薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

ドンマイ、ドンマイ&ノープロブレム“腹立ち、怒り”の感情から逃れ、“嫌な、暗い”気分を捨て去る方法。

2013年12月31日 | 心に安らぎを

ドンマイ、ドンマイ&ノープロブレム“腹立ち、怒り”の感情から逃れ、“嫌な、暗い”気分を捨て去る方法。

 ストレス社会がために“腹立ち、怒り、敵意、憎しみ”といった感情が、次から次へと心に湧いてきますし、昨今の不景気と来る増税がために“嫌な、暗い、落ち込み”気分にどんどん取り付かれてしまいます。誰しも大なり小なりそうした心境に陥りやすいことでしょう。
 特に真面目な人にその傾向が強いですから理不尽なものです。不真面目で横着な人は、そうしたことに鈍感で、ストレスも抱えませんし、鬱(うつ)にもなりません。
 だったら、真面目な人は生き方を変えて、不真面目で横着な人に変身すればいいのですが、真面目な人は真面目さがゆえにそれもできません。

 どうしたらいいでしょうか。解決方法はちゃんとありますから、ご安心ください。
 その一方法として、“腹立ち”などは、過去記事で書いた次のものです。
   2013.10.02 怒りは「紙に書いて」しっかり解消しよう
 小生もブログを別立で起こし、何かあれば書きなぐっています。次のブログです。
   薬屋のおやじの“腹立ち日記”
   https://haratachi.blog.so-net.ne.jp/
 そして“落ち込み”などの対処法は、過去記事で書いた次のものです。
   2012.09.02 “一日一楽”日記の書き始め
 これもブログを別立で起こし、ほぼ毎日書きつづっています。次のブログです。
   https://miyake-2.blog.so-net.ne.jp

 毎日、何か楽しいことを探し出し、それを紙に書きつづれば楽しさがグーンと増幅されて、嫌なことなどを忘れ去り、落ち込みから抜け出せるというものです。

 これらは単なる対処法でして、それなりに効果があることを実感していますが、本質的な解決法は、やはり「こころの持ち方を変える」ということになります。
 このブログで何度か引用しています「小林正観著:ただしい人からたのし人へ」(弘園社)に、それが書かれていますから、引用・要約して紹介しましょう。

(少々長くなりますが、これより引用・要約開始)
 まず、「敵意、憎しみから腹が立ち、怒りたくなる」というのは、その根源に、実は「正義感」や「使命感」というものが大きく関わっていると思われます。

 ある方がこうおっしゃいました。
 「戦争を起こす人だけはどうしても許せません。戦争を起こす人を嫌い、憎しみ、その人に対して怒りを持つのは私は正当だと思います。」
(これに答えて小林正観さんはこう言います。)
 「その戦争を起こす人への『憎しみ』こそが戦争を起こすのではありませんか。戦争を起こしている人は、自分たちの正義を貫くために戦争というものを起こしているのではないでしょうか。戦争を起こす人は全て自分が正しいと思って起こしているのだと思います。もし、あなたが総理大臣や大統領であって、軍を動かす力を持っていたとしたら、その怒りと憎しみでもって、あなたはきっと軍に出動を命じてしまうでしょう。」
 ですから、どんなことがあっても、腹を立てないほうがいい、怒らないほうがいい、イライラせず、声を荒げないほうがいい、ということになります。腹を立てるのは損、怒るのは損、イライラするのは損、声を荒げるのは損、どれも得になるものはないのです。

 「私はこうでなければならない。家族もこうでなければならない。社会もこうでなければならない。」という「ねばならない」をたくさん持っている人は、「ねばねばした人」=「粘着力の強い、執着の人」ということにほかなりません。
 「こうしよう、こうしたい」との思いが強いとき、そうならない状態が長く続くと、人はストレスを感じるようになります。
 ストレスの源は、「これを実現したい、こうでなければならない」という「思い、こだわり、そして執着」です。

 目の前に乗り越えるべき現象がやって来たときに、三次元的に採り得る方法として、以下の3つの解決法があります。
  ①相手を説得し、屈服させる ②その現象から逃避する ③我慢し、忍耐し続ける
 実際には、おそらく3番目の方法を採る人が多いことでしょう。
 ところが、実は4つ目の解決法があります。
 その方法は「気にしない」ということです。
 これを英語で言うと、 I don't mind. 「ドンマイ、ドンマイ」というものです。

 そして、5つ目の解決策があります。
 それは、4つ目の「気にしない」に対して「気にならない」という解決方法です。
 これを英語に直すと、 There is no problem.
 「ノープロブレム! で、何が問題ですか?」ということになります。

 つまり、問題認識しない、ということです。
 問題を問題として認識していると、三次元的に3つの選択肢から選ばざるを得ません。そうしたなかで、「認識」しているから四次元的な4つ目の「心穏やかな解決方法」を模索するわけです。
 ところが、五次元的に存在する5つ目の解決方法は「問題を問題として認識しない」。

 例えば、「なんてお前はバカなんだ。」と言われたとき、「そうなんです。私は本当にバカなんです。随分と長いこと隠していたんですけど、遂に分かってしまいましたか。」と言ってニッコリ笑えることが、五次元的な解決方法です。こうすると、相手方は肩透かしを食わせられてしまって、提起された問題がどこかへすっ飛んでしまうのです。
 関連記事:2012.1.5 「 目標を捨てるとどうなる?知らぬ間に目標を超えてしまうのです
<小生の感想:「ドンマイ、ドンマイ」・「ノープロブレム」は米国人が良く使うフレーズです。してみると、米国人があれだけ明るく立ち振る舞っていけるのは、四次元的、五次元的解決法に優れているから、ということになりましょうか。そして、ラテン人ともなると、何もかも五次元的に解決してしまう。それに対して、日本人はいつまでも三次元の世界に踏み止まっている“くそ真面目”な世界的にも珍しい民族ということになりましょうか。>

 私たちは、よく「光りと闇」という言葉を使います。今日情勢は、閉塞感が漂い、悲惨な出来事ばかりで、「暗い」世の中だ、といった言葉が会話の中でもよく出てきます。
 そういう「暗い」時代認識をしている人同士ばかりが集まってくると「そうだ、そうだ」という話になり、「この世はまさに闇」となってしまいます。

 しかし、よくよく考えてみると、「光り」と「闇」とが50対50の力を持っているのではないことに気付きます。「光り」と「闇」は等分に力を持って闘っているわけではなく、力で言うと100対ゼロなのです。「光り」が100で「闇」の力はゼロ。
 「闇」は「光り」に対抗する力を全く持っていません。「光り」の方に100%の支配力があって、「光り」があるときは「闇」はゼロ。「光り」がいなくなったときだけ「闇」は存在できるのです。「闇」に独立した力があるわけではないということを、ぜひ知ってほしいと思います。
 で、歩いていく先(世間とか世の中とか)が「闇」であるとしましょう。その「闇」に向かって歩いていく「私」が「光り」であれば、そこは「光る」のです。「闇」が闇のまま存在することはできませんからね。
 例えば、私の口からは、いつも「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「愛してる」「大好き」「有り難う」が発せられ、笑顔と優しさにあふれているとしましょう。その「明るい人」(=「光り」)は、世間が「闇」であったかどうかとは全く関係ありません。私が歩み入って行く所は、全て「光り」に満ち、「明るい」所になってしまうのです。
  世の中を 暗いくらいと 嘆くより 自ら光って 世の中照らそう
 私は、いつもそう心がけて毎日を暮らしています。そして、それを実践しています。
(引用・要約はここまで)
 

 いかがでしょうか。小生思うに、真面目な方は決して不真面目で横着な人に変身することはできませんが、まずは「ドンマイ、ドンマイ」の生き方を順次身に付け、次に「ノープロブレム! で、何が問題ですか?」に挑戦なさってはどうでしょうか。
 そして、毎日毎日絶えず「嬉しい」「有り難う」を連発し続け、もって「楽しい」「幸せ」な人生を送っていきませんか。小生は、今その途上(入り口)にあります。まだまだそうした言葉を連発できませんし、「愛してる」「大好き」なんて恥ずかしくてとても口から出ませんゆえ。

 今までに何度も読んだ「小林正観著:ただしい人からたのし人へ(弘園社)」ですが、今回、蛍光ペンを塗った所(そこら中に随分と塗られていますが)をざっと目を通し、表題に関する部分を紹介させていただきました。
 毎回毎回読むたびに肩の力が抜け、ほっとした気分にさせてもらえます。
 皆さんも何か1冊「こころのよりどころ」になる本をお持ちになり、それを時々眺められるといいですよ。落ち込んだときや、ストレスが溜まったときに。
 なお、今回、本書に目を通した切っ掛けは、他人事ではありますが、あまりにも腹が立つ事件が連続して起こり、「どんなことがあっても、腹を立てないほうがいい、怒らないほうがいい…。腹を立てるのは損、怒るのは損…、どれも得になるものはないのです。」ということが分かっていても、なかなか腹の虫が納まらなかったものですから、自分の気持ちを落ち着かせるために記事にしたところです。これで、どれだけかは落ち着きましたが、まだ怒りが残っています。聖人君子にはなれない小生。心の修行が足りませんなあ…。

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今月の笑い話ベスト5<チャイナ版>(12月)

2013年12月28日 | 笑い話&回文物語

<笑話:304>婚約指輪

ある男性が一人の娘を好きになりました。ある日、彼は小箱を彼女にプレゼントしました。中には婚約指輪が入っていました。

それは彼女の名前が掘り込んでありました。「私の妻になって欲しいんだ」と彼は求婚しました。

ところが彼女は答えました:「何て言ったらいいか分からないわ。私には他に好きな人がいるの」

「じゃ、その人の名前を教えてよ?」男性は切羽詰って聞き返しました。

「そんなことできないわ。彼を危ない目に遭わせるでしょう」、彼女は叫びました。

「違うよ、この婚約指輪を彼に売りたいだけだよ」

 

<笑話:378>ゴミ出し

ある男が夫の不在に乗じてその女性の家に行き、ふしだらなことをしていました。図らずも予定より早く夫が帰ってきました。門の呼び鈴が押されたとき、男は慌てふためきましたが女性は沈着冷静に次のように言いました:「慌てる必要はないわ。早く着物を着て!」

そして、彼女は台所に行きゴミの入った袋を持って門に行き、門を開いて言いました:「ねえあなた、家に入る前にこのゴミ袋を捨ててきてよ」

彼女の夫がゴミを捨てて帰ってくる間に、くだんの男は着物を着て、なんなく家の外に出られました。

この男は家に帰る道々、彼女はなんて聡明なんだろうと感心するばかりでありました。

家に帰り着いて男が門の呼び鈴を押すと、男の妻がゴミ袋を手に提げて門を開けて言いました:「ねえあなた、家に入る前にこのゴミ袋を捨ててきてくださらない?」

 

<笑話:310>西北ラーメン

ある会社員が昇進して主管になりました。すると彼はすぐ、同僚の女性を妊娠させてしまいました。主管は結婚していたので妻に知られるのを恐れ、その女性に子供を堕ろすよう言いましたが、女性はどうしても子供を産むと言って譲りません。そこで主管は仕方なしに彼女を西北の生家に帰し、産ませることにしました。

女性は子供が生まれたとき、どうやって知らせればいい?と尋ねました。すると主管は、そんなことやすいこと、子供が生まれたらハガキを寄こしなさい。そこに西北ラーメンとだけ書けばよい。そうしたら、その後定期的に君たちの生活費を送るから、と言いました。

10か月が満ちたある日、主管が家に帰ると、妻が、西北からよ、と言って1通のハガキを受け取りました。しかし、その文面に目を通すやいなや口から白い泡を吹き出して気絶してしまいました。(中略)そこには次のように書いてありました。

西北ラーメン4杯。2杯はソーセージ付き! 2杯は無し!

 

<笑話:313>ロマンチックな要求

あるホテルでチェックインをしているときのことです。ダブルベッドの部屋を要求しているある夫婦と出会いました。

従業員は恐縮して、空いているのはシングルベッドを2つ入れたツインルームだけだと答えていました。

失望したのか、男性はぶつぶつとつぶやきました:「これはどうしたものか、44年来私たちは何時も同じベッドで寝てきたんだ」

このとき、夫人が従業員に向かって要望しました:「2つのベッドをつなげてくださらない?」

周囲の人は皆笑いました。ある人は賛嘆して言いました:「なんてロマンチックなこと!」

先ほどの夫人は話を続けて言いました:「あの人がイビキをかいたら、引っぱたかなきゃならないのよ」

 

<笑話:377>ブタの笑い話

ある男がブタを飼っていました。でも飼うのが煩わしくなり何処かへ捨てたいと思いました。

しかしこのブタは家に帰る道が分かるらしく、捨てる度にいつも帰ってきてしまいます。

ある日、この人は車でブタを捨てに行きました。その夜、妻に電話で聞いてきました:「ブタは帰って来てないか?」

妻は答えます:「帰って来てるわよ」

男は非常に怒って大声で言いました:「早くそいつを電話に出せ、俺は道に迷ったんだ」

 

 今回も、「一日一笑:おもしろ情報館」(左サイドバーのブックマークに載せてある友人のブログ)のバックナンバーから5点を選んで紹介しました。
 なお、これでもってバックナンバーも底をつきましたので、これにて「今月の笑い話ベスト5<チャイナ版>」を終わらせていただきます。
 読者の皆様方のこれまでのご愛読に感謝申し上げます。

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“行く人を 皿でまねくや 薬食い”(小林一茶)の“薬”とは? 何と“肉”なのです!

2013年12月25日 | よもやま話

“行く人を 皿でまねくや 薬食い”(小林一茶)の“薬”とは? 何と“肉”なのです!
(最新更新 2016.8.25)

 俳句には季語があり、「薬食い」は冬の季に入るそうです。冬に薬を食う?とはどういうことだ、となってしまいますが、一茶の時代にあっては獣肉(含む鶏肉)もちゃんとした薬でした。ですから、「薬食い」とは「獣肉を食う」という意味になります。
 漢方では何でも薬になってしまいます。例えば、肝臓には犬肉がよい、心臓には羊肉、脾(膵臓など)には牛肉、肺には鶏肉、腎臓には猪・豚肉がよいとされています。また、日本では、鹿肉は体の邪気を払うと言
います。
 これは、「 薬食同源 」=「命は食にあり、食誤れば病いたり、食正しければ病自ずと癒える」という考え方に基づくものですが、それぞれの獣肉に、それぞれこうした薬効があるのかとなると、小生は少々疑問に感じています。これはこじつけではないかと。

 ところで、漢方が生まれた中国では、古来より畜産が行われていて、年中けっこう獣肉を食べていたと思われるのですが、日本では畜産はなされず、野生動物をたまに狩猟するだけでしたから、獣肉は滅多に口にしなかったと思われます。
 この食習慣は、日本で育った仏教が「殺生してはいけない」と説いたことも原因していましょう。よって、日本では、「獣肉を食う」というのを「薬を食う」ということでもって、「殺生していない」という方便にしていたことでしょう。これは、徳川五代将軍が発布した生類憐みの令の下でも犬肉を薬と偽ってこっそり食べていたといいますから、それから約100年経った一茶の時代には「薬を食う」は「獣肉を食う」ことの意味として定着していたことでしょうね。
 その時代に
獣肉を食べるとすれば、暇のある農閑期に狩猟に出かけたことでしょう。冬の猪狩り。これは今でも冬の風物詩になっています。あるいは、鹿狩りかもしれません。
 いずれにしても、獣肉を食べるのは通常は冬であったから、「薬食い」は冬の季にされたのでしょう。
 さて、猪なり鹿なりを捕ってきたとなると、珍味であるうえに、肉やモツはたんまりありますから、大勢が集まって食べることになります。たまたま通りかかった人にも、「おい、お前もちょっと来いや。薬食ってけ。」と、皿を見せて招き入れる。
 こういう情景を描写したのが、表題の一茶の句なのです。この句が作られた頃の時代背景を頭において、もう一度この句をお読みになってみてください。

 行く人を 皿でまねくや 薬食い

 なかなかいい句ですよね。
 これより、薬屋のおやじ(獣肉屋ではなく、正真正銘の薬屋)から少々解説。
 まれにしか獣肉を食べなかった江戸時代、やはり「薬食い」には薬効がありました。
 ちゃんと「薬食同源」の働きがあったのです。「食正しければ病自ずと癒える」のです。
 といいますのは、獣肉は滋養強壮の特効薬であり、今風に言えばアミノ酸製剤です。虚弱体質に優れた効果があり、胃弱で肉が食べられない人には劇的に効きます。
 また、健常な人にあっても「薬食い」すれば体がグーンと温まりますから、冬には体が求めることでしょう。これは、たいていの肉が漢方の温冷食品表で温のトップランクに掲げられていることから明らかなことです。
 しかし、いくら体にいい、体が求めると言っても、医薬品のアミノ酸製剤をがぶがぶ飲む人はいません。用法用量に従ってお飲みになります。獣肉もそれと一緒で薬なのですから、2口3口程度に少量いただくと大きな効果が期待できるのです。
 しかし、今の食生活で獣肉が2口3口程度の少量に止まることはまれで、たいていは毎日が用法用量を無視したドカ食いになってしまっています。
 薬は用法用量を守ってはじめて効くのですから、何倍量どころか1桁上もの「薬
食い」をすれば、それは「毒を食らう」ことであり、「食誤れば病いたり」となってしまいます。

 焼肉屋 お前も来いや 毒食らう

 一茶が今の世に生きていたら、こう詠んだかもしれませんね。お粗末。

(関連記事)
2015.01.01 歳を食うと肉食になる?96歳のおふくろはそうだが…
2016.08.25 敬老の日にあたって 肉食って健康長寿(三宅薬品・生涯現役新聞N0.259)

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酵素は誇大広告、でも発酵生成物は体にいい。人に一番やさしい栄養です。

2013年12月15日 | 正しい栄養学

酵素は誇大広告、でも発酵生成物は体にいい。人に一番やさしい栄養です。

”酵素は体にいい”との広告をよく目にします。して、その理由はとなると、たいていは、次のものが声高に叫ばれていますが、これは大きな間違いです。
 [理由] 食物酵素が多い食品を摂ると、それが食品の消化を助け、人の消化器官で生産する酵素の分泌が少なくて済み、もって、人の体内で生産される様々な酵素の消費を抑えることができる。人の酵素は、一生で使われる量に上限があり、これが消耗されすぎると病気の原因になり、寿命が縮む。加えて、酵素には生命エネルギーが含まれており、酵素が多く含まれる食品を摂ると病気の予防になる。
 [出どころ] 米国の医学者エドワード・ハウエルが1946年に主張したもので、1980年、1985年に一般向け著書を出し、よく知られるようになった“酵素栄養学”。
 なお、彼は、酵素は加熱で効果を失うので、ローフード(食品の生食)が望ましいとし、また、酵素を多く含んでいる発酵食品を積極的に摂取すべきであるとした。
(※ 類似した主張を本稿の末尾に掲載)

 まず、“食物酵素が多い食品を摂ると、それが食品の消化を助ける”とありますが、たしかにアミラーゼ(でんぷん消化酵素)とリパーゼ(脂肪消化酵素)は消化薬として配合されることがありますが、その効果は限定的で、消化薬に補助的に配合されるだけです。
 また、餅と一緒に大根おろしを摂ると胃もたれしないことが知られており、これは大根に含まれるアミラーゼの効果と言われますが、アミラーゼ単独の効果かどうか疑問で、食物繊維などが関与している可能性が大です。
 加えて、摂取した酵素の全てが効果的に作用するかとなると、これについては甚だ疑問です。と言いますのは、酵素
は複雑な立体構造を持つたんぱく質であり、たんぱく質を加熱すると肉の色が変わり硬くなることからも推し量られるように、酵素の立体構造が変化し、つまり変性し、ほとんどの酵素はその働きを完全に失うのですが、たんぱく質を変性させるのは、熱以外にもいろいろあります。その一つが強酸です。
 口に入ったたんぱく質がどうなるかと言うと、胃に入れば胃酸によってやがて強酸性環境に曝されますから、たんぱく質は立体構造が
変わり、これで変性してしまいます。こうして、アミラーゼがそうですが、酵素の多くがその働きを失うのではないかと思われます。
 こうしたことについての実証研究、つまり、食品中の酵素が胃を通過して小腸に入ってどれほどの酵素活性を維持し、どの程度消化の助けになり、人の消化酵素の分泌がどう減るのか、という研究
はほとんど行われておらず、疑問視せざるを得ません。
 次に、“人の消化器官で生産する酵素の分泌が少なくて済めば、人の体内で生産される様々な酵素の消費を抑えることができる”については、論
理的飛躍がすぎます。
 
「酵素とは何ぞや」と言うと、「それは触媒である」と言えます。ただし、無機触媒と違って、少しずつ消耗しますから、絶えず生産し続けねばなりません。
 消化酵素は、触媒の働きでもって、大きな化合物を粉々に切断して小さな化合物にします。また、消化酵素とは異なった構造を持ち役割も異なる体内酵素も、同様に触媒の働きでもって、吸収したものを体に必要な化合物に合成・分解したり、エネルギーを作り出したり、あるいは老廃物を分解・合成するのです。これを「代謝」と呼びます。
 動いて、考えて、といったことも含めて、生命活動の全てが酵素が持つ触媒の働きで行われていると言って過言ではありません。
 各種酵素は、体中の全細胞にその生産機能があり、それぞれの組織、細胞によって分泌される酵素の種類そして量が異なります。
 こうしたことから、“消化酵素が節約されれば体内酵素の消費が抑えられる”とは、とても言えたものではないです。体を動かせばそれに必要な筋肉内の特定の酵素が必要量分泌されて働き、重労働の毎日であれば、その酵素が突出して生産され消耗が激しいだけのことです。
 3つ目に、“体内の酵素は一生で使われる量に上限があり、これが消耗されすぎると病気の原因になり、寿命が縮む”ということについては、何ら実証研究がありません。
 飽食を続ければ消化酵素の消耗が激しく、重労働の毎日であれば筋肉内の特定の酵素の消耗が激しく、そうした生活でない人に比べてどれだけか寿命が縮む恐れもありましょうが、その寿命が酵素の分泌と、どういう因果関係にあるのでしょうか。
 4つ目に、“酵素には生命エネルギーが含まれている”については、非科学的論述ですから、論評しないことにします。
 5つ目に、“酵素が多く含まれる食品を摂ると病気の予防になる”については、酵素そのものに免疫力を高める機能はないですから、見当違いになりますが、往々にして酵素による発酵生成物を含めて酵素という場合がありますので、それを踏まえれば、経験的にではありますが、正しいと言えましょう。

 ここからは、酵素による発酵生成物について考えていくことにします。
 まず最初に
、生化学的に「発酵」とは何かというと、生物が生きていくためのエネルギーを得る代謝の一方法(他に呼吸と光合成の2つがある)です。
 その仕組みを大雑把に言えば、有機化合物を酸化させ、そのときに遊離するエネルギーでATP(エネルギーの缶詰)を合成し、この酸化反応で生じた水素を他の有機化合物に渡す一連の化学反応です。
 こうして発酵によってできた副産物の有機化合物そのもの、あるいはそれらがさらに合成・分解された有機化合物を発酵生成物と言います。
 なお、腐敗も発酵と同じ仕組みで起き、人に有用か否かで区別されるだけです。
 
発酵生成物として最初に思い浮かぶのはアルコールですが、通常の最終生成物は、多くがアミノ酸と有機酸です。例えば、完熟した黒酢がいい例ですが、米の炭水化物(食物繊維を含む)、脂肪、たんぱく質が完全に分解・再合成されて、ほとんどがアミノ酸と有機酸に変わっています。味噌の場合は主としてアミノ酸ができてうまみが出ますし、漬物の場合は少量のアミノ酸の他に有機酸もできて、うまみと酸っぱさが生まれます。

 発酵させるには、たいていは「酵母(酵母菌)」を使うことになり、パンを作るときのイースト菌がよく知られていますが、酵母菌は単細胞の真菌類(カビの仲間)の総称で、その仲間には腐敗に関与する菌も含まれるものの、一般的にはパン酵母、ビール酵母といった有用なものに限定して用いられます。酵母菌以外による発酵としては、乳酸菌、酢酸菌、枯草菌(納豆菌)といった細菌(発酵細菌とも言う)によるものも多いです。
(備考:納豆に関しては、「多く含まれるビタミンKの功罪そしてナットウキナーゼの話題 など」を参照してくだ
さい。)
 発酵に使う菌(酵母菌、発酵細菌)は、特定の菌だけの場合もあれば、複数あるいは種々雑多の菌で発酵させる場合も多いです。菌の種類が多く、その組成が異なれば味も変わってきます。特に自家製の味噌や糠漬けとなると、製造会社が使う以外の菌が入ったりして、その家々に独特の味となり、これまた美味なものとなります。
 発酵に使うものとして「麹(こうじ)」がありますが、これは一般的に麹菌(麹カビとも言い、酵母菌の一種)そのものというよりは、麹菌が分泌した酵素が多く含まれている場合が大半です。麹菌は各種消化酵素を大量に生体外に吐き出すという特性を持っており、これをうまく利用したものです。
 発酵と類似する特殊な形態として、自己融解があります。植物や動物は、生命活動を停止すると、その細胞内に存在する各種酵素によって自己消化を始めることが多く、肉は腐りかけがうまいと言われるのも自己融解によるものです。紅茶やウーロン茶、塩辛は、こうした作用を利用して作られます。これらも広い意味で発酵食品とされています。

 ところで、発酵は人の腸管内でも行われています。
 腸内細菌は、
発酵という方法によってエネルギーを得て生きていますから、その活動が活発になる…つまり腸内環境が良くなり、善玉菌が大増殖する…と、発酵生成物も多くなります。人では消化不能な食物繊維などを発酵させて、アミノ酸や有機酸を吐き出してくれるのです。これらは人の体内に吸収され、たんぱく質の合成やエネルギー源として利用されます。腸内環境がグーンと良くなれば、こうした形で人に有用な栄養が得られるのですが、動物性食品を多く取り過ぎると、善玉菌の勢力は弱まり、発酵と同じ仕組みの腐敗が悪玉菌によって始まり、毒素まで吐き出して人の体を蝕むことになります。

 さて、ここで生物進化の歴史を振り返ってみましょう。
 最初に現れた生物の多くは発酵によってエネルギーを得る細菌だったようで、これが地球上を支配し、数を増やし、様々な種類に分かれていきます。
 そうした中で、好気呼吸(酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す)
によってエネルギーを得る細菌が誕生し、その細菌が動物へと進化していきます。そして、好気呼吸をする生物は、その栄養を発酵細菌(その後に酵母菌も)が作ってくれた発酵生成物に頼るようになったことでしょう。また、動物のみならず植物においても、その表皮において発酵細菌や酵母菌との共生関係を築き上げていきます。野菜や果物の表面が白っぽいのは、これら微生物の存在を示しているのですし、動物の皮膚にも皮膚常在菌がびっしり繁殖しています。これら微生物は生体のバリアを形成して有害な雑菌の繁殖と侵入を防いでくれますし、彼らが作った発酵生成物が生体に利用されもします。なお、腸内細菌も、腸管という「生体の外側」に存在するものであり、表皮の微生物と全く同様に働いてくれています。
 ですから、原初の動物は、発酵生成物の取り込みとその利用に極めて優れた機能を有した仕組みを作り上げたものと考えられます。その後、動物が大型化すると、動植物も食べるようになって発酵生成物とは全く異質なものを口にするようになり、それの消化酵素を多く分泌できるようになって、栄養の大半を動植物から得るようになりました。
 でも、高度に進化した脊椎動物(人も)にあっても、基本的な生命維持機能は原初の動物とほとんど変わりませんから、いまだ発酵生成物の取り込みとその利用機能も失っていないのは確実です。わけても霊長類(猿の仲間)は、胃(2つに分かれた前胃)で牛と同様に発酵細菌により木の葉を発酵させている種が多くいますし、人に近い種のゴリラは、腸(特に盲腸)で発酵細菌により草をかなり発酵させています。そして、菜食しかしない人は、ゴリラに近い発酵細菌が卓越して多くなっているようです。
 こうしたことからも、人にあっても理想的な栄養源(体にやさしい栄養)は発酵生成物であると言えます。なぜ体にやさしいかと言えば、発酵生成物は体内に取り入れたら、そのまま使え、利用しやすいものばかりで、細胞内物質を構成したり、エネルギー源になったり、また、代謝を維持・促進してくれるからです。例えば、熟成させた黒酢の成分は、各種アミノ酸(必須アミノ酸を全て含む)、各種有機酸(エネルギー源になり、特に多く含まれるクエン酸はエネルギー代謝を促進)、各種ビタミン(多くは体内で働く補酵素)です。それに比べ、たんぱく質、脂肪、炭水化物は、これを消化吸収するのにかなりのエネルギーを必要とし、人の全エネルギー消費量の2、3割を消耗させますから、効率が悪いですし、消化器官に負担がかかります。

 ここまで、生化学の知見などから説明してきましたが、人に必要な“栄養素”は何か、ということについては未解明な部分が随分あると思われます。(注:現代栄養学で言う栄養素は、たんぱく質(消化してアミノ酸)、脂肪(消化して脂肪酸)、炭水化物(消化してブドウ糖)、ビタミン、ミネラル、食物繊維(栄養にはならないもの)ですが、本稿では、これとは違った概念で使うことにします。)
 また、必要な栄養素が得られなくても体内で合成したり代替品で間に合わせたりすることができるものがありますが、直接得られた方がずっと良いことでしょう。そのいい例が、人のエネルギー源となるブドウ糖で、これは有機酸の代替品ですし、過剰に摂取したたんぱく質や脂肪も本来の目的を外れてエネルギー源にしています。
 そして、夏には夏野菜がいい、冬には冬野菜がいい、と言われ、体を冷やす食品・温める食品というものが経験的に知られていますが、それはどういう栄養素が関与し、体内でどのように働いているかについては全く解明されていません。
 発酵生成物についても全容が解明されたわけではなく、極微量の未知の栄養素が思わぬ効果を発揮させてくれているかもしれないのです。
 そうしたことから、未知の部分については、冒頭で非科学的論述につき論評しないことにしましたが、“酵素には生命エネルギーが含まれている”とでも言いたくなるのでしょうね。もっとも、言うとすれば「発酵生成物には」でしょうけどね。

 いずれにしましても、発酵生成物は、本質的に、ヒトの体が最優先で欲している非常に重要な、体にやさしい栄養素であると言えましょう。
 その中でも、近世になって大きく普及してきた、日本人に馴染みの深い味噌、漬物は、多種類の酵母菌・発酵細菌の両方が発酵に関与していますから、その発酵生成物の種類は多義にわたり、何らかの形で健康増進に大きく関与していると思われます。
 そうしたことから、よく熟成した味噌、漬物を毎日召し上がっていただきたいものです。
 ところで、味噌、漬物ともに塩分が多いから害になるとお考えの方が多いですが、塩分は体が要求する程度に摂って何ら支障はありません。逆に減塩こそ体に悪いです。
 このことについては、「減塩しすぎるとどうなる?(2012.8.15投稿)」
をご覧ください。
 なお、本稿で黒酢が理想的なもののように書きましたが、これをがぶがぶ飲むのは禁物です。酸度が強いですから胃を荒らす恐れがあります。ここは、健全な腸内環境を作り上げて、善玉菌によってゆっくり発酵を進めてもらい、黒酢と同等の発酵生成物を少しずつ製造してもらうしかありません。
 また、健康食品として出回っている濃厚な「酵素飲料」(ほとんどが発酵生成物)には、どれだけかは乳酸菌などが含まれていて、その働きを止めるために高濃度の砂糖(防腐剤としても働く)を入れていますから、多飲するのは考えものです。でも、水で7倍程度に薄めて半日ほど常温で放置すると、乳酸菌などが発酵を始めて砂糖が乳酸に代わるようです。これは、故・甲田光雄氏がその著書「家庭でできる断食健康法」の中で、そのように書かれていましたので、お試しなさったらいかがでしょうか。なお、製造メーカーによって性状が違いますから、希釈倍率、放置時間は異なるかと思われます。

 最後に、発酵乳製品であるチーズとヨーグルトについて触れておきます。
 ともに乳酸発酵を主体としていますが、熟成させるには酵母菌を加えることがあります。
 ただし、フレッシュチーズは単に乳のたんぱく質を固まらせただけのもので発酵食品ではないです。
 発酵乳製品は、発酵生成物が含まれる点では体にいいと言えますが、牛乳と同様の理由で、あまりお勧めできない代物です。(詳細については2015.2.28「ヨーグルトは体にいいのか悪いのか、その答えは明らかです」と題して記事にしましたから、そちらをお読みください。)
 一つは、たんぱく質や脂肪があまりにも多すぎるという点です。どちらも摂取量を極力抑える必要がある代替栄養(日本人の食生活からすれば、これらは単にエネルギー源になるだけ)であって、特に日本人には、その消化と代謝に負担が掛かりすぎます。
 もう一つは、ヨーグルトには乳糖が多く残っていたり、それが2分解されたガラクトースが残っていたりすることです。日本人の大半(除く赤ちゃん)は、乳糖不耐症で乳糖がほとんど消化されず、乳糖は下痢の原因になり、腸内環境を悪化させる恐れがあります。また、ガラクトースは吸収されて多くがブドウ糖に変換されるのですが、日本人はその機能が弱いようで、牛乳の多飲や乳製品の多食は白内障の原因になるなど害になる恐れがあります。
 よって、発酵乳製品は、良い面より悪い面が多く、少量の摂取であれば乳糖が消化されたりガラクトースが利用されて問題ないでしょうが、大半が乳糖耐性の欧米人並みに大量にパクパク食べるのは禁物です。
 概ね1万年前から動物性たんぱく質と脂肪という極端な代替食糧を摂るしかなかった欧米人は、それなりに消化や代謝機能が適合してきているのですが、つい数十年前まで植物性食品がほとんどであった日本人がその真似をすれば、体を壊しかねません。
 やはり日本人には、味噌や漬物そして醤油や食酢といった古来より日本人が利用してきた発酵生成物が体に合っていると言えましょう。こうした食品群を利用した料理を毎日の食卓に飾っていただきたいものです。

(※)類似した主張(2015.2.28追記)
 内視鏡外科の先駆者であり、世界一の臨床例をお持ちの名医である新谷弘実医師は、全ての酵素の元となる物質が体内で産生されていると想定し、ミラクル・エンザイムと名づけ、その利用を節約することで長生きができるのではないかと考えておられます。また、新谷氏は、食物中の酵素が分解され消化吸収された後にも、体内で容易に酵素に再構成されるであろうと考えておられ、酵素を多く含んだ食品を摂取することは消化の助けになるだけでなく、体内で代謝に使われる酵素を補充する意義もあるとされています。でも、これは実証されたものではなく、単なる仮説の域を出ていないものです。

(同日補記)
 最近は酵素ブームということもあって、次のような説明が反乱しています。
 「人が作る酵素は5000種類以上、腸内細菌にあっては3000種類以上の酵素を作っている。この腸内細菌が作る酵素が人に体内における代謝にも役立っている。」
 これに輪を掛けて「腸内細菌に生命力の源である酵素を作ってもらっている」とも。
 これには困ったものです。
 ヒトも細菌も同じ生き物ですから、その生命活動は類似したものになり、持っている酵素の数に大差がないのは当然のことです。そして、腸内細菌は自分が生きていくために数多くの種類の酵素を作っているだけのことでして、人に酵素を供給しているものではありません。腸内細菌が体外へ吐き出す酵素は、ごく一部の消化酵素だけで、それも自分に必要な栄養を得るための必要な限度においてのみです。
 なお、ヒトが腸内細菌が吐き出した酵素を吸収しようとしても、大きなタンパク質の塊ですから大腸での吸収は不可能で、もし、大腸の荒れでその酵素が体内へ流入したとしても、異質なタンパク質として白血球に認識され、白血球が飲み込んで分解してしまう性質のものです。
 

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今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ。洗脳から抜け出しましょう!

2013年12月05日 | 心に安らぎを

今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ。洗脳から抜け出しましょう!

 今に通用する親鸞の“道徳”否定の教え(真宗大谷派が現在の道徳を批判)を10日前に記事にしました。その一部分を再掲します。
(同朋新聞・仏教の「ぶ」から始める入門講座vol.25よりの抜粋)
 私たちは「ああするべきである」「こうすべきでない」「せねばならない」「してはならない」と、決められた方向に近付くよう規制されたり促進されたりします。その設定された正解以外には認められず、そこから外れると、否定され、矯正され…ます。現代でも学校教育の中で「道徳」として国や教育審議会等が、人間とその関係あるべき姿を設定して、それに向けて善悪や正邪を押し付けてくるのは、時代状況の要請に都合の良い人間に育てようと、つまり人間を国家の材料として考えてのことでしょう。 (了)

 このことについては、類似したことを、心学研究家(宗教家ではありません)の小林正観さん(故人)がその著書の中で、学校教育に関していろいろおっしゃっておられますので、それらを紹介しましょう。

(著「こころの遊歩道」より)
 良い子悪い子
 …「良い子」というのは、先生の言うことや親の言うことを、全て聞き入れてきた子供です。ですから、親に「こうしなさい」と言われたことには、素直に従ってきたのですが、親がいなくなってしまったら、はたして自分の考えで生きていけるだろうか、と思ったとき、親は不安になるかもしれません。
 つまり、「悪い子」の方が、親としては本当に安心して死んでいける、ということに気がつきます。もちろん、ここで言う「悪い子」とは、人に迷惑をかけるとか、…強盗を働くというような意味での「悪い子」ではありません。「先生や親の言うことを聞かない子」をそのように定義しているわけで、…「悪い子」…というのは、自分の考え方や自分の価値観で生きてきた子供だからです。…
 …日本は、…非常にレベルの高い生産工場を作るため、高学歴で優秀な人材をたくさん作ることを目指しました。たしかに、その結果としては成功したのですが、個性的で自分の考えを自分の中に確立する子供、というのを作らないようにしてきたように思います。
 そのため、親は、その「没個性的」なものが正しく、「個性的」なものは間違いである、というように信じ込んできたのではないでしょうか。
 人類の文化、文明は、「良い子」が作ってきたのではなく、「悪い子」が常に作ってきたのです。「悪い子」というのは、今の文化、文明の中に「もっと改善の余地があるのではないだろうか、これが究極のもの・完結したものだとは言えない」と思い、いつも分析をし、そして自分なりのよりよい物を考え、提案している、そういう人間だと思います。
 逆に「良い子」というのは、良い学校を出て、一流企業や官庁に入り、「その社会の中」でずっと良い待遇を受けていく、ということになるのでしょう。…
 「教育の本質」というのは、たぶん「平均的」な「一般的」な子を作ることではなく、「自分の価値観で生きていく」子を作ること…ではないでしょうか。 (了)

(著「究極の損得勘定」より)
 夢も希望もない暮らし
 …
夢や希望を持つべきだ、持たねばならないと、私たちは言われ続けてきましたが、こういう人生というのは、常に今の自分を好きになれず、「まだまだもっともっと」と、死ぬまで言い続ける、満たされないものになるのではないでしょうか。
 …学校教育においても、そういう「夢や希望に満ちあふれた」人間をどんどん作っていって疲れさせて、ということになるかもしれません。 (了)

(引き続き、このことに関連して、著「宇宙が味方の見方道」より)
 学校教育で見失ってきたもの
 私たちは、小・中・高校と学校でも家庭でも社会でも「ヨーイドンって鳴ったら、必ず1位、2位へ飛び込め」って、そういう教育しか受けてきてないですよね。わけがわからず、ただゴールに飛び込むことしか考えないでずっと走ってきました。
 人より抜きん出ること、人よりもたくさんの努力をしてその努力の結果が幸せになることの証であると信じ込まされてきました。それしか価値がない、それが当たり前だと思って生きてきたんですよね。…
 …私の人生の前半は「戦いなさい、努力しなさい、人より抜きん出なさい」という…競争社会の価値観に操られてきた人間です。…
(その後、知恵遅れの身体障害者の子を持ち、その子に教えられて見方が変わり)…達成目標も夢や希望も…「持ってはいけない」と言っているんではなく、それに執着してしまうと、とてもつらいものになるということです。
 夢や希望というものは「どうしても叶えたい」というよりも「叶わなくても、それはそれでよし」と思う方が楽に生きられますよ、ということなんです。
 それに、人がどんなときに目標達成を持つかというと「今の自分じゃいけない」「このままじゃダメだ」「さらにもっと」って感じているときではないでしょうか。
 それは、いつも今の自分を否定していることになりませんか。
 人間は、何のために生まれてきたのでしょう。それは、幸せを感じるためなんです。幸せを感じるために、高い達成目標が必要なんでしょうか? (了) 

 ここで、がらりと視点を変えて、戦前の日本の学校教育を外から見たものがありますのでそれを紹介しましょう。
 米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが戦前において米国移民日本人との交流の中で調査研究し、1946年に著した「菊と刀ー日本文化の型ー」に次の記述があります。

 …日本人は従来常に何かしら巧妙な方法を工夫して、極力直接的競争を避けるようにしてきた。日本の小学校では競争の機会を、アメリカ人にはとうてい考えられないほど、最小限にとどめている。日本の教師たちは、児童はめいめい自分の成績をよくするように教えねばならない、自分をほかの児童と比較する機会を与えてはならない、という指示を受けている。日本の小学校では、生徒を落第させてもとの学年をもう一度やらせるということはしない。一緒に入学した児童は、小学校教育の全課程を一緒に受け、一緒に卒業してゆく。成績通知表に示されている児童生徒の成績順位は操行(品行、行い)点を基準とするものであって、学業成績によるものでない。…(こうしたこともあって)中学校の入学試験の場合のように、どうしても本当の競争状態が避けられないときには、子供たちの緊張ぶりは無論非常なものである。どの教師も不合格になったことを知って自殺を企てる少年の話を知っている。 (了)

 これは同著第8章「汚名をすすぐ」の中で書かれている内容でして、日本の文化を「恥の文化」、欧米の文化を「罪の文化」と際立たせて比較対照していることによるものではありますが、欧米から見ると、日本においては競争に負けた場合に「恥をかく」ことを避けるために、競争を避ける様々な工夫がなされている、と感じ取られたのでしょう。
 一方、内から見た場合、小生のおふくろがそうですが、国語・算数・理科・社会・体育、どの科目も5段階評価がなされ、けっこう競争させられていたと感じ取っています。
 外から見た場合と内から見た場合とでは感じ方が違うのは当然ですが、義務教育で落第させない点などは現在に通じるもので、なるほどと納得させられます。そして、「比較する機会を与えてはならない」ということに関しては、今の教育より優れたものがあったと言えるでしょうし、今日ほどには競争させられてはいなかったのではないでしょうか。

 再び小林正観さんの著書に戻ります。
(著「ただしい人からたのしい人へーもう一歩奥の人格論ー」より)
 勝つこと、競うこと、比べること、人よりも抜きん出ること、それだけを価値観として教わってきた人間にとっては、競わない、比べない、争わない、そして全ての人に対して優しいだけの存在である障害児というのは大変ショックな(良い意味での)存在なのでした。…
 …「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。それは、全ての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は…存在しない、ということでした。「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した…結論なのです。…
 では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。なぜか。
 それは、「競うこと」「比べること」「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。
 もともと学校教育というものがそうでした。「相対評価」というもので…ランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育方法を日本の教育界はとってきたわけです。…
 その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。…競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい)生き方をするということにほかなりません。 (了)

 それは、具体的にどういう生き方か、ということになりますが、冒頭で取り上げました真宗大谷派の仏教の「ぶ」から始める入門講座vol.25では、次のように書かれています。

 自分に与えられた環境条件のもとで自分にできることを惜しまず(周りの人々に)尽くしていく行き方が、そこに開かれてくるのでしょう。 (了)

 これは、親鸞聖人の教えであるとともに、釈迦の教えでもあるようです。(両人とも厳しい修行から逃げ出してしまった堕落した者として、当時は軽蔑されたようです。)
 釈迦の最初の悟りと言われる「縁起」については様々な解釈がなされていますが、再び小林正観さんの著書から、それを紹介しましょう。
(著「宇宙が味方の見方道」より)
 縁起の法則というものは、「人は自分の人生を自分の想いや自分の力でつくれると思っているがゆえに、悩み苦しむ。人生は自分の思いでできあがっているのではなくて、自分の思い以外の神仏や周りの人々のお陰で全部が成り立っている」と釈迦は言った。釈迦はそれに気がついた。…
 
私(小林正観)の人生をつくっているのは私じゃない。自分の人生には1%も関わっていない。0%だ。
 では、私以外の神仏、友人、知人、家族というものが私の人生を成り立たせてくださっているとしたら、私の想いで私の人生をつくっているんじゃないとしたら、私にできることは、私の人生を成り立たせてくださっている神、仏、友人、知人、家族に対して、ただひたすら感謝をするしかない、ということになります。
 で、現実問題として、周囲を取り巻くすべてのものに対して「ありがとう」って言える「私」になったら、…(感謝の言葉を投げかけられた)方たちだって、さらにやる気になって応援してくれますよね。自分一人で頑張ってるときとは全然違うようになります。
 <縁起の法則>が、本当かどうかわからなくても、これには、ものすごいプラス効果があるみたいですね。
 私たちが感謝すればするほど、周りの人たちは、もり立ててくれるから、実際にとても楽に生きられるようになりますし、これまで以上に、支えてくれることは事実のようです。 (了)

 いかがでしょうか。最後は宗教の世界に入って行ってしまったように思われるかもしれませんが、釈迦にしろ親鸞にしろ、「信ずれば救われる」と言っているのではありません。
 2人とも人の生き方を説いている思想家であって、大まかなガイドラインを示すだけであり、「自分自身で自分なりの生き方を考えなさい」と言っています。小生は、そのように理解しているのですが、
小林正観さんにしてもそのように思われます。
 思想家としての釈迦、親鸞、小林正観さんがおっしゃっている、人の生き方に関する大まかなガイドラインというものを、もう少し紹介せねば、皆さんに十分お分かりいただけないでしょうが、それは機会を見て少しずつこのブログで取り上げてみようかと思っています。でも、それがいつになることか、とてもお約束できませんので、ここは、ご自身でお調べになり、勉強なさってはいかがでしょうか。

 表題にしました「今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ」について、十分には説明できませんでしたが、今日「これが正しい道徳」だとして我々が信じ込まされているもの、強く批判的に申せば“洗脳されているもの”を、今一度問い直してみようではありませんか。

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