流れに沿って翡翠のきらめきを見た。ひょっとしてカワセミ?・・・。そう、確かにそうだ。まさか、この公園で出会おうとは思っていなかったが、この次も会えるかどうかは、保障の限りでは無い。野鳥は人が集まれば、何処かに飛び去ってしまう。運よく見つけたら、遠くからそっと見守るだけにとどめたい。
<参考資料>
「ようこそ おとめ山へ」「東京の公園と原地形」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合編」「御禁止山」「おとめ山公園の拡張整備」「東京の池」「江戸東京百名山を行く」