音楽の喜び フルートとともに

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親子で音楽家

2023-09-13 21:01:00 | バロック
第2火曜日10:00〜は、会館「トノニ」で殿山第2小学校区の子育てサロン「ぽっぽくらぶ」でした。
ぽっぽくらぶの歌
親子のふれあい遊び

絵本、お絵描き。
それから今日はハーバリウムのボールペン作り
お花を入れて

ハーバリウム液を入れて

出来ました。
お母さんが元気で楽しい気持ちでいると子どもたちも幸せに育つと思います。
ぜひ第2火曜日、会館トノニ「ぽっぽくらぶ」に来て下さい。申込み不要、無料。
みんなでお待ちしています。

スカルラッティと言えばドメニコ・スカルラッティ(1685年〜1757年)
ナボリ王国ナポリ生まれ、スペイン帝国マドリード没

が有名です。
実はバッハ家やクープラン家のような音楽一家でした。 

父はアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725年)シチリア王国シチリア島生まれ、ナポリ王国ナポリ没

ドメニコ アントニオ ヴァッカオによるアレッサンドロ スカルラッティ
ローマで作曲したオペラがやはりローマに滞在していたスウェーデン王女クリスティーナ(1626-1689年)

の目にとまり、スウェーデンの宮廷楽長になります。

その後、1684年オペラ歌手で貴族の姉の説得を受け、アレッサンドロ スカルラッティはナポリの総督宮廷楽長になります。

そこで長編のオペラを作曲し、儀式のための曲を作曲しました。

その頃、ドメニコ・スカルラッティが生まれます。
10人兄弟の6番目で幼い頃は「ミモ」と呼ばれていました。

幼い頃のことはよくわかっていませんがおそらく父から音楽教育を受けていたと思われます。

1701年15歳でナポリの教会のオルガン奏者に就任します。

しかし、この頃ナポリ副王を狙った暗殺未遂事件や、スペイン継承戦争(1701-1714年)

ビーゴ湾の海戦
の影響でアレッサンドロの務めていたナポリ王宮の給料不払いなどが起き、1702年一家でナポリを去り、各地を転々とし、最終的にフィレンツェに滞在します。

4ヶ月滞在してドメニコはナポリに戻り、アレッサンドロはフィレンツェの大公の劇場にオペラを作曲し、オットポーニ枢機卿の楽長を務めた後、1703年にローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の教会楽長に就任します。
一方その頃ドメニコはナポリで初めてのオペラを作曲します。
1705年父の助言を受けてヴェネツィアに移りピエタ教会に通いカバリーニのもとで音楽的な訓練を受けていたと思われます。

1708年にはアレッサンドロはナポリに復帰。1717年までとどまります。
ナポリではアレッサンドロの音楽はナポリで飽きられてきました。

ドメニコは1709年にローマに移り、ポーランド王妃マリー カジミール(1641-1716年)


の音楽監督の職を得ました。また、サン ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂

で働き、1714年末には音楽監督のドンマーズ バイが没するとその後を引き継ぎました。

この頃ローマでアレッサンドロの人気が高まり、1718、19、20年とローマのカブラニーカ劇場で彼のオペラが上演されます。

1721年彼の教会音楽の最高峰「聖セシリアのミサ曲」

聖セシリア ローマ時代に殉教した 盲人と音楽家の守護聖人
を作曲します。
1725年アレッサンドロはナポリで亡くなります。
ドメニコはその後ローマを中心に活躍していきます。

文献にはっきりと残ってはいませんが、父は仕事を成功させるために息子に助言し、息子は父の音楽を広め、お互いに助け合ってファミリービジネスとしての音楽を成功させていたように思えるのです。

アレッサンドロ スカルラッティの「聖セシリアのためのミサ曲」からキリエ(神よ救い給え)