今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

青虫事件

2018-04-24 07:54:37 | 想い出

私には、、その時の驚きとショックは相当なものでしたから、青虫事件は、一生忘れることはないでしょう。

青虫って、実際に目の前で観たのは、おそらくその時が初めてではなかったでしょうか。

いえ、それはさすがに、ちょっとオーバーかしら。

でも、過去に見た記憶がありません、

そういえば、絵本に、青虫が主人公の有名なお話がありましたね.

題名は、「はらぺこあおむし」

孫達が幼い時大好きで、よく読んで聴かせたものでした。

鮮やかな絵とシンプルなお話が、絵本の素晴らしさを十二分に発揮し、子供たちの心を捉えて離しませんでした。

私も大好きでした。

 

 

恐らく、これからお話する、我が家の庭にいた青虫も、お腹が空いていたのでしょう。

その様に、想像力を働かせていたなら、あの日のように残酷な行為を、私はしなかったかもしれません。

今思い出しても、申し訳ない事をしてしまった、との思いに駆られます。

その青虫事件の詳細の記述は、次回に回します。


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感謝で抱きしめたくなるようなお手紙

2018-04-05 07:31:10 | 想い出

今日は、少々おこがましい行為ですが、あるお手紙をブログ上に載せたいと思います。

載せるべきかどうか、随分迷いました。

恐らく、自慢話と受け留める方がいらっしゃるのでは、と、不安だったからです。

 

でも、こんなに心温まるお便りは、めったにいただけるものではありません。

その文面は、抱きしめたくなるほど、心優しいお言葉で溢れていました。

 

その手紙は、私が模範とし、尊敬して止まない方からのものです。

 国立大学の名誉教授で、ドイツ文学者でいらっしゃいました。

一昨年の冬に、享年90歳で亡くなられ、もうお会いすることはかないませんません。

昨日の記事で、「しみじみとした素敵な思い出について明日は書きます」と述べたのは、この先生のお宅に弔問に伺った時のことです。

このことについて、K先生との出逢いやその後の交流は、次回の記事に回します。

 

同窓生のN君のお世話で、初めてK先生の宅に伺った時の写真です。
数十年ぶりの再会でした。
右がK先生です。

 

今日はK先生からいただいたお手紙についてのみの、私の溢れるような思いを記します。

私はそのお手紙を、文箱ではなくて、いつでもすぐ手に触れることができる、身近な引き出しに収めています。

でも、読むのは、本当に久しぶりでした。

 

それを読み終わった後、私の目は、涙で濡れていました。

そのくらい、また感動してしまったのです。

 

この温かなお言葉に、私は十分応えるような対応を、その後、先生にしたであろうか。

否としか、答えられない、過去の自分が情けなく、たまらない気持ちで昨日の半日を過ごしました。

もっともっと心を込めた気配りで、K先生に接するべきだった、と後悔の念で一杯に。

最愛の奥様を失くされ、侘しいお一人暮らしでいらっしゃいましたのに。

 

けれど私は、先生との数十年ぶりの再会を果たした直後あたりから、夫の看護と介護に追われる日々でした。

そのため、心にもないご無沙汰を重ねてしまったのです。

先生からお手紙を頂くたびにお返事は認めたとは思いますが、それも心もとない記憶です。

先生からは、年賀状以外に、数通のお手紙。

さらに、教え子の集まりで岡山にお出かけになる度に、マスカットをお届けくださいました。

 

 

K先生から届いたお手紙や文集です。

 

昨日は、懐かしさで一杯になり、K先生のお優しいお手紙を読み返して過ごしました。

 

思い切って、そのお手紙の一通を、今日はご紹介させていただきますね。

わたしへの褒め言葉は、とても心優しいK先生の私への気遣いに他なりません。

過大評価です。

言葉通りに受け取らないでくださいね。

現実の私はかなり違いますから。

 

 

K先生のお手紙で注目していただきたいのは、若い頃、指導した(個人教授として)教え子に再会できた喜びを、温かな言葉で率直に表現してくださっているところです。

「あの日は本当にしみじみ楽しい日でした。~さんのご両親の事、~町のご近所の人々のこと等々、いくら話しても尽きない想い出が次々と湧いて出ました。河豚料理を戴きながらこのまま時間を引き留めたい気持ちでした。「神よ時を留めたまえ」と祈ったのは、キーツだったでしょうか。あんなに速く時間が過ぎたことは最近は経験したことがありません。別れが寂しかったです。」

さらに続きますが割愛します。

 

しみじみ良いお手紙だと、感じ入りました。

私も、人をもっともっと大切に思い、受け取った人が感動して下さるようなお便りが認められる人になりたい、と心から思いました。

今はK先生ご夫妻への感謝を込めて、ご冥福をお祈りするばかりでいます。

 

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掛け替えのない想い出二つ~原爆記念日にあたっての私の思い

2017-08-06 07:16:49 | 想い出

長い間、ブログで触れることなく、気になって仕方がなかった話題が二つありました。

妹と一緒に出掛けた箱根旅行と、親友Kさんご夫婦を、我が家にお招きしたことです。

二つとも、私には忘れることのできない良き思い出。

ブログに特記しないわけにはまいりません。

 

ところが、ガーデニングと信州旅行の記事が、思いのほか長くかかってしまって。

その間に、次第に記憶が薄れ、具体的なことが何も思い出せないような気持ちになってしまいました。

そうすると、自分の文章力に自信が持てない私は、ますます書きづらくなります。

できるだけ具体的に書くことを旨としている私なので、なおさらです。

 

たまに文章読本を読むと、良文の条件に「具体的につづる」があります。

具体的に書くことは、観念的な文章よりはるかに書きやすいし、読者もわかりやすい事でしょう。

村上春樹氏の文章は正にその通りですね。

彼の旅行記は、実に細やかな具体的描写が多いです。

そのため、臨場感がたっぷり味わえ、自分がまるでそこに居合わせているよう。

言葉も文章も、とても易しい。

私が理想とするところですが、こんなことを言うことさえおこがましくて、恥ずかしい限りです。

 

「遠い太鼓」の2ページ目。
昨年あたりから、村上氏の本を読むことが多くなりました。
と言っても読むのが遅い上に、同時に多読する私のこと。
去年から今年にかけて読んだ春樹氏の書物は数冊。
すべて古いエッセイばかりです。

 

 

6月に珍しく、長い連続投稿を心掛けたのも、何事も記憶の鮮度が高いうちに書いてこそ、多少は良い文章が綴れる.

書くのも楽.

そう思ったからでした。

確かに、それが実感できた私でしたが・・・・・・。

体力、気力の点で、無理なところがあり、ギブアップしてしまいました。

 

上記の理由から、少々不安ですが、、二つの思い出を、一生懸命たぐりよせながら、明日から綴ることに致します。

 

 

 

今日は原爆記念日。

72年前の午前8時15分、B29により、広島に原爆が投下され、一瞬にして14万人の命が奪われた日です。

父の命日でもあります。

父母は、一歳の私を抱え、広島で暮らしていました。

爆心地から3キロの地点に住まいがあり、そこで被爆した私達です。

閃光で、窓のガラス戸がすべて砕け散ったとのこと。

 

父は、その前日出張から帰宅したばかりでしたので、通常より、出勤を30分遅らせることができました。

この悲劇と紙一重の奇跡的な幸運で助かった父の命です。

 

父が務める会社の所在地は、爆心地から数キロの徒歩圏内。

そのため、いつも通りに出勤した人たちはほとんどん亡くなられたことでしょう。

母も、勤労奉仕の順番が1日早ければ、私を背負ったまま亡くなっていたとのことです。

一つ前の通りの主婦の方々は、全員被爆で命を落とされたと聞きました。

 

父は被爆後の当日、会社に出かけています。

三キロの道のりの、地獄図のような焼野原を通り抜けての事でした。

帰りには、黒い雨にも打たれたようです。

脳裏に焼き付いたその無残な光景は、とても口にできないほど、生々しく辛いものだったに違いありません。

だからでしょうか。

私と妹にその後、原爆の事を語ることはほとんどありませんでした。

 

 

そのお蔭と言いましょうか。

1歳と4か月で被爆した私にもかかわらず、その暗い運命を背負って生きるような思いをしないですみました。

風評も、なぜか私の耳に入ることは、その後まったなく、被爆者の負い目を感じたことも一度もありません。

幸せな結婚もできました。

あと二年で後期高齢者になりますが、今のところ、このように元気。

 

父は享年、81歳。

母は、75歳で亡くなりました。

死因は、被爆が疑われないわけでもありませんでしたが、生を全うしたと言えるでしょう。

 

 

被爆はとても恐ろしい事です。

けれど、被爆した事により、いたずらにそれを恐れ、委縮した人生を送るのはあまりに悲しい事ですね。

その後も元気で生きられた、生き証人がここにいます。

運が良かっただけかもしれません。

ずっと長年苦しまれてきた被爆者の方々も、大勢いらっしゃることでしょう。

その方々のご苦労は察して余りあるものがあります。

 

いずれにしても、ドームの碑に刻まれた、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の言葉を忘れないようにしましょう。

三度許すまじ原爆を、です。

 

 

原発の是非は、私にはよくわかりません。

原発事故は、怖い事ですが、地下資源が底をつく日もそう遠くない地球。

原発が利用できないと、人類は生き延びられないといったお話を、学者さんから直に聞いたことが私はあります。

 

但し、核兵器の使用は絶対反対!

もしかすると、正気と狂気が紙一重なのが人間かもしれません。

そう思うと、とても恐ろしくなりますが、人の英知と良心を信じるしかありません。

孫たちや子供たちの幸せな未来を祈りながら・・・・・・。

 


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続 私の心の支えとなった友人の言葉

2016-07-15 07:16:53 | 想い出

中高時代は、まだ自我が確立されておらず、悩み多き、ひ弱な学生に過ぎなかった私。

そんな私を心配されたのでしょう。

高校時代の恩師、H先生が私に贈って下さった卒業時の言葉は、「大地を踏みしめて歩いていこう」という、特別なものでした。

友、Iさんは、おそらく私のその印象が、完全には拭い切れておられなかったのかもしれません。

 

その友人のお父さまに当たられる小学校の恩師、I先生のお墓参りを兼ねた同窓会が、伊勢で開かれた時、数十年ぶりに彼女に会いました。

昔と変わらない、楚々とした慎ましい雰囲気のIさん。

今は茶道の先生をなさっておられるようでした。

私が前々回の記事で綴った、日本古来から伝承されてきたお稽古事を、マスターの域まで極められたお手本のような人。

清楚な凛とした佇まいでいらっしゃいます。

その時久し振りに、いろいろ語り合うことができた私達。

 

その半年後の年明け、私は久しぶりでしたが、彼女に、夫が亡くなったことを知らせる喪中葉書を出しました。

このたび、ご紹介させていただいた彼女の言葉は、そのお返事に書き留められていたものです。

 

「腰の痛みにかかわらず貴女が、どんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました」

 

素直に嬉しく、この言葉を幾度もかみしめた私です。

 

 

もしかすると、彼女は、中高時代との私の変わりように、驚かれたのかもしれません。

多少趣が違いますが、40代後半の頃でしたでしょうか。

妹に、「過去のお姉さまと、今のお姉さまは別人のよう」などと言われたことがありました。

 

確かに私自身も、青春時代を含めた若かりし時の自分より、厳密にいうなら、30代後半頃からのの自分の方が遥かに好きです。

夫の海外赴任で、米国に在住した頃に重なります。

一皮むけられたのは、この時代に出逢えた、良き友人達の薫陶のお蔭だと思っています。

とはいえ、相変わらず、妻として母親として試行錯誤の連続でしたが、大地を踏みしめて、私なりの人生をしっかり歩めるようになっていました。

理想は高いながら、自分の弱さには勝てず、矛盾を一杯抱えながら、それを乗り越え乗り越えの暮らしでしたが。

努力が一つ一つ成果となり順調に実る、幸運な人生だったように思います

その私の人生を陰になり日向になり、ずっと見守り続けてくれたのが、夫です。

 

 

結婚当初は、世間知らずで、何事に臨んでも要領が悪く、未熟そのものな女性に過ぎなかった私。

そんな私にもかかわらず、全幅の信頼を寄せ(?)、家事全般、子育てに至るまで、すべての事を私にまかせてくれた旦那さまでした。

時には、その重荷に耐え切れず、「もっと手伝ってよ」との愚痴を述べたことも再々ありましたが。

夫のこの姿勢のお蔭で、娘時代とは見違える程、私は逞しくなり、恩師の言葉通り、大地をしっかり踏む締めて歩けるようになりました。

 

寡黙な旦那さまで、優しい言葉などかけてもらった覚えはほとんどないけれど・・・・・・。

夫が私に寄せてくれたこの信頼こそが、何よりの優しさだったと思うこの頃です。

 

文句や愚痴を述べたことがほとんどない人。

投資で、ひと財産を失うといった愚行を私が犯した時でさえ、咎め立ての言葉一つ言わなかった人でした。

娘たちを叱ったことも一度もありません。

子供たちを叱る憎まれ役は、私と決まっていました。(笑)

 

 

おおらかな気持ちで私たち家族を常に見守り、経済的にも何不自由のない暮らしをさせてくれた旦那さま。

私はその庇護のもと、伸び伸びと、自分が立てた夢多き人生設計の道を、幾度も脱線しながらも、幸せに歩むことができました。

 

私の友人の「貴女がどんなに幸せな人生を・・・・・・」の言葉は、すべて夫のお蔭によるものです。

 

命日になるとお花屋さんから、花束が届きます。
Mちゃん!ありがとう

 

がんが骨に転移し、激痛に苦しんでいる頃の旦那さまは、弱音も幾度か吐きました。

とても強い人だっただけに、最後の変わりように、私は驚きもしましたが。

「傍にずっといてほしい」とつぶやいたその当時の旦那さまへの愛しさが、今は切なさと共に、一層募って仕方がない私です。

今なお、「ありがとう」の言葉しか浮かんでこない暮らしの日々を、私は送っています。

 

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私の心の支えとなった友人の言葉

2016-07-14 07:17:54 | 想い出
夫の葬儀後に頂いたお手紙やメールにおける、とても印象的な言葉。
 
今も深く心に刻まれ、折々で私を励まし、慰め、支えてくれていることについて、少しずつ書き留めていこうと思います。
 
 
「豊橋でなん十年ぶりでお会いしたとき、腰の痛みにかかわらず貴女が、どんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました」
 
 
 
 
 
私はこの一言を目にした時、友人の優しい気遣いを有難く思うとともに、改めて夫への感謝の気持ちが溢れ、涙しました。
 
 
 
 
 
 
私が秘かに慕い尊敬して止まなかった中学の同級生、Iさんからのお手紙に書かれていた文章です。
 
Iさんは、私が小学生の時、六年間にわたってお世話になった担任の先生のご長女でした。
 
とても優しくて、お姉さんぽい雰囲気。
 
学業も、とても優秀な人でした。
 
 
彼女とは親しくなりたかったのだけれど、結束の固い仲良しさん達がすでにもういて、そのグループに入れてもらえなかった辛さは、今でも思い出します。 
 
その頃の私は、主体性などまるでなく、どこかお嬢様気取りのおとなしいに女子学生に過ぎませんでした。
 
お嬢様気取りなぁ~んて言っても、一介のサラリーマン家庭の娘に過ぎなかったのですけれどね。(笑)。
 
 世間知らずもいいところでしたし、花にたとえれば、「白百合」なんていわれて、清純派ぶっていました。(笑)
 
そんなひ弱な雰囲気の私に、彼女は魅力を感じなかったのでしょう。
 
 
そのクラスは、個性的な学生が多く、学校行事にも前向きでとても良いクラスでした。
 
中学の難関試験を合格した優秀な学生が大半を占めていました。
 
私は、小学校からの持ち上がりで、受験は経験しなかったも同然。
 
そのためか、中学入学後は、最初からコンプレックスが結構大きかったように思います。
 
 
 
 
小学校高学年になるまでは、勉強なんて一生懸命した覚えはほとんどなかったけれど、オール5が当たり前のような生徒でした。
 
小学校レベルの内容なら、何をしなくても十分ついていけていた私です。
 
 
 ところが、中学に入学した途端、委縮してしまって、成績はみるみる下り坂。
 
(ネットで調べたところ、私が小学生当時の成績表は、かなりアバウトなものだったようです。
頑張っている子には、オール5の成績を先生がよく付けた、と書かれていました。笑)
 
 
けれど、中学の学習内容は、そんな生易しいものではありませんでした。
 
無力体質との診断を受けたほど、疲れやすかった私。
 
勉強に取り組み、やる気は十分あっても、すぐぐったりしてしまって、集中力が続きませんでした、
 
それも原因の一つだったかもしれないけれど、要領も悪くて勉強のコツがよくわかっていなかった私です。
 
 
前のお宅にお住いだった大学講師のK先生が週一回、ご指導下さったお蔭で、英語だけは、よくできましたけれど。
 
高校時代は、数か月、登校拒否もしたりして・・・・・・。
 
ですから中高時代の自分が、今思い出しても一番好きになれません。
 
 
 
 
 
そのため、大学は、恩師のF先生の推薦で、或る中堅のミッション系の女子大に入学でき 英文学を専攻しました。
 
最初の二年間は能力別クラスになっていて、私は英語だけは比較的優秀だったらしく、一番良いクラスへ。
 
大学時代も、後悔することはいろいろあるけれど、心から信頼できる友人二人に恵まれ、充実した学生生活を過ごせました。
 
そのうちの友一人は、亡くなって二十年以上が経ちます。
 
めったに会えないもう一方の名古屋在住の親友は、今でも、私の心の友であることに変わりありません。
 
電話でたまにお話すると、身内のような親近感を覚えます。
 
 
冒頭でご紹介した今日の記事のテーマらしき言葉から、随分外れた内容になってしましました。
 
いかに私が、か弱くて存在感の薄い人間であったかを説明したくて、前置きが長くなりました。
 
それが、中学時代の友人、Iさんの
 
「腰の痛みにもかかわらず、貴女がどんなに幸せな人生だったか、すぐわかりました。」
 
に繋がるのでしょう。
 
この続きは、明日にさせて頂きますね。
 
 
追記
 
拙いブログにもかかわらず、たくさんの方達に応援いただき、ありがとうございました。
思うところがあって、しばらくランキングを外れようと思います。
 
結構気が小さい私。(笑)
半年ほど前でしたでしょうか。
マイページのポイントが操作を受け、大きく変動したことがありました。
夫が亡くなり、しばらくお休み後、復帰した頃の事です。
 
1000以上あったインポイントが、突然800くらい削られ、260ほどになり、動かなくなりました。
数日不自然な動きが続きました。
数度ブログ村に、その原因を問いあわせましたが、無回答でした。
それ以来、不信感が拭えなくなってしまっている私です。
 
それとは別に、インポイントがいつもに比べ、異常に少ない日があると、自分では正直に書いているに過ぎなくても、自慢話に聞こえて、皆様の心証を悪くしてしまったのでは、などとくよくよ、ドキドキする自分がいます。
そんな自分が情けなくて嫌でたまりません。
過去、数年に亘って中傷を受けたトラウマから、完全に立ち直れていないのかもしれません。
 
煩うことなく、伸び伸びと記述するために、ランキングを外れる方がよいのでは、と思い始めました。
単なる気まぐれにすぎないかもしれません。
またすぐ戻ってくるかもしれません。
その時は、今まで同様、お付き合いの程、宜しくお願い致します。
 
お休みの間に、今後どのようなスタイルでブログ綴りに臨めばよいのか、試行錯誤してみようと思っています。
知識もボキャブラリーも乏しく、文章力に全く自信がない私。
ブログ綴りは、結構苦労を要する作業です。
でも辞めることはできません。
止めると、ボケが一気に進んでしまいそう。
認知症になるのが怖いから。(笑)
予防に、ブログ綴りほど効果があるものを、私は他では見つけられません。
 
皆様の温かな励ましの応援に、心より感謝申し上げます。
ランキングは外れますが、ブログ村には今のまま在籍させていただくつもりでいます。
新着記事が目に留まりました時には、宜しければ、お立ち寄り下さいませ。
 
バナーを一旦外しましたが、取り付けたままにすることに致しました。
 

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続 お稽古の話

2016-07-13 07:23:39 | 想い出

私が娘時代の頃の事です。

母に勧められ、あるいは自分で興味を抱き、始めた習い事に、下記のようなものがあります。

茶道(表千家)、華道(小笠原流)、お習字、日本舞踊(花柳流)、洋裁、料理等。

 

そういえば就学前から、小学生の低学年の間、絵画教室にも週一回通っていました。

その頃、妹はバレーのレッスンに励み、そのバレー団の子供のプリマドンナ的存在として活躍していました。

母の話では、私は体が弱かったので、お絵描きの教室が向いていると感じたようです。

私の絵画教室の先生のお名前は、今でも覚えています。

下村先生。

細身で背が高く、優しい雰囲気の方でした。

家から、かなり遠く離れたところにお教室があったため、いつも母が付き添ってくれたものです。

 

 

もしかすると、母は、その子の興味の対象と、潜在的な才能を見抜く能力にたけた人だったのかもしれません。

妹同様、私の才能が、短期間でしたが花開いた時期がありました。

朝日新聞主催の全国コンクールに入賞したり、学校の宿題となった夏休み帳のドリルの裏表紙に、私の絵が載ったりしました。

図工の先生が、私に一目置いていらっしゃる、との意識もありました。

二名だけ図工室に呼ばれ、放課後、絵を描かされたりしたこともあります。

 

でも数年間ほど習ったのみで、その絵画教室に通うのを止めてしまった私です。

母に連れられ、デパートで催された印象派の絵画展を鑑賞後、帰宅するとすぐ、絵筆を握って絵を描きだすような子供でしたのに。

続けていれば、私の人生のどこかで、その才能が花開いたかも知れませんね~

なぁ~んて、私の勝手な想像です。

孫のR君とK君は、お絵描きが大好きで、才能も感じられます。

もしや、私の遺伝かなあ~なんて、またまた。(笑)

 

 

今春、わが家の庭に咲いたバラのアイスバーク

 

絵画と同じくらい、多少長く続いたお稽古事に、茶道があります。

中学生時代、ご近所のお宅で習いました。

わが家から数軒先のお宅で、広いお庭の隅に本格的なお茶室がありました。

 

私は若いというだけの理由で、年明けの初釜の日に、お点前をするように仰せつかった事があります。

周りはみんな年配の貫禄あるおばさまたち。

緊張のあまり、柄杓を持つ手が小刻みに震え、炭火で熱くなった鉄の茶釜に、掬ったお湯が滴ってしまいました。

確か、お茶室のお湯が煮えたぎる音を、「松風の音」と言いませんでしたかしら?

風雅なたとえですね~。

ところが私は、そのお茶室の静謐さに水を差すような音を、そのせいで立ててしまいました。

恥ずかしさから、ますます緊張して、お点前を続けたものです。

 

母の遺品のお茶道具
和室には、炉が切られていました。

 

わが家から近かったのは、茶道の先生のお宅のみならず、華道の先生も同様です。

何とお隣でした。

お庭は、手入れが行き届いた実に立派な日本庭園。

起伏があり、鯉が泳ぐ池には石橋までかかっていました

それを臨む広いお縁側で、お稽古を受けました。

権威ある有名な先生でいらしたようで、とても活躍しておいででした。

 

今なら、いくら出好きでない私でも、地理的な利便性がこんなに良ければ、熱心に通って、自分のものにしたでしょうに。

臆手で精神的に幼かった私には、そんな意欲がなかったのでしょう。

何をお稽古しても長く続けられなかった私。

それにもかかわらず、お月謝を払い続けてくれた両親のことを思うと、改めて感謝の気持ちが湧いてきます。

 

妹は(ブログ名 ただ一つだけの姥花日記)、私と違い、茶道はお免状を頂いているはずです。

バレーも、そのバレー団の子役として大活躍しました。

森下洋子さんとは、一時、そのバレー団で、一緒にレッスンを受けたことがある妹です。

私とは大違いですね~。

 

ドリームラベンダー

 

他で思い出深いのは、日本舞踊。

郷里では母のお師匠さんからご指導を受けました。

父の転勤先でも、お稽古に週一回通いました

お稽古用の浴衣を着て、扇子を手にすると、おのずから背筋が伸びて、心が凛としたものです。

夫とお付き合いを始めた頃も、まだ続けていました。

辞めてからも扇子は、長い間、身近において大切にしていたのですが、その内に見当たらなくなってしまいました。

 

同じお稽古場でお習字も習っていました。

花嫁修業として、お料理学校にも、もちろん通いましたが・・・・・・。

 

けれど結局、何一つ、ものにできなくて・・・・・・。

お月謝を無駄払いさせてしまった両親に申し訳ない気持ちがします。

けれど、短期間でもいろいろなことを体験できた私は、本当に恵まれていました。

きっとわずかでも、その経験が、私の心の糧となり、成長の助けになってくれたに違いない、と思うこの頃です。

 

 

 ご覧下さいまして有難うございました。

 

 花のように泉のように

 

 


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お稽古の話

2016-07-12 07:14:42 | 想い出

お稽古。

何となく古風な響きがし、奥床しさが感じられる言葉ですね~。

ブログを拝読していますと、いろんなお稽古に励まれた方の記事を目にすることがあります。

私はそれだけで、その方に一目置いて、あこがれの眼差しさえ抱いてしまいます。

 

何故なら、私も娘時代、母に導かれ、或は自発的に、随分いろいろなお稽古に手を付けました。

でも長くて、続いて2~3年。

その道を究めるほどに至ったことは、一つとしてありません。

何か一つくらい免許皆伝のものがあれば、ブログ記事で話題にでき、私の格をチョッピリ上げることができたかもしれませんのに。

格を上げるという言い方は語弊があり、抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。

けれど、お稽古の表現がふさわしいものと言えば、日本古来から伝わる習い事が多いですものね~。

一概に日本的なものばかり、とは言えないかもしれませんけれど。

西洋・東洋の伝統を偲ぶような習い事もありますから。

 

 鎌倉へ一人旅した時に撮った長谷寺のアジサイです。

 

私が常に愛読している書物に、次のような記事が載っています。

「稽古」の「稽」は「考える」と言う意味です。ですから「稽古」は昔の物事を考える、古書を読んで学問をする、ということになるわけです。この意味が、時代の移り変わりとともに広く使われるようになり、「学習すること」や「練習すること」も稽古といわれるようになった。でもね、「練習する」といっても、「バスケットボールの稽古」とか「スキーの稽古』とはいわないでしょう。やはり「生け花」「茶の湯」「書道」「琴」などの場合に「稽古」を使う。何故か。これらの伝統技芸には、古くから伝えられた型があって、その型から入ってゆくからです。だから「練習」ではなくて稽古なのです。

中略

古くから伝えられた「型」は生きている。生き続けてきた、と言えるのです。今日の型になるまではに、余分なことは削られ、必要なことは付け加えられてきた。つまり、「定型」と言うのは実は無いのであって、型は常に生成発展をしている、いわば歴史上の生き物なのです。

 

これを読んで、私も古来から伝授され、生成発展してきたような奥の深い習い事を一つくらい極めるべきであったと。

今更反省しても、もう遅い。

いえいえ、スポーツのように体力を余り要しないので、これからお稽古に励んでもいいのかもしれない。

けれど、私はまたきっと、三日坊主とはならなくても、そのうち辞めてしまいそう。

マイペース人間ゆえ、日が決められ、週に一回でも必ず拘束されてしまう事を好まない性格です。

習い事は向いていないのかもしれません。

 

 

 

自分にはそういった情けない面があるので、一つの事を極める人に、私は頭が下がります。

芯がスッと通り、ぶれない凛とした人を心に描いてしまうのは私だけでしょうか。

茶道でも、華道でも、日本舞踊でも、師匠となられるような方々は、皆さんそのような雰囲気をたたえておられませんか。

私にはその様に思えてなりません。

 

そういえば、身近に、伝統的なお稽古ごとに励み、一つ一つものにした人がいました。

私の母です。

お琴、茶道、華道、お習字、日本舞踊、短歌等。

お琴のお稽古に励む母の姿を見たことはありませんでしたが、八畳の和室の床の間には、長い間、お琴が立てかけてありました。

娘時代に精進した和楽器のようで、想い出のアルバムにその姿が見られます。

その他のお稽古事にも励む母の暮らし方が、私の胸に印象深く焼き付いています。

 

母は、努力のみでなく、天性の器用さに恵まれた人でした。

上に挙げたようなお稽古事は、ことごとく自分のものとして、マスターの域に到達していました。

お習字や短歌は入選作品もあり、母が嬉しそうに私に、よく報告してくれたものです。

日本舞踊もかなり上達し、花柳流のお師匠様と発表会の舞台で連獅子を舞った時の母の姿が忘れられません。

 

 

このように何事にも一生懸命臨み、途中でいい加減な挫折を良しとしなかった母。

それゆえ、如何なる時でも姿勢を崩さない凛とした人で、振る舞いも美しい人でした。

恐らく、日本古来から伝わるお稽古ごとに精を出したことにより、自然に身についた所作だったのでしょう。

他に、お料理、編み物なども得意とした母です。

 

 

母に比べ、私の習い事、お稽古ごとの何と浅く、いい加減なものであったことか。

もっとひとつひとつ努力を重ねていれば、それが私の人格を多少でも薫り高いものにしてくれたでしょうに。

今更、後悔しても始まりませんが、束の間の期間でも体験できた事を喜ぶことにしましょう。

何か目に見えない形で、私の成長の糧になっていると思うからです。

 

明日は、私がこれまで習ってきたお稽古事や習い事について、お話させていただきますね。

 

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筆まめだった母の想い出

2015-03-21 07:39:17 | 想い出

先日の或る日の記事に、両親の遺品の文箱の画像を載せました。

その時、母が筆豆だった想い出をいつか綴りたいなぁ~と願ったのですが・・・・・・。

綴りたくても、思い通りに書けるかしら、と思うだけでで小さなストレスに。

可笑しな私ですね~

長文の傾向から抜け出せないことも、影響していることでしょう。

作文を書くような気持ちになってしまうのですよね。(笑)

 

蛇足ですが、こんなことを書くと自慢話と受け止められないかしら、としばらく悩んで、書いたり消したり、と。

ブログなんて、個人日記に過ぎず、ご覧下さる皆さまは、見知らない方達ばかり。

心から気楽に楽しんで綴ればよいものを、生真面目な(?)性格が、それを邪魔するようです。

 

今日はできるだけ気楽に綴りましょう。

とは言っても、母の疎かにはできない想い出。

 

 

さてその母は、私と異なり、とても筆まめでした。

筆まめだけでなく、字も達筆で、流れるような美しい字を書く人でした

年賀状は、得意な毛筆でしたためられていることが多かったです。

孫たちにも、よく手紙をくれました。

海外に在住のころは、孫のみならず私をも気にかける便りを頻繁に届けてくれたものです。

文章も、私たち家族を思う母の心情が溢れていて、いつも抱きしめたくなるほど、温かな内容でした。

 

母が筆まめで文章が上手だったことをよく物語る、エピソードがあります。

それをご紹介させていただきますね。

但しちょっと心配。

先ほど書きましたように、自慢話のように受け止められてしまわないかしら、と。

自慢するつもりはなく、知性が際立った人から褒められた母をすごい、と感嘆した覚えがあるからです。

 

 

私が娘時代のこと。

確か、中学生時代の想い出です。

束の間のことに過ぎませんのに、今も忘れないのは、よほど私の心に深く刻まれたのでしょう。

 

父方の祖父が、母の手紙を手にし私に見せながら、その内容と、届けたタイミングを、大層褒めたことがありました。

祖父は、ある国立大学の学長になった職歴を持つ、とても学識の高い人でした。

その祖父に、専業主婦に過ぎない母の手紙が褒められ、私は子供ながら余程嬉しかったのかもしれません。

そして母に感心したのだと思います。

 

もう遠い過去の事ですから、記憶が曖昧で正確ではありませんが。

「大変な状況の中、要領を得たこのような手紙が書けるお母さんは大したものだよ」

確か、こんな褒め言葉ではなかったかと思います。

 

花の画像はいずれも、昨日お墓参りをしたとき、境内で撮った写真です。

 

造り酒屋の当主の叔父がなくなり、その葬儀に参列するために、郷里の実家に戻った母でした。

叔父の職業柄、大勢の人が家に出入りしていたはずです、

そんな慌ただしい状況にもかかわらず、母は部屋の片隅で、その様子を義父に知らせるために、ペンを執ったのでしょう。

祖父は、母と遠縁の間柄でしたから、連絡する気配りが働いたのではないかと思います。

 

私でしたら、遠方から出かけ、参列するのが精いっぱい。

手紙を書く心の余裕など、あろうはずがありません。

母は私に似て虚弱体質で、気力で暮らしているようなところがある人でした。

疲労も濃かったでしょうに。

 

こんなにさりげなく手紙を認められるのは、母の文才はいうまでもありませんが。

それだけではなく、まめな性格、優しさ、器用さ、いろいろその理由はあるでしょう。

 

 

茶道、華道、料理、日本舞踊、編み物、短歌、書道.

母が打ち込んだおけいこ事を、思い出す限り、習った順番に書いてみました。

いずれも、上達の域に到達するまで、一つ一つのお稽古ごとに励んだ母でした。

幼子を引きつけてやまない、輝いたチャーミングな笑顔も忘れられません。

 

母が詠った短歌を三句、ご紹介させていただきますね。

 

 佇ち止まり眼凝らして松陰の遺品の前に孫は動かず

 旅よりの孫の電話の声はずみ志賀高原の涼しさ伝う

 寂として動く一葉もなき庭の松の木に間にかかる満月

 

今この記事を綴りながら、改めて母の想い出を、感心しながら振り返っている私です。

 

 

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警察署からの思いがけない連絡いろいろ

2015-03-06 07:36:23 | 想い出

先日のこと。

この地域を管轄する区の警察署から、突然電話がありました。

悪いことをした覚えはなくても、警察署からだと一瞬「ドキッ」と、皆さんはしませんか?

私は、そうでした。

「いったい何事?」と。

でも、その思いとは裏腹に、電話の内容はとても嬉しい報告だったのです。

 

勿体ぶりますが、この喜ばしいお話は後回しにさせていただきますね。

そして、今も忘れられない警察署からの電話二件。

いやあ~な思い出について、先に述べることに致します。

 

デパートの通路に置かれたお花。
ベゴニアでしょうか。

その二件は共に、十数年前のことです。

路上駐車の取り締まりが、今ほど厳しくなかった頃のこと。

私は数時間程なら構わないかしら、といった甘い考えで、路駐をして、その周辺のお店で用事を済ませました。

駐車した所は、5~6メートルは幅がある広い公道の路肩です。

その時は、特別変わったこともなく、自分の車に戻り、運転して帰宅した私でした。

いえいえ・・・・・・

何も変わったことがないなんて、ありえませんよね。

私の記憶がおぼろなようです。

当然、駐車違反の貼紙が張られていたことでしょう。

 

ところが帰宅数時間後に、突然警察署の方から、わざわざ電話がかかってきました。

やはり、「何事?」と驚いた私。

数分も経過しない内に、思いがけない報告で、その驚きは衝撃へと変わりました。

何と私が駐車していた車に、自転車が衝突。

運転していた人が怪我を負い、入院されたとのこと。

 

こんなことが起きるなんて想像もできないことでしたが、違反を犯した私には、弁明の余地は全くありません。

平謝りし、保険会社を通して事故処理をきちんとしました。

その後、すぐにでもお見舞いに行くべきだったのでしょうが、私は恥ずかしくて行きませんでした。

今更ながら、不誠実な自分に呆れます。

 

外出時には、常に忘れ物がないか、確認を怠らないようにしたいものです。

結構長い時間がかかる化粧品売り場は、要注意ですね。

 

もう一件も、思いがけな警察署からの連絡と問い合わせ。

電話の内容は、やはり驚きで、呆然とするようなことでした。

けれど幸いにも、その事件に、私は巻き込まれていなかったのです。

警察署からの知らせがある半年くらい前、私は必死の思いで、自分の迂闊な行為を処理していたからです。

 

その当時、ある投資顧問に、数百万の投資資金を預けていました。

四季報にも、その会社の広告が大きく掲載されていましたから、私は疑ってはかかりませんでした。

ところがその会社が倒産し、夜逃げをしたとの、警察からの報告だったのです。

被害を受けた顧客が大勢いて、今その追跡調査をしているとのこと。

その名簿に、私の名前が載っていたので、電話をかけてくれたようです。

 

私は、その話を聞き、驚愕すると共に心から安堵し、我が身の強運を喜びました。

その会社に預けた投資資金は、すべて取り戻していたからです。

しかし取り返すのに、大変な苦労をしました。

 

虫の知らせだったのでしょうか。

契約を解約したくなり、私担当の方に何度もその旨、電話で伝えました。

けれど、いつも曖昧な返事で、一向に、投資資金が戻る気配がありません。

一月近く、再々電話をかけましたが。埒があきません。

 

父母の遺品の文箱

 

これはおかしいと感じ、次第に不安が大きくなっていきました。

思い詰めた私が最後に取った手段は、会社の社長さんに、直訴のお手紙を差し上げることでした。

丁重に心を込めて、便箋にしたためました。

そして、祈るような気持ちで投函した私です。

すると、その数日後に、わたしの口座に私が預けた投資資金がすべて振り込まれていたのです。

 

上と同様の文箱です。

 

夜逃げまでしなければならないほどの負債を負い、切羽詰まった窮地に追いやられた投資会社だったのでしょう。

相手は主婦。

普通は戻ってこないのが当たり前ですよね。

警察署から被害状況を聞かされ、我が身の奇跡のような強運を、喜ぶ以上に驚いたものでした。

切々たる私の訴えとお願いの文面が、社長さんの心を打ったのでしょうか。

鬼にも涙だったのかもしれませんが、諦めないで、勅訴のお手紙を出して本当に良かった、と思う出来事でした。

 

私は数百万の資金に過ぎませんでしたが、おそらく数千、数億のお金を預けていた顧客も大勢いたに違いありません。

その後、警察の捜査で、その事件がどんな顛末を迎えたか知る由もありませんが、私には今でも忘れられない思い出です。

 

さて最後になりましたが、今回の警察署からの嬉しい連絡。

落し物が出てきました。万歳!

長女から贈られた定期券入れです。

「ボケ行為の後始末」の記事で、そのことについて触れています。

紛失後、数か月も経過しての思いがけないお知らせでした。

嬉しくて、心が跳ね上がりそうでした。

同様のものを買うつもりでデパートに出かけたところ、円安のせいか高価すぎて、諦めたものだけに、嬉しさがひとしおでした。

 

十数年前に長女から贈られたものです。

 

翌日、区の福祉課に用事がありましたので、その斜め向かいの警察署にも早速赴いた私。

無事に定期券入れを我が手にし、夫の身体障害者手帳の交付の手続きも済ませ、日が暮れかけた道を急ぎ、家路に就きました。

 

定期券入れは、バスの中に落ちていたとのこと。

何故落とすのでしょう?

自分の行動が想像できません。

年を取ると、今後ますますこのような落ち度が多くなっていくのでしょうね~

 

娘たちから贈られたこのポーチに、いつも入れるようにしているのですが。
キーホルダーも次女からのプレゼントです。

 

タクシーを降りるときは、必ず振り向いてシートの周りを確認する私ですが。

今後はバス、いえ退席するいずれの場所でも同様の動作を怠らないように心がけましょう。

 

今日の記事は、余りに恥ずかしい内容で、穴があれば入りたい心境ですが・・・・・・

臆面もなく、堂々と公開してしまいました。

「呆れた人」と、どこからか声が聞こえてきそう。(笑)

愚かなこともいろいろ経験し、今の私がいます。

何事も、よい社会勉強になったと、前向きに今では捉えている、過去の出来事でした。

 

         

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母の日

2014-05-13 12:10:53 | 想い出

5月11日は母の日でした。

母の日の起源は、1907年、アメリカ・ウェストバージニア州で起きた事。

そこに住んでいた、亡き母を敬愛する娘アンナが、母を偲ぶ会で、母が好きだった白いカーネンションを贈ったことに由来するそうです。

カーネーションの花言葉は「母の愛情」、そして5月の誕生花。

キリスト教の教えでは、十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアは涙を流し、その涙の跡に咲いた花がカーネーションの花であるとされているそうです。

検索で知った知識ですが、麗しい由来があるのですね~

 

 

そんな母の日、皆様は、如何お過ごしでしたか。

私は、今の私の年齢より、六歳上で母を亡くしましたが、高齢のお母様がご存命中で、何かと気を遣っておられるお宅も多い事でしょう。

羨ましい限りです。

私は、割と早く両親を失い、「親孝行をしたい時には親はなし」を、折々で実感してきました。

 

先日、病院の帰り、久しぶりに途中下車してデパートに寄った時のこと。

エレベーターの中で若いお母様方お2人が交わしておいでの会話に、思わず聞き耳を立て、微笑んでしまいました。

「もうすぐ母の日ね~

プレゼントもう用意した?

私はまだなの。

焦っちゃうわ~

そろそろ決めないと、間に合わなくなっちゃいそう~」

 

 

 

母の日が近づくと、このように多少のプレッシャーを感じるお子様は、多いのかもしれません。

感謝の思い以上に、形式にこだわる慣習が幅を利かせ・・・・・・

それに乗じた花屋さん、その他のお店は、この時とばかりに値上げしたカーネーション等を売りさばく。

 

慣習を大切にすることが悪いことでは全くありませんが、それを従順に守るも守らないも、お子様の性格によるところが大きいのでしょうね~

母の日に贈り物がないからといって、親への愛情が薄いなんて事には全くならないでしょう。

 

 

私と妹は性格的にも毎年、この行事は無視できず、必ずこの日には二人で一緒に選んだものを、郷里の母に送り続けていました。

前述の、デパートのエレベーターにおける若いお母様方の会話そっくりの事を、母の日が近付くとお互いに言い合っていましたね~(笑)

二人とも、都内在住の期間が長かったため、いつも待ち合わせ場所は渋谷.

子育て真っ最中の頃は、引き連れた幼子達がぐずるのを宥めながらの、プレゼントの物色でした。

選ぶ優先権は、姉の私にあったようにも。(笑)

 

満足できる贈り物が早く決まると、その後の一服のお茶がとても美味しく感じられ、安堵で2人の会話が弾んだものです。

父と二人、子供から遠く離れて暮らす母を思い、その話題も尽きませんでした。。

 

或る母の日に、妹と二人で選びプレゼントした贈り物を、今でも一つ記念に私は大切に保管しています。

母が殊更喜び、愛用したセーターで、とても似合っていました。

下にアップした画像がそのセーターです。

 

 

とてもチャーミングで美しく、お洒落な人だった母。

それだけに、選ぶのにも苦労した私達ですが。

そう言えば、同居し認知症を患っている頃に、贈ったものもありました。

春に着る薄手のガウンです。

子供に帰った母の美しい純真な笑顔と共に、それを手にした時の母の嬉しそうな姿が蘇り、今も偲ばれます。

もしかすると、母に日ではなく、お誕生日プレゼントだったかもしれません。

 

 

思い出話は、これくらいにして・・・・・・

私も、すでに年老いた母親でした。(笑)

恐らく、私達同様に、見捨てられない行事なのでしょうか。

娘達は、毎年贈り物を届けてくれます。

 

当日は、体調が今ひとつであったにもかかわらず、旦那さまの入院を翌日に控え、大層忙しく、母の日であることはすっかり忘れていました。

長女から、最初に宅配でプレゼントが届き、初めて気が付いた私です。

夕暮れ時に、次女もK君の野球練習終了後に、プレゼントを直々手渡しに、我が家に寄ってくれました。

もしかすると、慣習に従っただけの形式的な贈り物?(笑)

たとえそれでも、やはり、とても嬉しいです。

感謝の気持ちを込めて、心からありがとう!

さて、中身は何でしょう。

時には、皆さまには秘密にしましょうかしら。(笑)

 

 

ここ2~3日、これまでの疲れが一気に噴き出しているのでしょうか?

体力が続かず、少々情けない思いで暮らしています。

それなのに、数日後に大イベントが待ち構えている我が家。

旦那さまの医療費がかさみ、心配事で取り込んでいる最中に、わざわざとの思いもありますが・・・・・・

色々な事情から止むを得ず、一大決心をして、臨むことになりました。

この件については、また後日お知らせ致しますね。

 

そんな訳で、体調が悪いといって、ぐずぐずしているわけにはまいりません。

病院にも、また出かけないといけませんし

母の日に届いたプレゼントを励みにして、家事と旦那さまの介護、一大イベントに、新たな気持ちで元気に臨みましょう。

 

      

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泣き崩れて・・・・・・

2014-01-26 07:52:38 | 想い出

今日は最近の記事のパート3、といったところでしょうか。

記事のタイトルは、相当、人の目を引きそうですね~(笑)

 

今年の大学入試センター試験は、良いお天気に恵まれ無事終了しました。

受験された方々は、それぞれの思いを抱き、志望校目指し、更なるまい進へと、勉学に励んでおられます事でしょう。

偶然にもその日、T大の赤門をくぐる際、立会人から身分証明書を提示するように声をかけられた私です。

 

 

本日の記事は、その大学入試センタにおける、忘れもしない、次女の大失敗(?)についてなのですが。

その日、私は、励ましの言葉に精一杯の心を込め、次女を送り出しました。

そして無事に終わってほしい、と祈るような気持ちで、家事を進めていた昼前のこと。

電話のベルが・・・・・・。

電話口に響く次女の声。

嗚咽しながら、母親の私に救いを求めるかのような、悲痛な様相でした。

 

午前中の二教科目の国語の試験に臨み、終了前に差しかかった時、マークシートの問題の回答欄の枠が二つ残ってしまうことに気が付いたMちゃん。

回答する際、どこかで問題がずれてしまったのでしょうね~

もしそのミスが、最初の方であれば、採点はゼロに近い結果になります。

それに気がついた時のMちゃんの青ざめた顔は、想像するまでもありません。

 

このような時は、最悪のことしか思い描けなくなるのが、人の性。

しかし母親の私が、打ちのめされているわけにはまいりませんでした。

激しく動揺してしまったことには、次女と変わりありませんでしたが、ひたすら平静を装い、優しい母になりきった私。

前の失敗は忘れ、心を新たにし、午後からの二教科、理、数を全力を尽くして頑張るように、穏やかな声で励まし諭しました。

 

 

帰宅後、取り乱だし、泣き崩れてしまったMちゃん。

学習机と参考書を拳で叩きつけるようにして、いつまでもいつまでも・・・・・

無理もないことです。

長女とは異なり、大変な努力家のMちゃん。

ひたすら姉と同じ大学を夢見て、並々ならぬ苦労を積んで勉強に励み、目指したT大学でした。

それが、思わぬ小さなミスで、数年間の苦労が水の泡になりかねない出来事でしたから。

 

私は、Mちゃんが可哀そうの一言に尽き、慰める言葉も見つかりませんでした。

最難関の大学ゆえ、センター試験とは言え、足切り点も相当高い事でしょう。

今回のミスが、合否に大きく影響するに違いないと悟った私達。

 

その後は、T大学は半ばあきらめ、勉強の方針を私立向けに一変させました。

T大学の受験問題は、思考力を問う良門で知られるところですが、第二志望だった私立の数大学は、重箱の隅をほじくるような設問で、その頃は有名。

ですから過去問で、そのような問いに強くなれるように、記憶力を鍛える勉強に切り替えたのです。

 

そこに至るまでの、Mちゃんの心の葛藤と苦悩は、相当のものだったに違いありません。

私も、Mちゃんを不憫に思う気持ちは強くなる一方で、夜も安らかに寝付けなくなりました。

しかしその後も、ひたすら平静を装い、明るく振る舞い、優しい母親に徹したことを、今でもよく覚えています。

何としても立ち直り、第二志望の私立大目指して、元気に頑張ってほしかったからです。

 

そして、見事にその期待に応えてくれたMちゃん。

心機一転、その数日後からは、私立向けの方針に切り替え、一生懸命、受験勉強に励み始めました。

 

 

そして、その数週間後、結果報告の通知が来ました。

案ずるより産むが易しの言葉通り、足切りされることなく、T大学受験資格を取得することが出来たのです。

思いがけない通知を手にした時の親子の喜びは、たとえようがないものだったでしょう。

けれど、ショックを受けた時の印象の方が余りに強過ぎて、今となっては、その時の事をよく覚えていません。

そして、志望大学に無事合格。

 

合格発表の日も卒業式の日も、恐らくこの赤門の前を通り過ぎ、私は正門に向かったはずです。

私がこの大学を訪れたのは、その二度のみ。

入学式は武道館で執り行われましたから。

 

それが思いがけない契機で、また頻繁にこの大学を訪れることになった私達夫婦。

旦那様と話し合いの上、遠方ながら交通の便は悪くないこの病院に一本化して、今後は治療に専念することになりました。

夫と娘達の母校で治療を続けられることに、不思議な機縁と、言いしれぬ安らぎを感じている私です。

 

私が病院に行く時間帯に因るのかもしれませんが、余り学生の姿を見掛けない不思議な大学ですが。

けれど、構内にみなぎる若さと学問の気風が、すっかり鈍化した私の頭脳と心身に幾分でも新鮮な風を当て、若返らせてくれることを願いましょう。

生まれかわったなら、この大学を目指せるくらい、勉強にも励んでみたいな~、と思ったり……。

思うのは自由ですものね~(笑)

 

 

蛇足となりますが、私はもともと、決して大学に高い望みを抱いていたわけではありません。

女子大を卒業して、花嫁修行をし、良妻賢母の専業主婦になってほしいと願う、割と保守的な母親でした。

ところが、高2の夏休みの事。

駿台の入塾前に受けた全国模試の長女の成績が思いがけず、驚く程良くて・・・・・・

その時から多少欲が出てしまいました。(笑)

そしてその後の娘達の人生のシナリオは、思わぬ展開に。

若かりし頃、思い描いていた娘達の将来像と、今の状況が余りに異なり、母親としては、時々複雑な心境になることがあります。

でも今では、女性が働くのは当たり前の時代ですものね~

時代を先取りしたかのような娘達の選択は、間違っていなかったのかもしれません。

 

      

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懐かしく愛しい綴りの数々

2013-10-14 10:06:00 | 想い出

我が家に、数十枚に過ぎませんが古い葉書が、常にひとまとめになって置いてあります。

但し宛名のない葉書で、裏には文章が綴られています。

記憶は定かではないのですが、恐らく年齢が40代の頃に書き留めたものではなかったか、と。

本の文章や有名人の言葉の抜粋に過ぎませんが・・・・・・・

内容は、自分の修養になるような言葉が書かれています

 

 

40台前後のころは、主婦業のみならず、子育てにも追われ、日々忙しく過ごしていました。

一方自分の未熟さ至らなさをいつも感じ、少しでも人間として母親としても成長しなければ、との強い思いも抱いていた時代です。

そのためでしょう。

割と、人生修養を促すような書物が好きでよく読んだものでした。

年頃になった娘達に、ママはこういった向きの本が好きね~と、よく言われたものでしたが。

 

そういえば最近、妹、夢路と本の話題で話しが弾んだ時、次のように言われました。

私が「今、浅田次郎のエッセイを読んでいるの」と話した時のことです。

「若い頃から、お姉さまはエッセイが好きだったものね~。私は違って、小説ばかり読んでいたから」

確かにそう言われれば、そうだったようにも。

前述のように、娘達からも同様のことを言われていますもの。

 

小説と異なり、エッセイでは著者の人生観に手っ取り早く触れることができます。

そして、筆者の深い思いを知ることとなり、なんだかとてもためになる本を読ませてもらった、との感慨に浸れるのが魅力だったのでしょう。

今も相変わらず、その傾向があるようです。

 

 

最近手にした本も、城山三郎のエッセイ。

エッセイというより折々の言葉集といった方が正しいかしら。

ここでその書物の紹介をすべきなのでしょうが、私は書評や読後感を述べるのには、苦手意識が強すぎて、気が進みません。

実は、今も読みかけの書物が5~6冊あり、その場の雰囲気と気分で読み替えるものですから、一冊の本を読破するのにも、結構時間がかかります。

現在読書中の書籍は、いったい何冊になるのかしら?

よく把握できていないほど。

最近、完読したばかりの書物は、浅田次郎のエッセイ。

今一番、読み進んでいるのがスティーブン・R・コヴィーの「七つの習慣」です。

 

 

我が家のファミリールームのソファーの上に置かれたこの書物が目に留まった長女の婿に、からかわれてしまいました。

「お母さん、今さらこんな本を読んでどうするのですか?」ですって。(笑)

「ごく当たり前のことが書かれているのだけれど、世界的に読まれている優れた書物なんだな~この本の講義を、一週間にわたって、ぼくは会社で受けたことがありますよ。R(息子)には是非読んでもらいたい、と思っているのだけれど」と。

彼の言うように、内容は差して真新しいこととは思えず、無意識に実行しているようにも感じられはするのだけれど、実際はそうではないのでしょうね~

本の教示どおりに暮らしていれば、もっともっと暮らしが充実するはずですから。

何だか次第に記事の内容が私の読書といったタイトルにしたいような内容になってきましたね~

実はこんなことを書くつもりではなかったのです。

 

最初述べた数十枚ため置いた古い葉書のことだったのです。

もう少し、この件について詳しく。

恐らく葉書に書きとめたのは、日々家事をしながら、しょっちゅう手にしたり、適当なところに立てかけ、繰り返し目にすることで、心に染みわたらせたい、と願ったのでしょう。

しかし残念な事に、残されているはがきは二十数枚に過ぎません。

何故継続できなかったのでしょうね~

大学ノートに書き留めた時期もあったのですが、そのノートは、行方不明。

本当にささやかな、若かりし頃の心の軌跡と思い、いまだに身近に置いたまま、捨てることができません。

書かれた抜粋文には、傾向が顕著で、話し方に関連した文章が多くて。

多分、その頃、話し方の大切さを強く感じ、多少なりとも、心掛け、努力したいと思っていたのかもしれません。

 

けれど、身近に置いてはあったものの、長い期間読んでいなかった私。

最近、一枚一枚、丁寧に読み直したところです。

こんな言葉に心打たれ、書き留めていた若かりし頃の自分を、懐かしく愛おしく感じたりしてしまいました。

阿木陽子さんの言葉だったリ、加藤登紀子さんの言葉だったりもします。

今でしたら、もう少し、人生の奥深さを語る高尚な内容の文章に惹かれるかもしれないけれど。

 

この言葉を書きとめた年代は、今の娘達の年頃とほぼ重なります。

ですから、娘達に、このメモ的文章を読んでもらい、私同様、多少でも何かを感じてもらえれば、と願いました

それで、まだしばらく写真のみ掲載の記事を投稿する予定でいますので、その隅にでも、この文章を載せてみようかしら、と。

決して皆さまにお聞かせしたいような内容ではありませんから、どうぞその文句はスル―で次回からは、宜しくお願い致します。

気恥ずかしさを覚えるような行為で、今なお迷っていることです。

ですから、もしかすると取り止めにするかもしれません。

 

それにしても、最近デジカメをほとんど手にしていない私。

実は、夫が入院している病院の環境は、まさに被写体としては、望むべくもない素晴らしいところなのです。

それにもかかわらず、入院して数十日経過するのに(週末は一時帰宅しています)、まだ一枚も写真を私は撮っていません。

過去の記事を公開するにあたって、何としても撮影をしなければ・・・・・・・

一向に腕が上がらない私が、慌てて撮ったところで、よい写真が撮れるわけがないのですが、ブログのために今週は頑張りましょう。

 

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亡き母を想う~凛と咲く可憐なハナミズキ

2013-04-12 06:45:27 | 想い出

私が一番好きな花木かしら。

桜以上に・・・・・・

清楚な凛とした花姿に、とても心惹かれます。

花言葉は、「私の思いを受けて下さい」「返礼」等々。

約100年前、平和の使者として当時の東京市長、尾崎行雄氏がワシントンに桜を送り、その返礼としてハナミズキは、日本にやってきたそうです。

日米親善の架け橋となった桜とハナミズキはいずれも春を彩り、私達の目を心行くまで楽しませてくれます。

アメリカのポトマック河畔の桜並木は、今頃が見頃でしょうか。

アメリカ人には、日本人のようにお花見を愉しむ習慣はないようですが。

私の思いを受けて下さい、返礼なんて、架け橋にふさわしい花言葉ですね。

 

            

 

この花水木、私には特別な思い入れがある樹木です。

母が亡くなった時、母を偲ぶ記念樹として、居間の窓から眺められる位置にこの木を植えました。

常日頃、凛とした姿勢を崩す事がなく、それでいて可憐な笑顔がとても美しかった母。

そのイメージが、花水木の白い花と重なったからです。

 

                                         

                                                                 50代の中頃の母です。

 

ところが植えた花水木は、4~5年花が付かず、とても心配させられました。

そして数年目に、やっと花にお目にかかれたわけですが、どうしたことでしょう。

私が植木屋さんに注文した純白ではなく、薄紅色の縁取りがある花弁でした。

白い花の花水木をお願いした訳には、特別の心情と思い入れがありましたから、とてもがっかりしたものです。

でも母が亡くなって数年が経過していましたから、すぐに気持ちを入れ替えることができました。

 

               

 

淡いピンクに縁取られた花弁に取って代わってしまったけれど、可憐ながら凛とした花姿は、やはり母に似ている、と。

けれど花付きは、アップした画像でご覧の通り、あまり良くありません。

枝全体を埋め尽くす程に咲き誇ってくれると、さぞ華やかで美しいのでしょうが。

でもこの慎ましい咲き方も、気に入っている私です。

何事も受け止め方一つで、心が満たされてしまうものですね~(笑)

 

               

 

花付きが悪いのには訳があります。

過酷な境遇に甘んじて、健気に咲いているからなんです。。

我が家の庭のその場所は、下がガレージになっています。

そのため花水木が根が張る土壌の底は、ガレージのコンクリートの屋根。

水の逃げ場がありません。

周りに植わっているアオキ、アジサイ、そこに位置する花壇の植物もすべて同じ環境です。

中でも花水木は、背丈が高い大きな木。

ゆえに一層不憫に感じられますが、それに耐え生き抜く姿に、母の姿を重ねています。

 

               

 

造り酒屋の8番目の末っ子として生まれ、母専用のおもりが付く裕福な家庭で育ちましたが、嫁ぐや一転、逆境に。

結婚後、まだ1歳の私を抱え広島で被爆し、それから数年も経過しない内に結核を患いました。

入院するに当たり、黒い車が母をお迎えに来たのを覚えています。

私はその後を追って泣き叫んだ記憶が、まだ幼かったにもかかわらず、私の頭に焼きついて、今なお離れません。

そのような苦労も乗り越え、弱い体質ながら、76歳まで逞しく気丈に生き抜いた母です。

 

            

 

このように色々な思いが溢れてくる我が家のシンボルツリーの花水木。

春の、可憐ながら凛とした花姿。

秋の、目にも鮮やかな美しい紅葉。

私が心から愛して止まない樹木です。

 

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雪景色に亡き母を想う

2013-01-16 06:43:39 | 想い出

一昨日は、久しぶりに本格的な雪が舞い、そとはたちまち銀世界へと。

元気な子供たちが、嬉々として子犬のように雪道を駆けまわる姿を想像していましたが・・・・・・

今の時代、もはや懐かしい光景になってしまったのかもしれませんね~

高齢化で子供たちが少ない我が家の周辺は、静寂そのもので、車の通る気配すら感じられませんでした。

でも私の孫達は、恐らく庭で雪遊びを思う存分楽しんだのではないかしら。

今は中1になるR君が、受験勉強中に、自分の背丈より高い雪だるまをこしらえ、娘が携帯で、それを見せてくれたことを懐かしく思い出します。

 

            

 

成人になられ、振袖をお召しになった嬢様方は、お出かけの際は、さぞかし大変な道程だったに違いありません。

でも、晴れ着が白のベールに包まれた銀世界で、いっそう艶やかに映り、人目を引いた事でしょう。

余りに不運なお天気で、お気の毒過ぎはしましたが。

 

私は、一面銀世界の光景を目にした際、、いつも最初に心に浮かぶのは、母の告別式の日の雪景色です。

一昨日のように、突然訪れた雪の乱舞。

前夜から降り始め、都会ではめったに見られない、十数センチの積雪でした。

その純白の光景が、母の死の悲しみを一層深くする一方、私の心を優しく慰めてもくれました。

しかし、母の棺が居間に置かれている夜、私はただただ悲しく泣き崩れた状態で、涙が枯れて果てるほどでした。

そして高熱が出て、寝込んでしまう始末。

情けない姿になり果てた私とは違い、妹夢路は、実に気丈に振る舞ってくれました。

母の棺の前に、子供達を集め、まるで母に聞かせるかのように、共に愛唱歌を歌っていました。

おばあちゃん子だった私の娘達や我が子の悲しみを察して、懸命に励ましてくれたのでしょう。

その姿は、今思い出しても胸を打ちます。

 

            

 

私の年齢にほど近い頃から、認知症が進み始めた母でした。

父の心配を察し、我が家で母を引き取り、同居し始めたのは間もなくの事。

父は、実家を離れ難く、しばらく一人暮らしをしていましたが、その後はやはり同居。

 

最後の数年は、入退院を繰り返していた母でしたが、医療ミスとしか思えないような事で、突然亡くなりました。

認知症が重くなり、幼子に戻った母は、可憐そのものな性格で、私を頼りきっていました。

妹曰く、「まるでお姉さまの影のよう」

その位、私の傍を離れませんでした。

 

実家が造り酒屋で、十数人の子供達の末っ子。

母専用の子守が付くほど恵まれた家庭環境で育てられた母でしたが。

嫁いでからは、広島で被爆、その後、結核を患ったりと、一転、苦労の多い暮らしに変わりました。

初々しくて可憐な表情の娘時代の写真と、結婚後しばらくの写真が、まるで別人のように変わって見えます。

苦労を重ね凛とした母の表情には、違った美しさを感じる私ですが、戦時中に嫁ぎ、戦後の物資が乏しい中で私達を育てるのはさぞ大変なことでしたでしょう。

私に似て体が弱く、疲れるとよく床についていました。

でもとても気丈で、芯の強い母でした。

ですから歳を取るまでは、母が弱音を吐くのを聞いた覚えが、ほとんでありません。

 

            

               

                       雪に埋もれていた寄せ植えですが、いつもと変わらない元気な花姿

 

その母が亡くなった年齢に近づこうとしている私です。

でもまだ、その歳に到達するには五年以上ありますが。

 

先日、母の実家、造り酒屋の前々代の当主の奥様に当たる伯母から、松の内が明ける前に、突然電話がかかってきました。

当主の奥様らしく女将のような風格で、とても美しい人ですが、伯父が亡くなった時に会ったのが最後。

久しくご無沙汰しています。

 

電話口から、聞き覚えがかすかにある声が響きました。

「Mちゃんですか?Mちゃん?S子です。」

聞き取りにくくても、声色ですぐ判りました。

「S伯母様ですね。お元気でいらっしゃいますか。ご無沙汰で申し訳ありません」

といった月並みのご挨拶から始まりましたが・・・・・

お電話をかけて下さったのは、お年賀状のお礼でした。

「読んでとても嬉しかったので、電話をかけたのよ~」と。

添え書きした数行の文章が、心に響いて下さったのでしょうか。

懐かしい声のお言葉が、心にとても染み入りました。

ご年齢を伺ったところ、何と、九四歳になられたとのこと。

そんなお歳に!と思わず驚き、そのご年齢にしては、口調のしっかりしておられるのに感嘆した私です。

「Mちゃんが、お母さんが亡くなった年齢に差し掛かろうとしているのだもの、私が年を取るのは当たり前よ~」と言って、笑っておられました。

歳月の流れは、「光陰矢のごとし」といいますが、その言葉を改めてしみじみ実感した私です。

 

            

 

私達は母の実家を、いまだに本家と呼んでいますが、その本家の手配だったのでしょう。

大雪の日、母の郷里の人達が貸し切りのマイクロバスに乗って、母のお葬式に駆け付けてくれました。

恐らく一昨日同様、交通マヒ状態だったにもかかわらず、貸し切りバスに乗って雪道を馳せ参じて下さった伯父や伯母様達。

ほとんどが亡き人になられましたが、その方々の切なる優しい心情も思い出し、母への想いを雪景色を見ながら、一層深くした私です。

 

お話は一転変わり、雪掻きの話題。

この老体を鞭打って、昨日の朝、二時間近く頑張りました。

ご近所の方七人でしたが、何とか我が家の周辺道路の雪を隅に寄せ、安心して歩ける通路ができました。

終了後に、即ベッドに。

その位、ぐったり疲れた私です。

夫は風邪を引き、まだ回復とは言えない状況でしたので、渋々私一人で請け負いましたが、午後からは散歩に出かけた旦那さま。

「ご近所を大きな顔をして歩いてはだめよ!」と、私はちょっぴり皮肉を込めた一言を、夫に投げかけました。(笑)

 

実は一昨日の夕暮れ時、次女から電話。

「今からH(旦那さん)がK(小一の息子)を連れて、ママの家の雪かきをしに行くから」

「本当!助かるわ」

「ママの家の周りをすればいいのでしょ?」

「そうはいかないわよ。前のお宅の道路側も一緒にしてね」

とお願いはしたものの、彼らが想像する以上の重労働ですから、私は遠慮がち。

「いいの、いいの。Kもおばあちゃんのうちの雪かきをしたいって張り切っているから」と。

そこまで言ってくれるのなら、と私は次第に厚かましくなり、お隣のスーパーでのお豆腐と牛乳の買い物までお願いしてしまいました。

 

そして期待して待った私ですが、待てど暮らせど、到着しません。

日は暮れる一方です。

恐らく交通手段がないのでは、と思いはじめていたところ、娘からまた電話。

やはりその通りでした。

マイカーでのお出かけは最初から諦め、タクシーかバスを利用するつもりだったようでしたが。

お買い物は済んでいたのに、諦めざるを得なかったようです。

 

チョット残念だったけれど、次女夫婦の優しい気遣いに触れ、心温まる思いがしました。

 

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被爆者の私  その思い

2012-08-08 05:56:03 | 想い出

旅行記が終わり、通常の日記を綴れる日が、やっと訪れました。

さて今日は、何を題材に取り上げましょうか。

オリンピック、我が家の夏の庭、ささやかなリフォーム、私のその後の体調等々、心にいろいろ浮かびはしますが・・・・・・

浮かぶだけで、それを文章にするとなると、また別問題。

うまく表現する自信がなくて、ブログは私にとって、相変わらずチョッピリ生活のストレスです。

 

いつものように、衒うことなく、素直に正直に、自分の心情を綴れば、何とかまとまる、との気持ちで、これからもまいります。

案ずるより生むが易し、といったところでしょうか。(笑)

 

いろいろ心に浮かぶ、書けそうな題材を挙げてみましたが、それ以外に取り上げたい大切な事が、もう一つありました。

自分の生い立ちから、見過ごすことはできなくて・・・・・・・

それは、一昨日の原爆の日、平和祈念式典です。

今年は、67回目に当たります。

懐かしい平和公園がテレビに映り、例年通り、炎天下にもかかわらず、大勢の参列者で溢れていました。

        

 

このブログで、すでに触れたことがありますが、原爆についての私の思い出と思いを、再度、お話しさせて頂こうと思います。

同じことの繰り返しになりますが、重複の程は、ご勘弁下さい。

 

私が生まれ育った故郷、広島。

山の幸、海の幸に恵まれ、川の風景がとても美しい、爽やかな雰囲気のする街です。

原爆投下で焼け野原となった悲惨な状況から、目覚ましい復興を遂げ、今日の繁栄があります。

奇跡といってもよいほどかもしれません。

 

私は、この土地で、原爆投下の前年、日本の敗戦色が濃くなった、まさに非常事態の状況下で、生を受けました。

そして翌年、爆心地から三キロ離れた地点で、被爆。

私の家族はその時、九死に一生を得ると言った、幸運に恵まれました。

原爆投下が、8月7日ですと、家族は全滅していたからです。

 

爆心地から徒歩10分程度の場所に父の勤める会社がありました。

出勤していた人は、恐らく全滅だったに違いありません。

父が助かったのは、前日まで出張で、その翌日は出社を30分遅らせることができたから。

 

我が家の裏に当たる通りの主婦も、爆心地近くの勤労奉仕に出ていたため、全員亡くなったと、聞かされています。

翌日は、我が家の通りの番でした。

ですから、もし原爆投下が、8月7日なら、父母も私も、生きていませんでした。

私の家族のように、紙一重が、生死を運命づける出来事が多かったのも、原爆の日の一面でしょう。

 

当日、父は、会社まで出かけ、悲惨な会社の状況を我が目で確認。

帰りは黒い雨を浴びて、帰宅しています。

その後しばらく、私達は、母の郷里に疎開したようですが、さほど間をおかず、広島に家族で戻りました。

 

こんな運命的な出来事を乗り越えて、暮らしてきた我が家ですが。

私は、物心が付き、今日の暮らしに至るまで、原爆の影やその負担を辛く感じたことは、全くと言って良いほどありません。

(妹夢路のブログに、ABCの事が書かれていますね~記憶にあまりないなぁ~一度出かけたにはよく覚えていますが。)

唯一の哀しい思い出は、約1年ほど、祖父母の家に預けられたこと。

 

母が、戦争前後の苦労で結核を患い、入院することとなりました。

入院日に、黒い車がお迎えに来た時のことを、よく覚えています。

母のあとを、泣き叫びながら私は追いました。

 

預けられた祖父母の家近くで、近所の子供達と遊んででいる時の事。

傍を霊柩車が通りました。

親指を隠さないと、親が死ぬと友達に言われ、慌てて隠そうとしたのですが、間に合いません。

「そのせいで、離れて暮らしているお母さんが、死んでしまうかもしれない」と、幼心を非常に痛めたものでした。

まだ年端もいかない年齢ながら、鮮明に記憶しているのは、あまりに辛い出来事として、心に深く刻まれたからでしょう。

 

母は、実家の援助もあり、ストレプトマイシンという、その当時大変高額な薬が服用でき、命を取り留めることができました。

その後も、戦後の物資が乏しい中、荒廃しきった広島での子育ては、想像を絶する苦労があったに違いありません。

母専用の子守が付く程のお姫様のような娘時代を送った母が、一転、どん底に突き落とされてしまいました。

そのギャップに寄るすさまじい苦労は、推して図られます。

          

                      夕焼けが美しかったので、我が家のベランダで撮りました。

 

しかし、そのような我が家ながら、原爆の苦労話が話題にのぼることは、ほとんどありませんでした。

両親は、余りに悲惨なことゆえ、触れることさえ、ためらわれたのでしょうか。

忘却の彼方に押しやって、放射能の体への影響といった不安や心配の要素はすべて掻き消し、平凡な日常を送りたかったのかもしれません。

そのお陰で、私も、被爆者といった意識を全く持たないで、人生を送ることができました。

被爆者手帳を利用すれば、医療費、居住市の交通は無料といった恩恵がありましたが、被害者意識が皆無だった私。

ゆえに、被爆者保護の手当てを利用し始めたのも、40代の中頃からでした。

 

問題意識の強い方には、呆れた人生と映るかもしれません。

けれど、広島県人には、原爆の苦労を話題にする人は、意外に少ないです。

私の知る限り、広島における小、中、高の生活でも、そのことが大きな問題として取り上げられた記憶がありません。

友人達と、それが話題になったこともありません。

原爆の傷跡は、至る所にあったはずですが・・・・・・・・

広島市民の大方の人は、忘れ去ることで、心の平安を取り戻すことができたのではないでしょうか。

被爆者の意識からは解放された、意外にも、屈託のない暮らしぶりでした。

 

その点、福島の人達は、情報過多の中にあり、苦労が一層増幅されているようで、気の毒に感じもします。

時代の違いで、致し方のないことではありますが。

低放射能の影響などが、あまりオーバーに声高に吹聴されると、差別の要因になりはしないかと、心配にさえなります。

 

個人の力でできることには限りがあります。

心許ない政府ですが、行政を信じ、いやなことは忘れて、静かな平穏な日常を取り戻したい、と願う方々も大勢いらっしゃるに違いありません。

 

政府は、原発の事故で、苦労を背負わされた人達への目配りを、もっともっとしなければ、責任を果たしたとは言えません。

健康管理の医療の助成も当然でしょう。

その要請の働きかけは、然るべき人たちに、是非頑張ってもらいたいものです。

 

一方で、福島の人達には、あまり周りの情報に心を惑わされることなく、穏やかに平穏な日々を暮らしてほしい、と願うのは、私だけでしょうか。

 

関東地区の放射能の量で一喜一憂して暮らす過敏さには、正直言って、私は理解に苦しみます。

そんなに心配しなくても大丈夫、と生きた証人の私は、伝えたい心境です。

当日爆心地近くまで出かけ、黒い雨まで浴びた父は、82歳まで生を全うしました。

最後はがんを患ってなくなりましたが、それまで病気とは全く縁のない人でした。

放射能の影響を受けやすい乳児だった私も、今なお、元気に暮らしています。

 

しかし、核廃絶と、核の平和利用をへの対応となると、あまりに難しい問題で、私には未だによく分かりません。

核を平和利用している限り、何時それが戦争に転用されないとも限りませんものね~

核が、世界の平和にとって脅威であることは変わりないでしょう。

 

昨夜、夫に夕食の時、「あなたは、原発は廃止すべきと思う?」と尋ねてみました。

夫は、「反対ではない」と答えました。

その理由は、化石燃料は、いつまでも持たないし、自然エネルギーはまだ未発達の状況だから、というものでした。

 

私も、夫と同意見です。

野田総理も平和式典で述べられたように、脱原発依存の基本理念は私も変わりありませんが。

あまりに性急に、この問題に対応し、廃止か持続かの結論を下すのは如何なものでしょうか。

自然エネルギーの開発に全力で臨む一方、今はある程度の原発の利用も止むを得ないのでは、と思います。

その安全性を高めるための研鑽に、日本の最先端の科学技術と知識を生かし、精魂を傾けて取り組んでほしい、と。

そして我が国のみならず、原発利用をする国々のためにも、その安全性が高められるよう、国際的な尽力と貢献をしてほしい、と願って止みません。

 

最後にまた、同窓生の慶応義塾大学の元工学部教授のお話を、再度ご紹介しましょう。

私の心にかかり、拭い去ることのできない言葉です。

今の私は、複雑な心境で、受け留めていますけれど・・・・・・

 

核を平和利用する以外に、人類が生き延びる道はない。

どんなきれい事を述べても、人類が滅亡すれば、元も子もありませんよ。

私達は、子や孫の世代より、もっともっと先を見据えないといけないんだよ

 

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