夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「9月17日という日」

2024年09月17日 08時03分19秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

≪過去の記事≫

【2003年】
(記事なし)

【2004年】
(記事なし)

【2005年】
朝晩は涼しくなりました。風邪に注意したいと思います。ヘソを出して寝ていると大変です。東の空に大きな月が出ていました。明日は中秋ですなぁ。。。
テレビ番組「笑っていいとも」の中で、おもしろ携帯メールを紹介するコーナーがありましたが、今日のテレビでも携帯メールでしょうが、ちらっと「誤変換大賞」というようなものをやっていました。「地区陸上大会」を「チクリ苦情大会」とか。。。。
思わず笑ってしまいましたが、しかし笑い事ではない。。。。
僕のHPや掲示板での書き込みもそうとうなもんで誤変換はもちろん、誤字や打ち込み間違いの意味不明なものが相当数ある。数においては「誤変換大賞」がとれそうです。どうもキーボードをたたくときは一括変換をしないと文章が続かなくなります。そのへんでも誤字等が多いのかもしれませんがどうもそそっかしいですし、漢字を知らな過ぎる。。。
たぶん見当違いなことも書いたりしていることでしょう。
恥をネットで撒き散らしているようなもんです。
でもまぁ、こういう状態が今の僕なので仕方ないです。

【2006年】
おもしろいサイトを見つけた。
      「WEB 本の雑誌」
本の情報も多いし、本屋さんの店員の方や一般のいろいろな方の感想も読める。まだ新しいサイト?
本を検索していると、本屋さんのサイトが必ずあり、そこでも本の感想を読める。こういう有名なサイトすぐに検索から出てくるが、今回のサイトは初めてだった。時々のぞいてみようと思います。
そういえば、ブログというのはすごいものですね。。。検索をしていてもホームページよりもブログのサイトのほうが多いように感じてしまいます。

【2007年】
気温34度。。。
真夏の暑さでした。
敬老の日。。。。
昔懐かしい歌手がゲストで来るというので親父は敬老の日の集まりに言ったらしい。ところが、お袋から電話があり、役所の職員から変な電話があったと僕のところへ電話が来た。どこが変なのかと聞いたら、耳が遠くて何を言っているのかわからないから変な電話だということらしい(笑)
僕も変な電話というので振り込め詐欺のようなものかと心配しました。
とりあえず親父が帰るまでは何も出来ないので待つことにしたのですが、夕方親父から電話がありました。
敬老の日に集まりに行ったらお土産の袋をもらったそうで、その中においしいお茶のようなボトルがあり、それを口にしてしまったそうです。役所の職員は青い顔をして自宅に電話をしたらしい。
一時は大騒ぎなったようですが、親父本人は、口をゆすいだら泡がでてきたよぅ。。。と、いたってのんきである。
まぁ、笑い話で終わってよかった。。。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
朝日新聞朝刊の14,15面に鉢呂前大臣の「死の町」「放射能をつけちゃうぞ」発言をどう見るかを掘り下げた記事が3氏によって書かれている。大臣が辞任をする程の発言であったとされる報道があったわけですが、大臣が辞めたで終わるのではなくて政治家の言葉の重みそして福島県民の方の思いを総括しながらの記事は評価されるべきでしょう。
死の町とは、あの大きな地震でも多くの建物は崩壊しなかったのに原発事故による放射能のために人が住むには適さない環境におかれた町のことである。人がその町に一人もいない。建物は事故前の状態を残したっているし人工の町はそこに存在をする。死の町と言って何ら失言ではない。その町に早く帰りたいという福島の方の心にある悲しみと死の町と化した街が相対をしている。福島の方の悲しみがあるからこそ死の町は象徴的なのである。
単なる言葉の失言かどうかだけを評論するのではなく、死の町の存在と言葉、そこに心が残る県民の方の悲しみこれを対立的にとらえていけば単に言葉には気をつけようというものになっていまう。死の町を作りだし県民の方の悲しみを作りだしたものが何かをはっきりとさせるべきでしょう。朝日新聞の記事にはこの視点がないような気がします。死の町の実態と県民の悲しみは、原発への反省をそして怒りを見つめることに集約をしなければ次が見えてこないでしょう。
次が見えてこない中に言葉の一人歩きがある。多くの場合は言葉は現在を破壊するだけのものになってしまう。小泉政権での「ぶっ壊す」「個人責任」はその典型でしょう。また民主党の官僚の排除の言葉も同じものだったでしょう。この意味において言葉の危うさがあり失言ではないように見えても実は社会に大きな影響を及ぼす言葉がある。この言葉のもつ本質的なものを「考えずに」インパクト性だけをとらえて騒ぐことは愚の骨頂で、ナショナリズムにもつながる。言葉の本質を見ないと感情面から見た言葉の失言性には敏感になるが、本質的な社会への影響のある大きな失言に気が付かないことになる。
朝日新聞の総括的な記事はいろいろと考えさせてくれるものがあると思います。

【2012年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2013年】ツイッターつぶやき
ここに洋服と鍋があり物々交換をしようとする者同士がそれを交換しようとしている。この時洋服と鍋という両商品は「使用価値」が違うもの同士である。そして洋服1着と鍋1個の交換はできないでしょう。使用価値が全く違うもの同士がなぜ物々交換において交換しうるのか。そこには交換するための「価値」が存在をして洋服の価値と鍋の価値の交換となるから物々交換は成立しうるのである。たとえば洋服1着と鍋5個が価値として一致するなら交換がされるのである。
資本主義は複雑な分業の中において物々交換をしている暇はない。そこには通貨が介在する。洋服1着が1万円なら2千円の鍋なら5個と。複雑な市場の中においても基本は価値と価値との交換なのです。
そこでこの価値はどのようにして決められるか?
洋服をつくる人は1日に1着つくれるとする。鍋をつくる人は1日に5個作れるとする。もちろんその1日とはある一定の同じ労働時間とする。それを8時間とすれば、洋服1着=8時間の労働量=鍋5個という式が成り立つ。もちろんあらゆる商品の有用性は人の労働で製造されるわけですから商品の中に含まれる一致する価値の属性は労働しかないわけです。
もちろんその一定時間の労働には密度などがあります。怠け者の裁縫職人が2日(20時間)かけて1着洋服をつくるからと言ってその洋服の価値が2倍になるということはありません。裁縫職人は市場の中にたくさんいるわけですからその労働密度はその平均値となるでしょう。怠け者の裁縫職人は2日かけて洋服1着をつくっても鍋5個とでしか交換できないわけです。
ですから価値はあらゆる労働生産物の商品の交換価値となります。
一方では商品には交換価値と同時に有用性があるわけで、洋服なら着ることにより体を温めるとかおしゃれになるとかという有用性があり、鍋には煮炊きするための有用性がある。それが使用価値となります。使用価値には人の欲望を満足させる作用があるわけですからその交換は価値から離れることがある。価値は価値同士で交換されるのですが、使用価値での交換は価値から乖離して貨幣経済においては価格を形成します。そこに需給関係においての価格の変動が現れます。商品の価格は需要と供給によって決まるというのもそうでしょう。
需要が多い(有用性が高い)ならば価格は上がり、同時にそこには供給が少ないという条件が加わります。供給が多いならば価格は下がり、そこに需要が少ないという条件も加わります。この調整を行うのが市場でしょう。市場のこの調整により商品の価格は一定の価格となりその価格は価値に引きつけられて価格=価値となるでしょう。もちろん複雑な商品市場ですから価格=価値に落ち着くことがないほどに商品はあふれ出ます。しかし価格は価値に引きつけられるという法則性そのものは常に働いているといえるわけです。
ある有用性の高い商品が価値を異常に上回るような価格で市場にあったとしても競争相手が同じような有用性のものを市場に供給するでしょう。その中で価格は下がっていく。そして価値に一致するようになる。ここにおいて市場においても労働により生産されたあらゆる商品は価値法則の中にあるということがわかります。
資本主義的競争は、有用性の高い商品が価値を異常に上回るような価格で市場に送ることにあります。しかしその価格も価値に一致するように価格は下がっていきます。あらゆる商品にこのような現象が起きるとき、その市場には活気がなくなり経済の停滞と見える現象が起きます。ものの値段が(物価が)下がり続ける!と。これがある意味デフレの始まりのように映る。
同時に有用性の高い商品が価値を異常に上回るような価格で市場に送ることのもう一つの一面が生産性の向上によりより少ない労働力量でより多くの商品を市場に送るというもう一つの資本主義的競争の側面が現れます。より少ない労働力量でより多くの商品を生産するわけですから上の労働価値説に従えば一つの商品の価値は低下していきます。これが本源的な商品の価値低下なのです。ここでの低下した価値に有用性の高い商品が価値を異常に上回るような価格で市場に送ることによる価格=価値の法則が加わりますから価格の下がり方はそうとう激しいものとなるでしょう。更にものの値段が(物価が)下がり続ける!という実感が強くなる。
この時に特に日本が何を行ったかと言えば、労働賃金コストの節約です。初めは雇用者を減らして(失業の増加)行くという方向でしたが、さらにこの失業者の増加を利用して全体的な賃金の引き下げを行って企業利益や競争力を守ろうとしました。これが何を意味するかと言えば、労働力の価値も商品の価値と同じように決まっているのですが、この価値法則を無視したほどに価値以下に労働力商品の価格を引き下げたのです。ここに需要のバランスは当然狂っていき相対的な意味でも商品過剰が起きます。その相対的な商品過剰は供給を減らします。経済法則を無視した労働力商品の価値低下があらゆる経済法則を狂わせます。
ここにおいて初めてものの値段が(物価が)下がり続ける!というデフレが現れる。
デフレとはものの値段が(物価が)下がり続けるということだけではなくて経済法則そのものが破壊された景気の低迷なのです。価値法則の破壊なのです。

【2014年】ツイッターつぶやき
インフレとは、まず経済成長という発展があるときにそれに付随して起きてしまう一つの経済矛盾です。たしかに経済成長の中でこのインフレが起きてしまうのですが、しかしインフレが起きれば経済成長が起きるかといえば間違いでしょう。この間違いであることから今の悪性の物価高は疑似インフレといってもよいと思う。
アベノミクスや日銀の異次元緩和はインフレをまず起こしてそれが経済成長につながるといった逆立ちをした経済論理で出来上がっている。それはデフレからの脱却だという論理も付随する。
ここにきてインフレは起きるが経済成長はそうも起きていないという分析が多くなってきた。特にこの経済成長のためには消費増税が必要だという論理も加わっている中で経済成長は逆にマイナスに転嫁し始めている。
疑似インフレは経済成長を起こさないのではないか。
政策的な円安は輸入大国でもある日本ですから輸入品の値上がりという形を取らざるを得ない。輸入品の値上がりは国民生活を低下させる。疑似インフレで多少の名目賃上げがあっても実質気には賃下げとなる。企業の設備投資代も疑似インフレの中で値上がりをしていく。輸出する商品も疑似インフレの中で値上がりをする。
アメリカ人にとっては日本の国内の政策的な円安での物価がどうであろうと円高当時の80円という商品が疑似インフレで110円になっても1ドルで買えるわけです。
ここでは日本の輸出産業にとっての競争力に何の変化もない。
輸出が伸びない中で貿易収支が赤字になっているが、輸入品は高くなるが輸出が伸びないというのも、海外生産の増加というだけではなくて、この国内の疑似インフレでのマイナス面が大きくなる中で輸出品も値上げせざるを得ない中での競争力の低下にあるのではないか?これまでも円安の容認できる水準を102円とか105円とか言われていたが、まさにこのボーダーラインは輸出産業の競争力の低下に移る商品価格の国内での値上がりにもあるわけです。
全国の日用品価格を集計した日経・東大日次物価指数が下落基調にあると指摘し、1992年1月のバブル経済崩壊時と似ていると警戒。「2012年に底を打った日本経済は、今年1月にピークを付けた公算が大きい」との見方を示した。(ロイター「株価上昇には金融緩和、500兆円目指せ」より引用)
日本は経済成長もない中での疑似インフレがバブルとして破裂しつつあるのかもしれない。
円安によって国内生産コストが高まり競争力が落ちた時、最近では更なる生産性の向上の必要性が言われはじめている。さきほど「アメリカ人にとっては日本の国内の政策的な円安での物価がどうであろうと円高当時の80円という商品が疑似インフレで110円になっても1ドルで買えるわけです。
」と書いたが110円になった商品価格を生産性の向上により80円にして110円で売ろうということです。しかしこれが何を意味するかといえば、商品価値を下げようということです。価値低下を起こした商品は商品市場において価格の下落傾向となるでしょう。すると国内市場においても80円で売られるようになる。アベノミクス・日銀からすればデフレの再来ではないか。。。。。それもまたその生産性の向上を誤った解釈で賃金コストの節約(賃下げ)を行うならばそのデフレ傾向はさらに加速するでしょう。これまでの疑似インフレはバブルとして破裂するだろう。

【2015年】ツイッターつぶやき
以下、ツイッターからの転載です。
今からでも間に合うんだけど、公明党は今後どうするんだろ?浮草のように漂うのか。。。。与党(自公)という海で。
公明党の綱領を読んでいます。
この綱領と戦後レジームを掲げる安倍政権のこれまでの政策と一致するものなのでしょうか?公明党の中心的哲学である「人間主義=中道」と一致をするのでしょうか?
<生命・生活・生存>を何よりも第一と考えて政策をたて実行するのが人間主義=中道でしょう。これが綱領の柱でしょう。
安倍政権の戦後レジームからの脱却は、アベノミクスという経済政策と積極的平和主義という平和主義にかわる平和を維持することの政策の中身にあります。
アベノミクス問経済政策が国民の<生命・生活・生存>の条件を向上させたものだったのでしょうか?安倍政権発足から国民に期待を持たせたことは確かですが、そのつくられた期待を国民が求めるような実際の経済の動きとなり<生命・生活・生存>を向上させたのでしょうか?
たしかに株価は上がり企業や富裕層の利益を拡大したことは確かです。しかしその株価や利益は貨幣価値の低下からの額面上の変化でしかなく実体経済を改善したものではありません。これらの反作用としての悪性の物価高が国民の<生命・生活・生存>を後退をさせたのではないでしょうか。
「政治の使命は、生きとし生ける人間が、人間らしく生きる権利、つまり人権の保障と拡大のためにこそあります」(綱領からの引用)人権の保障には経済的に安定したものが保障をされなければなりません。その上に立って平等に全国民は文化的な生活を営むことができます。
人権の保障と拡大がこの間の安倍政権の中でどのくらい達成されたのでしょうか?経済面から見ても悪性の物価高が国民の<生命・生活・生存>を後退をさせ人権保障の後退は人間の尊厳の後退にまで貧困層を増加させている。子供の貧困はどうでしょうか。社会保障の貧困化は進んでいます。
派遣法の改悪は今以上に不安定雇用と賃下げを促すでしょう。ブラック企業といわれる企業が普通となり若い方の離職が進み、輝く女性という言葉の裏として女性の継続した雇用は望めずにそれは今後も女性労働者の生涯賃金を上げることはないでしょう。高齢者には賃金は半分で同じ労働が。
人間主義=中道としての公明党の役割が今の安倍政権の中で果たしてきたか、今後も果たせる条件があるのかが問われるのではないでしょうか。ここを見分ける岐路に今公明党はあるのではないでしょうか。国民の<生命・生活・生存>の維持と向上そして保障のために。
「経済力や国際的地位にふさわしい「世界の中の日本」の役割を果たすことが求められています。」(綱領より引用)この国際貢献での平和に対するものが安倍内閣での積極的平和主義なのでしょうか?
積極的平和主義とは、今数の力で成立しようとしている安保法案であり、それはアメリカが行っている戦争を支援氏より積極的に参加をすることです。テロが多くの市民を犠牲にする。しかしアメリカの戦争も多くの市民を犠牲にする。この戦争を認めることが人間主義=中道なのでしょうか。
多くの他国市民も日本の市民も犠牲となりかねない戦争の支援が国民の<生命・生活・生存>の維持と向上そして保障とつながるのでしょうか?集団的自衛権が国民の<生命・生活・生存>の維持と向上そして保障につながるのでしょうか?
安倍内閣のアベノミクスという経済性格や積極的平和主義に、自民党の暴走を食い止める役割が公明党にありそれが与党にいる存在価値と言われますが、そのために人間主義=中道すなわち国民の<生命・生活・生存>の維持と向上そして保障が忘れ去られてはその党の存在価値は薄れてしまう
自公支持者の中も混沌としてくるでしょうね。。。経済問題と安保法案がセットとして国民は突きつけられています。

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
法事でした。
お経を聞いていても昔本で読んだお経の本能すら覚えののうすら覚えの教えしかわかりません。亡くなった人の供養や家族親族の安全と繁栄の祈願のところは少しはわかりました。
自分だけなのかもわかりませんが、なんとなく一般人は宗教から離れた宗教行事に身を置くことでの安心感を得ることに意義を見ているのかもしれません。
死ねば仏教、結婚式はキリスト教、初詣は神社。。。
日本人が持つ宗教観には、仏教でもキリスト教でも神道でもこれを含めた八百万の神々を受け入れるものがあるのかもしれません。どのような宗教でもその場にいたら信仰心ではないにしても厳かな気持ちを持つことができる。
同時にどの宗教でも現世利益を求めて祈ることができる。
もちろんその願いには様々な心の段階があるのでしょうが。
極端なまでの宗教の大衆化が日本にはあるのかもしれません。
日本人は多神教だとされます。いろいろな宗教を受け入れるという意味だけではなくて、自然神というのでしょうか、生活や自然の隅々にまでそこには神が存在する。便所に入っても便所の神がいる。
古事記や日本書紀と言えどもこの自然信仰による八百万の神々の誕生がある。
八百万の神々に祈ること、それは五穀豊穣を中心に商売繁盛にまでその祈りはつながる。病気平癒、交通安全、縁結び。。。。
八百万の神々を信仰すること、ここには現世利益が必ず結びつくのかもしれません。
そういえば、日本の宗教は多くの「人」をも神にしますね。仏教でも死ねば仏になるというのもあったと思います。心が人の怨念を和らげるためにも神に祭り建てる。生きる人々にとっての究極の現世利益です。
八百万の神々が存在する裏には八百万の呪いや怨念や妖怪も存在する。
この日本人が持つ八百万の神々への信仰は漠然としていますが、それが良いのか悪いのかと言えば簡単に答えられないものと思います。
しかし日本人の心の奥深くに存在する思考方法にも大きな影響を持たせているのでしょう。
平和主義も、国家主義も。。。。混然としてあらわれる。「和」と非道さが混然と現れる。。。。
それを自然に受け入れてしまう。
あまり考えないほうが良いともなる。。。。。

【2018年】ツイッターつぶやき
技能実習という名目で外国人の労働者が日本で働いてきた。
朝日新聞に残業代は300円 向上工場を逃げ出した外国人実習生という記事がある。
その労働実態は過酷です。
「月曜から日曜までほとんど休みなく、朝8時半から深夜まで、ミシンやアイロンをかけさせられていた。長時間残業しても、残業代は満足に出ない」
「基本給は月6万円。残業代は時給で1年目300円、2年目400円、3年目500円だった。」
(以上リンクサイトより引用)
もちろん外国人労働者も実習生という名目は知っていて日本で稼ぐことを目的ともしているでしょう。もちろん多くの外国人労働者の中には日本の技術も学んでいる方たちも多いとは思いますが。
しかし本国に仕送りをするにも日本で生活をしながらの仕送りですから相当厳しい生活となるでしょう。
これから外国人労働者の受け入れが多くなるようですが、その労働実態や社会保障はどうなるのでしょうか?
このような外国人労働者を見て日本の労働者がどのような認識に立つのか?
労働者は自分よりも条件の悪い労働者を見て、まだ自分の方がいいとか、ヘイト的な視線を向ける人もいるでしょう。
しかし長時間労働低賃金の外国人労働者が増えることにより日本の労働者の労働時間も賃金額もその条件は向上しなくなるでしょう。長時間労働、低賃金労働の競争が始まります。
今労働力人口が減少してきて賃金が上がる情勢となっています。この賃上げ傾向はアベノミクスの成果の分配ではなくて労働力の減少による需給関係です。この賃上げ傾向を抑えるために外国人労働者の受け入れのひとつの意義があるわけです。
日本の労働者は外国人労働者の労働条件を日本人並みにしろという意識が必要です。
かといって外国人労働者排除に走ってはいけないでしょう。すでにヨーロッパでは移民も含めて外国人労働者排除に動く人々が出ています。
外国人労働者を排除することも間違いです。外国人労働者は日本社会において多くの富とサービスを作り出します。それは日本人の生活をその分豊かにします。
労働が富やサービスを作り出すことを見つめながら、働く人々の生活を豊かにしなくてはいけませんね。道徳の問題ではなくて経済の問題でもあり社会の問題です。

【2019年】ツイッターつぶやき
極小ニチニチソウのフェアリースターがだいぶ伸びてしまい、気温も朝夕は涼しくなってきましたので新芽を残して切り簿年切り戻しをしました。
去年の夏に買ってきて冬は出窓で育てましたら冬を越しました。
今年も寒さを感じ始める10月には出窓の移したいと思います。
出窓といっても夜はだいぶ冷え込みますが、このくらいの寒さならどうにか耐えられるようです。
5月まで6か月間、暖かい日には少し日光浴をさせて出窓で冬眠です。
初夏になったら一回り大きな鉢に植え替えてあげようと思います。

【2020年ツイッターつぶやき
以下ツイッターから
菅内閣に期待?
具体的な政策は何もなく、唯一安倍政権の続きだけ。しかしそれも尻拭いという感じです。
マスコミはどうにか話題作りをと思っているのでしょうが、やはりパッとしないですね。
野党は国民の心をつかむ政策をわかりやすく示せば支持は広がるでしょう。
縦割り110番を作るっていうけど、つくるのは簡単でしょうが、現実に横割り行政を実施するのは簡単ではない。
結局できもしない中身なのです。
国民を大切にする政策は、国民が思い描くような国民のなたの政策ではなくて、自民党菅さんが思い描く国民のための政策です。
それが安倍政権の政策の継承です。
国民と言ってもすべての人ですね。そのすべての国民の中で大切にされる国民は安倍政権ではっきり見せていただいています。
その国民を大切にするという中身において、自民党菅内閣の考え方は、防衛人出て敵基地攻撃能力です。
その他国民生活から遊離した国民のための政策(政治)が進められるでしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
パソコンの調子が悪い。。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
日本はつい最近までデフレからの脱却をとして「物価の安定」を言ってきた。それが2%のインフレ目標でした。
しかしヨーロッパでは最近のインフレにより物価上昇を抑えるために「物価安定は根本的で最も重要」と言いだしている。
先進国ではどこもインフレ政策を行ってきたはずです。
デフレで物価が下がり続ければ物価の安定が言われ、インフレになればやはり物価の安定が言われる。これは、ほんの数年のうちに起きた変化です。
結局金融政策の失敗か、あるいは金融政策による経済対策が間違いだったのか。
日本は未だにデフレによる物価の安定策が続いているようです。しかし10月からは15%ほどの値上げが続きます。生活必需品の物価上昇を見ないで2%がどうのとみていればいつまでたってもデフレからの物価の安定も言われ続けるでしょう。
先進国は経済の縮小に入っていきます。

【2023年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

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