夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「9月 6日という日」

2024年09月06日 08時01分33秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

≪過去の記事≫

(2003年)
体のだるさと微熱治らず。
医者に行ってきました。胃腸が弱っているということで、薬はもらったのですが、一応念のために肝臓検査のために採血もしました。
いつもの町の医者なのですが、行きつけの医者はやはりいいですね。。。。あまりお友達にはなりたくないけど(笑)
この医者は小児科も一緒なのですが、だいぶ前診てもらっているとき、「はい・・・ア~ンしてぇ・・・」と小さな子供にいうようにいわれたのは参りました。先生も恥ずかしそうに苦笑い(笑)

【2004年】
浅間山が噴火をし、東海沖では地震。
なんか怖いですね。
台風もよく来ますし、自然の怖さを実感します。
自然は人に安らぎを与えてくれますが、恐怖も与える。
天気がはっきりしません。台風がまた日本海方面に抜けそうですが、関東もまた2,3日荒れるかもしれません。
今年の夏は猛暑でしたが、妻が「今年の夏は、ほんと短く感じた」といっていました。残暑らしさもありませんし秋を早く感じますね。

「群青の夜の羽毛布」 山本 文緒  著
さとるは、妹みつるとしつけの厳しい母親との3人暮らしか。父親はいないが幸せに暮らす母娘がいる。
しかしこの作品の冒頭には、カウンセリングを受けて話をしている男がいる。
家事を行うさとるは鉄男という恋人と出会い、家族にも紹介をすることになる。鉄男は家族に温かく迎えられる。ここにも幸せそうな母娘の姿がある。
しかしはじめの章の終わりには、紹介した鉄男をか、門限に遅れなかったことに帰ってから母親や妹に「合格?」と明るく聞くがその返事は冷たく無い。
カウンセリングを受ける謎の男、幸せそうな中にある冷たさ。読者は「あれ?」と思う。
この作品は、サスペンス調に書かれていますのであらすじなどは控えたほうがいいと思いますが、読み続けるうちに読者の「あれ?」というものが明らかになっていく。
父親がやっとの思いで購入した「家族の幸せ」の象徴とも言える家は、バスの弁も無いあえぎながら坂道を登った高台にある。さとるは、重い買い物袋を持って息を切らせながら登っていく。恋人鉄男はこの坂にたじろぎ車でないとさとるの家に訪問できない。きついこの坂道の風景は何度となく現れ、「家族の幸せ」という家に帰る人々はあえぎながら帰っていく。この風景こそがまたこの作品を象徴しているのではないか。
次第にこのあえぎの声が大きく聞こえてくる。「家族の幸せ」を守ることにそれぞれの人々はあえいでいる。本来は家族の安らぎの場である家は、あえぎながら上らなければならない所にあり、それと同じようにそれぞれの人々は、本来安らぎのあるはずの家族を守るためにあえいでいる。
それでもこの家族には幸せなときがあった。父親が運転をする車で家族で行った海。そして何よりも父親が課長に昇進をしてやっと買い求めた家。しかしどこでどう間違ってしまったのか。この幸せはもろくも崩れる。家族はお互いに依存しながら生きているが、そのことは当たり前のことである。この依存し合うことはひとつの家族への期待でもある。母親は父親への家を持つことへに依存・期待があり、頭のよい娘のへの期待がある。そしてしっかりとした職業に就くことにより「結婚をしなくてもよい女」という自分にできなかったことを娘にある意味では依存する。母親がこの自身の依存・期待を裏切られる中にヒステリックになり、家庭の中での冷たさが表れているように読める。
父親は、片道2時間の通勤の末にあえぎながら坂道を登って帰宅をする。そこには妻の優しさを求めただろう。それが男の妻への依存・期待である。悟ると恋人鉄男のせいの描写が描かれているが、この鉄男は、ある意味では若き日の父親の象徴かもしれない。鉄男は母親とも一晩を過ごしてしまうが、なぜあのようになったかがわからない。ここに男の甘えたいというようなものが見られ、父親の妻への依存・期待が見える。何も性だけではないが、安らぎをを求める。
娘は、「好きなお父さん」に依存・期待をし、優しい母親に依存・期待する。カウンセリングを受ける謎の男は言う。「でも、もっと底なしの井戸みたいな感じです。喪失感?ああ、それに近いかな」
これらのそれぞれの家族が依存・期待を裏切られていく。もちろん誰が悪いという問題ではなく歯車が狂っていくのである。この中でそれどれが疲れきっていく。
この家族は、最後に修羅場を迎える。
修羅場という最後の大きな波が引いたときに何か温かさを感じる。
この暖かさは、
「帰ろう。
 けれど、どこへ。
 どこへ帰ろうか。
 家に。家族の待つ、自分の家に。」
というさとるの言葉にある。
この言葉は、最後の修羅場を迎える前のさとるの言葉であるが、僕の読後感として残る言葉はこの言葉でした。
しかしこの帰る家に幸福が必ずあるとは読めない。未来への新たな不安を抱えたままでの一瞬の静けさかもしれない。

【2005年】
アメリカのハリケーン「カトリーナ」のニュースを関心深く見ていた。
ニュースの画面を見ていると、そこに映るのは黒人ばかりで白人はほとんど見ない。たしかにニューオリンズといえば、黒人文化のジャズを生んだ地であり、黒人が多いのもうなずけるが、これがアメリカの地であるのか?と思いながら見ていた。
1週間が過ぎてその惨状が徐々に明らかになってきているが、同時にこの災害を見る視点も情報として流れはじめている。
ニューオリンズはゼロメートル地帯であり、堤防施設が重要らしい。その補強が必要と言われながらも補強はされなかったという。理由は財政面からとも。
そして貧しい人々がたくさん居住しているらしい。
救援の遅れについては、犯罪の増加という理由もあるようだが、人種差別もあるとか。。。。
このようなことがニュースなどで流されているが、一方的な見方も強いだろうし、ある程度の事実をも反映しているだろう。その中で言えることは、アメリカの貧富の格差が拡大しており、ハリケーンのような自然災害であってもこの貧富の格差の中に被害の格差も存在するのではないかということである。
貧しい国々においての自然災害は悲惨さを示すが、豊かな国といわれる国の中においても貧しい階層の人々は悲惨な状況におかれることがあるのではないか?
こうみると、豊かさというものが何かと問われるような気がする。
豊かな国の国民あるいは市民。。。しかしこの「国民」「市民」というものの中には、貧富の差がある。その中で国は「国民のため」「市民のため」に動くのだが、場合によっては、「どの階層の国民のため」か、「どの階層の市民のため」かが問題になってくることがある。
そこに国で言えば財政という金の問題が出てくる。同時にそれは必然的に具体的な政策に現れる。
これが自然災害に対しての安全の格差拡大にも、国の中の貧富の拡大というものにもなって現れる。国民あるいは市民個人個人の競争力だけではないのである。

【2006年】
郡上八幡で買った味噌で毎日味噌汁を作っています。
今はあまり塩辛い味噌というものが少ないのですが、この味噌はかなり塩辛い。少し薄めに作って味としてはちょうどよいほどです。でも、味噌の風味が物足りないので多く入れてしまう。しかし。。。美味い。
郵送で送ってもらおうかと思ってます。
久しぶりの雨。買いものにいったら帰りに降られてしまいました。小雨だったのでそうはぬれなかったので助かりました。少し肌寒さも環いる雨。。。一雨ごとに秋が深まり、夏の残像が消えていくのでしょう。しっとりとした空気。。。気持ちが良いです。

「風に舞いあがるビニールシート」 森 絵都 著
<2006年上半期直木賞受賞作>
表題作の「風に舞いあがるビニールシート」を含め、六つの短編からなる短編集です。先に読んだ篠田説子さんの短編集「レクイエム」にあとがきにある
「作品を1作ごとに気分を変えつつ読まれ、全体のテーマを感じとっていただければ、たいへんにうれしい。」
という意味において、この作品も短編集の一つの表現方式に沿った短編集であると思う。
一つひとつの短編がテーマ的には複雑なところで絡み合いながら進むが、最後に全体的な感想の中に何か心の中に残る。この残るものもあんがい複雑である。
僕はタバコを吸う。たしかに吸わない人に迷惑をかけているかもしれない。しかし、一部の人の中には、タバコ税を上げて一箱500円や1000円にすればタバコをやめる人が多くなり禁煙につながるというような乱暴な意見を言う。嫌煙運動は否定をしないが、増税という制裁的な金による強制の言動には、狂気、病的さを感じる。
嫌煙運動は、タバコの吸える場を限っていき、分煙を進める中にも存在をするし、もっと穏やかなもののはずである。JRが駅や電車の中から灰皿をなくせないのはその理由がある。同じようにタバコ税をとっている行政は、最低限の分煙を支援しなければならないし、町の美化にも灰皿の設置は当たり前であり、その灰皿にゴミを突っ込むようなマナー違反もなくさなければならない。
こう見ると、タバコの問題は、狂気的な病的なものでの視野の狭さを捨てなくてはならない。
タバコの例は、ここでは吸うものの立場からのものだが、この狂気的な病的なものは、視野の狭さから生まれる行動であり、このようなものはあんがい多くあるものである。
この視野の狭さからの狂気・病的さを人間のマイナス部分のある一面とすれば、その対極にはプラス部分での自己犠牲や常識に縛られない美的意識的な陶酔などの行動がある。たしかに自己犠牲をバカな奴だという見方もあれば、浮世離れした美的意識を笑いもする。しかしこれは見る側の意識や見識の問題であり、対極な関係にあることは間違いないだろう。また、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔は、一人の人間の中に裏表として同時にあらわれることもあるが。
短編集としての「風に舞いあがるビニールシート」は、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を短編集全体から表現をしたものではないかと思う。
自己犠牲と美意識への陶酔のよさを表現するだけの短編集ならば、駄作だろう。
「器を探して」の弥生は、ヒロミの作るケーキを絶賛をし、そのケーキのためには自分の人生をも犠牲にする。そのケーキを乗せる器を探す弥生は、これしかないという器を手に入れるために。。。。。恋人を裏切ることにもなる。いや、弥生には裏切るという意識すらなくなるほどに陶酔をする。この自分を犠牲にするほどの陶酔の中に狂気と病的さを同時に感じるのである。
「犬の散歩」の恵利子は、捨て犬の里親のボランティアのために昼は犬の散歩があるので働けないからと夜にスナックでのアルバイトをする。夫もいて生活面では何の不自由もないのに。捨て犬の里親のボランティアという素敵な運動に参加をするために自己犠牲の上に行うが、夜の仕事にまで行くという狂気と病的さを同時に感じるのである。
この二つの短編に見る一つの側面である狂気と病的さは、人間が物(犬は物ではないが)に支配をされていくという異常さを見る思いがあるのである。
森絵都さんは、人の持つ自己犠牲と美的意識への陶酔という素晴らしいものを直接的に描かないで、なぜもうひとつの裏返しの側面である狂気と病的さを感じるものを描いたのか。ここにこの短編集を全体的に理解をする鍵があり、駄作ではないことが読み取れるのでる。
先に、「一つひとつの短編がテーマ的には複雑なところで絡み合いながら進むが、最後に全体的な感想の中に何か心の中に残る。この残るものもあんがい複雑である」と書いたが、この複雑さがこの狂気と自己犠牲、病的さと陶酔の二面性にあるのである。
森絵都さんは、この狂気と自己犠牲、病的さと陶酔の二面性を描いた後に、人の持つこの二面性をどう解釈するのかを「守護神」「鐘の音」「ジェネレーションX」という3つの作品で描く。
「守護神」は、働く人たちが集まる二部の大学が舞台であり、働きながら学ぶ大変さの中に論文を書く時間的な余裕もない中にレポート代筆のカリスマ的女性学生「ニシナミユキ」を探し頼る祐介を描く。なかなかあえないカリスマという神秘性の中にあるニシナミユキを探す祐介に病的さを感じるのであるが、結局はニシナミユキも普通の女性であり、カリスマ学生や代筆の守護神であるという神秘性のベールはなくなる。ニシナミユキから、レポートを自分で書き上げてと渡される守護神としての人形は、ニシナミユキが仕事上で失敗をしてまったく売れなくて倉庫に眠るキャラクター人形だったのである。ここに狂気と病的さが消えうせる。
「鐘の音」では、慈悲。。。。この慈悲という魂を抜いた仏像はただの彫刻である。仏像の修理をする潔は彫刻の美としての慈悲を見るが、心の慈悲を忘れている。ここに錯覚があり、狂気と病的さがある。潔が病的なほどに陶酔しきって修理をした仏像は後年、信じていた不空羂索ではなかったと知り、人を狂気的にも病的にまで心を支配する恋と同じだったと潔は思う。潔という一人の人間の人生の時間の流れの中に狂気と病的さが消えうせる。
この人生の時間の流れの中に狂気と病的さが消えうせるというものが、「ジェネレーションX」という短編に継がれるのか。
入社時は、「新人類」という呼び名で呼ばれた健一。健一の上司は団塊の世代。団塊の世代が消え去ろうとしている今、新人類の健一の世代が中心になろうとしている。そしてまた健一の世代が今風の若者に接するのである。「今の若い者は。。。」という嘆きは世代を超えて共通している。
健一が取り扱った商品に苦情が来て、その商品の発売元若い社員根津とお客のところに謝りに行くという一日を描く。
「今の若い者は。。。」という苦言の裏には、自分を越えていく若い人の成長を見ることでもあり、自分の世代にないものを発見することでもある。健一は根津の今風のノリにはっとする。
このような一つの世代が消えてまた新たな世代が現れる中に、社会の中にはその新しい世代の若さからの純粋さというものが伝わるのではないか。それに気づいたとき、古い世代は自分の今を見直す。
若さからの純粋さといったものも古い世代から見れば一種の狂気でもあり病的さにも見える。自分の理解を超えているものであるから。しかし、この侠気や病的として見えるものも世代を超えて消え去っている。
狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性。。。
この作品の読後感の複雑さは、この二面性を分離して見てしまうと、読後感に引っ掛かりが残ってしまい、この短編集全体の主題が薄れてしまう。短編集全体が描くものは、この二面性を常に人は持つということである。
問題なのは、狂気や病的なものから冷静さを取り戻すことであり、この冷静さから自己犠牲と陶酔というものをもう一度見ることにある。
里佳の夫アメリカ人のエドは言う。
すさまじい風にビニールシートは舞いあがる。いくら押さえようとしても強い風は吹きすさぶと。
表題作「風に舞いあがるビニールシート」は、紛争地域で難民を救う国連難民高等弁務官事務所に働く里佳とエドの二人を描くが、戦争という風は亡くならずに難民はその風に吹き飛ばされてさまよう。エドは犠牲となって死ぬ。里佳は「普通の」女性だった。エドの活動と自己犠牲、夫婦の犠牲を理解できなかった。里佳は理屈ではわかるが、1年に1週間や10日ぐらいしか日本に帰らないエドの自己犠牲を。
いくら自己(自国)の正当性を美辞麗句に並べた戦争でも、それは狂気と病的な世界であり、一般庶民が犠牲となったり難民となる。その狂気と病的さに対してエドのようなビニールシートを押さえる自己犠牲がある。このような人間の持つ狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性は、常に社会の中に様々な形として現れる。様々な部分で冷静さのなくなった凶器と病的さは、一方においてはその矛盾から生まれる弊害を抑えようとするほかの人間の自己犠牲を産んでしまう。
こう書くと誤解をされそうだが、国連難民高等弁務官事務所などというものはないほうが良いのである。里佳は言う。
「やはりこの国は平和でいい、平和ボケ万歳だ、望むところだ、」(中略)「彼らがその下に敷いたビニールシートをしっかりと大地に留め、荒ぶる風に抗い続けますようにーー。」
                    (313ページから引用)
人間は、一人ひとりの中にも狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を持ち、その一人ひとりの人間が集まってできた社会や国家の中にも狂気と自己犠牲、病的さと陶酔という二面性を持つ。この二面性をそのままにしていれば、矛盾はなくならない。狂気と病的さは、誰でもが持つが、それは良い意味での自己犠牲と陶酔に昇華されなくてはならない。その昇華される過程に自己犠牲などという矛盾も、必要性のないものはなくなっていくのである。
その中に生きているのは、里佳を「普通の」女性と書いたが短編集全体にでてくる普通の人間達なのである。そして読者も。。。。
その普通の人間が狂気と病的さを離れてどう冷静に考えるかである

【2007年】
午前中は雨もなく風もなくて助かりましたが、午後から荒れてきました。
明日の午前中いっぱいは暴風圏の中みたいです。こんなに強い台風の直撃は久しぶりな気がします。
子供の頃は、東京にも大きな台風が毎年のようにやってきたのですが、今はあまり上陸しません。台風の過ぎた後、急に秋めいてくるあの寂しさ。。。子供の頃から嫌いでした。9月も下旬になり秋も本格的になると秋も受け入れて楽しみますが。。。。
今夜は、肉じゃがとタラの唐揚のトマトソースがけ。
肉じゃがも久しぶりです。夏の暑い日にはあまり食べたくないですからね。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
僕が一番好きで頭から離れない夏生さんのイラストがあります。
「つりわベイビイズ」(角川文庫)の76・77ページにあるイラストなのですが、僕は密かに「銀色夏生観音」と名付けて崇拝をいたしております。
僕が金のある寺の住職ならば、小さな仏像を作りひっそりとした自然の森のような場所にやはり小さなお堂を建てて日夜お経を上げます。
お経は「夕方らせん」の中の「夕方らせんに住む人々」を漢文に約し音読みでお経にするでしょう。。。。
観音様は愛の女神。でもその女神は恋を成就してあげるといったような現世利益ではなく、悲しみと孤独にある愛は心を一つ高いところに導いてくれるという小乗的教えとなるでしょう。
愛されないことは悲しく孤独である。
しかし、愛することガできなことはもっと悲しく孤独である。
愛とは何か。。。。その深さは果てもないほどに。
でも、そんなに堅苦しいものではなくてハハハ・・・・と笑えるような心。
仏像の天蓋にはイラストにある桃のような饅頭をちりばめ、女神はヤカンをぶら下げる。。。。。
でもそれがまた悲しみと孤独を教えてくれる。
訪れる女性たち(もちろん男もですが)は恋がかなわなくても心にあたたかい愛を感じる喜びを感じつつお土産店で桃のような饅頭を買って帰る(笑)饅頭を食ってこれでいいんじゃないかなと涙する。。。。

【2011年】ツイッターつぶやき
VOICEという出版社から夏生さんの2冊の新刊が出ました。
     「ECTON×銀色夏生」
     「こころのこぶた」
の2冊です。
エクトンについては全くの未知の世界です。夏生さんの「つれづれノート」には、昔から占いの話がよく出ていましたし占い師「ミラさん」との本もあります。また最近では外国でのサイキック、チャネリングを経験されたものもあります。
その中で今年、リチャード・ラビンという方に「降りる」?エクトンという肉体を持ったことのない宇宙的広がりを持つ意識体、「体}、物理的な姿を持たない存在という意味においての意識体です。そのエクトンとのセッションを1冊の本にしたものです。
エクトンは肉体を持ったことの意識体だが肉体を持つ人々に愛や優しさを伝える存在。。。。夏生さんに何を伝えたのでしょうか?いや、夏生さんの場合は昔から占いなどを「信じて」鵜呑みをするような方ではなく、ご自分のその時の意識を確かめるような再確認するような形で受取り行動に移すことに役立てていました。ですから今回のエクトンとのセッションもこれまで書いてきた愛についてとかそういう生き方についての夏生さんとエクトンとの対談的な本ではないでしょうか。
エクトンは不可思議な世界ですが、結局は人の言葉で人が生きる世界を語るのですから神が出てくる宗教世界でない限り現実的な言葉として受け止めることができるのではないでしょうか?
人の生き方についての一つの世界が「こころのこぶた」なのかもしれません。
50枚のトランプ状のこぶたのイラストと言葉。その言葉を解説した本。夏生さんの一つの精神世界でしょう。
大切にしたい本です。

【2012年】ツイッターつぶやき
以前、「お客様は神様です」という三波春夫さんの言葉が嫌いだということを書いたことがあります。
今朝の朝日新聞13面「耕論」にこの「お客様は神様です」という言葉のとらえ方について書かれてありました。
お客様は神様だという中身について誤解をしているのではないかと三波春夫さんの長女美夕紀さんの言葉も載っていました。お客様のために格安のホテルをと頑張っているホテル関係者の方はコンセプトに合わない場合はほかのホテルをと勧めると。お客とサービスを提供している側が互いに「ありがとう」と言える関係を言う大学の先生。
企業も企業利益を犯すようなお客には毅然とした態度をとるのでしょうが、しかし現場でのその企業の従業員とお客との関係となるとどうでしょうか?やはりそこにはお客様は神様ですという金(利益)を挟んだ人間関係が作られているのではないでしょうか。
「お客とサービスを提供している側が互いに「ありがとう」と言える関係」。。。。この人と人との心の接点がおろそかになっているのではないでしょうか。

消費増税が決まりましたが、この消費増税は社会保障に当てると言われます。ふつうこう言われればこれまでの実績の予算プラス消費増税分を合わせた額が新たな社会保障関連予算になると思ってしまいます。
たとえばこれまでの社会保障関連予算が仮に10兆円あって、新たに消費増税分として5兆円増えたならその年から社会保障関連予算は15兆円になると。。。。。こうなれば確かに社会保障は充実されるでしょう。
しかしこれまでも消費税は社会保障費の目的税というように言われてきましたが、一向に社会保障は充実された実感もなく、逆に破たんが言われたり福祉の切り捨てが言われます。
今回の消費増税も決して社会保障の充実にはつながらないようです。
子ども手当という新たな社会保障(福祉?)も言われますが、児童手当に毛が生えたようなもので、この財源の一部は扶養による減税分をなくすことで生まれるものですし、消費増税分から回されるのは微々たるものでしょう。そして「消費増税は社会保障に当てられる」というのは、社会保障予算に国の借金があるからこの借金を減らすという意味で、例えば上の例で言えば10兆円の予算のうち5兆円が国の借金で補っていると決めつけられて社会保障予算はそのままの10兆円となるという事ではないでしょうか。ですから消費増税は国の借金を減らす目的でもあると言われ、将来的には10%でも足りないと言われるわけです。
百歩譲って消費税分が国の借金を減らすというならまだいいのですが、社会保障費としての借金分を公共事業に回すという事が言われています。結局は社会保障の充実は行われずに国の借金も減らずに公共事業が増える。イコール消費増税は公共事業予算となります。
これではこれまで言われていた若い人の不安を軽くするという事は無理でしょう。若い人の負担を減らすのは消費増税ではなくて例えば年金支給の減額などとなっていくでしょう。すでに生活保護費の認定が厳しくなったり需給での事務的な手続き(家族の年収などの調査など)が需給をしにくくなるのではないかと心配が出ています。減額もされそうです。
開いた口も塞げないペテンにかかったようなものです。

【2013年】ツイッターつぶやき
商品の価値はその時代の生産性によって決まる。機械化やロボットというもので商品がより多く生産されるならその商品の価値は下がる。この商品価値が基準となり経済は動く。
生産性は日々向上して商品の価値を下げ続けるわけですが、それは市場での価格も規定するわけです。商品価格も下がっていく。
企業利益は一つの商品価値、市場においては価格が下がれば同じ商品量を生産しているなら利潤は低下するでしょう。おなじ利潤を維持するには、たとえば商品価値が10%下がったなら10%多くの商品を市場で売らねばならない。しかし企業にしてみれば10%多く商品を売っているのになぜもうけは同じなんだとなる。ましてや市場でその商品量が過剰なとき10%の商品が過剰となればもうけが少なくなると感じる。
この商品の過剰は市場から見た見た目の過剰であり、その商品を消費する側に貨幣量が足りなくてそのためにその消費を購入できないならばその商品は本来過剰ではないということになる。
このギャップを大きくするのが賃金をコストとみなして賃下げを行うという経済法則に反した企業自ら作り出すものである。商品が売れないなら企業間競争は値下げ競争となりさらに儲けの幅を狭くしていくだろう。このことによる商品の市場における価格の下落傾向がデフレ圧力となる。生産性が極度に発達した社会においてのデフレとはこのような傾向を示すのではないか?
これは貨幣量総体が不足しているように市場では見えてくる。
中央銀行は貨幣量を増やせばこのデフレを克服できると勘違いをする。社会の金融市場は高度化していて増やされた貨幣はその金融市場に流れる。それが例えば株価に出たときには企業は利益が上がりデフレがなくなったと勘違いをする。しかし現実の商品量の流れに何の変化もないし思ったように商品価格は上がらない。貨幣価値の低下による輸入材の値上がりによる商品価格の値上がりに物価上昇という幻想を見る。ここから企業は抜け出すことができなくなるのである。量的緩和という金融政策の出口は見えなくなる。更なる貨幣量の増加。
この矛盾はデフレからの脱却を表面的な商品価格の変化として見たり、貨幣量の増加という中での貨幣価値を忘れた物価としてしか見ないところにある。
今必要なのは貨幣量ではなくて貨幣の回転なのである。もちろん貨幣の回転も金融市場で流れていれば回転数が高まっていると見えるだろうが、あるいは富裕層での消費の拡大に貨幣の回転を見ることもできるだろうが、それは本来の貨幣の回転ではない。貨幣の回転にはその方向が重要なわけです。特に労働賃金や社会的弱者の方向に貨幣が回転しなくては本来の回転の意義がなくなってしまう。労働賃金などに貨幣が回転するならば商店やスーパーなど大衆消費財を販売する商業などに貨幣は回転する。それらは商品を製造する製造業へ回転する。この中で税として特に消費税が必要というならばその消費税として国に貨幣は回転する。このの税収は社会資本の整備となりあるいは社会保障の拡充により企業にまた回転するだろう。
結論は、貨幣量の問題だけではなくて貨幣の回転とその方向なのである。

【2014年】ツイッターつぶやき
初めに断わっておきますが、ここでの生産性の向上というのは労働者の賃金や下請けや孫請けの単価を切り下げるというものではありません。これまでの日本は賃金をコスト面から見て賃下げを行えば企業利益が出るのだからその面で賃下げは生産性を上げると考えていたのではないかと思う。それは安い労働力を求めて海外に進出すつというのも同じでしょう。
しかしこのような方法は本来の生産性の向上ではない。
労働力も資本主義社会では一つの商品となる。その商品を労働者は元が取れないくらいに買いたたかれるというのは経済法則にも反するわけですから。
生産性の向上とは、より少ない労働力量(労働時間)でより多くの商品を生産することです。
労働時間については同じ労働時間でも労働の密度や強度で労働力の消費量が違うわけですから過度の労働密度や強度は賃下げと同じですから、賃下げというものを本来の生産性向上はしてはならないということですからここでも過度の労働はさせてはならないということで社会的な平均的な労働力の支出とします。ですからブラック企業などといわれる企業は経済法則に反する企業となります。
ですからここでもブラック企業といわれるような反社会的な企業ではなくて健全な企業活動を行っている企業での資産性の向上を見ます。もちろん日本も国外もこのある程度歴史的に発展した段階としての健全な企業により経済は成り立っているのです。
生産性の向上はより少ない労働力量(労働時間)でより多くの商品を生産しますからその生産力によって一般国民にも多くの商品が行き渡って豊かにしていきます。これは今までの資本主義の発達の中で実際に起こったことです。ではなぜより多くの商品が一般国民にも行き渡るのでしょうか。資本主義は商品経済ですから商品をより多く一般国民が買うことができなければその大量の商品は行き渡りません。ですからある経済法則によって行き渡る必然性があるとみるのが自然でしょう。その経済法則というのは、少ない労働力でより多くの商品が生産されるのですからその商品は価値が低下をするということです。価値は価格に反映されますから商品価格も下ります。商品価格が下がれば当然その商品を買うことができる一般国民も増えていきますからそこから大量の商品が一般国民に行き渡るのです。
このように生産性の向上の一つの面が一般国民の生活を向上させるということになります。この生活の向上は何も物質的な豊かさだけではなくてより少ない労働時間で同じ商品量を制sンできるということでもありますから労働時間の短縮にもつながります。これも資本主義の歴史の中に見える事実でしょう。
一方での生産性の向上のもう一つの側面は、商品価値が下がるのですから企業は同じ商品量を生産していては利潤が低下していってしまいます。そこで常に拡大再生産を行わねばなりません。ですから今の日本も成長戦略と言いますしGDPの生産面が問題となる。しかし生産性の向上が競争するすべての産業内の企業で一般化されていくと商品は爆発的な勢いで市場にあふれますから過剰生産となる。そこでは拡大再生産は難しくなる。企業利益は減少をする。
先進国では第一の面と第二の面が互いにぶつかり合うことになり、それが一つの矛盾として現れる。
そこで先に触れた様な賃下げやブラック企業などというものも現れる。
資本主義というのはもともと企業利益のための経済組織ですからこの矛盾解決を企業利益の維持に向けます。それが経済指標にもなってしまいます。
一方では労働者は商品が市場に有り余るほどあるのだから分け前をよこせとなる。
経済矛盾は階層(階級)矛盾となる。
これが資本主義と社会主義の対立になるわけですが、実際は資本主義も福祉国家という形態をとりましたし、社会主義も今の中国を見てもソビエトを見ても資本主義的要素を多分に残しながらの経済です。資本主義も社会主義も国家が前面に出て経済を左右するしかないわけです。その中間的な位置に社会民主主義があります。
資本主義も発展すれば社会民主主義的にならざるを得ませんし、社会主義も完全な商品経済をなくすといったような共産主義経済となるには無理があって現実は社会民主主義的な経済です。社会主義が負けたが資本主義も負けつつあるといわれることもありますが、そこには社会民主主義が残るのではないでしょうか?
そこで先の生産性向上の二つの側面の矛盾は一定程度解決をしていくでしょう。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
gooお題「自分を色に例えると何色?」
昔から、あまり存在感もなかったというのか、気配がなかったというのか。。。。。
子供の頃、家の中で普通に立っていても急にお袋が横にいる僕に気付いて「びっくりしたぁ。そこにいたの?」と。
もしかしたら無色透明なのかも(笑)
よく考えれば、人は生まれたときには無色透明ですよね。そこからいろいろな色に染まっていく。
一つの色に染まってしまうと融通の利かないことになります。
無色透明でありながら内面に様々な色を持っているというのが理想かな。。。。。

ルピナスとビオラの種をまきました。
くしゃみをすれば吹き飛んでしまうようなビオラの種。注意深くポットに蒔いたのですが、どのポットまで蒔いたのか。。。。。見てもわかりませんなぁ。
ビオラは去年も種から育てましたが、どうもうまく育たないものがありました。今年はうまくいくかな。。。。
ルピナスは初めてです。
ストックに似た花ですね。香りはどうなんでしょ?
今年は急に秋が深まって涼しくなってしまいました。
どうも秋晴れの日がない。
さて、11月下旬ぐらいには鉢に移せるでしょうか?
春から夏の花は、異常な日照不足もありましたがどうにかたくさん花をつけてくれました。でも、トリニアの葉が細くなってしまいました。あと1か月ぐらい花を見せてくれるかな。。。。
松葉ボタンとトリニアの種を集めています。

【2018年】ツイッターつぶやき
朝日新聞1面と34面に家族などから救急隊員に心肺蘇生を望まない旨をつげらることが多くなっているようです。
救急隊員もその対応に苦慮しているようで、対応のマニュアルもほとんどないそうです。
末期がんの方が心肺停止になった。。。。
その時家族が心肺蘇生を望まないと言って救急車を呼ばなかったらどうなるか?
もちろん支度ならば自分の家で死なせてあげようという気持ちはわかりますし、かかりつけの医者が飛んできて死亡を確認してもらえれば良いのですが、今はそうはいきません。
救急隊員はどうでしょうか?心肺蘇生を行わないというのも医療行為でしょうし、死なないように処置をして病院まで運ぶことが使命でしょう。救急隊員に心肺蘇生を行わなくてもよいというのは決めてはいけませんね。
あくまでも心肺蘇生をするか延命処置をつづけるかはやはり医者の判断と家族の考え方でしょう。

【2019年】ツイッターつぶやき
内閣改造がありそうですね。
なぜ今改造なのかわかりませんが、一つは外務大臣の交代でしょう。
ある意味更迭に近いかもしれない。
先の中国においての日韓外相会談も失敗に終わったのではないでしょうか?
外務大臣の発言で記憶に残るのは、外相の専用機が欲しいぐらい。。。。。
今の自公内閣の右傾化路線においては外相も日本の保守層の立場を貫かねばならないというのはわかります。ですから最近の日韓の摩擦は外相の責任というわけではなくて今の保守層の外交姿勢に問題があるのかと思います。しかしその中でも外相としては落としどころを内閣の中で提起できるようでなければならないでしょう。たしか、脱原発では一定の発言をしていたと思います。
安倍内閣自体の外交も保守の姿勢から韓国、中国、ロシアとの領土問題も進展がありませんし、北朝鮮との首脳会談もいまだに開くことがで来ません。目立つのは「積極的平和主義」という力による外交です。その力もアメリカにすり寄ってですから、さらに外交は複雑化します。
アメリカも保護主義(保守主義)と国際政治に対する力の政治にイランでも北朝鮮でも外交の成果が見えません。イランの核合意ではアメリカが孤立するかもしれません。
このアメリカに同じ手法で日本は外交政策を進める。しかし日本には歴史問題がいつまでも残り続けているという特殊紙があるのです。アメリカに追随したとしてもやはり日本の独自性は試されるのです。

【2020年】ツイッターつぶやき
今、政府のコロナ対策の流れは、もちろん経済にあるがその経済のために感染者扱いを蔑ろにする方向にあるようです。
ネット上でも若い人は感染しても重症化せずに死亡も少ないことからコロナは風邪のようなもんだとして軽視する意見が出ている。
高齢者は感染すると重症化する確率が高いので外出等は自粛しろと。
しかし自粛しろと言われても高齢者施設や病院等での感染は増えているし。高齢者の雇用は増加をして社会に出ないわけにはいかない実態もある。
結局若い人が感染すれば高齢者の感染も増加するでしょう。
若い人も風邪のようなもんだと言われて無症状や症状が抑えられれば社会に出ていく。何も遊びに出ていくだけではなくて仕事をするために会社にもいく。
しかし会社でクラスターが発生をすれば一時的であっても自宅待機ぐらいにはなる。
経済の立て直しを優先すべきとして感染者を蔑ろにすれば結局は感染拡大で経済活動も縮小するでしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
東京もそして首都圏の3県も新規感染者数が下がってきている。
この中で緊急事態宣言は延長されるようです。
これまでは新規感染者数が減少してくると緊急事態宣言を解除したりまん延防止に切り替えたりしていましたが今回は延長ということですから良いと思います。しかし減少してきたとはいえまだ高い数字ですから宣言を解除できる状態ではないことも確かです。
また注目すべきはどのくらいの数字で下げ止まりになるかということです。
今回新規感染者数が減少した理由はどこにあるのか?
これは緊急事態宣言を出していたからというわけでもなさそうです。
ワクチンにより高齢者の感染者数が表面上では減少したし、検査体制も積極的疫学調査の中身も変わりましたがこういう影響もあるでしょう。
デルタ株という感染力が高いウイルスで重症者数も増加をして医療崩壊が言われ、若い人や子供にまでその感染が広がったことに国民自身の警戒感が出たためかもしれません。また夏休み中のオリンピックも終わり人の移動の活発化も抑えられてきているのかもしれません。
こう見ると今回宣言が延長されたとしても宣言自体の効果がどれほどかはわかりません。
でも減少したときにこそ検査の充実はやりやすいですから検査数を増やすべきですね。
しかし一方ではワクチンパスポートがデジタル化だけに発行する動きがあります。海外への渡航に限らず国内での活用もあり得るようです。
もちろん経済対策で行われるのですから、デジタル化といえば若い人が中心となるでしょう。まだ若い人の接種率は低いですから感染の広がりにつながる可能性は高いです。またこういったアプリで成功した例もない。。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
一夜明けると1円ほど円が安くなっている。
先週の週末だったか、つい数日前についに140円が近いかと書いたのですが。
円安も加速していますね。
アメリカの大幅な利上げがあるかと報道されただけで円は下がっていく。
日本は未だに日銀は出口には向かえない。
しかしアメリカもインフレと利上げのいたちごっこが続きますから、国民生活への影響は拡大していきます。利上げによる経済への影響はデフレ圧力となるでしょうが、その前に国民の消費を減らしていくでしょう。供給の過剰と見えるのは消費の縮小の裏側です。供給が足りずにインフレになっていると言われますが、供給が減らされインフレの抑制というのは経済の縮小です。
アメリカ経済は突如として急降下するかもしれませんね。
EUや日本の悪性の物価高とは質の違う経済矛盾かもしれません。

【2023年】ツイッターつぶやき
学校給食等の営業を行うHOYUが破産手続きに入ったらしい。
関東から関西四国の学校給食が止まったらしい。
倒産理由は、食材の価格上昇と値上げをできない実態があったらしい。
円安と海外のインフレにより食材の輸入に頼るわけですから値上げをするか質を落とすことでしか対応ができないのですが、相手が自治体ですからそうは大きな値上げ申請もできず、ただでさえ質が低下している給食をさらに質を落とすわけには自治体もいかない。自治体は予算化は急にはできないし給食に金をかけるわけにもいかず保護者への負担も今の経済状態では行えない。
何となく現在の日本経済を見る思いです。
昔は、給食のおばさんがいて給食室で給食を作っていましたが、経費削減のために外注化をした。もちろん外注化により予算削減ができるからですが、その予算削減をした契約でHOYUも請け負っていたのでしょうが、請け負う価格では赤字に。
子育て支援だとか言っていますが、食べる物さえままならない教育実態になってきました。
コメント
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