さて。
猛暑の中。
浪士たちの墓所に線香を手向けた後、
泉岳寺を出た我々が、大汗をかきながらどこへ向かったかというと.....
以前から私がどうしても会いたいと思っていた人の眠る場所へと、
向かったのでした。
ふうふう汗をかきながら、坂を上ったり下ったり。
都内の坂は、その名前の由来が面白く、古地図と照らし合わたりすると、
「へぇえ~!ほおお~」と、ますます面白い。
その人の名は、ヘンリー・ヒュースケン。
彼のことは、以前にもこのblogで取り上げたことがありますが.....
1858年の日米修好通商条約の際、
アメリカ全権大使・ハリスの通訳兼秘書として、
大いに活躍したのがこの人です。
ヒュースケンの墓がある、南麻布・光林寺の眼前には川が流れていますが、
この川(古川)にかかる橋の上で彼は襲われ、命を落としました。
また、彼は、イギリス、フランス、プロシアの代表達の補佐役としても、
大きな働きをしました。
時代の急変により、不穏な空気が流れる江戸、及び近郊で、
次々と外国人が襲撃され、殺害されても、
変わらず行動し続けた人。
結果としては、その自由さが、彼の命を奪うことになってしまうわけですが、
私はなぜだか、この人に惹かれて仕方がないのです。
光林寺のある明治通り沿いには、こんな看板もたてられてます。
現在は港区の指定文化財となっている、ヒュースケンの墓。
実は私、彼のことをまだ知らない頃、
このすぐ裏手に年中仕事に来てたのですが.....
まさかお墓を探すために再びウロウロすることになるとは。
あれ?境内は工事中.....中に入れるかな?
二十一歳で、単身、オランダからアメリカに渡り、
貧しさの中でチャンスを掴み、長い旅路の末に、
通訳として日本へやってきたヒュースケン。
残念ながら、他の外国人より自由に行動した結果、
1861年、攘夷派の薩摩藩士によって、命を奪われてしまいますが、
彼が遺した日記は、今も、私の心を大きく揺さぶるのです。
門をくぐれば、そこには周囲の喧騒とは無縁の時間が.....
「しかしながら、いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、
この進歩は本当に進歩なのか?
この文明はほんとうにお前のための文明なのか?
この国の人々の質僕な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。
この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている
子供たちの愉しい笑声を聞き、
そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私には、
おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように
思われてならないのである 」
やっと...やっと会えましたね。
また、富士山を見て感激した彼は、こうも言いました。
「今日はじめて見る山の姿であるが、一生忘れることはあるまい。
この美しさに匹敵するものが世の中にあろうとは思えない。
中略
ああ!昔の友達が二十人もこの場にいたら!
ヒップヒップフレーを三回繰り返して、
けだかいフジヤマをたたえる歓声が、周囲の山々にこだまするだろうに」
日本に国を開かせるためにやってきた男が、
この国を見つめるうちに洩らした、最大の賛辞。
『どうしても一度墓前に参り、手を合わせなきゃ』
その思いは、私の中にずっとずっと強く、存在し続けていたのです。
泉岳寺からゆっくり歩くこと40分。
南麻布、光林寺にその人は眠っていました。
【ヘンリー・コンラッド・ヨアンネス・ヒュースケン】(1832.1.20~1861.1.16)
オランダ語、フランス語、ドイツ語、英語、そしてかなりの日本語を操った人。
『食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、
その他のことはあまり気にしない男』(ハリスによる言葉)
『恰幅のいい男で通人すぎる男』(領事館のボーイによる言葉)
当時江戸に滞在した外国人が見物や遊びに出る際には、
大抵ヒュースケンが同行し、みんなに親しまれ、人気があったということです。
その葬儀には、プロシアフリゲート艦の軍楽隊もつき、各国領事・公使が出席。
遺体はアメリカ国旗で包まれ、オランダ海兵隊八名により運ばれました。
彼の死後、ハリスは日本から賠償金一万ドルを取立て、
それを彼の母親に送っています。
広大な敷地の奥まった場所。
緑に囲まれて、セミの声が降り続ける中、
祖国から遠く離れて......
ゴンザがぽつり、呟きました。
「あなたが知っている日本はもうないかもしれませんが.....
どうぞ、ゆっくり眠って下さい」
手を合わせながら、私は思いました。
次にここを訪れるときは、ビールでも持ってこよう。
彼は、日本のサケだけは、『いやな味、恐るべき飲み物』と、
そう記していたから......と。
夏休み日記、第一日目。
もう少し続きます。