私はほとんど泳ぐことが出来ないが。
水辺の風景が好きだ。
特に、海ではなく、小さめの川。
河原に石がゴロゴロ転がっているような川に.....
なんともいえない郷愁と愛着を感じる。
これはきっと、私の父が、私の小さな頃から河原へと頻繁に遊びに連れていってくれたことと、深く関係しているに違いない。
休日ごとに、当時の年若い父と母と、または時に彼らの友人達と共に、バーベキューに行った川の思い出。
手のひらでそっと魚を川辺に追い込んでは、手づかみで捕ろうとしたり、釣りの仕方を教えてもらったり。
ナイフの使い方を習いながら、河原の石の上に開いた魚を並べては、干物を作る真似事をしたり。
大きく滑らかな石をうまく組み合わせ作った炉で炭をおこし、肉や魚を焼いて食べるのは毎度の決まりごとだったし、幼い私や妹は、夏となると真っ黒に日焼けし、鮎やウグイを食べ、父のトラックに乗せられてゆく河原遊びを存分に楽しんだ。
あの短く、楽しく、輝かしい日々は。
今も私の原風景となって、河原に特別の愛着を抱かせる。
また、海水ではない、とっぷりとたたえられた濁った水にも、父との思い出が存在する。
あれはいつの夏だったか。
毎度のごとく、家出して故郷へ帰ってしまった母を追って父がトラックを走らせた際、母の実家近くの、上杉神社のお堀のほとりに停車して、水を眺めた日.....。
賑やかに小奇麗になってしまった今とは違う、あの頃の上杉神社。
父はひっそりとした、神社前の小さな通りにトラックを停めては、今ではもうすっかり見なくなった古い木造建築の『何でも屋』さんで、『みかん飴』を買ってくれたものだった。
あの日。
幼い私は、ひとつひとつがみかんの房の形をしている美しい色をしたその飴の袋をしっかり抱え、『なんて美味しいんだろう』と感激しながら一心に舐め、お堀の深い緑の水を眺めた。
または、父の仕事に一緒について行ったとき。
大好物のあんまんを買ってもらっては『あの公園にアヒルがいるから』と、小さな公園へ連れて行ってもらい、あんまんのカケラをアヒルにあげた思い出。
あのとき。
父が差し出したあんまんのかけらに、アヒルは勢い余って食いついて、父の手にまで食いついてしまったのだったな。
「いてっ!なにすんだこのヤロウ!」
そう言った父は半分笑っていたが.....
私が大きくなって家を出てからも、あのきらきらした日々のことを、彼は覚えていただろうか?
ときおり私は考える。
父はなぜ死を選ばねばならなかったのだろう。
あの美しい思い出たちは、彼の人生に生き続けるだけの価値を与えてくれなかったのかと。
それとも.....
思い出が美しすぎたから、耐え切れなくなったのだろうか。
私は彼から何を奪ったのだろう?
どれだけ考えても、わからないけれど。
私は今でも河原が好きだ。
石が転がった河原を通るときにはあの日々を思い出し、父が大好きだった鳥たちを眺めては、声をかけ、きらきらした水面にたくさんのものを見る。
あの思い出たちは、父をこの世にとどめておいてはくれなかったけれど。
私が生きていく上ではかけがえのない力になってくれる。
今朝、橋の上から眺めた川は.....
青空を映し、白い雲をくっきりと水面に焼きつけ、鏡のようにあの幸せな日々を反射させていた。
水辺の風景が好きだ。
特に、海ではなく、小さめの川。
河原に石がゴロゴロ転がっているような川に.....
なんともいえない郷愁と愛着を感じる。
これはきっと、私の父が、私の小さな頃から河原へと頻繁に遊びに連れていってくれたことと、深く関係しているに違いない。
休日ごとに、当時の年若い父と母と、または時に彼らの友人達と共に、バーベキューに行った川の思い出。
手のひらでそっと魚を川辺に追い込んでは、手づかみで捕ろうとしたり、釣りの仕方を教えてもらったり。
ナイフの使い方を習いながら、河原の石の上に開いた魚を並べては、干物を作る真似事をしたり。
大きく滑らかな石をうまく組み合わせ作った炉で炭をおこし、肉や魚を焼いて食べるのは毎度の決まりごとだったし、幼い私や妹は、夏となると真っ黒に日焼けし、鮎やウグイを食べ、父のトラックに乗せられてゆく河原遊びを存分に楽しんだ。
あの短く、楽しく、輝かしい日々は。
今も私の原風景となって、河原に特別の愛着を抱かせる。
また、海水ではない、とっぷりとたたえられた濁った水にも、父との思い出が存在する。
あれはいつの夏だったか。
毎度のごとく、家出して故郷へ帰ってしまった母を追って父がトラックを走らせた際、母の実家近くの、上杉神社のお堀のほとりに停車して、水を眺めた日.....。
賑やかに小奇麗になってしまった今とは違う、あの頃の上杉神社。
父はひっそりとした、神社前の小さな通りにトラックを停めては、今ではもうすっかり見なくなった古い木造建築の『何でも屋』さんで、『みかん飴』を買ってくれたものだった。
あの日。
幼い私は、ひとつひとつがみかんの房の形をしている美しい色をしたその飴の袋をしっかり抱え、『なんて美味しいんだろう』と感激しながら一心に舐め、お堀の深い緑の水を眺めた。
または、父の仕事に一緒について行ったとき。
大好物のあんまんを買ってもらっては『あの公園にアヒルがいるから』と、小さな公園へ連れて行ってもらい、あんまんのカケラをアヒルにあげた思い出。
あのとき。
父が差し出したあんまんのかけらに、アヒルは勢い余って食いついて、父の手にまで食いついてしまったのだったな。
「いてっ!なにすんだこのヤロウ!」
そう言った父は半分笑っていたが.....
私が大きくなって家を出てからも、あのきらきらした日々のことを、彼は覚えていただろうか?
ときおり私は考える。
父はなぜ死を選ばねばならなかったのだろう。
あの美しい思い出たちは、彼の人生に生き続けるだけの価値を与えてくれなかったのかと。
それとも.....
思い出が美しすぎたから、耐え切れなくなったのだろうか。
私は彼から何を奪ったのだろう?
どれだけ考えても、わからないけれど。
私は今でも河原が好きだ。
石が転がった河原を通るときにはあの日々を思い出し、父が大好きだった鳥たちを眺めては、声をかけ、きらきらした水面にたくさんのものを見る。
あの思い出たちは、父をこの世にとどめておいてはくれなかったけれど。
私が生きていく上ではかけがえのない力になってくれる。
今朝、橋の上から眺めた川は.....
青空を映し、白い雲をくっきりと水面に焼きつけ、鏡のようにあの幸せな日々を反射させていた。