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薬屋のおやじのボヤキ

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食の進化論 雑記編2「世界の食糧難を救った作物はなぜかアンデス生まれ、そしてこれからも」

2020年12月11日 | 食の進化論

食の進化論 雑記編2「世界の食糧難を救った作物はなぜかアンデス生まれ、そしてこれからも」

世界の主要食糧の生産量(単位:億トン)と原産地
(穀類) トウモロコシ  8.4  中南米(アンデス?)
     米       6.7  インド・アッサム、中国・雲南省
     小麦      6.5  中近東
     大麦      1.2  中近東
     モロコシ    0.6  熱帯アフリカ
(芋類) ジャガイモ   3.2  アンデス
     キャッサバ   2.2  南米・アマゾン
     サツマイモ   1.2  アンデス
     ヤムイモ     0.5  世界各地
(豆類) 大豆       2.6  中国・東北部
     落花生      0.4  アンデス

 このように現在の主要食糧の生産は、アンデス原産が目立ちます。
 アンデス原産のもの、そしても、2、3千メートルという高地で誕生しています。
 ここに挙げた穀類は皆、イネ科の植物で、イネ科の植物は一般に小さな粒(モロコシがそうで、キビ、アワ、ヒエもそう)しか着けないのですが、トウモロコシは巨大な粒になっていますし、も低地の原種は小粒のようですが、高地のインド・アッサムや中国・雲南省では大粒に成長したようです。
 高地では穀類の粒が大きくなると考えて良いでしょうね。ただし、麦だけは低地原産でも初めからまずまずの大きさをしていたようです。
 生産量は少ないですが、穀類に分類されるものとして、イネ科以外のものが幾つかあります。
  ・アンデス原産 ヒユ科(ケイトウの仲間)のアマランサス
  ・アンデス原産 アカザ科(ホウレンソウの仲間)のキヌア(キノア)
  ・中国南部(高地)原産 タデ科のソバ
 これらは、同じ科に属する他の植物に比べ、大きな種をたくさん着けます。いずれも2、3千メートルという高地で誕生し、寒冷で痩せた土地で育ちます。
 次に、芋類ですが、アンデス原産のものを3つ紹介します。
  ・ヒルガオ科のサツマイモ
  ・ナス科のジャガイモ
  ・キク科のヤーコン(芋)<のちほど説明します>
 花を見れば何科の植物か、おおよそ察しがつきます。昼顔や朝顔に芋ができるでしょうか。茄子に芋が出きるでしょうか。菊に芋ができるでしょうか。
 実に不思議なことです。こんなのに芋ができるなんて。
 いずれも2、3千メートルという高地で誕生したものです。
 3つ目の豆類。落花生はマメ科なのですが、地中に豆を作るという変り種です。これも2、3千メートルというアンデスの高地で誕生しました。
 参考までに、油脂をとるため(昔はそのまま食用)の作物として、ヒマワリがあります。ロシアを中心にかなり大規模に作付けされていますが、これはキク科で、ロッキー山脈の高地が原産です。

 アンデス山脈(ヒマラヤやロッキーもおおむね同様)はどのように出来たかというと、数百万年前から少しずつ隆起を始めたようで、アンデスのその昔はアマゾン地帯と同様に熱帯雨林(非常に植物の種類が多い)だったようです。
 そのときには、ここまでに紹介した主要食糧は誕生していたとは思われません。土地が隆起していき、自然環境が少しずつ悪化し、最後には痩せた寒冷な高地にされてしまったのですが、幾種類かの植物は、そうした環境にたくましく適応し、次世代をしっかり残すことに成功したと考えるしかないでしょう。
 その成果が、大粒の穀類であったり、芋であったり、地下の豆であったのです。
 それらが、アンデス及び周辺の原住民の貴重な食糧となっています。
 そして、西欧人の新大陸発見によってトウモロコシ、ジャガイモ、落花生が世界に広まりました。なお、サツマイモはそれよりずっと前に、ポリネシア人の新大陸発見により太平洋やニュージーランドに広まっています。
 これらのアンデス原産の食糧が世界各地の食糧危機を救い、また、人口増加の源になっています。

 さて、現在、日本で注目されているのが、キク科のヤーコン(芋)です。
 たいていの芋類は主成分がでんぷんですが、ヤーコンは形はサツマイモなるも、でんぷんを作りません。でんぷんはブドウ糖がたくさんつながった不溶性のものですが、ヤーコンはブドウ糖が数個から10個程度つながった水溶性のオリゴ糖を作るのです。これは、ヒトの消化液では分解できず、腸内細菌の餌になり、腸内環境を大幅に改善するダイエット食材です。
 これでは腹の足しにはならず、世界に普及することはなかったのですが、今日の飽食時代にあって、慣れない肉食をするようになった日本人にとっては、生活習慣病の救世主の食材として重宝されるようになり、栽培が少しずつ広まっています。大いに食していただきたいものです。
 なお、世界的にはほとんど広まっていませんが、ブラジルでは家畜に食わせ、家畜の腸内環境改善に役立たさせています。
(ヤーコンの詳細については、別立てブログ<ヤーコンおやじのブログ[ヤーコンの特性]>をご覧ください。)

 ところで、この世の中、おかしなことに日本だけが「地球温暖化で大変なことになる」と大騒ぎしていますが、世界では実は「地球寒冷化に備えねば」と考えています。
 日本でも、30数年前には、幾つかの観測データを元に地球寒冷化は近々にやってくると主張されたのですし、今は温暖すぎる状態にありますから、早晩、寒冷化するのは必至となることでしょう。
 そこで、30数年前に、日本でも「地球寒冷化に備えねば」と一部で研究されたのが、アンデス原産 アカザ科(ホウレンソウの仲間)のキヌア(キノア)の栽培試験です。
 以下、西丸震哉著「食生態学入門」(1981年:角川選書)からの引用。

 ここで、アンデスの高山地帯に定住するインディオたちが2000年このかた常食していた主食、キノアについて語らねばならない。
 海抜3500メートル以上の、雨量の少ない荒地を好んで生育するキノアは、…当然のことながら低温、旱魃に非常に強く、今後地球上のかなりの地域が宿命的に受ける方向(地球寒冷化)に適した作物である。
 これを約5年間、日本各地で栽培した結果は次のような成績である。
 …10アール当たり収量は子実500キログラム、ほかに家畜飼料として植物生体1トン半が得られる。…米の収穫が見込めないような寒冷地のほうが適作地であり、半沙漠で高冷地であれば最良の条件となる。
 キノアの最大の特徴の一つは、…米に5割混入しても食味は落ちず、冷えたものでも食べやすい。…白米に大量混入すれば玄米食なみとなる。(引用ここまで)

 地球が寒冷化すれば、北半球の温帯にある穀倉地帯は現在の穀類の生産が大きく落ち込み、代替作物としてキヌア(キノア)の栽培が始ることでしょう。
 冒頭で掲げた「世界の主要食糧の生産量」(穀類)のトップの座に座ることは間違いないと思われます。
 このように、世界の食糧事情は、以前にも増してアンデス原産の作物にお世話にならねばならないことになりそうです。

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食の進化論 雑記編1 日本・中国・韓国の食文化の違い

2020年12月11日 | 食の進化論

食の進化論 雑記編1 日本・中国・韓国の食文化の違い

 日本・中国・韓国の食文化の違いは概ね知っているつもりでしたが、いやいやどうして、案外知らないことが多いのに驚きました。ひょんなことから買った本「日本人は中国人・韓国人と根本的に違う」の中に食事編があります。それを読んで、“へえーそうなの”というものが幾つも出てきたのです。
 その読後感想ということになりますが、それをつづることにしましょう。なお、本書の表紙に「黄文雄(台湾)が呉善花(韓国)、石平(中国)に直撃」とあり、この3名が対談形式で書かれた本です。御3人とも日本に帰化されています。
 中国料理は脂っこくて味が濃い、韓国料理は唐辛子の辛さがきついなどは、誰もが知っていることであり、これらについては触れず、民族文化の特徴的な違いを中心にみてみることにします。
 以下、本書の抜粋をまず紹介します。なお、抜粋文の順序は項目ごとに整理しましたのでだいぶ入れ替えてあります。

石(中国) 世界各地の料理が食べられるというのは、日本文化の一つの特徴でもありますね。しかも現地のものより美味しいと評判のものも少なくない。…諸外国からさまざまな物を導入し、日本風にアレンジするという日本文化の特徴は、料理の面でもよく現れていると思います。
黄(台湾) 日本には音の味覚文化、音を聞きながら味覚を感じるという文化があると思います。川べりでせせらぎの音を聞きながら…という、風流な趣向があります。
石(中国) 日本料理は素材主義でとてもシンプル。その代表的なものが刺身で、これで料理といえるのかというところまでシンプル化されている。
…新鮮さ第一だから旬という考え方がある。自然が豊かだからこそのことですね。
黄(台湾) 2~3世紀頃の…中国の史書「魏志倭人伝」は、そのなかで日本人は長生きだと書いています。今でもそうですが、和食は長寿を保つと一般的に考えられていますね。
呉(韓国) 日本食といえば韓国では高級とまではいかなくても上品な料理となっています。逆にいえば、上品でなければ日本食の価値がない。
黄(台湾) どこの国にもたいてい和食の店がありますが、外国で和食の店をやっているのは、多くの場合日本人ではなくて、韓国人か台湾人なんですよ。…何が違うかというと、味も若干違うんですが、量がまるで違うんです。
石(中国) 日本料理は(外国での)普及の面で、中華料理にどうしても負ける点が一つあるんです。日本料理は素材の新鮮さ、特に海の幸を大事にしますから、この確保と管理、そこで普及には大きな限界を抱えているわけです。…それに比べると、中華料理は…現地でどんなものでも素材にできますし、それを炒めれば中華料理になってしまう。そこが強みです…。

呉(韓国) ラーメンといえば、もともとは中華料理ですが、今やその本場は日本ですよね。しかも、もう中華料理とはまったく別の、日本独自の料理になっているわけです。
石(中国) 日本のラーメン、この味の多様さ深さには本当に感心します。北京なんかどこの店でもラーメンは同じ味ですよ。…日本のラーメンの味は地方ごとに違うし、さらに店ごとに違う。…こんな展開をしている料理って、世界のどこにもないでしょう。…まさに日本文化の手法が息づいています。…ラーメンも確実にラーメン道といえる境地を切り開いていますよ。
呉(韓国) 韓国では、生のラーメンはほとんど広がっていませんが、インスタントラーメンは…爆発的な勢いであっという間に国民食になってしまいました。ですから、韓国人がラーメンといったら、生ラーメンのことではなくインスタントラーメンのことなんです。…韓国人はラーメンなんて貧乏人の食べ物だと思っていますから、韓国人のお客さんに日本自慢のラーメンを食べさせてあげようと、ラーメン屋に連れていって、ものすごく嫌な顔をされたという知り合いのビジネスマンがいます。

黄(台湾) 私はお茶漬けが好きなんですよ。…お茶漬けなんて、…中国人から見れば、まあ食べ物じゃないという印象が強いでしょうね。
呉(韓国) 日本に来てお茶漬けを知ったときにはびっくりしました。韓国人からすれば、あれはお粥でもないし、御飯でもない。…そういう私も、…今日はお茶漬けにしようとやっていますからね。
石(中国) 私も、お茶漬けはかなり好きなんです。

呉(韓国) 日本のお米の品種改良パワーはすごいですね。お米がこんなに美味しいものだなんて、日本に来てはじめて知りました。
石(中国) 留学生時代(90年代)に、日本のお米を10キロ背負って、故郷の四川省に持って帰ったことがあるんです。1キロずつに分けて親戚や友だちに配ったんですが、みんながみんな、なんて美味しいお米なのか、おかずがなくてもいくらでも食べられると、大喜びしていました。四川省は中国では一番の米どころですが、日本のお米みたいに美味しいのはないんですね。
黄(台湾) 台湾のお米もけっこう美味しいんですが、日本のお米はそれよりも格段に美味しいですね。

黄(台湾) 中国には古くから、「民は食を天とする」という思想がありますが、今のような時代を迎えて、中国の食文化はどんなふうに変わっていくんでしょうか。
石(中国) 「民は食を天とする」の裏返しでいえば、昔から大半の庶民は慢性的な食糧不足状態におかれてきたんですね。しばしば飢饉もありましたし。ですから、いいものを食べることが、昔から中国人にとっては無上の幸せの最たるものでした。…街で人と出合ったときの挨拶言葉は、中国ではだいたい「よく食べたか」なんですね。
呉(韓国) 韓国もずっと貧困でしたから、ご飯が食べられるということは、とてもありがたいことでした。街での挨拶も「もうご飯食べたか」なんですね。
石(中国) (中国人は)食べることへ懸命に情熱を注いでいきますから、…盛んに食材が追求されていきました。それで、広州では四つ足のものはテーブル以外なら何でも食べる、といわれるようにもなるんですね。
…日本人は昔から食べることには淡白だったんですね。よく「食事を済ませる」という言い方をするでしょう。…食事を楽しむというのではなくて、どこか面倒くさいようなんですね。「用を済ませる」のと同じで、仕方がないから済ませるみたいな感じです。
黄(台湾) 日本では昔から衣食住というでしょう。でも中国では食衣住なんですね。日本人は今でも食より衣への関心のほうが強いし、中国人は依然として食であって衣は二の次、三の次ですね。

黄(台湾) 何もかも食べ続けてきたのが漢民族ですね。…食糧事情がこの2千年間、ずっと豊かではなかったからですよ。とくに広東のほうでは、犬でも猫でもヘビでも昆虫類でも、食べられるものはすべて食べてきたんです。…その何でもかんでもの代表的な食べ物が雑炊ですよ。あらゆる食べ残りを全部ぶち込んで、それを非常に美味しくして食べるのが中国人です。
呉(韓国) 混ぜる文化…、韓国は中国と同じ系統ですね。
韓国といえば焼肉を連想する人が多いようですが、昔から肉を食べる習慣はほとんどなかったんです。…朝鮮半島では肉は常食になることはなく、ずっと菜食が中心でした。タンパク質はもっぱら大豆から摂っていました。海に囲まれていながらも、魚介類を日常食にすることは一般的にはありませんでした。…済州島では半島と違って魚介類をたくさん食べます。
…半島南西部の全羅道は…庶民の食糧事情は国内でもとくに悪かったんです。それで韓国では全羅道の人間は何でも食べるという言い方をするんです。一般ではほとんど食べないような野草を食べたりするんですが、そういう食材を工夫してとても上手に調理するんですね。これがとても美味しいんです。今でも、全羅道の料理が一番美味しいといわれます。

呉(韓国) 日本の料理は、お皿にちょこっと盛った…ものを、少しずつ味わうという感じですが、韓国はドッと山盛り一杯に盛るんです。「食卓の足が折れるほど」といういい方があるんですが、…これで自分がいかに豊かなのかを表現しようとするんですね。それで、客が食べきれずに残してしまう。これでいいもてなしをしたと、主人のほうは満足するわけです。
石(中国) 量で勝負というのは中国も一緒です。日本人なら、見ただけでお腹がいっぱいになってしまうかもしれません。ですから中国でも、食べ残してくれたほうが、料理を出した者としては満足できるんです。
黄(台湾) 食べる量でいうと、日本人は世界でも一番量の少ない民族じゃないかな。…中国人もたくさん食べる。台湾に中国の観光客が来ると、台湾人の2、3倍は食べるんです。
呉(韓国) 腹八分がいいというのは、日本人だけのことでしょうね。韓国ではとにかく腹いっぱい食べるのが幸せなんです。日本人には腹八分が一番気持ちいい状態なんでしょう。腹八分の状態だと…和歌を詠んだり抽象的な思考に頭を働かすこともできる。そういう余裕、これは文化ですね。これ以上はもう入らないといった腹いっぱいの状態では、もう何もしたくなくなりますから、文化なんて生まれませんね。中国でも腹いっぱいでしょう?
石(中国) もちろんそうです。中国5千年の理想は腹いっぱい食うことでしたから。戦後の日本は飽食の時代になってしまった、これはよくないという考え方は、まったく日本的な考え方ですよ。中国人は飽食の時代を何千年も待ち望んできて、今やっと飽食の時代を迎えて幸せをかみしめているんです。
(抜粋ここまで)

 ということでしたが、これより小生の感想を若干述べることにします。
 外国での日本食の味はいかに、これについては抜粋しませんでしたが、御3人とも決して美味しいものではなく、量が多いとおっしゃっておられ、小生の3か所(各1食)という数少ない海外経験でも同じでした。あれが日本食とされるなんて、大いなる誤解であり、困ったものです。
 修業を積んだ日本人の板前さんによる本物の日本食を外国で作ってほしいと願うも、抜粋文にあったように食材調達が困難ですから、日本から空輸でもするしかなく、本格的な日本料理は非常に高価なものになってしまうでしょうね。そうした店も世界あちこちにあるようですが、それは上流階級しか手が届かない。これでは庶民には高嶺の花。本物の日本食が海外で広まるのは残念ながらやはり無理なようですね。

 ラーメンに関しては、確かに「ラーメン道」の境地まで行っている感はしますが、昨今、小生の好みに合わないラーメンが多くなりました。
 高齢者になったから脂っこいものを敬遠するようになったこともありましょうが、一度食べたある店は脂っこし塩っ辛い、でも味はいい感じがしましたので、次回は脂少なめ、味薄めで注文したところ、これじゃあ不味くって食べられない、となってしまいました。
 小生も女房もラーメンは好物ですから、ときどき近隣を食べ歩くのですが、はまるような美味しいラーメンには近年出会っていません。どこもかも、脂を多くしてマイルドさを出し、塩気を多くして素材の悪さを隠す、といった感がします。
 これなら合格という店は他店より若干値が高く、客が疎らで廃業してしまう、これの繰り返し、といった感がします。もう20年以上前になりますが、近所にそうした職人肌の店主がおられたものの、経営難で廃業され、他のラーメン店の店長になられたのですが、悪い素材しか仕入れさせてもらえず、これじゃうまいラーメンは作れないと早々に辞められました。
 味付けは、小生も女房も昔からの鶏がらスープを好むのですが、近年は豚骨であったり海産物中心であったり、それを混ぜたものが主流となっている感がし、それらは口に合いません。鶏がらを好むのは少数派なんでしょうかね。

 御3人ともお茶漬けにはまっておられるようですが、これは、きっと日本のお米が美味しいことも原因していましょう。
 ところで、大半のお米は農協ルートを通じて米屋さんに渡り、そこで精米されて消費者の口に入るのですが、実はこのお米は不味いんです。
 原因は、農家が脱穀して持ち込んだ玄米を農協の超大型乾燥機で短時間に乾燥してしまうからでして、これがために不味くなるんです。農家が自分で乾燥機を持ち、ある程度時間を掛けて乾燥させたお米は美味しいんですし、さらにハサ掛けして自然乾燥させたものはより美味しいんです。
 また、栽培時の施肥量や水管理も味に関係するようですし、土壌そのものにも関係するようです。うちでは昨年から近所の篤農家から玄米をわけてもらっているのですが、同じブランド米でもスーパーで買ったり近所の農家からいただいたものとは断然味が違います。この篤農家は有機肥料は使ってみえないのですが、有機肥料を上手に使うともっと美味しくなるのは確かなようです。こうなると、日本人でももうおかずなしで何杯でも御飯が食べられます。
 御3人とも多分スーパーで売られている白米について語っておられるでしょうから、韓国や中国のお米はいかに不味いか、ということになりましょうね。各国政府が美味しいお米の品種改良に取り組んでいない、取り組んだとしても多収量品種の開発のみ、ということでしょうか。

 食べる量ということでは、中国・韓国が台湾を上回り、日本はうんと少ない、ということになるようですね。でも、これは非日常の食事について語られているようでもあり、毎日の食事となると、そこまでの差はないのではないでしょうか。
 また、日本でも、その昔はお祭で来客があったりすれば食べきれないほどの量を準備したものです。宴会の終わりがけに空の鉢ばかり並んでいてはみっともない、という感覚を皆が持っていたからです。普段質素な食事しかしていなかったからそうなりますし、来客も滅多に食べられないご馳走だから遠慮せず腹いっぱい食べたものです。
 しかし、その程度に大きな差がありそうです。台湾や日本は、大陸(中国・韓国)よりずっと自然に恵まれ食料資源が豊かな島国ですから、食うことに必死になる生活を強いられることはなく、特に日本列島は世界で一番恵まれていますから、食に関して貪欲になることはなかったことでしょう。
 もっとも、日本列島にも飢饉が訪れたことはありますが、これは非常に稀なことであって、通常は豊かな実りに支えられ、飢餓感を持つことはなかったようです。加えて平和が長く続いた江戸時代には、ごく一部の地域を除いて「間引き」が粛々と行われて人口調整ができていましたから、庶民の食も豊かであったことは確かなことです。
 こうしたなかから、江戸時代に腹八分とか腹七分という食養生が出てきたのですし、開国後の「早々に西欧に追いつかねば」という気の焦りから猛烈に働くようになり、食うには困っていないから「食事を済ませる」という感覚が生まれたのではないかと小生には思えます。
 「衣食住」か「食衣住」か、という言葉からしても、食べることを絶えず心配していなければならない大陸と、食べることには心配しなくてもいい島国という立地(豊かな自然そして異民族と無衝突)の差が顕著に出ているなあと感じた次第です。

 ついでながら、本書の食事編のなかに、米食と侵略に関して興味ある記述がありましたので、最後にそれを紹介しておきましょう。
黄(台湾) 中国歴代王朝の皇帝のなかで米を主食とした者は一人もいなかったらしいんですね。…それで、お米を食べる民族は皇帝になれないという通説があるんです。…アジア大陸のたいていの北方民族は、1回は中華世界の皇帝になったり、あるいは支配したりしたことがあるんですが、朝鮮民族は1回もないんですね。…なぜ…かというと、どうも朝鮮民族が米食だったことと関係あるんじゃないか…。
石(中国) 仮説としては、米を食べる民族はあまり侵略はしないということになるんでしょうか。…稲作というのは土地に居着いて…動けませんよね。…自分たちの土地を守る文化ですね。…そういう文化ですから、だいたい米を食べる民族は温厚ですね。日本人もそうだし、東南アジアの人たちにしてもそうです。ただ、中国の…近代以降は逆に米を食べるやつが天下を取るんですよ。孫文も蒋介石も毛沢東も鄧小平も、みんな南の出身で米を食べる人たちです。…近代以降を別にすれば、侵略性のある民族は、だいたいは遊牧民族か麦を食べる民族だというのは、どうも確実なようですね。
呉(韓国) 朝鮮半島でも…長い間北部では稲作をやってきませんでしたが、なぜ日本人はあんなに北のほう(縄文時代末期には青森県)まで稲作を広げていったんでしょうか。柳田國男さんは、それはお米を作ることそのものを信仰としていたからだとしか考えられないといっていますね。
石(中国) 畑作にはそれほど難しい耕作条件も高度な技術もいりませんが、水田稲作には…灌漑設備も作らなくてはなりませんし、育てるにもいろいろと手間がかかります。…とにかく土地に居着いて、しっかりした共同体を形成し、一つの土地で工夫しながら収穫量を増やしていくことになります。この土地から一歩も動かないということ、それこそが稲作民が生きていく最大の条件なわけです。ですから、稲作文化の地域には職人気質の人が多いですよ。日本人もそうだし、中国でも昔から素晴らしい陶磁器を作るのは稲作地域が多いですね。米を食べるということよりも、米を作るために形づくられてきた生活様式が、そうした稲作民の文化的な性格を形成してきたんですね。
(抜粋ここまで)

 いかがでしたでしょうか。本書には食事編の他に、教育、道徳、夢、マスコミの各編(正しくは章)があります。いつになるか分かりませんが、気が向いたときにでも紹介することにしましょうか。 
(追記 これについては別立てブログで紹介しました。→ 教育:日韓中台の違い道徳教育:日韓中台の違い

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食の進化論 あとがき

2020年11月30日 | 食の進化論

食の進化論 あとがき

 別立てブログ「薬屋のおやじの“一日一楽”&“2日前”の日記」で「人類の未来はどうなるか」をテーマにして、思いつくままに書き綴っていたところ、2020年8月29日に、今、書きつつある項目は、小生の処女論文「食の進化論」と関係するものとなった。そこで、その論文は13年前に書き上げたものだが、今回、それをざっと眺めたところ、今に通用する内容に思われ、それじゃあブログアップしようか、という気分になった。その書はワープロ打ちのコピー製本した手作り本であって、それを見ながらコツコツと一字一句パソコンに打ち直す作業を、暇をみては毎日のように続けた。そして、3か月して全部を打ち上げた。やれやれ、ほっと一息。
 当初のものは、勉強不足で通り一遍の中身のない事項が所々にあり、その後、少しは学び得たものが有りはしないかと思うも、13年経っても小生の脳みそは全然進化しておらず、その部分の内容を深めることはできなかった。お恥ずかしいかぎりだ。もっとも、他の部分については、その後の知見をもとに追記できた箇所がどれだけかはあり、その部分はけっこう内容が充実したようで、自己満足している。
 随分と大部な論文であることを改めて感じたが、気になったのは「食」に無関係な記述があまりにも多すぎることであった。随分とカットしたが、「食」を語るうえで、古代においては人類進化の道筋が深く関わるから、そうそうカットできず、一面、人類進化史の様相を示した論文となってしまい、その点お許し願いたい。
 残念だったのは、当初掲載を見送った「人と動物の味覚感覚の違い」に関しては、その後もネットに上った論文などを注視していたのだが、今日に至ってもどれだけも新たな知見が得られず、今回のブログ版にも載せられなかった。こうなると、これについては、もうお蔵入りだ。
 ブログアップにあたっては、パソコンのキーボードをこつこつ叩いていったのだが、初版本になんと誤字脱字の多かったこと。毎日毎日幾つも見つかる。いやーあ恥ずかしい。ブログ版にも、まだまだ、そして新たに、誤字脱字がたくさんあって読みにくかろうが、これもお許し願いたい。
 全部打ち終えた後、もう1冊残してあった初版本を何気なく手にしたら、そこには誤字脱字を朱書き訂正し、言い回しの悪い所を書き改めていたりしてあった。あれあれ、こちらを見ながらキーボードを叩かなきゃいかんかったわい。さあ、どうしたものか。ブログアップ版をもう一度一からチェックせねばいかんだろうが、いかんせんボリュームが有り過ぎる。直ちには取り掛かれそうにない。弱った。
 ところで、この朱書きは、いつ、どうやって行ったのだろうか。…。そうだ、思い出した。県庁勤務時代に同期であったN君に初版本を送ったところ、彼が校正してくれたのだ。そこで、その後の論文については、N君に甘えさせてもらい、彼に事前に見てもらって校正してもらったし、また、彼のアドバイスを元に論文の組み立てを大幅に変えたりもした。小生の良きアドバイザー、出版編集者として、彼なくしてその後の論文は完成させられなかった。懐かしく思い出す。そして、N君、改めて有り難う。

 最後の最後になってしまいましたが、この大部な拙論を最後まで辛抱強くお読みいただいた諸氏に厚くお礼申しあげます。間違った捉え方をしている個所、意味不明な個所をご指摘いただきたいですし、もっと参考にした方がいい論文のご紹介など、ご意見を頂戴できると幸いです。よろしくご協力のほどお願い申し上げます。

   2020年11月30日
                                 永築當果 こと 三宅和豊

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(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき
雑記編1日本・中国・韓国の食文化の違い
雑記編2世界の食糧難を救った作物はなぜかアンデス生まれ、そしてこれからも
雑記編3「大陸=力と闘争の文明」VS「モンスーンアジア=美と慈悲の文明」の本質的な違いは食にあり
雑記編4 肉は薬であり、麻薬なのです。ヒト本来の食性から大きくかけ離れたもので、これを承知の上で食べましょう。
雑記編5 人はどれだけ食べれば生きていけるのか?毎日生野菜150g(60kcal)で十分!!

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食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

2020年11月29日 | 食の進化論

食の進化論 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

第1節 人間は高度科学技術文明の家畜になった
 「日本人1億2千万人、皆、何十人もの下僕を従えた王様である」
 これは、食生態学者、西丸震哉氏が昭和56年におっしゃった言葉である。西丸氏のお話はちょっと古いから今風に(といっても10年前の時点ではあるが)脚色し、小生の考えを多少織り交ぜて語ろう。

 日本の王様の家には、ワンタッチ電動の洗濯下女、チーンと鳴る調理下女、スイッチを押すだけの灯明番や暖炉番下男がいるし、チューナーを回せば楽団員が演奏を始め、チャンネルボタンで劇団員が演劇を披露する。出かけるには液体飼料を1回与えるだけで数百キロも走ってくれる金属馬がいるし、伝言の使いにやらせる飛脚は光の速さで双方向に瞬時にやってくる等々、毎日、毎時間、高度科学技術文明の生み出した産物の恩恵を満喫している。近い将来、さらに科学技術が進んで、マイコンが組み込まれた機器ばかりとなり、いちいち細かな指図をしなくても下僕が勝手に働いてくれたり、口頭でちょっと指示するだけで機器が思い通りに動いてくれたりする時代が到来する。
 昔の王様、いや、それ以上の身分の生活を堪能できることになるのである。でも、王様ばかりの世界になっても決して満足できない。うちに比べて右隣の家の芝生は広いし、左隣の家の金属馬は高馬力である。どうしても隣近所の王様以上になりたい。それに追いつくために身を削ってでもしゃにむに働く。そして、万一追い越しでもすれば、多少健康を害してしまっていても、鼻高々で有頂天になり、大満足する。“どうだ、見ろ、俺のほうがもっともっと偉い王様だぞ。”と。

 これが、西丸氏の「日本人、皆、王様」というお話である。
 日本の王様の大半がそういう行動を取るから、資本主義経済という魔物の思う壺となり、経済はさらに膨張し、そして科学技術の飛躍的な発展をもたらすのである。この先、どうなるかを少々考察してみよう。
 あまりにも高度に発達した科学技術によって製作される機器は、どれもこれも、もはや一般人の頭脳ではとうてい理解不能な高度なものばかりとなってしまう。したがって、その恩恵を十分に受けるためには、人間の頭脳よりも優秀な人工頭脳を持つ様々な機器がうまく働いてくれるように、人間の生活をそれらの機器に合わせなければならなくなる。最先端の機器にしっかり歩み寄ることによって、人間は安泰な日常生活を送ることができるようになるのである。
 この事態は、動物が安泰な生活を送りたいがために人間に歩み寄り、人間の都合に全て合わせることによって野生の生き方を忘れ去り、いつしか家畜化してしまったのと同じである。つまり、人間も同様にして、資本主義経済が生み出す高度科学技術文明の産物の家畜になってしまうのである。安泰な生活を手に入れ、安楽を決め込もうと。

第2節 寒冷化の訪れと食糧危機
 資本主義経済という魔物がいつまでも元気であってくれれば、人間は高度科学技術文明の産物の家畜として安泰でおられるのだが、その魔物がいつ病気しないともかぎらない。飼い主が病気したら、その家畜は面倒をみてもらえず、路頭に迷うしかなくなる。空恐ろしいことになる。資本主義経済という魔物は、経済が膨張しているかぎり元気であるが、萎縮するととたんに病弱となり、それが長期化すると大病を患う。最近では、病弱はバブル崩壊で経験しており、大病は1930年代の大恐慌で経験した。
 将来を展望したとき、魔物にとって幾つかの病原菌の発生が考えられるが、それらを検証してみよう。
 第一に、石油資源や木材資源の枯渇が危惧されているが、これらは科学技術の力によって代替できるものが必ず発明発見されるであろうから、全く心配はいらない。
 第二に、地球温暖化が危惧されているが、寒いより暖かいほうがいいに決まっている。これについては、今までに述べたとおりであり、何ら問題にすることはない。
 第三に、世界的に騒がれている今日の食糧危機であるが、これは弱小国が苦労しているだけであり、先進国は当分の間、何ら心配することはない。
 第四の危機は、これが恐ろしいことになるのだが、地球の寒冷化による食糧の大幅な減収である。資本主義経済という魔物が最も恐れる病原菌であり、これが魔物の最大の弱点である。
 人類の歴史の変革点には、いつも地球の寒冷化があった。そのときに食糧の絶対的な供給不足をきたし、その度に科学技術が目覚ましく発展し、文化・文明、経済システムが大きく変貌していった。大規模に寒冷化する氷期の到来は、まだ当分先のこととしても、数十年から2百年程度で繰り返される、平均気温が数℃下がる寒冷化は、直ぐにもやってくる恐れが多分にある。歴史時代において、こうした寒冷化のときには、食糧を求めての世界的な民族大移動がたびたび繰り返された。民族大移動とは聞こえがいいが、それは、侵略であり、略奪であり、大量殺戮であり、つまり住民全部を引き連れ、巻き込む侵略戦争である。
 過去の寒冷化において、中緯度地帯では低温に加えて一般的に降雨量
が減って栽培植物は減収となり、所によっては旱魃となって無収穫となる。緯度が高い地帯は牧草が不作となる上に、春と秋に雨が降るところが雪となり、家畜は草が食べられず、多くが死んでいく。こうして食糧が大幅に不足しだし、それが数年も続けば民族大移動を開始するしかなかったのである。
 歴史上、最後の大移動は、17~18世紀にかけてヨーロッパで発生したが、ヨーロッパ各国であぶれた者たちがアメリカ大陸への五月雨的な侵略を引き起こし、ヨーロッパ各国による大陸資源の争奪そして原住民の大量殺戮があった。これは、新大陸への移民というきれいな言葉で表現されるが、とんでもない侵略である。
 これ以降、地球は温暖期にあるのだから、必ずや近い将来訪れるであろう寒冷化は、先進国の食糧需要を賄う分の食糧生産をも不可能とし、ここに真の食糧危機が訪れるのである。先進国で農産物を大量に輸出しているオーストラリアやアルゼンチンとて国内需要が満たされる保証はない。現在、食糧輸出国であるアメリカやフランスは当然にして国内需要が供給を上回り、輸出は不可能となる。
 先進国における食糧の需給バランスは決して整わなくなる。貨幣経済の下において需給バランスが整わないということは市場原理が機能しなくなるということであり、それは資本主義経済が麻痺したことになり、魔物が病床に伏したことになる。こうした真の食糧危機が永続することによって、魔物が死に至るかどうかであるが、皆目見当が付かない。でも、人類は、そのとき死に行く魔物にカンフル注射を打ち続け、つまり科学技術を総動員して食糧の大増産を模索し、ひたすら魔物を延命させようとする可能性が高い。
 肉食比率を落としたくないという欲求に対する代替食糧の候補としては、第一に石油蛋白がある。技術開発は概ねなされており、肉の代替供給という観点から、真っ先に実用化が進むであろう。近年は細胞培養という技術も開発途上にある。それらに先立つ緊急措置として、海洋に住む鯨や魚類などの大漁捕獲である。あっという間に海洋資源は枯れ尽くし、絶滅種が数多く出ることであろう。
 最大の問題は、人類の食糧として最大のウエイトを占める穀類であるが、今までどおりには作物が育たない地域が大半となる。よって、新たに寒冷気候に適合する穀類を捜し出さねばならないのだが、西丸氏は、その第一候補としてアンデス原産のキノア(キヌア)を推奨しておられる。キノアはホウレンソウの仲間であり、1年草である。米が作れなくなるような寒冷地で、かつ、雨量が少なくなった所にも良く育つというから、米の代替作物になり得る。米とキノア半分ずつの雑穀米にしてもおいしく食べられるというから、東北・北海道では作付けが進むであろう。こうした研究は1970年代に、当時、地球寒冷化の危機が迫っているとの予想から、一部の研究者によって真剣に調査研究と栽培実験がなされている。
 キノア栽培をフルに行ったとしても、穀類は不足するであろうから、次に芋類の出番となる。澱粉質を含まずオリゴ糖をかなりの量含有するヤーコン芋の出番だ。これは1990年代から日本で研究が始まった。アンデス原産のヤーコン芋は、低カロリーのダイエット食として近年有名になったが、寒冷地での栽培に適している。食糧難でカロリー不足の上に、こんなものを食べたら栄養失調で死んでしまうと危惧されるであろうが、そうはならない。カロリー計算でカウントされるのはオリゴ糖であり、これはヒトの消化酵素ではブドウ糖単体への分解はできないが、腸内細菌の格好の餌となり、各種有機酸を作り出してくれるから、これがヒトのエネルギー源になる。加えて、整腸効果が抜群であり、腸内環境を大改善してくれて腸内発酵が大きく進み、三大栄養素(炭水化物、脂肪、蛋白質)を全く取らなくても、野菜を泥状に磨り潰したものをヤーコン芋と一緒に取れば生きていけるのであり、いや、これによって現在の飽食時代よりもずっと健康になれるし、元気も出ようというものである。ただし、三大栄養素を一切絶たねばならないが。つまり、穀類と肉(魚を含む)は口にせず、調理に油を使ってはならないのであり、口の卑しさと対決して、それに勝たねばならないから、至難の技とはなるが。
 こうしたアンデス原産の代替作物が複数登場し、食糧危機の助っ人になる可能性があるも、それでも、これでもって先進各国の食糧難が解消できるかは危ういところである。

 人間が異常発生する以前の、生態系の一員として人間が自然環境とともにあった時点では、寒冷化で少雨になっても、順次違った動植物が繁栄してきて、新たな食糧が入手できるようになるのだが、人間が異常発生してからは事情が異なる。温帯において地形が平坦であったところには森林が生茂っていたのであるが、人間の異常発生に伴い、今日に至っては森林は破壊し尽くされて栽培植物に取って代わっている。つまり、栽培植物の異常発生である。栽培植物は、多くのところが水源から用水路を引いての灌漑農業となっている今日、寒冷で少雨になると灌漑用水が欠乏し、農作地帯が不毛の大地、つまり砂漠化する危険が大きい。ここに、森林破壊のツケが顕在化するのであり、歴史上、最後の寒冷化である17~18世紀の比ではない。
 温帯において雨量が多すぎて排水がメインとなる農業は、モンスーン地帯にある日本と中国の華南にしかずぎず、この地帯以外は絶えず旱魃の危機を抱えているのであって、少雨ほど恐ろしいものはないのである。
 こうしてみると、先進各国が食糧危機を乗り越えるには、土と雨に頼る農耕方式から、工場内食糧生産が食糧供給の主流にならないことには解決しないのであり、先進各国はこれに突き進む可能性が高い。
 その点、日本列島は非常に恵まれている。地球が寒冷化の嵐に襲われても、周囲に海という巨大な湯たんぽがあり、気温の低下は大陸
に比べてうんと少なくてすむ。日本人が日本列島を捨ててボートピープルになり、民族移動することはない。ただし、中国大陸から押し寄せる可能性は大である。元寇の再来であり、今度ばかりは神風は吹かないであろうし、吹いても全く防御にならない。なお、元寇は13世紀後半の温暖化してからの出来事ではあるが、西暦1200年前後に数十年間にわたって地球は寒冷化し、そのときにチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国が南下政策を取り、ユーラシア大陸を席巻したのである。その余波として、食糧資源が豊かな日本列島も支配下に置こうとの魂胆から元寇があったと考えられる。
 その後、2度の数十年にわたる寒冷化を世界は経験した後、最後の寒冷化が先に述べたヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略であるが、その当時、日本は江戸時代前半のことであった。その寒冷化もどれだけか脈打ち、寛永、延宝、元禄、享保の各飢饉を引き起こした。
 江戸時代後半は温暖化していったが、天明、天保の2度の飢饉が起きた。ともに7、8年も続いたが、天明はアイスランドのキラ火山の大噴火の影響であり、天保は南米の火山の大噴火の影響のようであるが、世界の幾つかの火山噴火の複合との説もある。この2つの飢饉は、寒冷化ではなくて異常気象による低温化であるが、今、このような大噴火が起きれば、先進各国で食糧パニックが起きるのは必至である。
 寒冷化にしろ火山噴火による異常気象にしろ、年間平均気温は日本でも数℃下がる。小生が住んでいる岐阜は4℃下がれば秋田並みとなり、7℃も下がれば札幌並みとなる。そうした事態になると、日本中の休耕田を全部作付けしても、北の方では米は無収穫になりそうだから、米だけを捉えても、その需要を賄えるかどうか怪しい。なお、農水省では、その昔開発された、寒さに滅法強かったり、温暖地で大量に稲穂を付ける米の品種の種籾がサンプルとして永久保存されているが、その量は極小であり、大量作付けが可能となるには数年はかかろうし、それらはまずい米だから、手に入っても我慢して食わねばならない。
 今までと同じ作物の作付けをするとなると、日本でも極端な食糧危機となるが、まずい米で我慢し、先に述べたような代替食糧の栽培や石油蛋白などの生産によって、食糧危機は乗り越えることができるのではなかろうか。ただし、畜産は大幅な縮小を余儀なくされる。特に、人間の食糧と大きくバッティングする飼料をふんだんに与えねばならない豚は、たいてい食べられなくなる。

第3節 食物禁忌の歴史
 イスラム教の経典コーランでは、豚を食べることを禁止している。豚は排泄物にまみれた汚い動物であり、それを食べると人間の心までが汚れてしまうからダメだというのであるが、これは、その戒律を守らせるための方便であって、理由は別のところにある。
 マーヴィン・ハリスによると、紀元前のエジプトの多神教においても、古代エジプト文明の中期以降、豚は悪の神セトと同一視され始め、豚を食べることは忌み嫌われた。その理由として考えられるのは、豚の飼育には大量の水と穀類が必要であり、砂漠に住む民にとって、どちらも人間が生きていくのに非常に貴重なものであるから、豚を養殖して食べることは贅沢極まりないことになるからである。治世者にとって、民の食糧確保が最重要課題であるから、エジプトではこうして豚を食物禁忌とせざるを得なかったのである。
 なお、ユダヤ教においても、旧約聖書のレビ記で、食べてはいけない動物を数多く列記しており、正統ユダヤ教徒はこれを守っており、食べていい動物は家畜以外には鱗のある魚ぐらいなものである。ただし、家畜であっても豚はレビ記の記述により、もちろんダメである。
 マーヴィン・ハリスによると、レビ記の食物禁忌も、豚はエジプトと同じ理由によるほか、他の動物については捕りすぎて希少となった種は、それを食べることによって得られるエネルギー量よりも、捕獲するのに必要とするエネルギー量のほうが大きく、無駄にエネルギーを浪費するな、という観点から禁忌にしていると言う。レビ記の完成の頃には、パレスチナ辺りでは、野生動物を捕り尽くしてしまっていたのが実情のようだ。
 新約聖書には宗教上の食物禁忌はないようだが、キリスト教の経典は旧約聖書と新約聖書の2つであり、キリスト教徒は本来は動物食をかなり制限されるものであって、経典全体から厳格に解釈すると、ベジタリアンにならざるを得ないと考え、そうしている宗派もある。
 なお、キリスト教自然保護団体が、日本の捕鯨に対して、あれほどまでに強硬に反対するのは、鱗のない魚である鯨を食べることはレビ記に反する許されざる行為であるとの思いが根っこにあると考えられる。その昔、キリスト教徒が捕鯨をしまくり、鯨を片っ端から殺していったが、灯明用の脂を取るだけで鯨肉を食べるわけではなかったから、いくら鯨を殺しても聖書に反していなかった、という理屈を持っており、我々日本人にはとうてい理解できない宗教解釈である。
 先進各国で深刻な食糧危機を迎えると、宗教上の食物禁忌が強く叫ばれるようになるだろう。日本の捕鯨が真っ先にやり玉に上げられるであろうが、しかし肉が絶対的に不足するから戦後復興期の学校給食のように鯨を食べるしかなく、日本は捕鯨を強化し、鯨を捕り尽くすだろう。鯨をほとんど捕り尽くし、労多くして益なしの状態になってときに捕鯨は止む。そのように思われる。鯨の多くの種はそのとき滅亡することになる。
 家畜では、豚が世界的に禁忌となり、鶏も餌が人の食糧とバッティングするから大幅に縮小する。牛は本来の餌は人の食糧とバッティングしないが、日本では配合飼料を食べさせているケースが多く、牧草地帯も人用の代替植物の作付けが進むから、牛肉もほとんど食べられなくなる。
 なお、ジビエ(野生の鳥獣の肉)も貴重な食糧資源となり、熊、猪、鹿は絶滅するであろうし、渡り鳥も一網打尽にされ、野鳥は霞網で狩られ、多くが姿を消す。猿の肉も名称を偽って食肉にされよう。
 そうなる前に、宗教が力を付けて仏教の精神により、あらゆる動物(魚は除かれるであろうが)の殺生が法律によって禁止されるかもしれない。危機に瀕すれば宗教が国を動かすであろうから。
 こうして、日本人の食生活は、良くて江戸時代と同等以下となる。初期は毎日魚が食べられるが、これもどんどん先細りしていき、雑穀米と野菜や芋の煮物そして味噌汁の一汁一菜となろうが、野菜も低温気象で不作傾向にあって、どれだけ人の口に入るか保証の限りでない。

第4節 大人の自己保全志向
 人は保守的である。大人になったらそうなる。それは動物だからである。成長段階にある子どもには好奇心があり、学習意欲の塊のような時期が続くが、大人になってしまうと、それが順次弱まり、次第に自己保全にしがみつくようになり、変革を嫌うようになる。
 これに対する異論もあろう。人は年寄りになっても、学習意欲の塊のような輩もいる。小生もその末席を汚している。そこには、2つの原動力が働いている。
 1つは、類人猿や鯨類など頭脳が発達した動物の大人にみられる遊びである。これらの動物は、大人になってもよく遊ぶ。人の大人もよく遊び、なかには大人になっても好奇心が旺盛で、学習意欲が衰えないどころか、より高まる遊び人もいる。小生も今現在(これは13年前のことで、2020年時点では随分と衰えた)は、そのなかの1人のつもりでいる。
 遊びが労働に結び付くことがあり、日本に生まれた匠の技に、この傾向が強い気がする。匠は、遊びと労働を区別する言葉を持たないアポリジニのこころと同じなのではなかろうか。日本の匠たちのこころには金銭欲を超えた何かがきっと存在するはずであり、だから世界一の素晴らしい技が発揮できると考えたい。
 もう1つは、名声を得たいという欲望からである。偉い学者や偉大な発明家になりたいという煩悩のなせる業である。文明が生み出した私有財産というものが限りない欲望をかき立て、権威者として君臨しようとしたり、また、特許を取って一財産築こうとする行動に走らせたりするのである。
 ただし、好奇心旺盛な、こうした行動を取る者は一部の者であって、大人になると、通常はそれに憧れたり、夢を抱くことはあるものの、あきらめのほうが強く、あったとしても興味本位な野次馬根性や単なる出世欲でしかなく、安泰な生活を送ることができるように保身する方向に舵を取る。
 そうなると、今までに学んだもののなかで、これは正しいと教えられたことに対しては、あえて疑問を挟もうなどとは思わなくなってしまう。なぜならば、何らかの疑問をまじめに取り上げた結果として、正しいと教えられていたことが実は間違っており、これを否定せねばならなくなったときには、自己の日常生活の変革を求められることになるからである。そうなると、今までに築き上げてきた地位が揺らぎ、かつ、人間関係に軋轢を生ずることにもなる。自分だけが大勢と異なった行動を取るとなれば、当然にして多くの人との衝突は避けられないのである。また、家族間でも摩擦を生じ、孤立無援となる。加えて、あれは間違っていて、こっちが正しいのだと、いつまでも我を張っていると、変人奇人扱いされ、そして軽蔑されもする。(ブログ版追記 ましてや最近は、ますます空気を読まなければならない社会になってきて、その道に少しでも外れると激しくバッシングされるようにもなってきた。)
 己が道を歩むことは、かくも大変なことであり、若気の至りでそうした経験を積むなかで、大勢に従ったほうが安泰であることを覚えてしまい、大人はいつしか変革を嫌うようになる。
 こうしたことから、例えば「朝食を抜く」ことについては、どう考えたって人の健康にとって最も重要な正しいことなのではあるが、大人は自己保全の本能的働きによって、「朝食は取らねばならない」と教えられてきたことに対して、一片たりとも疑問を挟むことを拒否してしまうようになる。
 もっとも、食欲が全くないのにかかわらず、体にいいからと義務的に朝食を取っている人で何らかの健康障害を持っている場合には、朝食を抜くことの正しさを様々な角度から納得し得る説明を受けると、恐る恐る実行しようという人がどれだけかは出てくる。
 勇気をもってこれを実行し、それによって体調が良好になったと実感した人のなかには、朝食抜きを習慣化する人がでてくるが、これは少数派であり、大多数はこれを貫徹できず、自己保全のために朝食を抜くことを避け、少食とはなるものの、家族や仲間とのお付き合いとして朝食を復活させてしまう。
 朝食抜きを貫徹する少数派は、病気治療という考え方が勝って、こうした行動を続けられるのであろうし、挫折した人であっても少食にしただけでもどれだけかの効果があるから、これはこれでよい。 
 いかんともしがたいのは、客観的に見て不健康な状態にありながら、自分では健康であると思い込んでいる人に、朝食抜きを勧めた場合である。直ちに拒否反応が生ずる。自己保全に加えて、食欲煩悩によって生み出される食い意地との二重の反応により、これに関しては一切の思考がカットされ、脳の思考回路が断線する。つまり、聞く耳持たんという状態になる。
 これは、宗教に特有の反応であり、朝食を取ることが宗教などとは全く無縁なものであるはずではあるが、残念ながら日本人はわずか百年余の間に完全に洗脳され、「朝食信仰」なるものに支配されてしまっているのである。当店発行の毎月の新聞で6か月にわたり、朝食を抜くことの正しさを解説したところでの、お客様の反応がそのようであった。当初は、これを1年間続けようと考えていたが、せっかく築き上げてきた当店の信用というものが、これにより失墜しそうな気配が感じられ、やむなくシリーズ半ばで中止せざるを得なかった。
 いったん信じた宗教から抜け出すのは容易ではない。オーム真理教に入信した若者を家族が取り戻すのが容易ではなかった事実からも明らかなことである。日本人に朝食を抜くことを習慣化させることは、平和で豊かな時代が続くかぎり、全く不可能なことであることを、小生は身を持って実感した次第である。

第5節 飢えを救う宗教
 こうした日本人の安泰な食生活は、残念ながらそう長くは続かない。理由は今までに何度も述べた。深刻な食糧危機が訪れ、先進各国ともにこれが全く保証されなくなる時代がいつか必ずやってくる。
 食糧自給率がたったの30%にまで落ちた日本である。休耕田に全部作付けし、飼料用作物を食用に転換すれば何とかなるという安易な考え方もあるが、それは甘い見通しであると言わざるを得ない。激しい寒冷化ともなれば大凶作となり、目論んだ収穫量に遠く及ばなくなることは必至である。
 北朝鮮の国民
がどれだけの食糧を口にしているか定かでないが、それと大差ない状況、いや、それ以下となろう。飢えに苦しむ彼らは安泰な食生活を求めて脱北しようとするが、地球に恒常的な寒冷化が襲ったとき、先進各国の国民は、脱出できる先がもう世界のどこにもないのであるから、あきらめるしかない。
 あきらめろと言われても、あきらめきれないのが食欲煩悩であり、飽食に慣れ親しみ、美食文化にどっぷり漬かり、食い意地の張った日本人であるがゆえに、自らの力で飢えの苦しみに打ち勝つことはとうてい不可能となる。日本以外の先進各国ともなると、肉食傾向が強いから、より凄惨な姿をさらすことになる。
 飢えの苦しみから精神的に開放してくれるのは宗教しかない。紀元前に仏教などが生まれた社会背景と様相は類似したものとなろう。あのときも、地球の寒冷化で凶作が延々と続いた。
 自分は無神論者であると思っている日本人であっても、朝食信仰を含めて何らかの信仰を持っており、少なくとも呪術(=神頼み)に縛られているであろう日本人であるからして、新たな宗教を受け入れる余地はたぶんにある。食糧の絶対的不足が何年も続き、かつ、先の展望が見えない状況ともなれば、自己の生存の危機を乗り越えるには、宗教にすがるしか選択肢はなくなる。
 先行して少食健康科学なるものが脚光を浴びるようになり、現存する宗教はそれを取り込み、教義の拡大解釈や解釈の変更でもって乗り切りを図り、勢力を伸ばそうとするであろう。なかには、ずっと言い続けてきた我が教義こそ一切の拡大解釈や変更なしに人々を救うものであると主張し、その宗教の先進性を強調し、信者の拡大を図るであろう。
 その筆頭に挙げられるのが、北西インドで仏教と同時期に発生したジャイナ教である。仏教と類似点が多い宗教であるが、あらゆる生き物の不殺生を強く主張する厳しい戒律を持っている。現在、インドにその国民の0.5%に満たない少数の信者しかいないが、経済界や知識人の在家信者が多く、その存在感は大きい。ヒンドゥー教徒であるインド独立の父・ガンジーがジャイナ教徒と間違えられたことから、世界的に有名な宗教になったようである。ヒンドゥー教は、様々な宗教が仲良く集まった宗教のデパートのようなものであり、ジャイナ教の一派がヒンドゥー教に組み込まれており、その信者の一人がガンジーであったのである。
 これらとは別に、新興宗教も当然に誕生することも間違いない。どんな宗教が生まれるか。様々な少食健康法を母体として競い合って乱立するであろう。
 北西インドに仏教が生まれた当時、当地はバラモン教が支配しており、仏教は当然に新興宗教であった。また、古い仏教経典のなかに、六師外道として同時期に発生した仏教以外の大きな勢力を持った6つの宗教の教義を紹介し、それを乗り越えたところにあるのが仏教であると主張していることからも明らかなように、新興宗教が乱立していた。また、六十二見という記述もあり、それだけの数の新興宗教が存在していたことも明らかなことである。そして、それら新興宗教に押されて危機に瀕したバラモン教は、その後において仏教などの教説をその教義に取り入れてヒンドゥー教に衣替えし、インドにおいて勢力を盛り返したという歴史を持つ。
 多神教の日本においては、これと同じようなことが起きる土壌があり、少食健康科学を元にする数多くの新興宗教が柔軟に発生するのは間違いなかろう。

第6節 少食のすすめ
 いずれにしても、必ず訪れるであろう先進各国の延々と続く飢餓時代には、少食を良しとする科学、思想、宗教であふれかえるであろう。日本において少食の原点となるのは、すでに戦前に確立されている西式健康法にあり、1日500ないし600キロカロリーで健康に生きていけるというものである。
 今日、これを応用発展させ、医療現場で実行しておられる医師が何人かおられ、そのうちの一人である甲田光雄医学博士(故人)によれば、1日400キロカロリー程度の摂取で難病の治療効果が上がるとおっしゃっておられる。また、人は長期にわたり1日300キロカロリーの少食であっても、いや、そうすることによって、初めて健康に生きていけるともおっしゃる。いずれの場合も、基本形は生野菜を中心に、穀類はごく少量の生の玄米粉とし、動物性蛋白質は一切取らないというものである。これは、人が火食を始める前の食性に戻ることであり、まさにヒト本来の食性に従うことが基本となる。
 ところで、生野菜中心に切り替えるといっても、日本人がたいして野菜を食べていない現状を踏まえると、はたして寒冷期に十分な野菜が供給できるかどうかは甚だ疑問であり、これが大きな難題として残る。
 なお、朝食抜きとするのも、西式健康法の主要事項であり、これについては、西丸震哉氏や小山内博氏も別の角度から、これの重要性について独自の理論展開をなされており、その内容は省略するが、少食につながるものである。
 究極の少食は、何度も繰り返し行う長期断食にあり、これはジャイナ教において顕著である。甲田氏は、朝食抜きの少食生活に慣れれば、毎週曜日を定めて1日断食を行ったり、年に数回、1週間程度の長期断食を定期的に行うことが容易となり、より少食で健康体にもなるともおっしゃっている。
 西丸氏によると、動物というものは何日も獲物にありつけず、不定期的な断食を繰り返す生活が通常の出来事であり、生理機構がそれにうまく順応したものとして完成しており、ヒトも動物であるからして当然にその能力は残されている。毎日3度も食事を取るから、その機能が錆びついているだけだとおっしゃる。
 長期断食に慣れれば、超長期断食も可能となる。インド人機械工の男性(当時64歳)が411日間にわたり断食した記録があり、その間ずっと通常の生活で通し、404日目には登山も行ったという、とても信じられない“お化け”のような人がいた。これは、アメリカの科学者チームの生態調査としても実施されたものであるから、真の出来事である。(ブログ版追記 その後にインド人僧侶がほこらに入って断食修行し、タイ記録の411日間断食を行ったが、彼はその翌日に姿をくらませ、その後の行方は不明とのことである。これは勘繰りだが、あと1日で新記録となるも、体が持たなかったのかもしれない。)

 『肉を一切断ち、生野菜中心の食とし、朝食を抜き、少食とする。加えて時々の長期断食』
 これが、地球寒冷化に伴う食糧危機が訪れた場合に求められる食生活であり、ヒト本来の食性に限りなく近づけることによってのみ、飢餓を乗り越え、かつ、健康が確保できるのである。
 もっとも、どんな場合でも、急激な食生活の変更は、体を壊す。したがって、今から心して、将来求められることになる食生活に近づけようとする努力が要求される。

第7節 年寄りの利己主義
 理屈ではそうなるのであるが、今日の日本人の食生活とあまりにもかけ離れた、このような少食に今から取り組めといっても、難病にでも罹らないことには、食欲煩悩を抑え込むことはとうてい不可能である。
 小生の場合は、たとえ難病を患ったとしても、あまりにも食い意地が張っているから、そんな牛の餌のような食事に耐えられそうになく、腹いっぱいうまいものを食って、いっそ早々に死んだほうがマシだ、となる。娘も息子も東京へ行って一人立ちし、田舎で夫婦二人暮らしをずっと続けていて、ぼつぼつ粗大ゴミになろうとしている男年寄りは、ずいぶんと身勝手になり、横着になり、そんな考えしか生まれ出てこない。
 還暦を過ぎたあたりから年寄りの利己主義はこうして生まれる。さらに10年、20年と歳月が過ぎ、高齢になるにしたがって、これが高じていき、“余命幾ばくもないのだから、うまいものを腹いっぱい食わせろ”と言うようになり、あげくのはてには、“俺はまだ死にとうない”とわめきたてる。とどのつまりがボケ老人である。
 こうしたことは、やすやすと想像できるのであるが、年を重ねるにしたがって、我慢というものがだんだんできなくなってしまい、ついには我慢という観念そのものまで忘れてしまうから、人間とは何ともお粗末な生き物である。間もなく還暦を迎える小生も棺桶に片足を突っ込みかけた年代にあり、もはや後戻りは不可能であり、横着に前へ前へと進むしかない。食に関しては、一片の疑いもなく、まっしぐらに前進している。我が人生を振り返ってみるに、ものごころ付いたときから毎日のように魚が食卓にのぼり、高度成長とともに肉食文化にどっぷり漬かった食生活に慣れ親しみ、日本が豊かになった頃には、魚、鶏、牛、豚が食卓を飾らなかった日はなく、その量が年々増えていった。獣肉の消化能力が落ちた今日では、若かりし頃に比べて口にできる量はガクンと落ちたものの、とてもじゃないが精進料理では我慢できず、もはやベジタリアンには決して成り得ない。
 「肉」という「麻薬」から決して抜け出せないのである。食の進化論を書くに当たって、様々な方面から洞察するなかで「肉は麻薬である」ことを知るに至った小生ではあるも、肉は麻薬であるがゆえに決して止められないのである。悲しいかな、小生は完全な麻薬中毒患者に成り下がっている。
 動物性食品に対する嗜好が歳とともに変わってきたのも興味深い。還暦を迎える前あたりから胃の消化能力が落ちたからであろうが、獣肉や鶏肉より魚のほうがおいしく感じられるようになり、特に、その特有な臭いから牛肉は苦手となった。それでも、年に一度や二度は、霜降りの飛騨牛を一切れ二切れでいいから賞味したいという、強い欲求を抑えきれないでいる。
(ブログ版追記)
 その後、小生の嗜好は再び変化した。70歳近くなってからは、魚より肉が食いたくなったのである。焼き肉屋へ行って骨付きカルビが食いてえ、牛タンが食いてえ!と、欠食児童並みに肉への欲求が高まりを見せてきたのである。今は亡き我がおふくろは80代は魚を求めたが、90代になると肉を求めたのと同様な変化である。これは日本人の一般的傾向のようである。西式健康法を樹立された西勝造氏は「中年までは肉や魚を取らなくても健康でいられるが、通常60代になったら魚を求めるようになり、70代となったら肉を求めるようになるのが健康人である。高齢になると体が自然にそれらを求めるようになる。」と言っておられ、これは、加齢に伴い体内におけるアミノ酸リサイクルシステム(オートファジー)が鈍り、必須アミノ酸を口から補給せねばならなくなるからであろう。それが食の嗜好変化となって現れるのである。
(追記ここまで)
 こうして、日本人総麻薬中毒患者であるこの世の中においては、肉や魚を食うことが正常とされ、完全なベジタリアンは精神異常者との扱いを受けてしまう。食欲煩悩が定める物差しによって、食の良し悪しが決まってしまうのである。そして、時の栄養学者も麻薬中毒患者であり、肉食生活から抜け出せないでいるゆえに、その物差しにうまく適合するような理論を無意識的に組み立て、動物性蛋白質は必須の栄養であり、毎日たっぷり取れと「正常思考」してしまうのである。これに逆らうことは、小生とて、もはやできない。

 近々に寒冷化が訪れ、食糧危機を早々に迎えることとなった場合、我々団塊世代の次の世代、第二次ベビーブーマーである20代、30代の若者(ブログ版追記 今に至っては彼らは30代、40代となり、その子どもが順次大人になりつつあるが)も麻薬中毒患者であるが、大きな苦悩を伴うものの、彼らの再生は不可能ではない。なぜならば、彼らはその次の世代を正しく育てねばならないという責任感を抱いており、我が子のことを考えれば、肉を断つことに我慢が利くからである。もっとも、我慢の連続という苦から脱却するために、もがき苦しむではあろうが、その責任から、何とかして解決策を見いだそうとして懸命に努力することだろう。
 彼ら若い世代は思いのほか謙虚である。一握りの若者の横着さから、ご無礼ながら今どきの若者は皆なっちょらんと感じていたが、実はそうではなかった。ここ10年ほど(2007年時点でのこと)店頭で接客するなかで、お客様に簡単な助言をするようになったのだが、彼ら若者は小生のつたない説明を謙虚に聞いてくれ、かつ、たいていは礼儀正しくお礼も言ってくれる。小生をとてもうれしくさせてくれ、彼らに頭が下がる思いがする。今の若者はなんてすばらしい人たちばかりだと感心させられる。
 この若者の謙虚さは、どこから生まれ出てくるのだろうか。それは学習意欲からではなかろうか。されば好奇心があるということになり、新しい文化を構築できるたくましさを持ち備えているということになる。ここに、一途の望み、そして明るい展望が開けたような感がしてきた。
 しかし、彼らの足を引っ張り、彼らの更生の邪魔をするのが、年老いた我々団塊の世代である。「息子よ、肉を食わせろ。」とわめきたて、加えて肉が手に入れば孫たちにも食べさせ、「どうだ、肉はうまいだろ。昔は良かった、うんぬん…」と孫に話しかけ、孫たちが受けるべき新しい教育を妨害する。
 時代の変革期には、間に入った子持ちの若者たちは、いつも年寄りたちから苦汁をなめさせられる羽目に落とし込まされるから、なんとも哀れである。

第8節 姨捨山思想の復活
 年寄りは姨捨山に捨ててもらうしかない。
 人類の歴史上、これがどれだけあったかは隠された出来事であるゆえ不明だが、日本で語られるところでは、たいていはお爺ではなくお婆である。これは男尊女卑の表れであろう。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想の復活は、年寄り、特に男の力があまりにも強いから、望みえない。エスキモーやアポリジニに残っていたこの文化も、もはや姿を消してしまったようである。
 動物の世界に存在する、本来あるべき姨捨山思想は、次のようなものである。
 草食動物が肉食動物に追い回されて犠牲になるのは、幼い子どもであるとの認識が我々には強いが、これは草食動物が一時的に増えすぎたときの調整であって、一般的ではない。子どもでは小さ過ぎて、肉食動物の腹の足しにはどれほどにもならない。やはり大人の草食動物を捕らえたいが簡単にはいかない。そこで、長時間にわたり追いかけたり、後をつけたりして、大物を得ようとするのである。こうなると、体力が衰えた年寄りは逃げるのを止め、“俺を食え”とばかり肉食動物に横っ腹を見せて立ちはだかり、一人犠牲になって群の仲間を救うのである。ゾウほどの巨体動物となると、群に着いて歩くことさえ辛くなった年寄りは、静かに群れを離れ、肉食動物の餌食となって死を選ぶのである。
 しかし、我々が、テレビで野生動物の世界を、さもこれが真実であるかに見せられている番組は、100時間もカメラを回して1時間に編集するのが普通だから、全てフィクションであって、視聴率を稼げるドラマに仕立てている作り話なのである。基本的に、夜行性である肉食動物が真昼間に狩りをするのはまれであることからも、かような番組を信じてはならないのである。
 このように現実の野生動物の年寄りは偉い。姨捨山思想を自らのものとしている。
 この思想をしっかり持っていたのが、エスキモーやアポリジニであったのである。エスキモーは長距離移動を繰り返す。体力が弱ったことを自覚した年寄りは、“俺はここに残るから皆は行ってしまえ”と告げ、一人凍死を選ぶ。凍死寸前までいった山岳遭難者がそうであるが、凍死は痛くも痒くもなく、苦しくもなく、夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。一方のアポリジニの場合は、病気になった年寄りは住まい屋の外に放置され、そうされた年寄りは決して悪足掻きせず、静かに自然死を選ぶのである。こちらの場合はエスキモーと違って一晩で死ぬことはできず、何日かかかるのだが、水も飲まないのであるから、早晩死ぬことができる。通常の動物と違って、ヒトは絶えず水分補給せねばならない特殊な動物ゆえ、飲食を断てば早々に脱水症を呈し、間もなく血液がどろどろになって脳への酸素供給が滞り、つまり半分窒息状態になって夢見心地の気分を味わいつつ、すんなり命を絶つことができることを、彼らは知っているのであろう。柔道の締め技が決まったときと同じ気分になるのである。
(ブログ版追記)
 日本には寝たきり老人がものすごい数にのぼる。寝たきりになっても点滴をし、鼻から流動食を流し込み、それができなくなっら腹に穴をあけて胃ろうをし、これでもかとばかり寝たきり老人の延命措置に手を尽くしに尽くす。西欧人は、この日本の現状を老人虐待という。彼らの世界には、今でもちゃんと姨捨山思想がしっかりとある。車椅子を自分で動かせなくなり、食事も自分の手で食べられなくなると、もはや神に召される日は近いと観念し、飲食を断つ。周りの介護者もそのような状態になったら手助けをしないのである。そうして飲食を断って1週間か10日すれば、静かに旅立つのである。日本でもこうしたやり方で寝たきり老人を一掃せねばいかんだろう。西欧にはそしてアメリカにも寝たきり老人は基本的に存在しないのであるから。
(追記ここまで)
 団塊の世代は、いやになるほど実に大勢の人間がいる。我々の一世代上の80代、90代の年寄りでさえ、今や多すぎる状態にある。このまま推移すれば、20年、30年先には、日本はあまりにも醜い姿の年寄りであふれ返る。若者たちに恨まれ、憎まれ、いたずらに余生を送るのではなく、姨捨山の思想をしっかり持たなければならないのである。
 それが嫌なら生涯現役で働くしかない。「働く=ハタラク」とは「傍(ハタ)」を「楽(ラク)」にすることであり、周りの人に何らかの手助けができ、周りの人に年寄りの存在を喜んでもらえればいいのであって、銭を稼ぐばかりがハタラクことではない。ハタラクということは、死の直前まで可能である。(ブログ版追記 そして、死期が近いと悟ったら、自然死を選べばいいのである。“もう何も食いたくない、もう何も飲みたくない”と飲食を断つのである。そうすれば、1週間か10日で安楽に静かに旅立てるのである。死期断食の実行である。)

第9節 若者文化の醸成
 若者に老後の面倒をみてもらうなどということは、動物の世界には決してない。若者に迷惑をかけるなどということは決してしないのが動物である。加えて、若者の邪魔をしない。チンパンジーやニホンザルの社会にも文化があり、極めてゆっくりではあるが、その地域地域で異なった新たな文化が醸成されていく。その文化を構築していくのは必ず若者であり、大人たちとの間にどれだけかの軋轢が生ずるのは確かである。大人は決して若者が切り開いた文化を受け入れようとはしないのであるから。しかし、彼ら大人たちは、絶対に若者たちの邪魔をしない。静かに見守ることに徹している。それが動物である。
 我々人間が見習わねばならない最大の心構えがここにある。若者が作りあげようとしている新たな文化を決してけなしてはならないのであり、ましてや抑え付けてはならないのである。絶対に。
 それが、どうだ、これは文明というものが誕生してからだろうが、社会規範なり道徳というものは、儒教がいい例だが年寄りに有利なように定められ、これが、国家が国民を支配するのに好都合だから、それが正しいものだとされ、若者を抑え付け、縛り付け、そして洗脳する。
 年寄りにとっては、こうして出来上がった社会規範なり道徳というものは、実に有り難いことではあるが、これによって、年寄りを支える壮年層そして若者さらには子どもが苦しめられる。
 世代はどんどん更新されていく。団塊の世代も孫を持つようになった。子どもは若者以上に純真であり、素直であり、どんな風にも染まってしまう。“自分がそのように染められてきたから、お前たちもそのように染まれ。俺たちはこうしてやっと我が世の春が来たのだから、これからは楽をさせろ。”でいいのだろうか。
 多難な人類の将来ではあるが、明るい未来づくりは今の子どもたちの手腕にかかっている。彼らがすくすくとたくましく成長することを願わずにはいられない。小生に孫はいない。黙って周りにいる子どもたちを見守るしかないのは少々寂しいが、間違っても余計なおせっかいをやかないでいきたいと思っている。
(ブログ版追記 本節は13年前の初版を大幅に書き換え、小生の今の心境をつづりました。なお、初版では、彼ら子どもたちに贈る言葉はまだ小生は持たないとして、司馬遼太郎が小学校6年生の国語の教科書に載せた「21世紀に生きる君たちへ」をあとがきに代えて掲載して、本論を閉じたところです。)

つづき → あとがき

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第10章 美食文化の功罪

2020年11月22日 | 食の進化論

食の進化論 第10章 美食文化の功罪

第1節 人間の異常大発生
 この地球上に哺乳類が現れる前、恐竜が大繁栄していたと言われている。森林とそれに続く大草原のなかに、巨大な恐竜がそれこそウジャウジャ住んでいたかに錯覚する。しかし、細い足であの巨体を支えるにしては、地球の重力はあまりに強すぎて、陸上を動きまわることは困難であった。そこで、川や湖で体を浮かし、首を水面からヌ~ッと出して、陸上の草を食べていたと考えられる。
 大きな恐竜の首が長いのは、岸辺からより遠い所の草を食べたかったから、そのように進化したのである。こうした生息条件から推計すると、恐竜の生息量は、重量で100万トン程度にしかならない。
 鯨について推計すると、最も多かった頃には、全海洋で4千500万トンであったろうと考えられる。

 食生態学者の西丸震哉氏(故人)がそのようにおっしゃっている。では、現在の人間はというと、氏のデータは少し古いので最新のデータに置き直したところ、3億トンにもなる。77億人(2019年)の総重量である。
 西丸氏の話を続けよう。

 これほどの量になると、生物界では、その種の異常大発生と言う。人間の異常発生が、農業において作物の異常発生を極度に進め、これにより病害虫の異常発生を起こし、…。また、主要作物の穀類は作付けが限界に近づいており、これを全部人間の食糧にすれば80億人の人間を養うことができるものの、家畜に回す分が多く、肉、乳、卵に変形させると7分の1に減り、たいへんな無駄となる。
 一度、一般化した肉食率を減少させることは困難を極め、その国が飼料を確保できる力がある限り、絶対に肉食率は低下しない。その力がない国から順次脱落して、強制的に人口を減らされる。つまり餓死者が出る。
 現時点で日本人の安楽追究が度を過ごして、20~25%の過食の域に達している。そのために生活習慣病の多発の不幸を招いているわけだから、摂取カロリーは1日1750キロカロリーに、蛋白質は45グラムに減らさねばならない。この数値は重労働での生体実験で実証した値であり安全である。

 以上のように西丸氏はおっしゃっている。
 なお、参考までに平成30年国民栄養調査によると、日本人成人の平均摂取量は、それぞれ男2164・女1728キロカロリーと、男78・女66グラムである。
 こうした西丸氏がおっしゃるような減食が、現在広く勧められている。腹八分で済ませ、ということである。しかし、それは不可能である。ダイエットのために一時的に実行できたとしても決して永続はしない。
 人間は、あまりにも口が卑しい動物になってしまったからである。特に、日本人は、朝昼晩と1日3食も取り、晩は苦しいほどの量を食べてしまう。かつ、おやつや夜食を取ることも多い。食べる量を減らして腹八分で済ませても痩せないとよく言われるが、苦しいほどに食べればそれは120%であり、八分に落としても満腹状態であり、決して痩せるわけがないのである。

第2節 美食文化の始まり
 どうして人間がこんなにも口が卑しい動物になり下がってしまったのであろうか。それは人間の異常発生に伴って誕生した文明の高まりによって、富裕層が生じて生活に余裕ができ、美食を求めるようになったからである。専従の料理人を雇い入れ、彼らの技術研鑽で、一気に美食文化の花が開いたことであろう。
 まずは味付けが先行したであろう。塩、香辛料で始まり、砂糖、酒と続き、遅れて植物油の登場となろう。これらにより、何の変哲もない素材の味が、美味なるものに変身する。次に、ソースの開発により、本来は食材が腐ったときの味である酸味を楽しむようになる。最後に、本能的には毒と感ずるはずの苦味までも嗜好に取り入れた。なお、子どもは苦味を嫌う傾向にある。苦味を求めるようになるのは中高年になってからだ。苦味というものは、健胃薬として働き、胃の働きが落ちてきた中高年の胃がそれを欲するからである。このように、味は特定の内臓や器官と関連しており、年齢とともに変化していくものである。また、大汗をかいたら塩味を求め、逆に寒すぎれば体を温めるために塩味を欲するというように、生活習慣とともに味覚は変化もする。

 国が繁栄して庶民にまで生活の余裕が生ずれば、味付け法が広く普及する。美味なる料理は食がすすみ、毎日、満腹になるまで食べてしまう。繁栄は長続きせず、やがて没落して生活の余裕がなくなるが、一度覚えた美食文化は容易には捨てられず、美味なるものを求める欲求はかえって高まりを見せることになる。
 西丸震哉氏が次のようにもおっしゃっている。
 ニューギニアの原始種族には、味に関係する単語が一つもない。彼らは、来る日も来る日も同じものを同じようにして食べ、動物がガツガツ餌にかじりつくのとあまり変わらないやり方で、かなりあっけなく短時間で食事を済ます。原始社会人に共通して言えることは、あらゆる食べ物に対する嗜好度が低いということである。
 食べ物はなければ困るという意識はあるが、一応存在するだけで安心し、それ以上の精神的高揚にはつながらない。食生活を楽しんで生きているとは思えないし、おそらくは考えたこともないであろう。
 そして、原始種族は、案外山菜の類には手を出さない。苦味などは毒がある証拠であり、毒にやられる危険を回避しているのであって、彼らの食材の幅は狭い。文明社会において、与えられた食べ物は何でも安心して口にするということは、外界に対する危険感を喪失し、原始性を急激に失っていくという、一種の退化現象かもしれない。

 西丸氏の話はこれくらいにして、この外界に対する危険感の喪失は何も人間だけに止まらない。
 2、3の書からそれを紹介しよう。
 氷の島、グリーンランドへ連れていった馬に食べさせるものがなくて、やむを得ず肉を与えたら食べたので、飼育することができた。動物園では、乳離れしたゴリラに肉をどれだけか与えて飼育すると元気に育つ(ただし、ある程度成長した子どもや大人のゴリラは肉を与えても手を付けようとしないが)。家畜の牛には、家畜の残渣を飼料に混ぜて与えれば食べるのであり、そうすることによってよく育つ。
 このように、完全な草食動物であっても安心して肉を食べ、また、動物食をすんなり受け入れることが多い。さらに、野生動物も、動物園で飼育するとき、彼らが食べたことがないものを試験的に与え、食べるようであればそれを代用食とする。竹しか食べないパンダがリンゴをおいしそうに食べるようになったりもする。
 飼育される動物は、餌をわざわざ自分で探しに出かけなくても、人間が餌を定期的に運んできてくれ、これほど安楽なことはないと、安心して人間に依存してしまい、与えられた食べ物には決して毒がないと思い込み、食べ物の種類を大きく広げるのである。
 人間が、かくも広く何でも食べるようになったのは、食べたことがない物を食べてみるという勇気ある先駆者のお陰ではあるが、いったん安全と認識されると、より嗜好に合うように味付けを施し、食文化に組み込んでしまう。そして、あるところの文明が自分たちのそれより優れていると思えば、安心してその文明の産物に頼り、世界中に定着する道を歩んできたのではなかろうか。
 こうして、文明の発達に比例して、美食文化が高まり、広まっていったのであろう。極端な言い方をすれば、食文化に関しては、人間は文明という得体の知れない「生き物」の家畜と化してしまったとも言える。

第3節 1日3食は口の卑しさから
 人間の口の卑しさの第2は、1日3食も取るようになったことである。
 これは、特に日本人に顕著である。採集狩猟時代は不規則な食事とならざるを得なかったであろうが、農耕が始まってからは安定して穀類が確保できるようになり、決まった時間に1日1食生活をしていたと思われる。それは、前漢時代(紀元前206年~紀元8年)に完成された基本古典医学書「黄帝内経素問」の「第40編 腹中論」から読み取れる。その後、世界中がたいてい1日2食になったことは世界各地の古文書からはっきりしている。決して3食ではなく、朝食は取らなかったのである。
 動物の生理機構は同時並行して2つも3つも働かせることはできない。消化吸収・活動・病気治癒は並立し得ないからである。最初に動物の病気治癒について説明しよう。家畜やペットにも当てはまる。
 彼らは病気になったときには、一切の飲食をせず、体も動かさず、ただじっとしている。免疫系統に全てのエネルギーを集中させて自然治癒力を最大限に発揮させるためである。人間とて同様であり、病気すると食欲が失われる。栄養を付けないと病気が治らないからと、無理してでも食べよ、というのは大間違いである。もっとも、例外はある。それは、ひどい栄養失調の場合であるが、現在の日本人には無縁の話だ。したがって、ヒトに特有の脱水症に備えて、喉の渇きを止める程度に水分補給だけにしたほうが治りがずっと早いのである。
 次に、消化吸収についてであるが、食べ物が口に入ってから胃腸で消化吸収し終わるまでに使われるエネルギー量は、摂取したエネルギー量の2割程度にもなる。当然に、その間、血液は消化器系統へ集中して送られる。特に胃での消化が急がれるから、食後に眠くなるのは、それにより脳への血液循環が少なくなるからである。動物は食べ終わったらゴロゴロしているのは、完全に消化吸収しようとしているからだ。
 3つ目の活動については、肉食動物のライオンがいい例である。彼らは完全な空腹状態になってからでないと狩りをしない。消化器系統が完全な休み時間になってからである。血液が脳と筋肉に集中して送られる態勢が整ったとき、初めて狩猟を開始するのだ。
 ライオンの場合、狩猟は失敗の連続で何時間経っても獲物が手に入らないことが多い。初めのうちは筋肉や肝臓に蓄えられているグリコーゲンをブドウ糖に変換して運動エネルギーを生み出すが、これを使い果たすと、体内に備蓄している脂肪を分解し、ブドウ糖の代わりになるケトン体などを作り、これで運動エネルギーを生み出す。2日、3日と狩猟に連続して失敗しても、備蓄脂肪がある限り、全力疾走が可能であり、腕力も決して衰えない。1日1回程度の少しばかりの水分補給だけで、いずれは獲物を手にすることができる。
 ヒトの生理機構も同様である。夕方の明るいうちに軽い夕食を済ませ、日の出とともに起き、水を飲むだけで作業に取り掛かることができるのである。消化器系統がほとんど休み時間に入っているから、体がよく動き、頭も冴えて効率良く作業が進む。喉が渇き、時々水分補給せねばならないのがライオンと違う点である。1日の作業がお昼には終わる。ここで最初の食事を取る。食事が済むと消化器系統が盛んに働く時間に入り、ゴロゴロしているか昼寝をする。日が西に傾き始めると、腸は活動中だが胃の活動は終わっており、軽作業ができる態勢となる。翌日の作業準備をゆっくり行い、後は日が落ちるまで自由時間となる。
 食糧が乏しい採集狩猟時代であれば、早々に寝てしまい、1日1食で済ませてしまったであろう。穀類栽培が本格化して食糧備蓄に余裕が出だしてからは、口寂しさから明るいうちに軽い夕食を取り、1日が終わる。
 歴史時代になってからも、つい最近まで、世界中の庶民はこのような生活をしていたと考えられるのである。
 長寿で知られるグルジアでは、朝食は取らず、1日の主な食事は午後2~4時頃までに取り、夕食は6~7時半までに軽く取るという生活スタイルを取っている。生理学的に実に理にかなっているから長寿なのである。
 朝飯を食わなくても、力が出るのである。いや、逆に、朝食を食おうものなら、力仕事を始めると腹は痛くなるし、力は出ないし、脳に血が回らないから、やる気も生じないのである。
 いつから人は馬鹿みたいに朝食を取るようになったのか。
 記録としては、紀元前の古代ギリシャ市民がそうであった。市民は皆、富裕層であり、まともな労働もしなくてよかったから、一日中遊ぶことが仕事であった。すると、口寂しさが高じて卑しさに変わる。朝は胃が空っぽであり、食べようと思えば、容易に胃の腑に納まる。こうして朝食を取るようになった。
 ヨーロッパでは、中世の時代まで、栄華を極めた特権階層は1日3食であった。そして、贅沢病に悩まされた。今で言う生活習慣病である。現在のヨーロッパでは、何度も繰り返されたこの悪習を教訓に、庶民も朝食は食うことは食うが、極めて小食にしており、水分補給がメインと言ってもいい。ただし、民族的例外もある。それはユダヤ人だ。彼らの存在基盤は脆弱であり、その日の昼食や夕食が確実に取れる保証はなく、先食いしておかねば安心して1日を過ごせないから、朝食もしっかり食べる。それが今日でも習慣化している。
 日本での1日3食は、鎌倉時代に一部宗派の僧侶の間で始まったようであるが、江戸時代の初期までは、天皇や将軍までが朝食は食べていない。朝食を食べ、1日3食となったのは、
江戸時代になってしばらくして世情が安定して天下泰平となってから、僧侶、公家、武士に広まり、元禄文化が花開いた頃に江戸町人の間にもこれが広まった。そして、大坂町人もこれに続いた。しかし、農民や地方の商人は、依然として1日2食で通すのが普通であったようである。
 1日3食化と時を同じくして、食生活が贅沢になり、雑穀入り玄米食から精白米食(白米食)を食べるようになり、これの多食により、江戸患いが流行り出した。ビタミンB1欠乏による脚気である。
 たいていの藩では農民もけっこう豊かではあったものの、朝食は取らず、飯は雑穀入り玄米食であったが、開国後、明治中期には1日3食の白米食(もっとも麦飯が多かったが)に変わったようである。その原因は、明治初期に新政府が富国強兵政策の下、農家の次男坊、三男坊を対象に兵隊募集をかけたことによる。殺し文句は「1日3度、白い飯が食える」である。これによって、兵役から戻った働き盛りの若者が、家に帰ってから1日3食の白米食を求めたのであり、こうして1日3食が全国に広まったと思われるのである。
 白米3食は、江戸時代の将軍に脚気を引き起こして心不全で若死にさせるなど、その危険性は枚挙にいとまがないのだが、兵食において、とんでもない悲劇をもたらした。少々長くなるが、それを紹介しよう。
 篠田達明氏の「闘う医魂」のなかで詳細に示されているが、その概略は次のとおり。
 「1日3度、白い飯が食える」という白米食は、質実剛健な兵士の4人に1人が脚気を患うはめとなった。明治18年に麦飯に切り替え、いったん脚気を激減させた。しかし、明治27年の日清戦争では4万1千余名の脚気患者を出し、死者まで出た。その病死者数は戦死者の約4倍の4千余人にのぼる。さらに、明治37年に始まった日露戦争では25万人余の患者が発生し、病死者は戦死者の約3倍の2万8千人にのぼった。
 なぜ、こんなことが起こったのか。犯人は、陸軍医務官の森鴎外である。彼は脚気伝染病説を信奉し、陸軍兵食論で白米食を主張し、それを実施させたからである。脚気は麦飯で防ぐことが分かっていながら、白米食に切り替えさせたのである。白米食によって脚気が再発しだしたことから部下から麦飯に戻すよう進言があったが、森鴎外はそれを聞き入れなかった。乃木希典大将は、この森鴎外に全幅の信頼を寄せており、それゆえ203高地でいたずらに戦死者を出すばかりであった。なお、当時、海軍は麦飯を取り入れており、脚気患者は発生せず、日露戦争での日本海海戦で圧倒的な勝利を収めたのとは、あまりにも対照的であった。
(要約引用ここまで)
 その後、乃木大将は戦争であまりにも多くの死者を出した責任から自害したが、一方の極悪人である森鴎外は小説家となり、戦後に文化人切手にも採択されるなど文人として高く評価され、今日に至る。
 なぜに国家反逆罪以外の何物でもない森鴎外が免責されたのか。それは、森鴎外が官僚のトップにいたからにほかならない。今も昔も官僚のやることは全て正しいのであり、誤りはないとされているのである。小生思うに、森鴎外自身も、脚気は伝染病でないことに早晩気が付いていたことだろう。しかし、官僚のトップに上り詰め、その地位を失いたくないから
、自分が打ち立てた伝染病説と陸軍兵食論は絶対に撤回できない。1日3食とも白い飯が食えれば兵隊どもは大喜びするから、陸軍の徴兵が円滑に進み、国民も納得する。その兵隊が大勢死んでも兵隊は単なる虫けらであり、何万人死のうが俺の知ったことではない。病死者もお国のため戦死したことにしておけばよい。森鴎外はそんなふうに考えたであろう。そして、森鴎外は巧妙な逃げ道を打っていた。その兵食論には「純白米にたくわん」と記されていたのである。たくわんは米糠で漬け込むから、多量にたくわんを食べれば玄米を食べたのと同じになり、脚気は防げる。そのためには兵隊に毎食丼鉢1杯ものたくわんを食わせなければならないだろうが、そんなことはとうてい不可能だし、戦地となると補給もわずかとなる。でも、官僚的理屈からすれば、たくわんを十分に補給しなかっか補給処が悪いのであり、兵食論を著した自分が悪いのではない、ということになってしまうのである。
 今も昔も高級官僚は、国民から見ればエイリアンであって、彼らはそのあまりにも優秀な頭脳が災いして、国民をゴキブリ以下にしか扱わない。国民の健康問題については、らい病患者を長期にわたり隔離したり、薬害エイズ問題を正当化し続けたりと、国民に対する彼らの扱いはエイリアンの仕業としか言いようがないのである。先に述べた食品添加物など表面化していない健康問題がまだまだたくさんある。政府はその実情を知っていながら、国民の健康はどうでもいいと、エイリアン的立場でウソの情報を発信し続け、また、屁理屈でもって国民をだまし続けていることを肝に銘じておかねばならないのである。
 日本での1日3食の、その後の話に戻そう。
 明治初期の兵食の影響を受けて、農民も1日3食になってしまったのだが、地租としての米の供出が江戸時代の年貢よりも強化されたがために、農民は雑穀米や麦飯とせざるを得ず、脚気は防ぐことができた。しかし、朝食を取ることによって、胃の疾患が激増したことは間違いない。食べてすぐ動けば、胃への血液循環が不十分になり、胃が弱るに決まっている。胃が弱れば消化吸収が不完全となり、栄養吸収も悪くなる。また、製塩と塩の流通が発達して塩の入手が容易となり、3度の食事に塩味の濃い味噌汁が必ず付き、かつ、塩辛い漬物を多食し、塩分の取り過ぎが輪をかけて胃を悪くしたのである。
 明治維新前後に欧米人がびっくりした日本人の健康さ、丈夫さは、1日3食の普及と相まって順次失われていくことになったのであるが、1日に3度もおまんまが食える喜びが、体のだるさなどの不調を上回ってしまった、その結果であろう。再び朝食抜き1日2食へ戻すという行動は取られなかった。
 体の不調というものは、永続すれば知らないうちにそれを感じなくしてしまい、その状態が普通と思えるようになり、その状態にあっても健康であると錯覚するに至るのである。慣れとは、かくも恐ろしいものである。もっとも、なかにはごく少数だが、今までどおりの健康体を維持している者が残るが、そういう人は例外的に、“異常に丈夫なお化け”の扱いをされることとなる。ひところ欧米人がビックリした日本人の丈夫さは、こうしてだんだん失われていく。しかし、誰もそれに気が付かない。
 健康かどうかの判定は、周りの皆による相対評価で決まる。皆が病気になれば皆が病気でない、と思い込んでしまう、とんでもない悲劇が過去にあった。それは、古代ローマの都市国家ポンペイである。ヴェスヴィオス火山の噴火による火砕流で一瞬のうちに全滅し、降り積もった火山灰で完全に埋もれてしまったことで有名である。商業都市として栄えたポンペイは都市機能が充実しており、今日の都市と全く同じように上水道が完璧に整備され、各家庭に水道管が引き込まれていた。その水道管は全て鉛で作られており、これによって都市に住む全員が鉛中毒になっていたのである。古代ローマの各都市も大なり小なり、その傾向にあったようであるが、ポンペイほどまでには水道管は整備されてはいなかったようだ。こうしたことから、ポンペイの住民は、他の地域の人々に比べて背が低く、平均寿命も短かったようであるが、ポンペイの住民は、皆が普通に健康であると思っていたようである。健康とは周りの皆による相対評価で決まる、悲しい一例である。
 日本は、明治政府の安定とともに中央集権体制が強化され、それに伴って食文化の均一化が大きく進んだ。豪華な朝食が登場し、すぐに全国に広まっていった。ヨーロッパと同様に生活習慣病が多発しそうなものであるが、動物性蛋白質の摂取が少ない食生活であったがために、それは表面化しなかった。動物性蛋白質で毎日取るのは魚を少々であって、肉はまれにしか口にしなかったからである。今日まで、世界にまれにみる豪華な朝食を取る文化が続けてこられたのは、ここに原因している。しかしながら、皆が胃弱になり、かつての丈夫さをだんだん失っていった。そのことに誰も気づかずに今日に至っている、世界一胃弱な民族、それが日本人なのである。よって、明治維新前後には例外的に“異常に丈夫なお化け”がいただけだ、としか見ない。
 近年になって、若者を中心に朝食を取らない者が増えてきているが、これは夕食が遅くなったことと肉や油脂の過剰摂取で、消化器官、特に胃に高負担がかかり、胃が疲労困憊しており、体が朝食を要求しなくなったからである。朝、
食欲を感じなかったら、決して食べてはならない。しばらくの間、胃を休ませてあげねばならないのである。食事の欧米化が進んできたのだから、1日3食とするならば、朝食はごく簡単なものへと移行させねばいけないのだし、基本的には朝食は抜くべき性質のものだ。

第4節 「エネルギー変換失調症」の発生
 1日3食の弊害の最大の問題は次のことに尽きる。
 1日に3食も取ると、体に必要なエネルギーは、ほとんどが食べた物から直接取るようになってしまう。おやつに夜食、喉が乾いたら砂糖入り清涼飲料水を飲むという食生活をしていると、完璧にそうなってしまう。
 つまり、血液中に漂う栄養を、体中の諸器官の細胞群が直接取り込むだけで済んでしまうのである。血液中の栄養が足りなくなると、通常は肝臓や筋肉に蓄えているグリコーゲンの出番であるが、これさえブドウ糖に変換するのに苦労するようになり、血糖値が少しでも標準値を切ると、小腹が空いたと感ずるようになる。1食でも抜こうものなら、脂肪をケトン体などに変換する機能が完全に錆びついているから低血糖になってしまい、我慢できないほどの空腹感に襲われる。この状態になっても食事が取れないとなると、低血糖が進み過ぎ、脳へのエネルギー源の補給が経たれて意識を失い、昏睡状態となる。
 空腹感は、胃が空っぽになって生ずるものではない。低血糖になって、脳へのエネルギー源の補給が困難になったサインが空腹感であることを、しっかり頭に置いておかねばならない。1食でも抜いたら空腹感を生ずるという状態は「エネルギー変換失調症」という名の、高度文明社会に特有の病気である。かような名称の病名は医学書にはないのであるが、小生はそう呼びたい。日本人のほぼ全員がグリコーゲンをブドウ糖に変換する機能は持ち備えていようものの、脂肪をケトン体などに変換する機能をほとんど喪失している事実、これは病気以外の何物でもなかろうから、小生はそう名付けたいのである。
 野生動物や文明前の人たちは、平時には空腹感など一度も感じたことはないと考えられるのである。それを感じるのは、もはや体の中にエネルギーに変換できる脂肪も蛋白質もなくなった餓死寸前の事態に陥った場合だけであろう。小生は、1日1食の生活を3年半続けており(ブログアップ時点では、これを12年ほど続け、最近2年間は昼食を軽く取り1日2食に戻している)、それに慣れっこになっている。また、ときどき1日断食を実行し、47時間にわたって食を断つ。その間、口寂しさは募るものの、空腹感は全く感じないのである。”腹減ったぁ、飯食いてえ”という感覚は完全に喪失している。(ブログアップ時点でも、そう)
 長期断食の経験はないので、その場合にどうなるのかは分からないが、平気で繰り返し長期断食をなさる方も大勢おられるということは、空腹感を全く感じないからできるのではないかと思える。(ブログ版追記 3日断食し、その前後も極めて少食で、実質5日断食を2回したことがあるが、その場合も空腹感は生じなかった。ただし、うまいものを食いたいという口の卑しさの高まりは相当なもの。)

 毎日朝食を取っている人が朝食を抜くと低血糖状態になって、午前中は脳の働きが悪くなる。2グループの比較実験でそのような結果が出ている。一時的に朝食を抜いたグループの人は皆、たしかに低血糖になり、脳細胞に十分な栄養が届かず、脳の働きが落ちるからだ。そこで、この結果を見て、栄養学者は、砂糖はすぐに吸収されて瞬時にブドウ糖に変換されるから、朝は砂糖を取れ、とまで言う。
 脳細胞が、ブドウ糖だけを栄養源としているのであれば、そういうことになるかもしれない。しかし、そうではない。この方面の研究はいろいろ行われているので、それを紹介しよう。
 まずは、断食してブドウ糖が底を突くと、脳の栄養源として脂肪から変換されたケトン体が使われるようになる。ケトン体には何種類かあるが、そのなかで最も多く作られるのがβヒドロキシ酪酸であり、これが優れものである。このβヒドロキシ酪酸は母乳に多く含まれており、赤ちゃんの脳の発達に重要な役割を果たしていることが、京都大学の香月博士氏の研究で明らかになった。赤ちゃんは、目覚めているときに猛烈に学習せねばならない。このとき、ブドウ糖よりもβヒドロキシ酪酸のほうが脳細胞を活性化させるのであり、βヒドロキシ酪酸のほうが記憶効果を上げるのである。
 したがって、朝食抜き(ただし、これをずっと続けている人)のグループのほうが、本当は頭が良い結果が得られることになるはずである。朝食抜きというミニ断食によって、必要とするエネルギー源は脂肪が分解されて得られる
βヒドロキシ酪酸などが用意され、これが脳に行って記憶効果を上げるのであるから。小生も実感している。朝食を取らなくなってから、朝から体がよく動き、頭が冴え、仕事の効率がアップするのである。
 つぎに、長期断食を続けると、脂肪のほかに蛋白質もエネルギー源として動員されるようになる。つまり、筋肉の蛋白質が分解変性されてαアミノ窒素などが作られ、これも脳の栄養として使われることがカナダのオーエンス博士によって明らかにされている。
 脳細胞はブドウ糖のみを栄養とする、などと言う輩は、精糖メーカーの御用学者以外の何物でもない、と断言できる。ついでながら、昨今のテレビ番組で、あれが体にいい、こちらのほうが体にもっといい、などと毎日のように放映され、紹介された食材がスーパーの店頭から姿を消す、ということが度々あるが、これらは、全てペテン師が仕掛けたウソと心得たほうが利口であろう。

第5節 断食のすすめ
 まず、1週間とか10日間の長期断食であるが、断食道場の話によると、中小企業の経営者が定期的に長期断食に訪れるようである。事業に行き詰まったり、製品開発が思うように進まなかったりしたときに長期断食すると、頭が冴え、良いアイデアが湧いてきたりして、苦境から脱することが往々にしてあるからのようだ。
 1日3食取っていた古代ギリシャにあっても、ピタゴラス、ソクラテス、プラトンなど有名な哲学者たちは、計画的に断食を行い、これにより、知的な閃きがグンと湧いたと言われている。体を飢餓状態にしてやると頭が冴えるのは、こうした事例からも確かなことと思われる。
 次に、ミニ断食である朝食抜きで、重労働に耐えられるか、である。重労働をしていると自負する方は、腹が減って力が出ないとおっしゃるが、そういう方はたいした重労働ではないからであろう。
 最高に重労働するのは大相撲の力士である。彼らは伝統的に朝食抜きで、恐ろしいほどに激しい朝稽古をする。消化器官が完全な休業状態でないと、あんな過酷な運動をすることはできない。少しでも胃に食べ物が残っておれば吐くに決まっている。彼らは1日2食の食生活に慣れきっているから、脂肪をケトン体などに変換する機能を十二分に持ち備えており、これが筋肉のエネルギー源となり、力が最大限に出せるのである。筋肉にとってもブドウ糖よりケトン体などのほうが効率的にエネルギーが生み出せるのかもしれない。
 なお、ついでながら、心筋が求めるエネルギー源はブドウ糖ではなく、悪玉として評判の高いLDLコレステロールのみだ。これを悪玉と呼ぶのは死神以外にいないと思うのだが、たいていの日本人は、心筋に必須のLDLコレステロールを減らそうとしているが、これは心臓を飢え死にさせる道であると心得たほうがいい。

 「腹が減っては戦はできぬ」「食べてすぐ寝ると牛になる」という格言があり、食べたらすぐに働くことが当然のように思われている。これも1日3食を習慣化させる大きな要因となっている。
 この格言がどのようにして誕生したのか。
 予防医学の第一人者である小山内博氏(故人)は次のように述べておられる。
 昔は税金の一種に「庸(よう)」という役務の無償提供があった。ただ働きをさせられるのだから、「腹が減っては戦はできぬ」と食べ物を要求する。ならば、食べさせるから働けと食事を提供する。食べさせたはいいが、皆、食後は眠くなって横になろうとする。これでは困るから「食べてすぐ寝ると牛になる」と脅して働かせようとした。ということで、この格言が対になって作られたのである。この格言は、支配者と被支配者との間で、役務をする・しないの駆け引きに食べ物が使われたのであって、生理機能は完全に無視されている。
 「庸」の制度がない今日であるも、雇用主と従業員という関係が、これに類似しており、あたかもこの格言が正しいものであるかのように生き続けているのである。
 食に関して、別の格言がある。「親が死んでも食休み」というものがある。あまり知られていない格言ではあるが、葬儀の準備や何やらで大忙しであっても、食後は体を休ませねば健康を損なうというものであり、いくら仕事が忙しくても食後は十分に休憩せよ、ということだ。
(要約引用ここまで)
 この格言だけが、ヒトの生理上、正しいのであって、前の2つは間違っているのであるが、「食べてすぐ寝ると牛になる」とは誰も思ってはいないものの、それは怠け者のすることであり、イタリア人は昼食後に2時間も3時間も休憩するから他のヨーロッパ諸国より遅れた国になると軽蔑する。だが、イタリア人は、この点で非常に健康的な生活をしているのであり、これを卑下することがはたしてできようか。イタリア人より少しばかり余計に働いて銭を稼いで、胃腸を患って治療費を使うことが褒められたことか、大きな疑問である。
 こうして、日本人には食べたら働けという「庸」の習慣が今日でも生きている上に、食べないと口が寂しくなるという卑しさが加わり、「腹が減っては戦はできぬ」という格言が完全に正当化されてしまっている。
 ところで、実際の戦において、戦う前に食事を取ったであろうか。否である。武士の時代は鎌倉時代に始まったが、鎌倉武士は出陣にあたって、梅干を食べただけである。梅干の主成分であるクエン酸が血液をサラサラにし、全身への酸素供給をスムーズにする。加えて、クエン酸は細胞内小器官ミトコンドリアにおけるエネルギー産生回路を円滑に回し、戦においてパワーが出るのである。
 この時期から、生活の知恵として梅干の効能をよく知っていたのである。これは、江戸時代まで続いた。大名は、必ず広大な梅林を城の近くに設けて梅の実を収穫し、兵糧として梅干を蓄えたのである。全国各地にある梅林はその名残である。
 現在でも、闘いの前には食事を全く取らない者が何人かいる。だいぶ昔のことになるが昭和30年代に活躍したプロレスラーの力道山は試合の前日は何も食べなかったというし、最近ではスピードスケートの金メダリスト清水宏保選手も、お腹を空っぽの状態にして試合に臨んでいた。2人とも持久力なり瞬発力なりを最大限に発揮させるためには、空腹状態でないとダメなことを知っていたのである。

第6節 グルメ文化最高潮の日本
 「腹が減っては戦はできぬ」の逆をいく、優れた健康法である、こうした事実はなかなか報道されない。
 ここのところ、やたらと報道されているのは、大リーガーとなった松井秀喜選手が、1日3食に加えて試合前におにぎりを2個食べて、それで好成績を収めているという話である。彼はゴジラとあだ名されるほどだから、胃袋もとびっきり丈夫であろうから、それでも健康を害することがないのかもしれない。
 健康を維持するためには、少なくとも1日3食きちんと食べなさいという広報宣伝を、政府とマスコミが一体となって繰り広げているのが現状である。資本主義経済の下では必ずこうなってしまう。
 何でもいいから需要を生み出すことが資本主義経済の最大の関心ごとであり、大量消費社会を作ることに専念する。人の健康など、どうでもいいのであり、朝食産業や昼食産業が儲かればいいのである。間食として、おにぎりを食べて米の消費が進めば、農水省の思う壺でもある。
 人間の口の卑しさに付け込めば、食糧消費は必ず拡大する。そして、過食により健康を害し、その結果として医療産業や健康産業までもが必ず儲かる。食に銭を使うあまりに医療・健康にも銭を使わざるを得なくなる。これによって、銭の流動が拡大に拡大を続け、経済は膨張し、経済は繁栄する。経済もまた生き物であり、人間の欲に付け込む恐ろしい魔物であり、最も進化した魔物が資本主義経済である。今や資本主義経済という魔物は、国家をも支配してしまい、国境という壁も溶かしてしまった。グローバル社会への変貌である。
 資本主義経済は今や恐ろしく急成長し、物質文明を極度に高めるに至り、先進国ではついにエンゲル係数という言葉を死語にしてしまった。実質上の食費(贅沢は除く)は生活費のわずかなウエイトしか占めなくなったのである。日本人であれば、いかに貧乏していても、塩、胡椒、砂糖、醤油、ソース、グルタミン酸ソーダなどの調味料は極めて廉価で手に入り、安くてまずい食材もこれらによる味付けにより、美味なるものへ変身させられるからである。安さを売り物とする外食産業は、皆、調味料を多用する、こうしたやり方だ。
 金銭的余裕から、高級料理を食べたいという欲望も当然にして生まれ、テレビの各チャンネルで食べ歩き旅やグルメ番組を盛んに放映するようになった。海の幸、山の幸などなど、いかにもおいしそうなものを次から次へと登場させて消費を煽るから、日本人皆がグルメ志向となる。
 日本人は、世界でもまれにみる豊かな自然環境の生態系のなかに住んでいる。様々な生物が野にも山にも川にも海にも豊富に存在し、四季折々にその恵みを得ることができる。加えて、南北に細長い島であり、寒暖の差による生態系の違いが、より生物種を豊富にしているから、これほどの美食天国は世界に例がない。和食だけでも十分すぎるほどに堪能できるのである。加えて、世界中から美味なる食材がいくらでも入ってくるのだから、極楽三昧の毎日となる。こうして、日本人の食文化の高まりは、とことん行きつくところまで到達してしまっているのではなかろうか。
 残された唯一の道は、古代ローマ市民のようにご馳走を食べてからそれをいったん吐き出し、また別のご馳走を賞味してみるという、極限状態に至った口の卑しさを満足させる食文化を味わうことだが、こんなことができるのは、食べ物を単に栄養としか捉えない西洋文化だからできることであって、食べ物を天の恵み、地の恵みと捉える日本人の文化観からして、こんなもったいないことには大きな抵抗感があり、決して誰もしない。
 最高潮に上り詰めた日本人の食文化に対し、小生もグルメの誘惑にはなかなか勝てないでいる。飽食に慣れ親しみ、美食文化にどっぷり漬かりきってきたツケは、あまりに大きい。断食すると、無性に口が寂しくなるのは、そのせいであろう。つまり、口が卑しくなるのである。断食の夜には、何か仕事を作って、眠くてしょうがない状態になるまで夜鍋仕事(といっても、決して鍋をつつくことはしないが)に没頭でもしないことには、それから逃れることは決してできない。
 何も断食までしなくても十分に相対的に健康であると思っている小生は、こんなつらい思いまでして何になる、と考えるようになってしまった。十数回にわたる1日断食の臨床実験で、けっこうな成果は得られたであろうからと妥協し、最近は女房ともども断食から逃避している。
 食欲煩悩があまりにも研ぎ澄まされてしまって、情けないことに、もはやどうしようもない状態に自分が陥ってしまっていると思うのであるが、我々日本人は皆、そうなのではなかろうか。

つづき → 第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

2020年11月15日 | 食の進化論

食の進化論 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

第1節 先人はなぜ滅亡したか
 人類の祖先種は次々と生まれては消え、消えては生まれるという繰返しをしてきている。わりと最近の旧人や新人でさえ、どこからともなく現れ、いつしか消えていく。現生人類であるヨーロッパのクロマニヨン人も滅亡したようであり、今のヨーロッパ人は、後から進出してきた別のサピエンス人と考える学者も多い。
 哺乳類の進化というものは、わりと詳しくわかっているウマの進化の系統樹のごとく、そうしたものだと言ってしまえばそうであるが、ウマの系統樹は5200万年であるのに対し、人の系統樹はその1桁下だ。過去の人はあまりにも次々と早く消えすぎている。人の最長不倒はジャワ原人の170万年(180万年の化石が最古で、10万年前の化石が最新)で、他は長くてせいぜい数十万年どまりのようである。
 後から来た種族が侵略者となり、先人を滅亡させたような証拠はなく、また、当時はそれほどに人口密度が高かったわけではないから、今日の民族間紛争のような相互殺戮はあり得なかったに違いない。逆に、新旧共存の証拠が多い。
 現在の人種の差以上に違う亜種または別種と考えられるから、簡単には同化せず、また混血できなかった可能性もある。したがって、お互いに住み分けながら時には接触するという暮らしをしていたことであろう。
 そうしたなかで、前から住んでいた先人が(逆の場合もあろうが)、何らかの原因で人口を急激に減らして自然消滅したと考えてよかろう。小生は、その原因を次のように考える。
 後からやってきた者たちが病原菌やウイルスを運んできて、接触した機会に先人たちは、それに対する免疫力がなくて、多くの者が一気に死滅したのではないかと。
 病原菌やウイルスは特定の目(霊長類とか猫類とか)に取り付くものが多い。ものによっては、もっと限定された動物種に取りついている場合もある。これが、新旧の種間が接触した場合に相手方に感染し、大ダメージを与えることがある。その一番の例が、スペイン人のアメリカ大陸侵略のときであり、ヨーロッパ人の体内に潜んでいた病原菌やウイルスがまき散らされて感染し、原住民は殺される前に大半が病死した。近代の例では、エスキモーが欧米人との接触からインフルエンザで9割が死んだ集団がある。
 アフリカから長距離移動でやってきた人集団がヨーロッパやアジアに入っていったとき、こうしたことが起きたのではなかろうか。もっとも、先人は全滅はしかかったであろう。わずかな人数は残り得る。しかし、もともと希薄な人口密度であったろうから、少人数で陸の孤島と化し、同族の仲間とは接触できなくなり、その結果、近親相姦が進み、子孫がどれだけも残せなくなる。また、近親相姦が繰り返されると、体型が先祖返りすることが多く、数多く発見されているネアンデルタール人の末期の化石がそれを指し示している。そして、人口は減りに減り、ついに一人もいなくなる。ネアンデルタール人はこうして姿を消したと考えられるのである。
 先に引き合いに出した最も長期間生き長らえたジャワ原人も、10万年前にアフリカからジャワにたどり着いたサピエンス人との接触から、ネアンデルタール人と同様にして姿を消したのではなかろうか。(サピエンス人の到来は通説では7万年前と言われるから、若干の時間差はあるが)
 歴史時代になって以降、人の間で新種の病原菌やウイルス感染が大きく広まり、人はバタバタ死ぬことが何度もあった。家畜の場合は、鳥インフルエンザがいい例だが、鶏はバタバタ死んでも、野鳥の被害は少ない。野生動物がバタバタ死ぬ例はまずないのである。これは、野生種は免疫力が強いからであろう。
 でも、人の場合、大自然の中で伸び伸びと暮らしていた大昔の人たちは、野生種と言っていい。でも、相次いで絶滅したということは、野生種であっても免疫力が弱かったのではなかろうか。
 寒さストレスによる免疫力低下がすぐに頭に浮かぶ。しかし、人は陸生動物としては、まれにみる皮下脂肪の厚さを誇り、つい最近まで、南アメリカ最南端の寒冷地フェゴ島に住む原住民は、真冬でも素っ裸の生活をしていたというから、人は寒さに適応した動物に進化していると考えられ、これは大きな理由にはならない。
 免疫力低下の最大の原因は、人に特有の食にあったのではなかろうか。これしかないのではなかろうか。
 人の食性は、本質的にはチンパンジーやゴリラと同じである。その後、最初の代用食として芋を多食するようになり、たぶん数十万年かけて澱粉消化酵素を十分に出せるようになったであろう。その後においては芋は人にやさしい食べ物となり、この点が類人猿と異なる。
 しかし、毎日、芋ばかり食べ続けていたらどうなるか。ニューギニアの高地人がそのような食生活をしているが、皆、妊婦のようなお腹になり、特に女性に顕著で、腸にガスが溜まっているだけでなく、腸内残留物も溜め込んでいるようでもある。現地人はずっとそうした食生活に慣れているから平気であろうが、日本人が急にこの食生活に入ると、3日目にはダウンすると、朝日新聞調査隊の本多勝一氏が言っておられる。
 お腹が張るというのは、とても健康体とは思えず、極端に芋に偏食した場合は、代用食の不適正さが顔を覗かすと考えてよいかもしれない。しかしながら、次節で紹介するが、彼らの「イモぢから」には驚かせれるから、すでに順応しているのかもしれない。

第2節 動物食の弊害
 人の食性の最大の特徴は、動物食を始めたこととと、食べ物の火食を始めたことの2つである。
 これは、類人猿にない食性である。もっとも、チンパンジーは狩りをして動物を食べ、ゴリラもチンパンジーもアリ食いを行うが、食べるといっても、動物狩りは月に1回程度であり、アリは食べたうちに入らない程度の量にしかならないし、アリは飲み込むだけだから大半が未消化のまま排泄される。
 人の場合、動物食がチンパンジーより少ないケースも多々あるが、おおかたは圧倒的に勝る。
 この動物食について、まず考察してみよう。
 動物食は体をうんと温め、寒さをしのぐには、まことに都合がいい。体を温める食品の代表格であり、風邪を引いたら卵酒というのも当たっている。もっとも、酒は体表面の血行を良くし過ぎて、体熱を放散するので、ほどほどにしなければならないが。
 動物の肉は蛋白質の塊と言え、これを摂取すると筋肉が増強され、骨もその2割が蛋白質であるから背も伸びて、男にとっては見た目の体型が良くなることは確かであり、女性を引き付けるのに好都合である。肉食が絶賛されるのは、唯一これだけであろう。
 もっとも、ヒトの体は筋肉に限らず、全体が蛋白質でできていると言っていいほどに蛋白質が最重要なものである。蛋白質は各種のアミノ酸から合成されるものであり、蛋白質を摂取すると胃と腸で消化され、アミノ酸に近い形に分解されて吸収され、体内でアミノ酸にまで分解される。体内で合成できるアミノ酸もあるが、それが不可能なアミノ酸が20種類あり、これを必須アミノ酸と言うのだが、この必須アミノ酸を摂取しないことには体に必要な蛋白質を合成できないし、植物性食品だけでは不十分になりがちな必須アミノ酸があり、肉でその不足分を賄わなければならない、と通常言われている。
 たしかに肉を食べるのが手っ取り早く必須アミノ酸を手に入れる方法ではあるが、動物性食品を全く摂らない民族が健康に暮らしているということは、肉を摂らなくても必須アミノ酸が足りている証拠でもある。
 生き物は新陳代謝を繰り返しており、つまり、体内の細胞は、若いときであればそのほとんどが3か月もあればすべて作り直される。そのとき蛋白質は分解されてエネルギー源になるものも多いであろうが、アミノ酸に戻されるものもでてくるであろう。これを再利用すればいいのである。(ブログ版追記 このシステムを解明されたのが2016年ノーベル生理学・医学賞を受賞された大隅良典氏のオートファジーである。)
 こうしたリサイクルシステムは全ての動物にあるはずであり、これを円滑に働かせることは何も難しいことではない。食糧から得られる必須アミノ酸が常時不足していれば、このシステムはフル稼働する。逆に、必須アミノ酸が摂取する蛋白質から常時賄われ続けていると、このリサイクルシステムがさび付いて働かなくなるだろう。こうした状態において、毎日たっぷりと肉食していた者が完全な植物食に切り替えると、必須アミノ酸不足になり、必要な蛋白質合成ができず、様々な障害を引き起こす。だから、毎日蛋白質を補給せよと言われるのだ
が、それは肉食傾向にある者に対してだけのことである。
 室町時代から江戸時代の初めにかけて、また、幕末から明治時代の初期に日本を訪れた欧米人の本国への通信文には、いずれも日本人の類まれなる健康と持続力そして馬鹿力に驚きをあらわにしており、雑穀と芋に野菜、時々少々の魚の干物という粗食で、どうしてこうなるのか不思議がっている。
 なかには人力車と馬とどちらが速いか江戸から日光まで競争させ、人力車が買ったことに驚愕し、その人力車夫に肉を食わせればもっと速く走るだろうと実験したら、人力車夫が、これでは力が出ないから肉はもう止めにしてくれと言ったという記事もある。
 これは昔の日本人に特有なものではない。今日でも、ニューギニアの高地人は毎日ほとんど芋しか食わないが、30kgもの荷物を担いでいても小走りするように山道を登っていき、何時間も走り続け、その間に全く休憩を取らなくてもケロッとしているそうだ。何と恐るべき「イモぢから」。空身であっても彼らに着いていくのがやっとであった、と朝日新聞調査隊の本多勝一氏がおっしゃっている。
 こうしたことは、なにも文明の遅れている地域に限らない。最近のアメリカでも当てはまる。1993年46歳で大リーガーを引退したノーラン・ライアン投手は、引退の年でも160キロ近い剛速球を投げた。彼の栄養指導者が肉と油脂を大幅に制限しつつ、肉食によって失われがちなミネラルを計画的に摂取させて選手寿命を長持ちさせたのである。このように分子生物学者・山田豊文氏がおっしゃっている。
 以上の例からも、肉を食べないほうがいかに健康を向上させ、持久力や瞬発力を付けてくれるかがお分かりいただけよう。
 しかし、人は植物性食品の極端な不足を補うために、動物性食品を代替食糧としてきた歴史を持つ。通説では、その歴史は古く、人類発生のときからというもので、これが支配的である。今日、西欧でも特に肉食中心のゲルマン人の胃袋は体付きと同様に頑丈であり、日本人の胃袋の3倍の厚みがあるという調査報告もある。当然に蛋白質消化酵素の出も日本人よりうんといい。それでも、彼らは生活習慣病にずっと苦しんできた歴史を持つ。今日の人類で肉を多食する民族は欧米人をはじめ数多いが、皆同様に苦しんでいる。動物を丸ごと食べず、筋肉の部位だけを食べるからミネラル不足にもなり、なおさら体を害する。
 人にとって、動物食は、まだ
代用食の域にあり、動物食であっても健康体を維持できるようになるには、この先少なくとも百万年単位の時の経過を要するであろうし、1千万年経っても困難かもしれない。なぜならば、霊長類わけても類人猿は雑食性から植食性に純化する方向へ何千万年か前に進化を果たしたと思われ、もはや逆戻りは不可能に近いと思われるからである。

第3節 蛋白質過剰摂取の毒性
①光化学スモッグの体内発生
 蛋白質の過剰摂取は、第一に次の問題を生ずる。
 蛋白質はヒトの栄養素のなかで唯一の窒素を多量に含有する化合物であり、いずれ体内で燃やされてエネルギーに変換されると同時に猛毒の窒素化合物を発生させる。光化学スモッグの主成分の窒素酸化物と同質である。なお、卵の黄身は硫黄を多く含んでおり、これも最後には猛毒の硫黄化合物となり、光化学スモッグのもう一つの主成分と同質である。
 こうしたことから、蛋白質の過剰摂取は筋肉に炎症を起こし、スポーツ選手の選手寿命を短くすると、前述の山田豊文氏がおっしゃっているし、ノーラン・ライアン投手の選手寿命が長かったのは、食事療法が良かったからである。蛋白質のエネルギー化に伴って生ずる猛毒の窒素化合物は、肝臓や腎臓で比較的害の少ない尿酸などに作り替えられるが、瞬時に完璧にとはまいらず、全身の細胞や臓器にかかる負担は大きいし、血管に傷を付けて動脈硬化の原因ともなる。そして、尿酸そのものが痛風を発症する原因物質だ。
 ニホンザルなどはかなりの昆虫食をしているので、蛋白質の摂取は多くなり、尿酸の生成も多い。そのため、そうした食性の霊長類は尿酸酸化酵素を持っており、血中の尿酸量が高くなることはない。それに対して、低蛋白食を長く続けたヒトそして類人猿は、尿酸の発生が少なく、薄ければ何ら害がないので、あえて尿酸を酸化させる必要がなくなり、その酵素が退化して機能しなくなり、尿酸は尿中へ排出するだけとなった。
 この尿酸酸化酵素は、実は優れものなのである。これを十分に働かせている肉食動物などは、尿酸をアラントインという物質に変換する。この物質は、人間用の医薬品や化粧品の有効成分として配合されることが多い。皮膚の保湿、消炎作用が高いほか、新しい正常な皮膚組織の再生を助長する働きを持っており、皮膚の傷を速やかに修復する効果がある。よって、痔の薬に必ずと言っていいほど配合されているし、唇の荒れ、歯肉炎、髭剃り後の医薬品や化粧品に配合されることが多い。
 動物たちが行う狩猟に怪我は付き物であり、肉食動物は生傷が絶えないであろう。彼らはその治療薬を体内合成しているのである。彼らは、猛毒の窒素化合物を最終的には有益な物質に変換するという離れ業をやってのけるのである。それに対して、尿酸酸化酵素を失ったヒトをそして類人猿は、皮膚の怪我を治療する有効な方法の一つを捨ててしまったのである。狩猟を止めて(昆虫を食うことも含めて)植食性に純化したことと、尿酸酸化酵素の喪失は、セットになった生態変化なのである。
 これとよく似た逆の例として、多くの霊長類のビタミンC合成酵素の喪失が挙げられる。これは、植物性のものを多く食べるようになって、毎日十分なビタミンCが食べ物から供給され、これを体内合成する必要がなくなって、その結果、その酵素を失ったのである。
 尿酸酸化酵素とビタミンC合成酵素の喪失は、霊長類の食性変化の長い歴史のなかで、原猿類の昆虫食から、順次植物食を取り入れ、多くの霊長類が植食性に純化した結果、用不用の法則が働いたのである。一度失ったこの機能は、もはや復活させることは不可能であると言っていい。
 肉食動物とて、動物食に適合できる十分な生理機能を獲得しているとは言い難い。それを補完するのは、断食である。肉食動物は、腹が空かないかぎり狩猟を行おうとはしない。どの肉食動物も、そう易々と獲物が手に入るものではなく、よって、何日も獲物にありつけずに、したくもない断食を度々経験せざるを得ない。
 断食は優れものである。断食することによって、体中の有害物質を排出させ、あらゆる臓器や器官をオーバーホールし、リフレッシュさせ、全身の細胞をよみがえらせるという絶大な効果を生み出すのである。こうして肉食動物は、絶えず断食を繰り返し、健康体を維持していると言えよう。ちなみに、野生のライオンは1週間に1食が普通だというし、動物園では週に1日断食させると言う。
 肉食傾向にある現代人にあっても、断食の効果は抜群と言われる。なにも野生肉食動物のような長期断食でなく、動物園のライオンのように週に1日の断食でもけっこうな効果があるようだ。

②肉食によるミネラル不足
 2番目に、蛋白質の過剰摂取はミネラル不足を引き起こす。蛋白質が分解されて生ずる窒素化合物は、体内のミネラルを尿といっしょに排出させ、恒常的なミネラル不足に陥らせる。
 生命活動の基本となる化学合成・分解は、各種酵素が受け持っており、酵素の核となる元素がミネラルであり、ミネラル欠乏は命取りとなる。鉄分不足は貧血を起こして酸素供給が不十分となるし、微量ミネラルの亜鉛不足は新陳代謝を遅らせるし、亜鉛とセレン不足は免疫力を大きく低下させることなどが分かっている。
 動物性食品を口にしようとするならば、筋肉にはほとんどミネラルがないから、ミネラルを多く含む内臓を食べ、鉄分が多い血をすすり、カルシウムが多い骨までかじらねばならないのである。肉食動物が獲物を捕獲したとき、真っ先に内臓から食べることがよく知られており、骨もどれだけか食べる。彼らの体はそれを要求しているからである。そして、肉食動物の腎臓は、ヒトよりもミネラルを逃がさない機能に優れていると思われるのであるが、それでもミネラルの多い部分を好んで食べ、さらに、塩分の多い土を見つければ、その土をなめる。
 動物の筋肉だけを好んで食べる先進国の現在の食文化は、ここに大きな問題があり、恒常的なミネラル不足をきたす。加えて、塩は湿気を吸わないように各種ミネラルを取り去った精製塩つまり塩化ナトリウムの単体が使いやすいから、これが多用されて、ミネラル不足に拍車をかける。
 なお、塩に関して付言しておくが、食品加工においては、雑菌による腐敗防止のために塩化ナトリウム単体が多用される。ミネラルがなければ雑菌も生きていけないからである。ミネラルを多く含んだ粗製塩を使うと腐りやすい。また、外食産業では、各種ミネラルが含まれないほうがすっきりとした味が出せ、塩化ナトリウム単体が重宝される。なんといっても、こちらのほうが安価であるから、それを使うことになる。
 ついでに、加工食品に使われる食品添加物についても、ここで言っておこう。経済もまた生き物であり、自己増殖する。人の味覚の嗜好に合いさえすれば、どんなことでもする。ミネラル不足になろうが、そんなことは知っちゃあいないし、毒を盛ることも平気でするのであり、人の健康などどうでもいいのである。食品添加物がいい例だ。その規制はあることはあるが、それは経済という生き物が作った物差しであり、一添加物単体での急性毒性を防げる安全値以内としているだけで、怖いのは慢性毒性であるが、そんなことは知ったことではない。そして、慢性毒性は、幾つかの添加物が複合して起こすことが多いようであり、犯人を特定できないから質が悪い。こうして、食品添加物は、野放し状態になっているのが現状である。

③肉食による腸内環境の悪化
 蛋白質の過剰摂取は3番目に腸内環境の悪化を招く。
 豆類や穀類にも蛋白質が含まれるが、炭水化物や脂肪そして食物繊維と混ざり合っており、咀嚼すれば微細になり、その蛋白質は胃と腸で完全に消化吸収される。魚肉は蛋白質の塊と言ってよいが、筋肉が層状になっていて簡単にばらばらになり、適量であればこれも完全に消化吸収される。それに対して、哺乳類や鳥類の肉は筋肉繊維結合が強く、その塊を微細にすることは難しく、未消化の蛋白質が大腸に入りやすくなる。
 ヒトの腸内には百兆個の腸内細菌(重量は1.5kg)が生息することによって健全に保たれているが、大腸に蛋白質が入ると、その生息環境が一気に悪化し、善玉菌が減少し、悪玉菌が増殖する。すると、ミネラル吸収が阻害されるし、ヒトに有用なビタミン類や各種有機酸の生産が落ちるばかりでなく、ヒトの免疫力を落としてしまう。ヒトの免疫の源は、腸内細菌の活動によって生み出される面が大きいからだ。
 肉食によって便秘するほどに腸内環境が悪化すると、大腸内の蛋白質が腐敗し、毒液や毒ガスが発生し、それが血液を通して全身を回り、健康を害する。加えて、腸が荒らされて、腸壁からの微生物の体内侵入を許し、ますます免疫力をなくさせるし、これは近年増えてきた難病の原因となる。
 なお、住みついている腸内細菌は5百種類とも言われ、宿主の種によって種類が異なり、また、個体によっての違いもあって、これは誕生後まもなくしてそれぞれの個体ごとに固定されてしまい、容易には変わらない。よって、整腸剤のなかには、腸まで届く生菌を謳い文句とするものがあるが、生菌はよそ者として排除され、住みついている腸内細菌によって全て殺され食べられてしまう。もっとも、住みついている腸内細菌にとって、生菌にしろ死菌にしろ、これは彼らの活力剤となり、腸内環境の改善に大いに役立つ。
 こうした宿主と腸内細菌の関係から、エスキモーなど肉食に特化した食生活を長年続けている人種は別として、雑食性の人種わけても肉をあまり食べない人種ほど、限度を超えて肉(特に哺乳類)を食べるとなると、その未消化物によって、たいへん深刻な問題が起きるのである。
 こうした腸内環境の悪化の対応策として編みだされたのが、発酵食品である。発酵食品には、発酵菌とその生成物が多量に含まれている。発酵菌と腸内細菌は類似の細菌であり、腸内細菌は生息場所がヒトの腸内というだけのことであり、腸内細菌はヒトが消化できない食物繊維などを発酵させて、幾種類もの生成物を作り、それがヒトにも有用なものとなっている。
 発酵食品を摂ると、生きた発酵菌が含まれていれば、それは胃酸で死滅し、その生成物のうち酵素などは胃酸で変性して活性を失うが、腸に入ってから発酵生成物が吸収されて、ヒトの生命維持に役立つのみならず、悪玉菌の増殖を抑える効果もあるようだ。死滅した発酵菌は、これが腸内善玉菌のかっこうな餌となり、腸内善玉菌を活性化させ、その増殖にも資するのであり、腸内環境を改善する。
 今日、発酵食品として欧米ではチーズやヨーグルト、日本では漬物や味噌そして納豆、韓国ではキムチなどが有名だが、こうしたものを積極的に摂取すれば、肉食の弊害をかなり食い止めることができよう。
 これら発酵食品がまだ開発されていなかった時代、動物食を取り入れていた先人たちは、どうやって肉食の弊害を防いでいたであろうか。それは簡単なことである。獲物とした動物の腸内残留物を糞も含めて食べれば、事足りるのである。それでも腸の具合が思わしくなければ、そこらじゅうに落ちている天然の整腸剤である動物の糞や人の大便を食べればよいのである。糞食をする動物がかなり多いのも、これを知っているからである。もっとも、先に述べたように先人たちが糞食までしたかどうかは不明だが。

④有害物質の蓄積
 人が食用にする動物は、食物連鎖の上位に位置するものが多く、有害金属が濃縮される傾向にある。特に、海生動物の場合は、太古の昔から火山噴火で吐き出された火山灰などに含まれる有害金属が少しずつ海に流れ出て順々に海水に濃縮されてきているから、より有害金属を体内に残留させている。
 加えて、古代文明以降、人類は水銀や鉛など有害金属を地上にまき散らしてきており、近年になって有毒な合成化学物質をすさまじい勢いでまき散らしにかかった。
 これら有害物質が、人が食用にする動物にも当然に蓄積されてきている。有害物質の排出は、断食に効果が大きいことは先に述べたが、これの体外への排出は、もう一つ、脱毛によって行われるところが大きい。抜け毛にはかなりの有害物質が含まれていることがそれを証明している。
 ところが、
ヒトはわずかな髪の毛だけが頼りで、解毒はどれだけも進まず、有害物質が蓄積しやすい動物だ。体毛を失くした海生動物は、脱毛の代わりに季節の変わり目にべらべらと皮がむける種が多い。彼らはこうして有害物質を排出しているのであろう。
 ヒトも、断食をすると、皮膚から盛んに有害物質を排出する。短期の断食であっても、体が臭くなるし、プツプツと小さな湿疹ができたりする。これは有害物質の排出の証である。ただし、もともとヒトは有害物質が濃縮された動物を食べていたわけではないから、脱皮するまでには至っていない。
 なお、動物が長期断食をすると、つまり、長期間にわたって獲物が得られないと、飢餓に備えて体内に備蓄していた脂肪(大半が内蔵脂肪)を燃焼させてエネルギーを発生させることになるが、幸い有害物質の蓄積は脂肪に偏在しており、このときに大量の有害物質が排出されて、クリーンな体に戻ることができる。
 そのとき、当然にしてはっきりと痩せる。アフリカのサバンナに乾季が訪れたとき、ライオンなどの猛獣は、大型の草食動物が移動し去ってもその場にとどまり、わずかな小動物で飢えをしのいでいるのは、長期断食をすることによって健康体を取り戻している、と言っても過言ではなかろう。
 ヒトは、この点でもハンディを背負っている。ヒトが長期断食しても、皮下脂肪率が一定値より下がると、それ以降はなかなか落ちず、筋肉を痩せ劣らせる方向に働き、生命を維持しようとするからである。ヒトの皮下脂肪は何のためにあるのかと言いたいほどである。近種のチンパンジーには皮下脂肪がほとんどなく、彼らが太るときは内臓脂肪として蓄えるのであり、太り方がまるで違う。人類進化の奇妙さがここにもある。

 以上、本節において「蛋白質過剰摂取の毒性」について「光化学スモッグの体内発生」「肉食によるミネラル不足」「肉食による腸内環境の悪化」「有害物質の蓄積」の4項目について概説したところだが、肉食動物とて蛋白質摂取の害を完全には克服しているとは思えず、ましてやヒトにおいては蛋白質の多食はかなりの害毒になっていると言わざるを得ない。

第4節 動物食中心の民族の知恵
 最後に、ヒトの食性から大きく逸脱した食習慣を持つ民族について考察することとしよう。
 人類は、1万年前には画期的ともいえる新たな代替食糧を開発した。それは、山羊の家畜化とともに起きた。山羊の「乳」を飲むことを覚え、その後、牛の家畜化で、乳を飲む量を大幅に増やした。
 哺乳類の乳児は、乳の主成分である乳糖を主たるエネルギー源とする。でも、離乳年齢に達すると、乳糖消化酵素の活性を失い、乳糖を消化できなくなる。人(乳児以外)は当初、乳糖が消化できなくても、乳に含まれる脂肪や蛋白質を栄養にすることができた。消化できない乳糖は、当初は下剤の役割しか持たなかったであろうが、長年飲み続けることにより、やがて腸内細菌叢が変わり、腸内環境を整えるに至る。
 これが幾世代にもわたって繰り返された結果、たぶん100世代(4千年)程度の経過で、離乳後も乳糖消化酵素の活性が失われることがなくなったのであろうし、かつ、それが遺伝するようになったのであろう。
 どういうわけで離乳年齢に達すると乳糖消化酵素の活性を失うのか不明だが、幸いにも乳糖消化酵素の封印遺伝子は、離乳後の乳の継続飲用でもって簡単に解除されたのである。これを乳糖耐性という。
 お陰で、新しい食への適応には通常百万年単位の時間がかかるのだが、乳の場合はあっという間に可能になってしまった。加えて、どんな哺乳類の乳児も、離乳初期には通常食に対する消化能力は未完成であり、消化不良などで健康を害する傾向にあるが、人の乳児が離乳する時期には家畜の乳を与えれば、好都合である。家畜の乳に含まれる乳糖以外の脂肪や蛋白質とて、通常食に比べれば消化吸収しやすい。
 現在、家畜の乳を常飲する北方系人種や乾燥地帯の遊牧民族は9割程度の人に乳糖耐性がある。このまま推移すれば、数千年もすれば100%乳糖耐性になる可能性が高いであろう。
 一方、家畜の乳を飲む習慣のない民族の乳糖耐性を有する割合は極めて低い。日本人の場合、その割合は5~10%しかない。その少数者は遊牧民族の血を引く人の可能性が高い。ところで、乳糖耐性は有りか無しかと、はっきり分かれるものではなく、アルコール耐性のようにどれだけかは分解できるというケースもあって、各種調査データにけっこうばらつきがある。よって、日本人の場合も、牛乳を飲むと完全に下痢するという乳糖耐性が丸でない人から、200ml程度ならおいしく飲めるという人が多くいたりする。
 こうして、家畜の乳は離乳後の子どもも大人にも便利な代替食糧になったのだが、想わぬ落とし穴もある。というのは、乳は乳児の急成長に極めて適したものとして作られているから、ミネラルバランスもそうなっている。乳児は骨の生長
を急がねばならず、乳にはカルシウムが突出して多い。成長が止まった成人がこれを多飲するとカルシウム摂取過剰となり、なんと骨粗鬆症を引き起こすのである。骨にはカルシウムの他にマグネシウムもどれだけか貯蔵されている。カルシウムとマグネシウムは対になって生体の生理機能を担っており、カルシウム過剰で体液中のそのバランスが崩れると、骨を溶かしてマグネシウムを体液中に放出せざるを得なくなるのであり、余分なカルシウムは血管などへ沈着させ、別の疾患まで誘発するのである。世界で最も牛乳を消費するノルウェー人に骨粗鬆症が非常に多いのは、これが原因しているのではないかと言われる。
 乳及び乳製品には、ほかにも害がある。乳糖不耐性の者がこれらを多飲すると、若年性白内障を生ずることがアメリカで判明した。乳糖が消化されないまま一部吸収されて、眼球の水晶体を濁らせるようだ。日本人の視力が世界一悪くなり、老人の白内障がずいぶん増えてきているのは、学校給食などで絶対的に不足しているとされるカルシウム補給のために、毎日牛乳を飲ませられているからであろう。
 実際にはカルシウムは戦前の摂取量で十分に足りているのに、戦後において間違った理論が横行しているから困ったものである。ちなみに、乳糖耐性、乳糖不耐性に詳しい欧米の栄養学者は、なぜに乳糖不耐性の日本人がああも牛乳を飲むのか理解に苦しむと言っている。
 こうした問題を際立たせているのは、先進国の乳牛は多量に牛乳が出るように品種改良され、本来の牛が出す天然の牛乳とは中身が大きく変わってしまった、人工牛乳とでも呼んだほうがいい代物になっているからである。一方、遊牧民の山羊や羊の牧畜は野生に近い飼育であるがため、その乳は天然ものに近く、カルシウムは相対的に少ないと思われ、問題はさほどのことはない。
かつ、乳糖もチーズやヨーグルトに加工する段階である程度分解され、これを主に摂るようにしているから、乳糖は完全に消化できよう。
 乳や乳製品に頼り過ぎる食生活で、大幅に摂取不足となるのがビタミンCである。モンゴル人は、それをお茶で補給している。モンゴル人のたびたびの南方への侵略の理由は、お茶の安定した供給ルートの確保のためであると言う学者がいるほどである。

 ところで、日本人は昔、牛乳を飲んでいたであろうか。醍醐天皇の時代に、貴族が牛乳と乳製品を諸国から貢物として献上させていたとの記録がある。貴族の美食文化の一つであったが、その後すたれた。
 幕末に興味深い逸話が残っているので、それを紹介しよう。
 アメリカが下田に領事館を置き、初代領事のタウンゼント・ハリスが幕府に牛乳の提供を申し出たが、幕府は「牛は農耕、運搬のためにのみ飼い置いており、養殖は全くしておらず、まれには子牛が産まれるが、乳汁は全て子牛に与え成育させるがため故」と理由を説明し、「牛乳を給し候儀一切相成り難く候間、断りおよび候」と拒否している。そこでハリスは自分で搾るから牛を飼わせてくれと申し出たが、再び「一切相成り難く候間、断りおよび候」と拒否している。
 人が母乳で乳児を育てるのと同様に、牝牛も子牛を牛乳で育てる。その乳を人が飲むという行為は、生を受けたばかりの生き物を飢え死にへ至らせる“かすめ取り”以外の何物でもなく、これは鬼畜の行いと考えたのである。もっとも、その1年半後、ハリスが高熱を出して重体となり、何としても死なせてはならぬと、あれほどハリスが望んだ牛乳であるから病にどれだけか効果はあろうと、幕府は牛乳を差し入れたのである。
 幕末における、牛乳に関するこの捉え方は、食というものはどのようなものであるかの、欧米人と日本人の考え方の大きな違いによるものである。欧米人は、食というものは単なる栄養としか考えないのに対し、日本人は生き物の命をいただくという考えを持っている。動物のみならず植物に対しても、そう考えるのである。食前に「いただきます」と言い、食後に「ごちそうさまでした」と言うのは、まさにその現われである。この言葉が使われるようになったのは、明治になってどれだけか経った後に、全国的に広まったようであるが、学校または軍隊での教育なのか、どこかで自発的に起きたものが広まったのか、調べても分からなかったが、世界に誇る美しい言葉である。食べ物に投げかける、この言葉は日本にしかない。
 我々日本人は、この美しい言葉をいつまでも大事にしたいものである。なお、「もったいない」という言葉も、これと一体のものであり、これも世界に誇れる美しい言葉である。

 完全な動物食である、もう一つの食形態がある。それは極北のエスキモーであり、アザラシなどの動物しか食べない。ほとんどが蛋白質である動物の筋肉つまり肉だけを食べていたら、とっくに絶滅してしまったであろう。彼らが常食しているアザラシやクジラは皮下脂肪がことのほか厚い。肉食というより脂肪食と言ったほうが当たっている。
 陸生哺乳動物は皮下脂肪がないに等しく、筋肉も霜降りであることは決してない。一方、海生動物は体熱の放散を防ぐために皮下脂肪を極度に発達させている。昔の欧米の捕鯨は、クジラの皮下脂肪を灯明の原料にするために行われていたものであり、世界中の海に出かけ、はるか日本近海にまで来ても採算が合うほどにクジラには皮下脂肪が多い。
 脂肪は消化に骨の折れる化合物であり、相当量の脂肪消化酵素や胆汁酸が必要となるも、エスキモーたちは長年の間にそれらの高分泌能力を獲得してきているのであろう。
 ビタミンC不足の対応もうまくいっている。食べられる所は全て食べるという「一物全体の法則」にのっとり、海生動物の胃腸に残っている半消化物の海藻までを食べることによって、これを解決しているのである。表面的には完全な動物食であっても、実質は雑食である。こうして、極北のエスキモーは何万年か同じ食生活をし、生き長らえてきている。
 エスキモーの食は、モンゴルなどの遊牧民以上に蛋白質と脂肪を過剰摂取しているが、大きく健康を害することはない。その秘訣は、しばしば断食をしているからである。好んで断食するわけではないが、彼らが獲物にするのは大型の哺乳動物であり、恒常的に獲物が得られるわけではない。幾日も獲物にありつけないことが度々あり、その間、断食せざるを得ない。
 極北の地の利を生かして獲物が多いときには大量に捕獲して冷凍保存すれば飢えずに済むのであるが、彼らはそうしようとはしない。本能的に肉食動物と同じように、繰り返し断食をしなけれな健康体を維持することができないと感じ取っているのであろう。特に、獲物の脂肪には、食物連鎖によって有害物質が濃縮して蓄積されているから、断食は必須である。
 その彼らも現代に至っては先進国の同化政策が進み、船外機付きのボートと猟銃によって狩りはいたって容易となり、断食をしなくなったようである。もっとも、同化政策によって定住し、野菜や果物を毎日食べるなど、食生活が様変わりし、肥満が増え、先進国同様の生活習慣病が蔓延するようになった。

第5節 火食の弊害
 次に、火食について検討してみよう。
 「生き物は生き物によって生かされている」と、よく言われる。これは、食べ物を大事にしろという訓示ではあるが、別の捉え方もできる。殺した動物も生(なま)であれば個々の細胞はまだ生きているし、植物は切り刻んでもその断片組織はかなり長く生き生きとしている。生きているそれらをそのまま生で食べよ、というふうに捉えてもよかろう。
 なお、生のものを放置しておくと、その生き物と共生していた細菌群がその生き物を分解し始め、分解生成物や合成化合物を作る。一般的には、空気中に浮遊している雑菌が加わり、腐敗ということになってしまうが、雑菌が入らずに分解生成が始まり、これが有用なものになれば、通常それを発酵という。発酵による生成物とその細菌群もまた生である。
 生のままで食うのと、火を通したものとでは、根本的に違いが生ずる。食べ物は胃酸によって変性するものがけっこうあるが、火を通すと炭水化物や蛋白質は熱変性し、胃酸の場合と変性の仕方が違うようである。ところが、熱変性により、なかにはそのほうが消化が良くなるものがあり、また、消化の段階で最終的にブドウ糖やアミノ酸などに分解され、化学的には生のものと火を通したものとの差は全くなくなる。
 しかし、火を通した野菜ばかり食べていると体に変調をきたし、生野菜を積極的に食べるようになると健康体が取り戻せたりする。なぜ、そうなるのか、その原因はいまだ科学的には全く解明されていないが、これは明白な事実だ。
 一因として、火を通すと、生き物に含まれている様々な酵素が熱で破壊され、その機能を失うことが挙げられたりしているが、しかし酵素は胃酸でその効果をあらかた失うことが分かっており、また、その酵素は消化酵素で分解されてしまうものが多いから、これを原因とする根拠は甚だ弱いものとなってしまう。
 のちほど「水の不思議」について述べるが、ブドウ糖やアミノ酸その他の栄養素も、全て水の分子と緩い結合をして働いているはずであり、その水が高温にさらされると結合の仕方が変わったり、結合が解かれてしまって、本来の働きが十分にはできなくなってしまうのではなかろうか。
 ビタミンCがいい例だが、生野菜や果物から生で摂取した場合と、物理的化学的に全く同じ構造を持つ合成ものを摂取した場合とでは、天然もののほうが断然効き目がいいと言われる。ベータ・カロチンともなると、天然ものは大丈夫だが、合成ものを大量に摂るとかえって有害になることも判明している。これは、水分子の結合の仕方がまるで違うからではなかろうか。

 水そのものも、そうである。生水と湯冷ましは同じ水でありながら、湯冷ましばかり飲んでいると、体に変調をきたし、生水に替えると健康体が取り戻せたりすることが、これまた経験則で分かっている。
 水に含まれるミネラル化合物が熱変性して吸収されにくくなるからだと言われもするが、水に含まれるミネラルは極めてわずかであり、たとえ全く吸収されなくても通常のミネラル摂取量からすれば誤差範囲に収まるから、これはピント外れな説明だ。こちらも、その原因はいまだ科学的には全く解明されていない。
 小生の推測を述べよう。
 水の分子は、水素原子2個と酸素原子1個が結合してできているが、液体の状態においては、幾つかの水の分子が緩く結合し、さらにブドウの房状になった塊の集合体が形成されていたり、平板状に何層かの集合体が形成されたりしているとか言われている。
 その状態のところへ熱を加えるとなると、そうした緩い結合が外れたり、集合体の形状が変化したりし、体に優しい形から、体に良くない形に変化してしまうのではなかろうか。
 深層水が体に良いと言われることがある。これは、水の分子の結合の仕方や集合体の形が地表のものとは異なっているからではなかろうか。生命が誕生したのは深海の奥深くからマグマによって生じた熱水が噴き出している所であるとの説が有力である。これにしたがえば、全ての生命にとっての生まれ故郷である、深海底の高圧な状態の水の形状が、生命活動をするうえで最も適したものなのではなかろうか。
 生命活動というものは、極めて小さな一つ一つの細胞の中で、幾多の化学反応が同時に進められて成り立っているものであり、水の物理的性質が少しでも変われば、それに伴って微妙に化学反応のズレが生ずることが予想される。これが大きな原因になっているのではなかろうか。
 その深層水も、地上に汲み上げれば1気圧の状態となり、早速に飲まねば効果は薄いであろう。もっとも、塩分が濃いから、まず脱塩せねばならず、その工程で水分子の結合変化を生じて地上の水に近づいてしまう可能性が大であるから、深層水を飲んでどれだけの効果があるか、疑問視される。

 水は互いに緩い結合をして集合体を作っていることのほか、各種ミネラル・イオンとも結合して働いていたりするし、各種酵素の働きも水分子が関与しているであろうなど、水は不思議な存在だ。
 また、誰でも知っているところの、水は4℃で比重が最大となったり、固体(氷)になると大きく膨張するという、他の物質にはない不思議な挙動をすることについても、原因は未解明である。

 以上、火食に関連して幾つかの問題点を挙げたが、いずれも未知の領域にあり、我々が知り得るのは経験則からだけであり、良い面(これは少ないが)もあれば悪い面もある、という程度のことしか言えない。
 火食はまだごく最近になって人だけが取り入れたものであり、30数億年の歴史を持つ地球上の生物が初めて体験することであり、生命の誕生とその進化のなかで想定外のことであるから、生体生理上、何らかの不具合が生ずるのは必然である、ということになろうか。
(ブログ版追記:
 ここで、少々お断りしておくが、湯冷ましが決して体に悪いとは言い切れない。世界最長断食記録はインド人が行った411日間であるが、これを行った人は、毎日、生水ではなく湯冷まししか口にしていない。湯冷ましであったから、こんな離れ業ができたのかもしれないのである。)

第6節 人の代替食糧となった三大栄養素の代謝の問題点(本節はブログ版で挿入)
 ウシが栄養を確保する方法は、前胃で細菌の働きにより草を発酵(前胃発酵)してもらっているのだが、霊長類にも前胃発酵で栄養を確保している種が多く存在する。細菌の働きを利用する別の方法として、後腸発酵という方法がある。ウマがそうだが、霊長類ではゴリラがそうで、大腸や盲腸で草を発酵(後腸発酵)してもらうのである。これにより、蛋白質を合成するために必要な各種アミノ酸やエネルギー源とするための各種短鎖脂肪酸を得ているのである。
 
チンパンジーの共通の祖先から分岐したヒトは、その後、チンパンジーより体型が大きくなったが、これは大腸の発達によるものであり、ゴリラのような巨大な盲腸までは手に入れなかったものの、大腸において、けっこう後腸発酵できる能力を持っている。
 現代人においても、完全生菜食で「葉菜類・根菜類だけで、豆・芋・穀類さえ食べない」という、初期のヒトと同様な食生活に切り替えると、だんだん腸内細菌がそれに適したものに変わり、生まれ変わった腸内細菌叢(腸内フローラ)が盛んに発酵を始めてくれる。
 
こうした食生活は、難病を患った方の治療や完治後の健康維持のための食であって、一般人にはとても真似ができるものではないが、ヒト本来の食性であるからであろう、難病が見事に治癒するのである。もっとも、葉菜類・根菜類を口で咀嚼するだけでは食物繊維がどれだけも細密にはならず、腸内細菌もそれを発酵させるのに苦労するので、ミキサーで泥状に細密化して口にするという方法が取られる。

 しかし、人は幾度もの食糧難から脱するために、今まで述べてきたように、芋から澱粉を、動物食から蛋白質と脂肪を、穀類から澱粉、蛋白質、脂肪を、といった具合に、代替食糧を開発し、それを消化吸収する能力を得たところである。
 それによる問題点を今までにいくつか挙げたが、完全な消化吸収や解毒ができればそれで問題が解消するものでもない。三大栄養素(炭水化物[=澱粉]、脂肪、蛋白質)はあくまでも代替食糧の範疇にあり、消化にずいぶんとエネルギーを消耗するのであり、つまり体力を消耗するのである。
 三大栄養素の摂取で、どんな無理が掛かるかというと、これが消化のために、膨大な量の消化酵素の産生と胃腸の蠕動運動を盛んにせねばならす、これに
かなりのエネルギー量を必要とするからである。
 ヒトのエネルギー消費は、通常、基礎代謝:約60~70%、生活活動代謝:約20~30%、食事誘発性熱産生:約10%とされている。このなかで、食事誘発性熱産生とは、三大栄養素が消化されたときに発生する分解熱のことで、食後に体が温まるのはこのせいであるが、これをヒトのエネルギー消費とすることには違和感を感じる。もっとも、ヒトは体温維持のために体内熱を作り出さねばならず、食事誘発性熱産生でもってこれを充てるということにもなるが、完全な生菜食にすると後腸発酵が盛んとなり、大きな熱産生が伴うから体温維持に大きく貢献し、摂取カロリーをその分減ずることが可能となるのである。
 それはそれとして、注目すべきは基礎代謝(生命活動をする上において必要最小限のエネルギー)であり、その割合は次のようだと言われている。
 <骨格筋:22%、脂肪組織:4%、肝臓:21%、脳:20%、心臓:9%、腎臓:8%、その他:16%>
 このなかで、三大栄養素の消化・分解・再合成に必要とする代謝(エネルギー消費)は、肝臓とその他(胃、膵臓、小腸その他臓器)における過半を占めるであろうから、少なく見積もっても基礎代謝全体の30%にはなるであろう。つまり、ヒトの現代の食事(ほとんどが代替食糧で占める)では、消化酵素産生をはじめとする食物代謝のために、かなりの労力を強いられている、ということになるのである。
 食後に眠くなるのもそうであり、食後は活発に動きまわるのがおっくうになるのもそうである。加えて、たっぷりと睡眠時間を取りたくなるのもそうである。
 
難病治療で完全生採食生活を長く続け、完治後もそれをずっと続けておられる方は、体に無理の掛からないヒト本来の食性に適合した食になっているからであろう、極めて小食で済むのであり、睡眠時間も3時間ほどですっきりした目覚めが得られるのである。こうした方には、食事をしても三大栄養素の消化酵素の出番はないから、そういうことになるのではなかろうか。
 
現代の飽食時代にあっては、食欲煩悩がために美食の誘惑に勝てるわけないし、また、強固な意志でもって完全生菜食に慣れきった体に体質変換を果たしたとしても、その後に宴席などの付き合いで少しでも美食を摂ると、消化器官はビックリして消化不良を起こすし、腸内細菌叢に大打撃を与えてしまい、翌日以後の後腸発酵が著しく滞る危険性も生ずるようである。 
 なお、現代人が通常食を取る場合においても、野菜中心で肉や魚が少量であれば、けっこう後腸発酵してくれもするようである。少なくともミネラル吸収においては、後腸発酵が少しでもあれば吸収効率はアップするのであり、戦前の1日400mgのカルシウム摂取であっても全然カルシウム不足が生じなかったのは、これによるところが大きいのではないかと思われる。
 5百種類、1兆個(1.5kg)にもなる腸内細菌とヒトとの共生は、ヒトの生命維持に思いのほか重要な要因を幾つも持ち備えており、これを無視することはできない。

つづき → 第10章 美食文化の功罪

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント

食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

2020年11月08日 | 食の進化論

食の進化論 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

 動物は、その生息限度いっぱいまで数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した個体数を維持している。ある年、気候条件に恵まれれば食糧が豊富となり、普段以上に体に栄養が蓄積され、メスは妊娠しやすくなり、子育てもうまくいき、一時的に生息限度を超えた生息数となる。翌年、気象条件が悪くなれば、食糧が十分得られず、メスはやせ細って妊娠できなかったり、子が産まれても乳の出が悪くて餓死させたりして生息数を減らす。また、恒常的に食糧が乏しい地域にあっては、通常毎年出産するメスが隔年でしか出産しなくなることがある。ニホンザルにもそうした群が過去にはあった。こうして、生息数には自ずと上限が定まり、限度を超えた生息数は決して維持できない。
 人の場合、採集狩猟民は飽食することなく、質素な食生活でもあり、また、授乳期間が長くて3歳まで乳を与える所もあったりして出産間隔は4年になる場合もあり、かつ乳幼児死亡率も高く、人口はほとんど増加しないのが普通である。もっとも、近年は先進国の医療援助や食糧援助が彼らの社会にまで及び、急激な人口増加をみている所が極めて多くなってきているが。
 中期旧石器時代(約4万年前まで)は、動物一般と同様に、人社会もその人口は限度いっぱいまで生息数を増やし、どれだけかの増減を繰り返しながら安定した人口を維持していたに違いない。それが、後期旧石器時代(約4万年前から)に入ってから人社会にじわじわと人口増加が起こってきたのである。動物にはあり得ない生息数の増加、動物界唯一の例外となった人であり、それはどうしてか、そこで何を新たに食べるようになったか、それを本章において推察することとしよう。
 そして、後期旧石器時代に続く中石器時代(約2万年前から)と新石器時代(約1万年前から)さらに古代文明の発生(約6千年前)とその後についても併せて記述することとする。

第1節 後期旧石器時代の訪れ
 時代は大きく進み、最後の氷期であるビュルム氷期に入った。この氷期の中頃の約4万年前には、新人と呼ばれる現生人類のサピエンス人がアフリカから中東を経由してヨーロッパへと進出していった。彼らのことをクロマニヨン人と言う。クロマニヨン人は一段と進んだ石器を持つに至った。アフリカや中東そしてアジアにおいても同様に約4万年前から石器が急速に発達し始めるのである。
 後期旧石器時代の訪れである。世界各地で同時に石器が発達しだしたとも考えられるし、地域交流があって技術の伝搬があったとも考えられる。なお、自然環境の相違により、地域ごとに少しずつ特徴が違う石器が開発されていった。
 さて、後期旧石器時代の訪れは何を意味するか。サピエンス人が獲得した優秀なる頭脳によってもたらされた、というものでは決してない。彼らは、約20万年前ないし約15万年前にアフリカ大地溝帯で誕生したことは間違いない。彼らはヨーロッパへの進出に先立ち、約10万年前には西アジアへ、約7万年前にはアジア全域とオセアニアに進出をはたしているが、その誕生当時から約4万年前までは中期旧石器時代であり、遅々として石器の発達をみていないからである。
 それが、約4万年前に突如として石器を発達させ始めたのであり、併せて骨で作った釣針なども発明するに至る。これは、約4万年前から、どこもかもがだんだん今までのようには容易に食糧が調達できなくなったことを意味している。釣針で魚を釣るなどというやり方は、遊びなら別として、極めて生産性の悪い方法であり、これが一般化したということは、それだけ獲物が捕れなくなったことを意味していよう。
 中東や西アジアでどれだけかの人口増加があって、過疎が解消され、集団と集団との間の無人地帯が消滅していったと考えてよいであろう。この段階で、これらの地域では、狩猟対象動物の生息密度が急激に低下したに違いない。ために、草食動物がそう容易には捕れなくなり、狩猟技術の高度化で対応したのであろうし、不足分は魚を釣ることでしのぐことにしたと考えられる。また、草食動物を追う肉食動物をも、危険を冒して狩猟の対象にしていったことだろう。罠と槍の改良で対応できる。
 人はこの生息密度を解消せんとして、縁辺部のまだ過疎である地域への移動を活発に行い、瞬く間にユーラシア大陸全域にわたって進出を果たし、過疎が解消されたことであろう。
 人は、これまで自然生態系の一員として、環境を変えることなく暮らしてきたが、ついにそのバランスを崩す第一歩を踏み出してしまったのである。
 人以外の動物はその動物に固有の食糧が減少すれば必ず生息数を減らし、それが恒常化して種全体の存亡の危機となれば代替食糧を開拓するという、自然生態系の摂理に従って生きている。
 それに対して人は、代替食糧を求めるという自然の摂理にはどれだけか従ったが、人に固有のものとしてしまった動物食を従前どおり維持しようとして「神の手」(親指対向性という手の器用さ)
を使って効率よく食糧を得られる道具を作り、自らの生息数を決して減らそうとはしなかった。
 人は自然の摂理に歯向かう道を選んだのである。その第一歩が、後期旧石器時代の始まった約4万年前であり、これ以降、急速に段階的にこれを加速させていくのである。
 約4万年前にヨーロッパへ移住を開始したクロマニヨン人は、先住民のネアンデルタールが住んでいない無人地帯へ入り込んでいったであろう。 そして、先住民と新人は数千年間にわたり共存することとなった。彼らはどれだけかの交流をした痕跡があるが混血したかどうかははっきりしていないようである。(ブログ版補記:最近の遺伝子解析により、現在のヨーロッパ人及び一部のアジア人にどれだけかの混血が認められるとのことである)。その後、先住民のネアンデルタール人は約3万5千年前に忽然と姿を消してしまう。その原因は何か。歴史時代においては、寒冷化が数年も連続すれば、民族大移動が起きて、それに伴う戦争で大量殺戮が行われたが、それと同じことがこの当時にも起こったであろうか。でも、そのような痕跡は全くないし、決してそのようなことは有り得なかったであろう。ネアンデルタール人の絶滅の原因については、のちほど考察することとする。
 その後もヨーロッパでは人口が増え続け、過疎地も順次無人地帯を減らしていったであろうが、中東、西アジアを含めて、まだまだずっと後の時代まで飢餓に苦しむ事態までには至っていなかったと考えられる。もっとも、盛んに狩猟をすることになるから、動物は人を極端に恐れ、人を見たら一目散に逃げるようになって、狩猟がやりにくくなり、男の労働時間は少しずつ増えていったであろう。女子どもが中心であったであろう採集作業も時間がかかるようになったに違いない。
 そのクロマニヨン人も秋には飽食を味わった。河川にサケが遡上するからである。捕り放題、食べ放題である。北海道に住むヒグマも、捕り始めはサケを丸ごと食べるが、毎日腹いっぱい食べていると飽きがくるのか、終わりがけには卵(イクラ)しか食べなくなる。よって、クロマニヨン人もきっとそうしたであろう。
 そして、クロマニヨン人はついにとんでもない大発見をしてしまったのである。

第2節 性行為=妊娠=出産の連関を知る
 それは「性行為=妊娠=出産」の連関を知ってしまったことである。これは本能で知っていることでは決してない。性行為だけを捉えても、類人猿はそれを学習によってのみ知り得るのであり、人の場合もそうである。現に、中世キリスト教社会にあって厳しく育てられた貴族の子息が、結婚しても性行為をすることなく赤ちゃんの誕生を願っていたという事実が記録に残っている。これは例外ではなく、人は性行為の方法を教えられなければ、それを行うことは不可能なのだから。
 ましてや、性行為と出産との連関は知る由もない。動物全てがそうであるように、人もこれを知らなかったのである。何らかの方法で性行為の方法を知ったからといって、それを行なえば妊娠し、やがて出産することがどうして分かるのか。それは本能であるとの一言で説明されるが、小生は腑に落ちない。
 そもそも本能なるものがあるのか、それ自体が疑わしいし、あったとしても極めて単純な衝動的行動を取らせるだけであって、その行動が何かをもたらすかなどとは一切考えもしないのが本能であろう。
 通説では、動物のメスには優良な子孫を残したいという本能があって、そのためにはオスと性行為をせねばならないと考え、メスは精子を提供してくれるオスを吟味し、優良なオスが見つかれば、そのオスの精子をもらい受け、これで良い子孫が残せると喜ぶ、と。そんなことを動物のメスが思うわけがなかろう。
 複雄複雌群を形成するチンパンジーがいい例だが、メスは複数のオスの性を受け入れるのが一般的であるし、ゲラダヒヒのようにオスが群を乗っとる
単雄複雌群であればメスに選択権はない。メスがオスを選択できるのは、基本的に1雄1雌のペアで子育てをせねばならない鳥類などに限られる。
 メスにはそんな本能はないが、オスにはあるという見解もあろう。オスには自分の子孫を多く残したいという本能がある。よって、多くのメスと性行為をして自分の精子をメスに渡さんとして、オス同士で熾烈な闘いをせねばならない。これがオスの宿命である、と。こんなことをはたして動物のオスが思うであろうか。
 オスというものは、メスが発情期を迎え、フェロモンをまき散らしにかかると、射精時のオルガスムスを味わいたいがために、狂ったようにメスを求め、他のオスを排除しようとするだけのことである。
 類人猿のなかには発情期がはっきりしないボノボの例(常時発情と言っていい)があるが、人は女性が全く発情しなくなってしまった、非常に珍しい種である。また、女性は性行為をしてもオルガスムスをまず味わえない。加えて、人社会は、古代文明の頃からと思われるが、多くの鳥類のごとき1雄1雌のペア社会に変化した。人は、そういう極めて特殊な種であるし、太古の昔から一夫一婦の家族で暮らしていたという大きな誤解があるから、優良な子孫を残したいという本能があるなどと錯覚しているだけである。
 動物一般にメスに発情期があり、オスがそのフェロモン匂に惹かれてメスに接近し、オス・メス両性ともに性行為によってオルガスムスを味わおうとして狂う。そして両性に瞬間的に大いなる快楽が与えられて、しばし至福の時を過ごす。性行為とは、ただそれだけのことであり、ただそれだけで完結する。
 一方、出産という現象については、メスの体が大人に成熟すれば、自動的に出産というものが始まり、メスの一生が終わるまで、これが定期的に繰り返される、ただそれだけのことだ、と動物は思うのである。
 性行為と出産との間に連関があるなどとは、露とも思っていないのが動物である。そう断言できる。

 さて、イクラを食べたクロマニヨン人は、その連関をどうやって知ることができたかを考えてみよう。
 サケを捕らまえてイクラだけを食べようとするとき、半分は外れで白子しか腹に持っていない。彼らはイクラを食べ続けることにより、すでにサケは人と同様にオスとメスの両方がいることを知っていた。メスが産卵するやいなや、そのメスを追い回していた何匹かのオスたちが一斉に白子を放出する。そのとき、両性ともに体を震わせ、口をあんぐりと大きく開ける。
 この時代の人社会は、複雄複雌群(それも男どもが他の複数の群の女たちの所へ集団で出かけていく通婚)であったことに間違いないから、サケが自分たちとよく似た行動を取っているなと思ったであろう。違いは、サケが水中に射精することと、性行動と同時に産卵することである。
 これを幾度も観察していた好奇心旺盛な若者、人類史上で最も偉大なる無名の生物学者がついに登場する。彼は、その好奇心のあまり、白子なしでイクラが孵化するかどうかの実験を開始するのである。サケを何匹か捕らえてきて腹を裂き、イクラを取り出し、サケが遡上しない谷川の石に付着させる。対比実験として、その下流に白子をかけたイクラを同様に処置する。そして、孵化するかどうか観察するのである。
 何日か後、彼は歓声を上げる。分かった! 我々男どもは女に言い寄り、性交し射精する。それは単なる快楽だけではなかったのだ。その行為により、女は妊娠し、そして出産するのだ、と。
 動物のなかで「性行為=妊娠=出産」の連関を知っているのは人だけであり、それも、この時点で初めて知ったことであろう。後期旧石器時代に入ったところでの、イクラを好んで食べ始めるようになったであろうクロマニヨン人が、初めてそれを発見したと、小生は思うのである。サケが群をなして大量に遡上し、白子で白濁した川を見ないことには、こんなことはとても思いつかないであろうから。
 

第3節 第二文化大革命の嵐 
 この史上最大の大発見により、人社会は従前の通婚式複雄複雌群の婚姻形式を急激に変えてしまうような「第二文化大革命」の嵐に遭遇することになったに違いない。男は「夫」となり、「妻」と「息子や娘」を持つという、新たな概念を生み出させ、今まで考えもしなかった意識を芽生えさせたのである。それは、男どもに「父性愛」という観念を持たせたことである。この父性愛は類人猿にはなく、この大発見以前の人にもなかった。
 これによって、男どものこころに「自分の生まれ変わりを作りたい」という欲望を芽生えさせ、それまでは抑えられていたであろう、チンパンジーに顕著にみられる特定のメスの独占を巡るオス間の闘いやオスの順位付けという動物の本性があらわになろうとしたことであろう。そして、特定の女とその子どもの囲い込みをしたいと思うようになったことであろう。
 男どもが、その欲望のままに突き進めば、早々に家族の発生であり、これは今まで営々として築き上げてきた平穏な人社会をぶち壊す由々しき事態の発生である。しかし、こうした「第二文化大革命」は一瞬の嵐として収まり、従前どおりの平穏な社会を取り戻したに違いない。
 ここまで、一方的に男の立場から物を言ってきたが、この「第二文化大革命」の嵐は、実は女たちから巻き起こったものと考察される。それを静めたのが、男どもが新たに作り出した精神でもある「平等」思想ではなかったかと小生には思われるのである。この経緯については、かなり長くなるので、別立てブログの「人類の誕生と犬歯の退化 第5幕 ヒトから人へ」を
ご覧いただくこととして、話を先に進めることとする。
 男どものこころに、まだ「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が十分に残っており、この難局を乗り切るために、男どもは「平等」思想を新たに醸成することに成功したことであろう。人が科学して知った「性行為=妊娠=出産」の連関から生ずるところの男の欲望を抑え得る倫理観は「平等」思想以外にないからである。
 「愛」と「平等」は相反する観念であるが、男どもはこれを両立させることによって、不安定要素を抱えながらも、人社会を平和的に維持し続けたことであろう。なお、そうできたのは、まだこの時代には「私有財産」という観念が男どもには全然生じていなかったからである。マルクスの遺稿を元にしてエンゲルスが晩年に書き上げた名著「家族・私有財産・国家の起源」における原始社会の考察からして、これは間違いないことである。
 ここで、少々エンゲルスに物申しておきたい。この3つの発生の順番が違うのである。本来は「私有財産・家族・国家の起源」でなければならない。順番が違っては誤解を生むじゃないか。
 さて、男どもが抱いてしまった「父性愛」は、思わぬ現象を引き起こす大きな原因となってしまった。というのは、これがその後における人口爆発の序章となったのである。男どもが食糧採集するなかで、そのまま口にすることができるおいしいものを発見したとき、今まではその場で自分一人で食べてしまうだけであったが、男どもが父性愛を持つに至ると、決してそうしなくなる。そのおいしいものを持ち帰り、それを一部の女子ども(はっきりと特定はできないものの、子どもの顔が自分に似ていれば、自分が蒔いた種でできたと察しが付こうというものであり、息子や娘とその母親つまり妻)に、こっそり食べさせたいという感情が湧きだしてくる。
 しかし、それは平等思想に反するからダメだとブレーキが掛かり、ために、おいしいものが見つかれば、これから訪れるその集落の皆にいきわたるよう、こまめに探し歩いて多めに収穫するようになるであろう。こうした行動は、今日の採集狩猟民のなかにいまだに残っている風習(自集落の皆への手土産)である。
 すると、今までとは違って、皆がどれだけかの過食となり、ために女は妊娠周期を短くし、どれだけかの出産数の増加を見る。増加といっても、ほんのわずかの微増にとどまろうが、これはのちほど計算例を示すが、累乗で利いてくるから、千年、万年と経過すると無視できない値となる。そして、ある程度人口が増えると、食糧不足となり、子どもたちがひもじい思いをするから、父性愛でもって男どもは狩猟や食糧採集に精を出すようになって子どもたちを飢えなくし、人口は下支えされて減ることはない。
 こうして、その後に生ずることとなる人口爆発に、この時点で黄信号を点したと考えられるのである。
 なお、クロマニヨン人のこの大発見は、周辺地域へも伝えられ、早々に全人類が知ることになったであろう。長い人類の歴史を眺めていると、どの時代も技術や文化は思いのほか速く伝搬するものである。

 話は食性と随分外れてしまったが、ヨーロッパ情勢はこれにとどめ、他の地域の状況変化も見てみよう。
 ヨーロッパよりも人の生息密度が早くから高まっていたであろう中東と、ここに気候が類似する西アジア、東アジア北部での食生活はどのようであったであろうか。この地域は、ヨーロッパに比べて降雨が少ない。森林は一部の地域にとどまり、恒常的に草原が広がる地帯が多い。
 こうした地域でも、植物性の食糧は季節的な変化はあるものの年中どれだけかは得られる。しかし、芋の自生地は少なくとも現在の中東にはないようである。初めからなかったのか、採りつくしたのか、どちらか分らないが、植物性の食糧がさほど豊かな地域ではなかった。
 生息密度が低い時代には、それでも事足りたであろう。今日のサバンナに住むチンパンジーは数十頭で構成される一集団の遊動域が数百平方キロメートルにもなることはざらにあり、食糧はほとんどが植物性である。ところが、中東はアフリカで誕生した人のユーラシア大陸への通り道になっており、一集団の遊動域をそれほど大きくは取れなかったであろう。植物性の食糧だけでは絶対的に不足し、草原には草食動物がたくさんいたであろうから、不足分を動物食で補ったに違いない。
 中東における人の生息密度はヨーロッパより一歩先に進んでいたであろうから、草食動物が数を減らす時期も早かったに違いない。石器で代表される狩猟技術の発達も、まず中東から進んだことだろう。そして、ヨーロッパの大陸内部ほどではないにしても、動物食がかなり恒常的になっていたと思われる。
 一方、南アジアや東アジアの中部と南部では状況が丸っきり異なっていたと考えられる。南アジアや東アジア南部は、熱帯や亜熱帯であり、一般に湿潤気候である。こうした地域では、果物、芋が容易に手に入り、植食性の食生活が続けられ得る。でも、動物食の味を知った人であるからして、定期的に動物食パーティーが行われていたであろう。
 温帯に属する東アジア中部には常緑樹林帯が広がっており、果物は少ないものの木の実がふんだんに採れ、また、山芋や里芋の原産地であり、芋が容易に手に入ったであろうから、南アジアと同様な傾向の食性を保ったに違いない。
 本家本元のアフリカはというと、広大であるがゆえに地域によって寒暖・湿潤がバラエティーに富んでおり、様々な様式に分かれるであろうが、今までに述べたどれかの様式に当てはまると思われる。

第4節 氷期が終わり、間氷期に入る
 今から約1万5千年前に氷期が終わり、温暖な気候の間氷期(後氷期)に入った。これは現在も続いているのだが、氷河は大きく後退し始め、草原に代わって森林が順次広がっていった。植物相が豊かになり、植食性の食糧が増えたものの、草原の縮小により草食動物が減って、動物食に偏重していた地域では、初めて本格的な食糧危機がやってきた。
 後氷期になって絶滅に追い込まれた動物の種が非常に多いのである。これは、明らかに人による狩猟のし過ぎによるものである。最後の一匹まで捕り尽くさなくても、動物が生息数を減らして地理的分断が生ずると、その種の存続に必要な最低個体数を割り込むこととなる。近親相姦により子孫が残りにくくなるし、また、近親相姦は一般的に回避される傾向が強いからである。こうなると、狩猟の有無にかかわらず、その集団は短期間で絶えてしまうのである。こうして多くの動物種が絶滅していったと考えられる。
 動物が生息数を減らすと、代用としていた魚だけでは食糧が不足する。そこで、この頃に弓矢が発明されたのであろう(ブログ版で訂正:弓矢の発明は約6万4千年前)、森林に生息する動物の狩りが比較的容易となり、また、鳥もターゲットにされた。石器は、約2百万年にわたった旧石器時代が終わりを告げ、すでに中石器時代に入っていた。道具の一段の発達をみたのであり、これは狩猟が一段と難しくなった証である。
 後氷期の温暖化の始まりに伴って少しずつ海進が始まるが、シベリアとアラスカを分けるベーリング海峡にかろうじて陸橋が残っていた時代に、人は最後の処女地アメリカ大陸への進出を果たす。北方の草原で動物食主体の食生活をしていた者たちが、森林の拡大に伴う草食動物の減少により、獲物を求めて東へと進路を取り、滑り込みセーフで陸橋を渡り得たのである。その後すぐに陸橋は水面下に没し、海峡となってしまったから、移住できた人はさほど多くはなかったであったろう。
 先に、アメリカ大陸へ移住した彼らのその後を簡単に紹介しておこう。
 彼らは、たったの千年でアメリカ大陸の南端まで行ってしまった。驚異的とも思われる移動速度であるが当然でもある。アメリカ大陸の太平洋側には巨大なロッキー山脈とアンデス山脈が眼前にそびえ立っているから、容易には山越えできない。彼らはひたすら南下するしかなかったのである。狭くてどれだけも平地がない海辺や延々と続く切り立った崖を南へ南へと進むしかなかったのである。
 彼らは狩猟民族であったから、ひたすら動物を求めて移動したに違いない。そこにいた動物たちは人を警戒するということを知らないから、いとも簡単に狩りができる。多少開けた地域があれば、そこにとどまり狩りをする。わずかな労働で食が満たされるから、人口はあっという間に増えてしまう。やがて獲物が減ってくるから、一部の者たちがさらに南下していく。こうしてあっという間に大陸の南端にたどり着いてしまったのである。その後は、獲物が激減した地域から順次山越えをして山脈の東側の平原や森林に進出していく。
 外来種は、その食性に合った獲物がふんだんに存在すれば、あっという間に大増殖し、生息範囲を大きく広げる。日本に入ってきたアメリカザリガニがいい例だが、アメリカ大陸に移住を果たした人も同様である。
 新大陸へやってきた人は動物食主体であったと考えられる。新大陸では、こんな頃に短期間で絶滅してしまった動物種が数多くある。獲物が激減しても動物食への欲求が強く残っていて、植物性の食糧をあまり摂ろうとしなかったのであろう。現在の新大陸の採集狩猟民はアジアやアフリカの採集狩猟民に比べて動物食の嗜好が強いように感じられるのも、その食文化が根強く残っているのではあるまいか。

 ここで、日本列島への新人の進出にも触れておこう。
 考古学者たちは、証拠はないものの4、5万年前に南北両方向から入り込んだと考えているようだ。新人のヨーロッパへの進出時期と同時期であり、極東へも人口圧力が働いたのは必然であるからだ。
 当時は氷期にあり、海面は今よりずいぶんと低く、大陸、日本列島ともに陸地が大きく広がっていた。南は、琉球列島に2、3万年前の人の化石が幾つか見つかっている。大陸とは地続きにはなっていなかったが、浅瀬を筏で渡ることができたと考えられている。でも、そこから九州へは広大な海があって容易には進出できない。対馬は九州や本州と陸続きであったが、朝鮮半島との間に海峡は残っていたから同様である。この両方とも当時、筏で渡るまでの技術があったかどうかは定かでない。
 一方、北は、シベリア、サハリン、北海道が陸続きとなっており、北海道には2万年前の北方系石器が発見されている。北海道と本州はつながっておらず、津軽海峡があったが冬季は凍結して渡ることが可能であった。
 この時期に本州にも新人がやってきたのであろうか。静岡県で1万8千年前と言われる人の部分化石が見つかっているが、日本列島は酸性土壌であるがゆえに骨は溶けてしまって化石がなかなか残らず、発見例はこの1例のみであり、はっきりしたことは言えない。石器なら残るのであるが、北海道以外には古いものが発見されておらず、出てきたのは、かの有名な捏造品ばかりである。
 こうしたことから、本格的な日本列島への進出は、後氷期に入ったばかりの時期である約1万5千年前のことであろう。氷期の終焉とともにアジア大陸で、よりいっそう人口圧が生じたのであろう。筏での航海により、眼前に広がる大きな大陸、そう思えたであろう日本列島への渡来である。そして、これが縄文文化の幕開けとなった。併せて、津軽海峡を渡っての北方からの流入があったのかもしれない。諸説入り乱れており、詳細は不明である。

 話を元に戻そう。氷期が終わって2千年ほど経ってから、温暖化に伴う一つの大きな事件が起きた。1万2千8百年前の出来事である。それは北米大陸で起こった。氷河が溶けて大量の水が溜まり、五大湖とその周辺を含む地域に巨大な湖が成長し、その縁辺の低い山を越水して削り落とし、とうとう決壊して未曾有の大洪水が起きた。そして、真水が北大西洋上を広く覆って、深層海流を止めてしまったのである。
 深層海流は、7つの海の海溝という深海の「川」の流れであり、所々で上昇して表層の海流に変わり、熱帯を冷やし、寒帯を暖めるという重要な機能を担っているのであるが、北大西洋上の表層が真水で覆われると、真水の比重は小さいから、いくら冷やされても海面下へと下降してはくれない。自ずと深層海流の流れは止まり、これは千年ほど続いた。その影響で、温帯や寒帯に寒の戻り「ヤンガー・ドリアス」が訪れたのである。
 突然として世界中を同時に襲った異常気象ではあるが、北大西洋周辺地域では激しかったものの、太平洋周辺ではそれほどではなかったようでもある。
 この事件以降は、温暖な気候が現在まで続いている。もっとも、決して安泰した気候で推移したわけではない。小規模ながら小刻みに寒冷・温暖とそれに伴う湿潤・乾燥を繰り返して現在に至っているのである。
 そのなかで特筆すべきものは、新石器時代(約1万年前~)に入ってしばらく経った約9千年前から約6千3百年前までの約2千7百年間も続いたところの(期間の取り方は諸説あり、約8千年前~約5千年前とも言われる)気温最適期「ヒプシサーマル」である。現在よりも平均気温が2~3℃高く、海面も現在より2~3mは高かった。そして、陸地の多くで十分な降雨があった。特筆すべき現象として、サハラ砂漠は一面の草原となり、一部には森林までが生い茂った。あの広大なサハラ砂漠にも草食動物がいっぱい生息し得たのである。砂漠の中の岩肌に描かれた動物壁画がそれを物語っている。
 現生人類にとって、気温最適期「ヒプシサーマル」の訪れは、どこもかもが豊かな自然環境であふれかえり、豊食を楽しむことができた、一時の、そして最後の楽園であったことだろう。

第6節 農耕の始まり
 氷期が終わった約1万5千年前以降、現生人類は極めてゆっくりではあるが、人口増加に伴って徐々に食糧不足に陥ったものと思われる。ただし、それに伴う食性の変化は地域により千差万別であり、ここからは最も早く開けた中東を中心に話を進め、他の地域の特性については、のちほど補足することにする。
 人口過密が一番最初に訪れたのが中東であり、それに伴って社会変化も一番先に進んだ地域であって、その変化が周辺地域へも順次波及していったと考えられる。
 J・ローレンス・エンジェルの調査報告によると、3万年前の成人の平均身長は、男177cm、女165cmであったのが、1万年前の成人のそれは、男165cm、女153cmと、かなり低くなっている。このことは、栄養が不足しだしたことを物語っているようにみえるが、そうではないようである。3万年前の人はかなりのウエイトで動物食をしていたと考えられ、これによって身長が高かったのではないかと思われる。高蛋白食は背を高くするのである。その後も続く積極的な狩猟によって動物が数を減らし、減った動物食に相当する分をやむなく穀類に置きかえた、その結果の身長の低下、そう考えられる。
 1万年前には狩猟はどれだけもできなくなり、穀類が自生する地域では、穀類の種の貯蔵を通して、種蒔きによる穀類栽培が始まっており、これにより高収穫の安定した食糧確保が可能になったと考えられる。
 なお、穀類を食糧にすることは、すでにもっと昔から行われていた。2万3千年前のイスラエルの遺跡で、麦を磨り潰すための石皿と生地を焼いた炉が発見されている。自生している麦を採集し、調理していたのである。
この時に、人は偉大なる調理法を発明し、初めてパンを焼くことを覚えた、と我々は思いがちだが、決してそうではない。こうした方法を取れば、穀類が食べられることをすでに知っていたが、口に入るまでに相当な労力を必要とし、面倒だからそうしなかっただけのことである。しかし、食糧不足ともなれば、やむを得ずこうするしか致し方ない。だからパンを焼いた。ただそれだけのことである。
 もう一つの方法として、穀類を煮る調理法があるが、この時期の土器は中東では発見されていない。土器の発明は縄文人が最初であり(ブログ版で訂正 その後ヨーロッパでもっと古い時代のものが発見される)、1万5千年前のことである。日本人の巧みの技の原点がここにありと絶賛したがる傾向にあるが、これもそうではない。毎日のように焚火で調理していれば、泥が焼ければ硬くなることぐらいは誰にでも分かる。泥をこねて成型し、焼いてやれば土器ができることぐらいは、とうの昔に知っていたであろう。
 そのような煩わしいことをしなくても、もっと簡単な調理法で事が足りていたから、そうしなかっただけである。また、麦を煮てみたりもしたことだろうが、まずくて食えないから土器を作らなかっただけであろう。縄文人の場合は、グツグツ煮なければ食用にならないものを主食にせざるを得ない事情が出てきたから、土器を作っただけである。クリ、カシ、シイ、トチなどの木の実が豊富な日本列島であり、麦も米もまだなかったから、止むを得ず土器を作って、これらを煮ただけのことである。当時の人類と現代人の頭脳の差は全くない。かえって当時の人のほうが感性が豊かであり、自然観察力は現代人より格段に優れていたに違いない。
 そして何よりも暇があり、好奇心が絡めばいくらでも発明・発見ができる。これは遊びの世界のことであり、実用化とは無縁のものである。実用の必要性に迫られたら、おもむろにこんな方法があるんだがどうだ、となってすぐさま実用化されていく。そういう至ってのんびりと時間が流れていた時代であり、まだまだたっぷりと余裕がある時代でもあったであろう。
 中東では麦の自生地が多く、時代が進むにつれて、穀類に比重を置いた食生活が顕著なものとなっていく。毎年麦穂を全部収穫したとしても、原種であるからしてかなりの量の種がこぼれ落ちるから、麦の自生地が絶えることはない。加えて、運搬途中でもこぼれるから、より自生地が拡大するというおまけも付いてくる。穀類はこうして優れた食糧供給源となっていったのである。
 そして、これだけでは食糧が不足するようであれば、類似した環境の所に種をばら撒いたであろう。そうすれば、種が芽を吹き、やがて穂が実ることぐらいは当然に知っている。また、麦を本格的に食糧にするようになると、粉挽き用の臼が必要になり、これも約1万年前(ちょうど新石器時代に入った頃)に開発された。農耕一歩手前の麦栽培は、約1万年前には広範囲に行われていたに違いない。彼らはこうして食糧不足を回避してきたと考えられる。
 この間も狩猟は続けられ、動物はどんどん姿を消していく。ますます麦に頼らざるを得なくなり、麦は貯蔵が利くという大きな利点があるから、年中麦が主食となり、穀物倉庫も作ったであろう。
 穀物栽培は、すぐに次の段階に入っていく。農耕の始まりである。農耕といっても、雨が少ない地域では、灌漑だけで穀物は育つから、水路を掘りさえすれば事が足りる。多少とも雨が多い所では、一緒に雑草も生えるから、これを除草してやれば実りがうんと多くなる。当時の人は、この程度のことは分かっていたであろうから、穀物栽培はかなり古くから始まっていたであろうと、人類学者の今西錦司氏(故人)らがおっしゃっている。
 さらに収穫量を上げるには、土を耕すしかない。石器による鍬の生産が始まり、ここに本格的な農耕が始まるのである。約9千年前から約6千3百年前までのヒプシサーマル期に、ここまで進んだことであろう。

第7節 羊・山羊の家畜化
 ヒプシサーマル期以前に羊や山羊の家畜化が始まったようである。牧畜文明の誕生である。これは、半
砂漠地帯のオアシスにおける麦栽培とほぼ同時に始まったと考えられている。
 ミュッケの自家家畜化説が有名であり、栽培穀物を食べにきた羊との馴れ合いである。羊は栽培穀物がうっそうと生えているのを見つければ、当然にそれを食べにやってくる。それを一部認めてやる代わりに、人は何頭かの羊を捕獲して食べる。羊の群はリーダーの絶対の統制の下に動き、リーダーが逃げなければ他の者も逃げない。それゆえに、羊は群ごとごっそり人に帰属することになる。羊と行動を共にすることがある山羊も、それに従ったのではなかろうか。羊にどれだけか遅れはするものの、山羊も羊と同様に家畜化が完成したことは確かであろう。
 これが、ミュッケの自家家畜化説の概要である。他にも家畜化については諸説あるが、いずれにしても羊や山羊はかなり早い時期に家畜化された。牧畜が始まっても、最初から大規模ではあり得ず、家畜のオスをするにしても、狩猟が容易だった頃のようには口に入らない。安定した食糧供給は依然として栽培穀物が大半を占めていたことであろう。
 人が動物の乳を飲むようになったのは、いつからかは定かではないが、家畜化が完成して間もなく始まったのではなかろうか。家畜の子が産まれてすぐに死んだ場合に、たまたま母乳の出が悪い母親がいたとすれば、自分の子にその家畜の乳を搾って飲ませようと試みたであろう。こうして、子どもから始まり、母親が飲み、ついには皆が飲むようになったことだろう。

第8節 農耕と牧畜の広域展開
 農耕と牧畜は、採集狩猟に比べて格段に労働時間を必要とし、これは男どもの仕事となる。現在の採集狩猟民が農耕を取り入れたとき、最初は男が従事することが多い。家畜の世話も同様であろう。男どもは、ここに初めて「らしい労働」をするようになる。女たちは、定職に就いてくれた男どもにきっと感謝したであろう。しかし、これが、後に彼女たちに大きな悲劇をもたらすことになろうとは、知る由もなかった。
 牧畜は急速に広まっていったであろうが、狩猟は当然にして続けられた。よって、哺乳動物はどんどん姿を消し、魚介類や鳥類も以前よりは捕りにくくなり、動物食のウエイトは向上しなかったと思われる。
 いずれにしても、約1万年前には、農・畜産業の原型ができあがったであろう。そして、麦栽培と牧畜が、地中海沿岸部と西アジアそして東アジア北部へと伝わっていった。穀類の自生がない所では先進地から種を持ち込み、牧畜は家畜化の方法を学び取って進めたことであろう。
 なお、穀物栽培は単に収穫だけを繰り返していると、土壌がやせてきて収穫量が減少することがあり、家畜や人の糞尿を土壌還元してやれば高収穫が期待できることも知る。彼らは長年の栽培経験のなかからそれを知り、そのノウハウも伝授したであろう。
 ヨーロッパでも食糧不足となれば、穀物栽培を試みようとしたであろうが、栽培適地は少なかった。降雨が適度にあり、森林が多かったからである。そこで、牧畜が先行したと思われる。森の入り口には草が生えているから、それを食べさせればよい。住居づくりなどのために樹木を切り倒せば、若芽が吹いても、羊や山羊がそれを食べてくれるから草地で安定し、やがて切り株が朽ちはてて、そこが穀類栽培の適地に生まれ変わる。
 こうして、ヨーロッパでは中東から少しばかり遅れたものの、地中海沿岸部から順次内陸へ向けて、牧畜と穀類栽培が順次広がっていったことであろう。ただし、大陸奥部では歴史時代の訪れまで採集狩猟生活が続いたようであり、アルプス以北は深い森で覆われていた。
 西アジアや東アジア北部は、中東と気候が類似している地域が多く、中東にどれだけも遅れることなく、同様に進んだことであろう。降雨が適度にある地域では地中海沿岸と同じ方式で進んだろうし、降雨があまり期待で出来ない地域では牧畜の比重が増し、より乾燥した地域では牧畜のみとなっていったことであろう。

第9節 芋と米の栽培
 南アジアと東アジア南部は、様相を全く異にした。湿潤気候のもと湿地帯が広範囲に広がっていたからである。ここには芋が自生し、バナナもある。どちらも株分けしてやれば増えていく。芋については、ヒトの祖先がこの地に入ってすぐに知ったであろう。葉や茎を見ただけで地下に芋ができていることぐらいは、彼らの観察眼からすれば容易に察しがつく。なんせ、そもそも芋を求めての移住であったのだから。
 芋の自生地が居住地と離れていれば、収穫が面倒だからと、居住地近くの湿地に収穫した芋の一部を放り投げておくことぐらいはしたであろう。今西錦司氏らもそのようにおっしゃっておられるが、小生も百姓をやるなかでそうしたことをたっぷり経験している。里芋、これぞ南方産であるが、その収穫のとき、くず芋を畑の堆肥場や田んぼに放る。すると、翌年の初夏にはちゃんと芽吹く。ヒトの祖先とて、あまりに小さな芋であれば放ったであろう。放ったことにより、芋の自生地が自然と広がっていく。芋はそれを期待し、そうされることによって、彼ら芋たちは初めて生息域を大きく広げられるのである。
 芋たちのこの欲求は、アンデス原産の芋を作る植物に特に強いと思う。ジャガ芋、サツマ芋、ヤーコン芋ともにそうである。動物に土を掘ってもらい、芋を蹴散らしてほしいと願っているのである。蹴散らされたなかで大きな芋は動物の餌として提供するが、小芋は周辺に広くばら撒かれることを期待している。そうとしか考えられない芋の付き方である。
 南アジアや東アジア南部の人口が増えて過疎が解消されると、自ずと交流が盛んとなり、近隣地域に自生している異なったより良い芋を導入するようになる。種芋を湿地に放っておけば自然に育つのだから、簡単である。さらに人口が増えて、芋の収穫を増やす必要が生ずれば、小芋を湿地帯に広くばら撒けばよく、また、大きな雑草を抜いてやれば収穫量があがることも当然に知っていたであろう。
 バナナもそのうち株分け法を開発し、順次近隣へと広まっていったと考えられる。
 ここまでのことは、最初にアフリカからやってきたジャワ原人(180万年前の前期旧石器時代
)たちがすでに身に付けていた農法であろう。後期旧石器時代に入っても、当面はこれでしのいでこられた。しかし、中東で小麦栽培や牧畜が行われだした頃、この地でついに米が登場する。米は東インドの高地アッサム地方が原産と言われる(西アフリカにも原産地がある)。アンデスもそうだがヒマラヤも大昔の造山運動で低地が大きく隆起した場所であり、大粒の穀物や大きな芋を付けるようになった植物がけっこう多い。
 米は、脱穀した後に、蒸したり、粉にして焼いたりと、小麦同様に調理が面倒であり、直ぐには広まりをみせなかったものの、芋が不足する地方では、そうするしかない。なお、日本など東アジアで現在作られているジャポニカ米のように煮て食べる品種は、もっと後の時代に誕生した。
 米の栽培も、稲穂を収穫すれば麦と同様に種籾がこぼれて自生地は自ずと広がる。この米作を最初に大規模に取り入れたのは中国長江の中下流域のようである。1万2千前年の大規模な米作遺跡が発見されている。この地域は温帯であり、芋は里芋と山芋があったが、河川の氾濫原に自生する芋はなく、あるのは穀類の一種である稗(ヒエ)程度のもので、これはいかにも粒が小さく、食用にするには労多くして利なしであり、見向きもしなかったであろう。
 しかし、先に述べたヤンガー・ドリアスの到来で、急に寒冷化して芋の収穫量ががくんと減る。そうなると、稗でも食べざるを得ないが、西に連なる山脈の向こうに大粒の穀類「米」があることを伝え聞き、それを導入する。こうして、あっという間に米作が定着し、収穫した稲の運搬用に小舟を造り、通行しやすいように水路も掘る。米作農業の完成である。もっとも農業と言っても、収穫時に籾がこぼれるし、稲が生えていなかった所には籾をばら撒くだけですむし、定期的に洪水があって上流から肥沃な泥を運んできてくれるから、施肥も必要としない。いたって簡単なことであり、単なる穀類採集とどれだけの違いもない。
 この地域も動物食の要求があったであろう。狩猟によって哺乳動物が当然に少なくなっていたであろうが、米作地帯の水路には魚がいくらでもいる。簡単にこれは捕れるから、魚を食べればよいのである。
 魚では満足できなくなったら、野生豚を捕えることになるが、数が激減しており、これを飼育するようになったであろう。豚の家畜化である。くず米や野菜くずそして人糞を与えればすくすく育つのが豚である。
 牛を家畜化して農耕に役立たせるようにしたのは、ずっと後の、まさに農耕という本格的米作農業を行わざるを得なくなってからのことであり、これは中東あたりからの麦作栽培に始まり、順次南アジアや東アジアの麦や米の栽培地域に広まっていったと考えらている。

第10節 人口爆発の始まり
 約1万年前あたりから洋の東西を問わず、食糧不足は安定して収穫できる栽培穀類で補い始めた。手間がかかる収穫作業や脱穀そして面倒な調理を強いられながらも、これなしでは生きていけない。
 しかし、この代用食糧には思わぬ落とし穴があった。澱粉質の塊である芋類は今日、ダイエット食と言われることが多いのであるが、同様に穀類も澱粉質が主成分であるも、蛋白質、脂肪そしてミネラルがけっこう含まれており、高栄養の食糧なのである。芋を主食にしている限りはさほど過栄養にならず、出産間隔が開くので人口増加はさしたることはない。それに対して、芋に代えて穀類を主食にすると、同量の食事でありながら過栄養となるのであり、必然的に出産間隔が短くなって
人口増加を引き起こすことになるのである。
 これに拍車を掛けるのが動物食の減少である。動物食のウエイトが高いと、これも芋類と同様にダイエット食になるから出産間隔が開くのであり、人口増加はほとんどない。しかし、これまでの人口増加で狩猟は難しくなってきているし、牧畜による羊や山羊でそれを十分に代替できるのも限られた地域しかなく、多くの地域は穀類食の比重がだんだん大きくなり、過栄養が顕著なものとなる。じりじりと人口は増加しだす。
 後期旧石器時代以降、先の述べた父性愛がもとに人口圧が掛かりだしたのであるが、穀類栽培を始めた初期の頃は、まだ飢えが恒常化するようなことはなかったに違いない。男どもがちょっとだけ野良仕事に精を出せば、必要な穀類は十分に得られたであろうから。よって、人口は増え続けることになる。
 過剰なカロリーは全て皮下脂肪として蓄えてしまうのがヒトの特性である。たいていの動物は皮下脂肪をほとんど持たず、内臓脂肪として蓄えるのであるが、ヒトは皮下脂肪に蓄えるのである。そして、ヒトのメスの生殖は、皮下脂肪が一定の値以下に減ると、生理が止まり妊娠できなくなる、という大きな特徴がある。
 旧石器時代の前期や中期は、ぎりぎりの皮下脂肪率であり、出産とそれに続く3、4年間の授乳期間は皮下脂肪率の低下で妊娠することはなく、人口は自然に任せて増えたり減ったりしていたものと考えられる。食糧が豊富すぎる状態が何年も続けば、食糧の採集時間が短くなり消費カロリーが減る。その分、皮下脂肪が増えて出産間隔が狭まり、人口が増える。逆の時代が訪れれば、皮下脂肪率が一定の値を割り込み、なかなか妊娠せず、人口が減る。こうして、安定した人口に調整されていたことであろう。
 しかし、穀物を食べ始めたことにより、どうしても過栄養となって妊娠周期が狭まるのであり、極端な場合には皮下脂肪率が一定の値を常時超えてしまい、授乳中に妊娠することも起こり得る。ここに多産が始まる。多産といっても現代の子だくさんとは違い、この当時はわずかな出産増ではあるが、世代を重ねて継続されると、累乗で利いてくるから大変な値となる。
 1人の母親が1.02人の娘を成人させ、同じ率で次世代の母親も娘を成人させていくと、40世代つまり概ね千年後には人口が2.2倍になる。人口増加率が年0.08%でそうなるのである。中東の人口がこの当時の4千年間で32倍になったとの推計があるが、概ねこの程度のわずかな人口増加率でもそうなってしまう。これは人口爆発であり、人の異常発生である。
 穀類食の採用は、もはや後戻りすることができない人類の悲劇の幕開けとなってしまったのである。人口爆発ほど恐ろしいものはない。その悲劇の始まりを一時先延ばししてくれたのが、約9千年前から約2千7百年間続いた気温最適期「ヒプシサーマル」である。これにより人の生息可能域が大幅に広がり、食糧資源も増えたであろうが、人口圧力を吸収できたのは千年ともたなかったであろう。
 人口は再び飽和して食糧不足が訪れかけたが、穀類栽培地を増やし、穀類を増産することによって、しのぐことができた。男どもがなにがしかの労働追加をすれば、まだまだ対応できたのである。
 それがために、女の皮下脂肪率はそれほど下がらず、繰り返し妊娠してしまう。よって、人口はさらに増え続け、男どもの労働時間はますます増え続ける。男どもは、長時間労働という苦痛から逃れようと、労働生産性を上げるために穀類栽培技術を発達させた。石器を磨き、農作業しやすい道具を作り、それをぐんぐん改良していったのである。必要は発明の母である。
 この人口圧によって、科学技術は進歩の度合いを速めていき、石器は極めて精巧なものがどんどん作られるようになり、今日の技術でもってしても同じものが作り得ないものであふれかえった。その新石器時代も早々に幕を閉じ、約6千3百年前に青銅器時代つまり古代文明にバトンタッチするのである。
 
 前期旧石器時代は250万年前から始まり、20万年前まで続いた。通算して230万年の長きにわたり前期旧石器時代は続いたのであり、その間、石器を作る技法の進歩はわずかでしかなかった。アメリカの考古学者A・ジュリネックの言葉を借りると、それは「想像を超えた一様性」だという。それが、20万年前から時代は中期旧石器時代に、4万年前には後期旧石器時代へと足早に入り、そこからは忙しい。中石器、新石器、青銅器そして鉄器へと次々と時代は移り変わり、技術革新はものすごい勢いで進展していくのである。

第11節 古代文明の発生
 約6千3百年前(諸説あり定かでない)に、広大な範囲に飽和状態にして人を住まわせていた気温最適期「ヒプシサーマル」が終わりを告げる。地球全体が一気に寒冷化した。サハラの森林や草原は再び砂漠に戻り、そこに住んでいた人々は餓死したか難民となったであろう。ヨーロッパは寒冷化し、中東、西アジアおよび東アジア北部は寒冷化と同時に乾燥化に見舞われた。広域にわたる終わりを知らない大飢饉の発生である。
 人類は、これまでに短期的な小さな飢饉を幾度か経験したことはあったであろうが、餓死するまでには至らなかったと思われる。しかし、このとき初めて、そしてこのときから現在に至るまでずっと、餓死するほどの食糧難に度々苦しめられ続けることとなったのである。
 ほんの一時の楽園を人々に堪能させてくれたヒプシサーマルは、巨大なツケを人類にもたらしたのである。こうした前代未聞の大飢饉の大きな嵐のなかから、中東及びその周辺地域の各地で、次々と古代文明が誕生し始めるのである。この危機を乗り越えようとして、農業の生産性向上のための科学技術が飛躍的に発達し、土木工事を行って開墾も進む。また、単位面積当たりの収量を大幅にアップさせようとして、男たちが農地に人手をたっぷりかけ、あくせく働くようにもなる。
 すると、どうしても、重労働である水路の掘削や農地の耕運を真面目に行なう者と、そうではない者が目立つようになり、軋轢が生じて集落共同体としての強い絆が崩れ始める。行きつく先は、共同所有財産であった農地や収穫物を分割して個人所有とする私有財産制度への移行である。こうなると、「能力に応じて働き、能力に応じて受け取る」という、動物的一般原則に戻ってしまい、その結果、男ども皆が競うようにして懸命に働くようになり、生産性をさらに向上させ、食糧難からの解放をひたすら目指すようになる。
 かくして「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義体制はあっけなく崩壊したことであろう。併せて、共産主義のベースとなっていた、エゴを抑え、我慢し、耐え忍ぶという不断の努力から育まれていた「やさしさ」と「思いやり」と「気配り」が消えていってしまったのである。加えて、男どもは「平等」思想をも当然にして放棄してしまった。
 私有財産制度は、エゴを極限にまで高めてしまう。そして、男どもの「こころ」に残ったものは、自分の生まれ変わりである息子に対する「愛」だけとなってしまった。私有財産は、主に労働した男どもの財産になるのは自然の流れであり、愛しい息子へと私有財産を相続させるのは必然である。
 これにより、社会形態が大きく変化し、ここに初めて家族が誕生する。つまり男が家長となる一夫一婦の永久婚の始まりである。地域社会は、これにより大きく変革していくことになる。私有財産は不可侵のものとして守られねばならないし、貯蔵食糧は他部族からの略奪を防がねばならないのであり、内に警察、外に軍事という機能を備えた社会制度が求められるようになる。
 そして、人は、ついに「国家」という法人を作りあげてしまったのである。国家は、その民が食糧難になると他部族が持つ余剰食糧の収奪のため、必然的に略奪行為つまり戦争に打って出る。国家は戦争に勝つために、すさまじいほどに科学技術を発達させていく。これにより、その軍事技術が民需にも反映され、食糧の生産性を一段と高めたものの、あまりにも穀類食に比重を置きすぎたがために、人口圧力はよりいっそう強くかかり続け、余剰食糧はすぐさま底を突く。悪循環の始まりであり、とうとう人が作った国家という法人が暴走を始めてしまったのである。戦乱の時代の幕開けとなってしまったのである。
 これだけに止まらない。国家がその軍事力の維持増強のための重い課税は、家族が食べていくだけの食糧さえ手元に残らなくしてしまう。そこでどうするか。それは嬰児殺しである。ただし無差別ではない。男は重労働の担い手として、また国家の要求で戦士として必要だから必ず残す。決まって女子殺しである。当然だ。女というものは子を何人も産み、ために生活が苦しくなるからである。その罪悪感が逆に働き、極端に女性蔑視するようになり、女は忌み嫌われ、そして、女の人権は剥奪されるに至るのである。
 生態人類学者マーヴィン・ハリスは、人口増加があった後期旧石器時代から嬰児殺しが頻繁に始まったと考えているが、小生は、国家の発生に伴って起きたと考える。人は、如何ともし難い事態に追い詰められないかぎり、かような嬰児殺しという非人間的かつ非動物的、極悪非道な行為に手を染めることなど決してできないと思うからである。
 こうして誕生した古代文明をどう評価するか。
 人類の英知でもって科学技術の花を咲かせ、文明社会の幕開けとなったと高く評価されている。しかし、それは、あくまで法人である国家の立場で、国家と国家の間で互いに優劣を評価し合うものにすぎない。
 法人というものは、生の人ではないがゆえに、一切の人間性を持たない。ゆえに、国家という法人は、生の人から一切の人間性を捨て去るよう、洗脳に洗脳を繰り返し、これは今に至っても続けられており、いまだ古代文明を高く評価させ続け、我々はそれを素晴らしいものだと信じ込まされており、そして信じ込んでいる。
 なんとも哀れな話ではないか。

第12節 永遠に続く食糧危機
 ヒプシサーマルが終焉して以降の、つまりそれを契機として誕生した古代文明から今日に至る約6千3百年間の歴史は、人の食性とは無関係ではない。恒常的な食糧不足という情勢の下において、科学技術の進展は戦争を行うための武器の開発ということに目が向かいがちであるが、民意でもっていかにして食糧難を解消するかということに最大の焦点を置いて進んできたと言いたい。開墾・干拓工事や水路・ダム建設工事はもとより、食糧となる未利用資源の開発や発酵食品をはじめとする高度な食品加工のための諸技術を格段に進歩させてきたのは、この間の時代のまさに人類の英知によるものである。
 今日の我々日本人は幸いかな、こうして進んできた高度な科学技術の恩恵を満喫できる、ほんの一時の良き時代に暮らしていると考えねばならないだろう。
 これまで見てきたように、地球温暖化は決して危機ではない。逆である。それは歴史が実証しているではないか。“もっと暑くなれ、サハラに雨を! そして温暖化よ、永遠なれ!”と、世界は今、願わねばならないのではなかろうか。
 今現在の温暖化はヒプシサーマルほどには温度上昇が期待できそうになく、遠からず終わるであろう。確率的に再び寒冷化の嵐がやってくるのは必至であり、それは今年からかもしれないし、数十年先には必ずやってくることだろう。なぜならば、温暖と寒冷は数十年から2百年程度ごとに交互に繰り返しており、今は230年(ブログ版投稿時では240年)も続いている温暖期にあるからである。これは過去2千年間で最長不倒の記録であり、日々記録を更新し続けているのであるから、もうそろそろ終わると覚悟せねばならぬ。
 さらにその先には氷期が待ち構えている。数千年先にやってくる確率は5割を超える。そうした大小の寒冷化が訪れる前に、人類が早急に手を打たねばならないことが山積している。当然にして、食糧問題が第一であり、今の間氷期に入ってからの過去1万5千年間にわたる付け焼き刃的な方法ではなく、人の食性に適合した本質的な解決法を見いださねばならない。

つづき → 第9章 ヒトの代替食糧の功罪

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント

食の進化論 第7章 ついに動物食を始める

2020年11月01日 | 食の進化論

食の進化論 第7章 ついに動物食を始める

 芋の火食が定着した後、どれだけか経って、とうとう動物の火食が始まってしまったと考えられる。火の利用についても、同様に消極的な表現をしたが、芋の火食は共産主義体制を確立するという偉大な成果を生み出したものの、動物の火食については、のちほど述べるように歯止めが掛からなくなり、人間性を喪失する元になってしまうという悲しい出来事につながるからである。
 なお、本章はあらかた小生の想像をもとにして記述していることを最初にお断りしておく。

第1節 最初は遊びとしての動物の捕獲
 原人のずっと前の猿人やその前の時代から、実り豊かな季節には食糧採集はすぐに終わり、暇は持て余しすぎるほどにあり、好奇心の強い若い男子たちは、走り回る動物を捕らまえて遊ぶことがあったであろう。今日にあっても、よちよち歩きの幼児を原っぱで好きなように遊ばせておくと、動くものに興味を示して、昆虫を見つければ捕まえる。この動くものは何だろうと、足をちぎったり、体を潰して遊ぶ。
 生き物とは何かを独学しているのである。幼いながら、ぼんやりと生き物の生死を知り、命を敬う「こころ」を醸成していくのである。名前は忘れたが、ある高齢の昆虫学者がそのようにおっしゃっていた。
 肉食動物の子どもも、親に教えられなくても、当然にして小動物を追いかけまわし、捕らえてじっと観察する。すると、小動物が逃げ出してしまい、再び捕らえて観察する。その繰り返しのなかで、時には小動物に大怪我をさせて動けなくしてしまう。でも、食べることを知らない。肉食動物の子どもとて、たまたまそのとき腹を空かせておれば、母親が食べ方の手本を示してくれ、初めてそれを学び、狩猟と食の関連を学習するのである。
 人の祖先たちも、若者になれば、鹿を追いかけまわして捕らえたものの、鹿が逃げようとして暴れるから首の骨を折ったりして殺してしまうことがあったであろう。こんなことはまれであったと思われるが、何かに驚いて骨折して動けなくなった動物をしばしば見かけることがあった。自分たちだって、仲間が骨折して動けなくなることがある。この動物の骨折の具合はどんなだろう、そしてこの動物の体のつくりはどうなっているんだろう。と、好奇心でもってしげしげと覗き込んだであろうが、観察が終わればその動物をその場に放置して行ってしまうだけである。
 現生のチンパンジーと違って子殺しと共食いを決してしなかったであろう人の祖先(犬歯の退化が非暴力のこころを養った、と小生は考える。)であるから、その動物に対してかわいそうだなという感情を抱くことがあっても、もっけの幸いとばかり、その動物を食べてやろうなどとは露とも思わなかったに違いない。

第2節 火という生き物は動物も食べる
 しかし、ここで再びドラマが生まれる。決して自分で食べることはしないが、たまたま見つけた小動物の死体を火という生き物のために、焚火に放り込むという悪戯好きな若者がいても不思議ではない。火という生き物は動物も食べるのであろうか。きっと食べるであろう。食べるとすると、どのようにして食べるのか。それを観察したいという好奇心が若者のこころの中に必ず生じる。
 植物とは大きく違った、異様な臭いを強烈に発し続け、骨だけが残るという不思議な現象を目の当たりにする。大人たちから、何を火にくべたのかと叱られ、以後このようなことは止めさせられたであろうが、気づかれなかった場合も有り得る。その場合には、興味本位にこれが繰り返される。

第3節 間違って動物を食う
 手足が短い、死んで間もない小動物を焚火に放り込んだ、その悪戯好きな若者が、たまたま用足しか何かで焚火から離れることがある。タイミング良くそこへ腹を空かせた誰かがやって来て、火を突いて、何か柔らかいものを発見する。これは何だろうかと思いながらも、新種の芋か何かと勘違いして一口食べてみる。未知の味であるが、食べられないことはない。どうしたものかと考えていると、その小動物を焚火に放り込んだ者が戻ってきて、それは動物だと告げる。食べた者はびっくりして吐き出そうとするが時すでに遅し、である。
 知らずに食べた者は、とんでもないものを食べてしまったと恐ろしくなり、毒がありはしないかと心配するも、時間が経ってもいっこうに体調は悪くならない。それどころか、かえって元気が出てきたような気がしてくる。不思議な気分を味わうことになる。
 こんなことは1回きりで終ってしまうであろうが、時として好奇心の塊のような悪餓鬼が登場し、動物と知っていて二度三度とこれを繰り返し行い、幾度も動物を食べてみようとする横着者が出てきてもおかしくない。すでに、人は火という生き物を家畜化し、人以外の生き物に対するおごりを無意識のうちにも持っていたのであろうから、そうした行動に走らせてしまうことになる。
 でも、動物は植物とは大きく異なり、異様な臭いを発するから、皆が気持ち悪がり、彼を変人奇人扱いする。まして、動物は人と同じように動きまわる生き物であり、拘束すればいやがって逃げようとするし、悲鳴を上げるし、最後には恐怖でブルブル震えている。人の本性である「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」を持ち合わせているかぎり、動物を殺して食うなどということは決してできない。
 現に、今日、日本人の男のお年寄りは、鶏肉が食べられない方がけっこう多い。一昔前までは、鶏を飼っていた家が多かった。そこで、卵を産まなくなった老鶏は一家の長がそれをつぶして家族の皆に食べさせていたのである。その経験から鶏肉が食べられないのである。人の本性をしっかり持っていれば、必然的にそうなるのである。
 また、この頃の人はすでに犬歯を退化させており、それによって男たちが女の獲得を巡って殴り合いや殺し合いで血を見るようなことは決してなかったに違いないから、なおさらである。
 こうした背景からして、動物を食べるということには、非常に強い抵抗感が伴ったのは確実であろう。
 しかし、若い男子には、皆に注目を浴びたいと思う気持ちがけっこう強い。早くいっぱしの大人になりたいからである。そこで、変人奇人扱いされると、よけい調子に乗り、それを繰り返す。そうした横着者は、えてして餓鬼大将となり、後輩の面倒見がいい。最初は誰もその真似をしなかったが、おっかなびっくり彼に従う若者がでてくる。ここに不良少年の小集団ができあがる。
 餓鬼大将の指揮のもとに、そのグループで小動物の狩猟を行ない、それを大将が焼いて、うまそうに食べるのを見ながら、他の皆もそれを恐る恐る食べる。口に入れ、飲み込むときに精神的興奮はピークに達するであろうが、肉は優れた強壮剤であり、また体をグーンと温める働きがあるから、しばらくしてから精神が異常に高揚してくるのを実感する。肉というものはそういうものであり、本来は虚弱体質の改善や病中病後の滋養強壮のための薬なのである。
 よって、不良少年グループは、単なるものすごい刺激的な遊びとして行なった動物の火食が、副産物として今までに経験したことがない精神的高揚を生み出したことを感知して、狂喜したに違いない。
 現生のチンパンジーたちが行う動物の生食パーティーと同様に、皆が異常な興奮状態に陥ったことだろう。

第4節 動物の火食パーティー
 こうして動物の火食は一部の少人数の若い男子の遊びとして始まり、順次若者の大多数が加わっていく。若者たちは暇を持て余したときには、皆で動物狩りを行ない、刺激的な興奮を求めて動物の火食パーティーを時々開くようになり、これが若者文化として定着し始める。
 これは昭和40年代から特に欧米の若者が盛んに行ったマリファナ(大麻)パーティーに似ている。暇を持て余した若者が刺激を求めて大麻をタバコにして持ち寄り、マリファナパーティーを開いて大きな社会問題となった。これと同じで、動物の火食は、その強烈な臭いと相まって破廉恥極まりない行動として、このときばかりは長老たちから厳しく叱られ、動物の火食は禁止されたことであろう。動く生き物を食うとは何事ぞ、である。
 しかし、若者たちには、もはやこの刺激的な遊びを止めることはできない。
 この頃はまだ火をおこす方法を知らなかったであろうから、若者たちは集落の焚火から火種をこっそり持ち出し、住居とは遠く離れた場所で、隠れて動物の火食パーティーを頻繁にやったであろう。それも、やがて大人たちに見つかる。でも、若者たちは場所を変えてそれを繰り返し、決して止めようとはしない。
 今日、ヨーロッパや北米の一部の国や州では、大麻はさほどの習慣性はなく、止めさせようにも止めさせられず、暴力団の資金源にもなっており、禁止したほうがかえって社会問題を大きくすることから、大麻は合法化したほうがよいという考え方に変わり、正々堂々とマリファナパーティーが開けるようになってきた。
 それと同じように、動物の火食パーティーも長老から渋々許されることになったであろうが、大人たちは今の若者はどうしようもない奴だと軽蔑したことであろう。
 文明は文化の変化をもたらし、世代間で衝突するという歴史を繰り返す。大人は保守的であり、若者は新たに覚えた行動を通して革新的になる。火の利用という大きな文明の開化によって生じた文化大革命は、動物の火食によって第2段階に突入し、世代間の衝突を想像以上に激しいものにしたかもしれない。しかし、この革新的な行動も2世代進めば、これを始めた若者たちが長老となり、その集団の習慣として認知され、集団の全員が動物の火食パーティーに加わるようになってしまうに違いない。当然にして幼い子どもも加わる。
 もっとも、決して毎日のように行うわけではない。マリファナパーティーと同じように、動物の火食は「麻薬」と同列のものであり、あまりにも刺激的な遊びであるからして、そうしょっちゅうではくたびれてしまうではないか。現生チンパンジーが行う動物食パーティーと全く同じレベルの感覚である。生活の余裕なり、何かの衝動といった内的要因が生じないことには動物の火食はしなかったであろう。現生チンパンジーとて多くても年間十数回しか動物食パーティーを行なっていないのであるから。

第5節 祭事の食文化として定着
 人の祖先も、何かあったときに動物の火食パーティーを皆で行い、初めは年に数回程度のことであったろう。それは何かというと、宗教なり呪術に関連して行われる祭事ではなかろうか。この時代に、すでに宗教なり呪術が発生していたと考えてよいからである。
 今日の世界にあっても、普段はほとんど植食性の食生活をしていても、祭事には皆が集まって動物の火食を行う民族がけっこう多いのである。熱帯や亜熱帯の湿潤気候の地域で文明が進んでいない所にそれが顕著であり、豚の丸焼きがご馳走として出されるのが一般的である。文明化した社会にあっても、昔の歴史を紐解くと、そのような習慣があった所が多くある。 
 動物の火食は、世代を重ねるに従い、祭事という宗教なり呪術という精神的な高揚の場づくりに欠くことができない必須行事として位置づけられ、祭事に付随する食文化として定着していったことであろう。長い長い年月の経過により、動物の火食が持っていた麻薬的な刺激は、いつしか宗教なり呪術が持つ精神的高揚そのもののなかに飲み込まれてしまい、それによって、動物の火食の麻薬性が覆い隠されてしまう。
 そして、いつしか動物の火食は麻薬性を完全に失うに至ったのである。人のこころから麻薬であるという意識が消えるだけで済めばまだしも、残念ながら積極的な狩猟という、おぞましい行動を身に付けてしまった。
 これは何を意味するか。
 これによって、平和的な人の社会が崩壊することはなかったであろうが、人がこころのなかにずっと包み隠し続けてきたところの「凶暴」性と「残忍」性を大きく揺さぶることになったのは間違いなかろう。
 芋の火食で最高潮に達したであろう人間性は、これ以降、少しずつ醜さを増していったと考えざるを得ないのである。もっとも、人は狩猟を行うなかで、そのこころの変化に気づいたであろう。そこで、自らのこころを恐れるようになり、動物神の信仰を持つに至った。獲物とする動物を崇めることによって、こころの野蛮さにブレーキを掛けようとしたのである。多神教の世界では、現在もこれが生き続けている。日本列島では今もそれは根強く残っている。

第6節 火食は第三の食
 動物の火食が祭事の食文化として定着し、麻薬性を失うと、「食」を「植物食」と「動物食」という区分とは別に、「生食」と「火食」という区分で捉える考え方が自ずと生まれ出てくる。そうして、「火食」は「火」という「生き物」によってもたらされた「第三の食」であり、「火食」は「生食」とは姿形や味が全く異なった別の食べ物であると認識するに至る。
 ここに、「火食」に適するものは「火食」にして食べるという「第三の食」を展開することになり、植物と動物という垣根をとうとう乗り越えた考えに至った。これにより、様々な動物が火食の食材に加えられ、ついには抵抗感なしに動物を楽しんで食べるようになってしまう。
 特に、狩猟に加わらない子どもが動物の火食に慣れ親しんでしまうと、当然にして大人たちが行う動物の解体作業を見ており、大人になって狩猟に加わったときには動物を殺すことの後ろめたさが弱まっていて狩猟に対する抵抗感が薄らいでしまう。
 こうなると、祭事の前には意識的に様々な動物を捕獲するようになり、祭事に本格的な動物の火食パーティーが催されることが恒常化し、それを皆が楽しみにし、動物の火食が最大のご馳走となるに至る。
 火の利用を知ったであろう数十万年前には、鋭い刃先を持った石器が作られるようになった。動物の解体を行い出したのである。
 なお、動物の生食も、火食が一般化すると、すぐに始まったことであろう。動物の火食をするなかで、生焼けのものが少なからず生ずる。初めはそれを口にしても吐き出して焼き直したであろうが、生のほうがうまいものもある。動物の生食文化も若者が開拓していっただろう。スリルを求めて、限りなく生に近い、血が滴るような生肉を食べる若者が必ず登場し、生食文化も一般化の道をたどる。
 いずれにしても、この段階に至って、植物性のものも動物性のものも格段に食域の幅を広げ、豊食へと進んだことは間違いない。ただし、調理が面倒な穀類にはまだ手を付けていない。毎日必要とする食材は、植物であろうと動物であろうと周りに幾らでもあり、それが簡単に手に入った時代であったと思われるからである。
 この時代は、人類の歴史上、最初で最後の最も幸せな時代であったことであろう。特に男どもにとっては最高であったに違いない。なんせ狩猟は当然にして暇を持て余した男どもの遊びであったのだから。

 この時代(概ね中期旧石器時代:約30万年前~4万年前)、人はどんな生活をしていたであろうか。通説によれば、昼は休みなく食糧を探し求め、夜は猛獣に包囲され、居心地の悪い洞窟に身を寄せ合い、恐怖と不安の時代であった、というものであり、一般にそう思われているが、今ではこれを否定する学者が多い。
 現在の採集狩猟民は、主に女子どもが採集に当たり、実働時間はせいぜい3時間程度である。大人の女は、それ以外に家事雑用が2、3時間で、小さな子どもがいれば子守が家事として加わるも、年長の女子が相当部分を受け持ってくれるからさほどの負担にはならず、日長ぼんやり過ごす時間がけっこう長い。
 男たちは何をするかというと、狩猟という遊びに惚けているだけであり、週に2、3回程度、気が向いたときにふらっと出かけて、獲物一匹捕れなくても平気な顔をして帰り、時には気の合った仲間と1か月も連れだってどこかへ出かけ、家を留守にすることもあるという。
 それでも、女たちは何一つ文句を言わないし、また、男どもは決して家事を手伝うわけでもなく、女たちに食わせてもらっている、まさに「ヒモ」の生活をしているのが実態である。そういう採集狩猟民がけっこう多いのである。男にとっては1年365日、遊んでばかりで暮らせる理想郷であり、まさに男の天国である。
 もっとも男どもにも多少は仕事がある。食糧が十分に得られる所へ定期的に移住せねばならず、住まい屋の建設、補修がそうである。また、猛獣に襲われそうになったときには果敢に立ち向かわねばならない。現生のゴリラが天敵であるヒョウに襲われたとき、群のボス・ゴリラが素手で立ち向かい、格闘しながら群からの引き離しを図り、命を落とすこともしばしばである。採集狩猟民の男どもの場合、こうした命を張った行動が唯一の取り柄ではあるも、今は多くの所が文明社会との交流があって、彼らにも近代的な銃なり、少なくとも鉄製の槍などが普及し、その任務も格段に楽なものになってしまった。
 オーストラリア原住民のアポリジニの多くは採集狩猟民であり、彼らのなかには今でも「労働」と「遊び」を使い分ける言葉を持たない部族がいる。彼らの観念としては、「労働」イコール「遊び」なのである。男どもが行う狩猟はまさしくそうであろう。女たちが行う採集行動も同じ感覚で行われているかもしれない。そうでないとしても、採集や調理や子育てを、敢えて「労働」という一括りの概念で示し、石っころでのお手玉や泥人形づくりを「遊び」という言葉で対比させなくてもすむほどに、実に単調な生活をずっと送ってこられたからであろう。

 一般に、飢餓と隣り合わせの状態にあると思われている採集狩猟民の食生活は、たしかに質素なものではあるが、決して飢えることはなく、季節折々に採れる旬の食材と男どもがときおり捕ってくる獲物だけで十分に堪能しているのである。
 彼らの食事の食材は、芋が4割、その他の植物性のものが4割、動物性のものは2割といったところが一般的である。なお動物性のものには、女たちが採集してくるものも含まれる。
 はるか昔の中期旧石器時代の人も同様な生活であったに違いない。今日との違いと言えば、動物食がうんと少なく、火食の頻度もさほどのことはなかったのではなかろうか。そして男どもの狩猟も満月に合わせて行うといった程度であったろうから、普段は男も遊び感覚で気が向くままに採集に加わったのではなかろうか。
 高度科学技術の恩恵をたっぷり受けている先進国の我々男どもは、たしかに毎日世界中の様々な食べ物を飽食することができ、少なくとも毎日テレビを見る程度の娯楽も楽しめる。そのために週の5日を残業もいとわず懸命に働き、わずか2日間の休息日をもらう。その休息日も半分は雑用やなんやかやで消えてしまう。それでも、今どきの男どもは、これが最も余裕ある生活であると信じている。採集狩猟民の彼ら、そして中期旧石器時代の人々に比べ、何とも哀れな生活ではないか。
 経済学者E・F・シューマッハ(1911-1977)は言う。「ある社会が享受する余暇の量はその社会が使っている省力機械の量に反比例する」と。けだしこれは的を得た名言である。

第7節 動物食が主食となる
 話を元に戻そう。通常であれば、この動物食文化は祭事限定のものとして、せいぜい月に1回程度でずっと続いていったことであろう。チンパンジーの動物食パーティーと同程度に。現にそういう民族も多々ある。
 しかし、寒冷化や乾燥化が進むと、森林は後退し、草原が広がってくる。温帯においてはこれが顕著なものとなる。すると、草食動物が生息数を大幅に増やし、肉食動物もそれに伴って数を増やす。かたや食用となる植物は大幅に減ってしまい、人は主要なカロリー源を失う。こうした事態になると、植食性の食生活を維持することが難しくなる一方で、動物食を行なおうと思えば、いつでも可能となる。
 そこで、植物性の食糧の入手が少なくなる時期には、動物食が祭事限定の枠から外れてしまい、毎日とはいわないものの、普段の食事の代用食として動物食を取り入れるようになる。
 いったんこの代用食を採用すると、歯止めが掛からなくなてしまう。寒冷化や乾燥化が長期化し、植物性の食糧がさらに希少となった地域では、人類の歴史から見れば瞬時ともいえる短期間に、一気に代用食である動物食が本格化してしまい、ついに動物が主食の座を占めるに至る。
 以前は人と動物が共存していたから、動物はそこら中にそれこそウジャウジャいた。人が動物の火食パーティーを始めてからは意識的に捕えるようになっていたので、動物は人を恐れて人を見かけたら逃げるようになっていたであろうが、なんせ数が多いのだから、幼稚な道具であっても十分に役立ったことであろう。この時代に特別に狩猟用の石器などが進化した形跡はないのだから。

第8節 氷河期に生きる
 動物食に親しんでしまったのは、どこに住んでいた原人たちであろうか。その筆頭に挙げられるのがヨーロッパである。数十万年前から約4万年前までの旧
石器時代(前期旧石器時代の終わりがけから中期旧石器時代まで)の状況を見てみよう。
 この時代には、ヨーロッパには火の利用を知っていたであろうハイデルベルゲンシス原人が数十万年前からいたし、その後、約30万年前からは旧人のネアンデルタールが希薄な密度ではあったろうが広範囲に生息していた。時代は氷河期であり、氷期にはアルプス以北まで氷河に覆われていた。その南は広大な草原が広がっており、地中海縁辺の山々は森で覆われていたようである。
 氷期の後に間氷期が訪れて温暖化し、氷河は後退して順次草原に変わり、草原であった所は次第に森林と化していく。北から氷河、草原、森林と東西に帯状の配列となり、氷期、間氷期という氷河の前進、後退に伴って植物相も南北に移動を繰り返した。氷期と間氷期は不規則に訪れたが、氷期が8~9万年続いて、間氷期が1~2万年続くというのが大雑把な期間間隔である。また、寒冷化、温暖化の程度はバラバラであり、草原化、森林化は極端な変化もあれば、そうでなかったこともあったと考えられている。
 ヨーロッパへ入ってきた原人やその後の旧人たちは、温暖な間氷期に地中海沿岸沿いの森林からまずまず得られる植物性の食糧を求めて入り込んだのであろう。間氷期にある今日の地中海沿岸の山々はほとんどがハゲ山になっているが、これは古代文明の発生の少し前から、片っ端から木を切りだし、その後に芽吹いた若木を家畜が食べつくした結果であり、当時は平坦部を含めて豊かな森が連続していたのである。
 原人あるいは旧人たちが、この植物性の食糧がまずまず豊かな土地に定着して間もなくすると、寒冷化が訪れて長い氷期となる。地中海沿岸部の植物相が貧弱になる一方で、内陸部へ一歩入り込めば、まだそこには針葉樹や広葉樹が生い茂り、シカなどの草食動物がいて、その生息密度は草原に比べて格段に低いものの、狩猟は十分に可能である。
 こうなると、今までのような植食性の食糧を中心とした採集生活は困難になるから、必然的に狩猟の頻度が高まる。特に冬場は植食性の食糧が得られにくく、狩猟が中心となり、必然的に動物食に慣れ親しんでしまう。加えて、動物食は体を内から温めてくれ、寒い時期には好都合である。
 こうした地域においては、採集狩猟エリアを広げざるを得ないが、各集団間のエリアの間には、今日の採集狩猟民の多くにみられるような無人のエリアが設けられていたであろうから、必要な食糧は十分に確保できたであろう。採集狩猟エリアの拡大で、労働時間が多少は長くなったであろうが、食生活はまだまだ余裕があったと思われる。そして、こうした狩猟を続けていても、無人エリアがあれば草食動物が生息数を減らすには至らなかったことであろう。なんせこの時代の人の生息密度は極めて低かったのだから。
 もし仮に、この時代に動物の生息数がどんどん減っていったとすると、獲物が捕りにくくなり、それがために狩猟技術が発達するはずであり、狩猟用の道具としての石器の改良も行われるはずである。しかしながら、この時代、数十万年にわたって石器の発達はほとんど認められない。このことは、まだまだ安泰な時代がずっと続いていたと考えるしかなかろうというものである。
 氷期の訪れとともに森林は北から次第に姿を消していき、代わって広大な草原が南下してくる。彼らが生息していた地域の森林は消え、草原だけになってしまう。そうなると、この地域の草原には芋の自生はなかったと思われるから、植食性の食糧は皆無に近い状態となる。一方、草食動物はそれこそわんさと出現し、捕りたい放題の状態になったに違いない。ここに動物食に大きく偏向した食文化が生まれ出る。
 間氷期には草原は北上し、それに伴い草を求めて草食動物は移動する。人はまだ定住していない時代であり、それに合わせて人も北上する。こうして寒帯に居住し、もっぱら狩猟に頼る人集団が誕生したことであろう。

第9節 魚や昆虫を食べたか
 動物食の対象となるものは、人がそれを覚えてからずっと哺乳動物だけであったと思われる。鳥については、前に述べたように神様扱いで手を付けにくかったろうし、飛んで逃げていくから狩猟効率が悪い。
 それ以外に可能性として考えられるのは魚介類であるが、好んで食べることはなかった感がする。水生生活にわりと馴染んでいる現生のボノボは小魚取りをして遊ぶことがある。ボノボよりもっと水生生活に馴染んでいた原人たちであったろうから、当然にこうした遊びはしたであろう。魚は逃げてつかみにくいが、乾季には干上がってきている所が必ずあり、子どもでも容易につかみ取りができるし、貝であれば逃げはしない。小生は貝の刺身には目がない。刺身にして塩水で洗えば、こんなうまいものはない。周りを海に囲まれている日本人であるからして、そう思うのだが、一般的にはどうもそうではない。生魚を決して口にしようとしない民族が多いのである。
 原人たちははたして魚介類を食べていたであろうか。魚の骨は分解して残りにくいであろうが、貝殻なら残りやすい。哺乳動物の骨はずいぶん昔の遺跡からやたらと発掘されるが、魚の骨や貝殻がまとまって発掘されるのは、やっと十数万年前からであり、魚介類を食べるようになったのは比較的新しい食文化と言わざるを得ない。その頃には地域によっては哺乳動物が数をどれだけか減らしてきて、狩猟で走り回るのは面倒だからと、ずっと楽な方法である魚介類の採集を行う地域が所によって現れてきたのであろう。
 もう一つの可能性が昆虫食である。日本人はイナゴの成虫やハチの子を食べ、東南アジアでは様々な昆虫の幼虫やゴキブリの成虫さえ食べるなど、世界各地で昆虫食の風習が数多くある。これはいつ頃から行われだしたのであろうか。遠い遠い祖先である原猿類は昆虫食であるから、その生命記憶が呼び覚まされたとすれば、草原にはバッタの類がたくさん生息しているので、人の祖先がサバンナへ出たときにすんなり昆虫食に入ったはずである。でも、乾燥したタンザニアの灌木地帯で暮らすチンパンジーは各種の哺乳動物の狩りをときどき行うものの、昆虫にあってはアリ(通常、アリ食いは蛋白質の補給と言われているが、小生は関節痛の薬として食べていると考える。)以外は食べない。人も全く昆虫を食べない民族も多い。こうしたことから、人の昆虫食の風習も随分と新しい食文化と言えるのではなかろうか。
 簡単に欲しいだけ哺乳動物というおいしいものが手に入れば、捕るのに手間が掛かったり、小骨があったり、小さすぎて食べにくいもののは見向きもしなかったに違いない。魚介類や昆虫はその類である。加えて、まだまだ食に保守的であった時代であろうから、ゲテモノ食いにはそうそう走らなかったことであろう。

つづき → 第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント

食の進化論 第6章 ついに火食が始まる

2020年10月25日 | 食の進化論

食の進化論 第6章 ついに火食が始まる

第1節 史上最大の文化大革命
 前章でヒトの「食性革命」を述べた。これは消化器官の形質変化であり、つとめて生物学的なものである。これをヒトの「第一食性革命」と呼ぶとすると、ヒトの「第二食性革命」が「火食」である。
 ヒトがいつから「火」の利用を覚えたのかは諸説あるものの、確実な証拠として炉の跡が見つかったのはフランスのテラ・アマタ遺跡であり、40~35万年前にできた地層の中から発見されている。これが最も古い。焚火の跡と推測されるものでは約79万年前の遺跡がイスラエルで発見されている。
 火の利用としてもっとも有名なのが北京原人であり、約50万年前の周口店遺跡の洞窟がそうである。でも、その遺跡には火を使った確定的な証拠がなく、異論もあって定かではないが、なんにしても数十万年前に人類にとっての最初の激しい「文化大革命」が起き、原初の文明が劇的に開化したに違いない。
 ついに、「火」の利用を覚えてしまったのである。「覚えた」と、積極的な表現にすべきではあろうが、これが人類にとって輝かしい未来の始まりであったのか、悲しい出来事の始まりであったのか、それはまだ結論が出ていないと思うから、あえて消極的な書き方をした。
 たしかに「火」の利用は、他の動物には決してできないことであり、人類にとっての最初の偉大な科学技術の取得と言えるのであるが、今日、時代の最先端を行く科学技術の恩恵を受けている我々日本人の高度文明社会のほうが幸せなのか、それとも未開の地で原始的な暮らしをしている採集狩猟民のほうが幸せなのか、このことを対比した場合に、一概にこちらがいいとは言い切れないからである。
 なお、道具の使用を第一革命、火の利用を第二革命と言うのが一般的ではあるが、道具の製作を含めてその使用はチンパンジーでもかなりの程度にある。また、ヒトの祖先が作った石器は、あるときほんのちょっとだけ技術が向上し、その後は長期間停滞するという百万年単位の極めてゆっくりした段階的な進歩しかしていない。これは、あるとき何らかの新たに生じた生活変化に都合のいいように石器をちょっとだけ改造した、といった程度のもので、誰にでも考えつく技術であり、特段に評価するほどのものではない。もっとも旧石器時代後期(3万年前~)の石器製作の急速な技術革新は別だが。
 それに比べて「火」の利用は、ある所でそれこそ1世代で瞬時に手にし、2、3世代で瞬く間に広範囲に広がっていったであろうし、第6節で説明するがヒトの生活形態・社会形態を大きく変えてしまったに違いないから、まさに史上最大の文化大革命と呼ぶにふさわしい出来事であったと小生は考えるのである。

第2節 火の利用をどうやって覚えたのであろうか
 ヒトはどのようにして火の利用を覚えたのであろうか。それを想像してみよう。
 「火」なるものの存在そのものを知ったのは、原人よりずっと前であったのは当然である。多少とも乾燥する地帯であれば、落雷による山火事が発生することが往々にしてある。また、活火山の近くであれば、ときどき噴火して大規模な山火事を引き起こす可能性が大である。
 しかし、近くでこんなことがあれば、必ずや一目散に逃げたであろう。得体のしれない「火」に対する単なる恐怖からであり、動物と全く同じ感情から生まれる逃避行動である。ヒトの一生になかで山火事が何度も起きることがまれにあるも、その度に逃げ、安全な遠く離れた場所から「火」を眺める。そして、恐れの感情をその度に持つ。単なる動物であれば、その繰り返しで終ってしまう。
 ヒトも長い間そうであったろうが、自然現象の怖さを他にも経験することがある。異常気象による長期間にわたる猛烈な日照りでほとんどの植物が枯れて、食糧が手に入らない年がある。そんなときには、太陽つまり「日」に対する恐れの感情が起きる。その跡に雨季が来て大洪水となり、あらゆるものが押し流されれば、「水」に対する恐れの感情が起きる。こうして、不運にも複数の自然現象に対する恐れを幾度も連続して経験するヒトの祖先たちがどこかに必ずいた。
 そうした彼らは、単に恐れから逃げ回るだけの動物的行動から一歩進んだ、ヒトにしか取り得ない行動をついに取ったと思われる。いつの時点からかは分からないが、それは「宗教」の発生である。
 「火」と「日」と「水」は相互に関連した「天」の現象であり、ヒトの力をはるかに超越した得体のしれないものが引き起こす現象であると認識する。そして、ヒトを超越した圧倒的な力を持つ何か分からないものの「存在」というものをここに初めて意識するに至る。
 この3つの自然現象をひっくるめて意識すれば一神教の始まりであり、別々に意識すれば多神教の始まりである。いずれにしても、ヒトは超越した「神」の「存在」というものを信ずるに至る。そして、自分たちはあまりにも非力であり、超越した「神」に対して、皆がひれ伏し、畏れ多きものとして崇め、それに身を委ねるしかないという「こころ」を持ったのである。
 別の見方もある。「呪術」の発生である。「呪い」といっても広い意味での「呪い」であって、「宗教」と対比した分類である。「呪術」とは、願望を実現するための祈りのことを言い、空恐ろしい「生き物」である「火」が暴れまわっている方角を遠くから眺めつつ、皆で早く鎮火してくれと、「こころ」に祈る行為そのものが「呪術」である。[参照 超越者と風土 鈴木秀夫著 原書房]
 「あることをなせば、あることがなる。」と考えること自体が「呪術」であり、それは「科学」でもあり、「呪術」と「科学」は一体のものである。[参照 森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫著 NHKブックス]
 「宗教」にしろ「呪術」にしろ、これらは自然現象からの逃避ではなく、自然現象と何らかの関わりを持つことであり、これはヒトにしかできないことである。「宗教」と「呪術」、そのどちらが先なのか分からないが、いずれにしても、あるときからヒトの祖先は「火」と「こころ」の関わりを持つに至った。
 旧人のネアンデルタール人は埋葬の習慣を持つに至ったから、「宗教」または「呪術」を行なっていた証拠であり、自然現象との関わりを持っていたわけだが、その前の原人ハイデルベルゲンシスの時代にすでに「火」をものにしており、彼らに埋葬の習慣は確認できないものの、何らかの形で「宗教」または「呪術」を持っていたと考えたい。

 自然現象との関わりを持たない段階では、「火」というものは、呼吸を困難にしてしまう、白や黒の煙幕を吐き出すと同時に突風を巻き起こし、あらゆる動植物を殺し去ってしまうという、まったく得体のしれない空恐ろしい「生き物」であると捉えたであろうからして、恐怖のあまり、ただひたすら逃げるだけで、「火」から少しでも遠ざかろうとすることしかでき得ない。
 たとえ「火」が消えても、「火」がいつ何時再び襲ってくるともかぎらず、ずっと時間が経ち、雨が降って静まり返り、きな臭さが完全に消えてからでないと、怖くて焼け跡にはとうてい近づき得ない。
 ヒトは最も好奇心が強い動物であると考えられるが、よほどの勇気のある者であっても、完全に静まり返った焼け跡を恐る恐る覗き込み、見たこともない灰に毒がありはしないかと、ちょっと触れるだけで後ずさりするしかなかったであろう。そのとき、すでに「火」はない。
 もし、そこで、彼らが主食としていた芋がうまいぐあいに焼けて焼き芋になっていたとしても、表面は黒く変質しており、気味が悪くて、とえも食べようという気にはなれなかったに違いない。
 皆が安心して近づけるようになるのは、焼け跡に見慣れた草木が芽吹いてからであったであろうし、その場合であっても、黒く立ち枯れした樹木の表面を覆う炭は、初めて目にするものであり、容易には触ることもできなかったであろう。
  ところが、「こころ」に「宗教」または「呪術」の考え方が生まれ、「火」に対して「こころ」の関わりを持つに至れば、「小さな火」であれば、間近で見てみようという勇気を持つ可能性が生まれ出てくるであろう。
 それでも、「火」は得体のしれない恐ろしいものであるという認識は当然にあり、鎮火し、煙がほどんど治まってからでないと、近づきはしなかったであろう。近づくとしても、よほど勇気がないことにはできず、それは当然にして好奇心が旺盛な若いオスたちである。
 小生は、超越した神に対する信仰、すなわち宗教からヒトの行動を想像することは苦手であるので、おおかたの日本人に備わっている呪術の思考方法にのっとり、落雷による山火事から「火」の利用を会得したとして、以下、思い巡らすこととする。

 ある所で乾季の終わり頃に、山火事が起きた。ほぼ鎮火した頃に、好奇心旺盛な若いオスたちが現場を見に行こうということになった。ほとんど鎮火して、わずかな煙しか立ち上らなくなった焼け跡に近づくことができた彼らは、偶然に「残り火」を目にした。
 立ち止まって、おっかなびっくり遠巻きにしてそれをじっと眺める。無意識的に全神経を集中して鋭く観察する。静かに「残り火」は消え、彼らも静かに現場から立ち去る。しかし、彼らの脳裏には「火」というものの在り様がしっかりと焼き付けられる。
 ヒトは考える。そして、思い出す姿から「火」の持っている、ヒトの能力をはるかに超えた類まれなる力のごく一部を認識することになる。彼らは思った。「火」というものは、動物でもない、植物でもない、得体の知れない「生き物」であると。
 「火」は、雷鳴とともに雷光に沿って天から地上に降り立ち、その姿を炎として変幻自在に変え得ることができる「生き物」である。消えてなくなっても、風が吹けば、その近くからまた新たに生まれ出ることができる。乾燥した植物や小さな植物を好んで食べ、強い光を発し、植物を煙に変え、ほとんど跡形もなく大気中に放散させてしまう力を持っている。そして、「火」という「生き物」の排泄物は灰である。
 ところが、「火」には弱点もある。あまりに湿っぽい植物や大木は食べることを途中で放棄しており、また、水溜りの植物は食っていないから、「火」は「水」を嫌う。そして、食べ物がなくなれば、死んでしまうのか、あるいはヒトに察知されることなく姿を変えて、どこかへ飛んでいってしまう「鳥」のような「生き物」でもある。
 このように考えたであろう。なお、この章をいったん書き上げた後に知ったことをここに付記しておく。
 それは、タンザニアに住んでいる狩猟民トングウェ族であるが、彼らは、雷は四本足の大きな雄鶏のような動物であると今でも信じているとの、生態人類学者・伊谷純一郎氏(京都大学教授:故人)の報告があるから、小生の想像もあながち間違っているとは言えないであろう。
 また、アフリカ大陸の地中海側を除く広大な地域とアラビア半島のアフリカ寄りの地域の大半が、鶏の肉と卵を食べることをタブーにしており、他にはない奇妙な食文化分布をしていると、地理学者の鈴木秀夫氏(故人)により指摘されているが、これも雷が雄鶏であるとの信仰と密接に関連しているのではなかろうか。
(挿入ここまで)
 「鳥」のような「生き物」が再び活動するときが来た。何年もしないうちに再び近くで山火事があった。前回にも「残り火」のあった現場を見ている者が、今回の山火事の焼け跡も見に出かける。そこでも都合よく「残り火」を発見した可能性は高い。恐怖心は前よりうんと薄らいでおり、彼らの観察はより接近し、より広範囲に、より時間をかけて行い得たに違いない。
 「残り火」が少し大きく炎を上げると、お日様が雲から顔を出したときのように、瞬時に暖かさがもたらされることを知る。ちょうどその頃、朝晩が冷え込む時期であって、自分たちの仲間で極度に寒がる病弱な者がいたとすれば、「火」というものは、お「日」様と同じ恵みを昼夜もたらしてくれる有り難い存在として認識する。この「火」を持ち帰れば、暖房として役に立つであろうと考える。
 「火」は得体の知れない恐ろしい「生き物」だから、そんなことは止めようと言う者の意見が強ければ、そこでストップしてしまい、「火」の利用にはつながっていかない。その可能性のほうが高かったであろう。
 しかし、地球上のどこかでドラマが生まれる。死に瀕した誰かがおり、異常に寒がっており、暖房で命が助かるかもしれないという切迫した事態が伴えば、そのためだけだぞ、という条件付きではあったろうが、ヒトは「残り火」をおっかなびっくり手にして持ち帰ることになるのである。そして、その「火」のお陰で死に瀕した者が助かり、「火」に大いなる感謝を捧げた。
 有り得ないことはないドラマである。そして、ドラマは続く。「残り火」を持ち帰ったものの、最初は「火」は恐ろしいものであり、いつ何時大きく生長して我々皆を焼き殺してしまわないかとの不安が伴い、「残り火」を持ち帰った者と病人以外は、遠巻きに見守るしかなかったであろうが、数時間もすれば彼は「火」の取り扱いに慣れ、それを観察していた皆も学習し、「火」に対する不安も弱まる。
 「残り火」は「火」の赤ちゃんであり、食べ物が少なくなれば死ぬか、どこかへ行ってしまうものであり、食べ物が多ければどんどん成長して子どもになり、パチパチと声も出し、少しばかり怖いが我々に暖を与えてくれる有り難い存在として認識する。さらに食べ物を増やし続けると、「火」はあっという間に少年から青年そして大人へと急成長し、巨大な「生き物」として暴れまわるであろうことは想像に難くないと思ったであろう。
 たった1回の緊急的かつ限定的な「火」の利用として「残り火」を持ち帰ったのであるが、病人が救われたその翌日には、恐怖感を拭い去れない一部の者たちから反対意見が出されたであろうものの、「残り火」は永遠に手に入らない可能性が高いものであるから、恒久的に保存すべきとの意見が勝り、その日以降「残り火」は消されることなく、永久に燃やし続けられることになったのである。
 こうして、「呪術」の思考から、「あることをなせば、あることがなる。」という「火」の「科学」の一部をものにしたのである。そのように考えたい。

第3節 木の実の火食を始める
 生き物である火への恐れが薄れると、科学はさらに前進する。この生き物は、乾燥した木の枝や葉っぱ以外に何を食べたがるであろうか。好奇心旺盛な若者はきっとそう思ったであろう。その若者は遊びとして、その火の中へ木の実を放り込み、じっくり観察する。
 幸運にも、木の実がパチンと弾けて足もとへ飛んできた。それを拾い、火を眺めながら、恐る恐る口へ持っていったであろう。火という生き物は、自分の食べ物を他者に取られても怒る素振りは全く見せない。それを全身で確認しつつ、ゆっくり一口食べてみる。
 その食感は、生の木の実とは大きく変化しており、初めての味覚である。生から灰になる途中の段階の物、つまり火の命を養うものがこれである、と感じたであろう。
 さらにに自己観察は続く。火の命を養うものを食べた自分の体になんら異常は感じない。毒に変化している様子もなく、食べた自分が火だるまになって燃え上がる気配も全く感じない。時間が経っても健康を害する様子も全くない。でも、安心はできない。こんなものをあまり食べ過ぎると、自分が燃え上がって死んでしまうかもしれない。なんせ火という生き物が欲しがる食べ物と同じものを食べるのだから。
 そう思うと、逆に「火食」は極めて刺激的な遊びとなり、異常に興奮するものである。翌日に2度目のチャレンジを試みる。パチンと弾けてもそう都合よく足もとへ飛んでこないから、棒っ切れで掻き出す。一口食べてみる。昨日と変わらぬ食感だ。食べられない木の実の皮は火にくべてやればよい。火はすぐさま炎を上げて皮をきれいに食べ尽くしてくれ、火は実より皮を好むことを知る。塊より薄っぺらい物が燃えやすいという新たな知識も会得するに至るのである。
 こうして、頻繁に木の実の「火食」を刺激的な遊びとして行う若者が現れ、それを真似する若者が出てきてもおかしくない。こうして木の実の「火食」が若者文化として定着する。もっとも、初めはおっかなくて一口しか食べなかったであろうが、慣れてくると1個、2個と数が増える。通常の食事とは別の、刺激的なおやつとしての食文化である。これを繰り返しても、彼らの誰にも体に異常は起こさない。すると、若者に続いて若者予備群の子どもたちがその真似をし、この食文化は若年層に広がりを見せる。
 ただし、大人や老人は食に保守的であり、食べたことがない物を口に入れることに大きな抵抗感を持ち、誰も真似をしなかったであろう。しかし、2世代、3世代の経過で、当時の若年層が皆、老世代になってしまい、その集団全員にこの文化が定着し、永久に伝承されることとなる。
 海水でサツマ芋を洗い、泥落しと塩味付けを覚え、これを伝承している宮崎県幸島のニホンザルの「芋洗い文化」の発生と全く同じ道をたどるのである。ニホンザルの大人の場合、子どもの頃に海水をなめた経験からか、海水は毒という観念があるようで、毒を塗った芋は食えないという思い込みが強いのであろう。したがって、1匹の若ザルが始めたこの文化も、当時の大人は決して真似をしなかったという経緯がある。ヒトの祖先も同様であったろう。
 ところで、木の実の「火食」文化が広がりを見せる初期段階で、ヒトの祖先の大人は、単に真似をしなかったという消極的な対応であったのか、若者の「火食」文化を止めさせようと積極的な阻止行動に出たのか、どちらであろうか。大人たちはその保守性が表に立ち、止めさせたいと思ったであろうが、「火」は「生(なま)」を変化させて「灰」を出すのに対して、「ヒト」は「生」を変化させて「便」を出し、どちらも大きな変化を伴うものであり、「火食」しても心身ともに健康を害する様相がないから、毒だから食べるなとも言えず、じっと見守るしかなかったのではなかろうか。そんなふうに思ってみたい。
(ブログ版追記 愛知県犬山市にある日本モンキーセンター(隣接する京都大学霊長類研究所と密接に交流)では、ずいぶん昔から園内で職員が行う焚火にニホンザル(最初は子ザルだった)が火を恐れずに近づいて暖を取るようになった。そして、いつしか職員が焚火にサツマ芋を入れて焼き芋にして与えたところ、これをサルが食べるようになり、今では焼き芋が大好物となり、奪い合うようにして食べている。これは、人間が火を恐れず、人間がくれた安心できる食べ物ということから、焼き芋を食べるようになったのであろう。火に対する慣れはニホンザルに生じても、焼き芋を独自開発するのはちょっと無理であろうと思われる。)

第4節 芋の火食を始める
 その後、木の実の「火食」文化は、おやつという位置付けから、通常の食事への組み込みへと少しずつ進んでいったことだろう。そして、木の実にどれだけも遅れることなく、芋の「火食」へ向かったに違いない。
 最初は木の実と同じ方法で焼き芋を作ったであろうが、表面近くは焼け焦げ、芯は生のままでむだが多い。そこで、すぐに「石焼き芋」づくりを編み出したことであろう。熱く焼けた石を火から取り出して、その中に芋を挟み、焦げすぎを防ぎ、芋を丸ごと全部食べられるようにする調理法の発明である。
 火という生き物の力を横取りする方法であり、木の実と同様に、大人は決して食べなかったであろうが、世代から世代へと伝えられ、直ぐに「火食」文化の一つに加えられてしまう。石焼き芋は、芋を食べやすくし、消化を良くし、なによりも味を変化させるから、最高のご馳走となる。当時、主食となっていたであろう芋である。石焼き芋文化は広く定着していったに違いない。
 こうなうと、何にでも応用が利く。火という生き物の力を借りて、あれこれ次から次へと試し、「火食」文化に加えていく。今まで食用にしていた草の葉や茎も芋と一緒に大きな葉っぱに包み、焼けた石で蒸し焼きにすれば、柔らかくなって食べやすくもなる。今日、熱帯や太平洋諸島で日常的に採られている蒸し焼き調理法が、この当時から行われるようになったことであろう。

第5節 火は最初の家畜である
 「火」というものは、最初は皆が恐れおののいていた怖い「生き物」であったが、ヒトはたった2、3世代というあっという間の期間経過で、「火」なるものをものの見事に「家畜」にしてしまった。小生はそう考える。
 火を自在に扱えるようになった原人たちは、きっと次のように思ったであろう。
 火はヒトを超越した神であり、火山噴火や山火事は火の神が引き起こし、激しく燃え盛る火柱は神の化身であって、暖をとったり調理に使う焚火は精霊を持った生き物である。こうした宗教的な三位一体の認識を持ちつつも、同時に、自分たちは焚火という生き物を自分たちの好みの場所に住まわせ、自分たちの好みの勢いに制御し、かつ、その生き物の能力を最大限に引き出すことができる、一段上の存在であると。
 このことは、生き物である焚火を、無意識的に「家畜」として捉えたことになる
のである。ここで、「人間」の「おごり」なるものが初めて芽生えたことであろう。万物の霊長としての意識の第一歩を切ったのである。
 火の利用法は、近隣の部族社会に積極的に伝授されたであろうし、そして遠く離れた、まだ火の利用法を知らない部族社会との交流でもあれば、威張ってそれを教授したことであろう。
 原人の初期に、すでに道具を自在に扱う掌(親指対向性)を手に入れていたから、武器を用いてチンパンジーに戦いを挑み、勝利した可能性があったことを前に述べた。小生はこれを否定したが、もしそれがあったとしても、それは単なる弱い者いじめであって、ヒトの凶暴化に過ぎず、「おごり」ではない。その後において、石器の発明があったが遅々とした歩みであったから、より使い勝手の良い石器を作ったとしても、それは自慢比べの域を出ず、これも「おごり」ではない。
 これに対して、ヒトに大きく勝る力を持った神の化身である「残り火」という「生き物」を、かくも見事に手懐けてしまったという、まさに革命的な技術を体得した人間が、その英知に酔いしれたとしても不思議ではない。そこに「人間」の「おごり」を見るのは小生だけか。
 火の利用の体得は、人間の技術そして文化の第二革命として一般にこれは称賛されているし、小生とてそれを否定するものではない。しかし、そこに「人間」であるがゆえの「落とし穴」があることを決して忘れてはならないと思うのである。

第6節 生活形態・社会形態の変化
 本章の冒頭で、火の利用は史上最大の文化大革命と言ったが、火の利用によって植物性の食べ物の火食が定着し始めると、必然的に生活形態・社会形態に革命的な大きな変化をきたすことになるからである。
 それを以下、説明しよう。
 ヒトの祖先が火の利用をまだ知らなかった時代には、採集した食べ物は、銘々がその場で自分勝手に食べていたことは間違いない。毎日の食事は、子どもであっても自分で食べる分は自分で採集し、その場で食べるという時代であったのだ。
(ブログ版補記 のちほどの説明と関連するので、ここで先に紹介しておくこととするが、霊長類社会には崇高な食文化がある。いったん誰かが手にした食べ物は、それを手にした者だけに食べる権利「所有権」があって、絶対に他者
はそれを奪い取ってはならないという不文律があるのだ。イヌやネコは奪い合うがサルにはそれがないのである。これは一産一子がゆえに生まれた社会文化であり、これは幼少教育によって育まれる。よって、いかに横着な若ザルであろうと、子ザルが一瞬早く手にしたおいしい食べ物は、決して奪い取ることなく、うらめしそうに指をくわえて眺めているしかないのである。ただし、人間が餌付けした群にあっては、この不文律が物の見事に吹っ飛ぶ。人間がドサッと与えた餌は、自然界で細々と採集する食べ物とは全く異質のものとなり、悲しいかな、彼らを「餌を奪い合って持ち去る」という行動に走らせてしまうのである。営々として築き上げてきた霊長類社会の崇高な食文化がここに一気に崩壊し、群は荒れる。社会秩序の崩壊であり、群社会に喧嘩が絶えなくなる。よって、こうした餌付けの失敗経験から、近年の野生霊長類の生態研究は、餌付けをしないで行われるようになった。)

 今までの食習慣である「自分で食べる分は自分で採集し、その場で食べる」という形を取らずに、一つの集団の皆で仲良く火食するとなると、第一に「運搬」、第二に「共同調理」、第三に「分配」という、経験のない難しい行動を皆の合意のもとに一つずつ実行しなければ決して実現しない。
 この時代には、まだ現在のような家族制度は全く発生しておらず、一家の主が統率し、妻が家族のために調理するなどという生活とはかけ離れた社会形態であったことを念頭に置いておかねばならない。時代がずっと新しくなった集落の炉の遺跡でさえ、少数の炉しか存在し得なかったのである。これは一集団が共同で調理していた証拠である。
 火食が遊びの文化の域を出ない段階では、少数の仲間でときおり一緒に調理すること、それ自体が遊びであったろうから、遊びゆえに共同調理ができたであろうが、一集団の皆が毎日のように一緒に火食するとなると、そうはまいらぬのである。
 先にあげた3つの行動の難しさを説明しよう。
 第一の「運搬」については、採集したものを、その場では手を付けずに我慢してわざわざ持ち帰るという余分な労働をすることを皆で合意せねばならない。その集団の長老たちが皆を理解させ、従わない一部の者に対しては強制してでもそうさせなければならないのである。これだけを捉えても容易には事は運ばない。
 なお、ここで長老たちと言ったが、複数ではなく一人であったかもしれないし、年寄りではなく実年のリーダーであったかもしれない。いずれにしても、火食に関しては集団を統率するのはオスであったであろう。なんせオスの遊びから火食が始まったであろうから。
 第二の「共同調理」については、その面倒なことを幾人かが代表して行わなければならない。一つの小さな焚火に皆が集まり、銘々が運んできた物を銘々が焼いて食べようと思っても、狭くて混雑するし、混ざり合ってしまう。少量の木の実であれば、これは可能であるが、石焼き芋づくりとなると、これはとうてい不可能なことである。焼き石はどれだけもないから、一か所に集めないことには極めて効率が悪い。
 そのために幾人かの勤労奉仕が求められるのである。自分のことは何もかも自分でやるのがごく普通の時代にあって、他人のために勤労奉仕するなんてことは思ってもみなかったのだから、難しいというか、戸惑うことになろう。でも、オスどもが遊びで始めた火食であるゆえ、石焼き芋づくりもオスたちが遊び感覚で自主的にやったであろう。しかし、毎日のように単調な仕事の繰返しとなると、オスは飽きてしまう。オスとはそういう動物である。遊びという刺激がないことには容易には動こうとしないのがオスである。
 根気よく毎日こつこつ単調な仕事を繰り返しうるのは、子育てを必然的に経験して忍耐力を持つに至ったメス以外にいない。調理は、こうして彼女たちが受け持たざるを得ず、ある程度手が空いた、つまり乳離れした子どもを持つメスが勤労奉仕の中心となったことであろう。
 なお、「共同調理」の実施は、銘々が「運搬」してきた食べ物が誰のものだかわからなくしてしまい、霊長類社会に培われた食べ物の所有権を放棄させる大問題でもあり、難題を抱えているのだが、それは第三の「分配」という行動と密接に関連する。
 石焼き芋なり、各種の植物を蒸し焼きにした食べ物を皆に「分配」するという行動は、非常に高度な文化であると言わざるを得ない。
 現生のゴリラには、食べ物の分配行動は全く観察されていない。チンパンジーに散見され、ボノボに少し習慣化が生じているが、それも母親と乳離れして間もないどもとの間であったり、オス・メス間の性との交換条件付きであり、奉仕活動とは異質のものである。
 類人猿において、大人のオス間で分配が行われるのは、チンパンジーが動物狩りをした場合の獲物に限られるが、これも仲良く分け合うというものでは決してなく、第2章第7節で書いたとおり、別の意図があって行われるものである。
 ヒトは、ここで非常に高度な文化性を発揮する。ヒト特有の形態であるところの犬歯の退化(オス同士が戦うためにある牙=犬歯を使わなくなったがゆえの犬歯の退化)が、これを可能としたと小生は考える。
(ブログ版補記 犬歯の退化は人類進化の最大の謎であり、これを解き明かそうとした者は誰もいない。誰かがこれを解明したとしても、それは論証不可能であり、仮説の上に仮説を立てた単なる物語となってしまうであろう。だがしかし、その解明に挑戦したい。小生がそう取り組んで書き上げたのが「人類の誕生と犬歯の退化 目次&はじめに」である。お時間がありましたらお読みいただけると幸いです。)
 ヒトが犬歯を退化させたことによって、ヒトの「こころ」に「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」というものを生み出させ、これがあって初めて恒常的な「分配」行動が可能となるのである。小生はそう思う。
 仲間同士の間における軋轢を回避し、平和的に集団を維持する方法として人間社会が選んだのは、常日頃からエゴを抑え、我慢し、耐え忍ぶという努力を決して怠らないということであった。そして、何か事が起こったときには、「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」でもって、それを乗り切ったのである。それは、人類進化の長い道筋のなかで営々として築き上げてきた、ヒトが他のすべての動物に対して誇りうる、偉大な精神文化であると、小生は考える。
 この「こころ」が、採集してきた食べ物を1か所の焚火でまとめて調理し、それを皆に分配するという複雑な一連の方法を取ることを可能としたのである。
 ヒトそれぞれが「その能力に応じて働き」、ヒトそれぞれが「必要に応じて受け取る」という共産主義体制の理想を実現したのである。ここに人間性の本質がある。
 ところで、食糧の分配「必要に応じて受け取る」を適正に行うことは生易しいことではない。毎日のように複雑な多元方程式を解くことが求められるのである。食糧がたっぷり手に入ったときは、皆で好き勝手に手を出して気の向くままに食べればよいのであるが、いつもそのようにはいかない。時には不足することもあるだろうし、おいしいものとなると少量しか手に入らない。
 こうした場合には、乳飲み子を抱えた母親、妊婦、子ども、青年、大人が同量であってよいわけがなく、性差も考慮に入れなければならない。加えて、極端に不足する場合は、当然にして配分比率も変わってくる。したがって、毎日臨機応変に皆が納得のいく分配を円滑に行う必要が求められるのである。
 今日の未開の社会において、祭事や蜂の巣取りの後で、神官や長老が、ご馳走をものの見事に公平に分配している光景がよく見られる。公平とは同量ではない。乳飲み子を抱えた母親や妊婦は優遇される。太古の昔のヒトも、これをいとも簡単そうにやってのけたに違いない。小生はこれを絶賛したい。
 火の利用という文化大革命の最大の勝利は、科学技術の大きなステップアップではなく、所有権の放棄、勤労奉仕、そして食糧の適正配分という共産主義体制を確立させたことであったと総括したい。そこには、人間の「おごり」を抑えて余りある「やさしさ」と「思いやり」そして「気配り」を昇華させた人間性の醸成があったと信じたい。
 さて、人類がこの段階まで達すると、その呼称を「ヒト、オス、メス」と生物学的に表するのはいかがなものかと思われ、次章からは「人、男、女」と呼ぶこととする。

つづき → 第7章 ついに動物食を始める 

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント

食の進化論 第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得

2020年10月18日 | 食の進化論

食の進化論 第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得

第1節 ついに芋を発見する
 サバンナの灌木地帯には澱粉質に富んだ芋を作る植物が所々に自生している。ヒトの祖先は、まだそれを知らない。芋の葉っぱはすでに食糧としていたであろう。彼らは草の引き抜きは自然と行った。引き抜きはお手のもの(第3章第3節で説明した「親指対向性」による)である。茎が太い草であれば、茎や地下茎を食べようと思って、引き抜きを行なったであろう。
 でも、水辺に自生する芋類を除いて、サバンナの芋はツルを地上に出しているだけで、茎は極めて細く硬い。茎を見ただけでは、その下部に食用となる大きな根や地下茎があることは全く想像できない。最初のうちはもっぱら芋の葉っぱをもいで食べていただけであろう。
 イノシシは賢い。イノシシが誕生して、どれくらい経って芋を探し当てることができるようになったのかは分からないが、彼らは地下深くにある芋を見事に探し当てる。
 ヒトの祖先は、イノシシが芋を掘り出す姿を見て、地下にどでかい食糧が備蓄されていることに仰天し、歓喜の雄たけびを挙げたことであろう。これで、我々もやすやすと食糧が手に入ると。
 その当時のヒトの祖先は、一切の狩猟を行なわず、よってイノシシもヒトの祖先を全く恐れず、平和共存しており、ヒトの祖先に飢餓救済の情報提供をしてくれたのである。これでも食えよ、と。
 芋の発見の経緯は、案外こんなふうに簡単なものであったかもしれない。もっとも、善意でイノシシがヒトを救うということは有り得ない話ではあるが。
 イノシシに教えられてでは、ヒトの祖先は能無しとなってしまい、あまりにも情けないので、自力で発見したとして、それがどのようにして行われたのかを想像してみよう。
 いつものようにサバンナに採食に出かけたヒトの祖先が、芋を付ける植物とは知らないで、いつも通りに葉っぱをツルからもいで食べようとしていたところ、突然何かの危険が迫った。逃げねばならないが、せっかく見つけた葉っぱであるから、ツルごとエイッと引き抜いて手につかんだまま安全な所まで走った。危険が去った後、ツルの下のほうを見ると、少し膨らんでいる。たいていはツルが途中で切れてしまって、このようなことはまれであろうが、こうしたことが幾度も繰り返されれば、一度ぐらいはこんなことが起きることがある。偶然にこれを手にした者は、その膨らみを恐る恐る齧って毒見する。
 芋のなかにはアクが強すぎて、つまり毒があって、そのままでは食べられないものも多い。すり下ろして水にさらし、その後で天日干しする必要があるものもあるが、そこまでの加工技術ができたのはずっと後のことであり、この時代にはそのような芋は食べなかったであろう。でも、そのまま生で食べられるものも当然にある。一発でそのような有り難い物に巡り合える確率は高くないとはいえ、そういう幸運に当たることもある。
 いずれにしても、ツルを引き抜いた場所へ戻って、膨らみのその下にあるもっと大きな塊を期待して、芋探しを行なうであろう。ヒトの祖先の手は、だんだん親指対向性が出てきて物をうまく握れるような掌になってきており、木の棒っ切れ、大きな骨や牙を器用に使って、容易に土を深く掘ることができ、食用となる塊になった芋をすぐさま発見する。
 芋は地下で生長し、どんどん大きくなる。地上部が枯れた頃に最大となる。乾季が進むとサバンナの植物で食べられるのは硬い豆と柔らかい芋だけとなる。どちらがいいか、豆より芋がいいに決まっている。芋のツルがどんな形で残るのかもすぐに覚えた。少々動き回れば、すぐに発見できる。こうして、とうとうたっぷり腹の足しになる巨大な塊の芋を安定して手に入れることが可能となったのである。
 1種類の芋を食糧として確保した後、葉っぱが異なる別の種類の芋の発見にも挑戦し、毒の有無、毒の程度を把握し、自生する芋の全種類のうち、食用に最も適するもの、少しなら食べていいもの、というふうに全ての芋の性状を早々に修得したことであろう。
 こうして、ヒトの最初の本格的な代用食である芋が登場したのである。これにより、エネルギー源を主として芋から得るようになったことは間違いない。なぜならば、今日の未開の地における原住民の食生活は、熱帯雨林であれ、サバンナであれ、植物が育っている地域であれば、自生しているものにしろ、栽培種にしろ、たいていは芋が主食になっているからである。ただし、アフリカの湿地帯には芋の自生がなく、今日のアフリカの湿地帯の栽培種は東南アジアなどからの移入種による。
 芋の発見により、ヒトの祖先は、水生環境に別れを告げても、サバンナでの生息を可能としたのである。もっとも、ヒトの祖先は、果物と柔らかな草の葉っぱを見つければ、当然のことであるが、これらが本来の食であるから、まずそれを食べた。次に、熟す前の柔らかい豆である。それらが手に入らないとなると、芋を探し求め、何種類かの芋を食べた。乾季には、サバンナに生息するチンパンジーが豆ばかり食べているように、ヒトの祖先は乾季には芋ばかり食べたであろう。

第2節 消化が困難な澱粉質
 ヒトの祖先にとって、芋はあくまでも代用食である。エネルギー源となる炭水化物は、今までは果糖や蔗糖であり、澱粉質は少なかった。果糖や蔗糖はそのまま吸収されて体内でブドウ糖に容易に変換されるが、澱粉質は腸での消化を必要とする。
 代用食とした芋は澱粉質の塊であり、澱粉消化酵素をたっぷり分泌させる必要があり、そうでないと消化し切れない。芋を好んで食べるイノシシは澱粉消化酵素の出が非常に良く、完全消化している。芋を食べ始めたヒトの祖先にとって、芋は消化にたいそう負担がかかる代物であり、厄介なものであった。
 当初は澱粉消化酵素の分泌がまだ十分ではなかったので、芋ばかり食べていると未消化物が腸内に残り、大腸で異常発酵するのである。つまり腸内環境を悪化させてしまう。完全な植食性であっても、栄養素の種類が異なり、たとえ柔らかいものであっても完全に消化することができないのは当然のことである。腸内環境の悪化は免疫力を低下させ、様々な病気を拾うことになり、新たな問題を抱え込むことになった。
 案外知られていないが、別の問題も生じた。我々が食べるものには、体を冷やす食品と、体を温める食品とがある。ヒトの祖先や類人猿にとって、熱帯の果物と葉っぱは、体を冷やす作用があって誠に好都合であったが、それらはヒトの祖先たちの口には少ししか入らない。芋は、そのようには体を冷やしてくれない。
 ましてや動物食をしたものなら、体温はグーンと上がる。体に熱がこもりがちになり、熱中症の危険が大きくなる。ライオンの体温の経時変化がどうなっているか知らないが、ライオンが獲物を食べた後、木陰でベターッと寝そべっている最大の理由は、食後の体温上昇で暑さ負けし、苦しんでいるに違いない。
 ヒトの祖先も、芋を食べた後、しばらくして暑さに苦しみ、木陰で昼寝を決め込むしかなかったであろうが、満腹感が勝って、幸せな夢でも見たことであろう。
 小生は通常1日1食にしており、夕食しか食べないが、2時間もすると体温上昇が自覚できる。やたらと体が熱くなるのである。特に肉を多く食べるとその傾向が強まる。胃腸の蠕動による運動エネルギー発生に伴う熱産生(運動エネルギーの約3倍)であれば、30分もすればそれが自覚できるであろうが、ずっと遅れて感知するのであるからして、これは澱粉質や蛋白質の消化による分解熱以外に考えられないのである。
 また、小生はたまに1日断食をやり、その前後の日には動物性蛋白質をとらず、ご飯はわずかとし、野菜主体の少食とするのであるが、そのときは体温上昇は自覚できないし、冬場に断食すると体が冷えて極度な寒がりとなる。病気治療のために、完全な野菜食を何日も続けた人は、低体温になることが知られており、食べ物と体温は密接な関係にあるのである。
(ブログ版追記 もっとも、半年1年と完全な野菜食を続けると、腸内細菌叢が大きく変化し、食物繊維を腸内細菌がスムーズに分解するようになって、そのとき熱産生し、
低体温症から脱却できて、免疫力も格段に上がる。これが本来のヒトの祖先(芋を代用食とする前)の姿に思えてならない。)

第3節 獲得形質を遺伝させる
 ヒトの祖先は新たな世界へ進出したが、彼らの食べ物は総体として澱粉質に大きく偏り、初めのうちは食性がとても体に適合できていなかったと思われる。これでは活力が乏しくなり、繁殖力も弱くなるので、細々と生きつないでいくしかない絶滅危惧種のようなものであったろう。食性の変化が最大の難関であり、完全に適合するには相当の期間を必要とするからだ。
 中国に生息するパンダはクマの一種であり、5百万年前は雑食性であったと考えられている。そんな彼らに食糧危機が訪れたが、定住を選び、消化が極めて悪い竹だけを食べるように進化していった。そして何百万年かにわたって姿形を変え続け、消化器官を大幅に作り変えることに成功したのである。
 ヒトの祖先は、消化器官を作り替えるまでの必要はなかったが、澱粉消化酵素の分泌を格段に強化する必要に迫られ、そして、それを可能にした。現在の人類は、イノシシやブタとともに、この消化酵素が他の動物に比べて膵液から抜きん出て良く出るのであり、また、共通して唾液にも高い性能の澱粉消化酵素を獲得している。人類の場合は、芋の生食をするにあたり、腸の負担を少しでも減らそうと、よく噛んだからであろう。そうするなかで、唾液にその機能を獲得していったと思われるのである。人類が、どういうわけか、その発生初期に犬歯を退化させたことが幸いして、臼歯での磨り潰しを可能としたのである。(2022.5.17 この段落を一部訂正) 
 澱粉質の食糧の多食による、選れた澱粉消化酵素の要求が、ラマルクの用不用の法則にしたがって、それを獲得し、ついにその形質が遺伝するまでになったのである。こうして、ヒトの祖先は「食性革命」を成し遂げた。どれだけの期間にわたって代用食である芋を食べ続けた結果、獲得形質が遺伝するようになったのか、それは不明であるが、わずか20~30万年しか要しなかったのではなかろうか。

第4節 第1回出アフリカ
 現生人類にずいぶんと近づいた原人は、化石の出土から約180万年前にアフリカの大地溝帯周辺に出現したことが分かっているが、ほぼ同じ頃に、すでに中央アジアのグルジアに、そしてインドネシアのジャワ島にも原人がいたことが判明している。さらに、北京の近くでは人骨は発見されていないが、166万年前のものと判明している石器が多数発見されており、ここにも原人が住んでいたに違いない。
 原人がアジア各地で誕生したとの説は、いくつかの理由から完全に否定されており、アフリカの大地溝帯から移り住んだ以外に有り得ない。なお、原人が誕生した後、すぐに出アフリカしたというのは不自然であり、原人の誕生は「食性革命」を成し遂げるのに要したであろう20~30万年を加えた、少なくとも約200万年前のことであろう。
 いずれにしても、原人の一部の者たちは、東アフリカの大地溝帯周辺で幾十万年かにわたるサバンナ生活に馴染んだ後、第1回出アフリカを図り、ユーラシア大陸へと広がっていったのである。大変な距離のように思われるが、この移動はあっという間に行われたと考えられている。
 一度新天地を求めてサバンナへ出たヒトの祖先であるからして、移動性が高いという習性は当然に引き継がれているであろうから、サバンナが住みにくくなれば、さらなる新天地を求めて100キロ、200キロ先へ移住するのは容易であろう。1世代で100キロ先へ進んだとすると、2、3千年もすればユーラシア大陸のほぼ全域へ進出できる計算になる。参考までに、ごく最近のことであるが、1万数千年前に陸続きになっていたベーリング海峡を渡ってアジアからアメリカ大陸へ進出した人類は、これよりもっと速い速度で移住し、アメリカ大陸の南端に達するのに約千年しか要していない。
 このように移動速度が速かったのはなぜだろうか。
 単純に考えれば人口爆発が想起されるが、当時のヒトの繁殖能力からしてこれは有り得ない。そのような痕跡は全くないし、急激な人口増加は、ごく最近の約1万年前にほんの一部の地域で初めて起こった出来事である。次に、数年間にわたり大地溝帯全域に大旱魃が襲い、その結果、その地に住む原人のほとんどが、歴史時代に何度もあった民族大移動と同様な事態に追い込まれたことが想定される。そうなると、南アフリカにも原人が相当数移動し、先に移住していた頑丈型猿人を圧迫し、彼らを早々に滅亡へと追いやったであろう。しかし、頑丈型猿人は約100万年前まで生息していたから、第1回出アフリカのときには、そのような大規模な民族移動のようなものがあったとは考えられない。
 そこで、最も想定されるのは、次の事情が生じたからであろう。
 大地溝帯は激しく地殻変動を繰り返しており、ときには1つの湖だけが一気に干上がり、かつ、河川が消失することがある。そのような変動が起きれば、毎日多量に水を補給せねばならない宿命を持つヒトであるから、その水系での生活は不可能となってしまう。難民の発生である。彼らは近隣の水系へ移ろうとしても、そこはすでに限度いっぱいの人口密度になっていたであろうから、新天地を求めてさすらいの旅に出るしかない。
 しかし、近隣には安定した食糧確保ができる広大な土地はもうどこにもなかった。だいぶ先へ進んだ一部の者たちが狭いながらもなんとか食糧が確保できる土地を見つけて定住したが、後からそこへたどり着いた者たちは一時的にそこに住まわせてもらうも、食糧の少なさからその地での永住をあきらめざるを得ない。やむなくさらに先へ進み、あちこち狭いながらもなんとか食糧を確保できる土地を見つけて定住した。その結果が、あっという間にユーラシア大陸の方々に散らばってしまったのではなかろうか。
 当時は、アフリカとアラビアとを分けている紅海は先端部がつながっており、また、アラビア半島には森林地帯が広がり、かつ、ペルシャ湾の先端部は陸続きになっていたであろうから、アフリカ大地溝帯からユーラシア大陸へは真っ直ぐに行くことができ、長距離を移動するのに何ら障害がなかったのも幸いしたことであろう。
 原人は、この段階では、完全な植食性を通していたに違いない。主食は芋である。植食性であるがゆえに芋を探し求めて、かようにも広範囲に散らばったとしか考えられないのである。
 グルジアや北京の近くへ進出した原人のその後の化石は発見されていないから、彼らは早々に滅亡したであろう。なお、有名な北京原人は、もっと後に進出した別の原人である。
 動物は一定の数以上の個体数が生息していないと、やがて絶滅する。動物は近親相姦を避ける性向を持っており、互いの血が濃い関係にあると性交渉をあまりしなくなる。あったとしても、血が濃い関係にあると劣性遺伝の悪影響で子孫が育たず数を減らしていく。グルジアや北京の近くで孤立した原人は、そのような道をたどったことであろう。
 インドから東南アジア一帯の熱帯雨林に進出した原人はそうではなかった。湿潤気候ゆえに人骨の化石がほとんど残らないから証拠はないが、当地には何種類もの芋が豊富に自生する地帯が連続して存在しており、人口密度が希薄とはいえ、グルジアなどよりは密度が高く、かつ、他の集団との交流が可能であっただろうから、一定数以上の個体数が生息し得て、子孫も長く繁栄したことであろう。
 ジャワ原人が約10万年前まで生存し続けることができたのは、そのお陰であったと考えられる。なお、原人がジャワ島へ進出した頃は、氷河期の海面低下によりインドネシアの島々は大半が陸続きとなっていて、マレー半島から歩いて行けたのである。
 ことのほかアジアの湿潤地帯には芋の種類が多い。ヤム芋はマレー半島、タロ芋はビルマが起源であり、それ以外にもその地その地で様々な芋が自生している。加えて、マレー半島が起源のバナナがある。さらにアジアの温帯の照葉樹林地帯はヤム芋の一種である山芋、タロ芋の一種である里芋の原産地となっている。なお、日本列島に自生する芋は山芋だけである。
 一方、アフリカには芋の自生がわりと少ない。アフリカ南部のサバンナに住む採集狩猟民は自生の芋を採集して主食としているが、アフリカの熱帯雨林では自生する芋がないので、そこに住む民族は、時代が新しくなってからアメリカ原産のマニオックとアジア原産のヤム芋、タロ芋そしてバナナを移入し、これを主食としている。
 なお、サツマ芋、ジャガ芋は南米が起源であり、新大陸発見後にジャガ芋は広まったが、サツマ芋はそれ以前にポリネシア人が南米との交流のなかから持ち帰って栽培し、太平洋の島々に広まった。
 世界で最も未開の地、ニューギニアの高地人はサツマ芋とタロ芋を主食とし、ほとんど芋しか食べないと言っていいほどに芋食に徹している。このように熱帯及びその周辺地帯では、現在でも採集狩猟民のほとんどは芋が主食となっているから、ヒトの祖先たちも芋を求めての遠距離移動をした可能性が極めて高いと言えるのである。
(ブログ版追記 芋
の発見は頑丈型猿人が最初であったろう。彼らの臼歯には泥による擦り減りが顕著に認められるからだ。なお、通説では、華奢型猿人や原人の臼歯には擦り減りが認められないことから、彼らは肉食中心であって芋を食べなかったとされているが、これはとんでもない誤りだ。我々も泥が付いたものを食べたときには、ジャリッとして気分を悪くするが、それを気にしなかったのは頑丈型猿人だけのこと。ジャリジャリした気分悪さが度重なれば、そのうちに面倒でも芋を洗って食べるようになるであろう。宮崎県の幸島に住む餌付けされたニホンザルはサツマ芋を海水で洗って食べる文化を持っているし、また、未確認情報ではあるが、岐阜県の長良川の中流域に住んでいる野生のニホンザルは畑から掘り起こしたサツマ芋を川で洗って食べているとのことであり、この「芋洗い文化」は華奢型猿人や原人に広く存在したと考えてよいだろう。) 

第5節 動物食での出アフリカはない 
 この頃の原人は完全な植食性であった根拠を別の角度から説明しよう。
 動物食をするようになった動物は、必ず縄張りを持ち、そこに定住するのを原則とする。獲物となる大型草食動物が草を求めてどこかへ移動して自分の縄張りからいなくなったとしても、その場に残り、わずかに残った小動物で飢えをしのいでいる。
 ヒトの祖先が第1回出アフリカを図った頃、東アフリカの大地溝帯の東側は、すでに現在の状態に近いまでに乾燥化し、草原が広がっていた。それに併せて、もっぱら草を食べる大型草食動物が大繁栄していたことが分かっており、動物食中心の食性であれば、いくらでも獲物が捕れるのであるから、サバンナにどっしり腰を据えていればいいのである。
 ヒトの祖先が動物狩りを覚えていたのであれば、サバンナほど快適な場所はなく、そこから出ていく理由は何もない。猛獣も当然に数を増やしてきたに相違ないが、草食動物を減少させることは有り得ない。両者の生息数は比例して増減する相関関係が強いからである。
 欧州人がアフリカへ入り込む、ついこの前までは、サバンナにはいっぱい大型草食動物がいた。サバンナが完成した約200万年前からずっとそうであったろう。
 
気候変動で草食動物が数を減らすのは、湿潤化により草原が森林に取って代わられたときだけである。もし、そうした事態になったら、ヒトの祖先にとっては誠に好都合であり、果物や柔らかい葉っぱがふんだんに手に入り、いつまでもアフリカにいられるのである。
 蛇足ながら、ヒトの祖先が猛獣に恐れをなして、猛獣のいない新天地を求めて出アフリカを図ったなどということも全く考えられない。猛獣がいないのは熱帯雨林の奥深くに限られるからであり、ヒトの祖先が猛獣から逃れるとすれば、そこへ入り込むしかなく、現生のボノボのように密林でひっそり暮らすことになるのである。

 原人も時代が進むにしたがって様々なタイプの原人が登場する。初期の原人はエレクトス原人と総称されているが、体型が2タイプあり、すらりとした体型の原人をエルガスター原人として別の原人とする見方もある。時代が大きく進んで、約60万年前にハイデルベルゲンシス原人が登場した。彼らはエルガスター原人が進化した者とされている。そして、旧人と呼ばれるネアンデルタール人が約30万年前に登場した。ハイデルベルゲンシス原人が進化した者とされ、寒冷地適応で大きく体型を変えていき、3万5千年前に絶滅した。
 ついでに現生人類のサピエンス人の起源も紹介しておこう。サピエンス人は、アフリカでハイデルベルゲンシス原人から進化し、20万年前ないし15万年前登場したとされている。この年代決定は最近のDNA解析によるものでかなり正確であると考えられている。
 そして、サピエンス人は何度目かの出アフリカによって、世界中に広まった。西アジアには10万年前に、アジア全域とオセアニアには7万年前に、ヨーロッパには4万年前に進出した。これを元にして様々な人種が生まれたのである。人種の起源として、ユタ大学のH・ハーペンディングらにより唱えられている「ビン首効果」というものがある。東アフリカの大地溝帯で、現生人類の一部分一部分が時間差を置いて、ビンの首からドクッ、ドクッと水が出ていくがのごとく、各地へ分かれて散っていったというものである。こうして元の集団や先に出て行った集団と隔絶されたり交流がないと、遺伝子バランスが崩れて、それぞれが異なる遺伝子を持った集団に変化し、それが人種の起源である、という説明である。
 気候の変動と大地溝帯の地殻変動による時々の環境悪化のたびに、そこに住む現生人類の一部小集団が故郷を後にしたということになり、腑に落ちる話である。このビン首効果は、何もサピエンス人だけに限ったことではなかろう。その前に登場した旧人やさらにその前の原人とて、そうであったと考えたほうが素直である。彼らも皆、大地溝帯の住民であったのだから。
 したがって、エレクトス原人、エルガスター原人、ハイデルベルゲンシス原人、そしてネアンデルタールもビン首効果により、その都度出アフリカしたと考えれば、彼らの体型がそれぞれ異なり、ときには一部地域で年代を重ね合わせて生存していたことの説明もすんなりできてしまう。出アフリカは180万年前の第1回以降、数万年前までの間、何十回も繰り返し繰り返し行われたと結論付けたい。
 ところで、ハイデルベルゲンシス原人が誕生した頃の約60万年前以降のヒトは「火の利用」を知っていたようであり、次章で述べるように火の利用は狩猟につながり、それにより動物食中心の食生活をするようになれば、先に考察したように出アフリカの動機はなくなる。その当時は大地溝帯周辺は安定して広大な草原が広がっており、草食動物がうじゃうじゃいたのであるから、獲物は取り放題であったはずだ。
 でも、ヒトの祖先たちは出アフリカした。このことは、ヒトの本性として、ずっと植食性の食を追い求めてきた大きな証拠となろう。なお、ヒトの祖先たちが芋を食べていたとする確たる証拠はほとんどないが、最近、わりと新しい年代のものではあるも、その証拠が見つかったので、それを紹介しておこう。
<2020年3/24(火) 配信 朝日新聞デジタル>
 南アの洞窟から17万年前の焼き芋 最古の調理の証拠か
 植物は分解されやすいが、今回の根茎は炭化していたため保存された。直径は1センチ余りで、大きさや組織の形状などから、今もアフリカに広く分布するヒポキシス属植物の一種「Hypoxis angustifolia」とみられる。炭水化物が豊富で生で食べられ、調理すればさらに軟らかくなる。小さいながらもホクホクの焼き芋に舌鼓を打っていたようだ。
 集めた芋を持ち帰って調理した形跡から、家族などへも分配していたらしい。この植物が当時から広く分布していたなら、移動先でも安心して確保できる食料だったはずだと研究チームはみている。

つづき → 第6章 火食が始まる

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第4章 サバンナでの食生活

2020年10月11日 | 食の進化論

食の進化論 第4章 サバンナでの食生活

 ヒトの遠い祖先は、熱帯雨林での樹上生活に別れを告げ、いったん水辺での水生生活をかなりの長期間にわたって過ごした後、再び陸に上がり、灌木林があるサバンナでの生活をするようになったと考えられる。
 そこで、人類進化の歴史を化石から見ておかねばならないが、これを説明しだすと、あまりにも長くなるから割愛するも、ヒトの祖先たちが足並みを揃えて陸に上がったのではなく、何十か所にも分かれ住んでいた水域が一つまた一つと消えていくに伴って、一水域ごとに(その集団が水生生活ができなくなったグループごとに)、やむを得ず陸上生活をするようになったと考えられる。よって、遅く水域から離れた集団が、よりいっそう水生進化した特徴を備えているのである。
 そうしたことから、サバンナへの進出は五月雨的なものとなるが、大づかみして言えば、第1弾が猿人のグループであり、現生人類より現生類人猿に近い形質を備えている。第2弾が原人のグループであり、出アフリカ第1号にもなり、随分と現生人類に近付いたが、まだまだ差がはっきりしている。第3弾が旧人(原人に区分されるハイデルベルゲンシスがその前にあるが)のネアンデルタール人、そして最後となった第4弾が現生人類であり、ともに出アフリカした。
 さて、食生活を考えるとき、ヒトの生息密度をまず頭においておかねばならない。原始時代の人口密度について、マーヴィン・ハリスは「生態人類学から見た文化の起源」(ハヤカワ文庫)の中で、1平方マイル(約2.5平方キロ)当たり1~2人以上にはならなかったであろうと言っているし、埴原和郎氏は「人類の進化史」(講談社学術文庫)の中で、1人当たり10平方キロが必要であったと推計されると紹介している。つまり、1平方キロ当たり0.1~0.5人といった非常に希薄な生息密度である。タンザニアのサバンナを遊動するチンパンジーのそれは、1平方キロ当たり0.2頭と推計されており、これと大差ないのである。

第1節 サバンナに生息するチンパンジーの食生活
 チンパンジーは熱帯雨林の中に住んでいるのだが、サバンナへ出て行っているチンパンジーもどれだけかはいる。よくもまあこんな乾燥した地帯に住めるなあ、と動物学者たちが感心するほどに劣悪な環境に生息している。それはタンザニアのサバンナに生息するチンパンジーであるが、彼らの食生活を少し紹介しておこう。
 30~40頭の群からなる彼らの遊動域は、食糧となるものが少ないことから、500平方キロ以上に達することがある。雨季には川辺林に入り、彼らの本来の食である果物を中心に、木の若芽、若葉や花、さらにはショウガなどの柔らかい茎を食べているが、それがなくなる乾季には、大きく移動し、サバンナに散在する灌木地帯へ出かけて、豆の生る樹木を求めて遊動し、いろいろな種類の硬く熟した豆ばかり食べ歩いている。
 なお、かような厳しい食糧事情にあるも、彼らの狩猟による動物食の頻度は、食が豊かな熱帯雨林性チンパンジーの狩猟頻度より少ないとの報告がある。
 チンパンジーがいつからサバンナで生活を始めたのかは全く分かっていない。森林と同様サバンナでも彼らの化石が出ないのである。化石がないからといって、最近のことと決めつけることもできない。よって、乾燥化による熱帯雨林の消失によりサバンナへ出て行ったということしか言えないのであるが、ヒトの祖先が水生環境からサバンナへ出て行ったとき、どのように食性を変えていったか、少しは参考になろうサバンナ性チンパンジーの食を、簡単ではあるが、以上のとおり、まずは紹介させていただいた。

第2節 サバンナにおけるヒトの祖先の新たな食
 水生環境で進化してきたヒトの祖先が今までに食べていたものは、柔らかい双子葉の草が主であり、次に、湖沼に流れ込む川沿いに発達した川辺林の果物や柔らかい豆であったろう。
 まず、サバンナにおいて、食糧事情が良くなる雨季に何を食糧にしたかを考えてみよう。彼らは、川辺林だけでは物足りなくなり、今までほとんど足を踏み入れたことのない灌木地帯にも出かけ、まずは果物を探したであろう。ブドウやイチゴの仲間の小さな実であれば、けっこう手に入る。そして、灌木に実を付ける豆は、川辺林と類似性があり、これも食べられるものが多い。まだ熟しきっていないから、硬くはないし、なかにはサヤごと食べられる豆もあるから重宝する。
 次に、水生植物に多くみられる双子葉の草に似た種類のものもサバンナの所々に生えている。今日の我々が食べる野菜の原種であるが、残念ながら、こうした植物はイネ科で代表される単子葉の草に負けて、どれだけも生えていないものの、広範囲に遊動すれば、多少は手に入ったであろう。ただし、若葉でないと硬くて食べにくい。双子葉の草は、ヒトの祖先の主食であったろうから、そうした若葉を貪り食ったことであろう。サバンナの今日の原住民は、これらのものを大なり小なり採集して食べている実績があり、ヒトの祖先はすんなり食に取り入れたに違いない。
 これだけあれば、雨季には十分に事足りる。なお、単子葉の草は、雨季の初期にはそこらじゅうで芽吹き、小さな新芽は食べられるが、他にいくらでも食糧となるものがあり、それらには手を付けなかったであろう。
 加えて、もっと容易に多量に手が入るものがある。それは、木の葉っぱである。今日のタンザニアのサバンナ性チンパンジーは、雨季に芽吹いた木の若芽、若葉を盛んに食べている。熱帯雨林からサバンナの生活に移った彼らであるからして、これは当然のことである。
 そこで、ヒトの祖先は、これらを食べたであろうか。
 今日の人類で、木の葉っぱを盛んに食べる民族は皆無である。食べるにしても、お茶の葉っぱとか、限られたものしかないし、それも主として薬用とされており、食べるにしてもわずかな量である。ただし、日本にはやたらとおいしい木の芽がある。日本人は、タラの芽、コンブリの芽、ウドの芽などをやたらとうまがって食べる。春の山菜、珍味として貴重がられる。もっとも、これらはアクが強く、てんぷらにするか、湯がいて調理する必要があり、また、そうもりもりと食べられるものではない。
 熱帯雨林の木の葉っぱの多くにかなりの毒があり、それ以外の樹木の葉っぱも特定のアルカロイドを多く含むなど、そうそう食べられるものではないことは既に述べた。今日のチンパンジーが木の葉っぱを食べるのに対し、現在の人類が木の葉っぱをほとんど食べないということは、ヒトの祖先が長く水生生活をするなかで、柔らかくて毒がほとんどない草が十分に手に入り、木の葉っぱまでをも求める必要がなくなり、その解毒能力をほとんど失ってしまったからと考えていいであろう。
 なお、草原進化説に従えば、熱帯雨林では主食の一つにしていた木の葉っぱであるからして、草原に出てからも、その解毒能力を保持しているから、今日のサバンナ性チンパンジーと同様に、ヒトの祖先も木の葉っぱを盛んに食べたであろう。したがって、現在の人類もそのような食性を持ち備えていてしかるべきである。日本人のような若芽食いは、アクを殺したり抜いたりする調理法をするようになった、ごく新しい食文化である。草原進化説の疑問が、ここでも生ずる。
 さて、乾季になると、食糧事情は一変する。硬く熟した豆しかない。チンパンジーのように、硬い豆ばかりをボリボリと齧るほどの顎の力はすでに失っていた。特に、子どもには全く歯が立たなかったであろう。ヒトの祖先の頭蓋骨の化石から、現生類人猿に比べてヒトの祖先の顎の骨格が相当貧弱になっていたことが分かっており、これは水生生活を長くしてきたことにより、柔らかい草を中心とする食生活に変わっていったことに起因するものと言わざるを得ない。
 乾季の初期には、豆もどれだけか柔らかい。でも、サヤが異常に硬いものがある。そこで、大きな石の上にサヤ付きの豆を置き、小さな石を手に持ち、豆の殻を壊す方法を考案したであろう。道具の使用である。でも、これはヒトの専売特許ではなく、今どきのチンパンジーにもこれができる。下の大きな石がぐらつくようであれば、小石を挟み込んで安定させる能もある。これは、ある地域でチンパンジーの間で次世代へと引き継がれている文化である。すでに「神の手」を手に入れていたヒトの祖先であるから、手先はチンパンジーよりずっと器用であり、この方法を容易に考案し、伝承していたであろうことは確実である。
 しかし、硬い豆を挽いて粉にする技術までは取得するに至らなかったと考えられる。石臼が登場するのは極めて新しい時代になってからであるから。なお、石臼ぐらいは考案できても良さそうなものではあるが、製粉するにはかなりの労力を必要とし、そんな面倒なことをしなくても、ほかに何か手っ取り早く口に入れられるものを探し当てることができたであろうからと思われる。
 次に、豆よりずっと粒の小さい穀類が自生しており、それを食べようとしたかもしれない。現生類人猿はこれを食べないが、小粒ながら豆の延長線上にあり、新たな食材とするのに抵抗感は小さいと考えられる。自生の穀類を採集して食べる習慣は世界各地の未開民族に残っており、可能性としてはある。ただし、アフリカの草原には自生群落はさほどなかったし、また、これを見つけたとしても、豆と同様に硬くてそうそう食べられるものではない。食べたとしても、それはせいぜいおやつ程度の食べ方であろう。
 アフリカの草原に住んでいる真猿類のヒヒは、乾季には穀類より小さな粒の草の種を求めて、絶えずいざりながら少しずつ移動し、一日中これを摘まんで食べている。ヒトの祖先も彼らの食事風景を眺め、何を食べているかと興味を持ち、それを知ったであろうが、新食材の候補にはならなかった。苦労して採集しても、どれだけも腹の足しになるものではないからである。おまけに消化不良を起こしてしまう。
 なお、ヒトの祖先はこの当時は、豆、穀類、草の種を食べるとしても、そのまま生食するだけであり、ゆでたり煮たりして食べるようになったのは、火の利用を覚え、かつ、土器を作るようになってからのことであり、ごく最近のことである。また、穀類を石臼で挽いて水で練り、石焼する方法も同様である。
 この時代に、豆や穀類を水にさらしてアクを抜いたり、ふやかして柔らかくしてから食べたかどうかであるが、現生人類の縄文人はこれを行なったものの(もっとも火を利用して煮たのだが)、当時のヒトの祖先がそこまでのことをやって生食したたかどうかは、まったくもって不明である。

第3節 ヒトは糞食をしたか
 次にどんな食糧が候補に上がっただろうか。当時、草食動物はヒトの祖先を恐れることなく、同じ植食性の動物として、違う種類の植物を食べながら共存し、時には両者が入り混ざることもあったであろう。現生の草食動物と真猿類がときどき混在して、けっして争うことなく採食しているように。
 そうした生活をするなかで、可能性の高い食糧が一つある。そこらじゅうに落ちている草食動物の糞を食べることである。これはおおいに有り得ることと思う。現生のゴリラは、葉っぱが主食であるがために、彼らの糞は未消化物が多く、まだ栄養が残っており、これを再食することがしばしば観察されている。
 草食動物がもっぱら食べる単子葉植物の葉は、ヒトの歯ではとても磨り潰すことはできず、自分たちの食糧にならないことは知っていたが、草食動物がそれを食べて出す糞はあらかた磨り潰された柔らかい塊になっており、食べられるかもしれないと思ったであろう。水生植物を多食していたヒトの祖先に、ゴリラと同様の習性があったとしたら、糞食は極めて自然に行われたであろう。その糞には、まだどれだけか腸内発酵で生じた栄養物があり、命をつなぐことができる。なによりも簡単に手に入る食糧であるからだ。
 なお、糞食は、異種間のものについても数多く行われている。イヌの家畜化は、イヌがヒトの糞を食べに来たことに端を発していると言われるくらいであり、ブタにいたっては今日、他の動物の糞を喜んで食べているような感すらする。
 糞食という、なんとも情けない食性があったなどとは思いたくもないが、飢餓に瀕すればそうでもするよりしかたがなかったであろう。もっとも、今日の人類にこの習慣はないから、初めからそのような習慣はなかったとも言え、真相は小生の想像を超えたところにある。

第4節 チンパンジーとの競合
 ここで、少し脇道にそれるが、食糧難になったときに、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先たちの間に争いがあったか、なかったか、について考えてみよう。
 両者が同時にサバンナに出たわけではなかろうが、乾燥化が大きく進んだ頃には、両者が同一地域に生息し始め、互いの存在を認識していたに違いない。
 ここまでは、他の動物との食糧の競合をほとんど考えてこなかったが、自然の生態系には様々な動物が生息し、採食で競合することがある。動物を捕食する猛獣の類は別にして、多くは植物を食べている動物についてみてみると、基本的には動物の種ごとに食べ分けを図っているものの、競合する場合も多々ある。
 競合の対象となる植物を力の強いものが独占し、独り占めして食べつくすかといえば、そうではない。互いに緊張関係にある種であっても、共存しようという意思が働くようであり、強者は弱者のためにどれだけかは残すのが一般的である。
 今日、ゴリラとチンパンジーが共存する地域がある。近年、観察が始まったばかりであるので詳細は不明だが、彼らは互いに食性をどれだけか変え、特に体が大きいゴリラのほうが譲り、極力接近を避けているようであるとの山極寿一氏(京都大学教授:現学長 動物学・人類学者)の報告がある。
 しかし、両者に一致した好物もあり、互いにそれを求めて両者が鉢合わせすることがあろう。山極氏によると、観察例は少ないものの、そのような場合には両者の間に緊張が走り、チンパンジーが激しく威嚇行動をとった例もあるが、最終的にはどちらかが譲り、決して闘いには至らなかったとのことである。
 ヒトの祖先とチンパンジーの祖先とは、食性がある程度異なっていたであろうが、共通する面も多かったであろう。でも、現生のゴリラとチンパンジーの関係と同様に、無用な争いを避けるべく、すでにどちらかが採食行動を取っていれば、一定の距離を保ち、食べ終わるのを待って接近したか、あきらめて別の場所へ向かうことが多かったであろう。
 しかし、食糧事情が悪くなったときには、例えば、ともに好物とするイチジクを求めて、川辺林で遭遇することもあったであろう。そんなとき、どうしたであろうか。彼らは互いの存在を察知し、両者の間に緊張が走る。互いに、これは俺たちが食べたいと譲ろうとはしない。たぶんそのとき、チンパンジーの祖先は樹上からけたたましい叫び声をあげ、木の枝を落とし、糞尿をまき散らし、ヒトの祖先を威嚇し始めたことであろう。
 このチンパンジーの行動は、井谷純一郎氏(京都大学教授:故人 動物学・人類学者)によって観察されている。ほとんど人が入り込んだことがない奥地で、人が近づいただけでチンパンジーがこのような行動をとったことを目にされている。だだし、人を襲うという感じはしなかったとのことである。
 この威嚇行動に対して、ヒトの祖先は威嚇でもって応酬する術を水生生活するなかでほとんど失っていたであろうから、しばらくはその場に踏みとどまるも、あきらめて退いたのではないかと考えたい。ヒトの祖先は、霊長類全ての種が持ち備えている唯一の武器である犬歯を退化させており、ずいぶんとおとなしい動物に変化していたであろうからである。
 でも、そこまでお人好しではなかったという可能性も、そう考えたくはないが、ないではない。例えば、腹をすかせた誰かが、久しぶりのイチジクだ、どうしても食べたいとばかり、手に持っていた長い木の棒っ切れでイチジクを落とし始めた。チンパンジーの祖先の威嚇行動は激しさを増す。それを無視して棒っ切れを叩き続ける。そして、素手であればチンパンジーの祖先の腕力が圧倒的に勝り、勝てそうもないが、ヒトの祖先はすでにあれこれ道具を使いこなす器用さがあり、棒っ切れで相手をぶん殴れば勝てると考える。その棒っ切れを振り回し、木の枝を思いっきり叩いて相手を脅す。すると、チンパンジーの祖先は驚いて後ずさりするものの、威嚇の度合いを増し、あらんかぎりのけたたましい叫び声をあげる。そこで、ヒトの祖先は、喧しいとばかり、そこらに落ちている石っころを投げつけ、彼らを追い立てにかかる。石をうまく握れる手を持っているから、命中度が高い。彼らは悲鳴を上げて退散する。こうして、この戦いはヒトの祖先に軍配があがる。ヒトの祖先が、ヒトが誕生して以来、初めて他の動物に戦いを挑み、そして勝利した。
 
このような結末も予想されないことはない。現代人的思考でもってすれば、むしろこう考えるのが自然だ。これは何を意味するか。ヒトの「こころ」を変えてしまったのである。食糧調達の道具が優れた武器に変身し、また、親指対向性の機能取得によって精密把握ができ、石を思い通りの方向に投げられることにより、石も武器となる。そして、闘いに勝利する。これによって、ヒトの祖先は狂わんばかりに狂喜し、酔いしれた。戦って勝つことに味をしめてしまったのである。俺たちは「強い生き物」なのだと。「神の手」による道具の自在な使用という、その後の人類の驚異的な発展に寄与することとなった「第一革命」(親指対向性の機能取得という「神の手」による様々な道具作り)の偉大な成果が、こんな形で早々に実現してしまったのである。人類は、このとき、自らを途方もない凶暴な動物に仕上げていく第一歩を踏み出してしまった。
 しかし、このように考えるのは、ヒトの祖先に対して誠に失礼なことであると、小生は思う。ヒトの祖先が早々に凶暴化したとすれば、必然的に飢餓に瀕したときには、新たな食糧確保のために、動物の狩猟という道へ無意識的に入り込んでしまったに違いない。一般通説では、ヒトの祖先は死肉あさりから一歩二歩進んで早々に狩猟採集民になったと言うが、しかし、小生はそうではなかったと考える。ヒトの祖先は、あくまでも植食性を通し、求めるべきものが安定して確保でき、それが主食となる、全く新しい植食性の食糧を探し出したのである。そして、ヒトは、その代替食糧を完全消化する「食性革命」を成し遂げたのであるから。
 次章において、それを述べる。

つづき → 第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第3章 熱帯雨林から出たヒト

2020年10月04日 | 食の進化論

食の進化論 第3章 熱帯雨林から出たヒト

第1節 ヒトは熱帯雨林からサバンナへ
 ヒトの祖先が熱帯雨林という身体にやさしい環境から出た代償はあまりにも大きかった。食性とは別のことになるが、関連性が大きいので、ここで生活環境への適応について、まずは定説にふれておこう。
 熱帯雨林の外は直射日光にさらされて熱射病寸前のあまりにも過酷な環境であった。ヒトの祖先は全身にうっそうと体毛が生えていたであろうから、たまったものではない。そこで、暑さをしのぐためにヒトは早々に毛皮を脱ぐ方向へ進化した。ただし、頭皮だけは熱射から脳を守るために髪を残したのだと。そして、サバンナ地帯は標高がけっこうあり、朝晩の冷え込みがきつく、その対応として皮下脂肪を厚くした、というものである。
 熱帯雨林を出たヒヒなどの真猿類は、皆、毛皮をまとい、皮下脂肪は薄いのであるが、ヒトの祖先は2つの違う方法を同時に取ったことになる。実に複雑怪奇な方法であり、また、毛皮なしではイバラで引っ掻き傷を作ったり、全身に蚊やアブに刺されて痛かろうし、まことに理解に苦しむ進化の仕方である。体毛をなくせば皮膚の乾燥対策と紫外線防御対策も併せて緊急に講ずる必要があり、命に係わることで大変厄介なことにもなる。
 毛皮は決して暑くないことが分かっている。類人猿やヒヒは、薄っすらと汗をかいて水蒸気を放散し、その気化熱でもって体温が上がらないようにしているからである。ヒトのように丸裸で汗を滝のように落としては、効率が悪いうえに水分不足になり脱水症になって、かえって命の危険が高まる。なぜか、やたらと水分を補給せねばならないのがヒトの宿命となっている。
 たとえ飢えることなく食糧が十分に手に入ったとしても、いくつもの苦労を同時に抱え込み、生き延びていくのは、さぞや大変なことであったろう。これらは全て突然変異で説明される。急激な環境変化が厳しければ厳しいほどに突然変異は顕著なものとなり、様々な変異体が生じ、淘汰され、最適なものが生き残る、と説明されるのだが、何とも腑に落ちない話である。
 定説の極めつけは、人類が生き延びられた最大の要因は、猛獣から身を守る術を手に入れたからだという。それは、道具の使用であり、ヒトは熱帯雨林から出ると同時に直立二足歩行をし、両手が自由になり、それによって身を守るために棒っ切れを上手に使えるようになったというのである。サバンナには猛獣がうようよしており、身を守る武器が必要だという現代人的な単純発想である。
 当時、すでにライオンの祖先などの猛獣がいたであろうし、たしかに襲われる危険性はあったであろうが、我々が今日恐れるほどのことはなかったと思いたい。なぜならば、猛獣が好んで食べる動物の種類は一定のものに限られている。動物の食性は極めて保守的であり、食べたことのないものには基本的には手を付けない。素っ裸で何とも得体の知れない二本足の猿を見た猛獣は、まずヒトというものは気持ちの悪い生き物だと思うに決まっている。いくら腹が減っていても食欲が湧かないであろう。
 また、猛獣に近づきすぎさえしなければ、決して襲われることはない。現に、ケニアのマサイ族は、ライオンが住む草原を白昼堂々歩いていくではないか。我々であっても、たとえ山中で熊に遭遇しても、一定の距離をとって堂々と胸を張って動かなければ、熊は去っていく。ただし、彼らに固有の、安全距離を越えた異常接近状態にあっては、自分の身を守ろうとして襲いかかってはくるが。
 現在、サバンナにはヒヒ類が暮らしているが、彼らは一切の武器を持たずとも今日まで生き延びてきている。彼らは大きな群れになって、猛獣との距離を十分にとり、小さな草の芽や種を食べつつ、ゆっくり移動し、猛獣を刺激しないようにして、襲われるのを防いでいるのである。ただし、彼らには夜目が利かないから、日が暮れる前には安全なねぐらへ戻り、ヒョウなどの天敵から身を守っている。
 サバンナへ出たヒトの祖先も、当初はきっと武器を使用することなく、ヒヒ類と全く同じ行動をとって暮らしていたことであろう。猛獣に対抗しうるほどの高度な武器をやすやすと手に入れたとはとても考えられない。加えて、これは第3節で述べるが、初期人類(猿人時代)には親指対向性がなく、チンパンジーと同様に棒っ切れをしっかり握ることはできなかったし、石っころを投げてもノーコンであったのである。
 なんにしても、人類サバンナ進化説は、納得がいかない点が多すぎて、とても信用できるものではないのである。

第2節 ヒトは人魚から進化した
 「人類水生進化説」(アクア説)というものがある。なんとヒトは人魚と言われるジュゴンと親戚付き合いをしていたという、奇想天外な説である。1942年にドイツの解剖学者マックス・ヴェステンホファーが最初に提唱し、1960年に英国の海洋生物学者アリスタ・ハーディが違う角度から学界に発表したが、ともに一笑にふされた。この説が消えようとしていた頃、1972年に専門外である英国のシナリオライター、エレイン・モーガン女史が、それらの説を中心に、他の学者の研究成果を踏まえて、「女の由来」(ダーウィンの「人間の由来」をもじった表題:manをwomanに変えただけ)を著し、水生進化説が広く世間に知られるところとなった。
 時の権威ある正統進化論者たちの痛いところを突いた新しい説の登場である。権威者たちは窮地に追い込まれ、「女だてらに生意気なことを言うど素人め」とばかり、彼女を徹底的に叩きまくった。そこで、彼女はこれに対抗しようと、その後4冊の同類の本を出し、根拠のない批判への反論を見事に展開し、人類水生進化説をより説得力のあるものに仕上げていった。
 しかしながら、権威者一派は、「ヒトの涙の起源」の説明のなかのわずか1点の間違いを取り出して、それで全部を否定するという旧来方式でもって水生進化説を間違いとし、とことんガードを固めて、この新説を葬り去ろうとしている。
 よって、賛同する学者は少ないようであるが、先に述べたような何とも苦しい説明に終始せねばならない草原進化説に対し、水生進化説はすんなり納得できることから、どれだけかは支持されているようでもある。もっとも、権威者一派の力は絶大であり、従来の考え方とあまりにも説明が異なるこの新説は、いつしか葬り去られる運命にあるかもしれない。(ブログ版追記:エレイン・モーガン女史はすでにお亡くなりになり、水生進化説は無視される傾向が強まった感がする。)
 なぜならば、権威者一派のベースにある突然変異と自然淘汰の考えを無視し、ヒトの形質変化の多くをラマルクの「用不用の法則」に基づいて論理を展開しているからである。
 ラマルクの「用不用の法則」を正しいとみる小生にとっては、水生進化説は実に腑に落ちる話であり、「目から鱗とはこのことよ!」と叫びたくなるほどに説得力があり、少し詳しくこの説を紹介することにしよう。なお、小生は直感的に水生進化説が正しいと感じたのだが、その理由は次のことにある。
 小生は、動物園や水族館にいくと、なぜか水生動物に親近感を持つ。ライオン、キリン、ゾウといった陸上動物とは異なり、イルカ、アシカ、ラッコなどの水生動物には極めて距離感が近く感じられ、愛着度がすこぶる高まる思いがするのである。ジュゴンを見間違ったという人魚伝説もそうであろう。
 ジュゴンが立ち泳ぎ姿で赤ちゃんを抱きしめている様はなんとも愛くるしいし、まさに人魚そのもの、いや人間の母親が愛しい赤ちゃんを抱きかかえている姿とオーバーラップし、いつまでもその場を離れられない。水生動物に出会ったとき、懐かしい友達に再会したような気分にさせてくれる、この不思議な感情は、その昔、ヒトが彼らの祖先たちと決して争うことなく、水の中で仲良く共存共栄していた証なのではなかろうか。そんな思いがしてくる。
 ヒトは、生まれてから3歳頃までのことは、まず記憶に残っていない。胎児の時代のことは当然にして記憶の片隅にもないはずである。でも、胎児は、生命発生からこの世に生まれ出るまでの30億年以上の生命の歴史をたどって生まれてくる。姿形がそうである。格好がついたら、最初は魚みたいであり、次に四足動物になり、そして猿そっくりになって、最後にヒトの姿に変わり、生まれ出る。
 これは、生命記憶のなせる業と考えたい。命には当然にして「こころ」があり、親から子へ、子から孫へと、どんどん生まれ変わっていってしまっても、命が抱く「こころ」は代々引き継がれ、深層心理のなかに残るのではなかろうか。その記憶が、水生動物に対する親近感となって表出してくる。そう思えてならないのである。
 人類水生進化説を解説されたエレイン・モーガン女史は、微に入り細に入り、ヒトの形態・形質進化についての説明を展開してくれているが、残念ながら食性や消化機能についてはほとんど触れていない。あったとしても、多くは従来のサバンナ進化説を踏襲しており、これから記述するヒトの食性については、全て小生の推測であることを最初にお断りしておく。(ブログ版追記 小生が購入しなかったエレイン・モーガン女史の著「人は海辺で進化した」のなかで、魚介類を食べるようになったとあるが、小生はこれを否定する。その根拠は後ほど概説する。)

 まずは、陸上動物が水生生活へどのようにして適応していくのか、一般例をもとにして概説しよう。
 約1千万年前から海水面が上がり出し、熱帯雨林に海水が入り込んできた。併せて湿潤気候となり、湖沼が大きく広がり、河川も川幅を増した。もう少し後の時期からとも言われるが、数百万年前としても大差ない。
 そうした所には水生植物が当然にして繁茂するようになる。水面に茎や葉を出すもの、葉だけを出すもの、全て水中に没するものと様々である。さらに、水辺には芋を作る植物も多く自生してきたことだろう。現在のアフリカの熱帯雨林には乾季があって、大きな川も干上がることがあり、河川の水生植物は痕跡をとどめるほどに縮小してしまっているが、当時はそれらがかなり豊かであったことだろう。もっとも、河川の本流は土砂の堆積で、草も藻もそれほど生えないが、沼や湿地帯には水生植物が大繁殖し、大きな湖の岸辺、河口付近のマングローブの林や三角州の植物相は豊かであろう。これを放っておく手はない。
 現生類人猿のゴリラやボノボは、沼へバシャバシャと入り込んで、水面に出た葉や茎を食べる。特に、ボノボに至っては、雨季には生息域の地面が水面下に没する所が多くあってか、水に入ることを好み、ゴリラ以上に水に慣れており、したがって泳ぎも得意である。なお、チンパンジーはそのような水生環境がないせいか、極度に水を嫌う。
 水面の拡大とともに、水辺に類人猿の祖先やヒトの祖先が食糧を求めて度々やってきても不思議ではない。そして、水辺に居つくようになり、泳ぎ始め、潜りもするようになり、あらゆる水生植物を食糧とし、水生生活を選択する者たちが現れてくるのも自然の理である。
 霊長類以外の哺乳類で水生生活に適応していった動物が数多くいる。時代はずっとさかのぼるが、クジラ、イルカは7千万年前、ゾウの仲間のジュゴン、マナティーは5千万年前、クマの仲間のオットセイ、アシカ、セイウチは3千万年前、イヌの仲間のアザラシは3千万年前に、水生生活への道を選択し、現在に至る。
 現生の霊長類で水辺の生活をしているのは、マングローブの林に生息するテングザルであるが、まだ十分な水生生活への適応にはなっていない。でも、テングザルよりずっと水に適応した霊長類が、わけても類人猿が過去に生存していても何らおかしくない。
 海進が始まると熱帯雨林は狭められていくから、生息過剰で追い出される類人猿が当然にして生じてくる。行きつく所は水辺しかない。熱帯雨林から出たり入ったりし、そのうちどんどん広がってくる水辺に永久に居つくようになっても何ら不思議でない。
 はじめは足が立つ水辺で、毎日泥んこになって水生植物を食べるようになったであろう。今まで食べていた陸生植物に似た水生植物を1種類ずつ、毒がないか確認し、新たな食糧に加えていった。競争相手は、水に馴染んでいったカバの祖先が考えられるが、同じ植物でも食べる種類が異なっているであろうから、共存し得たであろう。
 カバは、いわゆる草、単子葉植物しか食べない。葉脈が平行に走るイネ科の植物に偏食している。現在ではこれが激減し、やむなくカバは夜間あるいは早朝に草原に出かけて草を食べている。それに対して、類人猿は木の葉っぱを食べていたであろうから、双子葉植物、つまり葉脈が網状のものを優先し、水生植物でも姿形が木の葉っぱに似たものに偏っていたと考えられるからである。
 各種動物が共存する場合の一般原則がここにある。住み分けは、食べ分けることによって成立する。もっとも、サバンナのように草が食べ放題にある所では、様々な草食動物が混在することが可能であり、木の葉っぱがいくらでもある熱帯雨林では真猿類が混在することが可能ではある。
 水辺に慣れ親しんでくれば、次の段階へと自ずと進んでいく。水辺から少し離れれば足が立たないが、おいしそうな別種の植物がある。泳いでいけばいいではないか。泳いでそれを食べに行く。毒がないか確認し、新たな食を得たであろう。水底を見ると、そこにも別種のおいしそうな植物が生えている。潜ってそれを取りに行く。これらも毒見し、新たな食の幅を広げていった。
 でも、先に述べたように、単子葉植物には手を付けなかった。そうした植物は、別の水生動物の食糧として残した。それらは、先に挙げたカバの祖先のためであり、そして、ジュゴンに近い種であるマナティーの祖先のためである。こうして、水生生活に入った類人猿の祖先は、彼らとの共存を図り、彼らと一定の距離を置きつつも、入り混じって食事をしたに違いない。
 なお、カバとマナティーの祖先は食が競合するが、カバは海水が入らない区域まで、マナティーは海水が遡上する汽水域まで、と生息域を分け合っていたことだろう。今はもっぱら海に住むジュゴンは、食に大きな偏りがあり、アマモという植物しか食べない。地上の単子葉植物から水生進化したアマモをひたすら追い求めているのである。日本の水族館で飼育されているジュゴンはどうしてもアマモしか食べないので、韓国から輸入してそれを餌としているし、汽水域に住むマナティーには牧草を主な代用餌として飼育されている。
 水辺は猛獣が獲物を求めてやってくるが、水辺からほんの少しでも水面に遠ざかれば安心である。ライオンなどネコ科の猛獣は基本的に水を嫌うから、水域へは追いかけてこられないからである。
 もっとも、ワニが生息する水域は避けねばならないが、水陸両生のワニの特性を知れば、それほど恐れることはない。ワニは1日の大半を陸で過ごし、日光で十分に体を温めないことには水中に長くいられないからである。類人猿の祖先はそれをよく知っていたであろうし、また、全てのワニがヒトを襲うものではない。小型種のワニはもっぱら魚を食べており、襲うことは決してない。
 類人猿の祖先は水辺の生活が幾世代にもわたって繰り返されるうちに、水生生活にどんどん適応していく。平泳ぎで移動し、立ち泳ぎで警戒し、背泳ぎの形で腹を上にして休憩すればいい。眠るときは、水流で流されないように、ヨシ(アシ)の林に入って仰向けで寝るまでになったであろう。彼らは、河口まで生息域を伸ばしたものの海へ進出することはなかったに違いない。海は陸とは植物相ががらりと変わり、食べ慣れたものがほとんどないし、加えて、塩水を多量に飲むことになり、その排出能力を身に付けねばならないからである。
 至難の業ではあるが、ヒトの祖先は海にも相当チャレンジした形跡が残る。陸上動物には見られないことであるが、ヒトは涙を流す。海生動物で涙を出す種は多い。体内の過剰な塩分を目から排出するのが目的である。ヒトの涙はその名残であろうか。様々な議論がなされているが、ヒトの涙の起源は全く不明である。
 でも、類人猿の祖先が最終的に進出できたのは汽水域までであったろうし、多くはそうした場所に生息していたであろう。その根拠は、のちほど示す別立てブログのなかで述べているが、もし、海に適応し、かつ、動物食の方向に進んでいたら、海には魚が多く生息しているので、例えるとすれば、ゴリラ・アザラシ、チンパンジー・オットセイ、ボノボ・アシカといったものが誕生し、今頃は7つの海を制覇しているだろう。海に入ったのがつい最近のことで、そこまで進化できなかったとしても、ヒト・ラッコとして、海に潜れば簡単に採れる貝の刺身をたらふく食べ、7つの海の沿岸部を泳ぎ回っていることであろう。
 動物食が可能な食性を有していれば、水生生活に半分適応した動物がわざわざ再び陸に上がるという苦労を選択するはずがない。淡水域や汽水域で暮らしていた者であっても、海へ進出し、魚を捕ればいい。多少は海水が口に入ろうが、魚そのものには塩分はほとんど含まれていないのだから。動物食に馴染んだ水生動物が再び陸に上がるとなると、あまりに生活環境が異なり、狩猟方法も全く違い、たとえ獲物が十分にいたとしても、容易には獲物を捕獲できず、陸上で生きていくことは至難の業となるからである。
 類人猿の中からこうした動物食をする海生動物が誕生しなかったのは、すでに類人猿の祖先は完全な植食性に移行していたからであろう。海には単子葉の植物はどれだけかあっても、
双子葉の水生植物がほとんどなく、進出しようにも進出のしようがなかったのである。なお、類人猿とヒトは、先に述べたように他の霊長類が持っている、高蛋白質摂取で必要とする尿酸酸化酵素の分泌機能を退化させてしまっており、かなり昔にすでに動物食への移行は本質的に不可能であったと思われる。
 植食性の動物で海に進出している珍しい例が、先に紹介したジュゴン
であり、彼らは食を大きく偏らせて特定の単子葉の植物しか食べない。川に生えているその草がたぶん汽水域や海にもそれほどの差はなく連続して生えていたから、それを求めて海水に順々に慣れて、塩分排出機能を高めていき、ついに完全に海生動物となったのであろう。
 海における植物食は、海水も同時に多量に口に入る難点があるのに対し、動物食はさほど海水が口に入らない。海水の口からの入り込みは餌となるものの表面積に比例するからである。海の草一口より一匹の魚のほうが重量が桁違いに大きく、塩分の排出のためには動物食は極めて有利である。海生動物で植食性の種が極めて少ないのは、ここに起因していよう。なお、動物も植物もそのもの自体の塩分濃度は極めて薄い。

第3節 人類水生進化の概要
 ヒトの祖先が水生生活をするようになって、人の身体は様々な形態・形質変化をしてきた。エレイン・モーガン女史が著した幾冊かの本から要約して紹介しよう。ところで、その紹介文はかなり長くなってしまい、既に別立てブログで投稿しているから、興味ある方は「人類水生進化説」の「人類水生進化説 はじめに・目次」から順次ご覧いただくとし、過去に長く水生生活をしていた名残り、これはきっと生命記憶としてあるのだろうが、ヒトの赤ちゃんは水によく馴染む。その例を紹介しておこう。
 英国での実験であるが、ヒトの赤ちゃんは何の助けもなしに自力ですぐに泳ぎ出すことが判明している。また、これはオーストラリアで映像になっているものであるが、赤ちゃんを水に沈めてやると、背骨をそらせて頭を上にし、見事な浮上体勢をとり、水面に顔を出す。現に、湖のほとりで暮らす民族のなかには、母親が魚捕りや洗濯などをする間、赤ちゃんをそっと湖水に仰向けにして浮かべておくという。赤ちゃん全員がこうだと断定はできないが、小生の娘とて、赤ちゃんのとき、抱きかかえて一緒に風呂に入ったものの手を滑らせ、湯船に没してしまったのだが、すぐに浮上し、楽し気にニコニコッと笑顔をふりまいたから、全然水を恐がっていないと感じられたところである。
 もう一つ、水生生活で手に入れたであろう「親指対向性」についてふれておこう。
 二足歩行により、両手が自由になったから道具が使えるようになった、と一般的に説明されるが、これは大きな見当違いである。今どきのチンパンジーだって気に入った棒っ切れを手にしたら、難なく1kmも持ち歩くというから、道具の運搬はヒトの専売特許ではない。
 水生生活をするようになると、木にぶら下がらなくなった代わりに、水生植物の茎を握ったり、引き抜いたりする必要が出てくる。そのためには、ぶら下がりでは不用であった親指の筋肉を強くし、かつ、親指が他の4本の指と十分に向き合うように掌の筋肉と骨格を変えていく必要があり、ヒトはだんだんその構造改革をしていった。そして、とうとう原人の時代には親指の筋肉は独立筋となり、親指の指先の腹と、他の4本の指の指先の腹とを完全に密着させることができるまでになった。これを親指対向性と言い、類人猿にはなくヒトに特有のものである。なお、ニホンザルやヒヒにも、その食性からして親指対向性がある。
 親指対向性の獲得により、棒っ切れや石を道具として使うのに最も適した形の手になったのである。まさに「神の手」である。いい例が、類人猿にねじ回しのドライバーを渡しても、親指は遊んでいて他の4本指でつかむしかなく、ネジを回すのに苦労するのだが、ヒトは楽々ネジが回せるのである。石
を握って投げるのも同様で、類人猿は石をうまく握れないから、投げてもどこへ飛ぶかわからない有様だが、ヒトは親指がしっかり使えるから、狙った所へほぼ正確に石を投げられるのである。
 ところで、親指対向性は、先に「水生植物の茎を握ったり、引き抜いたりする必要が出てくる」からと言ったが、最初にこれを手に入れたのは、ヒトの赤ちゃんであろう。水生進化説の立場に立てば、次のようになる。
 母親が平泳ぎで泳ぎ回るとき、赤ちゃんは母親の背中に乗り、何かにしがみつかねばならない。首と肩をつなぐ僧帽筋をつかむと安定する。でも、平泳ぎは急発進と急停止を繰り返すから、つかまり方が4本指によるぶら下がり方式では、急停止したときに慣性力で赤ちゃんの身体は進行方向へ動いてしまい、つかんでいる手が滑って手が離れる恐れがある。これを防ぐには僧帽筋を確実に握る必要がある。
 したがって、赤ちゃんは、親指を対向させようとし、毎日の繰返しのなかから都合の良い骨格構造に親指を作り替えていったのであろう。ウォルフの法則に「骨の形と構造は、その使い方によって、使いやすい形に変化する。」とあり、赤ちゃんがそうさせたのであろう。
 もっとも、そう易々と作り替えが完璧にできるものではなく、当初は親指対向性が不十分ではあったろうが、歴代にわたる長い期間の経過でもって、それを獲得し、やがて遺伝するようになったのである。
 なお、現在の赤ちゃんは、生後1週間ほどは4本指によるぶら下がりの力が非常に強く、親指対向性もなく、類人猿と同様な機能しか発揮できない。生後しばらくは母親に必死にしがみついていたい、といったところだろう。それが、すぐに親指対向性を持つに至るのだから、赤ちゃんの生命力には驚かされる。

第4節 ヒトは再び陸上生活へ
 ヒトの祖先は、どうやら東アフリカの大地溝帯に生息していたようである。1千万年前頃からアフリカ大陸を2つに分断する地殻変動が始まり、南北に細長く広大な谷が成長し始め、そこに湖沼が連なってできていった。もっとも、その地殻変動で、陥没や隆起が所々で不規則に生じ、一気に水面ができたり、消失したりという環境激変を繰り返しながらではあったろう。そうして数百万年前には広大な水生環境が誕生していたようである。そのとき、ヒトの祖先が水に入ったというのが水生進化説である。
 その後、2、3百万年前に、東アフリカの乾燥化が始まった。広大な水面が順次縮小していき、乾季の終わりには大きな河川も干上がるようになった。この乾燥化により、大きな湖も水分蒸発で縮小し、水生生活していたヒトの祖先は、やっと慣れたそれができなくなってしまうという厳しい時代が到来したのである。
 水生動物全体に食糧難と過密化が訪れる。
 現生のカバは半分陸上生活をしている。水辺の草が圧倒的に不足しており、全くない場所も多い。したがって、あるところでは夜に、あるところでは早朝に、と生息区域により時間帯は異なるが、草原へ出かけていって草を食べている。そのため、数時間は皮膚を空気にさらすことになるので、体毛を失くしているカバはピンク色をした分泌液をたっぷり出して、皮膚の乾燥を防ぐための準備を入念にしてから出かけるのである。食事が終わったら、そそくさと川に入り、皮膚を濡らして、のんびり休むという生活を繰り返している。
 カバは水から離れない生活を一生送っているが、それが選択できただけ、まだ幸せと言えよう。カバと異なり、ヒトの祖先たちは、何らかの理由で、その多くが陸に上がらざるを得なかったのである。
 陸上生活を余儀なくされたヒトの祖先は、初めは路頭に迷うしかない。じりじりと焼け付く熱帯の直射日光はひたすら暑い。肌は乾燥するし、喉が渇いてしかたがない。今まで食べていた食糧がほとんど手に入らない。陸には昼も夜も猛獣が脅威的な存在としてあり、24時間びくびくしていなければならない。このままでは体力は消耗し、最後には飢えて死ぬしかないであろう。ものずごい肉体的かつ精神的ストレスが絶えずかかり続けたであろうから。突然にこのような生活を強いられたら、当然に瞬時に絶滅するであろうが、千年、万年という時間の経過で少しずつそうなったとすれば、なんとか生き残る道が探し得たであろう。やむを得ず少しずつ陸上生活を長くし、新しい環境に慣れていったと思われる。
 そこで、いくつもの新たな形質を獲得した。発汗システムの再開発、優れた皮脂分泌機能の獲得、皮下脂肪の有効活用、紫外線応答型のメラニン色素の円滑な生成、といったものである。これについても、既に別立てブログで投稿しているから、興味ある方は「人類水生進化説」の「人類水生進化説 はじめに・目次」から順次ご覧いただくとし、水生生活に順応した哺乳類のなかで、陸上生活をするようになった、ある程度大きな動物は、その多くが体毛を喪失しているのであり、その例を紹介しておこう。
 いくつかの特色ある形質から水生生活をしていたと考えられるのはゾウとサイであり、体毛はほとんどなく、別名を厚皮動物と呼ぶことがある。ブタも水辺での生活に慣れ親しんだ結果、体毛は大きく退化し、疎らな剛毛しか持ち合わせていない。ブタから進化したイノシシはさらに剛毛を発達させ、野山を走り回るようになったが、普通の陸生哺乳類のような毛皮とは大きく性状が異なったものとなっている。
 体毛喪失の功としての例を挙げるには苦労する。せいぜい母親と赤ちゃんのスキンシップ効果が増すことぐらいである。そして、オスとメスが抱擁するとき、どれだけかの気分の高まりが得られることであろう。ヒトの祖先のメスが発情しなくなり、一時、性の快感を失った(今日でもその多くが)であろうと考えられるから、メスがオスを受け入れるうえで、案外これは重要な要素となったかもしれない。

つづき → 第4章 サバンナでの生活

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第2章 類人猿の食性と食文化

2020年09月27日 | 食の進化論

食の進化論 第2章 類人猿の食性と食文化

第1節 熱帯雨林の植物の不思議
 植食性になると、動物はたいてい大型化してくる。類人猿は霊長類のなかで一番体が大きくなった。熱帯雨林では植食性の食糧が毎日簡単に豊富に手に入り、大きな体でも栄養補給に問題はないことと、植物は特に食物繊維が消化に時間を要するから、胃腸を大きくせざるを得ないこととの両面からそうなったのであろう。
 しかし、熱帯雨林の蒸し暑さは、体が大きくなればなるほど体に熱がこもりがちになり、こたえる。毛がうっそうと生えている類人猿には特にそのように思われる。炎天下へは出ていきたくないであろう。
 もっとも、体が少し小さい真猿類のヒヒたちは、毛をうっそうと生やしたままで熱帯の草原サバンナを住みかとし、炎天下でも平気そうにみえる。ヒヒは、類人猿の祖先に熱帯雨林から追い出され、我慢させられているのであろうか、慣れてしまったのか。
 何にしても、樹木の葉っぱで直射日光がさえぎられた熱帯雨林の中は居心地がいい。
 加えて、植物性の食べ物が有り余るほどにふんだんにあり、餌探しに悩まなくてよい。そして、熱帯の果物の果肉と木の葉っぱを食べれば、どちらも体を冷やしてくれて、誠に好都合でもある。
 だが、熱帯雨林は様々な樹木の混合林であり、隣に生えている樹木は皆、種が異なるというほどに植物にとって生存競争が激しい森でもある。樹木はうず高く背を伸ばさないことには競争に負け、生きていけない。
 そのためには、光合成を急がねばならず、葉っぱは1枚なりともおろそかにできない。葉っぱを動物に食べられては、その分生長が遅れて死活問題になる。また、子孫も激しい競争のなかから育つのであるから、実もたくさんつける必要があり、そのためにも光合成を十分におこなわねばならない。
 よって、樹木は自己防衛のため、その葉っぱと果物の実には毒を含んだものがほとんどである。
 ただし、種(タネ)を動物にばらまいてもらうため、果肉に毒があるものは極めて少ない。多くの動物にとって果肉がごちそうになる理由はここにある。なお、大粒の種はその場で吐きだされて撒き散らされ、小粒のものは飲み込まれて離れた場所に運ばれることになる。
 熱帯雨林以外では毒を有する植物の種類は相対的に少ないし、毒性の弱いものが多い。他種の樹木との競争は比較的少なく、1つの種だけの単一林さえある。草についても同様な群生などの生態がみられる。
 もっとも、こうした植物もアルカロイドなどの特定の物質を持っていたり、特定のミネラルを蓄積するなどして防御態勢をとっており、1つの植物の多食を継続することは、通常その動物の健康を害することになる。
 植物同士の競争が激しい熱帯雨林での偏食は、即、死につながる恐ろしいことではあるが、半面、毒は薬でもあり、熱帯雨林は生薬の宝庫にもなっている。熱帯雨林に居住する種族はそれをよく知っており、数多くを薬として活用している。近代医学においても、医薬品としていくつも利用するようになり、現在ではそれを元にして化学合成し、量産して重宝がられているものが実に多い。
 なお、チンパンジーでさえ、薬になる植物をいくつかは知っているというから驚きである。

第2節 類人猿の葉っぱへの挑戦
 類人猿以外にも熱帯雨林の植物の葉を主食とする動物がたくさん住んでいる。彼らの多くは、特定の木の葉っぱを食べ続ける道を選び、その植物に特有の毒素に対する解毒能力を獲得している。なかには毒が強い果物の種(タネ)のほうをもっぱら食べるものまでおり、その毒に対して格段に強力な解毒能力を持っている。
 動物は一般的に極度な偏食傾向にあり、数少ない特定の種類のものしか食べない種が多いが、例外も当然にしてあり、何でもかんでも少しずつ食ってやろうという道を選んだのが類人猿やヒトの祖先である。
 地球環境は激変の連続であり、今まで食べていたものが急に無くなることは日常茶飯事である。しかし基本的に動物の食は非常に保守的で、飢餓に瀕しても食べたことがないものには決して手を付けない。おかしなものを食べると、それには毒があり、死んでしまうのに違いないと恐れているのであろう。悶え苦しんで死ぬより、餓死を選んだほうが楽だと思っているのかもしれない。
 多くの草食動物は、親から教わらなくても、その生態系に自生する有毒な植物を避ける能力を持っており、決してそれを食べない。極めて性能のいい毒素検知器を舌や鼻に持っているようであり、食性は限られた種類の草に偏っている。
 現在の我々も、見た目に悪い、おかしな臭いがする、変な味がする、といったものは、たとえ飢餓に瀕していても決して食べようとはしない。もし、それらを食べるとすれば、勇気ある誰かが先に食べて、その人が健康を害する様子がないことを確認できてから、一部の者が恐る恐るその後に続くだけであり、最後まで決して手を付けない者も何人かは残る。霊長類は、多くの草食動物のような高性能の毒素感知器を一切持たないから、仲間同士で学習するという、このような不確実な方法しか取り得ないのである。
 これが幸いもする。飢餓に直面したとき、新たな食材を開発できる可能性があるからだ。このまま餓死を選ぶか、食べたこともない物を食べることによって悶え死ぬかもしれないが、これを食べることによって運よく生き延びられる可能性があるかもしれないと考えるのであろう。
 でも、新たな食べ物へのチャレンジは、好奇心が伴わないことには不可能である。ある程度脳が発達した動物はけっこう好奇心を持ち合わせている。特に子どもは学習意欲が旺盛で、好奇心が強いし、類人猿のなかではチンパンジーは大人でも好奇心がかなり強い。ある程度脳が発達した類人猿の祖先が身の回りにふんだんにある柔らかい若葉に好奇心を起こすことは大いにあり得る。
 今まで食べたことがない葉っぱを食べる勇気を持った猿が登場してもおかしくない。勇気ある猿がほんの少し食べてみて、体調に変化はないかどうか考え、異常が感じられなかったら、また次の日に少し食べてみる。つまみ食いを繰り返すのである。何日も繰り返すなかで安全性を確認し、ほかの仲間が真似をする。全てうまくいくということはない。当然、毒の強い物を食べて悶え苦しむ結果となることがあるが、周りの皆がそれを見て、これは毒性が強いから食べてはだめだと学習する。すると、食のレパートリーが少し広がる。飢餓が訪れるたびにその繰り返しをしつつ、だんだんと食のレパートリーを広げていき、ついに熱帯雨林に生えているあらゆる植物の毒性の強弱を知ったことであろう。
 その記憶は子どもに教育され、毒の強いものは決して食べないようにさせる。現生類人猿の子どもが毒の強い葉っぱを口に入れようとすると、母親がパンと払い除ける光景が観察されている。その繰り返しで子どもはこの種類の葉っぱは食べちゃいけないと学習するのである。
 こうして、霊長類のなかで最も賢い、類人猿やヒトに共通する祖先が誕生したのであろう。これは食べていいもの、あれは食べちゃいけないもの、と、絶えず頭を使わねばならず、記憶が最重要なものとなる。脳の一部、大脳新皮質の発達により、記憶容量の増大がこのような食性を確立させた。というよりは、膨大な情報の記憶に迫られ、それができなければ死が待っているから、脳が絶えずフルに働かされ続けて、自ずと脳が発達したと言ったほうがいいであろう。
 類人猿は毒の弱いものを選び、それも毎日少しずつ数多くの種類の植物を食べている。熱帯雨林に住む現生チンパンジーの主食は果物の果肉ではあるが、木の葉っぱもどれだけかは食べており、食用となる約360種もの植物を知っている。食用になるといっても、どれだけかの毒は含まれており、彼らの食事はほんのちょっとずつのつまみ食いである。一見すると実に贅沢な食事をしている。枝をポキンと折ってチョチョッと葉っぱを食べて残りは捨て、すぐに種類の異なる樹木へ移動し、この繰り返しを行なう。
 また、毒があると教えられた植物も念のため少し齧ってみて、どの程度のものか確認しているかもしれない。そして、どんな植物にどんな毒がどの程度含まれているか、新芽は大丈夫か、若葉はどうか、成長した葉っぱはいかがなものかと、熱帯雨林の植物の全てを知り尽くしているのではなかろうか。
 肝臓には様々な解毒酵素があり、それぞれの毒に対応している。したがって、種類の違う少しずつの毒が入ってきても肝臓での解毒を可能とし、また、多種類の小量の毒が絶えず入ることによって肝臓の解毒機能全体の強化も進み、ほんのちょっとずつのつまみ食いであれば完全に解毒でき、やがてそれらの毒に対する耐性ができ、健康体を維持できる体質を獲得するに至ったのであろう。
 エジプトでは昔、王様が毎日、微量のヒ素をなめて肝臓の解毒機能を高め、ヒ素による毒殺を免れたという話は有名である。酒も鍛えれば鍛えるほどに強くなるというふうに、どれだけかの効果はあったではあろうが、王様一人一代かぎりでは、それほどには肝機能が向上するとは思えず、かえってヒ素の体内蓄積で健康を害したことであろう。これは涙ぐましいむだな努力であったと言える。
 熱帯雨林の動物の様々な食性をみたとき、肝臓の解毒機能が動物の種ごとに個別に発達し、世代を重ねることによってその機能がやがてその種全体に獲得されるに至ったようだ。
 つまり獲得形質は遺伝する。そのように考えるのが自然だ。

第3節 進化に関する諸説と論
 フランスの生物学者ラマルクが動植物の観察を地道に続けるなかで発見した「用不用説」と「獲得形質遺伝説」は正しかろう。彼は1809年に「動物哲学」を著し、全ての動物において「使う器官は順次発達し、使わない器官は退化する。その器官の変化がその種に共通であれば次代に伝わる。」と言っており、これは生き物の世界に共通する大原則ではなかろうか。
 1859年に「種の起源」として出版され、あまりにも有名になりすぎたチャールズ・ダーウィンの「偶発的な変異により有利な条件を備えた個体が、その種の間での生存競争に打ち勝ち、適者として生存し、自然淘汰を通して、その子孫だけが選ばれる。」という1個体の優位性に端を発したダーウィンの進化論よりも、ラマルクの説のほうが真理に近いと思えてならない。
 たった1匹のサルが突然に肝臓の解毒能力を獲得し、その子孫だけが生き残って増えていったというより、皆が一緒の食べ物を食べることによって、その機能を皆が揃って順々に高めていったと考えるほうがよっぽど素直であろう。生態学の大御所である京都大学名誉教授今西錦司氏(故人)もその著「主体性の進化論」(中公新書)のなかで「個体の変異からではなく、その種全体の一様な変異により種は進化する。」のではないかと主張しておられる。
 ラマルクの「用不用説」は「用不用の法則」であり、ダーウィンの「進化論」は「進化仮説」であって、ダーウィンは基本的に間違っていると言い切る学者さえいる。
 [参照 生物は重力が進化させた 西原克成著 講談社]
 しかしながら、ダーウィンの進化論は、現在、正しいものとして揺るぎない不動の地位を獲得している。なぜにそのようになってしまったのか、少々長くなるがその経緯を説明することとしよう。
 ダーウィンの進化論は「生存競争」「弱肉強食」「適者生存」「自然淘汰」の概念で貫き通されており、これは、当時、産業革命を近代的に成し遂げた大英帝国にあって、経済学者トーマス・マルサスやアダム・スミスの経済論と全く共通するところであり、大衆が素直に受け入れられやすい理論でもあった。これが、ダーウィンの進化論が強力に支持され続けてきた、その根っこになっていることは間違いないであろう。
[参照 世界の歴史Ⅰ 人類の誕生 今西錦司ほか京都大学グループ著 河出書房新社]
 ダーウィンの生物観察は、広範囲にわたって鋭いものがあり、世界中を広く回って、進化を考えるうえで貴重な財産を数多く残してくれた偉大な人物であることは確かであるが、彼が一般通則をまとめ上げるに当たり、「あたかも生き物のように振る舞う経済」の発展と生物進化とが同じように見えてしまい、見間違ったのではないかと指摘する評論家もいる。
 小生が思うに、ダーウィンは先に挙げた4つの四字熟語をあえて前面に強く押し出すことにより、わざと経済の発展と生物の進化は全く同一であると、皆に錯覚させることにより、自説が広く認められることを狙ったのではないか、そのように勘ぐりたくもなる。
 当時は自然科学の分野においても、キリスト教会がまだまだ絶大な権限を持っていた。人間そして動植物は神が創った不変なものでなければならなかった。だが、ダーウィンは生物観察を通して「人間は猿から進化した」ことを知った。しかし、これをはっきり言うことはとうてい許されざることであることも承知していたから、人間の進化については多くを語ることなく、さらりと逃げた表現にせざるを得なかった。最終的には「多くの光明が人類の起源とその歴史の上に投げられるであろう。」と意味不明な表現にした。
 しかし、全体を読めば類推できてしまう。発表したいが発表できないもどかしさを感じていたところ、教会との論争になったときに強力に支援してくれる実力者ハクスレーが現れ、全面的なバックアップが約束されて、ついにダーウィンは発表を決意し、予想される教会との論争をハクスレーが受けて立つことにしたのである。
 彼がダーウィンの進化論を世に出した陰の功労者であることを忘れてはならない。策士ハクスレーが戦術として目論んだのは公開討論会であり、その場に来た大勢の聴衆を味方に付けようというものである。
 そこで、発表論文は、経済学者マルサスの言葉を何度も引用し、大衆受けしやすい理論を鮮明に打ち出すことにしたのであろう。もう一人の有名な経済学者アダム・スミスからの引用はないが、彼との接触も密接に行っており、その思想も全体の流れのなかに組み込んだのである。
 その論文が「種の起源」として出版されるやいなや、当時の英国でベストセラーとなり、大反響を呼んだ。
 当然にしてキリスト教会から聖書に反するものとして激しい非難を浴びることとなったが、案の定、公開討論会の場においてハクスレーの弁論が圧倒的な聴衆の支持を受け、教会派の学者をみごとに退散させて大勝利を収めたというのが、歴史上の事実である。
 公開討論会に出席していた者の多くは、産業革命の成功により、一介の職人や商人から資本家として頭角を現してきたブルジョアジーであった。彼らにとっては、資本主義経済とはダーウィンの示した4つの四字熟語とぴったり一致する競争原理が働く世界であるとの認識があり、彼らはその勝利者であることから、ダーウィンの進化論を全面的に支持するのは自明のことであったのである。
 ダーウィンの進化論はこうして日の目を見たわけであるが、彼自身は、人類の進化についてはそれでもまだキリスト教会を意識してか、「種の起源」を発表した11年後におもむろに「人間の由来」を出版し、やっと進化論を明確なものにした。
 ダーウィンの進化論は、当時としてはあまりにも画期的であり、加えて、世界を制覇する勢いの大英帝国の学者が知られざる世界の生物を調査して得た結果ということもあって、当時の欧米の考古学者、生物学者たちに大きな影響を与えた。
 もっとも、当初は、英国に対抗意識を燃やす欧州各国の学者は、ダーウィンとは異なる説を出し、学者間での論争が展開された時期があるなど紆余曲折はあったものの、その後に米国の学者が助っ人に入って盛り返し、学界での地位を不動のものにしていったのである。
 なお、ダーウィン自身は、ラマルクの用不用説と獲得形質遺伝説をも認めていたが、その後において、ドイツ人ワイスマンが獲得形質は遺伝しないという実験結果を示し、もって用不用説をも含めてラマルクの説全体を否定し去り、ダーウィンの進化論を単純明快なものにスリム化してしまったのである。
 ワイスマンの実験とは「ネズミの尻尾を22代にわたって切り続けても23代目のネズミに正常な尻尾が生え、何ら変化が求められなかった。よって、獲得形質は遺伝しない。」というものである。
 この実験に、はたして証明力があるのか。あなたなら、この実験結果をどう評価なさるか。私は専門家ではないから判断できないと、決して逃げないでいただきたい。
 
いたって簡単な実験であり、学術的な予備知識なしで判定が可能だからである。
 生まれてすぐにオスもメスも尻尾を切られて大人になり、尻尾がない者同士で子を作る。生まれた2代目の子どもたちに尻尾が生えたので、その子たちの尻尾を全部切り取る。これを22代にわたって繰り返したが、尻尾のない子が一向に生まれない。この実験結果から何が言えるか。小生は次のように考える。
 22代にもわたってネズミが大怪我をさせられ続けて、皆、悲しみに暮れただけのことであり、23代目のネズミは尻尾を切られずにすみ、ホッとしただけのことである。ただそれだけのこと。これ、何の実験?
 ネズミに「尻尾がない」という「獲得(?)」された「形質」を22代にもわたって受け継がせようと試みたが、23代目のネズミにはその形質が全く獲得されなかったから、獲得形質は遺伝しないのである、との弁。
 こんなバカな話がまかり通ってよいであろうか。獲得とは、例えば四足動物が生後間もなくから絶えず直立二足歩行を強いられて骨格構造が変化(獲得)し、その子も同様に強いられ、幾代もこれが続いた場合に、新たな骨格構造が遺伝するかどうか、という話である。この場合にあっても、進化というものはそう易々と進むものではなく、もう1桁いや2桁以上の世代交代を経なければ遺伝しないであろう。
 ワイスマンの実験はとんでもないものであったのだが、どういうわけか当時の進化論学者はこれを是として認め、ラマルクの説を間違いとして捨て去り、今日に至ってもラマルクは日陰者扱いされたままである。ラマルクがあまりにも気の毒だ。
 百歩譲って、当時、ワイスマンは医学、動物学の大御所であるからして、とても口を挟むことなどできなかったからやむを得なかったと認めるにしても、今日に至るまでの百年もの間、前述の西原克成氏以外にこれを指摘なさった学者はそう何人もいないようであり、何とも情けない話である。
 (ブログ版補記)ラマルクの主張の正確な表現、ラマルク説に対するダーウィンの実際の見解は以上述べた一般的な説明と若干異なります。また、ワイスマンの実験回数にも疑義がでています。詳細は下記の別立てブログ記事で述べました。
 → (追補)進化論:ラマルクの用不用説と獲得形質遺伝説が否定される理由

 その後、20世紀初頭に「突然変異」という現象が発見されたことから、ダーウィンが言った「偶発的な変異」をこれに置き直して「突然変異によって新しい変異が起こり、そのなかの有用なものだけが自然淘汰で残され、それが積み重なって進化が生ずる。」と修正され、進化は「突然変異」に重きが置かれるようになってしまった。
 こうして進化論のスリム化と突然変異という現象によって理論強化されたダーウィンの進化論は、今日、学者は元より学校教育を通して一般大衆にも染みわたり、不動の地位を築き上げてしまっているのである。

第4節 経済は学問を支配する
 当初は単なる説であっても、その時その時の学界の権威者たちが長年にわたり支持し続ければ、それが正論となり、いつしか「アンタッチャブルな永久不変の法則」に格上げされ、「真理」として扱われることになってしまう。これに異議をはさむ者は異端者として葬り去られるのが時代の常であり、悲しことに「経済の原理」の適用をもろに受ける羽目に陥る。
 なぜならば、名誉と高い報酬を受けている学界の権威者にとって、自説が否定されることは失職・失業を意味するからであり、権威者の常として、息のかかった学者や子弟に自説を擁護させ、補強する研究を重ねさせて守りを固め、学界を牛耳ることに心血を注ぐ。学者は、経済的観点に立って持論を主張し続け、もって「経済は学問を支配する」ことになるのである。
 古くは「大陸移動説」を発表した地質学者ヴェゲナーが長年にわたり完全に無視されたり、新しくはのちほど説明するエレイン・モーガンが紹介した「人類水生進化説」が徹底的に叩かれたりしている。
 時の権威者の立場を揺るがすような新説は、十分な根拠がどれだけ呈示されていたとしても、権威者一派による総力を挙げての重箱の隅をつつくようなあら探しの洗礼を受ける。些細な間違いや少しでも根拠薄弱なところがあれば、それが大袈裟に指摘され、それみたことかと痛烈に非難され、もって新説の全体が否定されるに至るのである。それにとどまらず、その後もあらゆる方法を駆使して、その新説を永久に闇に葬るべく画策され、ついには皆に忘れ去らせる。こうして時の権威者に戦いを挑んだ者は冷や飯を食わされ、最後には非業の死を迎えるというのが世の常である。
 進化の法則の真理というものは、ダーウィンの進化論とは全く別のところにあるのであるが、次々と発表される進化学説は強固に否定されたり、あるいはダーウィンの進化論の補強のために吸収されたりしてしまう。
 こうしたことから、ダーウィンの進化論に真っ向勝負し、系統立てて説明し直すバカな学者は誰一人として出てこないであろう。
 もっとも、前掲のとおり今西錦司氏が晩年になって異説を打ち出されているが、当の本人は、2つの説いやもっと多くの説もあってよく、それら皆、認めようじゃないか、とおっしゃっている。これでは、論争放棄で面白くない。唯一例外の真っ向勝負の野武士は、前掲の西原克成氏お一人であろう。氏は、東京医科歯科大学を卒業後、東京大学医学部博士課程を修了し、同大医学部付属病院で長く臨床に携わり、口腔外科講師どまりで定年退官された。人工歯根開発の第一人者である一方、実験進化学、臨床系統発生学を打ち立てられたほか、免疫病治療の画期的な方法を編み出された偉大な方ではあるも、経歴から分るとおり東大医学部から干された人物であり、その業績は完全に無視されている。「歯医者は歯医者の仕事をやっておればよい。天下の東大において外様ごときが他人の仕事に口出しするとは何事ぞ。ど素人め。」である。
 したがって、逆に、開き直って広範囲の研究ができ、好き勝手に物を言える立場にあり、脊椎動物の進化について幾つかの実証実験に成功し、ラマルクの用不用説が正しいものであることを立証できる画期的な証拠をつかまれた。その新しい発見の内容についての紹介は割愛するが、これぞ真理であるという進化の法則の一部を明らかにされたのである。
 しかし、干された立場にあっては、乏しい研究費のもとで孤軍奮闘するしか術がなく、また、氏は免疫病治療の臨床と研究を本職としておられるから、それ以上のことを望むべくもない。誰か氏の後継者が生まれ、進化の法則のさらなる拡大・充実をしてくださるといいのだが、学者というものは教授に少しでも楯突けば出世の道は完全に断たれ、守備範囲以外の学問に口出ししようものなら、周りから総スカンを食うという世界である。皆、我が身可愛さで、異端者にされることに尻込みし、残念ながら誰も後継しないであろう。
 これは、個々の学者が悪いわけではない。異端者覚悟で果敢に立ち向かおうとしても、そうしたことを行なった場合には、研究費は削られ、調査も実験もままならなくなり、加えて出世の道は断たれるという現実を、学者の皆が痛いほど知っているからである。
 長々とくどいほどに進化に関する学界の概況を説明してきたが、それは、我々が学ばされている学問とは実際にはどういうものであるのかを正しく認識しておく必要があるからである。なにもこれは進化に関する学問にかぎらない。あらゆる学問に共通するものである。
 明治維新の青写真を描いた男と言われる実学思想家の横井小楠は「高名な学者の書いた書物を読むことによって物事を会得しようとすることは、その学者の奴隷となることに過ぎぬ。その学者が学んだ方法を研究することが大切であり、学問の第一は、そうしたなかから心において道理を極め、日常生活の上に実現するための修業である。」と言っている。
 [参照 横井小楠 徳永洋著 新潮新書]
 小楠は幕末の表舞台に立ったことがないのでほとんど無名の存在であるが、坂本龍馬が師と敬い、勝海舟が恐れた鬼才である。明治政府樹立後には、木戸孝允、大久保利通らとともに政府の参与という要職に就き、政策立案などで最も重宝がられた人物であるが、残念ながら明治2年に暗殺された。
 小楠の学問は人文科学であり自然科学ではないが、彼のこの言葉は科学全般に共通する指針であると言えよう。
 小楠はことさら実学を強調した。それは、維新という動乱期にあって特別にその要求が強かったからである。しかし、それに続く今日までのいかなる時代においても、科学の目的というものは、単に知識欲を満たすためだけにあるというものではなく、常に世の中にいかに役立てるか、であったはずである。今日、この実学的思想がないがしろにされる傾向が強い。思想のないところに、はたして学問が成立し得るであろうか。
 なお、小生は、小楠が言う「その学者の奴隷となるに過ぎぬ」という言葉に出くわしたとき、身の毛がよだつ思いがした。これは、既存の学問を全否定することになるのではないか、と。
 でも、よくよく考えてみるに、小生の経験でも奴隷にされてしまったことが過去にある。そうした経験も踏まえて、たとえ完璧な理論であると言われているものであっても、これを鵜呑みにはせず、自分なりにじっくり考えてみる必要があろう。それが本当に正しいのかどうかを見極めることが大切であり、小生のような凡人には、おおよそ不可能なことではあろうが、少なくともそれを模索することにどれだけか意義があると思っている。
 そうした考え方でもって、ヒトの食性についての検討を順次進めていくことにする。

第5節 生き物を擬人化することの可否
 通常ならダーウィンの進化論の考え方に基づいて、まず検討を進めるのがセオリーではあろうが、これが正しいのか否かという以前に、正直な気持ちを言うと、小生の肌には合わず、なんとも好きになれない。
 ダーウィンの進化論は「1個体から出発して、その延長に種ができる」という、欧米近代社会の成り立ちと同様な、強烈な個人主義に基づく発想から生まれているからである。逆に、まず社会があって、そのなかに1個人が存在するという、純日本人的にしか考えられない小生にあっては、個人主義というものは、あまりにも重圧感がかかりすぎて押しつぶされそうになり、息苦しくもなり、そうした考え方から逃げ出したくなるのである。
 加えて、1個体の出発が「無方向性の変異をする突然変異から生じた個体の優秀な機能」という単なる機械論的な考え方に立っては、その先どう展開していくのかが何とも頭に浮かんでこないのである。
 特にヒトの食性を考えるとき、ある日突然に熱帯雨林に多く住む蛇を盛んに食う者が現れたり、樹冠にたくさん住んで
いる鳥が産んだ卵を狙い撃ちする者が現れたりしても、いっこうにおかしくないことになる。
 そんなチャランポランなことを頭の中で巡らしていると、つまるところ最後に浮かんでくる言葉は「真理は唯一絶対の神のみぞ知る」であって、完全にギブアップするしかないではないか。これではいたたまらなくなる。
 真理というものは、美しいものであり、単純明快なものである。小生は、そう信じている。自然科学の分野で現在でも通用し、誰も異議を挟むことができない「公理」は皆、美しい数式なり、平易な言葉で著され、素人でも容易に理解できる。こうしたものだけが真理であろう。
 複雑かつ難解な理屈を持ち出さねば説明ができなかった天動説や大陸不動説が完全な間違いであったように、「無方向性の変異をする突然変異から生ずる」などという、気まぐれで美しくもない動機から複雑に進化が進んでいくなどという進化論は、小生には正しいとはとても思えないのである。

 人間は生き物であり、人間は「こころ」の赴くままに行動しようという欲求が強い。その「こころ」の源泉がどこにあるのかよく分からないが、少なくとも脳だけではないことははっきりしている。人間は脳が大きいから「こころ」を持ったわけではないのである。
 人間と人間以外の生き物というものを比較したとき、どれほどの違いもないのであるからして、2つに分けて考えるのではなく、一緒のものと捉えるべきものであり、人間以外の生き物にも「こころ」があって、皆、その「こころ」の赴くままに行動していると考えるのが素直であろう。
 生物の進化においても、その「こころ」を無視して語ることはできないと思われるのである。極端な言い方をすれば、「こころ」が生物を進化させたと言っても、あながち間違いではなかろう。
 真理とは美しいものであり、生物の進化は一見複雑そうに見えても、その真理というものは平易な美しい言葉で著されるはずであるからである。
 先に類人猿の食性の変化がどのようにして起こったであろうかを述べたが、これは小生が類人猿を完全に擬人化し、自分の「こころ」から湧き出してきた想像力で記述したものである。もっとも、この部分を書くに当たっては、河合正雄氏の「サルからヒトへの物語」(小学館ライブラリー)のなかの現生霊長類の食性の説明を元にしつつ、西丸震哉氏が「食生態学入門」(角川選書)のなかで原始部族社会の食文化のあり様について、氏が原始人になりきって、ある習慣ができ上がっていくまでを巧みに想像して述べておられるので、その手法を真似して書いたものである。
 類人猿の食性の変化については一切の証拠がないのであるからして、そうでもしないことには何も書けないからであるが、当たらずとも遠からずの説明になっていると自負している。
 ところで、類人猿を「擬人化」することは、正しいであろうか、間違っているのであろうか。
 ラマルクの2つの説が徹底的に叩かれたその背景には、ラマルクが「生物の要求」とか「生物の努力」といった言葉を多用したことが挙げられる。つまり、生物を擬人化したことにある。人間以外の生き物に「こころ」を持たせることが、欧米の生物学界では極度に嫌悪され、これは今日まで続いている。
 科学史家の村上陽一郎氏がおっしゃるように、欧米においては、自然科学は反擬人主義が尊重され、全ての現象を「こころ」に係わる言葉ではなく、「もの」に係わる言葉で記述することを要求しているのである。このことに関して、今西錦司氏は「主体性の進化論」(中公新書)のなかで、遠慮がちに「動物には擬人主義を多少とも認めて良いではないか。でも植物までに擬人主義は持ち込めないが。」と、おっしゃっている。そして、もう一人、「重力が生物を進化させた」と主張されている西原克成氏は「内臓が生み出す心」(NHKブックス)のなかで「単細胞生物でさえも既に心がある」と、おっしゃっている。
 小生は西原氏の考えを支持する。全ての生き物に「こころ」があると考える。例えば、植物の葉っぱや果物の種に毒があるということは、それを食われたくないという「こころ」があるから、そうなったのではなかろうか。小生が行っている原種のヤーコンの栽培体験からも、植物に「こころ」があることを実感している。
 全ての生き物に「こころ」があるのだ。そう叫びたい。
 キリスト教の精神に基づく欧米人は、人間は神から特別に選ばれた存在であるとの意識が強く、明らかに動植物を単なる「もの」として差別しているのであって、動物愛護運動にあっても上から下への単なる慈善にすぎず、決して人間と動物を対等な生き物とする考えはなく、動物に「こころ」を認めないのである。
 進化学説には、ここで紹介したもの以外にも様々なものがあるが、今西氏は、それぞれ多くの観察や実験を通して打ち出されたものであり、その価値はいずれも計りしれないものがあると、おっしゃっている。
 小生は、その一つ一つに敬意を表しながらも、その全ての説や論に、生き物の「こころ」を付与したところで見直しをしようと思う。
 ラマルクの2つの説は、既に生き物の「こころ」が入っており、「用不用説」は「用不用の法則」に、「獲得形質遺伝説」は「獲得形質遺伝の法則」に格上げし、それを「公理」とし、これに素直に従えばよかろう。なお、西原氏は、この2つの説はともに「法則」であると、別の観点から詳しく解説されておられる。
 その他の説や論については、一々ここでは取り上げないが、随所随所で擬人主義を持ち込んで、小生なりの見方をしていくこととしたい。

第6節 類人猿の食性の拡大
 たびたび脱線してしまって申し訳なかったが、ここて再び類人猿の食性の話に戻す。
 熱帯雨林に生息する類人猿といえども、新たな食材の開発を迫られることが往々にしてある。地球の環境は、地球が誕生して以来、絶えず激しく変化してきている。特に、約5百万年前からしだいに寒冷化が進み、2、3百万年前に本格化した氷河期は過酷なものであった。
 地球の長期にわたる寒冷化は、熱帯地方にも大きな影響を及ぼしたであろう。熱帯雨林は乾燥し、大幅に後退していったと考えられる。湖沼や湿地帯も縮小に縮小を重ね、その多くが消滅したことであろう。逆に、海水面の低下で陸地は多少広がり、その分、熱帯雨林が広がったであろうが、焼け石に水であったろう。
 加えて、植物相の変化も広範囲に起きたであろうから、深刻な食糧難に見舞われ、生態の変更を迫られたに違いない。このとき、チンパンジーやボノボの祖先は、熱帯雨林だけでなく、灌木地帯にまたがる生活域をとったり、たまたま残った水域への進出をしたようである。
 灌木地帯にはマメ科の植物が多く自生しており、チンパンジーの祖先は、このときから新たな食にチャレンジし、様々な豆を食べるようになったと思われる。それも十分に実った硬い豆を。また、水域には柔らかい茎や太い根を持つ水生植物が自生しており、ボノボの祖先は、こうしたものへも食を広げていったのであろう。
 食に対する貪欲さがヒトに次いで旺盛なのがチンパンジーである。現生チンパンジーは植物性の食域の幅も広いし、蜂蜜を好み、アリを釣って食べるほかに、ときどき狩猟を行ない、真猿類をはじめ10種類以上の哺乳動物を食べることが知られている。
 そこで、肉の多食が定着しきっている欧米の動物学者は、次のように考える。
 飢餓に瀕したとき、チンパンジーの祖先は、遠い祖先の食性である動物食を取り入れたのであろう、と。それが今でもときどき狩猟を行なう行動として続いていると考えられ、チンパンジーは人類と同様にずっと前から雑食化への道を歩み始めていた、と。
 一般的な考え方は以上のとおりであり、そして、ヒトも初めから雑食性であった、と言うのである。はたして、これが本当であるのかどうか、そのあたりをじっくりと考えてみたい。

 現生類人猿の動物食をもう少し詳しく紹介しよう。
 オランウータンもアリ食いをし、まれに小動物の狩猟を行なうのが観察されている。
 ボノボはチンパンジーと違ってめったに狩猟を行なわないようである。小さなムササビをまれに捕らえて食べるのが観察されているほかは、水辺の砂をすくって水生昆虫や小さな魚を捕らえて食べることが知られているだけである。(ブログ版追記:近年、わりと大きい哺乳動物の狩猟が観察された事例が1件あり)
 巨漢のゴリラにいたっては、たまに行うアリ食い以外には、動物食は全く観察されていない。
 日本の動物学者のなかには、ボノボも同様であるが、チンパンジーの動物食は、飽食時に行われることから、これは遊びの範疇であるとみる方がいらっしゃる。小生も、類人猿が動物を食べる習慣は、別の観点から見るべきだと考える。

第7節 ゾッとするチンパンジーの子殺し行動
 ここで、なぜにチンパンジーが、真猿類などの動物を捕らえて食べてしまうのかについて考えてみよう。
 類人猿のオスにとって、「食」が第一の欲求であり、食が満たされれば第二の欲求として「性」欲が生ずる。第三の欲求は暇を持て余したときの「遊び」である。
 類人猿のオスは、大人になってもよく遊ぶ。常日頃は寡黙でどっしり落ち着き払っている大人オス・ゴリラであってもそうであり、遊びが類人猿の大きな特徴になっている。類人猿以外の動物の大人オスには遊びがほとんどみられないのであり、類人猿は例外的な存在なのである。(もっとも、極めて生息密度が低いオランウータンの大人オスは群を作らず、完全な没交渉の生活をしているが。)
 さて、チンパンジーの狩猟というものは、欲求第二の「性」と第三の「遊び」の結合から生じたものと考えたい。
 ボノボにはないが、ゴリラとチンパンジーには悪しき「子殺し」の風習がある。ゴリラとチンパンジーは、大人オスがいなくなって群が崩壊したとき、別の群の大人オスが、その群の乳児を殺してしまう。これは、乳児を抱えるメスから乳児を奪い去り、メスの発情を促すためであると考えられる。
 メスは、授乳中には発情フェロモンを分泌しないが、子が死んで授乳しなくなると、過栄養がために(授乳できるということは体が過栄養状態にあり、授乳によって正常状態を維持する)再び発情フェロモンを分泌するようになる。これは、彼らオスはよく知っているし、各種のフェロモン匂を嗅ぎ分ける能力はヒトはあらかた失っているものの、類人猿は十分にその能力を持ち備えている。なお、類人猿同士の個体識別は、姿形の違いを視覚で行うほか、各個体に特有のフェロモン匂によるところも大きいと考えられる。(この段落はブログ版で補記)
 
 子殺しは、オス・ライオンが群を乗っ取ったときに必ず行われる行動と同じであり、少数派ではあるものの動物界に広く見られ、特に霊長類において多い。
 なお、チンパンジーのオスによる子殺しは、同一の群の中において行われた例も相当数あり、また、数は少ないものの、メスが実行犯となった例も観察されており、なぜにこんなことをするのか、いまだ謎が多い。
 たぶんこれは、他の群に移籍したメス(チンパンジーの社会は、オスは生まれた群れに残り、生殖可能となったメスが群から出ていく父系)がその群で妊娠し、その後すぐにまた別の群に移籍して、そこで出産したのだろう。そうなると、子のフェロモンはその群の者(移籍してきたメスは除く)と全く異なったものとなり、その子は仲間ではないと感知するのではなかろうか。(この段落はブログ版で補記)
 一方、ボノボはというと、メスの発情が消える期間が極めて短いし、何よりもフリーセ
ックスの社会であるからして、オスは「性」については全く不自由しておらず、このような事態になっても子殺しは一切しない。
 ヒトの祖先にも、このような悪習はなかったと言えよう。今の我々男どもがこんなことをしたら、女性に一生憎まれ続け、性の享受は永遠に遠のいてしまうではないか。ヒトの祖先のメスはいつしか性の表出をしなくなり、現在と同じで発情は隠されてしまっていたであろうし、反対に、ほとんどいつでもオスを受け入れられる態勢になっていたと思われるから、このようなことはあり得なかったに違いない。
 ゴリラの世界においても、子殺しによるメスの獲得率は5割を切っており、亜種によっては子殺しをめったにしないから、彼らにも何らかのブレーキが働いているのであろう。
 もう一つ、ヒトは子殺しをしないと考えられる理由がある。現在の人類の男どもは、戦争という、やたらと殺し合いを行なう凶暴な動物になり下がったが、生来は決してそうではない。それを説明しよう。
 日頃はおとなしい草食動物でも、繁殖期には角や牙でオス同士が壮絶な争いをする種が多い。性の欲求のために、相手が傷ついたり死んだりしてもお構いなしで、相手が退散するまでオスは戦いに明け暮れる。
 類人猿にも牙があり、オス同士の争いに専らこれが使われ、時として相手を噛み殺すことさえある。それに対して、ヒトには糸切り歯が申し訳程度に生えているだけである。歯の化石が出たとき、ヒトであるか否かの判定は、まず犬歯を見て行われるくらいであり、ヒトの祖先は争いのための牙を持っていなかったのである。
 ヒトには角もなければ鋭い爪もない。オス同士の争いに使う武器を放棄したということは、ヒトのオスは争いを好まない、おとなしい性格の動物であったとしか考えられない。こうした性格を持ち合わせているかぎり、子殺しなどという空恐ろしいことは決して考えも及ばなかったであろう。
 加えて、チンパンジーは複雄複雌の群を構成しているのだが、オスはいたって子供に無関心で、邪魔者扱いさえするのに対し、人間の男どもは、他人の子どもであっても可愛いと思う心が強い。目が合えば、つい微笑んでしまうし、何かあれば手を差しのべてあげようという気になり、また、そうするではないか。ヒトは、この点、ゴリラに似ている。群の主のオス・ゴリラは、子どもの良き遊び相手になり、母親が死ねば一緒に寝てやったりもする。
 さて、「子殺し」のやり方だが、ゴリラは、大人オス1頭で乳児を一撃のもとに即死させて放置するだけだが、チンパンジーとなると全く様相が異なる。彼ら大人オスは、子を捕まえたら、身の毛がよだつ恐ろしい行動を取るのである。1頭の大人オスが捕まえた乳児を生きたまま手足を引きちぎって食べ、血をすすり、そこへ他の大人オスが加わってあらかた食べ、あげくの果てには老若男女入り乱れて、残り物のご相伴にあずかり、皮まで引き裂いてクシャクシャと噛むのである。さすがに、その子の親兄弟はこれに加わらないが。
 まさに狂乱地獄絵図が繰り広げられ、現実にチンパンジーたちは異常な興奮状態に陥る。でも、乳児を殺されたメスは何日か後に発情し、大人オスたちのほぼ全員の「性」を受け入れて身ごもり、複雄複雌で連れ添うこととなるというから、人間にはとても理解できない空恐ろしい行動形態である。
 ゴリラとチンパンジーのこの行動の違いは、どうして生ずるかを考えてみよう。
 ゴリラのオスはメスの2倍の体重があり、基本的に一雄複雌の群(単独行動をする大人オスの下に他の群から生殖可能となったメスが順次入ってくる父系)をつくる社会である。また、メスが群れ落ちして単独で暮らすことは、身の危険(生息域にネコ科の猛獣がいる)があることなどから決してしない。よって、メスは、配偶関係を結ぶオスの選択権が制限され、たとえ自分の子を殺した憎きオスであっても、そのオスに保護を求めざるを得ないことが多いのである。もっとも、彼女に恨みが残っているのかどうか定かでないが、別の群が接近したときに、その群に移ってしまうケースが多く、先ほど述べたように、子殺しオスのメス獲得率は5割を切る。
 また、ゴリラの乳児死亡率は5割を超え、原因は何であれ、乳児の死は日常茶飯事であって、いつまでも悲しんでいられないのが現実である。現に、人間の世界にあっても、ニューギニアに住む文明と隔絶された民族は、乳児死亡率が5割を超え、乳児が死んでも3日もすれば母親はケロッとしていると報告されている。多産多死の世界では、人もゴリラも乳児の死に対してはあきらめが早いのではなかろうか。
 一方、チンパンジーは複雄複雌の群をつくり、基本的には乱交社会ではあるが、特定の者同士での配偶関係が相対的に強い場合が多々ある。子殺しという事態が発生した場合に、そのメスは、群が複雄であるからして、配偶関係を結ぶ相手の選択権が当然に幅広くなる。自分の子を殺した下手人である憎きオスとは決して配偶関係を結ぶ気など起きないであろう。
 そこで、手を下したオスは、周りの者たちにも、まだ生きている乳児を食べさせて共犯者を数多く作り、メスの選択権を亡きものにするのであろう。いや、そうとしか考えられない。
 さらに、そのメスも過去に共食いに参加した経験があるだろうし、加えて、我が子が食いちぎられ骨と皮が細かくばらばらに地上にまき散らされて瞬く間にこの世から消滅してしまえば、我が子の死に対してあきらめが促進されるというものである。
 このような習性を持つチンパンジーであるからして、彼らに生活の余裕ができたときの遊びとして、強い刺激を求めて「子食い」に代わる狩猟による動物食の習慣が根づいたのではなかろうか。
 加えて、動物狩りとその祝宴は、メスの獲得のための「子殺し」「子食い」行動の正当化に一役買うことになるのである。なぜならば、狩猟は子殺し行動と同様に大人オスどもが単独または共同で行い、宴会は大人オスどもが中心となるものの、メスや子どももどれだけかはご相伴にあずかれるからである。
 なお、この習慣は飢餓に瀕した場合の代用食とは考えられない。チンパンジーの狩猟は、通常の食事を行なった後で行われているから、腹が減ったから狩りをしようという考えは全くないからである。
 大人オスどもが、彼らの狩猟の対象としている好みの動物と河原ですれ違っても、全く無視するがごとく何事も起こらなかったことも観察されており、チンパンジー社会の何か内的な必然性がないことにはハンティングに踏み切らないことははっきりしている。
 チンパンジーの狩猟は、群によってその頻度が異なっているが、最大で1年に十数回までであり、1回に1匹を仕留め、皆で分け合って食べるのが一般的である。もっとも、仲良く平等にとはまいらず、獲物をしとめたオスに優先権があり、気に入った仲間には多く、気に入らないライバルにはなかなか分けようとしないなど、日頃の個体間の付き合い状態が大きく反映される。
 彼らがもし飢餓に直面したときに、どういう行動をとるであろうかを考えてみよう。
 彼らが最も好む果物が異常な不作となった場合には、休むことなく果物を求めて移動を繰り返すであろう。それが手に入らないとなると、柔らかい木の葉っぱを主食とし、あとは豆捜しである。こうした飢餓のときは、毎日が腹ペコで、朝から晩まで餌捜しで手一杯であり、オスどもの誰にも遊ぶ余裕や気力などこれっぽちも生ずるわけがない。体力も消耗しきっている。
 刺激を求めたくなるのは、食が満たされた、暇で暇でしょうがないときに限られる。我々でもそうである。生活に困窮すれば貧乏暇なしであり、たまにはゆっくりしたいという願望があっても、疲れ切った状態では、刺激がある遊びなど誘われても、とてもじゃないが御免こうむるとなるではないか。
 以上のことから、チンパンジーの狩猟は、強い刺激を求めての遊びとして行われると結論づけてよいと考える。チンパンジーは雑食化への道を一歩、歩み始めたという考えは否定されねばならない。
 チンパンジーほどの高等動物となると、広い意味での「文化」を持っていると言っていい。この動物食行動は、飽食時に細い木の枝で爪楊枝を作ってアリを巣穴から釣って食べる昆虫食行動とともに、彼らの文化として位置づけることができよう。
 チンパンジーの進化の過程で、いつしかこうした「遊びの食文化」を築きあげたということは言えようが、本来の固有の「食性」としては決して位置づけられるものではない。くどいようだが、狩猟は飢餓のときには決して行われないと考えられるからである。ちなみに、食糧資源が豊富な森林に暮らすチンパンジーよりも、食糧資源の乏しいサバンナで暮らすチンパンジーのほうが、狩猟頻度は少ないという調査報告がある。
 なお、ボノボの水生昆虫や小魚取りも同様な「遊びの食文化」と言っていい。そして、ボノボがまれに行うムササビ食いなどは、チンパンジーとの共通の祖先のときに、既に子殺しと動物食の風習があり、種が分かれることによって子殺しをやめる方向に向かったが、その文化は完全には消えなかったと解したほうがよいと考えられよう。

つづき → 第3章 熱帯雨林から出たヒト

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

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食の進化論 第1章 はじめに結論ありき

2020年09月20日 | 食の進化論

食の進化論 第1章 はじめに結論ありき

第1節 定向進化説と生物発生反復説
 地球上の生物はある一定の方向へ進化し続けるという道を歩んできた。これを「定向進化」と言う。もっとも、これは同種と考えられている化石を古い順に並べて骨格の差を比較したり、現生動物を類別に分けて形態を比較するなかから、一定の方向へ進化してきているように見えるからそう言うだけであって、何ら物証はない。
 明確な証拠を示せと言われても、進化というものは、一般的に百万年単位という極めて長い年数をかけて起きるものであるからして、それは全く不可能である。
 そうであるけれども、長年にわたり詳しく動植物の観察を続けておられる学者たちのなかには、動植物は総じて一定の方向へ進化していると言わざるを得ないとおっしゃる方があり、「定向進化説」の支持者も少なからずいる。
 しかし、ダーウィンの進化論の流れを汲み、進化学会の実権を握っている「正統進化論者」たちは、異なった見解を持ち、定向進化の考え方を全面的に否定する。
 なぜならば、進化というものは目的性を全く持たない突然変異によって起きるものであり、進化の系統は迂回したり、途中で脇道へそれてしまうこともあるから、一直線に向かっているとは言えないというものである。
 したがって、定向進化は残念ながら「説」と呼ばれ、日陰者扱いされている。
 でも、定向進化を指し示していると思わざるを得ない動植物の系統樹は、正統進化論者の著書にも堂々と図解として掲げられており、なぜに定向進化が否定されねばならないのか、わけが分からない。
 次に、「個体発生は系統発生を繰り返す」という「生物発生反復説」というものがある。1個の受精卵から成体になるまでの過程(=個体発生)は、30億年以上前とも言われる大昔に誕生した単細胞生物が現在のその個体にまで進化してきた系統をたどるというものである。
 ヒトの胎児も格好がついてきたら魚のように見え、そして尻尾が消えて全身が体毛で覆われた猿になり、最後に人間らしくなって脱毛して生まれてくる。ヒトの胎児のこの個体発生は誰が見たって脊椎動物の系統樹を順々にたどってきているとしか思えないではないか。
 ここでも正統進化論者は、個体発生と系統発生は全く別物であり、個体発生を進化に絡めるのは間違っていると言うが、それは屁理屈であろう。
 人類がどういうふうにして誕生したのかということが化石などからでは十分に分からない現状において、個体発生の道筋が人類進化を類推するうえでとても参考になると考えて何ら差し支えないであろう。
 特に、人類と類人猿の大きな違いとして体毛の有無や汗腺の相違など、化石では全く分からないところは、個体発生から類推する以外に何ら方法がない。
 非科学的と言われようが、これしか人類の歴史を探る方法がないのであるから、定向進化説とともに生物発生反復説も認めようという学者も少なからずいる。
 この2つの説の考え方の元に、正統進化論者から単なる類推とのそしりを受けてはいるが、ヒトの形態変化についてかなり詳細に分かってきた。
 しかし、ヒトは何を食べてきたのか、そして、ヒトに適した食べ物は何であったのかという「食性」については、消化器官が化石として残ることはなく、謎に包まれた部分があまりにも多すぎ、納得のいくような解説をしてくれる学者が一人もいない。あったとしても、一部分を簡単に記述するにとどまっており、明らかな間違いをさも正しいと論ずるものまであるから混乱を招く。
 したがって、ヒトの食性についても、とりあえずは定向進化説と生物発生反復説からの類推に頼るしか方法はなく、何人かの学者が、霊長類について現生類人猿に進化するまでの食性の移り変わりを解説なさっているので、まずはそれを紹介することから始めよう。

第2節 霊長類の食性
 哺乳類に属する、サルの仲間である霊長類の食性には一定の方向性が認められる。霊長類は恐竜が絶滅する少し前の、今から約7千万年前に誕生した。彼らは熱帯雨林で樹上生活をする夜行性小動物として昆虫を常食していたと考えられる。
 現生するキネズミが最も原始的で、名のとおりネズミほどの大きさであり、メガネザルでも20センチ程度しかない。これらの原猿類が霊長類のスタートであり、現在もそのほとんどが夜行性で、熱帯雨林で樹上生活をしながら昆虫だけを食べて暮らしている。
 原猿類が植物を少しずつ食べ始めることによって雑食の真猿類が登場し、中型の霊長類へと進化した。発見されている最古の化石は1千数百万年前のもので、今日、熱帯の草原に生息するヒヒや温帯のニホンザルなどがその仲間であり、オナガザル類に属する。
 さらに昆虫を食べるのを止めて専ら木の葉っぱばかりを食べる植食性のヤセザル類も登場した。ラングールやテングザルが現生する。しかし、不思議と真猿類の古い化石はほとんど見つかっておらず、起源や進化の系統は今もってよく分かっていない。
 大型霊長類である類人猿の起源は古く、真猿類から進化したのではなく、原猿類から直接枝分かれしたようでもあるが詳細は不明である。約5千万年前の地層から真猿類と類人猿の中間的な歯の化石が発見され、約4千万年前の地層からも数多くの類人猿の祖先の化石が発見されている。約2千3百万年前から類人猿はヨーロッパ、アジア、アフリカでたくさんの種が繁栄していたようであるが、約1千万年前に急速に消滅し、現在の生息域に近い形に縮小した。生き残った種はわずか数種である。

 さて、類人猿の祖先たちは何を食べていたのであろうか。彼らの歯の化石と今日の類人猿の食習慣からして、随分前から果物の果肉と木の柔らかい葉っぱを常食する植食性の動物になってきたと考えられている。
 なお、ヒトと類人猿を含めたヒト上科、最近はヒト科と分類され、乳歯20本、永久歯32本で、共通性がある。ついでながら、ヒトの歯の大きな特徴として犬歯の退化が挙げられ、約1千万年前のギリシャのオウラピテクスやトルコのアンカラピテクスにそれが見られるが、ヒトの祖先とは別系統の絶滅種と言われている。
 以上が霊長類の大ざっぱな食性の変化の方向である。もっとも、真猿類の種によって食性は少しずつ違うし、植食性の類人猿にあっても、チンパンジーは果物の果肉が主体で木の葉っぱも常食し、ゴリラは草の葉っぱが主体で果物も食べるというように一様ではなく、また、生息地域の環境によって少しずつ異なっている。
 チンパンジーやゴリラはアリ(蟻)を食べ、完全な植食性ではないとも言える。ただし、彼らのアリ食いは飽食時に行われており、遊びの範疇という捉え方もあり、後から覚えた嗜好品であろうから、本来の食性に加えるべきではないという考え方もある。
 だがしかし、チンパンジーは度々肉食を行なうことが観察されており、雑食性という見方がある。この事実は否定できない。そうすると、食性の方向性が崩れてしまい、定向進化ではなくなってしまう。
 チンパンジーとの共通の祖先から枝分かれして誕生したと考えられる人類は、今やその多くが雑食性である。完全な動物食になってしまった民族まで誕生し、明らかに定向進化の道から外れてしまい、ダーウィンの進化論の流れを汲む正統進化論者からは、定向進化説の間違いの実例として、激しく非難されることにもなる。でも、これは後から覚えた「食文化」である可能性が高い。

第3節 ヒトの食性の通説
 次に、ヒトの食性の通説について紹介しよう。ヒトは最初から雑食性の動物としてスタートを切って今日に至る、というのが欧米の人類学者たちの共通する考え方であり、日本でも一般にこれが支持されている。
 ヒトは、その英知でもって、植物であっても類人猿が食べることを知らなかった芋類や穀類(穀類はごく最近)を新たなエネルギー源としつつ、必須栄養素の蛋白質を動物の「死肉」からあさることを覚えた。もっとも、死肉といっても最初は骨の芯にある骨髄を食べたというものではあるが。
 その後、道具の発明により狩猟を行ない、動物食中心となり、数十万年前からは火の利用を覚え、食糧にできる動植物を大幅に増やした。さらに、寒冷地で好都合な高エネルギー源である脂肪も海洋動物などから得るようになり、生息域を全世界に広げることになった。
 加えて、約1万年前には文明の芽生えとともに穀類栽培という農業を始め、ほぼ同時に動物を飼い慣らして栄養バランスに優れた乳を生産するまでになり、さらに乳を発酵させた乳製品を発明した。
 ざっと、こんな説明がなされている。
 なお、ここで小生は「動物食」という言葉を使った。参考とした文献にはいずれも「肉食」とあり、これでは現在の我々の通常の食生活と同様に動物の「筋肉」だけを食べることになってしまい、未開の狩猟民族の食習慣の実態とは大きく異なる。彼らは、筋肉だけではなく内臓、血液をはじめ、食べられる所は全て食べ、そして、忘れてはならないのは、腸内に残っている半消化の植物までもその一部を食べているのが実態であるから、誤解を招かないように、そう表現した。
 これを「一物(いちもつ)全体の法則」と言う。漢方から生まれた言葉である。一つの生き物の全部を食べないと栄養バランスが整わないというものである。
 また、前節のチンパンジーの肉食についても、血をすすり、脳味噌を食べ、皮もかんでいることが観察されていることから、正しくは動物食である。
 ヒトの食性についての通説は以上で全部であり、極めて簡単に説明が終わってしまう。
 これは、欧米の食生活をベースにして、肉食文化を正当化しているだけと言っても過言ではなかろう。なんせ欧米各国の栄養学で、第一番目に記述される栄養素は「蛋白質」なのであるから。

第4節 ヒトの食性の通説への疑問
 日本では、栄養学ができて以来、第一に掲げられてきたのは「炭水化物」(ただし、最近は欧米にならって蛋白質が第一に掲げられるようになった)であり、人間が活動するために必要なエネルギー源となるものを最重要視してきた。明治以降、つい最近まで皆が朝から晩まであくせく体を動かさねばならない社会であったし、何といっても米食文化であったからである。
 生粋の日本人がヒトの食性を論じたら、全く違った文章ができあがるであろう。小生も若かりし頃は、通説が肯定できたが、中年となった現在では蛋白質や脂肪の消化能力が落ちて、「とてもそんなくどいものは食えんぞ。ご飯と味噌汁にしてくれ。俺は毛唐(けとう=毛むじゃら外人)とはちゃう!」と、つい息巻いてしまう。
 自家製の有機野菜が何といってもおいしく感ずるこの頃であり、肉はそんなに食べたいとは思わなくなったし、魚介類が少しでも食卓にのれば大変なご馳走となる。
 そんなことから、日本の医学・栄養学界では、ヒトは完全な植食性に適しており、動物食はいまだ適合しておらず、したがって動物性蛋白質は摂るべきではないと主張する老年の学者も少なからずいる。
 また、米国政府は、近年、肥満者などに対して生活習慣予防のために肉食を大幅に制限し、限りなく植食性に近い食生活を推奨するようになってきており、牛乳もほどほどにせよ、とのことである。肉は少量(今の日本人が摂っている量の3分の1以下)に抑え、それも魚主体とし、悪くても鶏肉に変えよというのである。
 小生がこれを知ったとき、“ほんまかいな?”と思わず口に出てしまった。これでは精進料理に毛が生えた程度の和食になってしまうからである。こうした米国政府の健康指導もあってか、米国の東海岸の都市では日本食が根強いブームとして拡大してきており、また、一歩進んでベジタリアン(菜食主義者)が大変多くなり、牛乳の代わりに豆乳を常飲する者まで現れてきているとのことである。
 英国においても、菜食主義者であるヒンドゥー教徒のインド人がかなり移民してきており、彼らの影響を受けてか、狂牛病問題の発生を契機にベジタリアンが急増しているとのことである。もっとも、菜食主義者のヒンドゥー教徒であっても牛乳は飲んでよいことになっているが。
 健康に関するこれらのことを考えると、ヒトは完全な植食性で誕生し、それが相当な長期間にわたって続き、いまだに動物食には適応できていないと言えるのではなかろうか、という疑問が湧いてきた。

第5節 洋の東西での思考方法の違い
 小生が薬屋稼業に入って、はや13年の歳月が流れた。この間、「食」と健康との関連に興味を抱き、それなりに勉強してきた。(ブログ版追記 現在、薬屋稼業に入って26年になるも、まだまだ勉強が足りません。)
 人間の手が加わっていない「自然の生態系に暮らす動物は病気しない」と言われる。これは、彼らに固有の食性が保証されているからであろう。
 そこで、ヒトにも固有の食性があるはずであり、それを守れば病気しない健康体を維持していけるのではなかろうかと考えた。しかし、残念ながら、ヒトは誕生して以来、何を食べ、そして、今、健康を維持する上での最適の食はどういうものか、これを調べれば調べるほどに、さっぱり分からなくなってしまった。
 そのなかで、小生が感じたのは、欧米の学者の物の考え方に少しずつ疑問が湧いてきて、言っていることが何となく鼻に付きだし、嫌気がさすようにまでなった。
 後から分ったことであるが、それは生活環境と文化の違いからくる思考方法の相違に根差しており、欧米人の心の奥底にある一神教に基づく世界観と日本人が持つ多神教と仏教が混在した世界観がそれを大きく隔たったものにしてしまっているようである。
 もっとも、明治以降、欧米の文化が日本に入り込んできて文化融合し、段々と日本人が欧米的思考に慣らされてきており、戦後においては、より欧米的思考が受け入れやすくなってきているとのことである。
 確かにそうであろう。ただ、これにも個人差がある。
 いくつかの宗教を多少とも齧ったことがある小生は、一神教の世界観を全く持たないどころか、これを完璧に拒否する立場をとっており、欧米的思考にはとても着いていけず、したがって、おかしなことをまだ言っている古い日本人なのかもしれないし、きっとそうであろう。
 加えて、日本人の心の中にはいまだに根強く欧米崇拝が残っており、特に欧米発の近代的自然科学は絶対に正しい真理であると思ってしまう傾向が強い。そんなふうに思い込むのは日本人ぐらいであって、一神教の世界観を持つ欧米人は、それが真理であるなどとは決して思っていないとのことである。このあたりのことを我々日本人は頭にしっかり置いておかねばならないであろう。
 欧米人にしてみれば、真理は神のみぞ知る、であって、自然科学というものは、誰か暇人(学者の語源)が単に「私には物事がこう見える」と主張しているに過ぎないという感覚で受け止める傾向があるとのことである。
[参照 森林の思考・砂漠の思考 鈴木秀夫 NHKブックス]
 まして、考古学というものは確たる証拠が不完全であり、これらに関する全ての論文は想像の産物であって、まさに暇人のお遊びであり、真理とはほど遠いものとして受け止められてもやむを得ない。
 米国の一部の州で、ダーウィンの進化論を学校で教えるなと主張されるようになったのは、何もゴリゴリのキリスト教徒が神の創造説に凝り固まっているだけではなく、一般人にも進化「論」と言えども単なる「説」としての受け止め方があることから、その主張が大いに支持される傾向があるのであろう。
 欧米の自然科学というものがそういう受け止め方をされるものであることから、ヒトの食性について気楽に語ることが許される半面、古代人の確たる証拠が全くといっていいほどないために、欧米の科学者には「私には物事がこう見える」ということすらできず、食性論も食性説も全く登場していないのではなかろうか。
 何か言えば、それは全くの空想の産物として、その学者は笑いものにされるのがオチであろう。
 事実、ヒトの化石と一緒に動物の化石が発見されることが多いが、初めはヒトが動物を食った証拠であると、ある学者が発表しても、後から調べた学者が、ヒトの頭蓋骨に動物の歯形が付いており、一緒に発見された動物(ヒョウ)の歯の化石とぴったり一致するから、ヒトが動物に食われたものであると発表し直されたりする。
 そもそも化石というものは、洪水などで多種類の動物が一緒に流されて溺死し、泥に埋まってできることが多く、食ったり食われたりの証拠にはなかなかならない。せいぜいヒトの歯の化石から臼歯が極端に磨り減っている場合には、砂混じりの食べ物を食べていたな、ということが類推されるだけである。
 時代が新しくなり、洞窟にヒトの化石とともに砕かれた大量の動物の骨の化石が発見されたときには、動物を食べていたな、骨が焦げていれば火を使っていたな、と想像されるだけである。その一例として北京原人の周口店遺跡が有名であるが、この遺跡については、焦げた骨は見つかっておらず、様々な骨は肉食動物が運んできたもので、灰らしきものは灰ではないと主張する学者もいるから、本当のことは何も分かっていない。ましてや、芋や葉っぱとなると一切証拠が残らない。化石として残り得るものは、動物の骨や歯、植物の花粉など、ほんの一部しかないからである。

第6節 数十万年より前のヒトの食性は不明
 したがって、ヒトの食性はどうであったかかは何も分からないのであるが、小生には、人類の遠い祖先である猿人や原人たちが「死肉あさり」などという、おぞましいことをやっていたとはとうてい考えられず、いや、考えたくもなく、これを否定したい。
 欧米の学者たちの根拠として、動物の化石のなかには骨が砕かれて骨髄が取り出されたであろうと思われる形跡があるものが発見されており、ハイエナやハゲワシが食べ終わった後、骨だけ拾ってきて、腐りにくい骨髄を石器で砕いて食べたのではないかと想像している。
 そこら中からそんな骨ばかりが発見されればいざしらず、こんなものは何かに驚いてゾウやサイが小走りし、散らばっている骨を踏みつければ簡単にできてしまうのではなかろうか。それらを拾ってきた可能性がある。
 明らかに石器を使ったと考えられる、傷がついた骨も見つかっているが、動物の骨は木の棒っ切れに勝る農具であり、拾ってきた骨から芋掘り農具を作ろうとした失敗作が山積みされて放置されたと考えてもよかろう。
 こうした土掘りに使って磨り減ったと考えられる骨の化石が見つかっているが、それは極めてまれである。使い古して用を足さなくなったら、当然にして原野に捨てられ、腐食・風化してしまって化石として残らないからであり、動物の骨を農具として使ったのはまれであったなどとは決して言えない。
 欧米の考古学者は、ヒトの遠い祖先の道具として、木や骨・牙・角を軽視し、石器に重点を置きすぎる傾向があまりにも強いと言っている日本の学者もおられる。加えて、欧米の考古学者の考える石器の使い道は、動物の解体に凝り固まっているが、小生が思うには、時代の新しいものは別にして旧式の石器は樹木の伐採や農具づくりに適したものと考えた方が素直な解釈であるという気がしてならない。
 図をご覧ください。あなたならどう考えますか。なお、この図は日本人の考古学者の手によるものです。

 
 
ヒトが動物を食べるようになったと考えられる確たる証拠は、人類の歴史からすれば比較的新しく、最古の狩猟の証拠として、やっと40万年前のものがドイツで発見されているにすぎない。松の枝で作った槍(やり)であり、それを使って殺したときに傷ついた骨も一緒に発見されている。魚を食べるようになった証拠はさらに新しく、年代の特定はできていないが、14万年前から7万5千年前までの間のいつ頃かに始まったことが分かっている。南アフリカのブロンボス洞窟で魚の骨が多く発見され、これが最も古い証拠である。貝を食べていた証拠も、他の場所で同様な年代から発見されている。
[参照 人類進化の700万年 三井誠 講談社現代新書]

第7節 ヒトの食性が不明でも追及したい
 証拠からすれば、ヒトの動物食は比較的新しい年代になってからということになる。日本人の学者のなかにも、死肉あさりに疑問を持つ方がみえ、小生がそうであるように宗教観に根差した日本人的思考によるものであろうが、だからといって、これを否定できる証拠もないし、また、植食性の証拠もなく、残念ながら学者の方々には何も物が言えない状況にある。
 学者のなかには真剣にこうしたことを研究しておられる方が一人や二人はおられると思うが、そんな絵空事を発表でもすれば学者生命を失うことになりかねないであろうから、内に秘めたままで終ってしまい、決して日の目を見ることはない。何年経っても、何十年、何百年経っても事態は一向に変わらないであろう。
 それを世に出す方法が一つだけあるのであるが、そうした方がはたしておやりになるかどうか。
 研究生活から引退し、もはや失うものがなくなったときに、論文としてではなく、「随筆」として、冥土へ旅立つときに、置き土産として、この世に残していただければいいのである。
 しかし、そうした随筆なるものを気長に待っている時間的余裕は小生にはない。もう58歳であるから。
(ブログ版追記 現在もう72歳になりました。)
 ヒトの食性というものが、いつどのようにどの程度変わってきたのかを知ることは、現在の我々の健康維持に最も的確なアドバイスを与えてくれるだけにとどまらない。差し迫った問題として食糧危機を乗り越える方策にもつながり、ひいては世界平和を達成できる道しるべにさえなる、極めて重要な課題でもある。
 なぜなら、自然界に生息する野生動物は、それぞれの種に固有の食性を守ることによって平和共存しており、人類もその一員であるからだ。
 あまりに大上段に振りかざした物言いをしてしまい、誠に恐縮ではあるけれども、現在の日本のこの飽食時代にあって、我々がつい忘れがちになってしまう「食」というものは、健康に生きるための全てであると言ってもいいくらい重要なものであることを皆さんの肝に銘じておいていただきたいからである。
 この世の学者に今すぐその答えを求めるのが不可能と分かったとき、それじゃあ、ズブの素人ではあるが、自分なりにこれを調べ、自分なりに考え、当たらずとも遠からずの、まだ誰も発表していない「ヒトの食性に関する進化論」なるものを「随筆」としてまとめてみようじゃないか、という意欲がフツフツと湧いてきた。
 欧米人的立場に立てば、暇に任せて好き勝手にしゃべっているのが学者であるのだから、素人がちょこちょこ調べで論文を書いても、学者と素人の差は、神との差よりもうんと小さく、誠に気楽である。学者じゃないから、たとえ読者に笑われても何てことはない。
 古臭い日本人の立場に立てば、学問とは真理の探求ということになり、専門の学者が確たる証拠を手間暇かけて集め、重箱の隅までつついて絶対に間違いがないものに仕上げねばならない。日本における学問というものはそういうものである。欧米化したといえども、学問に対する日本人の捉え方は昔と変わっていない。
 小生には、これはとうてい不可能なことであり、ちょこちょこ調べでは、ど素人の出しゃばり者め、と、論文の中身も見ずにゴミ箱へ捨てられてしまうのは必至である。この世の学者のみならず、一般の方の見方もそうであり、この本を手にしたあなたにもまじめに読んでもらえそうにない。
 ここはひとつ心を広く大きくお持ちになって、ぜひ欧米人的な考え方に立って、拙論は全くの素人談議で申し訳ありませんが、何とぞ最後までお付き合いをお願いしたいです。

第8節 インド哲学からの挑戦
 何も分からないことをどうやって調べるのだ。
 確かに従前どおりの欧米的な思考で調査研究したところで何も出てこないであろう。じゃあどうするか。
 日本人的思考方法は、これは本当かどうか分からないが、紀元前の仏教誕生前夜のインド哲学に類似したところがあるという話を聞いたことがあるので、これを少々かじってみたところ、なかなかどうして奥深いものがあり、論理的でもあり、納得がいくではないか。半面、動物でも植物でも生き物というものは理屈だけでは理解しがたい面があり、無意識とか深層心理とか、つまり隠された「こころ」で感ずるところに真理があると言っているようでもあり、非論理的でもある。ここのところは非常に難解ではあるが、知らず知らずのうちに全て理詰めで考える欧米的思考に毒されている小生にはほんの一部しか会得できていないし、間違った受け止め方をしているかもしれない。なお、般若経や華厳経を勉強するとよいということであり、友人からすすめられもしたが、これらはあまりにも難解で、小生の頭脳からしてはとうてい理解できそうにもなく、初めから逃げ腰であり、永久にその門を叩くことはないであろう。
 泥縄式のにわか勉強ではあったが、インド哲学の本質は、この世に存在する「いのち」というものを実に的確に捉えている気がしてならない。今後とも、こちらの勉強を暇をみては続けていきたいと思っている。
(ブログ版追記 その後、もう少しインド哲学や仏教哲学を齧ってみたが、難解な部分が多くて残念ながら遅々として前へ進まない。)
  欧米的思考はキリスト教の精神に基づいていることは間違いない。「神の下に人がおり、その下に物がある。動物も植物も土も水も、全部、物である。」という一方向の捉え方である。欧米人の場合、キリスト教は嫌いだという人であっても、それは教会や聖職者に嫌気をさしているだけであって、あらかたの人は「唯一絶対の神」の存在を信じており、その考え方に支配されていると言える。
 一方、古代インド哲学は、唯一神という超越したものを否定し、「人も動物も植物も土も水も、全部、生き物である。」という上下や方向性のない思想に根付いているように小生には思われる。
 この違いからか、欧米的思考は全ての面で殺伐とした物の考え方となって現れてきているような気がする。特に、動物生態学においては顕著であり、同一現象の事実認識が日本人学者が捉えるのと正反対となることも往々にしてあり、議論もすれ違いやすい。
 そのどちらが正しいのか、それを断言することはできないし、どちらも正しいとも言えよう。人間中心主義で全ての物事を動かしていこうとすることに徹すれば、欧米の考え方で正しいのであり、人間は単に生き物の一種すぎないという平等主義に立てば、当然に違った考え方が出てくるのであって、三つ子の魂百までであるからして、小生には後者の考え方しか取り得ない。
 古代インドの哲学者は、宇宙の真理の探究を、自然界で変わりゆく万物の観察と断食による瞑想を通して行なっているのであるが、深き森の中でじっと瞑想していると、植物が呼吸していることまでが分かるという。これは少々眉唾ものに感じられはするが、少なくとも当時の人は現代人より感性が鋭敏であったことだけは間違いないであろうし、自然観察力は現代人より格段に高く、「生き物」の本質をかなり高レベルのところで把握していたに相違ない。
 文明が高度化すればするほどに自然や事象との直接的な接触の機会が減ってしまい、かような能力は鈍感になってしまう。現在の我々に至っては、全く素性の分らない権威ある御仁の発する情報に全てを頼り切らざるを得ない状況にまで達しており、「自らが知覚する」ことを完全に放棄してしまっているとすら言える。
 その結果、感性はますます鈍感になるばかりか、ホントがウソになり、ウソがホントと教え込まれ、残念ながら真理探求の道はもはやほとんど閉ざされてしまったと思えてならない。
 小生が紀元前のインド哲学者たちの真似をすることはとうてい不可能であり、真理は遥か彼方の遠い遠いところにあるのではあろうが、インド哲学をベースにして思索にふければ、当たらずとも遠からずの何か結論めいたものが出てくるのではないかと、暇に任せてキーボードを叩きはじめることとした次第である。
 予備知識として、栄養学・医学とは異なる分野である食生態学、文化人類学、動物学、環境考古学、地質学、宗教学など、わずか20数冊程度の書物ではあるが新たに買い求め、暇をみては紐解くことにした。
 そのなかで、興味ある、小生にとっての新発見にいくつも巡り合うことができた。もっとも、その多くは既知のことがほとんどで、小生の知識が足りなかっただけのことであり、本来は何千冊、何万冊もの書物や論文を読まないことには「ヒトの食に関する進化論」などと大上段に振りかざした論文など発表できるものではないが、そこは先にも述べたようなことでお許し願いたい。
 この論文をまとめるに当たっては、とりあえずは目を通した書物から感じ取ったままに整理し、足らず前はインターネットで論文を検索して理解の一助としながら、また新たに本を買い求めて知識を増やし、行きつ戻りつ原稿を打ち直し、不可解な部分や間違っていると思われる部分は自分勝手に独断と偏見と憶測でもって置き直し、当然にして未知の所が多々出てきたが、それは、小生の知識不足だけのこともあろうが、自分の想像力で埋めることとした。
 かなりの長文となってしまい、お読みいただくのに随分と時間を取らせることになりますが、どれだけかは真理に近づくことができたのではないかと自負している。
 本論では、人を「ヒト」とカタカナで使うことが多いが、生物学的に動物として見る必要があるので、そうさせてもらった。なお、ヒトが高度な文化を持つに至った後のその文化的な行動においては、「人」と漢字で表記することとした。「オス・メス」、「男・女」も同様である。

第9節 類人猿の食性の概略
 随分と本題から外れた話ばかりを長々と続けて申し訳ない。食性の話に戻すこととする。
 まず類人猿の食性の概略を見てみよう。類人猿は小型類人猿のテナガザルと大型類人猿の2つに大別されるが、本論では小型類人猿にまでは言及せず、大型類人猿に絞ってみていくこととする。よって、単に類人猿と表記したものは全て大型類人猿を指すと考えてほしい。
 類人猿はオランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボの4種からなり、ボノボは姿形がチンパンジーに似ていて以前ビグミーチンパンジーと呼ばれ、チンパンジーの亜種の扱いを受けていたが、別の種に分かれているようであり、また、ピグミーは差別用語であることからボノボと呼ばれるようになった。元々は同一種であったが、熱帯雨林を流れる大河ザイール川(旧名コンゴ川)で生息域が分断され、長く生活環境を異にしていたために個別に進化し、異なる種になったとされている。類人猿は皆、非常に近い種ではあるが、均等に近いわけでもない。なお、ヒト以外は、その祖先が誕生して以来ずっと熱帯雨林とその周辺に生息している。
 彼らの食性はほぼ完全な植食性であり、基本的には果物の果肉(果物と言っても原種であるがゆえ商品価値のあるものはほとんどなく、人間が口にできるものはごくわずかしかない)と木の柔らかな葉っぱを常食している。ほぼ地上生活者となったゴリラは、木の葉っぱよりも草の葉っぱ、茎や根が中心となっている。
 チンパンジーは果物の果肉を好み、そのほかにマメ科の植物の実も少し食べている。なお、熱帯雨林の消失で灌木地帯に取り残されたタンザニアなどのチンパンジーは、乾季にはマメ科の植物の実が主食になっており、彼らに欠かせない重要な食糧になっている。
 年中湿潤な熱帯雨林を生息域とするボノボはチンパンジーと類似した食性ではあるが、沼地に生える草の茎や葉っぱもよく食べ、また、マメ科の植物の実も好んで食べている。
 類人猿が必要とする栄養素はヒトと全く同じである。カロリー源の炭水化物は、果物に多く含まれる果糖、ショ糖のほかは、葉っぱに少しばかり含有している澱粉質から賄っており、豆からもかなり摂取できている。
 主食が果物や葉っぱであるがために、蛋白質や脂肪の摂取は少ないが、それで十分事足りている。
 なお、小量であっても豆を食べれば、蛋白質も脂肪もけっこうな量が摂取できるのであるが、この食性は後から加わったのであろう。豆を優先して食べるわけではないので、果物や葉っぱが欠乏したときの代替食糧として取り入れたと思われるからである。
 1千万年を超えて蛋白質の摂取を必要最小限にしてきたであろう類人猿は、他の霊長類の皆が持っている「尿酸酸化酵素」を失くしてしまった。尿酸は、蛋白質が分解される過程で産生され、弱いが毒性を有するから尿酸酸化酵素で無害なアラントインに変性させる必要があるのである。蛋白質の摂取が少なく、尿酸の産生がごくわずかなものであれば健康被害はなく、その酵素を作り出す機能を失うのも必然である。必要がない機能は退化するしかない。したがって、ヒトを含めて類人猿は尿酸を尿中へ排出している。
 次に、ビタミンやミネラルであるが、これらは果物、葉っぱ、豆からバランス良くたっぷり摂取できており、何ら問題がない。なお、ビタミンCは、多くの動物が体内で合成できるが、ニホンザルなどの真猿類と類人猿そしてヒトは、その合成酵素を失ってしまった。これは、植食性の食べ物を恒常的に摂ることにより、ビタミンCは十分に口から入るので、その酵素を必要としなくなってしまったのが原因している。
 6番目の栄養素として食物繊維が挙げられるが、これは果物や葉っぱから多量に摂取でき、直接的な栄養とはならないものの、腸内環境を良好に保ってくれている。食物繊維は腸内細菌の餌となり、その細菌が繁殖することにより、宿主にとって有用な酵素やビタミンを製造してくれたり、免疫力を向上させてくれるなど重要な働きを持っている。加えて、腸内細菌による食物繊維の発酵が進むと、各種有機酸が生成され、これがエネルギー源となり、類人猿は大なり小なりこれに依存しており、特にゴリラにおいて顕著である。これを後腸発酵といい、草食動物ではウマがそうである。なお、ウシなどの場合は前胃発酵(胃がいくつかに分かれ、その中で細菌発酵させ、各種有機酸を得る)と呼ばれ、この形でエネルギー源を得ている霊長類もいる。
 これら6大栄養素はヒトと全く同じであり、体内で全く同じ働きをする。栄養素の消化吸収と体内での代謝の仕組みは、百万年やそこらでは何ら変わるものではないことが知られている。基本的な仕組みは1千万年もの間、不変であるとも言われており、ヒトと類人猿の食性は本質的には同じと考えねばならないと言えよう。
 類人猿のこうした食性は、ヒトに対しても極めて体に優しいものであるようだ。現代医学では治療法がないと言われるような難病も、類人猿と似たような食事で完治させているお医者さんが何人もいらっしゃる。
 多量の葉野菜、根菜と少量の玄米を全て熱を加えず、生で食わせるというものである。果物の果肉に代えて玄米にするところが類人猿の食と異なる点である。
 [参照 断食療法50年で見えてきたもの 甲田光雄 春秋社]
 果物の果肉は、果糖、ショ糖主体の炭水化物が主成分であり、消化が不要でそのまま吸収できてしまう利点があるが、果物全般に、特に熱帯産のものは体を冷やしすぎ、低体温にしてしまうという欠点があって、温帯に住む我々日本人にはあまり適さない。
 玄米は、炭水化物である澱粉が多く、消化酵素を多量に必要とするが、ヒトは類人猿以上にその酵素を唾液と腸の消化液にたっぷり持ち合わせているので、生であっても小量であれば完全な消化吸収が可能であるかもしれないし、不可能であっても腸内細菌が発酵してくれる。また、玄米には蛋白質、脂肪、ミネラルがバランス良く、とても多く含まれていることから、治療食の一つとして組み入れられているのであろう。
 こうしたことから考えるに、ヒトの食性はかくあるべし、という結論がもう出てしまった感がする。
 これではあまりに素っ気ないし、面白くもない。これが本当なのか、なぜにヒトは澱粉消化酵素が多量に出せるようになったのか、ヒトはもっとほかの食べ物にも適応能力を付けているのではなかろうか。湿潤な熱帯雨林に比べ、熱帯の乾燥地帯や温帯さらには寒冷地では植物相がまるっきり違うし、そこにもヒトは長く住んでいるのだから、何かあってもいいはずである。様々な角度から、これを探っていきたいと思う。

 つづき → 第2章 類人猿の食性と食文化

 

(目次<再掲>)
永築當果の真理探訪 食の進化論 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
「食の進化論」のブログアップ・前書き
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき

コメント (2)

「食の進化論」のブログアップ・前書き

2020年09月13日 | 食の進化論

 2007年5月に「食の進化論」と題して、小生の処女論文を発表した。発表といっても、ワープロ打ちしてコピーした手作り出版物であり、知人友人100名ほどに配っただけのものであるが。
 それから13年も経ち、もうこれはお蔵入りにし、他の論文のようにブログアップするのはよそうと思っていた。その論文の一部は勉強不足で、通り一遍の中身のないものになっており、将来の食については断片的にしか取り上げていない。これが原因だ。
 ところが、新たな論文(テーマはまだ未定)を書くようにと、幾人かからケツを叩かれ、今、模索し始めた。処女論文とも関りがありそうな雰囲気もある。よって、その論文を一度精査し、改訂版としてブログアップしておいたほうがいい感じがしてきた。
 というようなわけで、初版物はワープロ打ちでフロッピーディスクに収められており、それもどこへやら行ってしまったので、1冊保存してある手作り出版物を眺めながらパソコンのキーボードをこつこつと叩き、改訂版を作り上げていこうと思い立ったところである。
 ブログを何本も立てている小生である。「食の進化論」をどのブログに載せようか迷ったが、このブログ「薬屋のおやじのボヤキ」は食学に重点を置いているので、ここが座りが良かろうと思い、カテゴリーを1本新設して掲載することとしました。
 読者の皆様に、どれだけお役に立てるかわかりませんが、興味ある方はお読みいただけると幸いです。
 なお、できるかぎり毎週日曜日に1章ずつブログアップしたいと思っています。

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 永築當果の真理探訪
     
 人類誕生以来ヒトは何を食べてきたか
 <2007年(平成19年)4月30日 第1刷発行>
 <2020年9月 一部改訂> 

目次
はじめに(このページに収録)
第1章 はじめに結論ありき
第2章 類人猿の食性と食文化
第3章 熱帯雨林から出たヒト
第4章 サバンナでの食生活
第5章 高分泌澱粉消化酵素の獲得
第6章 ついに火食が始まる
第7章 ついに動物食を始める
第8章 人口増加が始まった後期旧石器時代そして人口爆発させた古代文明
第9章 ヒトの代替食糧の功罪
第10章 美食文化の功罪
第11章 必ず来るであろう地球寒冷化による食糧危機に備えて
あとがき
雑記編1日本・中国・韓国の食文化の違い
雑記編2世界の食糧難を救った作物はなぜかアンデス生まれ、そしてこれからも
雑記編3「大陸=力と闘争の文明」VS「モンスーンアジア=美と慈悲の文明」の本質的な違いは食にあり
雑記編4 肉は薬であり、麻薬なのです。ヒト本来の食性から大きくかけ離れたもので、これを承知の上で食べましょう。
雑記編5 人はどれだけ食べれば生きていけるのか?毎日生野菜150g(60kcal)で十分!!

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(製本した論文の知人友人への送付書 2007年5月)
拝啓 野に山に新たないのちが芽吹いて人に生気を授けてくれる季節となりました。
貴方様におかれましても益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

小生は団塊の世代の生まれです。近年、我々の2、3年先輩たちが定年退職されるに当たり、人生の中間決算として自費出版で書物を世に出すのが一つの大きなブームとなっています。それら先輩と同様に、小生も57歳になって直ぐに、どういうわけか無性に本を書きたくなりました。そして、去年の3月に、40ページほどの詩の雰囲気を持たせた随筆「ヤーコンの詩」という小編ものを処女作として発刊しました。ヤーコンというアンデス原産の芋の栽培記録を元にしたものです。これを農業をこよなく愛する方などほんの一部の関係者にのみお送りしたのですが、思わぬ激励をたくさんいただいたものですから、がぜん自信が湧いてきて、本格的な物書きをやってみようという気にさせられてしまいました。

そこで、小生が13年間の薬屋稼業をするなかで最も関心を持ち続けている、人の「食」について、一般的に正しいと言われているもののなかに、あまりにも間違っていることが多すぎると感じられるものですから、そもそもヒトは何を食べてきたのか、そしてヒト本来の「食性」とは何かを深く切り込んで調べ、つまり、真理を探訪し、それを書物にまとめようという気になってしまいました。
早速に関連する本を買いあさって読みふけり、また、インターネットで調べたり、前から持っている本を読み返したりしながらワープロ打ちに入りました。
全体を打ち終えてからも、論理的飛躍があったり、根拠薄弱であったりする部分が多々あり、再びそれらに関することをインターネットで検索し、出てこなければ新たに本を取り寄せて補強作業を続けました。稼業の合間にこれを行ない、1年かけてやっと作り上げることができました。
こうして完成したものを読み返してみて、本筋では当初から自分で思っていたことが正しかったと確信した次第です。全くの独自の理論となってしまい、世の常識と外れるものではありますが、皆様に「食」というものを正しく再考していただく一助になれば幸いと考えております。

なお、「ヤーコンの詩」の第1刷に誤字が4つもありました。それをご指摘くださった同期のN君にこの場をお借りして感謝申し上げます。本書についても当然にあります。ページ数からすると誤字脱字が何十個と出てきそうです。加えて主語述語の関係がおかしかったり、修飾語の係りが不明であったりする文章もあったりして大変読みにくい所が多々あろうかと存じますが、国語能力に落ちる小生のこと、何とぞお許しいただきたくお願い申し上げ、処女論文送付のご挨拶とさせていただきます。            敬具

                                        永築當果こと三宅和豊
 2007年5月吉日

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食の進化論

はじめに

 肉は麻薬である。牛肉、豚肉、鶏肉そして魚の肉に至るまで、それは麻薬である。
 麻薬は人間を幸せな気分にしてくれる実に有り難いものです。
 ただし、はまると強い習慣性が生じて、心身ともに害するから恐ろしい。アヘン、コカイン、これらは今日では麻薬として世界中で禁止されています。でも、アヘンはアヘン戦争で有名ですが、当時の清王朝の貴族のたしなみとして愛用されていたもので、アヘン中毒に陥る者は少数であったそうです。
 コカインとてアメリカインディアンの儀式で飲まれていたものですが、それがコカ・コーラという清涼飲料水として米国で発売されました。当然にして常飲する者が現れ、中毒症状を呈して、コカインを入れてはだめとなりましたが、名前だけはそのまま使ってよいというから、米国文化は面白いです。コカインの害はたいしたことないとの背景があったのかもしれません。

 大麻から作られるマリファナという麻薬があります。日本では所持しているだけでも厳罰に処せられますが、大麻は習慣性が比較的少ないという屁理屈で、オランダなどでは容認されています。
 酒も麻薬です。イスラムの世界では絶対に飲んではならない麻薬です。かつて仏教においてもそうでした。また、タバコに含まれるニコチンも麻薬の一種で、習慣性がかなり強いものですが、どういうわけか程度の差こそあれ、喫煙は世界中で認められています。
 日本の法律で成人に認められている麻薬であるからといって、酒はやはり飲まないほうが健康的でしょうし、タバコを吸わないというのは絶対的な健康法でしょう。でも、この2つを小生から取り上げたら、ストレスが溜まりすぎて発狂すること間違いなしです。酒とタバコなしの生活をするくないなら死んだほうがましだなどと息巻いたり、屁理屈をこねたりして家族を黙らせています。酒に弱い小生ですから、たいして飲めるわけではないので、毎日たしなむ程度の晩酌は全く問題ないと考えていますが、タバコに関してはヘビースモーカーでもあり、自分でも何とかしなくてはと、ちと心配しています。
 でも、止めるのはとても無理です。この2つは明らかに麻薬です。正真正銘の麻薬であるアヘンと何ら変わりはありません。程度を超えて習慣化すると、必ず心身を壊すのが麻薬です。したがって、麻薬であろうが心身に良い物であろうが、法律でだめだからだめとか、国が推奨しているからもっと積極的に摂取しようとか、そうした観点から善し悪しを決めるのは的外れとなる危険があります。もっとも、覚醒剤を推奨するわけではありませんので誤解のなきよう。今日のストレス社会にあっては、一度はまったら止められなくなるのが覚醒剤の怖さであり、決してアヘンを時折吸っていた清の貴族のようにたしなみでは済まなくなりますから。

 もう一度言いますが、人間にとって肉は麻薬である。
 たまに食うと体は温まり、気力が湧いてきて滋養強壮薬として最高のものです。必須アミノ酸がバランス良く摂取できるからです。ヒトの体は蛋白質でできており、蛋白質を分解したものがアミノ酸です。ヒトの体を構成する蛋白質と極めて類似しているのが肉であり、これを食べれば、それが消化されてアミノ酸になり、ヒトの体にとって不可欠の蛋白質をいとも簡単に体内で再合成できるからです。
 江戸時代には生類憐みの令があって犬の肉を食べることはご法度でしたが、薬と偽って食べていたという記録があります。四足動物の肉をまず食べたことがない江戸時代にあって、病人にとって漢方で肝臓の滋養強壮になるとされている犬の肉は、朝鮮人参に勝る薬であったことでしょう。
(ブログ版追記 まれにしか獣肉を食べなかった江戸時代、俳人小林一茶がこれを「薬食い」として俳句を詠んでいます。→ “行く人を 皿でまねくや 薬食い”(小林一茶)の“薬”とは? 何と“肉”なのです!
 植物性の蛋白質からでは何種類もの食品をバランスよく摂取しないことには、必須アミノ酸を十分に摂取することは容易ではありません。随分と多くの量の植物を摂らないことには追い付かな
いからです。そんなことは病人にはとても無理です。ここに肉の有り難さがあります。
 ただし、はまると強い習慣性があり、心身ともに健康を害するようになります。我々はこれに気づかない。皆がはまっているから、これで正常だ、健康だ、と思い込んでいるだけです。加えて、動物性蛋白質は体に良いと教え込まれていますから、体調を崩しても原因は別のところにあると考えてしまう。

 紀元前の大昔に、既に肉は麻薬であることを知っていた節があります。
 それは、一部の原始宗教のなかから推察されます。彼らは肉は麻薬であるとは言っていませんが、決して常食することなく、儀式に伴って食べるだけという文化を持っているからです。
 日本人の食文化は、今や肉を常食するようになってしまいました。おいしいものがいつでもどこでもたらくふ食べられる飽食の時代を満喫しています。豊かで平和な時代が続いています。輪をかけるように農林水産省は、畜産振興がためにやれ肉を食え、牛乳を飲め、卵を食えと大号令をかけ、水産振興がために肉より魚が良いから魚をもっと食えと言い、農業振興がために米をもっと食え、野菜は倍食べろとくる。加えて、厚生労働省や文部科学省は、朝昼晩1日3食きちんと食べないと体に悪いと、子どもから大人までしっかり教育する。
 そんなに食ったら体がどうなるか。健康を害するに決まっています。
 ついに、厚生労働省は、昨年(2006年)「メタボリックシンドローム」なる、舌を噛みそうな言葉を登場させました。メタボリックとは代謝のことですが、分かりやすいように「内臓脂肪症候群」と訳されています。もっともこれは、もう20年前に「死の四重奏」として、肥満、高血糖、高脂血症、高血圧が重なると命が危ないと警鐘が鳴らされたことと同じ内容で、何も目新しいことではないのですが。
 何にしても食べ過ぎであることは間違いありません。それも、おかしな食べ方をしているから、そうした危険が出てくるのです。

 原因の一つとして、食欲煩悩というものは自己努力だけでは容易には抑えられない、ということがあります。人間は、新たな食の誘惑には滅法弱いものです。
 その最たるものが、朝食をとるという習慣の定着です。
 歴史時代を通して、ほとんど世界中が朝食をとらず1日2食でした。西欧社会においては、古代から平和が長く続くときには富裕層が朝食をとり、ひどい生活習慣病を患うという繰り返しが起こり、朝食は体に悪いという考え方が定着し、今日の西欧では朝食は口寂しさを紛らす程度に消化のいいものをほんの軽く食べるだけにしています。
 それが日本ではどうでしょうか。
 徳川家康の時代までは、一部例外があるも総じて上から下まで1日2食でした。徳川政権が安定して平和が続き、まず武家が朝食をとるようになり、これが江戸町人にも普及しました。相前後して、米を精米し白米を多食するようになって、江戸患いという脚気に悩まされることになったのですが、農民や地方の商人はずっと1日2食で通し、雑穀米を食べていました。
 そして、明治維新を迎えました。明治新政府が富国強兵のため兵隊募集のキャッチフレーズに使ったのが「1日3度、白い飯が食える」でした。訓練中の兵隊が次々と脚気にかかることから、原因は白米にあると気づき、早々に麦飯に切り替えたので脚気を防ぐことができましたが、その後「募集要項」を復活させた陸軍は、日清・日露戦争で、戦死者の何倍もの脚気による病死者を出すという悲劇を生んでしまいました。ちょっとした食の誤りが大変な健康被害をもたらした一例です。
 兵隊に始まった庶民の1日3食は、あっという間に全国民に広がったようです。兵隊が郷里に帰って、1日2食では口が寂しいからと1日3食にするのは食欲煩悩からして自然の流れです。そうして全国民に1日3食があっという間に定着してしまいました。
 でも、たいていは麦飯に味噌汁と漬物という粗末な朝食でしたから、西欧のようには明確な生活習慣病は発生しませんでした。しかし、たっぷりと朝食をとった後に、すぐに体を動かすわけですから、胃での消化と筋肉運動を同時に行うことにより、胃に十分な血液が回らず、胃は酷使され続けます。
 以来、日本人は「胃弱の民族」になってしまいました。
 典型的な例が、東南アジアでのコレラの発生時に見られます。旅行者のうち西欧人は滅多にコレラに感染しないのに、日本人は多くが感染します。コレラ菌は酸に弱いですから、胃が丈夫であれば胃酸で死んでしまい発病しないのです。世界一朝食をたくさん食べる民族、日本人の弱さがここに顕著に現れています。朝食は、胃弱と食べ過ぎを招くだけで、健康上何の御利益もないないことを知るべきです。
 小生の健康法で大きな成果を上げているのが朝食抜きです。さらに一歩進めて昼食も抜いています。もう一段上が断食です。「ときどき1日断食」に取り組んでいますが、これは慣れてもけっこうきついです。毎日の食事に気を付ければいいんだから、そこまではせんでおこうと妥協している今日この頃です。
 朝食を抜くとは何と不健康な。昼食まで抜くとはあきれて物も言えん。あんたは痩せすぎで、あと5キロは太らなあかん。その体で断食するとは何事ぞ。
 多くの方々から、そのようにご心配いただいておりますが、様々な健康法を勉強し、試したりするなかから、これがきっと健康にいい方法だという結論に至り、女房ともども体験した結果、やはりよかったと実感できましたので、ここに紹介した次第です。すでに3年にわたりこれを続けており、お陰で心身ともに快適な生活を送らせていただいております。
(ブログ版追記 その後10年間、夕食だけの1日1食を続けましたが、女房も高齢となり、昼食に何か軽く口にしたいと言いだし、小生の体重増加希望もあって、昼食におにぎり1個食べるようになり、3年経ちます。でも、昼食のおにぎりは義務的に食べているだけで体重減少も防ぎ得ないです。なお、3日断食にも何度か取り組みましたが、空腹感も生ぜず、その間に農作業もしましたが、ほとんど平気であったものの体重減少が大きすぎて、数年前から1日断食さえやっていません。)
 これ(朝食抜きのミニ断食)は万人向けの健康法ですが、素人考えで取り組むと逆に健康を害することがあり、朝食抜きはやはり体に悪いということになってしまいます。それみたことかと朝食支持派に大々的に発表されたりして、朝食抜き健康法は劣勢にあり、どれだけも広がりをみていません。誠に残念なことです。
 腹も空いていないのに朝食を食べないかんという観念から無理に食べておられる方は、一度お試しになってください。早い方で2週間、遅くても2、3か月で習慣づけされ、体調が良好になったことを自覚できます。体重が少なくとも2キロ減ることでしょうし、確実に体脂肪が落ちます。
(参照 朝食抜き、1日2食で健康!昔は皆がこれで驚くほど元気だったんですがねえ…

 もう一つの日本人の胃弱の原因が、時代の移り変わりとともに食習慣がヒト本来の食性から段階的にどんどん離れていき、それが民族により大きな差が生じてしまって、健康で生きていける食の許容範囲に明らかな違いが付いてしまったことに起因しています。
 日本人が西欧人の食をそのまま取り入れると健康を害するまでに、生物としてのヒトの食性が異なってきています。胃袋の厚みや腸の長さが違い、消化酵素の出の良さ悪さに差があり、これはそれぞれの民族に生まれつきのものです。数千年から数万年の経過でそうなったと思われます。
 蛋白質は胃で半分消化されます。肉を食べると胃は重労働をしなければなりません。胃袋を長時間動かし続け、消化酵素をたっぷり出さねばなりません。これを何万年も繰り返していれば、胃は丈夫になります。日本人に比べドイツ人の胃袋の厚みは3倍あるという研究結果も出ています。
 半面、日本人は西欧人に比べ、腸の長さは5割も長いと言われます。これは、玄米、雑穀や芋の多食を繰り返してきた結果です。これらの主成分は炭水化物・食物繊維であり、胃はふやかすだけが仕事で、消化は主に腸が受け持っているからです。
 これ以外にも民族による違いがあります。脂肪の消化酵素がよく出るかどうか、牛乳に多量に含まれる乳糖を分解する消化酵素を持っているか否かということが日本人には大きな問題になります。
 加えて、日本人が好んでよく食べる魚は蛋白質と脂肪が主成分ですが、これを多食するようになったのも最近のことです。はたして、これに対応できる胃袋を持っているのか、体内に吸収された後に代謝されときに何ら問題はないのかも疑問です。肉に代えて魚なら良いとは安易には言えないのです。
 ここは、原点に立ち返って、抜本的に検討し直さねばなりません。
 室町時代に西欧から日本に布教に訪れたキリスト教宣教師が異口同音に日本人の類いまれなる体の丈夫さと頭の賢さに驚きの声を上げています。これは、食によるところが大変大きいのです。
 日本は世界でもまれにみる豊かな自然環境の生態系に恵まれています。
 ヒトが誕生して以来、探し求めてきたあらゆる動植物が野にも山にも湖沼にも海にも豊富に自生しています。そして、それらを大切にし、神として敬い、四季折々にその恵みを神様から少しずつ頂戴して、自分たちが住んでいる自然と共存を図ってきたからに他なりません。
 木を切った後に植林するという文化はずっと昔から日本にはありましたが、明治初期にこれを知った欧米人は、なぜにそのようなことをするのか、全く理解し得なかったというから驚きです。
 これは、日本人が自然を「恵み」と考える文化を持っているのに対し、西欧人は自然からは「収奪」すればよいとしか考えない文化を持っていることによる差です。
 加えて、日本人は食事時に「いただきます」「ごちそうさまでした」という、世界に誇れる生き物を敬う挨拶文化を持っています。「もったいない」の語源も同様でしょう。
 飽食時代の今日にあっては、我々はこうした食の有り難さをつい忘れがちになってしまっています。歴史上、戦後の混乱期まではそのようなことはなく、おまんまが食えることに深く感謝していました。
 我々日本人は、少なくとも戦後の混乱期以前、できれば徳川家康の時代まで立ち返って、「食」を真摯に受け止めねばならないでしょう。

 拙論は、歴史を大きくさかのぼり、人類誕生時からの「食」がどのようなものであったかを探訪しようとするもので、「ヒトの食性」を明らかにしようと試みたものです。
 そうしたことから、その大半は数百万年前の猿人や原人の食性に始まり、古代文明前の食性に多くを費やさざるを得なくなりましたが、ヒトの消化器官の形態や機能、そして代謝機構というものは、千年やそこらでは容易に変わり得るものではなく、基本的には百万年単位の時間を必要とするからです。
 したがって、随分と基本的な内容ばかりを追い求めることになってしまい、今日、即応用できるような食については触れておりません。その点ご容赦くださるようお願いします。
 「食」は健康の源です。「食、正しければ病なし」です。自然の生態系のなかで暮らして
いる野生動物は病気しないと言います。人間もそうありたいものです。
 小生の力不足で、本論はその一部しか明らかにできていませんが、「食」の基本にはどれだけか迫ることができたと思っています。
 皆様方に、正しい「食」とはどういうものかについて、今一度じっくりお考えいただき、明日からの食生活改善の参考にしていただければ幸いです。

   2007年4月
  (2020年9月 一部追記)

つづき → 第1章 はじめに結論ありき

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