猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

ただいま!

2005年10月14日 01時57分44秒 | ルーツ
若い頃、周囲が抱くerima像と、本当のerima像の間で苦しんだ時期がある。
本当の私自身が、小心者で、暗く、一人でいることを好むのと裏腹に、周囲の抱く私へのイメージは、気が強い、脳天気、社交的とまったく逆のもので、その激しいギャップにはどう対処していいやらわからず、本当に長いこと苦しんだ。
しかし、なぜかそんな悩みとは対照的に、周囲の期待に応えようとする私の本能とカラダ。
出かけるたびに激しく憔悴し、帰宅後には目が落ち窪むほど疲れ果て、泥のように眠りを貪る羽目に陥るにも関わらず、どうしてもそんな生き方を止める事が出来ず.....。
直接的な原因は他にあったのだけれど、ついには精神科のお世話にならなければいけないほど切羽詰った。
医師の「なぜそこまであなたは周囲に気を使う?」「自分は自分のままでいいではないか」という言葉も理解できないほどに。

何が原因なのかはわからない。
例えば母が「お前は私が理想とする容姿に生まれたのだから、それを生かさないでどうする」という言葉なのか。
平凡を望み、その道を歩こうとしても
「水割りを作るバイトでもしてるとか?」と投げかけられる、言葉なのか。
学生時代、歩いているだけで「生意気だ」「ブ~ス!」「気取ってるんじゃねーよ」と投げつけられた言葉なのか。
それから......それから。

強くならなければ戦えなかった。泣いているだけでは何も解決しなかった。
普通にしていても「気取っている」と言われるなら、つねに愛想を振りまくしかないように思えた。
沈黙が不快感の表れなのかとびくびくし、喋りまくるしかないように思えていた。
そして。いつしかひとり歩きを始めた虚像に、自分自身がついていけなくなっても、その時にはもう手遅れ。
真っ二つに分かれた自分は、一方で華やかな世界を望み、泳ぎ、一方では孤独に苛まれ、それを愛した。

ついに、病院へ行って。
さっぱり頼りにならない医師を目の前に、私自身を助けてやれるのは私しかいないと気づいた。
ほんの二、三度ほどの通院で、めきめき回復していった。
精神科の門をくぐった際に思った
「ああ、私。ここまで来ちゃったんだ」という開き直りも、大きなきっかけだったろう。
その後も悩み続けはしたが、しかしいつの間にか、虚像と実像が近づいていった。
たぶん.....長いこと両者と付き合ったから。時間と年齢が、角のたった両者を折り合わせてくれたから。

ゴンザと出会って、彼が、恋愛感情とはまた別の、「どんな時にも変わらない愛情がある」と教えてくれたことも大きく作用した。
彼のおかげで、私は今頃になって、ようやく子供のやり直しをしているような気がするから。

たぶん。心の中で「助けて」と叫んでいた子供の頃の私が、そこに安息の場所を見つけたのだろう。
厳しく優しい父親と、いつでも家で彼を出迎えてくれる、温かい母親の愛情に育まれたゴンザは、私に色々なことを教えてくれるから。
言葉で、仕草で、態度で、根気よく。
今でも自身の二面性を否定は出来ないが、きっと誰でも、そんな風に苦しんで生きている。

そして。今となっては、虚像、実像合わせて、「楽しい体験だったな」と思うのだ。二人分の人生を歩んだと考えれば、お得な感じもするし。

でも......。やはり実像は実像。
キンモクセイ香る線路脇の道をひとり歩き、ススキを眺め、「ただいま!」と言う自分が、確かにそこにいたから。
野良猫と遊び、手を真っ黒にして、私は本当の私になれるから。

まっ、見ず知らずの女から「ただいま!」って言われても、このデブ野良ちゃんも困るだろうけどさっ(笑)

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4 コメント

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人は思うほど理解して頂けないものですよ… (t-cat)
2005-10-14 22:39:46
erima様



私、思うのですけどね、

erima様は何事にもとことん突き詰めてしまう、

凝り性のところがおありなのではないでしょうか。



「度を超す」と判断するのは回りなので、

自分で納得できなければちっとも「度を超し」ては

いないのですが……



私は私、と思ってはいても、

やはり心の奥底で人に認めてもらいたい、

自分のがんばりを見るだけじゃなくって

評価してほしいと、どこかで望む自分がいる。

自分が望むような答えが欲しい…



至極自然なことなのだと思うんです。



でも、ホントに必要なのは、

望んだ答えではなく、

突拍子もない、心のこもった

答えの方だったりするのですよね。



erima様がご家族のことを語られる時、

言葉の端々に信頼と愛情がきら星のように

きらめいていて、

読む私にも、ほっとした、温かいものが

伝わってくるような気がします。



何か忘れていたけれど大切なものがあるような、

そんな気になれるんです。



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わたしも。 (yuimin)
2005-10-15 01:07:32
最近になってようやく子供に近づけたような気持ちがしています。

幼いころから感情よりも論理(理性?)で行動してきました。こうしたいよりこうであらねばならないが常に優先だったんです。

はじめて勤めた会社では体も心も鉛のように固まってしまい心と体がちぐはぐで。誰からも受け入れてもらえず心身をこわしてからやっと気づいたんです。

大人になったいま、こどもの心でいられるって幸せですね。
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熱しやすく冷めやすい (erima)
2005-10-16 00:54:58
t-cat様



そうですね~。そういえば私、凝り性の上、

飽きっぽいです。

とことん突き詰めるわりに、放り出すと早い。

それと「頑張る」のは大嫌いなんですけど.....。

イメージを押し付けられることに慣れてしまって、

否定するのに疲れた、とか。



「あなたはこういう人であってほしい」とか、

「もっとこう出来る人だ」とか、

きっと誰もが周囲に言われる事なんでしょうけど、

「俺だって人間なんだぞ~」って、

思うことありますもんね。

ゴンザは私が食べ物をこぼそうと、鼻水を垂らそうと、

笑って見ていてくれますから(って、鼻たらすなよ)

やっと人間であることを許された感じです。

ああ、そういえば、数年前誰かに

「最近erimaちゃん、ようやく人間っぽくなった」って

いわれましたっけ(外見含む、らしい)。



家族のことは.....正直自分にもわからんのです。

信頼と言われると違うような気もするし、

でも、置いてきた感情や愛情には、

きっとすごい未練があって。

たぶん、家族のことを書き続けるのはそのせいでしょうね。



でも、思い出が大切なのは確かです。

いいことも悪いことも含めて。



あれ...なんか、多重人格者っぽい?

















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子供は頑張り屋 (erima)
2005-10-16 01:25:59
yuimin様



「こうありたい」より「こうであらねばならない」。それは誰もがぶつかる壁なのでしょうね。でも、幼い頃からそのことに悩む人と悩まない人に分かれるのはなぜなのでしょう。環境か、周囲の期待なのか、持って生まれた性格なのか.....。苦しんで悩んでも答えは見つからない。

なのに。良き理解者をひとり得ただけで、一挙にすべてが解決、なんてことも起こるから、人生ってわからない(笑)たぶん、今yuimin様がこどもの心でいらっしゃれるには、ご主人の存在、ダヤンちゃんの存在が大きな意味を持っているのでしょうね。私がゴンザによって初めて、こどもに戻れたように。

でももしかして、そんな出会いに恵まれた私達って、ものすごい幸せ者!?

これからも、共に素直な心で、「こども生活」頑張っていきましょう。
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