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薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

楽に死ぬにはガンに限る(三宅薬品・生涯現役新聞N0.240)

2015年01月26日 | 当店毎月発刊の三宅薬品:生涯現役新聞

当店(三宅薬品)発行の生涯現役新聞N0.240:2015年1月25日発行。
表題:楽に死ぬにはガンに限る
副題:ガンは放っておいても痛まないし、最期まで意識が清明

 ここのところ、中村仁一氏の著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」から、その要約版をブログ記事にしていますが、当店新聞でも取り上げることにしました。
 なお、その内容は、既に1月7日に記事にしたもの「楽に死ぬには、がんに限る。がんは放っておけばいい!」をうんと要約したものです。

(表面) ↓ 画面をクリック。読みにくければもう1回クリック。裏面も同様です。

(裏面)瓦版のボヤキ
 「困ったガン治療マニュアル」と題して、表面新聞の補足記事としました。
 抗がん剤のウソを中心に説明しています。

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年寄りのがん検診は必要か、早期発見の不幸&手遅れの幸せ

2015年01月13日 | 癌(がん・ガン)

年寄りのがん検診は必要か、早期発見の不幸&手遅れの幸せ

 中村仁一氏の著<大往生したけりゃ医療とかかわるな 副題:「自然死」のすすめ>を読み、その読後感想として、最初に<自然死」のすすめ(中村仁一著)読後感想を記事にし、引き続いて<楽に死ぬには、がんに限る。がんは放っておけばいい!>をアップしましたが、そのなかで、手遅れの幸せ」とセットで「早期発見の不幸」について詳述しておられ、これについては別の機会に紹介することとしました。
 よって、今回、表題に関する部分を抜粋して紹介することにします。(以下、引用)

 「がん検診」は身体によくないと、定年退職を機に“検診断ち”をして、晴れ晴れとした気分で過ごしている知り合いが何人もいます。
 なぜ身体によくないかを聞いてみますと、「たとえがんでなくても、少しでも異変があれば精密検査に回される。回された方は、『がん検診』を受けて『精密検査』といわれたら、心穏やかでいられるはずがない。もしも、がんだったらと思うと、心も千々に乱れ、夜も眠れない、食欲は落ちる、仕事に身が入らないなど、結果がわかるまで生きた心地がしない。おまけに、精密検査の結果が出るまで10日も2週間もかかる。こんな気持ちを味わうのは、もうたくさんだ。さらには、精密検査で胃に穴が開いた、腸に穴が開いたなどという話も聞く。世の中には、知らない方が幸せということもあるのではないか。もう、こんな思いを繰り返すことに耐えられない」といいます。
(中略:氏はこれを肯定しつつ、がん検診を受けるに当たっての留意事項を説明)
 検診は、精度が高くなくてはいけません。精度について考える場合、がんの人を見逃さず、濾し取る力に、「感度」という指標があります。感度は高いに越したことはありませんが、感度100%ということは、現実にはありません。
 もう一つ、がんではない人を、がんではないとはっきりさせる力を、「特異度」といいます。
 感度が高くても、特異度が低いと、やたら精密検査が増えます。しかし、特異度がいくら高くても、感度が低いと見逃しが多くなります。
 見逃しは裁判沙汰になることもあり、これまで感度ばかりが重んじられてきた傾向がありますが、がんではない人を、しっかりがんでないと判定する特異性も負けずに重要なのです。
 感度ばかりを追求しすぎると、がんでないものをがんと疑う過剰診療が生じ、勢い、精密検査が増えることになります。
 精密検査には、前述のように、一定の割合で出血や胃、腸に穴が開くなどの偶発事故が起こります。また検査費用がかかり、検査のために仕事を休まねばなりませんし、結果がわかるまで不安な気持ちで過ごさなくてはなりません。前立腺がんのように前立腺に針を刺して組織を採る生検という肉体的苦痛、X線被曝など不利益もあります。
 また、放っておいても問題のないタイプのがんを見つけてしまうと、治療する無駄と副作用という不利益を蒙ることになります。
(中略)
 がんが老化であることは、前述した通りです。また、「がん検診」は、早すぎる死を回避する手段だということも申しました。
 とするならば、繁殖を終えて、生きものとしての賞味期限の切れた「還り」の途上にある年寄りには、もはや、早すぎる死というものは存在しないことになります。
 ならば、あまり「がん検診」などに近寄らない方が得策といえます。
 これまで、70歳前後の何人もの有名人が、よせばいいのに、健康であることの証明ほしさの「人間ドック」を受けてがんが見つかり、目一杯の血みどろの闘いを挑んだ末、見事に玉砕し、果てています。自覚症状は全くなかったでしょうから、「人間ドック」など受けさえしなければ、まだ一線で活躍していただろうにと思うと、残念のひとことに尽きます。
 よしんば、早期がんといわれて取り切れた場合でも、その後は、一定期間ごとに苦痛を伴う検査を繰り返さなくてはなりません。また、無事に5年経った後でも、生きている間はずっと「再発」に怯え続けなければなりません。というのも、ちょっとでも身体に異変が生ずれば、ひょっとしたらの思いが脳裏をよぎるはずだからです。
 この心理的ストレスは、相当なものと思われます。「早期」だからよかった、安心ということでは必ずしもないようです。しかも、検査の賞味期限は当日限りです。偶然、見つからなかっただけということも考えられます。
 生きている間は、このようなことがずっと続くわけですから、これを「早期発見の不幸」といいます。
 一方、「がん検診」や「人間ドック」に近寄らなかった場合はどうでしょう。がんは痛むといいますが、それならどうしてもっと早く見つからないのでしょう。不思議でなりません。
 症状のないまま、ふつうの生活をしていたら食が細り、やせてきて顔色も悪いので、周囲が心配して無理に検査を受けさせたら、手遅れのがんだった。そんな話をよく耳にします。
 繰り返しになりますが、なぜ、そんなに進行するまで病院に行かないのでしょうか。痛まないからというのが、その答えとしかいいようがありません。
 一見、手遅れの発見は、不幸の極みのようにうつります。
 しかし、考えてみてください。それまで何の屈託もなく、自由に充実した毎日が送られていたわけです。痛みが出なければ、今後も体力が落ちて自由に動くのがむずかしくなるまで、ふつうの生活をすればいいのです。
 長生きもけっこうですが、ただ長生きすればいいというものでもないでしょう。どういう状態で生きるかが重要だと思うのです。私自身はぼけたり、いつ死ねるかわからないままの寝たきりや植物状態で生かされているのは、願い下げです。
 繁殖を終えるまで生かしてもらったのですから、もう充分ではないですか。人生の幕引きを思い通りにできるかもしれない「がん死」は最高だと思います。
 これを、「手遅れの幸せ」といいます。(引用ここまで)

 終わりの方は前回も引用したところですが、手遅れのがんは余命〇月と宣告してもらえるのですから、その間にやっておきたいことが計画的にでき、まさに「手遅れの幸せ」となりましょう。
 ところが、中村氏も著書の中で例を挙げておられましたが、「手遅れの幸せ」を感ずるとがんの進行が遅れ、宣告以上に生き長らえることがあるようです。
 このことについては、過去記事「がんを治すには肩の力を抜くにかぎります:ただしい人からたのしいヒトへ(小林正観著)の紹介」で紹介しましたように、生活週間ががらりと変わり、ストレスが大幅に減り、かつ、生命力が十分に残っていると、がんは萎縮の方向に向かい、時には消滅してしまうことも多々あるようです。
 次に、中村氏は、「早期発見の不幸」に関して、抗がん剤について詳述されていますから、ここでもそれを紹介しておきましょう。

 …抗がん剤も“猛毒”ですから、がんを消そうと思えばできないわけではありません。ただ、がんが消える前に、いのちが先に消えてしまいますので、実用的ではないということです。
 それにもかかわらず、医療現場では、抗がん剤が「効く」とか「有効」という言葉が使われています。それはどういう意味なのでしょうか。(中略)
 抗がん剤が「効く」として採用、承認される基準があります。それは、レントゲン写真など画像の上で、がんの大きさ(面積)が半分以下になっている期間が4週間以上続くこと、そして、抗がん剤を使った患者の2割以上がそういう状態を呈することというのが条件です。8割もの患者が反応しないようなものが、薬として認可されるなど、他では考えられません。
 医療側は、こういう事情を踏まえて「効く」とか「有効」といっているわけですが、患者側は「効く」といわれれば、「治る」あるいは「がんがなくなる」と受け取ったとしても責められません。同じ「効く」という言葉を使いながらも、中身には天と地ほどの差があるということになります。
 そのうえ、抗がん剤は、ほとんど「毒薬」か「劇薬」指定ですから、当然、強い副作用もあると覚悟しなければなりません。なぜなら、がんだけを攻撃するのではなく、まともな細胞や組織もやられるわけですから。
 抗がん剤で治るのは、血液のがんや、塊になるものでは精巣がん、子宮絨毛がんぐらいのものといわれます。
 胃がんや肺がんのような塊になるがんは、一時小さくなることはあっても、あまり使う意味はないことになります。
 また、…副作用が強烈でしょうから、ヨレヨレの状態になります。結果的に苦しむ期間が延びただけというのでは、あまりにも悲惨すぎるのではないでしょうか。つまり、延命はけっこうなことですが、どういう状態での延命かが問われていると思います。
 さらに抗がん剤は“猛毒”ですから、効果はなくても、副作用は必ずあるはずです。ですから延命効果はなくても縮命効果はあるということです。
 いのちを伸ばすつもりが、かえって縮める結果になっていると思うのです。(引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか。
 年寄りのがん検診は不要であり、受けてしまったら「早期発見の不幸」が待っており、受けなければ「手遅れの幸せ」を手にすることができるというものです。
 これは、がんに限らず、全ての病気についていえることで、本書の表題にもなっていますが、中村氏の老人医療について思いを最後に紹介し、本稿を閉じることにします。

 年寄りの不具合は、すべて老化が原因か、老化がらみです。今さら、医者にかかって薬を飲んでみたところで、若返らせることは不可能ですから、根本的には、どうなるものでもありません。
 しかし、治りたい一心で治そうと思ってやって来た医者のところで「年のせい」などという、にべもない言葉は、患者にとっては許せません。
 もっとも、医療側も年寄りは大事な「飯の種」ですから、のど元まで出かかった言葉でも、ぐっと呑み込みます。
 そして、さらに、老化にもっともらしい病名をつけ、発達した医療に頼れば何とかなるように煽り、期待を持たせます。下手に「年をとればこんなもの」と覚られようものなら、病院は潰れ、開業医は夜逃げを余儀なくされ、医療関係の失業者が町に溢れます。
 民間病院が立派に建て替えられたのも、「お年寄りさま」のおかげです。三拝、九拝、仇やおろそかに思っては、罰があたるというものです。
 しかし、よく考えてみてください。テレビや冷蔵庫は15年ももたないでしょう。ところが、人間は60年も70年ももつんです。これは、凄いことだと思いませんか。
 だから、「年をとれば、どこか具合の悪いのが正常」なんです。万一、年寄りのくせに、どこもどうもないなら、それはよほど異常というべきでしょう。即刻入院して精密検査を受けた方がいいと思います。
 とにかく、「老」も「苦」(ドゥフカ)で、思い通りにならないものとしてしっかり明らめ、年をとれば、ある程度こんなものと、あまりこだわらずに寄り添うのが一番と思います。

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ワクチンを打ってもインフルエンザにかかる。特に老人は。

2015年01月09日 | 風邪・インフルエンザ・コロナ

ワクチンを打ってもインフルエンザにかかる。特に老人は。

 このことについては、「インフルエンザは単なる風邪の一種ですから、むやみに医者の薬を飲んではなりません」の記事の中で簡単に触れましたが、老練の医師・中村仁一氏が長年の経験を踏まえて、次のとおり解説しておられますので、それを紹介しましょう。
(中村仁一:1940年生まれ、京都大学医学部卒、病院長を経て2002年から老人ホーム診療所長。2012年の著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」からの抜粋。)

 病気の予防にはワクチン、といわれます。…そのワクチンについて考えてみましょう。
 2009年に“新型インフルエンザ”が流行しました。ところが、希望者全員にワクチンがいき渡らないと考えられたため、優先順位による予防接種が行われました。ワクチンを打っておけばインフルエンザにかからないと思っている人も多く、一部ではパニックも起きました。
 …「新型インフルエンザワクチン接種について」という政府広報…によれば、「ワクチン接種の効果」について、「重症化や死亡の防止には一定の効果が期待されます。ただし、感染を防ぐ効果は証明されておらず、接種したからといって、感染しないわけではありません」とあります。
 つまり、ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかり、他人にもうつすということです。したがって受験生に予防のために打っておこうと勧めるのは、笑止という外はありません。本当に受験に備えるには、早めに天然ものにかかっておくことでしょう。
 実際に老人ホームでは、予防接種をしていたにもかかわらず、死者が出たところもあるのです。しかし、そのことに関しては、マスコミは何のコメントもしていません。結局、死亡の防止といっても、ワクチンの直接作用ではなく、予防接種した人の身体が、どれだけワクチンに反応して、抗体という抵抗勢力をつくれるかということに尽きます。
 一般的には、年をとればとるほど、また、重い持病があったり、免疫を抑えるなどの特殊な薬を飲んでいたりするほど、この反応する力は弱くなると考えられます。
 したがって、本当に、死亡や重症化の予防ができるのか、あやしくなってきます。
 また、なぜ予防はできないのかといえば、インフルエンザの侵入門戸は、鼻やのどの粘膜だからです。ワクチンを打っても抗体ができるのは、血中であって、これらの粘膜ではありません。予防というのは、いわば、門の外で撃退する場合を指し、門を入って玄関を上がって座敷で初めて闘うような事態ではありません。
 さらには、現在の日本のワクチンは、インフルエンザの粒子全体を使うのではなく(全粒子を使うと副作用が強い)、2つある突起の1つ(HA)を切り離して抗原として使っています。このため、本物がやって来た時に、撃退できるのかという疑問もあります。
 以上のことから、ワクチンの接種は意味がないと思いながらも、世間の少数派のせいもあり、私自身は立場上、老人ホームに移ってからは、毎年接種し続けてきました。
 しかし、厚生労働省が政府広報で「打ってもかかる」と認めたので、大手を振ってやめることにしました。医療従事者優先でワクチンが回ってきましたが、当然打たず、他へ回しました。
 また、同広報には「ワクチン接種は、多くの方に重症化予防というメリットをもたらしますが、接種後、腫れたり、発熱の症状が出たり、まれに重篤な症状を引き起こす可能性もあります。この点をご理解のうえ、個人のご判断により接種をうけていただくようお願いします」ともあります。
 このシーズン中、インフルエンザで死んだ人が204人なのに対し、予防接種後に死んだ人が133人もいます(日本医師会雑誌、2012年12月)。このうち、121人は60歳以上なので、持病(基礎疾患)を悪化させた可能性もあるのではないかと思われます。
 しかし、そのほとんどは、因果関係なしで片づけられています。…
 …個人にとっては、あたれば100%です。しかも、やってみないとわからない、予防できない状況下で、個人の判断で受けろといわれても困るのです。
(※ここからは小児ワクチンについて延べられていますが、引き続き抜粋します。)
 2011年、細菌性髄膜炎を予防する小児肺炎球菌ワクチン(ヘモフィルスインフルエンザ菌b型)を同時接種した乳幼児7人が、相次いで死亡しました。これは、ワクチン後進国の汚名返上ということで、鳴物入りで公費負担で導入されたものでした。
 そして、一時接種が見合わせられましたが、結局、因果関係が認められないとして再開されました。国内での死亡は、10万回接種で、0.1~0.2人、つまり、100万回接種で1人から2人ということです。
 しかし、国内で細菌性髄膜炎により実際に亡くなった0~4歳の子は、2007年から2009年の3年間で、年平均11.7人といいます…。
 実際に、髄膜炎で命を落とした子が11人強、ワクチン接種後に亡くなった子が7人、マスコミで全く報道してくれませんが、これをどう解釈したらいいのでしょう。…
 多分、細菌性髄膜炎で子どもを亡くした親は、予防接種をしてさえいればと思うでしょうし、予防接種後に子どもを亡くした親は、注射などするんではなかったと悔やんでいることでしょう。
 親としては「本当に安全なのか」と不安は拭えませんが、もともと「不確実」でやってみないとわからないのが医療です。確率的には極めて安全といえますが、亡くなるケースがあるわけですから、“一種の賭け”になるとしかいいようがありません。
                                           (抜粋ここまで)

 ここに書かれているように、インフルエンザのワクチンを打ってもインフルエンザにかかることがあり、ワクチンを打ったががために発熱の症状が出たり、まれに重篤な症状を引き起こすこともある、ということになるのですが、現実に皆さんの周りでもこうした事例を見聞きされていることでしょう。
 しかし、インフルエンザのワクチンを打ったから周りの人がインフルエンザにかかっても自分はかからなかった、ということの方が多いようにも思えます。
 はたしてインフルエンザワクチンはどの程度効くのか、厚労省がちゃんと調査をやって公表してほしいものです。これは実に簡単でしょう。現に、上で引用した「日本医師会雑誌、2012年12月」では、死者がワクチンを打っていたか否かについて判明しているのですからね。医療機関からのインフルエンザ罹患者数報告は日々義務付けされているでしょうから、それに症状の軽重を書き加えるといった程度のことですむと思われます。これは悉皆調査でなくてもよく、一部の医療機関だけを調査対象とすればいいです。そのデータを年齢階層別に統計処理すれば、今年のワクチンは子供にどれだけ効いているのか、年寄りには効いているのか効いていないのかが、日々更新して発表できるはずです。なんで、これをやらないのでしょうかねえ。

 ところで、抜粋文の中に、日本は「ワクチン後進国」という表現があります。これについて少し解説しておきましょう。
 その昔は日本はワクチン先進国であったようですが、小児ワクチン接種後に死者が出るという事例が相次ぎ、これが大きな社会問題となって、厚労省もワクチン接種には及び腰になり、ワクチン接種は減少傾向になりました。
 その間に、先進諸外国(欧米)は小児ワクチンの接種を順次進めて日本を追い越し、現在では米国は日本の倍ほどの接種率に増えているようです。
 で、欧米における接種の危険性はというと、はっきりしたことは分からないのですが、
危険性についての受けとめ方は、明らかに日本と違います。
 日本人は、効果と危険性を切り離して、まず目先の危険性だけに注目します。これに対して欧米人は、両者を勘案して、ワクチンを打つか打たないかを決めるのです。
 国民性、文化の違いがここではっきりと出ます。
 この違いはどこから出てくるのか、小生の見解を述べることにします。
 欧米の思想として「弱肉強食、適者生存」の考え方が根っこにあります。これは、有史以来、侵略と虐殺・略奪に明け暮れてきた時代背景が原因しているに違いありません。
 つまり、ワクチンごときで死んだりするのは、その子があまりにも虚弱であったからであり、ワクチンを打たなくて難を逃れたとしても、そのような体では先々様々な病気を拾い、ずっと苦しみ続けねばならず、若死にする可能性が大きいであろう。この世は弱肉強食の世界であって、適者しか生存できないのであるからして、そのような子はあきらめるしかない。子どもにワクチンを打って免疫力をつけさせれば、その病気に罹らずにすみ、この先、力強く生き抜いていけることだろう。
 多くの欧米人は、こうした捉え方をするのです。
 それに対して、日本の文化は、有史以来延々と平和が続いてきたがために、「弱者救済、共存共栄」の考え方が根っこにあります。そうしたことから、日本の産科医は世界一優秀で、とても助かりそうにない未熟児として生まれ出てた子であっても、あらゆる手立てを講じて懸命にその命を守りぬき、そして健康体へと育て上げていきます。これが世界一平均寿命が高い国、日本となっている最大の原因です。
 こうした文化が今でも根強く残っていますから、ワクチン接種でもって“か弱き子どもを殺すとは何事ぞ!”となってしまうのです。
 どちらの文化が正しいのか、なんてことは言えません。その国に特有の文化、かの国に特有文化から、このほうが良い、あのほうが良い、と大勢が決まるだけのことです。
 こうしたことから、日本ではワクチンを打つにしても比較的活性度の低いものを使う傾向にあるようですから、その効果のほどとなると疑問符が付くような気がします。

 もう一つ、抜粋文の中に『もともと「不確実」でやってみないとわからないのが医療です。』とあります。これについて、同著の中で、医療全般にかかることとして解説しておられますから、その部分を抜粋しておきます。

 …医療には…やってみないと結果がそう出るかわからないという「不確実性」もあります。だから、医療には「絶対こうなる」「100%確実」はありえないということです。
 また、最近よく耳にする言葉に「エビデンス」(科学的根拠)があります。日本人は「科学的」という言葉に弱いので、科学的などといわれると、疑問の余地のないものに思ってしまいます。
 行った場合と行わなかった場合、例えば、検診を受けた人と受けなかった人、薬を服用した人と服用しなかった人というように、これを集団で比較した場合に統計学的に意味のある差があった、つまり有効だったということです。有効グループの全員に効いたのではなく、効かなかった人もいます。ただ集団で比較すると効ありといえるだけで、特定の個人、あなたにも有効といっているわけだはありません。あなたの場合は、あくまで試してもらわないとわからないのです。
 …さらに、現在は治療法も「松」「竹」「梅」といろいろあり、それぞれ一長一短があるのです。本当に発達したというなら、治療法は一つあれば充分のはず。それが、いく通りも存在するというのは、裏を返せば、決定打に欠けるということでしょう。

 ついでながら、医療の本質についての解説がありますので、その部分も抜粋します。

 病気やケガを治す力の中心をなすものは、本人の「自然治癒力」です。だから、少々のケガや病気は、医者にかからなくても薬を飲まずに放っておいても治ります。
 本来、医療は、本人の身体の反応する力を利用するものです。…
 つまり、「病気やケガ」は、医者や薬が、力ずくで治せるものではないということになります。医療者は脇役で、お手伝いするお助けマン、薬はお助け物質、器械はお助けマシーンというわけです。
 インフルエンザ流行時に、肺炎の併発に備えて、人工呼吸器が必要と強調されました。
 しかし、人工呼吸器が肺炎を治してくれるわけではありません。呼吸機能が悪くなったので、代りに器械が補ってくれる。その間に、本人が肺炎を治して呼吸機能を回復させれば、人工呼吸器は不要になって助かります。本人に、その力が失せていれば死ぬ、というわけです。…
 では、なぜ医療が発達したといわれるのでしょうか。
 それは、昔なら、ちょっとでも臓器の具合が悪くなると手の打ちようがなかったのが、今は、臓器の機能がかなり低下しても、下支えができるということです。
 その結果、以前なら死んでいたものが、死ぬでもなく助かるのでもなく、ただズルズルと生かされている事態が起きることにもつながっているのです。

 ということですが、最後の1文(2行)は本書の意図からして、たぶんにお年寄りを意識してのものと思われます。若い方には、これはまれなことでしょうから。
 最後に小生の見解を述べさせていただきます。こと、インフルエンザに関しては、ワクチンを過信するのは誤りで、打っても打たなくても大差ないと考えます。これといった有効な治療薬もない現状にありますから、自然治癒力を高めるしか方法はないです。
 裏技を一つご紹介しましょう。
 インフルエンザ流行時に、体調を良くして(自然治癒力が高い状態)インフルエンザに罹患している人の傍に5分間(この時間でいいのかわかりませんが)いることです。
 こうすれば、ウイルスが喉なり鼻なりに付着するも、高い自然治癒力でもってウイルスを殲滅するとともに、体内に抗体が作られ、そのシーズン中はインフルエンザに罹患することはないでしょう。風邪と違って、1シーズンに流行するウイルスは1種類だけのことがほとんどですからね。
 薬屋商売をやっていますと、インフルエンザに罹患したお客様がご来店になることがけっこうありますから、流行しだしたら体調管理をしっかり行い、自然治癒力が決して落ちないよう気をつけているところでして、店頭に立つようになってから20年以上、毎年インフルエンザウイルスを浴びているはずなのですが、罹患したことはありません。
 なお、引用文の最初のほうで「本当に受験に備えるには、早めに天然ものにかかっておくことでしょう。」とありますが、この裏技を使ってみられてはいかがでしょうか。ただし、引かなくてもいいものをたちどころに引いてしまう恐れが無きにしも非ずですから、その点はご容赦ください。 

(2015.1.23追記)
 インフルエンザワクチンがどの程度効くか、これについてネット検索していたら、過去に前橋市医師会が他の4市を含めて全小学校生を対象としたアンケート調査がありました。その結論はというと、巷では“前橋レポートで予防接種は効果がないことが証明された”というふうに流布されていますが、当の前橋市医師会は、そこまでのことは言っていません。
 その辺りのことについて、客観的に詳細に解説されているサイトを見つけましたので、お時間がありましたらご覧になってください。
 →
前橋レポートの中身(接種の有無による罹患率の差)

(2017.4.19追記)
 上記の追記“前橋レポート”について、内海聡医師がブログで「インフルエンザワクチンは効果なし」という分析結果を述べられていました。参考までに紹介しておきます。
 → http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-509.html

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楽に死ぬには、がんに限る。がんは放っておけばいい!

2015年01月07日 | 癌(がん・ガン)

楽に死ぬには、がんに限る。がんは放っておけばいい!

 一番恐れられている病気、それはがん。
 何よりも痛みが激しいし、吐き気・だるさで苦しくてしかたがない。がんが進行したら不治の病となり、死の瞬間までそうした苦痛を味わい続けねばならない。だから、がんほど恐ろしいものはない。
 これが世間一般の常識となっています。
 でも、常識は非常識、非常識が常識であるのは、この世の常でして、まず政治家が言うことがそうです。これは多くの方がそう思っておられましょう
。次にマスコミ。さんざん政治家を叩きまくっていますから、さも正義の味方であるやに思われてしまいますが、実は肝腎なところでは政治家とつるんでいますし、経済界との関係も同様です。これは案外知られていないことですが、政治家とマスコミは同類のペテン師とみなして間違いなしです。
 人の健康、生命を預かる医療業界はそんなことはないだろうと多くの方が思っておられるのですが、どうしてどうして政治家やマスコミと同じことをやっていますし、いや、日本の場合、医療業界は政治家やマスコミ以上にあくどいかもしれません。世界一悪質な“オレオレ詐欺集団”と言われてもしかたがないのが実情だからです。
 まずは検診。早期発見・早期治療をお題目にして、国民全員に集団検診を半ば義務付けし、働き盛りとなったら人間ドッグ検診を補助してまで受けさせています。ところが、集団検診制度や人間ドッグ施設があるのは日本だけで、先進諸外国では、これらをやったところで全く医療費削減にならず、無駄なこととして見向きもしていません。
 ちなみに、少々古いデータですが、精密検査に使うCT・MRIはともに世界の3割を日本で所有しています。いかに日本は検診しまくっているかが分かります。
 次に、集団検診と人間ドッグ検診を盛んに行っている日本では、国際的な診断基準を上手に活用し、病気でもない人に病気のレッテルを貼るという詐欺を働いているのです。
 高血圧の基準値をオーバーしたからやれ降圧剤だ、コレステロール値がオーバーしたからやれ脂質降下剤だ、といった調子で飲まなくてもよい薬を飲ませ、いや、飲んでは体を害する毒を盛ってるのです。
 ちなみに、これも少々古いデータですが、降圧剤は世界の5割を日本人が消費し、脂質降下剤は6、7割を消費しています。いかに日本人は薬漬けにされ、その長期服用によって健康を害されているのかが分かろうというものです。
 (ここまで国際比較を4項目掲げましたが、医療に関する国際統計はいろいろ発表されているものの、日本の医療業界に都合の悪いものはマスコミも記事にしませんから、最新データは不詳ですが、ほとんど変化はないと思われます。)
 3つ目が無駄な延命治療です。日本のマスコミでは、欧米のどこそこで植物人間の人工呼吸器を外す外さないで大問題になっている、外すのは安楽死であり、命の重さを考えるに、ここは慎重に議論すべきだ、といった風潮の記事が新聞であれば大きな紙面を割き、テレビであれば特集として、度々取り上げています。これは、延命装置の助けによって健康が回復する見込みがあるとして、若い人に施された措置のその後の問題です。
 これらを目にすると、日本における延命治療全般と同様なことが欧米でも当然にして取られているものと錯覚してしまいます。
 そうしたことから、年寄りが自立生活できなくなり、食が細くなって入院するとなると、病院では酸素吸入をし、栄養点滴をし、これが出来なくなると胃ろうまで行い、とことん延命措置を取る、これは先進諸国どこも共通であろうと、日本人は思ってしまっています。
 しかし、あにはからんや。こうした場合、欧米では酸素吸入も点滴もしない。ましてや胃ろうをしようものなら老人虐待であると言われるほどです。欧米の病院では、食事は自分で食べられる量しか与えませんし、水も飲める量しか与えません。そして、もう食べられない、もう飲めないとなったら、一切の医療措置は止めてしまい、自然死を待つというのが、欧米の病院でごく普通に行われています。よって、日本では寝たきり老人で病院は満杯なのですが、欧米ではそうした老人は全然いないのです。
 こうしたことも、マスコミで報道されたためしがありません。
 病院が“寝たきり老人飼育場”と化している日本、余りに異様な姿となっています。
 これに類するものとして、著書「心の病に薬はいらない!」で内海聡氏(内科医)は、精神医療分野で痛烈に現行医療を批判しておられるのですが、
その中で “えっ、あの方までが!”というのが目にとまりましたので、まず、それをかいつまんで紹介しましょう。(以下、その部分の要約)
 そもそも精神医療とは何だというと、長年、日本医師会長を務められた武見太郎氏がおっしゃった「精神医療は牧畜業だ!」に尽きます。というのは、ヒトを正常な人間と家畜(精神病患者)に区別し、患者を精神病院という畜舎に押し込め、向精神薬という餌を与え、最後は薬害でもってする「業」であるからです。医者の銭儲けのために政治を動かした武見太郎氏でさえ、このような発言をされているのですから、精神医療関係者たち(厚労省・医者・製薬会社)は詐欺師の最たるものです。(要約ここまで)

 いかがでしょう。さらに、内海氏は精神医療関係者にとどまらず、「身体医学であっても大同小異のことをやっており、皆さんが病気に関して詐欺に引っかからないコツは、どこの医療機関にもかからないことです。」とまでおっしゃっておられます。
 このように、日本の医療というものは実におどろおどしい状況を呈しています。

 随分と前置きが長くなりましたが、がん治療分野においても、日本は、こうした面では世界の“最先端”を行っています。
 “早期発見・早期治療”を合言葉に、やたらとがん検診をすすめ、がんでないもの(いわるゆ“がんもどき”)までをもがんにしてしまいます。そして、検査で発見されたときには、本当はもはや早期ではないのですが、がんの塊が小さなものであれば、それでもって早期発見とみなしてしまうという乱暴な診断を下します。
 さらに、がんは大きくならないうちに、切り取ってしまえ、抗がん剤で小さくしろ、放射線で焼き殺せ、という3大療法でもって、がん退治をしようとします。
 この療法は世界共通のようなのですが、しかし欧米諸国では、がんと診断されても様子見したり、代替療法で体にダメージを与えない方法も採られるなど、日本のような「がん即3大療法」ではなさそうです。加えて、3大療法でもってしても治癒の見込みがないと判断されると、いたずらに抗がん剤を打ち続けるなどといった悪足掻きはせず、患者の体がボロボロになる前に医療放棄し、ホスピスで余生を過ごさせるなど、自由にさせるようです。こうしたことから、欧米では寝たきりのがん患者というものも存在しないことになるのです。

 やっと、ここで本題に入ります。
 「楽に死ぬには、がんに限る。がんは放っておけばいい!」と表題にしましたが、大半の医師も「がんは痛みが激しく、死の瞬間まで苦痛を味わい続けねばならない恐ろしい病気だ」と思っておられるようですから、世間一般もそう信じるしかないのですが、実際には真逆なのが実情です。
 このことについては、何人かの医師が本を出して、そのようにおっしゃっておられるのですが、がんの自然死で最も多くの臨床例をお持ちと思われるのが中村仁一氏で、その著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな」から、まず、痛みについて、その要旨を紹介することにしましょう。

 私は老人ホームに(医師として)移った当時は、がんの末期は猛烈に痛むものという、医療界の“常識”に毒されていました。がんで痛みが出るのは、放射線を浴びせたり、“猛毒”の抗がん剤で中途半端にがんを痛めつけるのではないか。がんを完全に根絶やしにできるのならともかく、がんの残党が存在する以上、身内を殺された恨みで、がんが復讐に出てもあたりまえと思っていました。だから、猛烈な痛みが生ずる。
 ですから、がん末期の患者が来たら、痛みにどう対処しようかと、正直ビビりました。
 しかし、年寄りの手遅れのがんに5例、10例とかかわっていくうちに、発見時に痛みはなく、その後、何の手出しもしなければ痛むことはないとわかったのです。
 たしかに、“痛み”があるなら、もっと早い時期にがんは見つかっていておかしくありません。それが、病院に行くきっかけが、痛みではなく、血を吐いたり、お尻から血を流したり、痰に血が混じったり、レンガ色の小便が出たり、身体が真っ黄色になったり、食が細ってやせてきたり、少し動いただけで息切れがするなどだったのです。
 私がこれまで、老人ホームで見てきたがん末期の年寄りは、60~70名にのぼります。
麻薬を使うほど痛んだケースは1例もありません。
 老人ホーム入所者で、最期を病院で迎えた人たちも、痛んだから入院したのではありません。胃や腸から大量の出血をしたり、肺炎になったり、黄疸が出たり、最期ぐらいは病院でという家族の強い希望があったり、というケースです。
 こうした例に数多く接し、「がんは完全に放置すれば痛まない」「死ぬのは“完全放置”のがんに限る」は、確信に変わりました。
 なお、いよいよお迎えが来たという状態になって、がん患者が通常何日であの世へ逝くかですが、点滴もせず、口から1滴の水も入らなくなった場合、一般の老衰死と同様に7日から10日程度です。その間、本人はスヤスヤ状態なので、何ら苦痛はありません。そして、末期がんの死に方にもうひとつ突然急変型ともいえるタイプがあり、亡くなる1時間前までニッコリ笑っていたケースさえあります。
 ところで、現実には、すべてのがんが強烈に痛むわけではありません。抗がん剤などでさんざんがんを痛めつけても、痛むのは7割程度といわれています。残り3割の人は、「不思議にも」「珍しいことに」「思いがけなく」「奇跡的に」などど形容されて、軽く片付けられてしまっています。

 いかがでしょうか。抗がん剤などでがんを叩けば痛みが伴うことが多いでしょうが、何も処置しなければ痛みで苦しむことは決してない、というのが、がんなのです。
 次に、「死ぬにはがんに限る」の2つ目の良い点について、中村氏は次のようにおっしゃっておられます。以下、引用・要約します。

 がんは比較的最後まで意識清明で意思表示が可能です。そして、この世に生れ出たからには全員が死刑囚である私たちに、末期がんであれば余命2か月、3か月、半年などと近未来の確実な執行日を約束してくれます。そのため、きちんと身辺整理ができ、お世話になった人たちにちゃんとお礼やお別れがいえる、得がたい死に方だと思います。
 「今や、がんは2人に1人がかかり、3人に1人はがんで死ぬ病気です」とよくいわれます。しかし、あの表現は正しいにしても、脅し文句です。がんは老化ですから、高齢化社会が進めば進むほど、がんで死ぬ人間が増えるのはあたりまえです。超高齢化社会では、全員ががんで死んでも、不思議ではありません。
 繁殖を終えたら死ぬというのが、自然界の掟です。生き物としての賞味期限の切れた年寄りのがんは、「もう役目はすんだから、帰ってきてもいいよ」という、あの世からのお迎えの使者と考えていいはずです。
 症状のないまま、ふつうの生活をしていたら食が細くなり、やせてきて顔色も悪いので、周囲が心配して無理に検査を受けさせたら、手遅れのがんだった。そんな話をよく耳にします。
 繰り返しになりますが、なぜ、そんなに進行するまで病院に行かないのでしょうか。痛まないからというのが、その答えとしかいいようがありません。
 一見、手遅れの発見は、不幸の極みのようにうつります。
 しかし、考えてみてください。それまで何の屈託もなく、自由に充実した毎日が送られていたわけです。痛みが出なければ、今後も体力が落ちて自由に働くのがむずかしくなるまで、ふつうの生活をすればいいのです。
 長生きも結構ですが、ただ長生きすればいいというものでもないでしょう。どういう状態で生きるかが重要だと思うのです。私自身は、ぼけたり、いつ死ねるのかわからないまま寝たきりや植物状態で生かされているのは、願い下げです。
 繁殖を終えるまで生かしてもらったのですから、もう充分ではないですか。人生の幕引きを思い通りにできるかもしれない「がん死」は最高だと思います。
 これを、「手遅れの幸せ」といいます。

 いかがでしたでしょうか。なお、中村氏は、「手遅れの幸せ」とセットで「早期発見の不幸」についても詳述しておられますが、これについては別の機会に紹介することとしましょう。
 小生思うに、なぜに日本人はがんを恐れ、がんは痛くて苦しいものとして考えてしまうか、これは、がんの摘出手術をされた上で抗がん剤が投与されたり放射線を浴びせられたりして、患者の体がボロボロにされてしまうという現状を幾たびも見ているからではないでしょうか。そして、そのような患者虐待を許してしまっているのが、日本人に特有の「死生観のなさ」でしょう。ずばり言えば「年寄りの悪足掻き」です。
 還暦を過ぎたら死を前提に毎日を生きる、これは「死に方」を考えるのではなく、死ぬまでの「生き方」を考えるということです。明日死んでも悔いはなかった人生であった、と思えるような日々の生活ができたらどれほど幸せか、小生はそう思っていますし、中村氏もほぼ同様に考えておみえです。
 小生も、死ぬなら余命〇月と宣告されて「がん死」したいと希望するのですが、しかし、がんになる主な原因はストレスですから、小生にはこれが無縁につき、残念ながら希望がかないそうにありません。

 中村仁一氏の著<大往生したけりゃ医療とかかわるな 副題:「自然死」のすすめ>を読んで、このブログで先に<自然死」のすすめ(中村仁一著)読後感想を記事にしましたが、本書をもう一度読み返してみて、今回の記事をアップしたところです。
 何かと脈が合う中村氏です。少なくとももう1テーマ取り上げたいと思っています。

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歳を食うと肉食になる?96歳のおふくろはそうだが…

2015年01月01日 | よもやま話

歳を食うと肉食になる?96歳のおふくろはそうだが…
(最新更新 2016.11.17)

 おふくろは93歳のときまで自宅から300mほどの所にある畑に毎日のように出かけていた。その頃は、肉を食いすぎると胃もたれするようで、消化薬の助けを借りていた。また、好物のケッタッキーフライドチキンを3個届けてやると、2日に分けて食べていた。
 そのおふくろが3年少々前に酷いめまいに悩まされて1か月ほど寝たり起きたりの生活になり、何とか回復したものの、それ以降、めっきり老け込んでしまい、耳も急激に遠くなった。そして、畑仕事は自宅前の小さな菜園で少々やるだけになり、それも年々減って、昨年は気が向いたときにほんの少しやるだけになり、ほとんどしなくなった。
 これじゃ、老い先短いのではと思われるのだが、あにはからんや、ここ1年、元気度がぐんぐんアップしてきた感がする。顔の色艶もいい。何よりも食欲旺盛なのにはビックリさせられる。もっとも、まだらボケが少々出るようになったのは気になるが。

 そのおふくろが、昨年から、とみに“肉が食いてぇ”とのたまうようになった。一人住まいのおふくろであり、女房が毎日おかずを届けるのだが、順次、肉の量を増やさざるを得なくなった。そして、月に1回は、小生・女房と一緒に焼肉パーティーを開かないことには、おふくろは満足しなくなった。肉を食べる量は、小生より少ないが女房より多い。それにもかかわらず、消化薬は必要としない。また、たまにケッタッキーフライドチキンを3個届けてやるのだが、1回で全部食べてしまう。小生は2個で十分であるのだが。
 オバケのような胃袋である。そして、老け込む前より胃が丈夫になったのは間違いないことだ。いや、胃だけではない。便秘薬も必要としなくなったから、腸も丈夫になったことだろう。そして、たまにはビールや酒を少々飲むから、肝臓も元気なままだ。
 
何とも不可解なおふくろの内臓だ。どうなってるんだろう?

 12月は焼肉パーティーをやっていなかったものですから、年末近くにすき焼きにしたのですが、そのときもおふくろの牛肉の食べっぷりは見事でした。
 そこで、なぜこのように内臓が丈夫になったのかを考えてみました。
 胃の強弱は、一般的に精神的ストレスに大きく影響されます。強いストレスがかかれば、胃もたれしやすい肉はあまり食べたくなく、あっさりしたものを少々食べるに止めます。96歳となった超高齢者のおふくろにも、これは言えることでしょう。
 おふくろは、すこぶる元気だった3年少々前と同様に、その後も“あれやらなあかん、これもやらなかん”と、けっこう緊張感をもって毎日を暮らしていました。
 ほど良い精神的ストレス(本人にとってはけっこうなストレスかもしれません)がかかり続けていたことでしょう。
 ところが、年々それを言わなくなり、気が向いたときに好きなことをちょっとだけやり、それに飽きたら、やりかけであっても放ってしまうという生活に順次変わってきました。
 つまり精神的緊張感がどんどんなくなり、ノン・ストレス状態になったことでしょう。
 短絡的すぎていけませんが、このノン・ストレスによって、胃が強くなったとも思われるのです。他に、これといった原因がないものですから、可能性としては大きいのではないでしょうか。

 ところで、小生の胃はどうかと申しますと、2、3年前までは、このブログでも2、3度書きましたが、還暦を過ぎたら肉があまり食べられなくなりました。
 食べ過ぎると胃にもたれ、消化薬の助けが必要でした。
 ところが、昨年、65歳・高齢者となり、そのとき、生涯現役を通して死ぬまで店頭に立とうと、意を新たにし、無理せずにマイペースで仕事に取り組むこととしました。
 すると、毎月の売上高の多い少ないが全く気にならなくなり、肩の荷が一気に下りた気分になりました。そして、精神的ストレスがガクンと少なくなった感がしました。
 それ以来、残りの人生、楽しく過ごそう!と、毎日この繰り返しで、約1年4か月経ちました。そして、1年前あたりから、“肉が食いてぇ”と、食事の嗜好が変わってきました。
 焼肉をもりもり食べて大満足!胃にもたれることなし!消化薬不要!
 小生の胃袋も随分と丈夫になった感がします。

 そこで、ふっと思ったのが、96歳のおふくろも“肉が食いてぇ”、66歳の小生も“肉が食いてぇ”と、ほぼ同じ頃に食事の嗜好が変わってきて、これいかに?
 何か共通点はないかと考えたら、2人ともノン・ストレスになった、だから、胃が丈夫になり、肉がいっぱい食えるようになったのだ、原因はこれしかない。

 たったの2例では、「ノン・ストレス=胃が丈夫に=肉食嗜好へ」と断定することはできませんが、おふくろも小生も毎日美味しいものを腹いっぱい食べられる幸せを満喫しているところです。
 でも、おふくろは1日1.5食、小生は1日1食生活ですから、決して過食にはならず、どちらかと言えば少食ですから、特に胃の健康には非常によい食生活と思っています。
 今年も、おふくろ・小生ともに月に1回ぐらいは肉を好きなだけ食べよう!で行こうと思っています。近々の予定としては、1月は18・19日に夫婦で奥飛騨に湯治に出かけ、帰りに高山で飛騨牛を買ってくることにしていますから、19日はおふくろと焼肉パーティーです。今からこれが楽しみ!

 年頭に当たり、何か明るい話題をブログ記事にしようと思い、くだらない内容ではありますが、以上のようにキーボードを叩いてしまいました。お許しください。
 読者の皆様方におかれましても、今年は楽しい1年になりますよう陰ながらお祈り致しております。そして、今年もこのブログのご愛読のほどよろしくお願い申し上げします。
                                            2015年元旦

(2016.11.17追記)
 歳を食うと肉食傾向になるのは、どうやら本当のことのようです。原因として、アミノ酸からのタンパク質合成が加齢により不十分となり、原料のアミノ酸をたっぷり体内に取り込む必要が生じて肉を食べたくなるのではなかろうか、そんな気がします。
 なお、「肉食って健康長寿 健康人は60歳から魚を、70歳から肉を少々、体が求めます」と題して当店新聞を発行しましたので、ご覧ください。

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