夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

2024年11月22日(金)「事故の回避は不可能だった」

2024年11月22日 21時48分51秒 | 「政治・経済」
「事故の回避は不可能だった」
自動車と歩行者や自転車との事故では、この「事故の回避は不可能だった」という言葉は交通事故では通じない言葉だと思っていた。過失割合で自動車側の責任が問われる。
こんな中、車と自転車の事故で過失割合が自転車側が100%となり、同時に車に傷でもついたのか?15万円の賠償が自転車側に課せられた。自転車の無謀な運転が続く中、ある意味画期的なものでしょう。さらに自転車を運転していたのが10歳の子どもだという。当然親の責任となるのでしょうが、子供だから仕方ないという言い訳もできなくなっているということでしょう。
自転車で老人を殺してしまったという事故もありますが、「車両」としての自転車への責任は強く求められるようになっていますしさらに厳しくなるのでしょうね。また、ながら運転や交通ルールを守らないで自転車を運転して車がぶつかったら車の責任だというものも都市伝説になりつつある。
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「11月22日という日」

2024年11月22日 08時08分35秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
「事故の回避は不可能だった」
自動車と歩行者や自転車との事故では、この「事故の回避は不可能だった」という言葉は交通事故では通じない言葉だと思っていた。過失割合で自動車側の責任が問われる。
こんな中、車と自転車の事故で過失割合が自転車側が100%となり、同時に車に傷でもついたのか?15万円の賠償が自転車側に課せられた。自転車の無謀な運転が続く中、ある意味画期的なものでしょう。さらに自転車を運転していたのが10歳の子どもだという。当然親の責任となるのでしょうが、子供だから仕方ないという言い訳もできなくなっているということでしょう。
自転車で老人を殺してしまったという事故もありますが、「車両」としての自転車への責任は強く求められるようになっていますしさらに厳しくなるのでしょうね。また、ながら運転や交通ルールを守らないで自転車を運転して車がぶつかったら車の責任だというものも都市伝説になりつつある。

≪過去の記事≫

【2003年】
吉本ばななさんの「よしもとばななドットコム参上!」を読み始めました。おもしろいのですが。。。。。
なんだろう?なんとなく感じる違和感は。。。。。
たとえていうと、僕のようなまったくの一般人(凡人)が作家などの芸術家が集まるパーティーになぜか入れてもらったというのか。言ってみたのはいいけど、名前を聞かされても誰のことやらまったくわからず、親しそうに話している輪に入れずに一人ちんまりと見ているというような違和感かな?
何しろ登場人物が誰なのかもわからないし、話の中身もわからない。かといって文章は惚れ惚れするようにうまいけど、なんかぴんと来ない。
ううう・・・・
3巻まで買ってしまった。。。。
どうしよう。とりあえず夏生さんが出てくるところを楽しみに読みます。外から見た銀色夏生は貴重ですからね。。。

【2004年】
25日は夏生さんの「保育園に絵をかいた」が出ます。楽しみです。古くなったお子さんの通う保育園の壁に壁画を書いたことが「つれづれノート13」の日記に書かれていましたが、その絵の写真などが紹介されているようです。
産まれ故郷に帰った夏生さんの生活にも変化が出てきているようです。
お子さんを保育園に入れる夏生さん、自然さを感じます。このに地上の自然さを書く作家はいいですね。。。。

【2005年】
医者から中性脂肪やぎっくり腰は運動不足だと言われ、12月からスポーツジムに通うことにしました。
身長に対しての体重はもちろん体脂肪率も正常なのですが、なぜか血中の中性脂肪値が高い。。。
内臓に脂肪がついているのかな?それに脳味噌や心臓がプッツンでは怖いですからね。
今日、スポーツジムに行き相談したら、インストラクターの方が「私も中性脂肪値が高いんですよ。中性脂肪はなかなか落ちませんよ」と。インストラクターをしていても中性脂肪値は下がらないのかよ。。。。どんより
まぁ、薬を飲まない程度の高値安定になればと思い通うことにしました。
中性脂肪もあまり低くなると免疫力も落ちて癌になりやすいということも聞いたことがあるし、いつもお世話になっている医者も「僕も中性脂肪値は高いんだなぁ。。。」と。そして語気強く「あまり中性脂肪値が低くなると大変ですよ」と自己弁護的な話しぶり(笑)「株価と同じく高値安定がよいのですかね?」と聞くと笑ってました。
スポーツジムのやはりインストラクターのようなきれいな女性にデレッとしながら申込金を払ったのですが、落ち着いてロビーの中を見ると、腹の出たおばちゃん連中がタムロしていた。。。どんより
さっそくスーパーの衣料品売り場に行き安い運動着やスポーツシューズを買ってきました。

【2006年】
うううう。。。。
やはり風邪が抜けません。昼間は調子がいいなァと思うと夕方から苦しくなる。
しつこい風邪のようです。
もう3日も風呂に入っていないので気持ちが悪いです。これでまた風呂に入ると風邪がぶり返しそうなのでやめておききます。頭が痒い。。。ハハハ
それでも無理をして買い物に行ってきました。
そういえば、無理といえば、昼間にカネノナルキを植え替えました。この木はもう20年以上も生きた古木ですが、さすがに植木鉢も窮屈になり、土もコンクリートのように硬くなって水を吸い込まなくなっていました。最近葉も小さくなって元気がありませんでした。今は植え替えの時期ではないのでしょうが、もう限界かと思い植え替えてしまいました。元気に育って欲しいです。
この惨めなカネノナルキを見ながら妻が一言。。。。
金が貯まらないわけよね。。。。ううう
クリスマスの時期の葉が赤くなる鉢植え。。。何という名だったか?
その木の葉が赤くなってきました。またクリスマスの頃には楽しめそうです。でも、こちらもそろそろ植え替えないと。。。。。

「ざらざら」
           マガジンハウス
           川上 弘美  著
2002年11月から2006年7月までに雑誌「クウネル」に連載された短編集です。ひとつの作品が7ページから10ページほどのエッセイ風の小説です。
「ざらざら」の後に、やはりエッセイ風の小説を集めた「ハヅキさんのこと」(講談社刊)が出版されましたが、こちらの作品集も同じ頃にいろいろな雑誌に連載したものを集めたものです。
「ざらざら」と「ハヅキさんのこと」、この2冊は同じ作品集として読んでもいいのではないかと思います。このような意味では、「ざらざら」には「あとがき」がありませんが、「ハヅキさんのこと」には「あとがき」があり、冒頭次のように書いています。
「ちかごろ、原稿用紙にして十枚前後の、短編、というには少々短い長さの小説をしばしば書くようになった、」
       (「ハヅキさんのこと」あとがきより引用 以下も同じ))
そしてこの短い小説を書くきっかけとなったのが、表題作の「ハヅキさんのこと」(1999年発表)だったらしい。短編集「ハヅキさんのこと」は、この1999年から2005年までに書かれており、「ざらざら」の中の短編と平行しつつ書かれている。ですから「ちかごろ」とは、1999年から今年までということになる。
このような意味では、「ハヅキさんのこと」にかかれた「あとがき」は、「ざらざら」へのあとがきだとしてもよいと思う。2つの作品を除き、雑誌「クウネル」に発表された作品集が「ざらざら」で、その他の雑誌に発表されたものを集めたのが「ハヅキさんのこと」なのです。
「エッセイの体裁をとった小説」
人は夢だか現実だか、その記憶が本当のことを形のままに残っているのかとなるとあやふやになることがある。「エッセイ」となればそこには本当の現実が入ってくる。このエッセイを小説化してしまうと現実なのか作品なのかがあやふやである。「エッセイの体裁をとった小説」なのか、「小説の体裁をとったエッセイ」なのかは、あやふやである。このあやふやさがまた川上さんの作品の特徴でもありひとつの世界なのである。
しかし
「虚と実のあわいにあるなんだかわからないものが知らずに現れている」(「あわい」。。。あいだ)
これが表現というものだろう。
一つの短編に書かれたこと自体が川上さんの本当の体験かといえば、それは「虚」であり、ならば短編はまったくの虚であるかといえば、表現された心の動きは「実」なのではないか。。。。
これが表現するということなのではないか。
この表現の仕方に、古い作品としてのちょっと不思議な世界もあるわけで、それが川上作品の特徴でもある。最近の作品には、初期のような表現が少なくなっているが、この両短編集には、また違った形での川上さんらしさが出ていると思う。
「同行二人」は、「溺レる」の世界を思い起こしますし、「月火水木金土日」は、不思議な世界に入り込みますし、これも初期の作品を思い起こします。この作品の形として初期の川上さんの作品を思い起こすということと、同時に、すっと動く心の動きの表現としても、それは初期の作品的なのかもしれません。
話がそれますが、僕のホームページでは、銀色夏生さんを中心に、女性作家の皆さんの作品感想を書いていましたが、最近は、川上弘美さんの作品もすべて読みたいと思うようになってきました。これがなぜなんだろと考えてみると、お二人の作家の表現の中には、この「すっと動く心の表現」という一面にあるのではないかと思います。まだ「ハヅキさんのこと」は読んでいませんが、この両短編集は、僕にとっては大切な1冊に成るのではないかと思います。
「淋しいな」は、失恋の淋しさですが、淋しくなるきっかけはたくさんあるけど、よくよく考えればきっかけはきっかけ。。。残るは淋しさなのだ。ふと図書館から借りた本を思い出す。風呂に入ったらすぐにねついてしまった。「淋しいな。」ふらられた「淋しさ」と後の「淋しいな」は違います。この失恋で彼に会えない淋しさから、「あたし」は、恋愛をしたことがあるのか、彼の事が好きだったのかと自問するなかでの自分への「淋しいな」と、心の動きがあります。銀色夏生さんの「こんなに長い幸福の不在」のなかの「この悲しい気分の一つは」という詩の僕の感想には「中途半端な恋。つかづはなれずの恋。。。。恋に迷いはつきものだけど、迷いながらもたしかなものを見つけるのも恋。見つけられないうちに終わったのが悲しいのかもしれない。」とあります。淋しさと悲しさの違いはありますが、この心の動きにぐっとくるわけです。
この川上さんと銀色さんの比較は、まったくの僕の中にあるものですが、詩にしろ、超短編の小説にしろ、何を表現するかは、この心の動きの変化ではないかと思います。
この短編集は、いろいろな小説を読んでいると、頭に焼きつくような場面に遭遇しますが、そんな文章を集めたような気もしますし、小説の本題には関係ないけどなぜか印象に残る場面もあるというように、超短編にはそんな魅力もあります。
また、表題作「ざらざら」では、二人の女と一人の男との友人関係と淡い恋がありますが、この微妙な関係の中での恋が、正月用の飾りである海老のざらざらとした手触りに表現をされている。淡い恋の心を飾り海老のざらざらに結びつける。。。ここには俳句的なものを感じます。
川上弘美さんは、今はどうか分かりませんが、恒信風という俳句会の同人でいらしたようですので、ぱっと湧き立つ心の動きを短い文章にするということという点では、この両短編集は俳句的小説といっても良いのかなとも思います。
主人公は、20歳から35歳ぐらいの女性で、その恋を描きますが、恋の短編集としてだけではない人の心の揺れ動きといったものを考えさせられます。
失恋の悲しみというのは、もしかしたら淋しさとか寒さの中の温もりを求めるものなのかもしれない。
だからなぐざめや励まし、同じ体験談が救いとなるのだろう。
失恋ばかりではない。人は一生淋しさの中に生き、そして温もりを求めていくのかもしれない。
だって、心はいつも自分という孤独の中にあるのだから。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
最近腹が膨らんだ

といっても御腹の脂肪が増えたのではない

なんだか知らないが膨れたのである

御腹といっても胃の辺りが

そういえばゲップがよく出る

テレビのコマーシャルでやっている

逆流性食堂食道炎(といったかな?)・・・・・・?

それは食道癌だよと嫌なことを言われた

うううう。。。。。

でも今朝になりだいぶ膨張感がなくなった

しばらく様子をみよう

もしかしたらストレスが腹にたまったかな?
        (Am8:17)

昨日の朝日新聞の読書ページに紹介されていた3冊の本に興味を持った。
「偶然とは何か」(竹内 啓著)「確率論と私」(伊藤 清著)「量子の社会哲学」(大澤 真幸著)の3冊です。
社会は人自身が営む人と人との関係によって成り立ち、人は心という制御不能な行動を引き起こします。社会は偶然によって成り立っているようですし、偶然ならば心に沸き立つものを実現できる自由さがあるように見えます。しかし偶然とは何か、確率、そして量子の不思議な振る舞いによる不確定性がその人間社会にも働いているのではないかと以前にも書きましたが、この3書はの中身については興味を持ちます。
3冊を買いたいのですが。。。。。5000円ほどでしょうか?ううう・・・(笑)
ボーナスが出たら!!とは思うのですが・・・・
まぁ、本を買うかどうかは別にして、「偶然とは何か」の辻篤子さんの「結果としての運 世界の法則性は」という解説を読む中で、サイコロを振りそのでる目は数を振る中で6分の1になるという「大数の法則」が紹介されていて思うところがありました。
以下は紹介された本の中身や解説についての感想ではありません。
僕がサイコロを振る。例えば3がでたとしてこの3が出たということは偶然です。しかし1万回(「大数の法則」で何回以上振ればいいかはわからないのですが)サイコロを振ったとしたら、最初の一振りの3がでたことはまったくの偶然ではなくなて法則性の中にあったということです。同時に3が出たということは偶然ですがその偶然が重なることによって法則を貫徹するということでもあります。法則ならば偶然は必然性となります。
この偶然と必然性そして法則は、神の気まぐれという偶然や運命という定められた必然でもなく、または唯物論にたつのしても機械的に仕組まれたものでもない。確率という不確定性の中においての法則性ということでしょう。
上では僕一人がサイコロを振っていました。しかし人の社会では例えば1万人の人が一斉にサイコロを振るわけです。1が出る人、2が出る人。。。。と、なんら人間の関連がないところに偶然性が働きます。このとき、例えば政治や経済の場という限られた中においてのさいころの目の数をその目の数に応じて人が集まるとしたらそこにはじめて人の心や頭脳が働き始めます。3という目の数が出たという人が集まり人の心や頭脳が結集した社会という力になると政治や経済学の世界は3という方向に流れる。これは一見人の自由な行動として現れるわけですし、同時にそれは一つの偶然性の中にあるわけです。
しかし政治や経済の中には1というサイコロの目の人も居れば6という人もいる。しかし人の営みという社会は3という方向で動く。これも偶然性であり、不確定性の中にある。
政治や経済の世界の社会を引っ張る人々が1万人として社会は偶然性の中に現れるが、日本一つ観ても1億人の人々がいてやはり政治や経済に深くかかわるサイコロの一振りをするわけです。それは労働をし金を受け取り消費をし、偶然の中に嗜好も出てくる。1億人の偶然においてサイコロは一振りされる。その一振りは政治や経済に意図的にかかわるわけではないが。
1億人の一人一人に一振りは偶然性の中にあるが、1億人の一振り全体には一つの必然性の芽があり、その芽は毎日の一振りの繰り返しの中で法則性をはっきりとさせる。3という主張をした政治や経済にかかわり力のある人の集団がこの法則性の中に生き残れるか?
一人一人がサイコロを振るという偶然性や不確定性は政治や経済の中においてエントロピーのようにその法則は貫徹されそれは必然性となっていく。その結果は1から6の目が平均化されていくということである。ここに一つの政治や経済の流れが確定をする。もちろん人の社会だから確定されたからといってそれで運動をやめてしまうわけではない。一つの社会構造が確定をするということはその社会構造のの終焉であり死である。そこでもまた1億人はサイコロを振り続けるのである。新たな社会が動き始める。
それではこの毎日の人によるサイコロの一振りとは何か?それは矛盾に対する適応である。
腹が減って生存の危機を覚えれば食う。寝る喜怒哀楽がある。これらすべては矛盾の何らかの解決に要するものであり、サイコロは矛盾解決の原動力である。
社会がその政治や経済の中でエントロピーにより確定することは人間社会それ自体の終焉や死ではなく、社会の中にある矛盾の新たな解決に向かうための新たなサイコロの一振りである。
それは大きな社会変革期になる。
資本主義は封建制の矛盾を解決するために、というよりも封建制が成り立たなくなった一つの確定された社会の終焉と死の中にその矛盾解決のためのサイコロの新たな一振りだった。しかしまた資本主義もエントロピーといったようなものでその活動を確定しつつあり矛盾により活動停止あるいは1億人の人々にとってはその矛盾の解決の足枷になる。
資本主義らしくない資本主義というのが法則性になるだろう。この法則性を見抜いた理論を政治学や経済学の中で発見する人がこれまでに世界史に名を残した偉人の一人になれるだろう。偉人とは法則性を正しく理論化した人である。1億人の人々が振るサイコロの目という偶然性の中や不確定性の中に法則を見るということである。

【2011年】ツイッターつぶやき
所要があり仙台に行ってきました。
夜は牛タン専門の飲み屋さんへ。仙台市内はどこをどう歩いたか、まったく地理がわかりませんので飲み屋さんもどこにあったか。。。。。(笑)
牛タン焼きはもちろん牛タンを使ったいろいろな料理をおいしくいただきました。
もう少し飲みたいと2件目に入ったのが地酒をたくさん置いてある飲み屋さんへ。
そこでヨーグルト酒というのを飲みました。
まさに濃厚なヨーグルトの酒でした。飲むヨーグルトほどには甘くなくヨーグルトの酸味もほどほどで口当たりが良くて何杯でも飲めます。上にリンクしたページにあるようにアルコール同数が5%から6%ですからビール並みですね。飲みすぎると翌朝に頭痛が?と思ったのですが、度数が少ないので女性でも安心して飲めるかもしれません。
篤農なヨーグルトと日本酒のリキュールのようですね。でも常温では発酵が進むから注意とか。飲み屋さんで飲んだときは、店ではヨーグルトの中に日本酒か焼酎でも入れて出しているのかと思ったのですが、そうではなくてちゃんとした瓶で売られている酒でした。
ロックで飲みますが薄めずにぐびっと飲むのが良いようです。
酒屋さんへ行ってお土産に買ってこようと思ったのですが、飲み屋さんで飲んだヨーグルト酒がなのでこちらの酒を買ってきました。こちらはアルコール度数も高く、いろいろな添加物も?味はどうなんだろ?また行く機会があったら上のリンクのものを買いに行きたいです。
そういえば今はネットでも買えますからねぇ。。。。
東京では今まで見たことのない酒です。飲み屋さんにおいたら売れると思いますよ。ブレークするかも?

ツイッターを開いたら小宮山厚労相の発言への批判がたくさんあった。
本来は失業手当というのは無いほうがいいのです。少なくとも失業保険の支給は最短期間のものでなければならないはずです。このように書くと誤解をされると思いますが、失業というものはなくさなければならいものなのです。ですから国のすべきことは失業をすること自体を規制(首切りを企業の自由とはさせないとか)をしなければならないことと、失業した場合は短期間のこれまでの給与保証(失業手当)と雇用の確保ではないかと思います。
ですから大臣が被災地においても失業手当をいつまでも続けるのではなくて就労支援を行うということ自体は良いことだと思うのです。もちろん就労したら福島原発の作業だったでは困りますが、雇用と就労がかみ合わなければ被災地の復興も経済的な復興もあり得ません。そして労働者も長く失業手当に依存した生活は精神的にもよくはないということもあります。
もちろん以上のことは原則論です。
被災地は原発事故によりその復興が遅れに遅れています。経済のバランスが崩れてしまったように思います。農業も観光もそして企業活動も原発事故のためにこれまでの経済を支えてきたものが崩れてしまっているわけですから。この中に原則論としての失業手当の支給から就労支援に移行するというのは何の根拠もない原則論で終わってしまうのではないでしょうか?就労支援に移行する、ではその就労先は?失業手当を打ち切る前にこの就労に向けての何かしらの展望仮名けらばならないでしょう。特に東北はこれから長い冬に入ります。
具体的な就労支援の見通しがないままに失業保険を打ち切ることは相当な失業者の犠牲を伴うでしょう。
もちろん失業手当は失業保険という保険で支給されるものですから、これ自体を見ればやはりそうは長い間支給期間を延ばすこともできないでしょう。そこで復興財源とされている予算をどのように活用するかに関連した労働者の救済を考えなければならないのではないでしょうか?復興にはいろいろな企業も入ってくるでしょうがその企業だけが潤っていくとすれば東北の復興も表面的なものになってしまうでしょう。その予算が多くの労働者の雇用を生み出して生活のための賃金が保証されないと本来の復興にはつながらないでしょう。

【2012年】ツイッターつぶやき
江戸時代の小判はだいぶ純度の高い金貨だったようですが、幕末になって開国すると欧米列強は日本の金と列強の銀を交換したり粗悪な金貨で交換されたりしたようです。その中で損はしていられないので粗悪な小判をつくるようになる。当然幕末のインフレが現れたようです。
金が直接貨幣として流通するわけですからいくら粗悪な金貨をつくるといっても限度がありますし、そもそも幕府(国家)が所有する金の量にも限度があるわけですからインフレにも頭打ちがあったのではないでしょうか?
しかし現代は紙幣ですから一度インフレ政策がはじまれば限度がなくなるのではないでしょうか?
今の日本はデフレからの脱却あるいは円安をつくりだすためにインフレを政策的に行おうとしている。ひどい論理となるとインフレで国の借金も相対的に減らしてしまおうというものまである。
自民党安倍総裁が建設国債を国が発行させて日銀に買い取らせるとか、それを修正して一度市場に出してから日銀に買い取らせ2,3%のインフレを起こすといい政府などから批判が大きくなっています。日銀が貨幣をいっぱい刷って国債を買う資金は市場に流れるわけですから貨幣量が足りないと定義するデフレを改善してインフレに持ち込もうという論理でしょうか。
たしかに貨幣をいっぱい刷って市場に流せばインフレとなりますが、それは幕末の粗悪な金貨の発行と同じで、貨幣の価値量は変化しないで額面だけを高くするだけですから経済の改善がなければいつかはまたデフレ状態になります。そしてまた通貨量を多くするという悪循環です。
また、仮に2%のインフレが起きたとして、今の労使関係からして貨幣は企業に流れるだけで労働者にはそうは回らずに1%とします。どうでしょうか?労働者の購買力は現在よりまた大きく後退をします。するとさらにひどいデフレ傾向になるでしょう。そしてまた貨幣量によるインフレ策が以前にもまして大きくなる。
ハイパーインフレとデフレが同時に進行して日本経済は麻痺をしてしまうのではないでしょうか?国民生活はさらに貧困化をして企業などに蓄積された金はアメリカの国債や金融商品を買いあさる。健全な企業活動の利益は減ってますます金融資産重視の企業会計となる。粗悪なジャパンマネーが金融市場に流れてインフレ傾向が。国民生活の貧困化からのデフレと国債や金融市場などインフレが同時発生をして拡大をする。ある種のスタグフレーションの拡大ではないでしょうか?
最近は、デフレからの脱却を経済の立て直しからという言葉が少なくなり、国際的な自国通貨安競争という政策上での円安を求めることが重要視されて貨幣量の政策的な増加による政策インフレが多くいわれるようになっています。そしてこれを経済の再生として位置づけられる。これは危険でしょう。
なんだか逆立ちをした経済論理となっているのではないでしょうか?インフレは経済成長に伴う傾向です。経済成長の中で市場の取引が爆発的に拡大したときに需要が増大して物価が上がるわけです。そして貨幣量を増やしてインフレ。経済が落ち込んでいるときには、市場の貨幣量が不足しているわけではなくて貨幣はどこかに吹きだまっていて弱い労働者の懐が絶対的な貨幣量の不足となるわけです。この時にインフレを起こそうとして貨幣量を増やしても経済は落ち込んでいるわけですから当然労働者の懐の貨幣量は増えずに内需は落ち込む。ここでも貨幣量自体が増えてどこかに吹きだまるというインフレと労働者の懐の貨幣量から見たデフレが同時進行する。物価は下がり続けてデフレの定義通りになっていく。
今は、貨幣量を多くするという政策インフレではなくて、吹きだまっている貨幣を労働者の懐に戻す政策が必要なのです。国債はある種の吹き溜まりです。設備投資の見通しもないような金の使い道がない時に国債は良い投資先でしょう。金が吹きだまっているから国債を国内の資金で引き受けられる。年金積立金も予定通り団塊の世代が年金生活に入ったのだからそれを使うべきなのに使わないで運用されるばかりです。このようなものを見ても金は吹きだまっているのです。ましてやアメリカの国債まで大量に買い込んだり、海外の借金させたり。政策的にこのような金を国民生活に回すことで経済の立て直しとインフレ傾向が生まれるでしょう。

【2013年】ツイッターつぶやき
高齢化社会も本格的になり団塊も世代が年金生活に入っている。この中で年金制度も賦課方式になっていることから若い世代の負担増や国の財政も心配されている。その中で団塊の世代も含めて積立方式での年金制度で積立をしていたわけですが、その積立金をどのように今の年金制度で活用するのかの議論もない中、積立金の活用は投資へと向かう。
「公的年金の改革を議論する政府の有識者会議」はこれまで安全と言われていた国内債券への運用を減らしてリスク性資産への分散投資を提言(朝日新聞)した。年金積立金を管理する「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」に対して「運用のプロ」の採用などの組織改革と運用での投資対象を拡大するという。
よりリスクの高い運用を行うようになるわけですから損失は大きく積立金の減少にもつながります。しかし今のアベノミクスにおいては成長戦略が軸ですからその中に年金積立金も組み込まれるということでしょう。
しかし今は賦課方式になったとはいえこれまでの積み立て方式の中での年金資金ですから、いくら運用益を出すこと自体は合法的であっても成長戦略のために活用するとなれば運用目的からの逸脱でしょう。
今高齢化社会で年金制度の維持が困難になっているわけですから運用は最低限のリスクにとどめて積立金をどう活用するかが問われるわけです。若い人の負担を少なくして年金制度を維持するためにそして年金生活者の生活を維持するために使われるべきなのです。よりリスクの大会運用で利益が出て積立金が多くなってもその使い方がはっきりしているわけではありません。ただ単に投資のための資金となる。
最近ではこの投資利益が多くなったとも言われていますが、それがどのように年金制度の維持に使われるかと言えば何もない。利益が出て成長戦略の中でさらに利益を出すといったものとしてしか国民には伝わらない。ここに年金積立金の成長戦略への活用があるわけです。

【2014年】ツイッターつぶやき
今朝のツイートのまとめです。
失業手当とか生活保護というものはなくした方がいいのです。と言っても、何も僕が新自由種新自由主義に宗旨替えしたわけではありません。
失業手当とか生活保護をなくした方がよいというのは、失業というものや貧困というものをこの社会からなくせばよいということです。
失業や貧困がこの社会からなくせば失業や貧困という言葉自体がこの社会で死語となるでしょう。よって、失業手当や生活保護手当もなくなります。
保守政治の良心的な政策は、この失業手当を含めた失業対策と生活保護の充実を言う。保守政治の悪質な政策は、失業手当や生活保護は甘えであるあるいは財政がないと切り捨てたり切り下げたりをする。どちらも保守政治は失業や貧困を根本的になくす政策がない。
もちろんこの社会の現状においては失業手当や生活保護手当の充実を行う政策に反対をするわけではないし充実をさせなければならないと思う。ですからこのような政策を支持する。
しかし現在の経済のシステムから常に失業や低賃金化あるいは不安定雇用を拡大し生活保護受給者を拡大するもの自体を変える意思がなければ、失業手当や生活保護手当にも限界が来るだろうということである。保守政治はすでにこの限界を言い始めて切り下げを行いつつある。
しかしこの限界とは何か?
日本は世界第三位の経済大国である。その経済規模からして国民がどのくらいの平均した生活を送ることができるか?この可能な平均的な生活が行えない中に格差があるということである。
この格差は何も個々の国民の中にある格差だけではなくて、むしろ国・企業・国民総体での貨幣の回転の矛盾から引き起こされる中に存在をする。国・企業・国民のどこに富が集中されているかである。
富の集中はだぶつく金や金融市場という不労所得に集中する。企業の内部留保の問題も出ているし、銀行が貸出先に困る事態も出ている。この中でさらに日銀資金が流れ込む。これを否定しようということです。
この貨幣の回転の狂いを正すことにより国民の平均的な生活は向上するだろうし、労働時間の短縮や休日増の中でのワークシェアリングも可能になるでしょうし自由な働き方も可能でしょう。そしてその中で貧困もなくなるだろう。ここで初めて失業や貧困がなくなりそれは死語となるのである
経済学的には、国家・企業(付随して株式など)・国民生活への貨幣の回転をどう早めて高めるかですから簡単なのです。そこで相対的貧困をなくして経済の力に応じてどのくらい平均的な富を国民に配分できるかです。
しかしこの下部構造としての経済学的に今の社会矛盾を解決する方法は簡単なのですが、経済も人の営みとなって個々の国民や企業そして政治家や官僚の利益がぶつかり合いますからこの政治そして国民の利害関係という上部構造が生まれます。今の政治の流れです。
しかしこの国民間の利害関係から経済を動かせば現在のような経済矛盾も引き起こされますから、常に下部構造としての経済は上部構造の変更を求めます。
国民は自己の経済実態や労働実態を変更するのはこの経済矛盾を変更しようとすることであり、経済も人の営みですから変更は可能なのです。このためには徹底した民主主義、それは自由な言動が保障される中で可能です。ですから豊かな生活のためには自由や平等、民主主義を確立すること。
政治という上部構造の変化のためには民主主義を確立する(守る)こともその要求となるでしょう。
逆に言えば、この自由や民主主義を形骸化したりいらないものとする政治は経済矛盾を必ず引き起こすでしょう。
また、戦争は命の浪費です。その命の浪費は若い労働力を無駄にするということです。国家財政の無駄でもありますう。今のアメリカを見ればわかる。経済矛盾は戦争をも国民は否定する。ですから徹底した平和主義からの平和維持は必要最大限の国民的利益です。
いかに自由と民主主義を守り平和主義を貫けるかが上部構造としての政治のかなめです。それをもとに今経済不足が求めている経済システムを変えていかねばならないのです。そのために何を政治に対して選択をするのか?
日本には平和主義という理念が育っています。経済は世界最後の社会主義とも言われるようなものをかつては築きました。ここから日本は平和主義をもとにした経済的社会民主主義を世界に先立って作り上げる条件が唯一ある国です。。。。(以上終了)

安倍総理は21日会見を開き「アベノミクス解散」だと発言した。
安倍総理は「野党は『アベノミクスは失敗した』と批判ばかり繰り返している。私は今回の選挙戦を通じて、私たちの経済政策が『間違っているのか、正しいのか』、『本当に他に選択肢はあるのか』国民の皆さんに伺いたい」(上記リンクページより引用)と述べたという。
国民に問うとすれば、「アベノミクスで生活や労働が以前より楽になりましたか?豊かになりましたか」と問うべきでしょう。
消費増税10%を先送りしたということは8%への消費増税が正しくなかったということですから10%は中止をすべきなのですが、先送り後には景気条項をなくして何が何でも増税するというものです。
それまでに経済をどう発展させるかの青写真は明確なのだろうか?
たんなる期待ならば、ほかに選択肢はあるのかいう批判がそのまま安倍総理に帰ってくるでしょう。

【2015年】
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
種から育てたビオラがやっと花をつけ始めました。
今年は日照不足もあり育ちが遅かったのだと思いまうが、花たちも頑張ってやっと。。。。
種はいろいろな色の種がミックスされたものでしたからどんな色が咲くのかはわかりません。でもだいぶ花の芽が大きくなったものは色を確認できるようになりました。
一つは紫。一つは多分黄色。。。。
あとはどんな色になるんでしょう?
ペンタスは元気で次から次へと花を咲かせています。
あとは下部が広がり高さも出てくると花もにぎやかになると思います。
夏の花ニチニチソウの根を茎を10センチほど残して植えてあります。残った葉っぱは一度枯れてしまったのですが、太い茎から小さな葉っぱの芽が出ています。今日は良い天気。暖かい日の光の中その小さな葉っぱの芽が光っていました。
冬には冬の花壇の楽しみがありますね。

【2017年】ツイッターつぶやき
先日小ぶりなカブをもらったのでどうやって食べようかと考えました。味噌汁に入れるには数が多すぎます。
その時、独身時代お袋が正月と言えばナマスがわりに株カブの酢漬けを作っていました。
ふとその味を思い出したので酢漬けにしました。
カブはよく洗って頭と尻尾のヘタを取ります。皮は向かなくて剥かなくてもいいのですが、今回は早く浸かるようにと思い皮をむきました。
塩を振っても無用に塩をなじませます。
しばらくしてかすかにカブがしんなりしたら、割り箸を割って横に並べその上にカブを置きます。包丁で割り箸に届くほど切れ目を入れます。5ミリぐらいの間隔でしょうか。網目のように縦横に。カブが塩でしんなりしないとカブが割れてしまうことがあります。
タッパーに酢・砂糖・ほんの少し醤油・鷹の爪を入れてよくかき回します。今回はハチミツも入れてみました。これからは柚子の皮や千切りの昆布などを入れるとまた違った風味になると思います。
そこのカブを入れて冷蔵庫の中で2日ほどつけておきます。時々タッパーをゆすって巣を株になじませます。
美味しいですよ。。。。。
今年のおせちはナマスをやめてカブの酢漬けにしようかなぁ・・・・

【2018年】ツイッターつぶやき
今日は二十四節季の小雪です。
今年は北海道初雪が遅かったようですが、北国や山もちらほらと雪になってきますね。
東京も今日は木枯らし一号が吹くかもしれないと天気予報にありましたが、残念ながらというのか強い風は吹きませんでした。それでも夜になってだいぶ寒さが強くなりました。
わが家は早々と炬燵を出しました。こたつを出さないと寒くて昼寝ができません。。。。あははは
小雪は来月12月7日の大雪までを七十二候では三つに分けるそうです。
『・虹蔵不見(にじかくれてみえず)11月22日頃
陽の光も弱まり、虹を見かけなくなる頃。「蔵」には潜むという意味があります。
・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)11月27日頃
北風が木の葉を吹き払う頃。「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。
・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)12月2日頃
橘の実が黄色く色づき始める頃。常緑樹の橘は、永遠の象徴とされています。』
こちらのサイトより引用させていただきました。)
立冬から冬となりますが、冬らしさを感じ始めるのが小雪のころですね。
虹が見えなくなる。木立が裸になる。橘というのはよくわかりませんが本格的な冬の景色です。
俳句もこの初冬の景色をうまく描ければいいのですがなかなか俳句も浮かびません。初冬の景色を見つけることが大切なのかも。
ちょうど1カ月後が冬至ですが、この一カ月という日々が長く感じますし、日が短くなっていくということに心も暗くなります。
春までは長いですなぁ。。。。。
花を眺めながら冬を乗り越えます。

【2019年】ツイッターつぶやき
急に寒くなりこたつを出しました。
朝、娘にこたつでも出そうかと言ったら、「こたつと言ったら・・・・・こたつの上で食べたくなるものは?」と。何のことかわからずに「え?」と答えたら、「こたつの上で食べたのはキムチ鍋!」と。。。。。
なるほど、、、、、
ということで今夜はキムチ鍋でした。
キムチ鍋は横に置いておいて、キムチ鍋のしめは!!
以前にもブログに書きましたが、我が家は残ったスープでチーズリゾットが定番です。
残ったスープにご飯を入れて、その上の市販されている薄くスライスされた餅を乗せ、その上に先日お取り寄せした北海道の〇〇牧場のラクトチーズとモッツェレラチーズをのせてひと煮たち。
ラクトチーズは少し塩辛いですなぁ。でもキムチのスープとチーズの相性が良くておいしかったです。スライスの餅を入れることによりチーズの節約にもなりますが、リゾットがトロっとしてこれがまたうまいです。
ついでにこれから鍋が多くなりますがそのしめは。。。。。
しゃぶしゃぶ
市販されている「味覇」をお椀に入れてコショウ少々と刻みネギ。そこに残りのスープを入れておきます。さらに残りのスープで蒸しきし麺を温めてずるっと。。。。
水炊き
残りのスープにみそを入れてご飯を入れ、仕上げに溶き卵と長ネギのみじん切りをいれておじや。。。。。
みそ仕立て鍋
蒸しうどんと長ネギを入れてずるっと。。。。
すき焼き
残った肉のかけらや野菜を卵が残った器に入れてしめの猫まんま。。。。
鍋ではないですが、お好み焼きのしめは。。。。焼きそば。。。。
焼肉油の残った鉄板で焼き飯。。。。。
これから作る機会が増えます・・・・・

GSOMIA「協定終了を停止」日本は少なくとも輸出規制強化の理由を安全保障上の問題だとするものをまず撤回して、輸出規制強化を続けるならば、新たに輸出規制強化の理由を勧告に伝えるべきです。

【2020年】ツイッターつぶやき
埼玉県産のおいしそうなサトイモが出はじめています。スーパーで大きくてうまそうなサトイモを見つけましたので買ってきました。
どうやって食うかは考えずに買ってきてしまいいろいろと思い出しながら里芋の田楽にしました。
田楽味噌は、信州みそ・酒・砂糖・みりんでさっと煮詰めます。
里芋は皮のけばけばが取れるほどよく洗ってそのまま茹でます。今の旬な里芋は柔らかいので茹で時間も短いです。
少し冷めたらペロンと皮をむいて並べて先ほどの味噌をかけたら出来上がり。
小さく輪切りにしてもいいかなと思いましたが、柔らかい芋ですから箸で切りながらパクリと食うのもいいかなと思いました。

【2021年】ツイッターつぶやき
冷たい雨になりました。
ということで、今夜はこの冬初の鍋にしました。
キムチ鍋。。。。。。
お気に入りのモ〇ンボンのキムチ鍋のスープがなかったので他のメーカーのスープを使いました案外おいしかったです。
具材は豚バラ肉、白菜、大根、エノキ、マイタケ、結び糸こんにゃく、竹輪そしてキムチです。
美味しかったです。
我が家はキムチ鍋の時の〆はリゾットを作ります。
食べ終わった鍋の中の残りの具材をきれいにすくい出し、スープが濃すぎたら少し薄めます。
沸騰したらご飯を入れたら火を止めて、余熱でご飯を柔らかくします。
そこにトマトの薄切りととろけるチーズをのせオリーブオイルをたらします。あればバジルを乗せてもいいですね。
チーズが解けたら少しかき混ぜてから食べます。
水炊きの時の〆は味噌を入れたおじや。
しゃぶしゃぶの時の〆は味覇スープを使ったきしめん。
すき焼きの時は。。。。。。
鍋の底に残った具材と生卵をご飯に乗せて牛丼風(笑)

【2022年】ツイッターつぶやき
最近は敵基地攻撃能力が強調され、先制攻撃もあり得ることが議論されてきた。
敵基地を攻撃するのは、何も日本が攻撃される場合とは限らない。最近アメリカ本土に届く北朝鮮のICBMが打ち上げられたと報道されているが、日米安保の同盟関係としては日本からの攻撃でこれを打ち落とすことが置きそうです。そして打ち上げをする北朝鮮の基地を攻撃することになるかもしれません。
この敵基地を攻撃するためのミサイルなどを豊富に所持するために防衛費増が検討されそのための増税が検討されはじめました。
国債ではなくそして消費増税ではない「幅広い税目」において増税を行うと。
具体的にはどのようなところが増税されるかは今のところわかりませんが、国民生活に影響がある所が増税されるでしょう。
専守防衛から逸脱した戦争ができる国になるとともにその戦費(防衛費)のための増税。

【2023年】ツイッターつぶやき
何チャンネルだったか、夜10時から始まった番組が終わるかなという瞬間、不気味な男の声で「北朝鮮からミサイルが発射されました」というような言葉を繰り返し、繰り返し流し始めた。
沖縄では混乱もあったようですが、沖縄に対してのJアラートが東京でも流れてしまったのでしょうか、他のチャンネルは臨時ニュースのように報道していたけど。
北朝鮮は、偵察衛星を打ち上げると言っていましたしなぜロケットをミサイルとしてしまったのか。たしかに1時間ほど早く打ち上げたということですが、日本の監視システムではロケット化ミサイルかの区別ができないのでしょうか。今夜韓国の国防省はロケットであり衛星は軌道に乗ったと報じています。これを日本でのニュースとして流している。
こうした国が敵基地攻撃能力を持つという。
これがアジアの国々にとっては脅威となるでしょう。
コメント
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