猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

後編へ行く前に。

2008年08月20日 23時59分10秒 | お出かけ

昨日の泉岳寺の記事で取り上げた、赤穂浪士たちと、
討ち入り周辺の事情の補足を少し.....。

と、いうのも、私自身も以前は思っていた、

「浅野内匠頭、我慢しなさすぎ!」

というご意見がここでもチラホラ聞こえてきたからなのですが.....(笑)

 

京急品川駅ホームには、こんなコンビニ。

 

その辺を補足させていただきますと、実はこの浅野内匠頭さん。

非常な、というか、病的な癇癪持ちだったというお話がありまして。

その辺のことがわかってくると、また見方も変わるかなぁと。

 

『猛烈タンメン鼻血ブー』が奥様方の心を捉えた(爆)
【なんつっ亭】のネギチャーシュー麺は

ネギが別盛り♪
ここのラーメンのどんぶりの径が小さいのは、やっぱり、
あの黒い脂を際立たせるためなのかな?

 

いやね。
我慢しなさすぎという事実には変わりがないわけですが(笑)

それが生まれ持っての『病』だったとすると、
また事情も変わってくるわけで。

いえ、何せ何百年も前の話なので、真実はどうだったのか、
正しいことはわからないんですが......ね。

 

こちらは丸くて平べったい餃子。
「からし醤油でお召し上がり下さい」と書いてあったけど、
私はやっぱりお酢も使いました(笑)

 

憎憎しいジーサンとして描かれる吉良上野介さんも、
お国元では名君として慕われていたというお話もありますし、
まあ、あくまで『忠臣蔵』自体は元禄赤穂事件の史実に脚色を加えたもの、
と考えたほうがいいのではないかと。

ほら。
物を書く人って、話を大げさに面白くしようとするものですし、
(現代でいう、『盛る』ですな・笑)
この討ち入りのお話もきっと、史実をそのまま伝えるだけじゃ面白みに欠ける、
ということだったんでしょう。

 

ところで.....泉岳寺を出て、歩いているとこんなものを見つけましたよ。
「お水はいっさい出しません」って...なんで?(笑)
『英国風』ってそういうことなのか?(←絶対違う・爆)

 

まあ、冷静に考えれば、吉良がもし浅野にウソを教えようとも、
家臣たちが「今までの慣例から考えてもそれは変なんじゃ?」
「一度どこかに確認したほうがいいんじゃ?」と、
と、気を利かせてもよかったわけですからね。

いや、実際は武士の社会じゃ、それぞれの立場・体面を重んじるがために、
命令・伝達系統があまりに煩雑で色々大変だったって話ですけど、
それは現代の会社においても同じわけで......

角が立つなら立つで、色々こっそりと裏から手回しとか
出来なかったのかなぁと。

もうね、これが会社だと考えれば、いわゆる『ホウ・レン・ソウ』と
自己判断がまったく出来ていないダメ社員と見なされますし(笑)

まあ、例えばそれが事実として、
討ち入り前に吉良の屋敷の作りを知る手段を持てたとするなら、
裏から手回しするぐらいは出来たんじゃないかなぁって。

そうも思うわけです。

こっそり賄賂を多く贈るとかね。

 

ねえ?大石さん。

 

ま、とはいえ、そんなことを言ってちゃあ、ロマンもへったくれもなくなるわけで、
事実は事実として知っておいてから、創作、及び想像の部分を楽しむのが、
歴史の正しい楽しみ方かなと。

ほら。

歴史ってのは、そのときの権力者が自分達に都合よく
記録を書き換えたりもするらしいですから。

実際、織田信長の鉄砲隊は一般に言われている人数の
半分ぐらいしかいなかったらしいですし、
宮本武蔵はめっちゃ卑怯な手を使ったっちゅー話ですし(笑)

三十六人斬りと言われた荒木又右衛門だって、
実際斬ったのは二人だけだそうです。

山本勘助なんて、実在しなかったんじゃないかなんて言われてもいますし.....
(最近は実在したという方向になってるらしい)

ちなみに、私が何年か前に読んだ本では、
『大石内蔵助は本当は討ち入りなんかしたくなかった』
って書いてありましたよ(笑)

ただ、経済的にも体面的にも行く道を失った家臣たちが一発逆転するには
武士らしく死ぬことのほかになく......
彼らにせっつかれて、仕方なく討ち入ったんじゃないかって。

ホント、ロマンの欠片も何もない説ですが(笑)

でも、そんな部分も含めて、やっぱり歴史は面白いと思うんです。

 

後世の者は色々勝手なことを言っておりますが、大石さん。
それはやはりあなた方がずっと愛され続けているということなのだと思います。

 

色んな見方があって、色んな解釈があって、
あれを信じる人あり、これを信じる人あり.....。

そしてこうも思います。

やっぱり、赤穂の浪士たちの忠義心は本物だったんじゃないかと。

 

十代の若者から、当時なら老人と見なされた人々まで。
死ぬということに対し、今とは捉え方が違う時代ではあっても、
やはりそれは半端な覚悟では出来なかったことだと思うのです。

 

無骨で融通は利かない人々だったとしても。

お家断絶から討ち入りまでの、辛く長い時間を
ひたすら耐えて待ち続けたわけですから......。

思いをひとつにするって、なかなか難しいのは昔も現代も同じ。

と、いうわけで、諸説あるのを知ってはいても、
やっぱり、あの墓所は私にとって、
ロマン溢れる、聖なる場所なのでした。