上海は昨日からよいお天気でした。今朝も良さそうで、最高気温は8度、明日は10度まで行くようです。吉林は、昨日大分冷え込んだようですが、この週末は最高-3度まで上がるので、霧淞は見られないと思います。
今日は陝西咸陽にある乾陵の陪陵の一つである永泰公主稜です。永泰公主は唐の高宗李治の孫、中宗李顕の娘です。本来は、中宗の陵墓の培稜に葬られるべきですが、17歳で若くして死んだので祖父母である高宗の則天武后の乾陵の培陵となったようです。
中宗は、高宗と則天武后の間に生まれ、684年に即位したのですが、2ヶ月でその母親である則天武后により退位させられ、則天武后が皇帝になりました。則天武后は、国号を「周」とし、長安から洛陽に都を構え、神都としたそうです。後世の歴史家は春秋時代の周と区分する為に「武周」と呼ぶのだそうです。
そして、705年に則天武后が危篤になってから、中宗は再度帝位につき、唐を復興したのだそうです。永泰公主は中宗李顕を父親に684年に生まれ、701年17歳で亡くなったとのこと。生まれた年は、中宗李顕が帝位について、すぐ退位した年にあたります。永泰公主が亡くなった年は、則天武后がまだ帝位にあった時です。この年数は諸説有り、不確実ですが、大体の時期として捉えて下さい。
公主は、皇帝の娘として生まれた者につけられる称号で、何故永泰公主と呼ばれるのか、確実な説はないようです。一説には、亡くなった時は郡主とされ、中宗が復位した後(永泰公主の死後ですが)、公主の号を送られ、墓も改葬して陵とされたと言われます。
永泰公主が有名になったのは、その陵が1960~1962年に発掘され、壁画が多く出てきたからです。この陵は盗掘にあった跡はあるのですが、保存のよい状態で壁画が出てきました。永泰公主の陵は、現在乾稜博物館となっています。乾稜の培陵ではありますが、乾陵参道から歩いては行けず、車で移動するくらいの距離にあります。
まず最初は、入場門を通りぬけた地点です。
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今日は陝西咸陽にある乾陵の陪陵の一つである永泰公主稜です。永泰公主は唐の高宗李治の孫、中宗李顕の娘です。本来は、中宗の陵墓の培稜に葬られるべきですが、17歳で若くして死んだので祖父母である高宗の則天武后の乾陵の培陵となったようです。
中宗は、高宗と則天武后の間に生まれ、684年に即位したのですが、2ヶ月でその母親である則天武后により退位させられ、則天武后が皇帝になりました。則天武后は、国号を「周」とし、長安から洛陽に都を構え、神都としたそうです。後世の歴史家は春秋時代の周と区分する為に「武周」と呼ぶのだそうです。
そして、705年に則天武后が危篤になってから、中宗は再度帝位につき、唐を復興したのだそうです。永泰公主は中宗李顕を父親に684年に生まれ、701年17歳で亡くなったとのこと。生まれた年は、中宗李顕が帝位について、すぐ退位した年にあたります。永泰公主が亡くなった年は、則天武后がまだ帝位にあった時です。この年数は諸説有り、不確実ですが、大体の時期として捉えて下さい。
公主は、皇帝の娘として生まれた者につけられる称号で、何故永泰公主と呼ばれるのか、確実な説はないようです。一説には、亡くなった時は郡主とされ、中宗が復位した後(永泰公主の死後ですが)、公主の号を送られ、墓も改葬して陵とされたと言われます。
永泰公主が有名になったのは、その陵が1960~1962年に発掘され、壁画が多く出てきたからです。この陵は盗掘にあった跡はあるのですが、保存のよい状態で壁画が出てきました。永泰公主の陵は、現在乾稜博物館となっています。乾稜の培陵ではありますが、乾陵参道から歩いては行けず、車で移動するくらいの距離にあります。
まず最初は、入場門を通りぬけた地点です。
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