【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
妻と娘が焼肉を食べたいと言うので食べてきました。
狂牛病以来焼肉店も大変なようで、今日行った焼肉やさんもだいぶ値下げをしていました。カルビが半値ぐらいでしたよ。。。。
息子は友達が来ているのでおにぎりやらラーメンを食べていました。
なんか友達と一緒に勉強をするのだと言っていましたが、日本シリーズを見ながら楽しんでいたようです(笑)
もうじき「チェリーブラッサム」を読み終わりそうです。また感想でも書きます。
【2004年】
団子汁を作っています。
味噌仕立てのスイトンのようなものですが、すいとんの団子をサツマイモで作ります。
サツマイモをゆでてからつぶし、そこに卵の黄身と小麦粉を入れて団子にします。それをスイトンのように野菜などを入れたスープの中に入れて一煮立ち。味噌の塩辛さにサツマイモの甘さが絶妙です。野菜にはかぼちゃを入れるのが妻のこだわり。。。。
98円の秋刀魚がありました。今年は秋刀魚が安いのですが、もうひとつ脂が乗っていない。。。。
明日から東京はまた雨のようです。
「そして私は一人になった」 山本 文緒 著
1996年の一年間の日記です。また、この文庫版では書き下ろしで「4年後の私」として2000年4月の1ヶ月間の日記が加えられています。山本さんは日記を中学生から書き続けているようです。しかしその日記はまったくのプライベートのものでご自身しか読まない日記だそうです。ですからこの「そして私は一人になった」は、出版目的に新たにかかれたもののようです。
少女文学から一般の小説に転進した山本さんが、やっとある程度作家として認められるようになった頃の山本さんの日常が描かれています。作家の日記ですから作家としての生活も書かれていますが、離婚をして一人暮らしになった心境をはじめ、ご家族や友人の方々、出版関係者との親交を楽しく書いています。また、日常の中でのおばさんぶり(笑)ーー山本さん、ごめんなさい(笑)--
「解説」の中に、なぜ「『そして』私は一人になった」なのだろうという自問がかかれています。「そして」というのは、時間の経過がありその時間の流れの中に山本さんが生きてきたということであり、この作品に書かれているある意味ではのほほんとした山本さんも離婚や少女文学からの転進、そして作品を生み出すに当たっての苦しみがあったはずです。のんきで豊かな生活の裏にこのような山本さんのご苦労があったのですね。
同じように自由な一人暮らしの裏にある生活面や女性としての寂しさも書かれています。いろいろな方と酒を飲みながらもその裏にある寂しさ。作家というものを外からその生活を想像すると、華やかな面ばかりを見てしまうことがありますが、私生活においても職業としてもそんなに甘いものではないですね。
でも、山本さんは、作家になりたいと思ったのは作家になってからと書いています。やはり心の中に湧き出るものを書きたい、職業的にも誰からも縛られずに時間を自由に使える、そんな作家生活を楽しんでいらっしゃいます。
9号のスカートをはくことに対しては体重を気にしながら酒を飲み、部屋の中の荷物が増えることを気にしながらも流行の洋服には目がない山本さん、自己問答をしながら楽しく生きていらっしゃいます。
「4年後の私」では、売れっ子作家になった山本さんが出てきます。執筆活動が増えています。その中でも生活のペースも変わらずに。。。。。この作品が出版されてからまた4年が過ぎました。そのまた4年後の私』を読みたいです。。。。。
【2005年】
東海から関東だけが雨続き。。。。
部屋干し洗剤が役立っています。
どうも1週間雨が続きそうです。台風も来るようだし。。。
気温も下がり、ホットカーペットをしはじめました。
森絵都さんの「いつかパラソルの下で」を読み終わり、今、湯本香樹実さんの「西日の街」を読んでいます。
どちらにも感じられるものは、親子関係です。
父あるいは祖父と今に生きる若者という構図という面では共通性があります。人というものは、生物としての遺伝子を当然受け継ぐわけですが、人という動物の特殊性として生れ落ちた社会というもう一つの遺伝子も受け継ぐわけです。
その社会というものは、国家レベルのものであると同時に、家族という単位においても社会は存在し、その条件によって育てられるわけです。
社会的遺伝子と言ってもよいでしょう。
この動物的な本来の遺伝子と社会的な遺伝子を人としては受け継ぐわけですが、世代交代というのは、この中にあります。
戦前戦中の世代がいて、戦後世代の団塊の世代がいて、そして今の若い人がいる。動物的な遺伝子は、この世代の中での自然界のものであるが、社会的な遺伝子は人自身が作ったものである。
動物的な遺伝子はどうすることもできない部分はあるが、社会的遺伝子は、後の世代にどのように伝えるかは選択できるのである。若い人達が、この社会的遺伝子の中から何を優性遺伝子として受け継ぐか劣性遺伝子として排除するかは自由なのである(差別的言葉だったらごめんなさい。しかし社会的遺伝子には未来という時間に向けて人が選択できるという意味では適用できると思います)。
僕は、年金というものを自分の老後のために蓄えてきたと思っていたのですが、いつの間にか、子供の世代に世話になるというようになってしまいました。どこでどう間違えたのか、、、、若い頃に蓄えた原資はどこにいったのだろう。。。
これが今の社会的遺伝子なのです。同じようなことがあらゆる面で現れているのです。
【2006年】
外食でした。。。
駅を降りてすきっ腹にとぼとぼ歩いていつものラーメン屋さんへ。ううう。。。年中無休なのに休み。仕方ないので時々行くトンカツ屋さんへ。。。ううう・・・店の前に行ったらバイトの女の子が暖簾をしまいはじめた。仕方ないので日本蕎麦屋さんへ。。。。うううう・・・・すでに暖簾はしまわれ旦那さんが店先で知り合いと笑いながらおしゃべり中。仕方ないので中華屋さんへ。。。店は飽いていましたが、料理がいつものように遅い。。。ビールはすでに飲み干してもまだ料理は来ない。。。。ううう・・・すきっ腹のビルが効いてきた。ビールを飲み干しては仕方ない。紹興酒を追加。すきっ腹なので帰りに歩いていたらふらふらと。。。。。ハハハ
ううう。。。な、仕方ないの夜でした。
【2007年】
ううう。。。。さぶ~
夕飯を食べてからごろっと寝てしまったら寒くておきてしまった。この季節気をつけなければなりませんなぁ。。。。
そろそろコタツか?
冬の掛け布団を干しました。
「銀色ナイフ」 銀色 夏生 著
「長いですよ。
しかもマジです、
覚悟してください。
真剣辛口エッセイ」
本の帯にこう書かれていました。
今、幻冬舎の各月誌Papyrusで「銀色夏生の視点」というエッセイが連載されていますが、今回の「銀色ナイフ」も夏生さんのある一面からの『銀色夏生の視点』という位置づけに見えました。
このような辛口のエッセイは、14年間出版された「つれづれノート」シリーズの中にもところどころ書かれていました。日常の中に出会った人や事柄、ニュースなどで流れてくる情報をどのようにとらえたかというものをお書きになっていましたが、このようなエッセイを集中して(2006年11月から2007年3月までに書いたもの・・・「まえがき」より引用)お書きになったもののようです。社会の中で次から次へといろいろなことに直面をしそれにどう向き合うかという「銀色夏生の視点」といえると思います。400ページと、、、ほんとに長いです。覚悟して読みました。。。。
でも、そこは夏生さん、たしかに辛口のエッセイですが、自然体の文章でどこか救われるような中身です。どんよりと今の世間を見て怒り狂うというような辛口ではなくてそれに向き合う自分を冷静にお書きになっています。
「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」(「あとがき」より)
この自分をそして周りの世間を客観的に見るということでしょうか、そのような視点もまた「銀色夏生の視点」でしょう。
ですから「覚悟してください」も、どこかホンワカした読者への呼びかけに聞こえますし、夏生さん独特なのクールなユーモアを僕は感じます。
また、角川文庫の作品には毎回「銀色夏生の本」という作品紹介に小さな「ビラ」が挟まっています。これも僕としては夏生さんの小さな作品。。。夏生さんの手作り!というものがでているビラですから絶対に捨ててはいけませんよ(笑)今回は「近況」という短い文章が載っていました。その中に次のように書かれています。「えっ?!捨てちゃったよぅ。。。」って?ほら、絶対に捨ててはいけないといったでしょう(笑)
冗談はともかく、そこに
「この本は、(中略)たぶん推敲すればするほど格好つけそうだったので、やめました。粗削りのまま、お届けしようと思います。」
読みはじめてまず感じたことは、どことなくブログ(あるいはホームページの日記)のようだなぁということでした。毎日思ったことを書き留めておくような。。。。そして少し考えたことを聞いてほしいなぁ。。。というような。
項目はたくさんあるのですが、文章の長さも短いですし、一つひとつをあまり関連付けずに毎日思ったこと考えたことを書くというブログ的な文章です。ですからあまり長く書くこともなく気楽に、でも、本気に考えたことをつれづれに、でも、集中して書かれたものかなと思いますし、それは案外ホームページやブログをされている方の視点で読めるということではないかなと思います。夏生さんは、本文中個人のホームページやブログを批判しているようなこともお書きになっていますが、でも一方的な批判ではなくて評価をするホームページやブログの一面もお書きになっています。それは、
「人を知ることができたり。ストイックなのがいい。バイク好きとか温泉好きとか、ある特定の植物好きなど、ストイックに熱いもの。しみじみしたもの。」
(318ぺじ)
ある意味本の出版とブログなどには共通したものがあると思うのですが、夏生さんの今回の作品は、もちろん出版という形をとっていますが、中身からすると読者はまるでブログを読んでいるような感覚で読めます。ブログなど、このようなものがなかった時代なら「銀色ナイフ」は短いエッセイを集めたエッセイ集として読むだけですが、今の時代はやはりブログというものを知っているならその意識で読んでしまう。また、多くの作家もブログなどを意識せざるを得ない時代ではないでしょうか?無意識的にも。ストイックなものというのは、ある特定の趣味を自分を出した独特な感覚で紹介をするという意味でしょうが、それはまさにその「人を知ることができ」るということです。その意味では、今回の作品は、ブログ的に読んでしまいますが、その中に夏生さんの世間を見る目などというストイックさを見ることであり、「銀色夏生の視点」という夏生さんという人を見るものであると思います。
以上今回の作品をどのようにとらえたかというような意味での前置きが長くなりましたが、そこで感想文はどのような形で書けるのかを考えました。(以上前置きのようですがこれも感想です。。。)
それは、夏生さんがお書きになった一つ一つの項目にブログで言えば「コメント」を書くという形で夏生さんとお話をするようなこと同時に、全体を通した夏生さんの考え方や生き方それは、ブログ的に書かれたように感じる作品の中の夏生さんの生き方のストイックさを見た感想文ということにもなります。
僕は、本を読んでいると何か感じたところのページ下を折る癖がありますが、今回の作品もたくさんの三角折がたくさんありました。その意味では夏生さんに「コメント」を書くという形でも楽しく読みました。その一つひとつは、僕もそうですが読んだ方一人一人に思いがあるわけで、それはいろいろな意見として出ると思います。それらは個々の方の胸にしまっておくほうがよいのかもしれません。しかし同時に夏生さん像というものが見えると思います。それが僕にとってどのようなものなのかが感想になります。
先に書いた「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」というこの自分をそして周りの世間を客観的に見るということも夏生さんのひとつの視点ですから、これも大切な夏生さん像です。
同時にこの客観的に見る中身もあるわけで、どのように見るかの見方や考え方も大切になります。この点で興味深いのが、374ページの「弾丸ロケット」という項目です。
「君が今、幸福の中でもっているものを、あの人は、不幸の中でもっていた。」というミュージカル「レ・ミゼラブル」のセリフを引用し、
「これは、私が人生のテーマみたいに思っている表現と、同じ視点だ。」
と書き、続いてアンドレ・ブルトンの「相反する二つのものがそこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点を突きとめる」という言葉を引用し、
「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、想像するだけで興奮する。怖いものなんてなくなるよね。そんなとこ。そういうところにいつも立っていたいと思う。」
とも書いています。
「何ひとつ変わらなかったけど
何もかも変わった」
(詩集「LESSON」48頁の詩表題作LESSONより)
夏生さんの詩にはこのような矛盾しているような、同じひとつのものを別の角度から見るような表現が時々でてきます。
少し違うかもしれませんが、詩集の中では、女性らしい優しい言葉で問いかければ、「僕」という主語で男の視点からも問いかけます。お互いの二人の間の同じ恋も女性の視点と男の視点ではすれ違いも出る。しかしその恋は二人にとっては同じひとつの恋なのです。
あるひとつのもの、事柄を別の視点から見たとき、まったく違った見方が出てくるということは多く在ります。また人と人との関係やその人が行動する中での相反するもあります。
「私が人生のテーマみたいに思っている表現」、また、「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、」というもの。これはこのように夏生さんの作品に表れてもいます。
「銀色ナイフ」では、多分じっくり読めば矛盾するようなものが見つかるかもしれませんが、それを常に繰り返し考えることが大切だと教えられるように思います。人というのは同じものでもそのときの気分や環境によって違うとらえ方をしてしまうこともありますし、それは年齢を重ねる中で違ったものとして見えるものでもあります。でも繰り返し考えることで、その同じひとつのものがひとつのものとして形として理解を深めることになるのかもしれません。
このような見方・考え方は、「こういう考え方もあるよ」という形での「辛口エッセイ」につながっているのではないでしょうか。正反対の見方もあるでしょうが、さまざまな角度からひとつの現象を見て、よりそのひとつの現象を寄り正しく理解をしていくという思考方法です。
「銀色ナイフ」は、「こういう考え方もあるよ」というものを読者に問いかけているのではないでしょうか?それは日常の中にあるすべてのものに対していえること。たとえば。。。力を持っていて威張る人間には頭を下げざるを得ない場合もありいやになるときもあるけど、別の角度から見るとその威張る人間はあんがい弱い人間で、頭を下げているのはその人自体ではなくてその人の持つ社会的な力にだということがわからないかわいそうな人ではないかというような視点。
こういうとらえ方の角度を変えれば、あるいは180度違う正反対の見方により、気持ちは違ってきて行動もまた違ってくる。
インターネットもそうですが、テレビなどのマスコミはさまざまな情報を流しています。その情報は受け取るだけならなんとなくそれが常識としてとらえてしまう場合がある。確かにこの情報には常識さをたくさん含まれているわけですが、、その常識をちょっと違った角度で見ることは必要なことです。
仮に世間ではこれが常識といわれている中で、いやその常識にはこんな見方もあるよというなら少し変わり者と見られてしまいます。この変わり者の視点が「辛口エッセイ」になるわけです。
このエッセイ集には、辛口なものだけではなくてホンワカするようなものもたくさんなります。このほんわかとしたものは、以上のような視点の切り替えによるとらえ方の中から出てくる心のゆとりではないかな?
それは心の自由ですね。
もちろん心の自由はいろいろと実際の世間からは縛られるのですが、心の自由は温めておかなくてはならないと感じましたし、縛られる中にも自由な行動も少しはできるわけです。
この自由という結論がまた夏生さんが常に語ってきたものです。
「あとがき」には、人それぞれはゲームのコマのようとかいています。
「自分というコマを動かせるのは、自分だけだ。」
でも、夏生さんは、勝手気ままな空想的な自由を言うのではない。
人生の中でトンネルをくぐったり、山を登ったりと、世の中の中にはいろいろあるし、それは苦しいこと。でもその中で自由にやってみようよという自由です。結論はいろいろでてくるけど、その自由は自分でしか作れない。その結論には。。。。
「人は苦しむことでしか成長はしない。
そして成長するためにこの世に生まれたてきたのだから。」
と。。。。。
その成長は、世代によってバトンタッチされながら。。。。
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
先日道の駅で買った新米
食べ終わりましたがまた買いに行こうとは。。。。
白い米がたくさんあってみずみずしさがなかった
今日新聞をみたら1等米が少ないと
これも猛暑のためだそうです
自然は微妙ですなぁ
少しの気温変化で。。。。。
いや、少しの変化というのは人の感覚で
植物たちにとっては1℃が大切なのかも
我が家のミニバラが夏に葉を全部落としました
そして少しは涼しくなったらまた葉と花を
ミニバラの適応にびっくりしました
ベランダの植物たち。。。。。。
やっと秋らしくなった中
夏の名残のように生い茂った葉をだらっとさせています
桜もみぢも始まりました。。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
社会の中を見ると、同じように苦しんでいる者同士や考え方が同じ者同士でも一つになれないことの方が多い。
同じような状況にあっても人には感情というものもあるしその解決方法となると個々人の立つ位置も違えば考え方も違う。そこに個々バラバラな人間集団が社会の中でうごめいている。
この社会には競争というものがなくてはならないものとしてシステム化をされて、例えば低賃金で苦しんでいる者同士でも、賃金明細を見ると同じ年でも1万円違うではないかということが現れる。1万円の競争である。この競争の中に自己解決が唯一となっていくだろう。このような差別化というものは社会の中にはたくさんあり、その中で1万円でも多くという競争は人々をばらばらにしていく。同じ低賃金だというところで一体にならずに1万円の差別化で分断をされるのである。
あるいは同じ賃金額であっても、お前は独身だから楽だよなぁ。。。。といった差別化を見時からが行うことがある。
このように今の社会の中では差別化という競争意識が身に染み込んでいるといえる。
まだこの差別化の中での競争が競争意識だけで終わっている場合はまだよいのであって、時には激しい個人批判的な、あいつは仕事もしていないのに。。。とか、その分断は攻撃的な思いや感情となっていく。
こういったことはこの二人のサラリーマンの間の1万円の対立だけではなくてさまざまなところに出てきているわけです。今の放射能騒ぎの中で、汚染がひどい地域の農民と消費者が対立することも現れています。農民は政府が500ベクレル以下なら安全だといい出荷できるから出荷をする。消費者は政府が安全だというがなるべく放射線量の少ないと思われる他の地域の農産物を買う。汚染のひどい地域の農産物は売れなくなる。ここに「風評被害」という言葉による分断が作られるのです。個の分断の作用で農民と消費者が激しく対立してしまうことがある。
このような例と同じものが他にもたくさんないだろうか?
正社員と派遣、年齢間格差などなど様々なところにあるのではないか?
人種差別などの人の存在にまで差別と分断が入り込みます。
本来は結束をして一つになり社会を変えていく力が働くわけですが、そうはならないもの。。。。それが差別と分断という時には人がそれを作りだす中に人が櫃になれない条件が増していくと見た方がいいでしょう。
しかし時間の経過と条件によってはこのバラバラになって人々が結集をしていきます。
その一つになり結集をしていく要となるのはなんでしょうか?
それは例えば先の放射能騒ぎの例で言えば、分断されている農家も消費者も実は原発事故とその後の保障問題などの犠牲になっている共通性が認識されたときにその認識とそこからの行動が互いが一つになる要となるのです。サラリーマンで言えば階級意識です。
この要を作り上げていくのは実体討論と学習でしょう。そして要を意識的に作り上げようとするのが政治の勢力や市民自らの組織化でしょう。
この社会にはこれを必要としない人もいれば邪魔な人もいます。でも、社会の矛盾がだんだんと深刻になる条件があれば要はできあがっていくでしょう。必要となっていくでしょう。
【2012年】ツイッターつぶやき
ツイッター上で知ったのですが、週刊朝日の橋本市長の出自を交えた人物像というのでしょうか橋本論というのでしょうか、その記事。これに対する橋本市長のツイートを初めてした週刊朝日(親会社というべき朝日新聞)への批判があります。
橋下市長の出自をどのような中身で書かれたか、橋下市長は出自を出したこととそこからの人物像というものに対する批判なのか。。。
その中身については読んでいない僕がどうのとは言えませんが、この週刊朝日と橋下市長の対立から何を感じるか。
週刊朝日が差別についての社会的な認識や微妙さの認識不足あるいはあったのでしょうか。週刊朝日が差別をしたというわけではありませんが、あらゆる差別問題は人権問題です。
以前、殺人を犯した犯人の年老いて父親にインタビューといったテレビ放送がありましたが、成人した大人の犯人なのに年老いた父親まで引っ張り出す。ここには報道の自由や知る権利と同時に微妙に人権にかかわる問題が出てきます。父親を出させるほどの知る権利なのか?
橋下市長の出自の問題ももちろん将来は総理大臣化とも言われる人ですからその公人として主事などはある程度の取材は仕方ないでしょう。しかしどこまで、どのような理由で出自のことを出すかは微妙な差別的要素がないか考慮されなければなりません。ここにも取材の自由や知る権利と人権の微妙な境目が出てきます。
橋下市長の批判と週刊朝日の謝罪(中身は今後でしょうが)。
しかしこのように今回の問題を人権の問題として見るならば、橋下市長も職務権限と人権の微妙な境をうまく利用している。法的には道かは今後争われるかもしれませんが、法的に許される職務権限で入れ墨問題や国歌を歌っているかのチェックなどは、職務権限を発する自由と職務権限で強要される中での公務員や教師自身の思想に反したことをやらされる屈辱という事件の問題との微妙な境目があります。いくら職務上の権限があるからと言って、社員に何を強要させてもいいというものは民間でもありえないでしょう。
これを機会にマスコミや今回は橋下市長でしたが政治家の対国民としての人権の在りかたを見つめるべきではないでしょうか。
言葉の攻撃性も。。。。。
【2013年】ツイッターつぶやき
続きです。
労働力も一つの商品という形で現れる。ですから商品に価格があるように労働力にも価格がある。それが賃金額です。
商品が再生産されていくには適正な価格で売られます。ですから労働力も適正な価格で売られなくてはならない。買い手市場とはいえ適正な価格で買われなければならない。
その労働力の適正な価格としての賃金額はその再生産費となる。
この再生産とは何かと言えば生活の中でのあらゆる商品やサービスなどの消費です。
労働者は自らの労働力で商品を生産し、分業の中で生産されたあらゆる種類の商品を消費する。それは自分が生産した商品を他の労働者が生産した商品と交換をするようなものです。ここに生産と消費のバランスができるわけです。単純に考えれば。
労働者は生産者であると同時に消費者ですからこのバランスが正常ならば需給関係は正常なわけです。ここでは過剰生産などの無政府的な生産を考えないで、労働者の労働力の再生産費が極度に減らされた場合を見ます。本来はあってはならないことなのですがこの社会には普通に生じるものです。
今の日本がそうでしょう。
企業は利益の拡大や利益確保のために賃金を減らし続けます。
それは先にこちらで書いたような生産性の向上(商品価値の低下による商品価格の下落傾向)や社会システムの発展(社会保障や公的保険など)により労働者労働力の再生産費という賃金で受け取る現金の縮小とは異なり、労働力の再生産に必要な額を下回るような賃下げです。労働者は適正な(その社会の生産性による富の分配)労働力の再生産費を受け取ることができないという社会です。当然ここでは需給関係が崩れる要因となるでしょう。労働者の労働力の再生産は食って寝るだけでもたしかに生きていけるわけですから”一時的には”次の日も労働(労働力を売ること)はできる。しかし一方では労働者は自分には手にできない商品を大量に生産する。その生産される者とは最終的には大衆消費財とならなければなりませんから大衆消費財としての商品の過剰が出るし、低賃金ということで商品価格は下がり続ける。しかしここでは商品価格が下落しても労働者の手には入りにくい状態となります。必然的に商品の過剰生産と同じ現象が市場に現れるでしょう。そしてこれは労働力の再生産をもできない状態をつくるということです。市場には商品があふれ、一方の労働者はその商品を手に入れられないことから労働力の再生産を行えずに疲弊をしていく。労災や貧困からの矛盾が噴き出るわけですからこれを再生産とは言えない状態にします。経済的理由での少子化は進むでしょう。
これがスパイラル上に進めばデフレ不況となる。
デフレ不況からの脱却は賃上げではできないといった論理もありますが、それは労働力がその価格どおりに売られている状態で、市場の中で無政府的な過剰生産という形で起きる生産性の向上に原因があるからです。これもまた資本主義が抱える矛盾ですが。これも確かにデフレなのですが、このデフレを加速させるものが労働力の再生産以下の賃下げというものに原因があるとすればまずは賃上げがデフレ脱却への一つの条件となるでしょう。過剰生産は相対的なものです。世界中の人々を見れば間違っても過剰生産とは言えない状況でしょう。まだまだ資本量は足りずに拡大再生産を必要とする。しかしここでも世界的な規模での、特に今はグローバル化の市場ですから上に見たような国内のデフレ要因と同じものが世界的なレベルで起きているということです。日本が安い労働力を求めて中国やべ遁亜夢ベトナムに、そしてそこでの賃上げ傾向が見えればミャンマーなどへと。
【2014年】ツイッターつぶやき
政府はあまりのも急激な円安に警戒感を示す。一方日銀はその円安を放任し歓迎をする。どこか政府と日銀の二人三脚にほころびが出始めているのかもしれない。それに合わせてリフレ派といわれる方々でしょうか?円安はよいが消費増税が間違いだとか、今の物価高を円安ではなくて消費増税からだとかといったある意味政府批判(あるいは増税の必要性を言うエコノミスト批判)が出ている。
こうした日銀と政府の二人三脚の足並みに乱れが出始めたこと自体それはアベノミクスのほころびでもあるのでしょう。もちろん政府も日銀もデフレからの脱却で一致をしているのですが、その意味において物価の上昇は政府も日銀も歓迎をする。しかしこの物価上昇の傾向が経済を良い方向に持っていけるかといえばそこにほころびが出てきている。物価の上昇だけでは経済は好転しない。このジレンマが目に見えて大きくなるとその責任をかぶらないためにも政府と日銀の二人三脚も足並みが乱れるでしょう。
物価高が経済の成長過程においてのあるいは結果においてのインフレとは違う様相を示して悪性の物価高ではないかという疑念が広がればその悪性の物価高の原因は何かという議論になる。日銀の円安金融政策にあるのか、政府の消費増税にあるのかといった議論も出てくるでしょう。
円安による輸入品目の値上がりそして消費増税分の商品への価格転嫁を指導する政府。どちらが悪性の物価高を生んだ原因かではなくて、円安での物価高に消費増税分の価格転嫁が重なって悪性の物価高は出来上がってしまったとみるべきでしょう。
そしてもう一つの要因は、この悪性の物価高によって実質賃金の低下が出てしまったことにもある。
物価上昇分賃金が隅々にまで賃上げとして現れ、社会保障にも物価高を補てんできるなら物価高は国民生活レベルで見れば悪性の物価高とは見えない。そしてここから経済の好転も生まれるかの市が出ていたはずです。
ですから物価高の原因は、円安と消費増税にあり、その原因を修正できなかった要因が実質賃金の低下ということになるでしょう。
もちろん実質賃金が物価上昇分でも上が量な政策(経済が好転すれば賃金も上がるといった理論は破たんをしている)が実行できるぐらないならば何もインフレ政策という悪政・悪い金融政策などは行わずに済むわけです。
政府は10月の経済動向指数を分析してこれまでの「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持する見通し」だそうである。
そして「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持」この言葉で消費税10%は決まってゆくのでしょう。景気を現す指数が景気を回復している方向なのかといえば後退しているのが現状では?そしてこちらでも。
「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持」しかし現実の経済状態からは消費増税10%は無理。そこで「消費税10%先送りは少子化対策「困難に」 麻生財務相」と社会保障費を切り捨てる方向へ。なぜ『消費税10%先送りは法人減税「困難に」』ではなくて『少子化対策「困難に」』なのだろうか?
すでに切り捨てるものは決まっているのである。
「10%への引き上げで増える税収(年間14兆円)のうち2・8兆円を子育てや医療など社会保障の充実に回す方針」(引用)
消費増税はすべて社会保障にという当初の公約は崩れてさらにその2.8兆円の予算増すら保証はできないという。
ある意味国民への恫喝でしょう。
「景気が緩やかに回復している」
この言葉は呪文のように政府を支配する。この言葉を放棄することはアベノミクスの失敗を認めることとなる。
内政は数の力でどうにかなるとしてもその内政は国内外からの批判が強まる。外交は中国と韓国との関係改善はされずに「いつでもドアは開かれている」という言葉の一方で閣僚の靖国参拝。そこにアベノミクスの失敗が危惧されはじめれば政権の危機は深まる。福島原発事故の汚染水発言に象徴される世界への約束が崩れ始める。国民への約束も実質賃上げには結びつかない。
「景気が緩やかに回復している」。。。。。。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
買い物に行ったらオクラが急に食べたくなり買ってきました。
買ってきたのはいいがどうやって食べようかぁ・・・・
いつもは大根おろしにのせてポン酢で、おひたし、煮びたし、オクラ納豆、てんぷら・・・・など。
いつもの味も飽きたので、さっと塩ゆでにして冷まして梅肉を乗せてみました。
梅干しをたたいてそこに鰹節と砂糖そして和風ドレッシング少々。
これをよく混ぜ合わせてからオクラの上に乗せました。
あっさりとして冷酒によく合いました。
【2018年】ツイッターつぶやき
秋といえばサンマですなぁ。
1匹88円でした。
中骨を取り除いた開きのサンマを買ってきました。
今年3回目のサンマの蒲焼。。。。。。
サンマに小麦粉をまぶします。
これをオリーブオイルでカリっとフライパンで両面を焼きます。特に皮の面は少し焦げるぐらいに。これが出来上がるとウナギのように見えてきます。
たれは、酒、砂糖、みりん、醤油です。少し甘めにしました。水は使いません。
サンマは焼きあがったら一度さらに乗せて、フライパンに先ほどのたれを入れて沸騰させます。少し煮詰めましたらサンマを戻してたれを絡めれば出来上がり。山椒があればいいですが、なければ七味唐辛子でもおいしいです。
【2019年】ツイッターつぶやき
人の社会は実践的である。
様々な個々の実践により社会は成り立っている。
個々人はそれぞれ考えて行動をするのですが、この行動はぶつかり合う。
物事を考えずに実践をする場合、この実践的ぶつかりがすべてとなる。
物事を考えないというのは、腹の中に沸き起こったものを脳みそや心というフィルターを通さずに実践となる。
脳みそや心のフィルタがすなわち理性であるとすれば、理性なき実践となり社会はその理性なき実践により動いてしまう。
優れた頭脳を持った人や哲学を持つ人はたくさんいるでしょう。しかしその優れた頭脳を使わなければただの凡人が理性を持たずに実践することと変わりがない。
理性なき実践は力がすべてとなる。
理性すなわち脳みそや心のぶつかりによって解決策を導くという民主的なものがなくなって初めから力の行使となりもちろん力のある者が勝つ。しかし力によって勝った者が正しいかは別である。これが理性なき実践社会の結末である。
政治も司法も企業活動もそしてマスコミも言論もその他すべてものが一つの大きな力によって統制されていく。少数の力を持つものが支配をしていく。
国民は社会の中で苦しむがその苦しみは抑えられる。笑顔を作らねばならない。
社会全体が不気味な薄ら笑いやらの笑顔となっていく。
個々人の心は存在するが、社会的には脳みそや心は必要なくなる。国民も理性なき実践を選ぶようになる。
【2020年】ツイッターつぶやき
安倍内閣から菅内閣へ。
この政治の劣化がなぜなんでしょ?
思えば与野党の激しさのあるぶつかりはスキャンダルが中心でした。内閣改造のたびに必ずスキャンダルや失言を起こす大臣が出たり、国会討論でさえまともな答弁ができない大臣が出てきたりしていました。何も野党が悪いのではなくてこのような劣化した政治をほっておきながら口先だけは説明責任という言葉を発しながら時間稼ぎをして重要法案は数の力で可決していった。
内政は数の力という決められる政治が当たり前になってしまいました。
この力による政治的解決は、国民生活の中にも浸透をしてマスコミや現在は学者の中にも浸透しています。
結局政治の劣化は進んでいきます。
その政治の劣化の根底には何があるんでしょうか?
政治勢力の中の国家主義的な思想が強まっていることもありますが、やはり経済の低迷ですね。経済がある程度上向きならば自民党内も力だけの政治ではなくて政策的な論争もできるのですが、経済がガタガタの状態では政権維持も力に頼らざるを得なくなります。ちょうどうまくアメリカもトランプさんの力の政治が台頭していますから日本はそれに乗っかりやすくなっています。
野党ができること。。。。。
真面目に国民生活に向き合うことですね。
【2021年】ツイッターつぶやき
今朝は5時に目が覚めてしまいました。
カーテンを開けたら外はまだ真っ暗で、急な寒さにサッシの窓に結露がついていました。
ベランダに出たらくしゃみと鼻水が止まらないくなった。
10月ももう下旬に入り11月がやってきます。
もうすぐ立冬ですなぁ。
11月から12月の冬至までは苦手な季節です。
早い時間の西日が部屋の中に入ってきます。
もうすぐメダカちゃんの水槽にも西日が届くかな。
暗いので電灯をつけても部屋は明るくならない。
まだ炬燵は早いが足元がさみしい。
でも、ほっとする景色は公園の紅葉。。。。
【2022年】ツイッターつぶやき
いつも行くスーパーに買い物に行きました。いつも3日程度をまとめ買いしてくるのですが、やはり高くなっていますね。一つひとつの商品の値段はそうは気にならないのですが、3日分まとめ買いをすると千円札の計算になりますから値上げの実態が見えてくるような気がします。
今日は食夜油やハチミツそしてドレッシングなども買いましたが、こういったものも値上がりしているようです。もちろん輸入肉はひどい値上がりです。
日銀黒田総裁が年末はさらに値上がりをすると発言しましたが、正月支度で以前から値上がりが酷かったですがさらに値上がりをするのでしょう。庶民がける牛肉の品質もひどいです。去年はすじにくで凝りました。
政治家はある政党では企業献金も潤っていますから餅代が出るそうですが、国民はどこからも金は回ってこない。
【2023年】ツイッターつぶやき
陸のシルクロード、海のシルクロード。
現代はあらゆる工業製品やエネルギーそして食料などが大動脈を流れる。同時に文化や国民生活を支えるインフラも整備されていく。
もちろんすべてうまくいっているわけではないでしょう。イタリアは離脱するようですし、インドの経済力が伸びることで摩擦も出る。しかしいったん出来上がった大動脈は動き続けるでしょう。
そこにアメリカの軍事政治が介入してくる。
アメリカの保護主義とアジアやヨーロッパと遠く海に隔たれたアメリカは覇権的行動を行う。
中国で一帯一路フォーラムが開催されれロシアからはプーチンさんも来ているようですし140ヵ国を超える国の代表が集まっている。先進国は消極的あるいは敵対的ですが、多くの途上国が参加をしている。アメリカなどの先進国に搾取され続けた途上国が広いつながりの中で発展を考え始めている。アフリカのニジェールではフランスを追い出した。
BRICSも動き出していますし、世界は少しづつ変化をしていくでしょう。
(記事なし)
≪過去の記事≫
【2003年】
妻と娘が焼肉を食べたいと言うので食べてきました。
狂牛病以来焼肉店も大変なようで、今日行った焼肉やさんもだいぶ値下げをしていました。カルビが半値ぐらいでしたよ。。。。
息子は友達が来ているのでおにぎりやらラーメンを食べていました。
なんか友達と一緒に勉強をするのだと言っていましたが、日本シリーズを見ながら楽しんでいたようです(笑)
もうじき「チェリーブラッサム」を読み終わりそうです。また感想でも書きます。
【2004年】
団子汁を作っています。
味噌仕立てのスイトンのようなものですが、すいとんの団子をサツマイモで作ります。
サツマイモをゆでてからつぶし、そこに卵の黄身と小麦粉を入れて団子にします。それをスイトンのように野菜などを入れたスープの中に入れて一煮立ち。味噌の塩辛さにサツマイモの甘さが絶妙です。野菜にはかぼちゃを入れるのが妻のこだわり。。。。
98円の秋刀魚がありました。今年は秋刀魚が安いのですが、もうひとつ脂が乗っていない。。。。
明日から東京はまた雨のようです。
「そして私は一人になった」 山本 文緒 著
1996年の一年間の日記です。また、この文庫版では書き下ろしで「4年後の私」として2000年4月の1ヶ月間の日記が加えられています。山本さんは日記を中学生から書き続けているようです。しかしその日記はまったくのプライベートのものでご自身しか読まない日記だそうです。ですからこの「そして私は一人になった」は、出版目的に新たにかかれたもののようです。
少女文学から一般の小説に転進した山本さんが、やっとある程度作家として認められるようになった頃の山本さんの日常が描かれています。作家の日記ですから作家としての生活も書かれていますが、離婚をして一人暮らしになった心境をはじめ、ご家族や友人の方々、出版関係者との親交を楽しく書いています。また、日常の中でのおばさんぶり(笑)ーー山本さん、ごめんなさい(笑)--
「解説」の中に、なぜ「『そして』私は一人になった」なのだろうという自問がかかれています。「そして」というのは、時間の経過がありその時間の流れの中に山本さんが生きてきたということであり、この作品に書かれているある意味ではのほほんとした山本さんも離婚や少女文学からの転進、そして作品を生み出すに当たっての苦しみがあったはずです。のんきで豊かな生活の裏にこのような山本さんのご苦労があったのですね。
同じように自由な一人暮らしの裏にある生活面や女性としての寂しさも書かれています。いろいろな方と酒を飲みながらもその裏にある寂しさ。作家というものを外からその生活を想像すると、華やかな面ばかりを見てしまうことがありますが、私生活においても職業としてもそんなに甘いものではないですね。
でも、山本さんは、作家になりたいと思ったのは作家になってからと書いています。やはり心の中に湧き出るものを書きたい、職業的にも誰からも縛られずに時間を自由に使える、そんな作家生活を楽しんでいらっしゃいます。
9号のスカートをはくことに対しては体重を気にしながら酒を飲み、部屋の中の荷物が増えることを気にしながらも流行の洋服には目がない山本さん、自己問答をしながら楽しく生きていらっしゃいます。
「4年後の私」では、売れっ子作家になった山本さんが出てきます。執筆活動が増えています。その中でも生活のペースも変わらずに。。。。。この作品が出版されてからまた4年が過ぎました。そのまた4年後の私』を読みたいです。。。。。
【2005年】
東海から関東だけが雨続き。。。。
部屋干し洗剤が役立っています。
どうも1週間雨が続きそうです。台風も来るようだし。。。
気温も下がり、ホットカーペットをしはじめました。
森絵都さんの「いつかパラソルの下で」を読み終わり、今、湯本香樹実さんの「西日の街」を読んでいます。
どちらにも感じられるものは、親子関係です。
父あるいは祖父と今に生きる若者という構図という面では共通性があります。人というものは、生物としての遺伝子を当然受け継ぐわけですが、人という動物の特殊性として生れ落ちた社会というもう一つの遺伝子も受け継ぐわけです。
その社会というものは、国家レベルのものであると同時に、家族という単位においても社会は存在し、その条件によって育てられるわけです。
社会的遺伝子と言ってもよいでしょう。
この動物的な本来の遺伝子と社会的な遺伝子を人としては受け継ぐわけですが、世代交代というのは、この中にあります。
戦前戦中の世代がいて、戦後世代の団塊の世代がいて、そして今の若い人がいる。動物的な遺伝子は、この世代の中での自然界のものであるが、社会的な遺伝子は人自身が作ったものである。
動物的な遺伝子はどうすることもできない部分はあるが、社会的遺伝子は、後の世代にどのように伝えるかは選択できるのである。若い人達が、この社会的遺伝子の中から何を優性遺伝子として受け継ぐか劣性遺伝子として排除するかは自由なのである(差別的言葉だったらごめんなさい。しかし社会的遺伝子には未来という時間に向けて人が選択できるという意味では適用できると思います)。
僕は、年金というものを自分の老後のために蓄えてきたと思っていたのですが、いつの間にか、子供の世代に世話になるというようになってしまいました。どこでどう間違えたのか、、、、若い頃に蓄えた原資はどこにいったのだろう。。。
これが今の社会的遺伝子なのです。同じようなことがあらゆる面で現れているのです。
【2006年】
外食でした。。。
駅を降りてすきっ腹にとぼとぼ歩いていつものラーメン屋さんへ。ううう。。。年中無休なのに休み。仕方ないので時々行くトンカツ屋さんへ。。。ううう・・・店の前に行ったらバイトの女の子が暖簾をしまいはじめた。仕方ないので日本蕎麦屋さんへ。。。。うううう・・・・すでに暖簾はしまわれ旦那さんが店先で知り合いと笑いながらおしゃべり中。仕方ないので中華屋さんへ。。。店は飽いていましたが、料理がいつものように遅い。。。ビールはすでに飲み干してもまだ料理は来ない。。。。ううう・・・すきっ腹のビルが効いてきた。ビールを飲み干しては仕方ない。紹興酒を追加。すきっ腹なので帰りに歩いていたらふらふらと。。。。。ハハハ
ううう。。。な、仕方ないの夜でした。
【2007年】
ううう。。。。さぶ~
夕飯を食べてからごろっと寝てしまったら寒くておきてしまった。この季節気をつけなければなりませんなぁ。。。。
そろそろコタツか?
冬の掛け布団を干しました。
「銀色ナイフ」 銀色 夏生 著
「長いですよ。
しかもマジです、
覚悟してください。
真剣辛口エッセイ」
本の帯にこう書かれていました。
今、幻冬舎の各月誌Papyrusで「銀色夏生の視点」というエッセイが連載されていますが、今回の「銀色ナイフ」も夏生さんのある一面からの『銀色夏生の視点』という位置づけに見えました。
このような辛口のエッセイは、14年間出版された「つれづれノート」シリーズの中にもところどころ書かれていました。日常の中に出会った人や事柄、ニュースなどで流れてくる情報をどのようにとらえたかというものをお書きになっていましたが、このようなエッセイを集中して(2006年11月から2007年3月までに書いたもの・・・「まえがき」より引用)お書きになったもののようです。社会の中で次から次へといろいろなことに直面をしそれにどう向き合うかという「銀色夏生の視点」といえると思います。400ページと、、、ほんとに長いです。覚悟して読みました。。。。
でも、そこは夏生さん、たしかに辛口のエッセイですが、自然体の文章でどこか救われるような中身です。どんよりと今の世間を見て怒り狂うというような辛口ではなくてそれに向き合う自分を冷静にお書きになっています。
「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」(「あとがき」より)
この自分をそして周りの世間を客観的に見るということでしょうか、そのような視点もまた「銀色夏生の視点」でしょう。
ですから「覚悟してください」も、どこかホンワカした読者への呼びかけに聞こえますし、夏生さん独特なのクールなユーモアを僕は感じます。
また、角川文庫の作品には毎回「銀色夏生の本」という作品紹介に小さな「ビラ」が挟まっています。これも僕としては夏生さんの小さな作品。。。夏生さんの手作り!というものがでているビラですから絶対に捨ててはいけませんよ(笑)今回は「近況」という短い文章が載っていました。その中に次のように書かれています。「えっ?!捨てちゃったよぅ。。。」って?ほら、絶対に捨ててはいけないといったでしょう(笑)
冗談はともかく、そこに
「この本は、(中略)たぶん推敲すればするほど格好つけそうだったので、やめました。粗削りのまま、お届けしようと思います。」
読みはじめてまず感じたことは、どことなくブログ(あるいはホームページの日記)のようだなぁということでした。毎日思ったことを書き留めておくような。。。。そして少し考えたことを聞いてほしいなぁ。。。というような。
項目はたくさんあるのですが、文章の長さも短いですし、一つひとつをあまり関連付けずに毎日思ったこと考えたことを書くというブログ的な文章です。ですからあまり長く書くこともなく気楽に、でも、本気に考えたことをつれづれに、でも、集中して書かれたものかなと思いますし、それは案外ホームページやブログをされている方の視点で読めるということではないかなと思います。夏生さんは、本文中個人のホームページやブログを批判しているようなこともお書きになっていますが、でも一方的な批判ではなくて評価をするホームページやブログの一面もお書きになっています。それは、
「人を知ることができたり。ストイックなのがいい。バイク好きとか温泉好きとか、ある特定の植物好きなど、ストイックに熱いもの。しみじみしたもの。」
(318ぺじ)
ある意味本の出版とブログなどには共通したものがあると思うのですが、夏生さんの今回の作品は、もちろん出版という形をとっていますが、中身からすると読者はまるでブログを読んでいるような感覚で読めます。ブログなど、このようなものがなかった時代なら「銀色ナイフ」は短いエッセイを集めたエッセイ集として読むだけですが、今の時代はやはりブログというものを知っているならその意識で読んでしまう。また、多くの作家もブログなどを意識せざるを得ない時代ではないでしょうか?無意識的にも。ストイックなものというのは、ある特定の趣味を自分を出した独特な感覚で紹介をするという意味でしょうが、それはまさにその「人を知ることができ」るということです。その意味では、今回の作品は、ブログ的に読んでしまいますが、その中に夏生さんの世間を見る目などというストイックさを見ることであり、「銀色夏生の視点」という夏生さんという人を見るものであると思います。
以上今回の作品をどのようにとらえたかというような意味での前置きが長くなりましたが、そこで感想文はどのような形で書けるのかを考えました。(以上前置きのようですがこれも感想です。。。)
それは、夏生さんがお書きになった一つ一つの項目にブログで言えば「コメント」を書くという形で夏生さんとお話をするようなこと同時に、全体を通した夏生さんの考え方や生き方それは、ブログ的に書かれたように感じる作品の中の夏生さんの生き方のストイックさを見た感想文ということにもなります。
僕は、本を読んでいると何か感じたところのページ下を折る癖がありますが、今回の作品もたくさんの三角折がたくさんありました。その意味では夏生さんに「コメント」を書くという形でも楽しく読みました。その一つひとつは、僕もそうですが読んだ方一人一人に思いがあるわけで、それはいろいろな意見として出ると思います。それらは個々の方の胸にしまっておくほうがよいのかもしれません。しかし同時に夏生さん像というものが見えると思います。それが僕にとってどのようなものなのかが感想になります。
先に書いた「もうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。」というこの自分をそして周りの世間を客観的に見るということも夏生さんのひとつの視点ですから、これも大切な夏生さん像です。
同時にこの客観的に見る中身もあるわけで、どのように見るかの見方や考え方も大切になります。この点で興味深いのが、374ページの「弾丸ロケット」という項目です。
「君が今、幸福の中でもっているものを、あの人は、不幸の中でもっていた。」というミュージカル「レ・ミゼラブル」のセリフを引用し、
「これは、私が人生のテーマみたいに思っている表現と、同じ視点だ。」
と書き、続いてアンドレ・ブルトンの「相反する二つのものがそこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点を突きとめる」という言葉を引用し、
「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、想像するだけで興奮する。怖いものなんてなくなるよね。そんなとこ。そういうところにいつも立っていたいと思う。」
とも書いています。
「何ひとつ変わらなかったけど
何もかも変わった」
(詩集「LESSON」48頁の詩表題作LESSONより)
夏生さんの詩にはこのような矛盾しているような、同じひとつのものを別の角度から見るような表現が時々でてきます。
少し違うかもしれませんが、詩集の中では、女性らしい優しい言葉で問いかければ、「僕」という主語で男の視点からも問いかけます。お互いの二人の間の同じ恋も女性の視点と男の視点ではすれ違いも出る。しかしその恋は二人にとっては同じひとつの恋なのです。
あるひとつのもの、事柄を別の視点から見たとき、まったく違った見方が出てくるということは多く在ります。また人と人との関係やその人が行動する中での相反するもあります。
「私が人生のテーマみたいに思っている表現」、また、「正反対の二つのものが同じに見える一点なんて、」というもの。これはこのように夏生さんの作品に表れてもいます。
「銀色ナイフ」では、多分じっくり読めば矛盾するようなものが見つかるかもしれませんが、それを常に繰り返し考えることが大切だと教えられるように思います。人というのは同じものでもそのときの気分や環境によって違うとらえ方をしてしまうこともありますし、それは年齢を重ねる中で違ったものとして見えるものでもあります。でも繰り返し考えることで、その同じひとつのものがひとつのものとして形として理解を深めることになるのかもしれません。
このような見方・考え方は、「こういう考え方もあるよ」という形での「辛口エッセイ」につながっているのではないでしょうか。正反対の見方もあるでしょうが、さまざまな角度からひとつの現象を見て、よりそのひとつの現象を寄り正しく理解をしていくという思考方法です。
「銀色ナイフ」は、「こういう考え方もあるよ」というものを読者に問いかけているのではないでしょうか?それは日常の中にあるすべてのものに対していえること。たとえば。。。力を持っていて威張る人間には頭を下げざるを得ない場合もありいやになるときもあるけど、別の角度から見るとその威張る人間はあんがい弱い人間で、頭を下げているのはその人自体ではなくてその人の持つ社会的な力にだということがわからないかわいそうな人ではないかというような視点。
こういうとらえ方の角度を変えれば、あるいは180度違う正反対の見方により、気持ちは違ってきて行動もまた違ってくる。
インターネットもそうですが、テレビなどのマスコミはさまざまな情報を流しています。その情報は受け取るだけならなんとなくそれが常識としてとらえてしまう場合がある。確かにこの情報には常識さをたくさん含まれているわけですが、、その常識をちょっと違った角度で見ることは必要なことです。
仮に世間ではこれが常識といわれている中で、いやその常識にはこんな見方もあるよというなら少し変わり者と見られてしまいます。この変わり者の視点が「辛口エッセイ」になるわけです。
このエッセイ集には、辛口なものだけではなくてホンワカするようなものもたくさんなります。このほんわかとしたものは、以上のような視点の切り替えによるとらえ方の中から出てくる心のゆとりではないかな?
それは心の自由ですね。
もちろん心の自由はいろいろと実際の世間からは縛られるのですが、心の自由は温めておかなくてはならないと感じましたし、縛られる中にも自由な行動も少しはできるわけです。
この自由という結論がまた夏生さんが常に語ってきたものです。
「あとがき」には、人それぞれはゲームのコマのようとかいています。
「自分というコマを動かせるのは、自分だけだ。」
でも、夏生さんは、勝手気ままな空想的な自由を言うのではない。
人生の中でトンネルをくぐったり、山を登ったりと、世の中の中にはいろいろあるし、それは苦しいこと。でもその中で自由にやってみようよという自由です。結論はいろいろでてくるけど、その自由は自分でしか作れない。その結論には。。。。
「人は苦しむことでしか成長はしない。
そして成長するためにこの世に生まれたてきたのだから。」
と。。。。。
その成長は、世代によってバトンタッチされながら。。。。
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
先日道の駅で買った新米
食べ終わりましたがまた買いに行こうとは。。。。
白い米がたくさんあってみずみずしさがなかった
今日新聞をみたら1等米が少ないと
これも猛暑のためだそうです
自然は微妙ですなぁ
少しの気温変化で。。。。。
いや、少しの変化というのは人の感覚で
植物たちにとっては1℃が大切なのかも
我が家のミニバラが夏に葉を全部落としました
そして少しは涼しくなったらまた葉と花を
ミニバラの適応にびっくりしました
ベランダの植物たち。。。。。。
やっと秋らしくなった中
夏の名残のように生い茂った葉をだらっとさせています
桜もみぢも始まりました。。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
社会の中を見ると、同じように苦しんでいる者同士や考え方が同じ者同士でも一つになれないことの方が多い。
同じような状況にあっても人には感情というものもあるしその解決方法となると個々人の立つ位置も違えば考え方も違う。そこに個々バラバラな人間集団が社会の中でうごめいている。
この社会には競争というものがなくてはならないものとしてシステム化をされて、例えば低賃金で苦しんでいる者同士でも、賃金明細を見ると同じ年でも1万円違うではないかということが現れる。1万円の競争である。この競争の中に自己解決が唯一となっていくだろう。このような差別化というものは社会の中にはたくさんあり、その中で1万円でも多くという競争は人々をばらばらにしていく。同じ低賃金だというところで一体にならずに1万円の差別化で分断をされるのである。
あるいは同じ賃金額であっても、お前は独身だから楽だよなぁ。。。。といった差別化を見時からが行うことがある。
このように今の社会の中では差別化という競争意識が身に染み込んでいるといえる。
まだこの差別化の中での競争が競争意識だけで終わっている場合はまだよいのであって、時には激しい個人批判的な、あいつは仕事もしていないのに。。。とか、その分断は攻撃的な思いや感情となっていく。
こういったことはこの二人のサラリーマンの間の1万円の対立だけではなくてさまざまなところに出てきているわけです。今の放射能騒ぎの中で、汚染がひどい地域の農民と消費者が対立することも現れています。農民は政府が500ベクレル以下なら安全だといい出荷できるから出荷をする。消費者は政府が安全だというがなるべく放射線量の少ないと思われる他の地域の農産物を買う。汚染のひどい地域の農産物は売れなくなる。ここに「風評被害」という言葉による分断が作られるのです。個の分断の作用で農民と消費者が激しく対立してしまうことがある。
このような例と同じものが他にもたくさんないだろうか?
正社員と派遣、年齢間格差などなど様々なところにあるのではないか?
人種差別などの人の存在にまで差別と分断が入り込みます。
本来は結束をして一つになり社会を変えていく力が働くわけですが、そうはならないもの。。。。それが差別と分断という時には人がそれを作りだす中に人が櫃になれない条件が増していくと見た方がいいでしょう。
しかし時間の経過と条件によってはこのバラバラになって人々が結集をしていきます。
その一つになり結集をしていく要となるのはなんでしょうか?
それは例えば先の放射能騒ぎの例で言えば、分断されている農家も消費者も実は原発事故とその後の保障問題などの犠牲になっている共通性が認識されたときにその認識とそこからの行動が互いが一つになる要となるのです。サラリーマンで言えば階級意識です。
この要を作り上げていくのは実体討論と学習でしょう。そして要を意識的に作り上げようとするのが政治の勢力や市民自らの組織化でしょう。
この社会にはこれを必要としない人もいれば邪魔な人もいます。でも、社会の矛盾がだんだんと深刻になる条件があれば要はできあがっていくでしょう。必要となっていくでしょう。
【2012年】ツイッターつぶやき
ツイッター上で知ったのですが、週刊朝日の橋本市長の出自を交えた人物像というのでしょうか橋本論というのでしょうか、その記事。これに対する橋本市長のツイートを初めてした週刊朝日(親会社というべき朝日新聞)への批判があります。
橋下市長の出自をどのような中身で書かれたか、橋下市長は出自を出したこととそこからの人物像というものに対する批判なのか。。。
その中身については読んでいない僕がどうのとは言えませんが、この週刊朝日と橋下市長の対立から何を感じるか。
週刊朝日が差別についての社会的な認識や微妙さの認識不足あるいはあったのでしょうか。週刊朝日が差別をしたというわけではありませんが、あらゆる差別問題は人権問題です。
以前、殺人を犯した犯人の年老いて父親にインタビューといったテレビ放送がありましたが、成人した大人の犯人なのに年老いた父親まで引っ張り出す。ここには報道の自由や知る権利と同時に微妙に人権にかかわる問題が出てきます。父親を出させるほどの知る権利なのか?
橋下市長の出自の問題ももちろん将来は総理大臣化とも言われる人ですからその公人として主事などはある程度の取材は仕方ないでしょう。しかしどこまで、どのような理由で出自のことを出すかは微妙な差別的要素がないか考慮されなければなりません。ここにも取材の自由や知る権利と人権の微妙な境目が出てきます。
橋下市長の批判と週刊朝日の謝罪(中身は今後でしょうが)。
しかしこのように今回の問題を人権の問題として見るならば、橋下市長も職務権限と人権の微妙な境をうまく利用している。法的には道かは今後争われるかもしれませんが、法的に許される職務権限で入れ墨問題や国歌を歌っているかのチェックなどは、職務権限を発する自由と職務権限で強要される中での公務員や教師自身の思想に反したことをやらされる屈辱という事件の問題との微妙な境目があります。いくら職務上の権限があるからと言って、社員に何を強要させてもいいというものは民間でもありえないでしょう。
これを機会にマスコミや今回は橋下市長でしたが政治家の対国民としての人権の在りかたを見つめるべきではないでしょうか。
言葉の攻撃性も。。。。。
【2013年】ツイッターつぶやき
続きです。
労働力も一つの商品という形で現れる。ですから商品に価格があるように労働力にも価格がある。それが賃金額です。
商品が再生産されていくには適正な価格で売られます。ですから労働力も適正な価格で売られなくてはならない。買い手市場とはいえ適正な価格で買われなければならない。
その労働力の適正な価格としての賃金額はその再生産費となる。
この再生産とは何かと言えば生活の中でのあらゆる商品やサービスなどの消費です。
労働者は自らの労働力で商品を生産し、分業の中で生産されたあらゆる種類の商品を消費する。それは自分が生産した商品を他の労働者が生産した商品と交換をするようなものです。ここに生産と消費のバランスができるわけです。単純に考えれば。
労働者は生産者であると同時に消費者ですからこのバランスが正常ならば需給関係は正常なわけです。ここでは過剰生産などの無政府的な生産を考えないで、労働者の労働力の再生産費が極度に減らされた場合を見ます。本来はあってはならないことなのですがこの社会には普通に生じるものです。
今の日本がそうでしょう。
企業は利益の拡大や利益確保のために賃金を減らし続けます。
それは先にこちらで書いたような生産性の向上(商品価値の低下による商品価格の下落傾向)や社会システムの発展(社会保障や公的保険など)により労働者労働力の再生産費という賃金で受け取る現金の縮小とは異なり、労働力の再生産に必要な額を下回るような賃下げです。労働者は適正な(その社会の生産性による富の分配)労働力の再生産費を受け取ることができないという社会です。当然ここでは需給関係が崩れる要因となるでしょう。労働者の労働力の再生産は食って寝るだけでもたしかに生きていけるわけですから”一時的には”次の日も労働(労働力を売ること)はできる。しかし一方では労働者は自分には手にできない商品を大量に生産する。その生産される者とは最終的には大衆消費財とならなければなりませんから大衆消費財としての商品の過剰が出るし、低賃金ということで商品価格は下がり続ける。しかしここでは商品価格が下落しても労働者の手には入りにくい状態となります。必然的に商品の過剰生産と同じ現象が市場に現れるでしょう。そしてこれは労働力の再生産をもできない状態をつくるということです。市場には商品があふれ、一方の労働者はその商品を手に入れられないことから労働力の再生産を行えずに疲弊をしていく。労災や貧困からの矛盾が噴き出るわけですからこれを再生産とは言えない状態にします。経済的理由での少子化は進むでしょう。
これがスパイラル上に進めばデフレ不況となる。
デフレ不況からの脱却は賃上げではできないといった論理もありますが、それは労働力がその価格どおりに売られている状態で、市場の中で無政府的な過剰生産という形で起きる生産性の向上に原因があるからです。これもまた資本主義が抱える矛盾ですが。これも確かにデフレなのですが、このデフレを加速させるものが労働力の再生産以下の賃下げというものに原因があるとすればまずは賃上げがデフレ脱却への一つの条件となるでしょう。過剰生産は相対的なものです。世界中の人々を見れば間違っても過剰生産とは言えない状況でしょう。まだまだ資本量は足りずに拡大再生産を必要とする。しかしここでも世界的な規模での、特に今はグローバル化の市場ですから上に見たような国内のデフレ要因と同じものが世界的なレベルで起きているということです。日本が安い労働力を求めて中国や
【2014年】ツイッターつぶやき
政府はあまりのも急激な円安に警戒感を示す。一方日銀はその円安を放任し歓迎をする。どこか政府と日銀の二人三脚にほころびが出始めているのかもしれない。それに合わせてリフレ派といわれる方々でしょうか?円安はよいが消費増税が間違いだとか、今の物価高を円安ではなくて消費増税からだとかといったある意味政府批判(あるいは増税の必要性を言うエコノミスト批判)が出ている。
こうした日銀と政府の二人三脚の足並みに乱れが出始めたこと自体それはアベノミクスのほころびでもあるのでしょう。もちろん政府も日銀もデフレからの脱却で一致をしているのですが、その意味において物価の上昇は政府も日銀も歓迎をする。しかしこの物価上昇の傾向が経済を良い方向に持っていけるかといえばそこにほころびが出てきている。物価の上昇だけでは経済は好転しない。このジレンマが目に見えて大きくなるとその責任をかぶらないためにも政府と日銀の二人三脚も足並みが乱れるでしょう。
物価高が経済の成長過程においてのあるいは結果においてのインフレとは違う様相を示して悪性の物価高ではないかという疑念が広がればその悪性の物価高の原因は何かという議論になる。日銀の円安金融政策にあるのか、政府の消費増税にあるのかといった議論も出てくるでしょう。
円安による輸入品目の値上がりそして消費増税分の商品への価格転嫁を指導する政府。どちらが悪性の物価高を生んだ原因かではなくて、円安での物価高に消費増税分の価格転嫁が重なって悪性の物価高は出来上がってしまったとみるべきでしょう。
そしてもう一つの要因は、この悪性の物価高によって実質賃金の低下が出てしまったことにもある。
物価上昇分賃金が隅々にまで賃上げとして現れ、社会保障にも物価高を補てんできるなら物価高は国民生活レベルで見れば悪性の物価高とは見えない。そしてここから経済の好転も生まれるかの市が出ていたはずです。
ですから物価高の原因は、円安と消費増税にあり、その原因を修正できなかった要因が実質賃金の低下ということになるでしょう。
もちろん実質賃金が物価上昇分でも上が量な政策(経済が好転すれば賃金も上がるといった理論は破たんをしている)が実行できるぐらないならば何もインフレ政策という悪政・悪い金融政策などは行わずに済むわけです。
政府は10月の経済動向指数を分析してこれまでの「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持する見通し」だそうである。
そして「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持」この言葉で消費税10%は決まってゆくのでしょう。景気を現す指数が景気を回復している方向なのかといえば後退しているのが現状では?そしてこちらでも。
「景気が緩やかに回復しているとの見方は維持」しかし現実の経済状態からは消費増税10%は無理。そこで「消費税10%先送りは少子化対策「困難に」 麻生財務相」と社会保障費を切り捨てる方向へ。なぜ『消費税10%先送りは法人減税「困難に」』ではなくて『少子化対策「困難に」』なのだろうか?
すでに切り捨てるものは決まっているのである。
「10%への引き上げで増える税収(年間14兆円)のうち2・8兆円を子育てや医療など社会保障の充実に回す方針」(引用)
消費増税はすべて社会保障にという当初の公約は崩れてさらにその2.8兆円の予算増すら保証はできないという。
ある意味国民への恫喝でしょう。
「景気が緩やかに回復している」
この言葉は呪文のように政府を支配する。この言葉を放棄することはアベノミクスの失敗を認めることとなる。
内政は数の力でどうにかなるとしてもその内政は国内外からの批判が強まる。外交は中国と韓国との関係改善はされずに「いつでもドアは開かれている」という言葉の一方で閣僚の靖国参拝。そこにアベノミクスの失敗が危惧されはじめれば政権の危機は深まる。福島原発事故の汚染水発言に象徴される世界への約束が崩れ始める。国民への約束も実質賃上げには結びつかない。
「景気が緩やかに回復している」。。。。。。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
買い物に行ったらオクラが急に食べたくなり買ってきました。
買ってきたのはいいがどうやって食べようかぁ・・・・
いつもは大根おろしにのせてポン酢で、おひたし、煮びたし、オクラ納豆、てんぷら・・・・など。
いつもの味も飽きたので、さっと塩ゆでにして冷まして梅肉を乗せてみました。
梅干しをたたいてそこに鰹節と砂糖そして和風ドレッシング少々。
これをよく混ぜ合わせてからオクラの上に乗せました。
あっさりとして冷酒によく合いました。
【2018年】ツイッターつぶやき
秋といえばサンマですなぁ。
1匹88円でした。
中骨を取り除いた開きのサンマを買ってきました。
今年3回目のサンマの蒲焼。。。。。。
サンマに小麦粉をまぶします。
これをオリーブオイルでカリっとフライパンで両面を焼きます。特に皮の面は少し焦げるぐらいに。これが出来上がるとウナギのように見えてきます。
たれは、酒、砂糖、みりん、醤油です。少し甘めにしました。水は使いません。
サンマは焼きあがったら一度さらに乗せて、フライパンに先ほどのたれを入れて沸騰させます。少し煮詰めましたらサンマを戻してたれを絡めれば出来上がり。山椒があればいいですが、なければ七味唐辛子でもおいしいです。
【2019年】ツイッターつぶやき
人の社会は実践的である。
様々な個々の実践により社会は成り立っている。
個々人はそれぞれ考えて行動をするのですが、この行動はぶつかり合う。
物事を考えずに実践をする場合、この実践的ぶつかりがすべてとなる。
物事を考えないというのは、腹の中に沸き起こったものを脳みそや心というフィルターを通さずに実践となる。
脳みそや心のフィルタがすなわち理性であるとすれば、理性なき実践となり社会はその理性なき実践により動いてしまう。
優れた頭脳を持った人や哲学を持つ人はたくさんいるでしょう。しかしその優れた頭脳を使わなければただの凡人が理性を持たずに実践することと変わりがない。
理性なき実践は力がすべてとなる。
理性すなわち脳みそや心のぶつかりによって解決策を導くという民主的なものがなくなって初めから力の行使となりもちろん力のある者が勝つ。しかし力によって勝った者が正しいかは別である。これが理性なき実践社会の結末である。
政治も司法も企業活動もそしてマスコミも言論もその他すべてものが一つの大きな力によって統制されていく。少数の力を持つものが支配をしていく。
国民は社会の中で苦しむがその苦しみは抑えられる。笑顔を作らねばならない。
社会全体が不気味な薄ら笑いやらの笑顔となっていく。
個々人の心は存在するが、社会的には脳みそや心は必要なくなる。国民も理性なき実践を選ぶようになる。
【2020年】ツイッターつぶやき
安倍内閣から菅内閣へ。
この政治の劣化がなぜなんでしょ?
思えば与野党の激しさのあるぶつかりはスキャンダルが中心でした。内閣改造のたびに必ずスキャンダルや失言を起こす大臣が出たり、国会討論でさえまともな答弁ができない大臣が出てきたりしていました。何も野党が悪いのではなくてこのような劣化した政治をほっておきながら口先だけは説明責任という言葉を発しながら時間稼ぎをして重要法案は数の力で可決していった。
内政は数の力という決められる政治が当たり前になってしまいました。
この力による政治的解決は、国民生活の中にも浸透をしてマスコミや現在は学者の中にも浸透しています。
結局政治の劣化は進んでいきます。
その政治の劣化の根底には何があるんでしょうか?
政治勢力の中の国家主義的な思想が強まっていることもありますが、やはり経済の低迷ですね。経済がある程度上向きならば自民党内も力だけの政治ではなくて政策的な論争もできるのですが、経済がガタガタの状態では政権維持も力に頼らざるを得なくなります。ちょうどうまくアメリカもトランプさんの力の政治が台頭していますから日本はそれに乗っかりやすくなっています。
野党ができること。。。。。
真面目に国民生活に向き合うことですね。
【2021年】ツイッターつぶやき
今朝は5時に目が覚めてしまいました。
カーテンを開けたら外はまだ真っ暗で、急な寒さにサッシの窓に結露がついていました。
ベランダに出たらくしゃみと鼻水が止まらないくなった。
10月ももう下旬に入り11月がやってきます。
もうすぐ立冬ですなぁ。
11月から12月の冬至までは苦手な季節です。
早い時間の西日が部屋の中に入ってきます。
もうすぐメダカちゃんの水槽にも西日が届くかな。
暗いので電灯をつけても部屋は明るくならない。
まだ炬燵は早いが足元がさみしい。
でも、ほっとする景色は公園の紅葉。。。。
【2022年】ツイッターつぶやき
いつも行くスーパーに買い物に行きました。いつも3日程度をまとめ買いしてくるのですが、やはり高くなっていますね。一つひとつの商品の値段はそうは気にならないのですが、3日分まとめ買いをすると千円札の計算になりますから値上げの実態が見えてくるような気がします。
今日は食夜油やハチミツそしてドレッシングなども買いましたが、こういったものも値上がりしているようです。もちろん輸入肉はひどい値上がりです。
日銀黒田総裁が年末はさらに値上がりをすると発言しましたが、正月支度で以前から値上がりが酷かったですがさらに値上がりをするのでしょう。庶民がける牛肉の品質もひどいです。去年はすじにくで凝りました。
政治家はある政党では企業献金も潤っていますから餅代が出るそうですが、国民はどこからも金は回ってこない。
【2023年】ツイッターつぶやき
陸のシルクロード、海のシルクロード。
現代はあらゆる工業製品やエネルギーそして食料などが大動脈を流れる。同時に文化や国民生活を支えるインフラも整備されていく。
もちろんすべてうまくいっているわけではないでしょう。イタリアは離脱するようですし、インドの経済力が伸びることで摩擦も出る。しかしいったん出来上がった大動脈は動き続けるでしょう。
そこにアメリカの軍事政治が介入してくる。
アメリカの保護主義とアジアやヨーロッパと遠く海に隔たれたアメリカは覇権的行動を行う。
中国で一帯一路フォーラムが開催されれロシアからはプーチンさんも来ているようですし140ヵ国を超える国の代表が集まっている。先進国は消極的あるいは敵対的ですが、多くの途上国が参加をしている。アメリカなどの先進国に搾取され続けた途上国が広いつながりの中で発展を考え始めている。アフリカのニジェールではフランスを追い出した。
BRICSも動き出していますし、世界は少しづつ変化をしていくでしょう。