文庫の森(品川区豊町1-16)と戸越公園(品川区豊町2-1)は、明治時代に三井家が取得した敷地の範囲に含まれている。文庫の森の北西側の角から西教寺の東側の角まで道を北側の境界線とし、戸越公園の南端を東西に結ぶ線を南側の境界線とした方形の土地が三井家の敷地であったが、この土地は大名屋敷の跡地でもあった。昭和になって南西側の土地が学校敷地として寄付され、また、庭園部分も寄付されて戸越公園となっている。
池上線の戸越銀座駅か都営浅草線の戸越で下車し、戸越銀座商店街を東に向かい、八幡坂を南に行くと文庫の森に出る。ここは国文学研究資料館の跡地を整備して平成25年に開園した、広域避難場所を兼ねた公園である。戦前はこの場所に三井文庫があり、大正時代に建てられた書庫2棟と管理棟があったが、現在は第2書庫だけが残されている。
園内をやや下って行くと池がある。大名屋敷だった頃からあった池だろうか。今も湧水があるかどうか分からないが、昔はかなりの湧水があったらしい。そうだとすれば、戸越公園にある池とも繋がっていたと思われる。
文庫の森と戸越小の間の道を東に行くと、右側に戸越公園の入口があり、正門は薬医門になっている。寛文2年(1662)に、熊本藩細川家の分家が下屋敷としてこの地を拝領。寛文6年(1666)、この地は細川家本家の所有となり、周辺の農地を買い上げて3万坪を越える敷地となる。その後も細川家は農地の買い上げを進めていたらしく、屋敷地は広大なものになったらしい。当時の屋敷は南北方向の馬場を挟んで東西に分けられ、このうち西側は現在の戸越四、戸越三に相当し、東側の倍ほどの広さがあった。しかし、延宝6年(1678)に西側が焼失したため元の農地に戻され、東側の屋敷地のみが残される。その後、東側の屋敷地は細川家の手を離れ、さらに何人かの手を経て、明治時代に三井家の所有となる。
正門を入ったところの広場で庭園全体を見渡してから池に行く。今も湧水があるかどうか不明だが、池の水の大半は他の公園と同様に水道水になっているのだろう。池に沿って左に行き築山に上がる。好もしい道である。見下ろすと、滝となって流れ落ちてくる渓流を渡っている子供達がいる。池を一回りして広場を抜け冠木門から外に出る。薬医門や冠木門は、この場所が大名の下屋敷だったことに因んで、平成になって建てられたもののようだ。
寛文11年(1671)の「戸越御屋敷惣御差図」により、当時の大名庭園を想像してみる。西側の庭園には大泉水と呼ぶ大きな池があり、池には島が設けられていた。池の南側には富士山の形の築山もあった。この庭園は、参勤交代の際に見られた風景を写した回遊式の大庭園であったのだろう。戸越屋敷で必要な上水は当初、玉川上水の分水から分けた戸越上水によっていたようだが、この上水は後に廃止となり、寛文11年頃には品川用水を利用していたと思われる。戸越御屋敷惣御差図の北西側に見える水路は、品川用水から引き込むための水路と思われる。この水は西側の庭園に引き込まれて池などを巡ったあと東側の屋敷地にも流れ、屋敷の周囲の堀にも流されていた。東側の庭園の南西側には築山が造られ、北東側の台地上には御殿が建てられ、その間の低地には池があり、島があって橋が架かっていた。この池には湧水が流入していたと思われるが、池に落とす滝の流れには西側の庭園からの水を利用していたかも知れない。
<参考資料>「大名庭園」「江戸大名屋敷(品川歴史館解説シート)」ほか