文政二年閏四月十七日(1819年6月9日)、朝からよく晴れていたので、川口善光寺に詣でようと家を出る。坂本町(台東区下谷)から細流に沿って行くと時雨ケ岡不動尊(西蔵院不動堂。台東区根岸4)に着く。堂の前には御行の松として知られた大きな松があった。現在、この松は枯れ、二代目も枯れて、三代目の若い松が代わりに植えられているが、初代の枯れた松も保存されている。さらに先に行くと、日光御門主の建物があった。東叡山寛永寺の住職は、第三世以降皇族がつとめたが、日光山輪王寺門主を兼ねていたことから、日光御門主または日光御門跡と呼ばれていた。その隠居所である日光御門跡隠殿が、根岸にあった。現在はその跡形も無く、薬師寺(台東区根岸2)に隠殿跡の碑が置かれているだけである。根岸の里は閑静な場所で、隠棲するには適地とされていた。
日暮里から宗福寺(移転)のそばを抜け、下尾久から上尾久に出て荒川(墨田川)の縁に沿って進み、華蔵院の先で、小田井(小台)の渡し(小台橋付近)を、賃銭を払って渡る。向こう岸は小田井(足立区小台)で、少し行くと宮城(足立区宮城)、さらに堤を行けば、性応寺(性翁寺。足立区扇2)や延命寺(恵明寺。足立区江北2)があり、鹿浜(足立区鹿浜)までくれば、日光山や秩父の山が雲間に見え隠れしている(江戸時代は荒川放水路が無く、この辺の地形は現在と異なる)。土手を下って用水の橋を渡ると川口宿(川口市本町1)である。川口宿には鋳物屋が二三軒あり、嘉陵の聞いたところでは、女を五十人ほど雇って、たたらを踏ませているが、最近は、じめじめした日が続いていたため、鋳るものが無いという。堤に上がり西に行くと善光寺(川口市舟戸町)である。嘉陵は寛政四年(1792)に善光寺に来ているが、その時にあった杉並木は、すでにやせ細っており、境内には他に見どころもないとも記している。川口善光寺は、江戸近郊で善光寺参りが出来るとして人気があった寺ではあるが、嘉陵にとって、興味をひかれるものが無かったのかも知れない。現在、荒川のスーパー堤防工事に合わせて、寺の改築が進行中。完成すれば、墓地を含む寺の全域が堤防上に配置されるという。
参詣を終えた嘉陵は、川口の渡し(新荒川大橋付近)を渡り、日光御成街道(岩槻街道)をたどる。まずは、稲附の静勝寺(北区赤羽西1)に行く。石段を上り、鐘楼を兼ねた門をくぐると、正面に道灌像を安置する太田道灌の祠があり、その脇に観音堂と本堂がある。また、祠の南側には五葉の松があり、裏手の山裾には亀ケ池があったという。嘉陵が聞いたところでは、寺には檀家が無く寺領も無いが、境内が広いので米が収穫でき、畑作による収入もある。道灌の忌日には太田家からの代参もあるということであった。現在、寺の敷地は狭くなっているが、太田道灌の堂は現在もある。また、寺のある地域は道灌が築城した稲付城跡と認定され、石段の登り口には石標が置かれている。一方、亀ケ池は弁天通り付近にあったとされるが、近くの亀ケ池弁天に、その痕跡という池が残るだけである。
街道を南に進むと、山続きに普門院(北区赤羽西2)がある。その先に、稲附の鎮守である香取社(北区赤羽西2)があり、その西側には法真寺(北区赤羽西2)があるが、何れも山の上である。さらに街道を進み、用水を渡って坂を少し上がると西音寺(北区中十条3)がある。庭の南東隅が崖になっており、当時は広い展望が得られたという。この先の帰路は記載されていないが、日光御成街道を進んだとすると、本郷追分から本郷通りを通って帰宅したと思われる。
日暮里から宗福寺(移転)のそばを抜け、下尾久から上尾久に出て荒川(墨田川)の縁に沿って進み、華蔵院の先で、小田井(小台)の渡し(小台橋付近)を、賃銭を払って渡る。向こう岸は小田井(足立区小台)で、少し行くと宮城(足立区宮城)、さらに堤を行けば、性応寺(性翁寺。足立区扇2)や延命寺(恵明寺。足立区江北2)があり、鹿浜(足立区鹿浜)までくれば、日光山や秩父の山が雲間に見え隠れしている(江戸時代は荒川放水路が無く、この辺の地形は現在と異なる)。土手を下って用水の橋を渡ると川口宿(川口市本町1)である。川口宿には鋳物屋が二三軒あり、嘉陵の聞いたところでは、女を五十人ほど雇って、たたらを踏ませているが、最近は、じめじめした日が続いていたため、鋳るものが無いという。堤に上がり西に行くと善光寺(川口市舟戸町)である。嘉陵は寛政四年(1792)に善光寺に来ているが、その時にあった杉並木は、すでにやせ細っており、境内には他に見どころもないとも記している。川口善光寺は、江戸近郊で善光寺参りが出来るとして人気があった寺ではあるが、嘉陵にとって、興味をひかれるものが無かったのかも知れない。現在、荒川のスーパー堤防工事に合わせて、寺の改築が進行中。完成すれば、墓地を含む寺の全域が堤防上に配置されるという。
参詣を終えた嘉陵は、川口の渡し(新荒川大橋付近)を渡り、日光御成街道(岩槻街道)をたどる。まずは、稲附の静勝寺(北区赤羽西1)に行く。石段を上り、鐘楼を兼ねた門をくぐると、正面に道灌像を安置する太田道灌の祠があり、その脇に観音堂と本堂がある。また、祠の南側には五葉の松があり、裏手の山裾には亀ケ池があったという。嘉陵が聞いたところでは、寺には檀家が無く寺領も無いが、境内が広いので米が収穫でき、畑作による収入もある。道灌の忌日には太田家からの代参もあるということであった。現在、寺の敷地は狭くなっているが、太田道灌の堂は現在もある。また、寺のある地域は道灌が築城した稲付城跡と認定され、石段の登り口には石標が置かれている。一方、亀ケ池は弁天通り付近にあったとされるが、近くの亀ケ池弁天に、その痕跡という池が残るだけである。
街道を南に進むと、山続きに普門院(北区赤羽西2)がある。その先に、稲附の鎮守である香取社(北区赤羽西2)があり、その西側には法真寺(北区赤羽西2)があるが、何れも山の上である。さらに街道を進み、用水を渡って坂を少し上がると西音寺(北区中十条3)がある。庭の南東隅が崖になっており、当時は広い展望が得られたという。この先の帰路は記載されていないが、日光御成街道を進んだとすると、本郷追分から本郷通りを通って帰宅したと思われる。