今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

私の運動神経は?卓球の想い出 

2024-04-05 07:13:52 | 想い出

私の人生は、運動にまるで縁のない暮らしだった。

運動神経は鈍い。

恐らく娘達はそう思っている事でしょう。

ところがです。

実際は、そうでもなかったのですよ。

 

幼稚園生の時、その地域で催された運動会では、幼稚園代表のリレー選手になりました。

小学校時代は、とても活発で運動神経もそれなりのもの(?)

これは嘘(笑)、普通でした。

鉄棒でやりたい動作が上手く出来ないと、放課後、下校ベルが鳴るまで黙々と頑張る。

そんなところもありました

その時は高い鉄棒から落下。

首を痛めてしまいました。

ソフトボールのピッチャーに一度だけなったのですが、体育の先生に素質があるなんて言われたことも。

 

けれど体は丈夫でなかったので、すぐ息切れ。

下校するとぐったり。

何時もしばらく横にならないと、元気が戻らない

そんな子供でした。




小学生の頃の私です。
その手前に居るのは妹です。友の親戚の別荘宅で。
前は瀬戸内の海岸で,、私は母手製の海浜着を羽織っています。
この友の話は、後日の記事でまた致します。

 

 中学生になると、クラブは最初テニス部に入部。

父は、スポーツが万能で、大学時代はテニス部のキャプテンを務めた人。

その影響で、テニスに惹かれたのかもしれません。

けれど、半年もすると息切れ。

広いコートを駆け回るのは、私の体力では所詮無理な事でした。

 

テニス部を辞めて、次に入部したのが卓球部。

このスポーツは私には合っていたようです。

2年間くらいだったかな。

真面目に練習に励むことが出来ました。

その上達のために、ひと役買ってくれたのが父です。



 

家から徒歩十数分先にある卓球場で、何度か特訓を受け、私はみるみる腕が上がりました。

父は楽しむだけでなく、プレーのフォームもとても気に掛ける人でした。

正統派の指導のお蔭で、それなりのフォームで、いっぱしのスマッシュを打ち返すこともできるように。

バックハンドも同様に。

自信も多少は付きました。

 

そしてなんと、郷里の中高連の体育祭に、わが校代表の卓球選手として出場したのです。

その時のときめきは相当なものでした。

そんな経験ができるなんて、夢にも思っていませんでしたから。

さぞかし、嬉しく誇らしかったことでしょう。

 

ところが試合結果は散々。

相手の女子チームも、私の学校と同様に、有名な進学校の女子学生さん達でしたが。

サーブを打ち返しても、思いがけない方向に飛んで台から飛び出してしまう。

サーブに捻り(回転)を入れて、相手が打てないようにしてくるのです。

私は、素直なフォームで打ち返すことしか父から指導を受けていませんでした。

ですから、全く相手になりません。

スマッシュのラリーの時だけは、互角に打てましたが。

惨めな結果で終了。

とてもがっかりし、その内に練習する気力も失い、そのクラブも退部してしまいました。




子供用の小さな卓球台もあるのですね。
これでしたら、家でも愉しめそう。

今思い返すとと、クラブの想い出以上に、父と卓球場に出かけ特訓を受けた時のことが、たまらなく懐かしいです。

 私には掛け替えのない、本当に良き想い出に今はなっています。。

お父さま、ありがとう。

今更ながら、もう一度、伝えられるものなら感謝の気持ちを伝えたい。

この記事を書きながら、しみじみそう思いました。

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クリスマスの想い出

2022-12-09 07:14:45 | 想い出

娘達のお蔭で、今年もクリスマスツリーを無事に飾り付けることが出来ました。

我が家のオーナメントは、相変わらず可愛い雰囲気の物ばかり。

大半は、夫の米国駐在が終わり、帰国する時に持ち帰ったものです。

 

 

いつか次女に、

「あなた達も大きくなったから、思い切って飾りつけも入れ替え、もっとシックな装いにしてはどうかしら?」

と私から提案したことがあります。

ところがMちゃんは、猛反対。

このままでいてほしい、と。

歳月がどんなに流れても、在米時代に過ごしたクリスマスの想い出が忘れられないのでしょう。

 

 

ですから、私がこの家で暮らす限り、我が家のクリスマスの雰囲気は、就学前の娘達と共に過ごしたアメリカのクリスマスの雰囲気そのままです。

大きな相違は、米国では、ツリーが本物のもみの木だったこと。

もみの木のかぐわしい香りが部屋中に立ち込め、そのツリーは年が明けてもしばらく飾り付けたままでした。

近所の街並みもクリスマス一色。

家々の軒下にはイルミネーションが瞬き、前庭にはキリスト降誕のシーンの馬小屋の模型が飾り付けられたりもしていました。

 

 

もう数十年前の良き時代の、アメリカの想い出です。

その時の経験が、その後の私の人生にいかに生かされ、恩恵を受けたか数知れません。

 

ポピュリズムが台頭し始めた頃から、アメリカの雰囲気も随分変わってしまいましたね。

何だか、とても悲しいです。

クリスマスシーズンには、今も変わらない光景が見られるのでしょうか。

 

 

素晴らしい経験をさせてもらえたのも、主人のお陰。

そして、異国の地でも恵まれた、良き友人たちのお蔭にもよるものでした。

その良き想い出の最もたるものが、クリスマス。

ツリーが良く似合うマイホームを、自分の手で描き切れたのも・・・。

この珠玉のような経験の賜物です。

 

またこの医薬品を購入しました。
このお陰で、私の肩こりと首の懲りが見事に治ったからです。
結構辛い症状でしたから。
安くないので、迷いましたが、一日六錠の服用を四錠くらいにして、
常備薬に出来たらしたいです。

 

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桜の想い出

2022-04-03 07:37:11 | 想い出

今の季節。

日本人の心は一番浮き立ち、自然を謳歌すると言っていいのかもしれません。

何故なら、桜が咲くから。

なぜ日本人は、こんなに桜に心惹かれるのでしょう。

これを探求しようとしても、私は桜の知識が浅すぎて、大したことは書けそうにありません

私に言えることは、桜の咲く時期は、新年度の始まりで、色々な行事に寄り添うように桜があるからでしょうか。

 

私が今、最初に思い出す桜の光景は、経堂の社宅にいた頃の想い出です。

長女が小学校の入学式を迎え、恵泉女学校の塀超えに咲き乱れる桜を仰ぎながら、その先にある区立の小学校の入学式に向った事。

孫達をこよなく愛しんだ母も一緒でした。

 

 

上の画像は、見納めのお花見になってもいいと思う程感動した小諸城址の桜です。

 

他では、新婚時代を過ごした長女宅のマンションが桜の名所として知られる目頃川沿いにあったため、孫守で、桜の季節にも、よく通った事。

このマンションは、私の余生を運命づけたところ。

本当でしたら、今三十万の家賃収入を得て、悠々自適の老後を送れていたはずなのだけれど。

結婚が目前だった長女夫婦に、そのマンションを譲り、戻ってきた手付金とその代金のはずだった資金を株式投資に投入。

そして、その資金のほとんどを失うといった、とんでもない愚行を犯してまいました。

でもその辛い思い出も、桜と共にあり、娘家族の幸せの代償として、今は私の心の内ではすっかり昇華されています。

たまには、その話をして娘夫婦に恩を着せることもありますけれど、愚痴を言ったことはほとんどありません。

 

近所の仲良しさんと目黒川のお花見に出かけた時、そのマンションの前をたまたま通り、その話をしました。

すると、「譲ったのが他人ではなく、娘さんで良かったじゃない」

と言われました。

正にその通りだと思いました。

目黒川沿いのお花見は、コロナ禍の前は友人との間では恒例になっていたので、またいつか、その心配をしないで出かけられる日が来ることを願っています。

 

この画像に映っている建物が、そのマンションです。
初孫が生まれ、西郷山公園にある保育園にも足しげく通い、私が一番元気だった時代かもしれません。

 

その娘宅に通っていた頃、実は、私が一番心惹かれたのは、桜ではなく、その後に芽吹いた瑞々しい新緑の季節の桜の樹でした。

若葉の芽吹きが、それはそれは瑞々しい清々しさで・・・。

人生の門出の季節にピッタリの光景だと思い、私は桜以上に感激したものです。

 

他では、二泊三日の三越のツアー旅行で出かけた小諸城址のお花見も忘れることが出来ません。

台風一過の晴天といったお天気にも恵まれ、澄んだ真っ青な空の下で観桜できたのも幸いでした。

これが桜の見納めになっても良いと思う程満足した私です。

冒頭に載せたのが、この時の想い出写真です。

 

 

数日前も、ほとんど人影がなく、私が一人占めできる隠れお花見スポットに出かけてきました。

青空を待っていたのですが、期待できそうになくて、日は差すも、花曇りと言えば聞こえがいいですが、風情のまるでない真っ白な空。

私の撮影の腕では、良い写真が撮れませんでした。

折角とりましたので、その時の写真も一応アップ致します。

 

森山直太朗の桜の歌も一緒に。

NHKの歌謡番組で数日前にも聴き、素晴らしい歌だと、改めて思いました。

この歌を契機にして、桜のイメージが明るくモダンなものに変わった、といったような新聞記事を目にしたことが、以前にあります。

 

さくら(独唱) - 森山直太朗(フル) - YouTube

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右の「広告スリップ」をクリックして聴いてくださいね。

 

実は孫娘の名前、桜ちゃんの由来は、いつになく速かった桜の開花日に産まれ、

その年に、森山直太朗の「さくら」が大ヒットした年だからのようです。

この歌の桜のイメージにピッタリの桜ちゃん。

名前に負けないように、素敵な人生を送ってほしいです。

 

 

 

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懐かしいお月見の写真 

2021-09-28 06:45:30 | 想い出

私の母と娘達です。

 

まずは私の実家での、お月見の想い出写真をご紹介させていただきました。

懐かしさで私の胸は一杯に。

昭和の日本家屋には縁側のあるお宅が多かったですね。

我が家もそうでした。

八畳の和室が二間が続いてあり、その前は廊下で、その先に結構広い庭がありました。

雑然としていて、日本庭園と言えるほど立派なものではありませんでしたが、背の高い大きな松の木と池があり・・・。

塀側には、孫用のブランコも。

 

父は現役でまだ働いている頃は、庭に大きなゴルフネットを張り、良く打ちっぱなしの練習に励んだりと・・・。

こうして綴っていると、今はもうない実家の庭の情景がありありと目に浮かんできます。

とてもとても懐かしいです。

 

 

画像はその庭に面した縁側で、私の娘達が大好きだったおばあちゃまと一緒にお月見をしている所です。

隔世の感があるこの写真を見つめていると、目頭が熱くなってきます。

スマホとかパソコンのようなデジタル機器はまだない、昭和の時代。

物質的には、今のように恵まれてはいなかったけれど、無性に懐かしい良き時代でしたね。

 

でもどうなんだろう。

この時代の私は、まだ恥ずかしくなる程未熟でしたから。

母に頼ってばかりで・・・。

しっかり者の母が随分力になってくれました。

 

このお月見の懐かしい写真の時から40数年が経過し、私は、母が亡くなった年齢を超えました。

献身的に孫たちを可愛いがってくれた母のお陰もあって、娘たちは心身ともに健やかに成長し、今は幸せな家庭を築いてくれています。

未熟な私ながら思いがけず、最大の親孝行とご恩返しができたのかもしれない、と今思っています。

 

 

今の私にとって、喜怒哀楽の数々の思い出は、すべてが宝物。

その思い出を抱きしめ、新たな一歩を今日も又踏み出しましょう。

 

昨日は、郷里に在住なさっている90代のご夫婦宛に、ご機嫌伺いのお便りを、この便箋で認めました。
喜んでいただけると嬉しいです。

 

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貴重なお時間を割いてまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

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桜への想い

2021-03-30 07:03:51 | 想い出

27日に、一度はお花見に出かけましょうと・・・。

一人で桜を独り占めできるような、隠れお花見スポットに出かけてきました。

ついでに足を延ばし、そこから然程遠くない里山公園にも。

お天気は、快晴と言ってもいい好天だったのですが・・・。

青空ではなく、カスミがかかったように真っ白で、面白味のない空模様。

雲も全く浮かんでいなくて・・・。

私の未熟な腕では、薄いピンク色の桜を際立たせて美しく撮影するのは、とても無理な状況でした。

 

 

案の定、帰宅して画像を見てがっかり。

ブログに載せるのはためらわれましたが・・・。

せっかく撮影したので、少しだけアップさせていただきますね。

 

 

初孫のR君が誕生した時は、長女夫婦は、桜の名所と言われる目黒川沿いのマンションで暮らしていました。

ですから、お花見はしょっちゅう経験できた私です。

R君が初めて保育園に通い始めた春。

早帰りだったため、私は仕事のある娘に代わって、毎日保育園に通いつめ、目黒川の土手の桜を見て過ごすことができました。

 

でもその頃、私は、桜以上に、瑞々しい葉桜が萌える時期の方がもっと好きだったのです。

桜は余りに華やか過ぎ、心が今一つ落ち着かない。

その美しさには、妖気さえ感じられてくる。

そのように思えたからでしょうか。

 

近郊にある里山公園の風景

芽どきの萌黄色が目に染みます。

その点、葉桜の美しさは全く違う趣。

その清々しい若さみなぎる色は、躍動感に溢れていて・・・。

希望と夢を膨らませてくれるような感じでした。

目黒川の澄んだ水の流れと圧倒的な新緑のコラボが、素晴らしかったです。

目黒川沿いにはおしゃれなお店、レストラン、更にスターバックスの高級旗艦店も今はあります。

お花見の季節、新緑の季節ともに、想い出を懐かしんで、また出かけてみたいです。

 

 

実は私には、言葉では語りつくせないほどに、感動したお花見の経験があります。

脊柱管狭窄症を患う前は、夫が亡くなって以降、伊勢丹三越のツアーを利用して、小さなトラベルを愉しむことがありました。

その一環で出かけた信州旅行。

その時訪ねた小諸城址。

そこの桜があまりに美しく、この世の見納めの桜になってもいいと思うほどに感動しました。

それから5年以上経過していますのに、今でもその美しい情景が目に浮かんできます。

 

浅間山を望むこのスポットは、まるで天国に足を踏み入れたような感動でした。

 

門出の出逢いと別離ののシーズンに咲く桜には、皆さんそれぞれの良き想い出がおありでしょう。

私も他にもあります。

日本を代表する桜が、これからも私達の暮らしを見守り続けてくれますように。

来年は、今年よりもっと穏やかな心境で、桜を見ることができますように。

改めて、世の中の平安を祈りたい心境に今なっています。

 

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前回の記事を削除して申し訳ありません~数日間更新はお休みいたします。

2021-03-15 08:42:47 | 想い出

二回に分けて「エゴノキの辛い想い出を」綴る予定でしたが・・・。

一回目を投稿後、どうにも気持ちがすっきりしません。

隣人の悪口を言ってしまったようで・・・。

それで、迷った挙句、削除することにしました。

もうご高齢で、息子さんやお孫さんが介護に見え、孝行息子さんに感心し、とても微笑ましく思っています。

今日の記事は削除し、その後の経緯は簡単に次回でお話しさせていただきますね。

 

追記

この話題に触れるのはもう止します。

しばらくまたブログはお休みさせていただきます。

 

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雪の日の想い出

2021-02-20 07:10:37 | 想い出

もう春はそこまでと言うのに、今になって例年にない大雪に見舞われている地方が至る所で見受けられ、驚いています。

北海道のみならず、西日本、九州までも。

これも地球の温暖化が何か影響しているのでしょうか?

豪雪地帯にお住いの方々のご苦労を思わないではいられません。

 

春間近の頃降る雪は、意外にドカ雪になることがあるようですが・・・。

私にも辛い想い出があります。

それは確か次女(長女だったかしら)の中学入学式の日のこと。

4月と言うのに、外は信じられないような銀世界。

最寄駅行きのバスはストップ。

電車も徐行運転するほどの大雪で、学校に辿り着くまでに大変な苦労をしました。

最寄り駅までの道で思い切り転倒も。

学校に辿り着くと私はもうへとへと。

湿気に弱い私の髪は、雪のせいでぼさぼさに・・・。

嬉しいはずの入学式が、とんでもない苦労の日になってしまいました。

 

 

それ以上に忘れられないのは、母が亡くなり葬儀を迎えた朝、外が真っ白な銀世界だったこと。

病院の医療ミスと言っていい、突然の死。

私は心の準備がまるで出来ていなくて、泣き崩れるばかりでした。

ショックで高熱まででてしまいました。

 

親戚の方々は、マイクロバスを貸し切るなど、大変な苦労をして参列くださいましたが。

純白の清浄さに包まれた我が家での葬儀は、母にはとてもふさわしく感じられ・・・。

銀世界が、私の悲しみを幾分和らげてくれました。

 

母の命日に供えたチューリップの花
私と妹の気持ち。
先日ご紹介したサーモン寿司の献立のお料理をお供えしました。
いつも身近に置きたくて、お位牌は仏壇から出して傍に置いています。
ありがとうの感謝の言葉は一日として忘れたことはありません。
週末には次女がお墓参りをしてくれるようです。

 

日頃、雪とは無縁に近い暮らしをなさっておられる方々には、私と同様に、雪の日の特別な思い出がおありなのでは。

私の住む地方の積雪なんて、雪国の方から見れば淡雪と言っていいほどのものであるに違いありません。

ですから「雪かきが辛い」なんて言っては、申し訳なく思いますが・・・。

 

実は次女宅でその話になりました。

食卓を囲み団欒を過ごしている時のことです。

次女が、「今年の冬は雪が降らないから助かるわね」

と言ったようなことを口にしました。

 

それで私は答えました。

「本当にそう。私の年齢で雪かき何てもう嫌。体力的にもとても無理だと思うわ」と。

すると間を置かず、中三になる孫息子が優しい眼差しを私に向けてきっぱり言いました。

「心配しなくていいよ。僕が雪かきに行くから」と。

私はもう感激。

心が温まり感涙しそうでした。

 

今でもその言葉を噛みしめて心を温めています。

でもやはり大雪は勘弁してほしい。

そんな心境です。

 

行政の力で雪国の人達の苦労を少しでも楽にしてあげてほしい、と祈って止まない私です。

 

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ハロウィンの想い出

2020-11-01 07:04:03 | 想い出

昨日はハロウィンでしたね。

夫の赴任でアメリカ在住時は、毎年この行事を心から愉しんだものです。

当日は日が暮れると、住宅街のストリートにはいろんな仮装をした子供たちがぞろぞろと行き交い、特別な雰囲気が漂いました。

幼い子供たちはとても可愛いのですが、高校生や大人たちの仮想姿は、何だかちょっと薄気味悪かったのを覚えています。

 

 

上の画像は、仮装した娘たち、親友のKさんのお子さん達、他のお友達です。

この時は私は天使の衣装を作りました。

チョッとこの行事には不向きなようにも。

子供たちが希望したのかもしれません。

前年の子供たちの仮装はウイッチでした。

不器用な私が、子供達のために頑張り、子供たちもその衣装を見て大喜び・・・。

そんな時代があったのだと今更ながら懐かしいです。

 

 

その日はお菓子をいっぱい用意して、私も日が暮れるのを待ちました。

日が落ちて薄暗くなると、待ってましたとばかりに仮装した子供たちが一軒一軒近所のお宅を回り始めます。

「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」」と唱えるのです。

もちろんいたずらされては困るので、一握りのお菓子を子供たちの可愛い手にのせます。

 

それだけのことなのですが、親たちも気分が高揚。

娘たちも、カボチャの型をした入れ物に溢れんばかりのお菓子を貰てご満悦。

でも、そのお菓子を野放図に食べられては大変。

子供たちが頂いたものなので、余りうるさく言えませんでしたけれど・・・。

食べ方を色々工夫させたものでした。

 

 

最近は日本でも、ハロウィン行事が盛んになり、店頭にはそれ関連の商品が多く販売されるようになりましたね。

私はそれを見ると、孫達のためにに何か買わないといけないのではと思い、何だか気持ちが落ち着かなくなったりしますが・・・。

逞しい商魂に乗せられるのもいかがなものかと思い・・・。

今では、お誕生日、クリスマス、お年賀で孫サービスは留めるようにしています。

 

行事は何にしても、一つ一つ心から愉しむ。

それが人生のメリハリと彩りとなり、家族の絆を深めるのであれば、素晴らしい事なのかもしれません。

アメリカ在住時からの親友Kさんの所は、正にその様なご家庭。

下の画像は、Kさん宅のハロウィンの今年の飾り付けです。

可愛くて素敵!

 

 

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達筆に憧れる~両親の想い出

2020-10-18 06:49:42 | 想い出

母は、字がとても美しい人でした。

その美しい字で綴る手紙文も上手に書ける人でした。

今でも忘れられない祖父の言葉があります。

 

母が急遽、お里に身内のお葬式で帰京した時、その報告の手紙が祖父のもとに届きました。

母の実家は江戸時代創業の造り酒屋です。

さぞ盛大なお葬式で、母も日々その手伝いに追われ、多忙だったに違いありません。

 

その最中に、祖父の元に母の手紙が届いたのです。

その手紙を見ての祖父の一言は、次のようなものでした。

「忙しい最中に、こんな立派な手紙が書けるなんて、お母さんは大したものだ」と。

 

最近この写真を見て妹が言いました。
「お母様は華のある本当に美しい人だったわね」と。
私もそう思っています。

 

祖父は、国立大学の学長にまでになった人。

そんな祖父から、こんな誉め言葉を受けるなんて。

「お母様は凄い!」と、私はとても感心したものです。

私は筆不精で、字も下手糞でしたから、祖父に絶賛された母の才能に、改めて憧憬の念を抱きました。

 

母の作品

 

私も母のように字が上手になりたい。

人を感動させられるような手紙が、さりげなく書ける。

そんな人に、なれるものならなりたい。

その願望は叶ったでしょうか。

とてもそうとは言えません。

 

字は、ペン習字の通信教育を受け、若い時よりかなり上達はしましたが。

恐らく字の美しいバランス感覚は、生まれつきの才能なのでは。

特別努力はしなくても達筆な人は、世の中に大勢いらっしゃいますものね。

 

グランドキャニオンにて

 

その才能に私は恵まれなかったものの、努力が多少は実ったのかもしれません。

数度のことですが、とても褒められた経験があります。

 

郷里の実家の売買でお世話になっていた不動産屋さんに封書の手紙を出した時。

義父母さまへの私からの届け物を次女から手渡してもらう際に、一便箋に書いたはじめての手紙。

夫が亡くなった時、お世話になった従兄弟に差し上げた手紙。

その他では、銀行で書類に記入している時。

 

思いがけなく、「字がとてもきれい」と、身に余る誉め言葉をいただきました。

私にとっては、とてもとても意外な事でしたので・・・。

嬉しくて、今でも一つ一つこのようの思い出せるほどに記憶が鮮明です。

 

努力はしたい気持ちはあっても、何事も三日坊主で、余り長続きしなかった私ですが。

ペン習字は、途中お休みを入れながらも割と続いた方。

長く努力を積み重ねれば多少は実るものだ、と実感できたことでした。

でも、最近、また字がうまく綴れない。

恐らく歳のせいでしょう。

達筆だった母も認知症になる前頃から、その傾向が顕著でしたから。

 

小冊子に掲載された母の短歌

 

母の字の美しさは天性の才能だったのでしょうが。

字に限らず、文章も巧み。

お稽古事をしたことはすべて上級の域に到達。

お習字、茶道、日本舞踊、短歌、編み物、何でもそうでした。

改めて今、尊敬の念が湧いてきます。

 

珍しい父とのツーショットの写真

両親の若かりし頃の写真

 

父も何事も探求熱心で才能豊かな人でした。

スポーツも万能。

私の不器用さは、いったい誰に似たのでしょう。

落ちこぼれの娘。(笑)

そんな不器用な娘ながら、一生懸命生きてきたことぐらいは、両親も認めてくれるかもしれません。

そう願いつつ・・・。

今は亡き両親と夫、若夫婦家族、妹はじめ周りの人達への感謝の念は忘れないで、余生を暮らしたいと思っています。

 

追記

少々ブログ綴りに息切れがしてきました。

書く話題もなくて・・・・・。

そのため、今後は気が向いた時だけにして、しばらくのんびり更新させていただきます。

明日も早朝の限られた時間内で綴れるようでしたら、投稿させていただきますね。

いつも大勢の方がご訪問下さり、温かな応援までして下さいまして、本当にありがとうございました。

寒暖の差が結構ある時節柄、くれぐれもお体に気を付けて、健やかな良き日々をお過ごしになられますように。

 

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被爆者として思う事 徒然なるままに

2020-08-08 07:07:27 | 想い出

8月6日は原爆の日でした。

そして、父の命日でもあります。

この巡り合わせは、余りに神秘的。

そう思えて、仕方がない私です。

 

最近、爆心地からかなり離れた地域でも、黒い雨が降った所に居た人たちは、被爆者として認められる判決が下されましたね。

父は、原爆が投下された当日、爆心地から一キロも離れていない会社まで出向き、その帰りに黒い雨に遭ったようです。

会社の人達はほとんど全滅。

焼けただれ、外見ではだれか分からなかった同僚の女性が、父に声をかけてきたそうでした。

街や会社の壮絶な惨状を目の当たりにして、父は何を思ったのでしょうか。

 

過去に撮影した画像です。

 

原爆投下の前日、出張から戻った父。

その翌日は、30分出勤を遅らせて良かった幸運で、九死に一生を得ることに。

母も同様です。

勤労奉仕のため、市街地で働いた手前の通りの主婦の方達は、全滅。

母は翌日がその日に当たっていました。

 

原爆投下後、母はその苦労で結核になり、長期の入院と自宅療養を余儀なくされることに。

私は就学前、1年間くらい祖父母の家に預けられました。

母が入院する時、路地の先に、迎えの黒いタクシーが止まりました。

泣き叫んで母を追いかけたこと。

父が、祖父母の家に迎えに来てくれ、家に戻った時の広い玄関の空気感など・・・。

今でもかすかにに思い出せます。

母の後ろに、母のお里が雇ってくれた和ちゃんと言う女中さんがいたことも。

確か被爆で両親を失い、孤児になった人でした。

数年わが家にいた和ちゃんの思い出も、色々あります。

またいつかの機会にお話ししたいです。

 

 

広島が復興を遂げるまで、いろいろ苦労があったでしょうに。

父母の態度は一貫していて、被爆当日の話に触れることはほとんどありませんでした。

二~三回、聞いた覚えはありますが。

 

妹の方が、私より聞く機会があったのでしょうか。

8月6日の記事に、両親から聞いた原爆投下直後の状況をもっと詳しく記しています。

宜しければ、目を通してください。

https://blog.goo.ne.jp/yumeji_2014

 

父母がそのような態度で子供たちに臨んだためでしょう。

私は被爆者の負い目を精神的には全く感じることなく、その後の人生を過ごすことができました。

もしかすると、幼い時から虚弱体質で、熱ばかりだし学校を休みがちだったのは、多少被爆の影響があったのかもしれませんが。

 

 

おかしなもので、自分が被爆者であることを強く意識するようになったのは、東日本大震災以降のことでした。

その時、マスコミもブログでも放射能の恐怖が嫌と言うほど語られるように。

それを目にするたびに、三キロの地点で放射線を浴びた私は、今も元気に過ごしているのに、と思い・・・。

東京まで危険と、不安を煽るような過激な物言いをするマスコミやブロガーさん達に、疑問を感じないわけにはまいりませんでした。

そしてある方のブログに、言葉を選び、妹にも読んで聞かせると言った慎重さで、意見をさせていただきました。

福島の方達の気持ちを察し、言葉をもう少し謹んでほしい旨コメントした私です。

 

ところが、それが原因で、その後数年間ネット上で大変な苦労をすることに。

酷い中傷コメントだった、と言われ続けました。

今なお、その非難は続いています。

そのために最近また新たな挙動があり、その執拗さに唖然としてしまった私です。

 

今日の記事の文章の流れの必然として、過去の苦い思い出に触れましたが・・・。

今の私にとっては、遠い過去の出来事に過ぎません。

今は、事実とあまりに異なることを言われ、非難されても、一貫して無視を通す精神力も身に付きました。

 

平和公園に通じる広島の風景 

 

核のごみ処理は未だに未解決のままで心配ですが・・・。

今は、怖いウイルスが蔓延するといった深刻な問題が新たに発生。

私の老後は、期待したようなな穏やかさとは程遠い感じになってしまいましたが。

でも目先だけ見つめれば、いつもと変わらない日常があります。

 

戦争中の苦労や原爆投下の壮絶を体験した両親の気持ちを思えば・・・。

ウイルスの蔓延など、嘆いて暗くなるほどのことではないのかもしれません。

こういう時だからこそ、ささやかな幸せを噛みしめ、心はいつも平静でいたい。

そして逞しく生き抜かなければ。

今は、その様に思っています。

 

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沖縄の想い出~当時の姉妹写真

2020-06-27 06:51:34 | 想い出

6月23日は沖縄慰霊の日でした。

私はその式典の様子をテレビで観ながら、今年も、今なお鮮烈に私の心に焼き付いて離れないの絶景を思い出していました。

それは喜屋武岬。

沖縄本島南西端に位置する岬です。

沖縄戦でアメリカ軍に追われた住民が行き場を失い、身を投じた場所。

 

画像はすべてネットから拝借したものです。

 

もう十数年前になりますが、妹と二人で観光バスによる沖縄旅行に出かけたことがあります。

四泊五日の日程ではなかったかと思いますが、最後の日は自由行動でした。

その日、妹と私では観たい観光スポットが異なりました。

結局私の希望と妹のサンゴ礁を見たいという願い両方を叶えることに。

かなりの強行スケジュールでしたが。

私が是非行きたかったのは、糸満市の平和祈念公園とその先にある喜屋武岬。

 

公園までは順調にたどり着けましたが、その当時喜屋武岬までの行程には舗装された道路がありませんでした。

畑の中を通るデコボコ田舎道をタクシーで抜け、岬に辿り着いた私達。

人影は全くなく観光客は私達二人だけ。

 

 

お天気が良かったのも幸いしたのでしょう。

眼下に、果てしなく広がるコバルトブルーの海と、海岸に打ち寄せる白い波。

抜けるような青い空。

その絶景の余りの美しさに、息をのみました。

 

けれど、その美しさは深い悲しみを湛えているように見えて仕方なかった私です。

その場所から身を投じた、多くの沖縄の人達の悲しみと絶望が伝わってくるようだったから。

私も妹も言葉少なくじっと見つめるだけでした。

 

 

私の心に強く印象付けられた観光地は他にもたくさんあります。

例えば、観ると人生観が変わるとまで言われるアメリカのグランドキャニオンの壮大な風景。

イギリスの小さな村コッツウォルズ。

世界一美しい村、この世の天国と称されるだけあって、その村の美しさ、優しさ、温もりは、感動的でした。

でも私の心に一番鮮烈な印象を与え、どこの観光地よりも忘れがたいのは、今でも喜屋武岬です。

 

              

17年ほど前に妹と一緒に沖縄旅行した時の想い出写真です。

妹のブログ

https://blog.goo.ne.jp/yumeji_2014

 

太平洋戦争の末期、沖縄で繰り広げられた戦争が、如何に悲惨なものであったか。

終戦直前に生を受けて、戦争の記憶がまったくない私でも、想像がつきます。

そして戦後70年以上が経過した今でも、沖縄の人達の気持ちが完全に癒えていないことも。

 

基地問題も未だに解決がついていません。

あまりに複雑な問題なので、私は意見など述べられませんが。

沖縄が、まれにみる美しい風土を壊すことなく、ますます発展してほしいと心から願っています。

 

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紫陽花の想い出

2019-06-24 07:12:18 | 想い出

数年前、鎌倉の長谷寺を訪れた時の紫陽花の画像です。

 

しっとり濡れた風情が美しいアジサイ。

正に梅雨の風物詩。

道行く庭先の至る所で、鮮やかなアジサイを目にする頃となりました。

長雨の季節ながら、清涼感漂うアジサイを見ると、雨のうっとうしさも蒸し暑さも癒されます。

 

我が家の庭にも、アジサイが一つだけですが、植えられています。

真っ白な、カシワバアジサイです。

純和風というより、西洋的な趣がする花姿ゆえでしょうか。

我が家の庭に、とてもよくマッチしています。

 

 

実はこのアジサイをあと数本植えたくて仕方ない場所があります。

その場所は、和室の前の坪庭。

ここに、鮮やかなブルーやピンクのアジサイを植えたら、障子越しに映るお庭の風景が、どんなに明るくなるでしょう。

ガクアジサイも植えたいです。

この気持ちを抱く時、想い出す懐かしい場所が私にはあります。

 

 

夫の実家です。

郷里は、同じ広島でした。

その実家は、市の中心の繁華街から7~8分の、とても便利なところにありました。

開業医だった義父です。

玄関の扉を開けると、そこは患者さんの待合室。

目の前に受付の窓口がありました。

左側に診察室。

右側の廊下を通り抜けると、二部屋の和室の奥に、北向きの少し薄暗い、やはり和室がありました。

お邪魔した時の夕食のひと時は、いつも、その北向きの部屋で持たれました。

床の間もあり、掛け軸がかけられていましたから、その部屋が客間だったのでしょう。

 

 

義父は医師でしたが、文学への造詣が深くて、とても博学。

夫と違い、話し好きでなかなかの社交家でした。

その人柄のせいでしょう。

広島の医師会でも、とても活躍をした人のようです。

 

北向きの和室での団欒のひと時。

義父の教養豊かなお話は、とても勉強になりました。

 

 ガクアジサイ

 

その和室の先に、小さな坪庭がありましたが。

繁華街に近い場所でしたから、その庭の周りは高いビルの建物で囲まれ、日当たりは良くありませんでした。

一方、南側に面した庭は、目の前は広い公園。

日がとても良く当たり、藤棚がありました。

 

梅雨の時期になると、薄暗い方の庭には、ガクアジサイが、鮮やかな色の花をつけたのです。

何だかはかなげで、だけど凛とした花姿は、私の目をいつも引きつけて離しませんでした。

今も忘れられない思い出です。

 

アジサイの想い出は、人それぞれおありでしょうが、私にとって一番印象的だったのは、夫の実家のこの紫陽花かもしれません。

 

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まずは二通お手紙を認めて~追記あり

2019-02-12 06:55:57 | 想い出

最近の若い方たちは、便せんや葉書きによる手紙のやり取りはめったにしないのでしょう。

通信機器で、気軽に速やかにコミュニケーションが取れる世の中です。

そういう私も同様。

親しい人や家族には、メールや電話で連絡しますが。

携帯メールは大の苦手です。

 

でもそれがふさわしくない場合も、多々ありますね。

そのような時は、久し振りの便せんや葉書きの出番です。

文箱から、書きたいと思っている文面やお相手の人柄に合った絵柄の便せんや葉書きを選んだり。

切手も、いろいろ迷います。

 

母はとても筆まめで、達筆な人でした。
文箱は両親の遺品です。

 

そして手紙を綴るわけですが、初めから終わりまでの行程は結構大変。

私は、時間がかかります。

ですから書き終わると、大仕事を終えたような気持ちに。

何だか、とてもほっとします。

 

このような感じですから、手紙を書くのが得意とは、とても言えない私。

ところが最近は、お手紙を認めなければならない人が多くて、気になって仕方がありません。

五通のうちの二通をやっと書き上げました。

 

 

一通は昨年の春に奥様を亡くされた、夫が勤めていた会社の取引先の方。

私はお目にかかったことは一度もないのですが、夫が亡くなった後も、季節の挨拶状には、必ず温かな励ましの言葉を添えてくださいます。

夫が病床中にも、この方のお気遣いの温かさに感動したものでした。

 

ですから、何かささやかでも、お慰めしたいと思った私です。

それで、供花とともにお悔やみのお手紙を、遅ればせながら認めることに。

お会いしたことが一度もない方ですから、綴るのも緊張して、時間がかかりました。

お花の手配はもう済ませ、今日はその手紙を投函します。

 

 

もう一通は私の従兄弟で、私より一回り年上のSさんへのお手紙です。

がんを患い、膀胱を摘出する手術を受けられたと、年賀状に一言添え書きされていました。

私はびっくりし、とても心が痛みました。

 

夫と婚約時代、東京でデートをする時は、Sさんが居る伯母さまのお宅にいつも泊めていただいたものです。

田中角栄や徳川家の住まいが近くにある目白の閑静な高級住宅地の一角に、お宅がありました。

そのころ、Sさんは、学習院を卒業されて会社員に。

婚約中でした。

理想的な体形、言葉遣いもソフト、お人柄も優しく温かで、非の打ち所がない青年だったSさんです。

まさに私の理想の男性像。

憧れの人でした。

 

 手紙の用途やお相手の人柄に合わせて、便せんやはがき。切手を私は選びます。
目上の方には、真っ白な便せんを使用することが多いですが。
可愛い絵葉書は、本の栞としてもよく使用します。

 

ですから、ショックは、相当なもの。

お見舞いのお手紙と共に千疋屋の果物、お花を妹との連名でお届けすることに。

妹もすぐ同意してくれ、お手紙は私が認めました。

夫の知人と違い、緊張することもなく、この手紙はすらすら綴れた私です。。

 

 

まだあと、三通、書かなければ、と心にかかってならない手紙があります。

二通は、お悔やみですが。

もう一通の手紙は、なんと最近届いた年賀状。

昨日のことです。

余りに微笑ましいことが書かれていて、思わずにっこり。

 

高齢になると、だれもがおかしそうな、医学博士、N先生の失敗を、次回ではお話しさせていただきます。

年賀状へ寄せる私の思いとともに。

 2月8日から記述

 

追記

Sさんは私より一回り年上なのに、とんでもなく時系列が間違った記述がありました。

妹に指摘され訂正しました。

お気づきの方、いらっしゃいましたか?

恥ずかしいです。

ごめんなさい。

 ご訪問、有難うございました。


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  ありがとうございました。

  

  花のように泉のように

 

 

 


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六月の日記~沖縄慰霊の日に寄せての私の思い

2018-07-12 07:17:49 | 想い出

6月23日は沖縄の慰霊の日でした。

テレビでは、その式典の様子がたびたび取り上げられ、報道されていました。

太平洋戦争の末期、沖縄で繰り広げられた戦争が、如何に悲惨なものであったか。

人語につくし難いものであることは、終戦直前に生を受けて、戦争の記憶がまったくない私でも、想像がつきます。

そして戦後70年以上が経った今でも、沖縄の人達の気持ちが完全に癒えていないことも。

 

長年にわたり、沖縄の住民と政府の間では基地問題での闘争が続いていてきました。

私にはそれについての意見を述べる資格などありません。

勉強不足で、知らないことがあまりに多すぎるからです

行政の取り組みと沖縄の人達の気持ちとの折り合いを、どのように今後付けて行くのか、私は見守るだけです。

 

北朝鮮問題が平和解決に至り、すべての国と友好関係が結ばれるようになれば、沖縄の基地問題も自然消滅するのかもしれないけれど。

そんな夢のような平和な世の中が実現するのは、まだまだ先のことでしょう。

子供たちや孫たちのために、そのような日が訪れることをを祈って止まない私ですが。

 

この度の米朝会談によるトランプ氏と正恩氏の良好な関係も、どこまで信じてよいのか。

私はまだ半信半疑です。

正恩氏をバックアップす中国の動きが、私はとても気になります。

 

 

最後に、私がこの記事で一番書きたかったことを記します。

私は旅行好きではなかったので、国内外ともに、訪ねたところの数は知れています。

その中で、あなたが一番印象に残っている場所はどこですか?ともし尋ねられたなら、私は迷わず答えられる所があります。

 

 

それは沖縄の喜屋武岬。

沖縄本島南西端に位置する岬です。

沖縄戦でアメリカ軍に追われた住民が行き場を失い、身を投じた場所。

 

妹と沖縄旅行をした時、私が強く希望し、二人でこの場所を訪ねました。

タクシーに乗り、まだ舗装されていない田舎道を抜けて、その岬に到達した私達。

まだ観光化されていなかったのでしょう。

人影は全くなく、妹と二人だけで、岬の海を望みました。

眼下に見下ろせるコバルトブルーの果てしなく広がる海と、海岸に打ち寄せる白い波。

抜けるような青い空。

その絶景の余りの美しさに、私は言葉を失ってしまうほどでした。

同時にこの美しい海に身を投じた沖縄の人達の悲劇的な最後を思い、たまらない気持ちに駆られ、胸が詰まりました。。

 

 

ここを訪れる前、私達は、摩文仁の平和公園内にある資料館も見学しました。

そこに展示された写真を観て、私は複雑な気持ちに。

アメリカ兵が、沖縄の住民を優しく扱う写真が多かったからです。

それも真実の一面だったかもしれないけれど、当時の残虐さは、そんなものではなかったはず。

 

沖縄の悲しい残酷な歴史を飲み込んで・・・・・・。

切なくも優しく白波が打ち寄せる喜屋武岬の絶景が、今も私の脳裏から離れません。

 

         

 

またしばらくお休みに入ります。

まだ決めかねていることですが、9月まで夏休みにしようかとも。

早朝のブログ綴りも控えて、少しでも長く睡眠をとり、体力増強を図りませんと、猛暑を乗り切れそうになくて。

一方では、書くことで元気が湧くとも言えないでもなく・・・・・・。

ブログ綴りへの対応は迷ってばかりいる私です。

 

まだお伝えしていませんでしたが、今我が家には新しいパソコンが届いています。

実は今使用しているパソコンは、外枠が壊れ、大変なことに。

それでも機能には差し障りがなく見ることもブログを書くことも、辛うじて、できています。

 

でもこの際、思い切って、最後のパソコンと思い、今までと同様の富士通の商品を買い求めました。

思いがけない出費なので、後半の家計は、ますます引き締めなくてはなりません。

でも嬉しい!

PCの反応の鈍さに因る時間の無駄をなくせるからです。

今度こそ、PCのソフトの整理整頓を心がけ、きれいに使用したいもの、と願っています。

 

最近パソコンへの向き合い方も、随分変えました。

その結果、時間を思い切り短縮することに成功!

とてもとても満足しています。

これら色々なことについての詳述はお休み明けに致します。

 

最後になりましたが、この度の豪雨の災害には、本当に驚き、心が痛み、つらい気持ちが拭えません。

特に郷里の被害が大きくて・・・・・・。

そんな中、気丈に頑張っておられる被災地の皆様の姿を報道で観るたびに、感服しています。

どうかくれぐれも健康にご留意され、この艱難を乗り切ってください。

 

一方では、体調を崩し寝込まれている方も多いに違いありません。

お察し申し上げます。

お大事になさってくださいね。

 被災地の皆様が、穏やかな日常を一日も早く取り戻されますように、ひたすら祈っています。

 

政府は防災対策に、今後はもっともっと力を入れて下さい。

「人の命は地球より重い」といった人がいましたよね。

人の命を守るための施策を行政の第一課題にして欲しいとさえ、最近しみじみ思う私です。

 

もう一つ、お伝えしたい私の気持ちが。

死刑はやむを得ないこととはいえ、オウム信者と教祖七人同時執行には、複雑な気持ちに私はなりました。

それを受け止めざるを得ない国民の気持ちや、死刑が禁止されている国々の思惑など、もう少し想像力を働かせて臨んでほしかった、と。

 

色々思うことがたくさんありますが、時々相変わらず痛む足をかばいながら、猛暑の日々を元気に乗り切れるように、私も頑張ります。

 

 

 

 

 


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続 青虫事件

2018-04-27 06:42:56 | 想い出

今日は、青虫事件の続編を綴ります。

この記事を書くにあたって、とても残念なことがあります。

私は、青虫の写真を撮ったと思い込んでいたのですが、どうも勘違いだったようです。

去年の春から初夏にかけての画像に、二度も目を通しましたが、見付けることができませんでした。

もしかして、一昨年の事だったかしら、と思い、その年の画像にも目を凝らしました。

でもやはりありません。

 

私の記憶なんて、この程度。

その不確かさに呆れるとともに、皆様に、その青虫のアップの写真が見せられないのが、残念でなりません。

何故なら、その造形美に、私は心からうっとり。

愛嬌のある顔と姿にも、とても感動したからです。

 

でもその時、無知な私は、それがモンシロチョウの幼虫である、と、すぐには思い浮かびませんでした。

(上記の文章を訂正させていただきます。私が見たのは、モンシロチョウではなくアゲハチョウの幼虫のようです。そのため後述の文章も、

辻褄が合わないことに。でも今更書き直すのも大変ですので、このまま載せることにしました。ごめんなさい。)

 

ネメシア
青虫君は、草花に劣らない、鮮やかな美しい色の体をしています。

 

恐らく青虫君への感動より、憎たらしさの方が私の心を占めていたのでしょう。

ここに記すのが恥ずかしくなるような、残酷な行為で、その虫君に、私は対応してしまったのです。

どんなに可愛くても、虫嫌いのところもある私ですから。

 

私の大切な庭に、これ以上住み付いて、さらに被害を被らせてはたまらない、と思いました。

そして私は、テイッシュを何枚も重ね、その青虫を、怖々と掴み取り、フェンス越しに、下の方にある道路に向かって、放り投げてしまったのです。

道路まで、かなりの高低差があります。

恐らく、落下の一撃で、死んでしまったのではないでしょうか。

 

今思い出すと、それは私には、もっと辛い出来事に感じられてきます。

何故なら、わが家の庭に訪れるモンシロチョウは、亡くなった母の化身のように思っているところが私にはあるからです。

母が亡くなったのは、一番寒い時期の2月でしたが、その年の春は、黄色のモンシロチョウが、私の身に寄り添うように、しきりに舞いました。

その出来事が余りに頻繁に繰り返されたので、私はこのモンシロチョウは母の化身にちがいないと確信しました。

優美で可憐な感じがする黄色のモンシロチョウは、母の雰囲気を彷彿とさせましたから。

 

そういえば、昨年の春にも、同じような思いに駆られたことがあります。

次女の孫娘のかれんちゃんと動物園に出かけたとき、園の遊歩道を歩いている時、やはりモンシロチョウが、私たち二人により添うように、しばらくひらひらと舞い続けていました。

孫にも、「この蝶々はかれんちゃんのひいおばあちゃんだよ」と私は言ったものです。

 

動物園に出かけたときの画像です

 

モンシロチョウには、そんな切ない思い出を抱く私ですのに・・・・・・。

自分がしでかした、その幼虫への残酷な行為が、今思い出しても、やりきれない気持ちになります。

 

大変読者の皆様に気を持たせる文章になってしまいました。

その様なひどい行為に至った理由を最後に書きますね。

 

春らしい食材の一つに木の芽があります。

筍ご飯、筍寿司、春野菜のお浸しの上に、私はよく添えます。

でもなぜか、その木の芽は驚くほど高価。

最近、買い求めたときのお値段も、5~6枚入った小さなパックが200円近くします。

こんなに高くては、たっぷり使用することはできません。

 

 

ところがある日、園芸店で、木の芽が一杯付いた山椒の小さな苗木を目にしました。

価格はたしか500円前後。

私は飛びつきました。

この苗木があれば、この春は。木の芽をふんだんに利用できる、と。

 

 

 

料理ブログの過去の画像より 

 

私はその植木鉢を、庭の陽の良く当たる場所に置きました。

その数日後の事です。

その木の芽を利用したくて、庭に出ましたが。

どうしたことでしょう?

その植木鉢が一瞬、見当たらないと、私の目が彷徨いました。

 

ところが、ありました。

すっかり裸木と化した、惨めな山椒の苗木が目前に。

木の芽は、2~3枚しか残っていませんでした。

そしてその木の枝に、青虫が満足そうな顔つきをして、居座っていました。

まるで、何もなかったようなひょうきんな顔をして。

 

最近の画像です。
瀕死の状態。期待しているのですが、これ以上、成長してくれません。

寄せ植えのハーブは元気です。

 

すぐに私は、その状況が理解できました。

5~60枚は茂っていたであろう山椒の木の芽を、一夜にして、この青虫が食べつくしてしまったことに。

酷い!酷すぎ!と怒りが込み上げました。

一方では、その青虫君の色鮮やかな縞模様の黄緑の体と愛嬌ある風貌に見惚れていた私だったのですが・・・・・・。

でも許せない。

二度とこんな被害は被りたくない。

私の庭から、一刻も早く退散して。

その思いが一杯に。

そして、フェンス越しに、下の道路に向かって、その青虫を投げ捨ててしまった残酷な私でした。

おわり


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