夢七雑録

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20.横手から久保田[秋田]へ

2008-07-13 08:16:15 | 巡見使の旅
(64)享保2年5月30日(1717年7月8日)、雨天。
 一行は羽州街道を横手から金沢に行き、正八幡宮を訪ねる。この地は、金沢柵に立て籠もった清原武衡・家衡を源義家が攻め滅ぼした、後三年の役の古跡である。一行はここで、鎌倉権五郎景正が鳥海弥三郎を討ち取った高名塚や、景正が射られた目を洗った厨川を見ている。その後、六郷に出て泊まる。六郷入口にも柳の並木があり、大木もあったという。この日の行程は三里半。途中に、入墨館という古館があったと記している。

(65)同年6月1日、雨天。
 六郷を出立。町外れに六郷兵庫古館ありと記す。大曲で丸子川を渡り花立(花館)で休憩。このあと、玉川を渡って神宮寺に出るが、悪天候で水が出たせいか、玉川の渡りを難所と記す。神宮寺では八幡宮を参詣する。ここには、大同二年田村丸建立の棟札と伝えられるものと、源頼朝建久二年の棟札があったという。また、神宮寺岳の鷲についての話も聞いている。この日は刈和野に宿泊。六里半の行程であった。

【参考】天明の巡見使に随行した古川古松軒は、この辺の貧窮の様子を不審に思って問いただした結果、運上金(雑税)が高いことを聞きだしているが、藩にとっては知られては困ることであっただろう。古松軒は、「巡見使に訴えたい口ぶりながら、役人に役人を付けて口を閉ざされ、うらめし顔で巡見使を見送っていた」と書いている。他の藩でも、不都合なことが巡見使に知られないよう、十分注意をはらっていた。たとえば、庄内藩において、重い負担に耐え切れなくなった農民が大挙して秋田藩内に逃げ込むという事があったが、巡見使に訴えようとする動きは藩によって封じ込められ、首謀者と目された人物は投獄までされている。

(66)同年6月2日、雨天。
 刈和野を出立。刈和野の右方に古館、左方の高城にも古館ありと記す。刈和野から境までの経路は、天明の巡見の時とは異なり、羽州街道から離れて回り道を辿る。一行は、うとう坂、白ま長根を越え、荒川に出て休憩。畑村銀山繁盛の地と記しているので、畑銀山の見分が目的だったと思われる。その後、淀川を渡り境に出て宿泊。行程は八里弱である。

(67)同年6月3日、朝の内曇り、昼より雨。
 舟岡で舟岡川を渡ったあと、宮崎でも舟渡しとなり石川に出る。その先、古館のある和田では中の渡りで岩見川を舟渡りし、戸嶋(戸島)で休憩。戸嶋玄蕃の古館のある戸嶋から、一の渡りで二つ瀬を舟渡りして豊成に出る。この先、佐竹御鷹場の原を過ぎ、久保田[秋田]に出て泊る。四里余の行程であった。佐竹(藩主?)が御見舞のため旅宿を訪ねている。


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